【過去の月記】(2004Nov.〜2004.Dec.)
12/29
疲れた...。→
12/26
人は、自己欺瞞によってマスクされている問題点や課題を明白に
指摘された時だけではなく、そのような自己欺瞞を連想させるような
類似点をたまたま他人の中に見いだした時にも憤慨することが出来る。
12/24
クリスマスイブがやってきた。
理由はよく分からないが、この日は飲んだり食ったり騒いだりするのが
この国の慣例となっているようだ。となると、飲んだり食ったり騒いだり
するのが標準的な日本国民のあり方、という事になるんだろう。
じゃあ、そうしない人は標準的でない日本国民、と言うことになるわけか。
まったく笑いたくなるような馬鹿げた話だ。
しかし、このような風習を笑えない状況があるという事を私は理解しているし、
体感すらしている。クリスマスを災厄だと言っている人を、私は嘲笑出来ない。
ともかく、今日をニコニコ迎える人にも、嫌々迎える人にも、幸いあれ。
12/21
なにかおかしいこと、なにかまずい事をページに書いたとする。
心ある大半の読者は、黙って去っていく。
そうでなくても黙って評価を切り下げる。
本当に親切な人と、好意を持ってくれる人と、ちょっと馬鹿なお節介さんと、
芯から馬鹿な人だけがまずい事について言及し、報せてくれる。
そして、本当に厄介な人は、こちらには報せてくれずに、黙ってヲチを
決め込むか、黙ってどこかでボコボコに批判する。
12/20
今日からグーグルの絵がシロクマになっている。
Happy Holidays from Googleだそうで。
全くどうでもいいことながら、シロクマの絵を見ると妙に反応してしまう。
このハンドルネームでスタートして既に7年半。
すっかり シロクマ=自分 と頭にインプットされているようだ。
12/16
私が調査の目的で潜入し、すっかり“ミイラとりがミイラ”になってしまった
ラグナロクオンラインの世界では、クリスマスイベントということで街の
雰囲気もアイテム等もすっかり様変わりしている。今度、ゲーム世界内の
友人達とクリスマスのプレゼント交換会をやることになっている。
年甲斐もなくこのプレゼント交換にわくわくし、何を自分は用意しようかと
考え続ける日々が続く。いったい何なんだ?この感覚は。
このゲームに対する批判記事や問題点は、そりゃあ沢山ある。
にも関わらず、こういう感覚を与えてくれるとはどういう事なんだろう?
そしてこんなに多くのユーザーが、これだけ叩かれているゲームに
今もしがみついているのはどういう事なんだろう?
12/14
昨日に追記。
だとしたらそのような“得る”と“失う”の関係、または無料のものは存在
しないということを自覚することに、どのような意味や得るものがあるの
だろうか?そしてそのような自覚は、いったい何を失わせるのだろうか?
考えるとぞっとする。
偉くて心の強い人に、ここから先は任せて自分で考えるのをやめれば
いいのだろうか?どこかの偉い本に、きっとこの事を考えた先人がいるに
違いない。それを読んで『代わりに考えてもらって安心』すればいいだろうか。
おっと、そうする事自体、何かを得て何かを失うことに直結するのか…。
12/13
無料ほど高いものは無い。しかし、本当に無料(対価の無いもの)のもの
なんて世の中に存在するのだろうか?
金銭や物品を消費する場合。
政治力や発言力を消費する場合。
人望や評判を消費する場合。
体力や精神力を消費する場合。
私達はこれらの全部または一部づつを消費しながら、引き替えに何かを
手に入れているのではないだろうか?学ぶことも、頂くことも、あげることも、
全ては何かを頂いて、何かを失うことのように思える。対価の効率は
場合や自覚によって様々だろうが、ともかくも、人は何かを得て何かを
失うような営みを繰り返している。ただ、どこまでそれを自覚できるのかは
人それぞれによってまちまちなだけではないのか?例えば私にも、何か
自覚できない“得る”と“失う”があることが推定される。推定はされるけれど、
確かに何かを得て何かを失っているんだとだけは、自覚しておきたい。
12/12
空に瞬く星を一生懸命みているうちに、地面に転がっている石に躓き、転ぶ。
過去どれだけの人が、こんな形で足下を掬われてきたのだろうか。
君は、こんな人達を嘲笑するだろうか?それとも憧れるだろうか?
君は、こんな人達と似ているだろうか?それとも違っているだろうか?
12/10
動物内に寄生する多くの微生物たちにとって、人間という名の巨大培地は
さぞかし魅力的な繁殖の場としてうつるに違いない。植物に寄生する種や
土中で他の微生物と共同作業に勤しむ種、プランクトン達はともかく、
猿やバッファローなどに寄生する種にとっては、「人間」という商標のついた
巨大な培地群や、「その人間が飼っている牛だの豚だのといった培地」は、
もしそこで繁殖が可能なら、数を増やすうえでこんなに都合のいい場所は無い
わけである。天然のバッファローやチンパンジーの中で細々と繁殖するのに
比較して、爆発的な繁栄を誇ることが出来るだろう。人類の10%に感染する
ことが出来たら、チンパンジー全部に感染するよりもずっと彼らは増えたことに
なる。
現在の進化生物学は、淘汰は種の存続のためでなく個体レベルの遺伝子
の生き残りが問われる営為の繰り返しによって起こるとみているようだ。
繁殖しすぎたら人間全部食い尽くすかも、なんて懸念を微生物達は持つこと
ができない。もし可能なら、人間全部を食い尽くすほどの繁殖や、ブロイラー
全部を食い尽くすほどの繁殖を試みることだろう。それが、(人間に関しては
一考の余地があるにせよ)ウイルスも含めた自己複製を続ける生物のサガ
なのだから。もちろん、人間の全部が滅ぶわけでなく、幸運にも免疫を持った
個体が生き残ると思われるので絶滅なんぞはしないだろうけれど。
人間側は近年、様々な技術と免疫で武装しているので、微生物たちが実際に
培地にありつくのは極めて困難だ。(隔離措置も含めた)公衆衛生・抗生物質を
はじめとする諸技術と、人間が元々持っている生体防御機構は、微生物達が
人間を培地として利用することをこれまでずっと退けてきた。明日も明後日も、
退け続けるに違いない。エボラ出血熱やエイズウイルス、鳥インフルエンザ
など、様々な“チャレンジャー”達が、この人間と人間隷下の生物達を培地に
せんと乗り込んできたが、現在のところ、微生物たちは限定的な戦果しか
あげることが出来ないでいる。これだけ増えた餌を前にして、攻めあぐねている。
きっと微生物たちは、これからも様々な種が人間という巨大ニッチへの
参入を試みようとするだろう。人間とその下僕達がこんなにはびこっている
以上、微生物達はこの巨大ニッチに侵入を試み続けることになる筈だ。
言うまでもなく、これは人間側から見れば終わり無き微生物たちとの戦いを
意味する。だが、私達がこんなにこの星にはびこっている以上、彼らの挑戦を
沢山引き受けてしまうのも仕方のない成り行きなのだろう。
12/07
師走の忙しさに、星を見上げたり雪化粧したりする山を眺めたりする
今がとても少なくなっているような気がする。本当はどうでもいいかも
しれない人と顔を合わせてばかりいて、肝心なものと向き合っていない
ような気がする。こんな時に、俺は自分が今やっていることや置かれている
状況がわからなくなる。わからなくたって、生きていけるしやるべき事が
なくなるわけでもないのだが。
忙しいことは決していけない事ではないと思う。
ただ、ずっと忙しかったり、忙しいだけで良しとする事は、俺個人は許容しない。
ビジネスライクな関係やデジタルな関係にある人達の間で摩耗していく事も
許容しない。もっと違ったことに意識と時間を傾けなければ、きっとひからびて
しまう。
12/04
【血液型性格判断を信仰する理系の人達】
Simpleさんところの「バカだから血液型性格判断を信じているわけではない」
を見て。
確かに、理系の人間でも血液型性格判断を信じている人はごまんといる。
ただし、理系の人間でも色々で、血液型性格判断をあそこまでクリアカット
に信じている人(いわゆる信者)から、幾らかの相関の存在までを憶測している
人まで様々である点には注意が必要だ。
例えば、血液型と性格との間に何らかの相関があるだろう、という憶測は
私も支持している。HLAの数多いサブタイプの一つに過ぎないABO式血液型
だが、人間の行動や知能、性格などのかなりの部分が多因子遺伝と関係が
ある以上、ごくごく僅かな遺伝上の特性も、脳の形成と機能に影響を与えて
いる可能性はあると思う。ただし、ABO式血液型に関連した遺伝要因が行動や
性格に与える影響はその他の沢山の遺伝子のなかに埋没してしまい、あまり
目立ったものは出てこないんだろうな、とも思う。まして、神経系に直接関与
したものでもないんだし。幾らかの相関があるかもしれない、とは思うけど、
テレビでやっているほどのクリアカットさはあり得ないとは思う。
多くの理系の人や医療関係者はこのように考えることも出来るが、ところが、
そうでない理系の人が存在している。理系の大学生の中には、「理系であること」
「統計があること」「グラフがあること」に弱い似非理系の人が沢山混じっている。
こういった似非理系の人の多くは、数字や根拠にとても弱く、エビデンスそのもの
の抽出方法やエビデンスと結論との関係について疑ってかかることを知らな
かったりするから、実際に論理的か否かを判断せず、論理的な体裁か否かで
判断してしまう。いや、これは恐ろしいことなのだが、実際こういう学生をわんさと
見かけるんだから仕方ない(東大の寮に遊びに行ったときは、流石にこういう理系
学生は見つからなかった)。こういう人達は、グラフや“データらしきもの”を
見せられると、そこで疑うことをやめてしまう。こういった、疑う姿勢を身につけて
いない理系学生とその卒業者は、当然血液型占いを頭から信じる可能性が
あるだろう。一定の支持をしつつも、全面的に採用するような愚を避ける人は
理系卒に多くいて欲しいとは思う。だけど、現実はまあ、その、そういう事らしい。
Yasさんの指摘は、確かにあたっている。科学的な態度と矛盾しないような
血液型性格診断の信じ方はいくらだってある。だけど一方で、理系学生や
理系卒にも関わらず、科学的手法や思考法にこそ問題があって妄信的な
態度でものを言っている人達がかなり混じっているような気がするのは、
私だけだろうか。
12/03
一枚1メガのjpegファイルを10枚しかとれないデジカメと、
一枚100kのjpegファイルを100枚とれるデジカメ。
どちらがデジカメとして優れているかを議論するのはあまり
お利口ではない。どちらも、それぞれに向いた用途には便利だろう。
そして合計10メガという用量の限定のなかで一番良いのは、その容量の
範囲内で任意のサイズの画像を撮像できる、というものだろう。
なぜこんなことを書くのかというと、これは人間が何かをみる時にも
言えることだと思うからだ。繊細な人は、1つのシーンからあまりに
多くの情報を感じ取って飽和状態になるし、鈍感な人はタフな代わりに
細かな点になかなか気づくことができない。困ったことに、人間は「容量の
範囲で任意のサイズで観察」なんて出来ないし、「ハードディスクやメモリ
の増設」「買い直し」が出来ない。それぞれの人が、それぞれの特徴を
背負いながら、出来る限りの適材適所と弱点カバーをするしかない。