【社会文化的影響を受け続けている適応競争のルール、その現状】
 2006.01/14

  人間同士の間における繁殖・反映の競争(適応競争)は有史以前から続くもの
 であり、自然淘汰&性淘汰を基本とするルールはあまり変化していない。
 生物学的規定の強い影響下にあるこのルール下では、例えば男性の場合、
 身体能力・政治力・勇気・経済力などを握った者がそうでない者よりも生存や
 繁殖において有利なポジションを占めやすい。女性には女性で「あれこれの
 強いカード」が存在する。この手の適応競争のルールは、現代社会においては
 様々な文化的修飾・環境的修飾を受けてはいるが、(資産の蓄積も含めた)
 自然淘汰・性淘汰に根ざした選択肢を誰もが選びやすいという傾向はあまり
 変わっていない。テクノロジーが進歩したとはいうものの、大半の人間はその
 テクノロジーを適応競争において優越する為のあくまで手段としてしか使って
 いない。農業技術然り、内燃機関然り、携帯電話然り…。

  とはいうものの、この手の適応競争が展開されるフィールドは狩猟採集社会
 と現代日本ではあまりにもかけ離れており、遺伝的にはほぼ同質ではあっても
 個々の人間が直面する適応競争の質と量は大幅に変化している。例えば狩猟
 採集社会では、適応競争で直接競合する“プレイヤー数”はそれほど多くは
 なかっただろうし、血縁関係による個々の結びつきが今よりも濃厚だったかも
 しれない。故に、個人としてのプレイヤーが目の前で競合すべき相手は現代
 より少なく、しかも一人ぼっちの戦いを強いられる可能性も低かったと推測する
 ことが出来る。一方、現在の都市部では、小学校ぐらいの年齢から沢山の同性
 (や異性)が「競争相手」として存在しているし、血縁関係による結びつきが個人
 の適応ゲームに与える影響も相対的に小さくなっている。小さい頃こそ両親の
 影響が強いものの、大学生ぐらいになると個人の適応に両親が与える影響は
 かなり限定されてくる。氏族社会では重要な親以外の血族も、今日日の個人の
 適応にそれほど大きな影響を与えなくなってきている。さらに血族を超えた
 “地域からのサポート”に至っては、都市部では壊滅してしまっている有様だ。

  加えて、現代人の活躍するフィールドは大人になるにつれて物理的・人間
 関係的にも広がってしまいやすい。狩猟採集社会で育つ子どもが比較的少数
 に限定された人間関係のなかで一生を過ごすのに対し、現在の子どもは
 小学校→中学校→高校→大学or就職と進むにつれて益々広い世界を経験
 させられる。ここにネットやメディアの普及が加わることで、(少なくとも視野は)
 途方も無い広がりをもってプレイヤーを圧倒するようになる。結果、物凄い人間
 によって形成された馬鹿広いフィールドのなかで、現代を生きる個人は終わり
 の無い孤独な戦いを強いられやすくなってしまった※1

  もちろん個々のプレイヤーは「仲間」とか「師」と呼ばれる協力者をつくることも
 できるが、「仲間」「師」とて個人の力で獲得していかなければならない資源でも
 ある※2。かつては親兄弟や氏族が斡旋してくれたであろうこうした有限の資源
 を、現代の個人は(大学生以降は)かなりのところまで自力で開拓していかなけ
 ればならないし、開拓の契機が訪れるたびに(自分の手持ち資源が成功確率に
 影響する)確率判定を余儀なくされてしまう。家族や血族は、もはや以前ほどの
 大きなプラス修正を確率判定に与えてはくれず、現在の自分の能力や既存の
 人間関係などで確率判定をしなければならない

  この、個人個人におけるフィールドの広がりと適応競争の個別化は、個々の
 プレイヤーにどういう影響を与えるだろうか?さらに情報社会の発展はこの
 状況をどう修飾するのか?それを想像したのが以下の箇条書きである。


 1.適応ゲームのグローバル化に伴う、競争の自由化と激化。もはや競合する
 プレイヤーは無限に存在する。考えようによっては手に届く資源(仲間も含む)
 無限に存在するともいえるが、おいしそうな資源に誰もが着目してしまいがち
 なので、優秀な資源や人物を巡る争いは、ビジネスでも恋愛でも友達探しでも
 総体としては先鋭化しそうである(し、資源価値が評価されにくい個人への注目
 は依然として集まらないまま)。 優秀な資源や特別な人物は引っ張りだことなり、
 ムラ社会では考えられなかったほどに人気・富を集めるかもしれない。

 2.フィールドの広がりによって、数年来に渡る付き合いよりも新しい出会いや
 短い付き合いが増加する分、分かりやすい資源や普遍性・汎用性の高い資源
 を保有したプレイヤーのほうが、その場その場の適応ゲームにおいて(特にその
 初期段階において)資源を集めやすくなる分だけ、より有利になりやすい。長く
 共同生活してなければ分かりにくいような資源を持っているプレイヤー(つまり
 狩猟採集社会や小さなコミュニティでは後になるほど評価されやすくなりそうな
 プレイヤー)は、相対的にだが苦戦を強いられやすくなる。長い共同生活に
 絞って生きていけるムラ社会っぽい状況では彼らも十分渡り合えるだろうが、
 都会では人の流れが早すぎる&人間関係が広範すぎる※3

 3.血縁による適応サポートが相対的に後退したため、思春期以後の資源獲得
 成功確率は自分の手持ち資源やスペックによって規定されやすい。つまり血縁
 や地縁よりも個人の適応スペックや手持ち資源によって各局面の成否が決定
 づけられやすくなる。その帰結として、適応に寄与する資源・スペックは、それが
 豊富な個人のもとに益々集まりやすくなる(特に血縁者の支援が少なくなる年頃
 になればなるほど)グローバル化と血縁サポート後退によって恩恵を受ける
 のは結局のところ強い個人だけであり、弱い個人、ことにポストモダン的状況
 によって狭い文化ニッチに閉じこめられた個人にはいいことは何もない。

 4.自己評価に対してメディアやグローバル化が与える影響。人々はメディアが
 喧伝する「とんでもなく見栄えのいい見本」との評価をついついやってしまい、
 それに伴って自己不満足と上昇への欲望をかき立てられる。上を見ればきり
 がないのに、誰もがてっぺんを見てしまう。かつての小さな世界の住人達に
 比べると、「自分よりイケている奴」への欲求(不満)は喚起されやすく、到底
 普通の人では達成できっこない「見栄えのいい見本」を教科書にしたゲーム
 の加速がどこの集団でも行われるようになる。具体的には“庄屋さんの娘を
 てっぺんにしたおめかし合戦は終わり、メディアが形成したスターをてっぺん
 にした廃レベルなおめかし合戦が展開されることになる” 。そのうえ活動範囲
 や交際範囲の広範化によって、極めて廃レベルな同性/異性を目撃する確率
 が発生するため、人々は敵う筈のないライバルや届くはずのない宝石に益々
 目を奪われ、妬んだり慾をかき立てられたりすることになる。 


  男性において経済力・政治力・身体能力・勇敢さが同性/異性からの評価に
 重要な影響を与えるといった、遺伝形質が関係した基本ラインは現代の日本と
 狩猟採集社会ではそんなに違っていないだろう。しかし、適応競争のフィールド
 が今日の形に変化したことにより、これまでに比べて“付き合ってすぐにわかる
 資源を持っている個人が、長く付き合ってはじめてわかる資源を持っている個人
 に比べて相対的に有利”とか“個人の資源・スペックが適応競争に与える影響
 がよりダイレクトになった”といった小変化はあるように思える。遺伝的な狭義
 のルールは変わっていなくても、(社会文化的要因が関与した)広義のルール
 には若干の修正が施されたとは言ってしまうことが出来る※4。もちろんこの
 ルール小変更は、個人個人の適応競争の帰趨に影響を与えるに違いない。
 そして現在のルールは(狩猟採集社会と比較した場合)1.〜4.のような特徴
 を有していると考える次第である。私の憶測がどこまで当たっているのかは
 現在の人間達の適応競争を実地で観察することによって(&各種書籍を復習
 することによって)十分吟味されなければならないが、さしあたりこう思っている。
 少なくとも、現在の適応シーンでみられる幾つかの現象――過剰ダイエットや
 過剰ファッションによる個人の破綻・少ない個人への人気の集中・狭義のコミュ
 ニケーションスキルへの異常なまでの注目――などは、1.〜4.に矛盾する
 ものではないと認識している。

  それにしても、「このルール小変更って実に資本主義的だなぁ」と感じずには
 いられない。手持ち資源の多い者はますます有利になりやすく、持たざる者は
 ますます不利になりやすいという事・わかりやすくて声の大きいプレイヤーが
 有利っぽい事・グローバル化と自由化と競争の激化が進行しているという事・
 血縁集団の影響の相対的低下etc…。ともあれ、この「適応資本主義的状況」
 は今後もまだ暫くは続きそうなので、現在の個人が適応競争でいい思いをする
 為の技術論は、こうした「資本主義的なルール」に出来るだけ上手く乗っかる
 方向に進まざるを得ないだろう。例えば脱オタ技術論なんかは、こうした適応
 資本主義的状況を考慮した内容が展開されそうだし、事実展開されがちかも
 しれない。良きにつけ悪しきにつけ、適応技術の開発は現行のルールの呪縛
 から逃れることが出来ない(私の個人的感傷とは関係なく)適応技術研究に
 おいては、「適応資本主義的な」現状を十分加味して考察が進められなければ
 ならないことを、新年早々肝に銘じておこうと思う。それと、人間の行動に関連
 した遺伝的傾向に背を向けるような愚を犯さないように今後も細心の注意を
 払っていきたいものである。

 『社会文化的影響を受け続けている適応競争のルール、その現状』――以上

 ★このルール下において発生する過剰適応の問題について、後続テキストで
 付け加える予定です。★
 ★このルール下で特に有用なスペックについても触れたいですね★


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 【※1強いられやすくなってしまった。】

  こう書くと血縁集団や狩猟採集社会は不遇の人々の理想郷に見えるかも
 しれないが、公正を期するためにもこうした原始氏族社会の陰の部分も紹介
 しておこう。原始氏族社会においては、間引きや子殺しや部族間抗争が
 激しく、殺人が男性主要な死因の一つになっている。また、レイプや略奪婚や
 リンチもかなり頻繁にみられることも忘れてはならない。(文化と理性を万能
 とする人々の論拠として挙げられがちな)マーガレット・ミード『サモアの楽園』は
 近年の研究によって完全に否定されており、楽園だと思われていたサモアも
 単なる原始娑婆世界でしかなかったことが確かめられている。

  原始氏族社会における適応競争は現代社会よりも激しく、淘汰に敗れた者
 の末路が現代社会以上に惨めで致命的であろうことは想像に難くない。血縁
 集団の団結が強いからといって、競争が激しくないと判断するのは適切では
 ないだろう。

  ちなみに原始社会の殺人に関してはマーティン・デイリー『人が人を殺すとき
 あたりが参考になるかもしれない。ただしこの本単独ではなんか変なことになり
 かねないので、進化生物学のその他の本もあわせてご検討くださいな。




 【※2獲得していかなければならない資源でもある】

  友人も師匠も、そして恋人も、それが魅力的でありがたい存在であればある
 ほど誰からも好かれやすい=誰からも求められやすい。このため、友人に
 しても師匠にしても、魅力的であればあるほど引っ張りだこになってしまう。
 一緒にいて気分のいい友人・献身的な仲間・様々なものを授けてくれる師匠・
 といった人達は、競争率が高い。なぜなら彼らの手持ちの時間・体力も有限で、
 彼らとて付き合う相手を限定しなければすり切れてしまう&彼ら自身の適応を
 向上させることができないのだから。




 【※3都会では人の流れが早すぎる&人間関係が広範すぎる】

  わざわざ『都会では』と付け加えたのは、田舎ではまだまだ大丈夫かもしれ
 ない、と思ってのことである。また、血縁集団や地域集団が今でもコミュニティ
 として機能している幾つかの例においても、まだまだ大丈夫かもしれない。
 もちろんそうした地域はだんだん少なくなっているとは思うけど。




 【※4若干の修正が施されたとは言ってしまうことが出来る。】

  そしてこの広義のルールは、社会や政治体制の変化によってこれからも
 どんどん修正されていくのだ。遺伝的なレベルのルール変更はゆっくりとした
 速度でしか改変されないが、社会や文化のレベルによる広義のルール変化
 はdecade単位よりも速く進んでいくに違いない。