☆撤退の技術と、恋愛をしないという選択の技術(2004 Nov.)(2005.Apr.小改造)
これは、恋愛にまつわる感情の抑制(1)(2)(3)とも関連がある項目だ。
恋愛や異性との交際から撤退する事や、対象となり得る異性が存在するのに敢えて
恋愛をしないという選択肢を選ぶ事は、執着や愛着、不安、その他様々の情緒的
反応に逆らわなければならないため、それらの処理に長けた人でなければなかなか
やりにくい。交際の場数や、恋愛に対する価値観(永遠への拘り、騎士道的精神、
貞操観念など)もまたこの選択が可能か否かに大きな影響を与えるだろう。
しかしどのような背景があるにせよ、恋愛から身をひく技術は実に多くの
男性と女性に求められる可能性がある。それも、一再ならず。
恋愛は必ずしなければならないものではないし、一度始めたら永久に続け
なければならない義務を負ったものでもない。もちろん、交際状況や目的等
によっては、関係を中断する際のコストが極めて高くつくためにやめられない
場合も多いだろうが、配偶関係すら離婚という形でしばしば中断される昨今、
恋愛と呼び得るような男女の交際は不安定な関係と考え、いつ中断されても
おかしくないと捉えたほうが現実的だろう。特に、交際状況や目的如何によって
は恋愛や交際を中断したほうが(以後の未だ見ぬ恋愛も含めて)多くの可能性を
生み出しそうな場合、その恋愛や交際から積極的に後退することは考慮されて
然るべきだろう。
具体的には、対象異性が我慢ならないならず者だったり、(金銭的・精神的・
性的な)搾取を目当てとした交際が続けられていると判明した場合、積極的に
その交際を放棄するほうが有利になる。短期的には、その対象異性からの迫害や
精神的に辛い思いをすることはあるだろうが、そのような関係は長期化すれば
するほど自らの選択肢を狭め、しかも(色んな意味の)収支は割に合わなくなって
いく。結局のところ、重荷とリスクばかりを押しつける相手と付き合い続けるのは
お人好しかもしれないが恋愛上手とか交際上手とは言えない。幾ら尽くしても
報われない恋愛は、やがて搾取される側の精神をも腐らせていく。そして犠牲者が
犠牲になったところで、そのろくでなしに福音がもたらされる事が少ないという
点であまりに絶望的である。ちなみに、この手の不幸なお人好しさんは意外と
世の中に存在しているらしく、一途に暴君に仕えているさまが散見される。
彼ら彼女らは自分達の暴君に対して溜息吐息だが、関係の解消という選択を
選べないがために、これからも二者関係の囚われ人であり続けるだろう。※1
また、対象異性がろくでなしの我利我利亡者でなくても、互いの相性の問題や、
恋愛以外のコミュニケーションの状況・恋愛以外のお互いの社会適応上の問題などを
考慮した結果、関係を終了したほうが総合的には自分が(そして相手が)幸福に
過ごせる場合にも、泣く泣く交際を中断したほうがいいことがあるかもしれない。
あるいは交際そのものは中止しないまでも、恋愛関係とは異なった関係に移行した
ほうが良いという事もあるかもしれない。特に恋愛は、(単なるセフレだの友人
づきあいだのに比べて)それ自身がコストを喰う二者関係であるため、どうにも
ならない場合や他の適応状況にダメージが大きすぎる場合、やたらとコストばかり
を喰ってしかもお互いに酷い思いをすることが多いため、本当は積極的に中断した
良いことが多い。いや、恋愛と言えてしまう関係だからこそ、そうでない男女関係
に比べて切ったりやめたりするのが精神的に辛いというのも分かるのだけれど。
このような状況で関係を整理出来る男女は、そうでない男女に比べて互いの
ダメージを最小限に抑える事が可能となる。望むならば、他の異性との新しい
関係づくりにも速やかに着手することが出来る(ただし、それを望む事が必ずしも
良い事とは限らない。私にはそれを煽るつもりはない)。
恋愛からの撤退や見切りの技術は、多くの片思いについても当てはまる。
振られた相手を思い続けても今後何も期待できない場合(勿論、振られた後の
片思いの殆ど全てがそうなのだが)、切り替えや立ち直りの早さはその人の恋愛に
関する以後の展開に大きな影響を与えるだろう。いつまでも思い出を大切に
するだけならともかく、いつまでも片思いに見切りをつけずに思い続けている
だけでは何も得られないし、次のステップへの移行もあり得ない。命脈を絶たれた
片思いを後生大事にしてしまう人は、次の関係構築に移れないし、具体的な
恋愛スキルを身につけるのも遅れてしまう。それが善か悪かという議論は無意味
なのでここでするつもりは無いが、その人が以後どのような恋愛スキルを構築
していくかに絞って話をするならば、片思いをなかなか見切れない人は、
そうでない人に比べて以後の恋愛がやりにくくなる。おそらく間違いない。
諦めるとかやめるという選択肢は、それ自体大きな痛みを伴っていて、これを
決定して実行するのは難しい。いい加減な関係であってさえ難しく、お互いが
恋愛をしている状態でこれをやるのは神懸かり的に難しい。場数、価値観、
合理的な判断力、前述の(1)(2)(3)などが影響すると思われる。今回単一の
恋愛技術としてこの要素を抽出したが、実のところ、これは他の様々な要素の
複合体として描写したほうが良いものだったのかもしれない。とはいえ、恋愛を
中止したり敢えて避けたりする事の重要性と、一部の人達の(意外なほどの)無関心
を考慮して、敢えて挙げることとした。なお、恋愛を諦めたりやめたりする事は、
上手である事は確かに望ましいかもしれないけれど、単にさっさと諦めてしまう
だけでは必ずしも望ましいとは言えない(=上手とも言えない)。単にさっさと
諦めたりやめたりしてしまうだけの場合、安定した関係を苦労を超えて構築して
いくことが困難になるという別のデメリットが発生してしまう。他の恋愛スキル
についてもそうだが、“過ぎたるは及ばざるが如し”は、この技術についても
おそらくあてはまる。適切な時にだけすぐ撤退出来る人はともかく、単に逃げ足が
早いだけの人がベストとは考えにくい。
【※1囚われ人であり続けるだろう】
精神医学には「共依存」なる言葉が存在し、暴君に仕えるタイプの人間の一部に
ついて興味深い考えを呈示している。
おおざっぱに要約すると、
「暴君に仕えたままの男女の一部は、幼少の頃から暴君的な振る舞いを親に
され続けてきた為に、暴君に対処する為の対応ばかりを多く身につけるように
育ってきた。だから暴君以外の人との関係を構築するような大人にはなりにくく、
知らず知らず自分が慣れ親しんだ暴君的な異性と関係を構築し、そこに留まって
しまう。」
というようなものである。
確かに、暴君的な配偶者に“仕える”男女の親について話を聞いてみると、
実際にかなりの数の男女が親兄弟から類似の暴君的対処をされてきていたことが
わかる。しかし、この「共依存」の概念が全ての「なかなか切れない人」を
カバーするものではない。両親が暴君でない事だって幾らでもある。
もちろん、交際が始まってから切れる切れないを論ずる際に「共依存」が
問題になることこそあれ、一方的な片思いを吹っ切って次の活動に移ること
が出来るか否かにはこの「共依存」という概念は何の影響も与えない。
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