【“愚民化するポストモダン”――メディアと対峙する際における、感情的態度の必然】2006.02/15


・昨今のテレビ報道の扇情的態度

 昨今のテレビ報道を視ていて、感情に訴えかける内容のものが増えたと感じている人も多いのではないだろうか。例えばこちらに書かれているテキストに指摘されているように、メディアは法律の適切な運営よりも感情論的に“いかにも正しくみえる”主旨の報道を行うことに余念が無い。子どもが犠牲になるような事件を報道するにあたっては、メディアは視聴者の感情的・情動的判断に一定以上の配慮を行っているようにみえるし、おそらくは視聴率獲得や番組の支持獲得という観点からみればそれは正しい選択なのだろう。悲壮感漂う音楽・コメンテーターの深刻な表情などと協同した一連のアンサンブルは、視聴者の情動的判断を揺さぶり、視聴者をテレビの前に惹きつけて離さない。こうした、メディアの“視聴者感情に配慮した(または媚びた)報道ストラテジー”は、子どもが犠牲になる事件をはじめ、視聴者の情動が揺さぶられそうなあらゆる報道に適用されているようにみえる。即ち、セックス・バイオレンス・生死に関連した報道においてである。

 のみならず、報道する内容の選定の面においても情動への配慮が為されているかもしれない。つまり、視聴者の情動に強く訴える番組編成が為されている可能性がある。国内のセックス・暴力・子育て・生死などに関連した問題に重きを置いて報道する傾向は、確かに視聴者の情動に訴えかけやすいかもしれないが、例えば2006年夏のイスラエル軍によるレバノン侵攻作戦のような、視聴者の情動には“遠い国の出来事”と映りがちだけれども実はハイリスクな問題についての報道がおざなりになってしまう可能性を孕んでいる(欧州に比べて2006年レバノン紛争の報道が圧倒的に少ないという指摘は、どこかのブログで拝見しましたが、どこのブログなのか思い出せません。誰か教えてください)。この傾向は、民放各社のワイドショー的ニュース番組だけでなく、NHKのニュースにすら見受けられるものであり、国内のメディア全体が視聴者の感情に訴えかけるプログラムを選択しているとしか思えてならない今日この頃である。

 しかし、このような報道の偏りをひとりメディアの責任に負わせるのはおそらく適切な分析ではないだろう。メディア側が視聴率やらスポンサーやらを気にせざるを得ない以上、メディア側が尻尾を振らなければならない視聴者の側の責についても検討すべきだろう。また、ニュースを視るにあたっての視聴者が、そこまで情動的に判断するに至った背景についても考えを巡らせるべきだろう。このテキストは、扇情的なメディアに食いつく視聴者が情動的判断に依らざるを得ない現状について、再度注意を喚起することを目的としている。



 【価値観やテクノロジーの細分化】
 
 結論から言うなら、視聴者が各種問題に対峙するにあたって情動を判断基準にせざるを得ない究極的理由は、結局のところ、価値観とテクノロジーの細分化に起因するものではないかと私は考えている。









 【※1表情の把握が下手くそな子ども】

 ここで注意して欲しいのは、男の子と女の子の性差である。統計レベルでは、相手の表情や感情を“共感し把握”する能力に長けているのはどちらかというと女の子である。論理的思考やオモチャいじり、動体視力を使うような事はどちらかというと男の子のほうが興味を持ちやすい&得意になりやすいのだが。よって、個々の事例はともかく全体的傾向としては“男の子のほうが表情の把握が相対的に上手くない可能性が高い”と想像され、

 女の子→把握上手いので戦略1(相手の表情や感情把握してそれに徹底的に適合)
 男の子→把握下手くそなので戦略2(他人に興味を持たず、それ以外のものに没入)

 になりやすいと想定される。繰り返すが、あくまで全体的傾向の話だが。

 この想定は、彼らの思春期以降の適応上の問題露出傾向とぴったり一致しているので、ビンゴの可能性が高いんじゃないか思う。即ち、思春期以降の女の子達が“相手の感情や表情に適合させまくるけれど自分をexpress出来ない過剰適応”に陥り、思春期以降の男の子達が“他人に対する能動性が乏しく、対人関係から様々の次元で退却する”というメンタルヘルス上の今日的傾向と、相性が良いのである。





 【※2何とか友達ぐらいはつくれるかもしれない】

 なお、オタク達のコミュニケーションというのは、アニメ、ゲーム、ミリタリー、などの彼らの興味の対象が一致するところのモノを媒介にして行われる傾向があることを断っておこう。オタク達が集まった時、彼らは自分達の興味の対象の話題に集中して話をするわけだが、逆にそれ以外の話題をすることはなかなか無いし、実際かなり困難である。この現象は、オタク達の交際の次元そのものがオタク文化ニッチに限られているという事にも勿論依っているとは思うが、いったん交際が始まってもオタク文化ニッチ以外の話題への拡散が非常にスローである点に着眼するにつけても、やはりオタク同士の会話の大きな特徴ではないかと疑うのだ。

 オタク達の統計的傾向として、ひょっとすると、「他人への興味や他人への働きかけ」を(完全にではないにせよ幾らかの割合で)制限されて育った男の子が多く混じっているかもしれない。が、オタク達の幼少期の生活史をきいてまわったことは流石にないので、ここらを断定するだけの材料が手元に無い。制限もへったくれもなく、端から他人に興味を持たずに一人遊びに没頭していた男の子も当然いたに違いないが、それに加えて両親からの「他人に迷惑をかけない圧力」に素直に応じてしまった子も多々いるのではないかと推定したくはなるのだが…。