平成19年12月17日のNHK『クローズアップ現代』は、子どもの運動能力の低下、特に運動能力の発育に極端なばらつきが発生している現象についての放送内容だった。身体機能の発育が不十分な故に受け身がとれず“危ない転び方で”大怪我をしてしまう子ども・まっすぐ走ることが出来ない子ども・集団で遊ぶ機会の減少に伴って社会性や協調性の発達にも影響が出る可能性etc…かなりショッキングな内容だったと思う。番組ではその一因として「子ども同士で外遊びする機会に激減したため、身体機能の発達が極端に偏っている子どもが増えた。それで子どもの体力格差が極端になりやすい」という風な分析をしていた。
 
 悲惨なことだとは思うが、しかしこういった子どもの能力的なスペックばらつき傾向は都市部を中心として殆ど不可避なのだろうな、とも思う。番組中でも触れられていたが、現代都市空間で育てられる子どもが、みんなで自発的に体を使って遊ぶ機会は極めて限られている。例えば幼稚園に通っている子は、管理された幼稚園の中の、そのなかでも限られた時間だけしか集団で遊ぶことが出来ない。自動車や通園バスを使っていてしかも自宅でも本やゲームばかり与えられているような子は、身体を動かす遊びを一体どれぐらい体験できるだろうか。もし、管理された空間のなかで限られた時間しか身体を動かさない・動かせない といった状況が続いている子どもが、それでもなお身体機能の発達(と身体を動かして遊ぶことへの好奇心と喜び)を獲得出来るとしたら、逆にそっちのほうが不思議だという事に、いい加減に気づかなければならないだろう。勉強やら塾通いやら情報メディア(インターネットやテレビゲームだけを目の敵にしてはいけない。本やらドリル帳やらに向き合う時間もまた、身体機能の発達に寄与しないことを十分意識しておくべきだろう)ばかりを与えられていれば、その方面の機能以外は発達しにくいというのは当たり前のことのように思えるが、世の中にはその事に気づかない大人も少なくないようにみえる。或いは、薄々は分かっていても「勉強をさせないと進学校に進めなくなってしまうから」「仕事が両親ともに忙しくて一緒に運動してやれないから」といった理由でどうすることも出来ない人も多いようにみえる。かと言って、かつての田舎のように近所の子ども達に自由に外遊びさせておけばいい、という気持ちになれる親御さんも少ないことだろう----「外で遊ばせると危険がいっぱい」「遊べる場所が外には無いから」----かつての田舎であれば、野山や路地裏に遊び場は幾らでも見つかったし、子ども達の創意工夫によって“遊び場を発明”することも出来たかもしれないが、滑らかに切り分けられ過ぎている現代都市空間にはそのような隙間はもともと少ない。だが単に路地裏や野山が無いという物理的環境の制約ばかりではなく、鬼ごっこに際して近所の家の庭を通り抜けたり、近所の広場で草野球をやったりすることが社会的にも許容されにくくなっている(昔はお互い様ということで寛容だったかもしれないが、今はそういうことを言いあえる地域の少ない時代になってきている)事や、沼や淵の類にはバリケードが設けられている事、などといった形で、決まり事や人為的制約によっても、子ども達は創意工夫を展開させる外遊びの場を奪われている----その代わり、セキュリティという名の護符が子ども達に与えられてはいるのだが----。
 
 勉学に関連した諸能力に限らず、子どもの身体機能にせよ、コミュニケーション能力にせよ、それらはトライアンドエラーなり学びの機会なりを経ずにして自然に身に付くものではない。先天的な欠陥が無い人であっても、学習の機会なくして諸機能を獲得することは出来ないし、とりわけ獲得の“旬”というべき時期にそれが為されなければ、後になって挽回しようと思っても容易に出来るものではない。運動能力が悲惨なことになっている子ども達の姿をみながら、ああいった子のなかには、かつての村社会のように皆で外遊びする(しかない)環境で育っていればもう少しマシな運動能力が確保できた子がいそだなと思わずにはいられなかった。


 【子どもが諸機能を身につける場としても、かつての村社会と、現代都市空間の比較】

 然るべき状況下で然るべき遊びを、つまりトライアンドエラーと学びの機会を獲得するという視点からみると、『となりのトトロ』に描写されているようなかつての地域社会は、子ども達が集団遊びを通して身体機能やコミュニケーション機能を培うのに随分と適した環境だったと回想することが出来る。子どもの数が十分に確保されている地域社会であれば、外遊びの場所が幾らでもあるだけでなく、遊び相手に事欠く事もない。世代的にも、小さな子から大きな子まで、ある程度年齢的に幅のある子ども達が群れ遊ぶなかで、身体機能やコミュニケーション能力、悪知恵の類まで、様々なトライアンドエラーを行うことが出来た(関連:)また、お互い古くから見知った顔で、しかも親同士も近所同士の関係ということもあって、ちょっと能力に恵まれない子がいても徹底的にいじめるというよりはその子の特徴を把握したうえで遊びのなかに組み込むことも出来たし、そうした難しい付き合いであっても沢山時間をかけながら模索することが可能だった。とりあえずのなかで生きていく為の最低限の知恵・身体機能・しきたりなども、学校で教師に教わったり親に直接習ったりするよりも、子どものコミュニティの内側で、子ども達同士の間で体験されることが多かったように私は記憶している。喧嘩に際しては「どこまでやったら怪我をするのか」、悪戯の類に関しては「どこまでやったら大人に怒られるのか」といった加減と常識を学ぶ場としても地域の子ども集団は有用で、低学年同士の喧嘩を高学年の子が仲裁するような場面も多々みられたと思う。こういった体験を、小学校低学年ぐらいまでには既にある程度積み重ねることが誰であっても約束されていた(村八分、という出来事があれば話は違ったかも知れないが)

 だが仮に村社会に戻れるとしても、戻ればそれで万事OKかというとそんなに単純な話でもない。第一に、村社会のコミュニティで学ぶことが出来る知識や経験や身体機能というのは、あくまで村社会で適応するのに適したものばかりで、身体機能の獲得には申し分無いにせよ、受験勉強の能力や専門分化した就労能力などといった、現代の要請されがちなスキルを与えてくれるわけではない※1。また、人的流動性の高い現代においては、いくら「故郷のしきたりや因習」に詳しくなってもメリットはさほど大きくないし、余所に引っ越した時にはそうした経験は役に立ちにくい。第二に、野山や路地裏で自由に遊ばせるからには、低確率とはいえ、子どもが事故や犯罪に巻き込まれる可能性を覚悟しなければならない※2。知らない街で一人で外遊びするのではなく、見知った町内で集団で外遊びすることでこうしたリスクは大幅に低減するにせよ、やはり暗がりで何かが起こってしまうある程度の確率は含んでいるし、何かあった時の責任を強く意識しなければならない現代の保護者にとって「子ども集団を自発性に任せて外で遊ばせる」のはあまり気分のよいものではないだろう。どのみち昔の村社会を懐古したところで時計の針は戻せないけれども、仮にそうしたとしても、受験勉強への対策やセキュリティの確保といった現代的要請に村社会は適していない。
 
 対して、現代都市空間においては、コストさえ支払えば子どもに何でも学ばせることも出来るし、セキュリティの確保もしたいだけ追求することが出来る(子どもの自由と秘密を全部取りあげてしまえば完璧なセキュリティすら実現出来るだろう!)。受験勉強への対策も講じることが出来るし、何か特定のスポーツを小さい頃から学ばせたいなら、ゴルフなりフィギュアスケートなり何なりと学ばせることも、“子どものパラメータをデザイン”することさえ可能だろう。しかし逆に言えば、コストを支払うなり一緒に遊んであげるなり親の側が意図的にあれやこれやのものを提供しない限り、子どもが学習を行う機会は極端に制限されやすく、偏りやすい。とりわけ、子どもが自力で行動できる移動半径の小さい小学校低学年ぐらいまでの年齢の間においては、これは顕著と思われる。身体機能やコミュニケーション能力もこの例外ではなく、沢山の子ども仲間に囲まれて外遊びをしていくなかでいつの間にか身についているという僥倖はあまり期待出来なくなってしまった。幼稚園や小学校といった管理空間において幾ばくかの経験と常識を与えられることはあるにせよ、それらの内側では自由時間や自由裁量はごく限られた範囲でしか子ども達に与えられることが無い。まして、セキュリティやらお受験やらを意識したカリキュラムの学校では尚更である。かと言って、幼稚園や小学校に自由時間や自由裁量を尊重するよう求めるのも無理な話で、そんなことをすれば、何かあった時に責任の所在を問うてくる保護者(と世論)に手ひどく叩かれるのは目に見えている。責任を追求する目線に曝されっぱなしの小学校や幼稚園は、セキュリティとカリキュラムの透明の檻で子ども達を幽閉せざるを得ない状況に置かれており、このような空間で多少喧嘩も出来るようなコミュニケーション能力やら、体を大きく動かして遊ぶ好奇心やらを獲得しろと子どもに期待しても昔よりも困難なのではないだろうか。少なくとも、子ども達が自発的な遊びを通して学び合う機会・喧嘩の仕方を身につけるだといった機会は、極限まで回避されざるを得ない。そして大抵の保護者も、それらの機会獲得をセキュリティやお受験よりも優先させたいとは思っていないようにみえる。
 
 よって、現代都市空間で育つ幼児〜低学年の子どもは、意図的に学習機会を与えられない限りにおいては、受験テクニックばかりでなく、運動機能も、社会経験も、コミュニケーション能力も、身につける機会に遭遇することが少ないまま育ってしまう可能性を持っており、思春期に到達する頃までには諸ジャンルの能力に極端な格差を呈してしまう可能性が高い。かつての村社会のように、勝手に外で遊ばせておくだけで(村で生きていくのに)必要な経験を最低限身につけてくるなどという事は殆ど期待出来ず、何から何まで、学習と経験の機会を与えられない限りは身につけるべきもの・伸ばすべきものを体験する機会に出会うことが出来ない。出来ないと言い切るのは極論としても、大幅な機会制限を被り得る、とまでは言ってしまって良いと私は考える。結果として、親の教育方針や提供される生育環境次第で、子どもの能力に極端な偏りの可能性が生まれかねない。例えばお受験以外の学習機会を奪われた子どもやネグレクトに曝された子どもは、運動機能もコミュニケーション能力も欠落したまま育っていく可能性が高くなり、後日、挽回の難しい問題となって本人に跳ね返ってくることだろう(そのような子どもは、いじめられるなり、クラスの隅っこでうずくまるなり、不登校になるなりの日々をなかなか避けられまい)。かつてであれば子ども集団のコミュニティのなかで勝手に子どもが体験し身につけることの出来た諸能力も、人為的に、意図的に与えられない限りは経験することが出来ないという制約。現代都市空間で育つ子どもは皆、こうした制約のもとに経験を重ねざるを得ないため、どのような学習機会を与えられたのか次第で、コミュニケーション能力や、身体機能も含めたあらゆる機能が制限される可能性を含んでいる。この考えからすれば、都市空間における子どもが身につけるスキルやパラメータは、農村で外遊びをしていた子ども達に比べれば益々ばらつきをみせるのは理の範疇というものだろう。

 【発達の過程でいろいろなスペックの格差が拡大しやすい社会】

 もともと、全ての人間は先天的素養のレベルにおいて様々な差異を含んではいる。けれども、農村の子(或いは狩猟採集社会の子)が年長の子から年少の子へと外遊びを継承していくなかで、コミュニケーション能力や運動能力が多少不得意な素養の子であっても最低限の能力を身につける環境を与えられていた(または環境に曝されていた、と言うべきだろうか)。しかし現代都市空間においては子ども達が集団で外遊びを自発的にやって学びあうなどということは期待し難く、「子どもの違いを大切にし」「親の教育方針や教育態度に左右される形で」「どんな機会を与えられるのかが子どもごとにまちまちになりやすい」、ため、後天的学習を通して能力のばらつきが平均化されるというよりはむしろ、極端な能力的ばらつき・個人差を示さざるを得ない。いや、現にその兆候は1970〜80年代の人間にさえ見え隠れしているように感じられる。体育の授業で個人差が出るぐらいならまだしも、怪我や病気に極端に弱い子に育ったり、コミュニケーションの実行機能の極端に欠落した子どもに育ったりすれば、その子の人生行路は大幅に制限されることになるだろう。逆に、ありとあらゆる学習機会に恵まれた子どもは何でも出来る子として君臨するかもしれない。現代都市空間に育つ子どもは、先天的な素養の差に加えて生育環境の如何によってスペックに極端な差が広がりやすい(少なくとも村社会よりは広がりやすい)と推定され、コミュニケーション能力であれ身体機能であれ受験能力であれ、出来る子はどこまでも出来るように、出来ない子はどこまでも出来ないようになりやすかろう。また、諸実行機能ばかりでなく、嗜好や好奇心の対象といったものも生育環境の如何によって大きく左右されやすくもなろう。

 ふと、このような視点で現代の子どもにみられがちな身体機能の発達の格差以外の諸現象を眺めやってみると、学級崩壊の問題や、いわゆる発達障害に関連した問題も、違った容貌にみえてくるのではないか、と思うことがあるので、以下に少し私見を書いてみようと思う。。

 共通の村社会で一緒に遊んで育ったわけではない子ども達が、生育環境の相違によって様々なスペックのばらつきを呈しつつ都会の公立学校に集まるとすれば、学級というものをこれまで通りにまとめあげるのは困難になってくると推定される。幾ら優秀な担任教師がついたとて、ありとあらゆるスペック(繰り返すが、このなかには心的傾向やパーソナリティの偏倚も含まれよう)にばらつきのある都市空間の子ども達を統率するのは大変なことだろう。少なくとも、ある種のコンセンサスなり共通の学習基盤なりを学校の外で共有していた・或いはコミュニケーション能力や身体機能に関しては放っておいても獲得してくれていた村社会の子ども達を統率するのに比べれば、ずっと難しい筈である(しかも、親達もバラバラの価値観とニーズを教師に期待しているときている!)。そのなかには我慢する機会をろくに与えられなかった子どもや、同年代の子と雑談をする機会をろくに与えられなかった子どもが混入していてもさほど不思議ではなく、そうなれば学級のコントロールは困難を極めることにもなろう。ある程度均質な生育環境なりスペックなりを子どもと親の両方に期待出来そうな進学校のたぐいはともかく、そういったものが一切期待できない現代都市空間の公立学校においては、子ども個々人(と保護者個々人)のばらつきはひどいものになりやすく、よって学級機能を維持することは今までより大幅に難しくなる筈だし、だからこそ現に学級崩壊という現象が近年になって浮上するようになったのではないか。単に教師の能力低下だの努力不足だけに学級崩壊の原因を求める人がいるようだが、以上のような背景を考える限り、あまり適切な原因探しではないように思えてならない。


 また、近年耳にすることの多い「発達障害」という語彙に関しても、現代都市空間における生育環境に由来したスペック格差社会という傾向を加味して考えたほうが良いのではないか、と個人的には思う。アスペルガー障害や広汎性発達障害は、DSM-IVICD-10といった国際診断基準に則って診断され、それらの疾患に由来する行動の異常は幼児期早期から幅広く観察されている。従って、これらの発達に関する疾患は、その要因をまず第一に生物学的・先天的要因を考慮すべきであり、その為にもまずはWAISWISCをはじめとする検査バッテリーを通して機能を評価する必要があるだろう。とはいえ、以下の諸要素が「発達障害」という語彙に関係してくる可能性について、ご専門の先生方に検討して頂きたいと私は思っている。


1.ここまで述べてきたような、生育環境によって極端に能力的格差が生まれやすく、地域の子ども達と外遊びする機会が無い現代都市空間においては、そうでない村社会に比べて、生来的ハンディキャップを後天的な学習によって埋め合わせる機会を獲得しづらくなっているのではないか。とりわけ、保護者がコミュニケーション能力に特段の注意を払うことなく、本とテレビの海に没入するばかりの環境を子どもに与えた場合などは、コミュニケーション能力の代償機能や行動や興味の広がりなりを手にすることなく育ってしまう可能性が高まるのではないか?現在事例化してしまっている発達障害のなかでも軽度の一群のなかには、外遊びを皆と経験出来ていれば精神機能や運動機能を代償しきれたかもしれない“都市空間で勉強とゲームしかしない生活でなかったら何とかなっていたかもしれない”子が含まれているのではないか?

 ポストモダン的細分化が都市空間化が進行して子どもの外遊びがみられなくなっている地域において、運動機能の分散が大きくなっているように、精神機能やコミュニケーション能力の分散が大きくなってくるとしても私は驚かない。都市空間の子ども達の知的機能や精神機能は、平均はあまり変わらないかもしれないにせよ、少なくとも分散は大きくなってくると推測したくなってくる。だとすれば、例えば右のようなスタディを通して是非を問うことが出来るかもしれない。→ポストモダン化の進行した都市部(ex.埼玉県大宮市あたり)とそうでない農村部(ex.高知県室戸市あたり)の10歳の子ども100人を対象として、WISCあたりで機能発達の分散値を比較検討する、というスタディ※3


2.生来的ハンディキャップを持たない子どもであっても、幼児期以来の生育環境が極端に偏っていたことによって(ちょうど『クローズアップ現代』で身体機能の未発達が紹介されていたように)精神機能、とりわけコミュニケーションに関連した機能に関して未発達なまま成長してしまった一群があるのではないか?生来的なハンディキャップは殆どゼロに近かったにも関わらず、現代都市空間のなかでコミュニケーションの機会や精神機能の発達の機会を殆ど与えられず(または嫌なことを自由に回避することを許容されて)育ったが故に、思春期になった頃に「軽度の発達障害」そっくりの機能を呈してしまっている一群が含まれているのではないか?

 尤も、障害が遺伝的・先天的なものであろうとも後天的なものであろうとも、実際にコミュニケーションに関連した障害を被る当人はどっちにしたって困るわけではある。小学校低学年ぐらいまでの学習・体験の偏りの結果として、その後の発達可能性全般に影響し続けるような能力的偏倚を招いた場合には、純先天的な問題ほどではないにせよ、当人が苦手な能力を再開発していくことは困難を極めるに違いない。先天性か後天性かというデリケートな議論はともかく、発達障害の人が代償機能を獲得しやすい空間/しにくい空間の検討や、後天的な環境で----例えば、管理された高層マンションに住み、勉強漬けにされ、友達とはアニメやゲームを通してしかコミュニケートしないような環境で----子どもがどれぐらいまで“いわゆる正常な”身体機能・精神機能をマスターし得るのかの検討、には深い関心を持たずにはいられない。現代都市空間のポストモダン的細分化・管理社会化と、集団的外遊びの減少が子どもの発達に何をもたらしやすくするのか?残念ながら私は発達障害の分野に疎いので、専門畑の人の見解を伺いたいところだ。



 【インストラクター任せで良いのか】
 
 ところで、『クローズアップ現代』の番組中、身体機能の発達格差を補うべく紹介されていたのは、専門の教師を派遣する、というものであった。確かに、専門のインストラクターがついた子どもは、(先天的ハンディが濃厚でない限り)身体機能の発達格差を埋めあわせることが出来るだろう。そしてミクロの個人の一スペックに関するソリューションとしてはまず間違いのない方法だと思う。しかし、以下の二点において、この方法にも問題が潜んでいる。
 
 第一に、ただでさえ教育現場の人材が疲弊しているのに、あらゆる個人のあらゆる機能の発達格差を埋めるべくインストラクターを派遣するのは不可能だという点だ。言い方を変えるなら、お金を積んであらゆるインストラクターを呼べる保護者・子どもの諸機能の発達を把握できる出来る保護者の子どもは問題が無いとしても、インストラクターを呼ぶ金のない保護者・子どもの発達の状況や生育環境の問題をモニター出来ない保護者の子どもは、どうすることも出来ない、と換言してしまっても良いかもしれない。インストラクターを雇えば大丈夫という考え方を突き詰めていくと、現代都市空間に生まれた子どもの諸スペック獲得は、結局は保護者の金銭的/非金銭的財産次第ということになる。よもや、現代都市空間でバラバラなスペックの偏りを持っている全ての子どもに専門インストラクターを無料でつけるわけにもいかない以上、勢い、「子どものスペックを金で買う」に近い様相を呈することになってこよう。近年都市部でみられる、特殊な幼稚園に父母が殺到する現象も、その先駆けとして捉えて良いのかもしれない。

 第二に、大人のインストラクターに主導される形で能力を獲得する体験と、子ども達の集団の内側で自主的に能力を獲得していく体験では、(体験する子どもの側からすれば)随分とニュアンスが異なるのではないか、という点も意識せずにはいられない。仮に、大人のインストラクターの接し方が遊びの形態をとっていたとしても、そんなのは大人の側が規定する種々の枠づけなりセキュリティ上の制約なりに縛られた、いわば檻の中の遊びであり、子ども達が路地裏で集まって遊ぶのとはニュアンスが違ってくるのではないか。自主的に遊びをみつける・自主的に好奇心の対象を見いだす、という観点からみれば、インストラクター主導の学習機会は、子どもだけの集団が自発的に遊んでいく学習機会と比べてあまりにも自主性を引き出すのが難しく、ともすれば、子どもの自主性をそっちのけにして能力獲得を強要する格好になってしまうリスクを伴っているのではないだろうか、と私は危惧せずにはいられないし、都会の子どもには最早必須行事ともいえる受験関連の塾通いの類なども、どこまで子どもの自主性や好奇心を汲んでいるのか強い疑問を感じている。
 
 幾ら受験勉強をインストールされていようと、幾らインストラクターに身体機能を教え込まれても、自発性や好奇心を枯らしてしまったパーソナリティに成り果ててしまうとすれば、その人は一体どんな大人になるだろうか?それでも受験戦争には勝てるかもしれない。しかし、自主性も好奇心も枯らしてしまった人というのは、唯一解の無い諸問題に取り組んだり(例えば男女関係の締結などは、その代表と言えるだろう)両親や先生の“指示”を貰えない状況に挑んだりすることはかなり困難になってしまうのではないだろうか。そして最終的には、社会適応にも大きな限界を呈してしまうのではないだろうか。何もかもが大人主導の形で諸機能を子どもに学ばせる(学ばせる!ああ、なんという陰惨な響きだろうか。この語感が既に陥穽の存在を暗示している)という手法は、自主性や好奇心に関連したパーソナリティの形成にも大きな影を落とすのではないかと私は危惧せずにはいられない。子どもという“一人の人間”は、オンラインゲームのキャラクターのような、単純なパラメータとスキルの組み合わせからなるような、親が自由にデザイン出来るような人形ではない。そこの所を忘れて“諸機能を子どもにインストールさえすれば良い”という発想に走れば、相応の歪みが子どものパーソナリティなり処世の形式なりに植え付けられることは想像に難くない。


 【大人の快適さにとってのポストモダンと、子どもの発達にとってのポストモダン】
 
 ポストモダン的な、何もかもが滑らかに切り分けられ過ぎている現代都市空間は、確かに、一定以上の年齢に達した人間にとっては居心地の良い空間として機能していると言えるかもしれない。あらゆるコミュニケーションを簡略化し、自分の好きな文化的セグメントに引きこもることを許容し、価値観の異なる他者と揉める機会を最小化することの出来る空間は、個人が自由に好きなことをやるにあたって好都合で、東浩紀先生の言葉を借りるなら「リアルなコミュニケーションを最小化してもそれなりに最低限快適な」暮らしにありつくことが保証されている。しかし、幼児〜小学校低学年ぐらいの子ども発達にとってのポストモダン的空間とは、子どもの目線からみたポストモダン的空間とは、一体どのようなものなのだろうか?私は、大人の生活に対するポストモダン的都市空間の功罪と、子どもの発達にとってのポストモダン的都市空間の功罪は相当に違っているように思えてならず、前者はともかくとして後者は、現代の子どもを巡る諸問題----学級崩壊、機能獲得の格差、少子化問題、子どものパーソナリティ形成----等々に大きな影を落としているのではないかと私は疑わずにはいられない。皆で外遊びを共有することによって身体機能やコミュニケーション能力を良くも悪くも平均化するかつての村社会・地域社会という環境から、能力的偏倚を促すことこそあれ平均化する機能を持ち得ず教育しない限り何も子どもに身に付かない現代都市空間という環境への変化…この変化に伴って未来を担う子ども達の発達や能力獲得の傾向にも大きな変化が起こるということは、とどのつまり、この国の未来の有様も変わってくるということでもある。この辺り、日本におけるポストモダンを研究する先生方や児童の発達について考える先生方は、ポストモダンな日本の将来像をどのように見通しているのか、是非教えていただきたいと思う。









 【※1現代の要請されがちなスキルを与えてくれるわけではない】

 しかし仮に現代において、地域社会のなかで地域の子ども達と外遊びばかりしている子どもがいたとしても、極めて能力的に高いポテンシャルと意欲を持った子どもであれば、地方の進学校を経由して何とかなってしまうととは言えるかもしれない。しかし、そんな子どもがの大半は、インフレーションを起こした受験勉強に備えての鍛錬なくしては、他の地域の子どもや都会の子どもに受験競争で敗退してしまう、というディスアドバンテージを避けることが出来ない。受験戦争に敗退する、ということが地域社会で生きるなかでどのような意味を持つのかはさておくとして。



【※2儀礼的無関心のうちに黙認はして貰える】

 尤も、地域社会の見守りの目が行き届き危ない場所に関する知識が共有されている町村と、カメラだらけではあって見知らぬ場所ばかりの現代都市空間のどちらが個人にとってセキュリティの高い環境なのかは、私には実際にはよく分からない。




【※3というスタディ】

 正直、出来ればこれは自分の手で確かめてみたいが、そういったスタディを実行に移すバックボーンを私も私のなかのひとも持ち合わせていない。ということで、こういうスタディをやるのに適したポジションにいらっしゃる先生、もしご興味が沸いたならどなたか是非やってみて下さい。この、ポストもダン的都市空間化と各種能力の分散に関する検討に関する限り、国民的統計の存在するデンマークやイギリスのデータにおんぶにだっこというわけにはいかないと思う。ポストモダン社会としての細分化と地域社会の消滅は、ヨーロッパよりはむしろ日本の埼玉県あたりのほうが遙かに先をいっているようにみえ、この場合、ヨーロッパのデータを引用することは難しいと考えてしまいます。アメリカは...どうなんでしょうね。