【汎用性の高さがコミュニケーションを制する時代――昨今注目の集まる“コミュニ
 ケーションスキル”と、ポストモダン的状況の関係についての一考察】2006.01/22


 【はじめに】

  現在の日本は、文化や価値観のニッチ(リンク先はWikipedia)が思いっきり細分化
 されているとしばしば言われている。少なくとも10代〜30代のライフスタイルをみる
 限り、こうしたニッチの細分化は十分当たっているようにみえ、映像・ファッション・
 音楽・価値観・世代などそれぞれの次元において、自分の所属しない文化ニッチの
 ことが簡単には把握できなくなっている。それぞれの次元のそれぞれのニッチの間
 には深くて暗い溝が横たわっており、積極的に知ろうという意志のない限り、(マス
 メディアなどの)分厚いフィルター越しにしか溝の向こうを覗くことが出来ない※6

  一方で、2004年頃から「コミュニケーション能力」に関する言説がネット・書店で急増
 していることを皆さんはご存知かもしれない。「コミュニケーション能力の高い人材が
 ビジネスで頭角をあらわす」「恋愛にはコミュニケーションスキルが必要だ」といった
 具合で、猫も杓子もコミュニケーションスキルである。2002年頃にはあまりみかけな
 かったこの単語、いつの間にか時代の寵児になっているようである。

  このテキストでは、「文化ニッチの細分化(ポストモダン的状況)」と「最近になって
 コミュニケーションスキルが脚光を浴びる」という二つの現象の関連性について私見
 を書いてみようと思う。またそれに関連して、現在期待されているところの「コミュニ
 ケーションスキル」とはどういう性質のものなのかを検討してみようと思う。


 【島宇宙化・蛸壺化する文化ニッチ。あなたはニッチ間を行き来出来ますか?】

  秋葉原を闊歩する「オタク」などが典型だが、現在の若年者は文化ニッチごとに
 細分化される傾向にある。狭い分野の同好者だけにコミュニケーションの対象が
 限定されやすく、そのうえ個々の文化ニッチはどこまでも細分化され、誰でも共通の
 文化的な共通基盤・共通理解を持つことが困難になっていると言えるだろう。例えば
 音楽分野においては同世代なら殆ど誰もが知っている大ヒットは影を潜め、方向性
 の違う幾つものアーティストがそこそこ売れるという状況を呈しており、狭いオタク
 ニッチの内部でさえ、さらに細分化されたニッチごとの佳作こそ生まれるものの、
 『新世紀エヴァンゲリオン』や『ドラゴンボール』のようなオタクニッチ全員を巻き込む
 ような作品が出てこない状況が続いている。ファッションや書籍などの世界において
 もニッチ細分化&それにあわせたマーケティングは進行しており、この手の細切れ
 化は文化・消費シーン全体にわたって進んでいると私は認識している※1

  都会化によるコミュニケーション半径の拡大・地域社会の希薄化・メディア普及や
 情報機器の発達は、物理的距離や地域のしがらみに閉じこめられていた若者達を
 解放し、自由に羽ばたけることを約束した…と思ったらどうもそうではなかったらしい。
 これまでの制約こそなくなったものの、私達は細分化した文化的ニッチに閉じこめ
 られてしまった。例えばクラスメートが近所に住んでいても、(鉄道オタクとギャル男
 のように)文化ニッチが異なる者同士はもはやコミュニケーションをとろうとしない。
 コミュニケーションしようと思ったところで話題も価値観も隔てられてしまった二人は、
 共通する興味や利害を探し出しては適宜“文化的翻訳”を行うというコストを支払わ
 なければならず、それぐらいなら携帯電話・インターネット・交通網などで距離を克服
 して、同じニッチの者とつるんだほうが趣味や気の合う仲間を得やすいし、お互いに
 気分もいい

  誰もが同じ大ヒット曲を聞き、誰もが大ヒットドラマ・アニメを見ていた時代には
 考えられなかったことだが、2006年現在の個々人が所有している文化・価値観・
 話題は、もはや自分と同じニッチに属する者でしか通用することがない。自分の
 所属する小さなニッチの外には、自分とは異なる文化・価値観・話題を持った「余所
 の人」と、彼らによって形成される沢山の「余所の小宇宙」が点在している。自分の
 所属ニッチ内部で流通する話題も興味もそこでは全く通用しないか、疎外や嘲笑の
 対象にさえなっている。2005年の“萌えブーム”などが典型だが、ある文化ニッチの
 話題が他の文化ニッチの成員によって本来あったままの形で流通することは少なく
 、他の文化圏の流儀に沿った解釈によって、本来の姿とは異なった形で流通・
 消費されやすい。音楽・グルメ・学問などの世界においてもこうした現象を頻繁に
 観測することが出来るあたり、これはオタク分野に限らない現象と推定される。

  こうした背景ゆえ、個人は特定の文化ニッチ複合体※2だけに集中した消費や
 人的交流を(以前に比べて)続けやすく、そのような個人にとって他の文化ニッチに
 飛び出して交流するのは簡単な事ではない。特にオタク達にみられるように、趣味に
 関する話題がコミュニケーションのなかでやたら多く、仲間内でしか流通しない記号
 や語彙がやたら多い“癖の強い文化ニッチの成員”は、それらが通じない世界に
 おけるコミュニケーションに随分苦労することになるだろう――自分が使い慣れた
 言葉や流儀、ウィットがろくに通じないことに戸惑うことは避けられない――。

  一方、文化ニッチの細分化の進展がどうであれ、ビジネスにおいては自分や相手
 の所属文化ニッチに関わらず円滑なコミュニケーションを行うことが要請される。
 サービス業で接客業務にあたる人は、顧客の文化・世代・価値観を問うことなく常に
 適切なコミュニケーションをしなければならない。また、文化ニッチ細分化の壁を乗り
 越えなければならないのは、接客サービス最前線の人達だけに留まらない。企業・
 組織活動には様々な業種・価値観の人間が関わっており、職場内部においてさえ
 様々な文化ニッチが錯綜しているため、社内の、それも仕事という次元においてさえ、
 自分の所属ニッチだけにしがみついているようでは限られた事しか出来ないし、
 ましてや人を動かしたり交渉するなんて論外だろう。むしろ接客業務は或る程度まで
 マニュアル化出来るぶん、偉い人との会議や社外の折衝よりも“ラク”かもしれない。
 会社・部署・プライベートなどなどの文化ニッチの違いを超えて良好な関係のもとに
 事を進める作業は、実は多分に名人芸的でストレスを要する作業なのではないか
 私は疑っている。

  また、現代の男女交際においてもニッチ細分化は大きな障壁となる。男女間で
 文化ニッチ(複合体)の合致率が高いことはあまりなく、お互いの共通理解や共通
 基盤が前もって用意される頻度&程度は小さくなっているのではないだろうか※4
 最早、男性側と女性側の最大公約数として常に役立ちそうな流行歌やテレビ番組は
 存在しない。とりあえず巨人の応援をすればいいとか、とりあえずドリフターズをつけて
 おけばいいという時代は終わり、たまたま男女双方が巨人ファンだったりドリフファン
 だったりしない限り、それらはコミュニケーションの材料とはなってくれないのだ(場合
 によっては、コミュニケーションを阻害すらしかねない)。もともとセクシャリティや
 ジェンダーという巨大な違いを持っている男女だけに、男女交際や恋愛などの“深い
 コミュニケーションを前提とした付き合い”は同性間に比べて色々大変だが、文化
 ニッチが合致しにくい分だけとっつきにくくなっていると考えられるのだ※5。もはや
 互いの文化ニッチの共通点を利用しておつきあいを開始出来る見込みは低くなって
 しまった。特にオタク趣味に重点を置きまくっているモノカルチャー特化型のオタク達
 (例:エロゲー、TRPG、鉄道、軍事など)や、学問分野(哲学、工学、理学、生物学など)
 だけに特化した若年者の場合には、女性と文化ニッチをすりあわせるのが不可能
 に近い。あふれんばかりに保有している自分の専門文化ニッチを開陳したところで、
 せいぜい引かれてしまうのがオチだろう。

  以上のように、地域や距離による断絶に代わるものとして、文化ニッチの相違が
 若年者の交流と相互文化乗り入れの大きな障壁となっているのが現代、特に現代
 都市空間における状況ではないかと考えるのだ。文化ニッチの壁で隔絶されている
 のはなにもオタクだけではなく、あらゆる文化ニッチに属する人に多かれ少なかれ
 言えることである。釣りマニア、大学体育会系、クラシックマニア、ストリートミュージ
 シャン、などは自分の所属するニッチあるいはそれに近いニッチとの交流は可能
 かもしれないが、自分に縁遠い文化ニッチの成員とは交流することが出来ない(し、
 交流しようという意欲をかき立てられる事すら少ない)。圧倒的なまでの文化ニッチ
 の広がりは全ニッチの把握を著しく困難にし、各ニッチの深まりは個々のニッチ
 への埋没や他ニッチへの無関心をも可能にした。さらに、ニッチの断絶という現象は
 趣味分野という一次元に留まるものではなく、世代、宗教、価値観、などにおいても
 進行しており、それぞれの次元において交流の困難さがついてまわっていると考え
 られる。

  しかし恋愛やビジネスを行いたい者の場合、自分の狭いニッチに固執しているわけ
 にはいかない。自分の属する文化ニッチだけを対象としていては、文化ニッチ細分化
 の影響をモロに受け、対象探しの範囲が著しく狭いものになってしまい、とても困った
 ことになりかねない(例えば鉄道オタクが自分の文化ニッチ内部で恋愛パートナーを
 探し出すのは不可能といった具合に)ニッチに閉じこもることによる狭窄は、ビジネス
 ・恋愛の適切パートナー探しという観点のみならず、自分自身の競争力向上や好奇心
 満足といった観点からみてもおそらく“不利”なものだろう。ポストモダン的なこの状況
 においては、自分の所属する文化ニッチだけに引きこもるようでは競争原理の働く
 あらゆる営みに大きなハンディを背負うことが予想されるし、実際、恋愛やビジネス
 などで融通をきかせやすい人は、自分の所属する文化ニッチだけに留まらない交流
 が可能なケースが多いと私も感じている。

  では、現代都市空間において他のニッチの住人達とも円滑にコミュニケーションや
 取引を行うにはどうすれば良いのだろうか?趣味も話題も価値観も異なる人達との
 会話は、共通理解や共通基盤を触媒として会話を進めていく事が難しく(少なくとも
 会って間もない頃は出来ない)、共通の目標を目指すビジネスの場面でも、職種や
 立場の違いがあれば見解がズレやすく、うかうかしているとコミュニケーションに
 障害をきたすリスクが潜んでいる。このような細切れの状況をとりもつ“基軸通貨”
 的なコミュニケーションの方法なり軸なりはないものだろうか。

  そこで私が注目したものが、昨今注目のコミュニケーションスキル/スペックなの
 である。コミュニケーションスキル/スペックが今まさに脚光を浴びているのは、
 異なるニッチを結ぶ“基軸通貨”として期待が集まっているのではないだろうか。
 そして、コミュニケーションスキル/スペックと呼称されるスキル/スペックには、
 コミュニケーションの基軸通貨としてみなされるような特徴が、実際に含まれている
 のではないだろうか。

 →つづき(2・スキル編)を読む


 →adjustment studyのページへもどる
 →汎用適応技術研究トップにもどる



【※1全体にわたって進んでいると私は認識している】

  時々だが、もしかしたらアカデミックなレベルの科学ですらそうなんじゃないか?
 と疑いたくなることがある。だが、統合しようと頑張っている人やニッチの垣根を乗り
 越えるために粉骨砕身している学者さんはまだまだいるので、そう決めつけるには
 至っていない。




【※2特定の幾つかの文化ニッチ複合体※2】

  わざわざ文化ニッチ複合体、などと表現したのは、音楽・ゲーム・書籍・ファッション
 ・食生活・世代などの各次元において、それぞれニッチ細分化が起こっているからで
 ある。個人は各次元において各ニッチを所有し、また同時に各ニッチに所属する。
 例えばオタクという枠組みに含まれる各人をとっても、以下のようにオタク達は様々
 な次元ごとに細分化を示しており、各次元において自分が所属するニッチとあまり
 に離れた話題を話題とすることが出来ない。具体的には、

 

オタ趣味音楽書籍ファッション
A氏美少女同人オタデジタルテクノ森博嗣など脱オタ中28
B氏押井守好きハウス系村上春樹など裏原系24
C氏美少女同人オタ電波ソング系ライトノベルのみアキバ系36
D氏やおい信者インディーズ森博嗣などMORE系27
E氏鉄道オタククラシックオタ村上春樹などアキバ系23


  この五人のように、それぞれがそれぞれの次元においてバラバラな文化ニッチを
 所有・所属しているのが現状なので、文化ニッチ複合体と表現したわけである。表の
 A氏とC氏はコミケでエロ同人誌を漁る同志かもしれないが、文化ニッチ的に合致
 しているのは美少女同人オタという次元だけであり、音楽の話題やファッションの
 話題を話し合うことはない(し出来ない)。一方、オフ会でたまたま合ったA氏とD氏は
 多くの文化ニッチで歯車が合わずにすれ違うかもしれないが、書籍の話題になった
 時に意気投合して、お近づきになれる可能性も…あるかもしれない。そしてA氏と
 E氏なんかは、絶望的なまでにニッチが合致しないので、話を合わせようと思うと
 相当苦労するだろうし、そもそも話を合わせなければならない状況に至るまい。
 現代都市空間においては、わざわざニッチの異なる相手に話を合わせるよりは、
 情報機器を用いて遠距離のニッチ合致者を探し出してお近づきになるほうが容易
 である。

  結局ここで何が言いたいのかというと、
 1.個々人は細かなそれぞれの次元において“まるでデータベースの如く”文化ニッチ
  を所有し所属しており、総体としては文化ニッチ複合体の呈をなしている
 2.文化ニッチ複合体としての個人は、それぞれの次元において合致する文化ニッチ
   を軸としてコミュニケーションを試行する。文化ニッチが合致しない次元においては
   コミュニケーションは行われにくいか、全く行われない。

 ということである。さらに発展させ、

 3.「二次元オタク」「クラシック好き」といった細かな各次元ごとの所属文化ニッチだけ
   をピックアップし、他次元を含めた包括的な文化ニッチステロタイプを描写しようと
   いう試みは、幾らかは成功するかもしれないが、十分に文化ニッチ細分化が
   進んだ今日においては、幾らか以上の成功はあり得ない(それでもマスメディアは
   ステロタイプしかお茶の間のテレビに届けないにせよ)
 という事も暗に了解して頂ければ最高だ。

  こんなところだろうか。これらの前提のもとに、今後のお話は展開していきます。




【※4頻度&程度は小さくなっているのではないだろうか。】

  念のため断っておくが、異性というのはそれ自体異なる文化ニッチに所属する。
 同じオタクでも性別が違うというのは物凄く大きいし、そこに着眼・配慮できない
 オタクは似たニッチの男女オタク同士の恋愛でもなかなか上手くいかない。

  後続テキストで述べたいと思っているが、女性はこのような文化ニッチの違いに
 対して(男性と比べて)柔軟に対処するorニッチにかかわらずやりとりをする術に
 長けているのではないかと私は疑っている。言い方を変えれば、男性のほうがこの
 文化ニッチ細切れ現象によるコミュニケーションの断絶化の影響を被りやすい?
 考えているわけである。そういえば、モノカルチャーで同好の士以外とのコミュニ
 ケーションが出来ないオタクやマニアが多いのも、引きこもりが多いのも男性でした
 っけ?偶然一致しただけでしょうかね?
 (一方女性は女性で、摂食障害などの過剰適応系のこじらせが多かったですね?)




【※5とっつきにくくなっていると考えられるのだ。】

  だが、恋愛と呼称されがちな婚前の男女交際がここまで一般的になり、若年者の
 間で“未経験の男は腑抜け野郎”とおおっぴらに侮蔑されるようになったのはごく
 最近のことである事は一応断っておく(陰口は叩かれていたかもしれない)。ちょっと
 昔までは、男女交際をしなければならないという圧迫感は現代の若年者にみられる
 ソレよりは軽かったかもしれない。また、婚前男女交際もここまで常識化してなかった
 かもしれない。男女交際がとっつきやすいとっつきにくい以前に、とっつく必要性が
 今ほど高くなかった可能性には留意して頂きたい。

  とはいえ当時も男女交際はそれなりにあったはあっただろうし、異性に好まれるか
 否かや異性と上手にコミュニケーションをとれるか否かは、個人の様々な適応シーン
 に影響を与えたであろうことは想像に難くない。





【※6分厚いフィルター越しにしか溝の向こうを覗くことが出来ない】

  例えばテレビ版『電車男』がマスメディアに紹介され“萌えブーム”が発生したという
 2005年の出来事をもって、オタク文化がそのまま他文化ニッチ成員達に伝達した
 とは考えることはできない。もちろんあのなかに登場する幾つかのシーンやギミックは
 オタク文化ニッチあるいは2ch文化ニッチに含まれるものだが、視聴者にとって都合の
 良いファクターや視聴者にとって心地よいファクターが選択され、視聴者が理解しにくい
 ファクターや視聴者が喜ばないファクターが濾過の課程で取り除かれていることは
 断っておきたい。服装整備の課程で問題になる劣等感や、女性への献身的態度が
 しばしばオタク自身の劣等コンプレックスに依るという傾向、純愛というよりは相手の
 空気を読まない一方的態度が“オタクの純愛”にありがちである事などはカットされて
 いる。

  また“萌えブーム”に関しても、その背景に横たわる暗い欲望と一方向的異性観
 が紹介されては商品にならないので、メイド喫茶やその他無難なところだけがピック
 アップされがちであった。結局、『電車男』にしても“萌えブーム”にしても、それらは
 マスメディアによって蒸留され尽くしたオタク文化を、他の文化ニッチのお作法に
 基づいて消費した現象に過ぎないのであり、オタクニッチ内のお作法に基づいた
 オタク文化消費でないところに注意を喚起したい。この、当事者間コミュニケーション
 をそっちのけにしたメディア経由の消費を、私は理解というよりも誤解と呼びたくなる。

  なお私はこの事を悪いことだとは思っていないし、娯楽としての『電車男』は良く
 出来た番組だったと思う。こういう消費形態がいけないとは思わないし、なくすべき
 だと主張するつもりもない。マスメディアはマスメディアで、そうした営みを通して重要
 な仕事はしていると思うし、トリビアのように“単なる情報娯楽と割り切って消費”する
 のも十分アリだろう (ぬるい消費は、それはそれで悪いことではない)。ただし、
 メディアを通して余所の文化ニッチをどこまで知ることができるのかは常に疑って
 おいたほうがいいだろう。実地の交流や実験を省いてメディアだけで“知った気”に
 なるのはかなりリスキーなことだと私は考える。