【地域社会ではなく、現代都市空間に生きる核家族が抱える課題を眺めてみた】2006.02/20


・はじめに

 今週末、某市にお住まいの若夫婦の住まいを訪ねる機会があった。東京都心から電車を乗り継いで約40分、比較的若い入居者とその子ども達によって構成されたそのマンションは、オートロック・二階建て駐車場・公園を備えた3LDKで、新築特有の匂いがまだ漂っていた。緑が多く、周囲の風景こそ田舎然としていたものの、そこに屹立する巨大な建物はやはり“現代都市空間”に違いなかった。かつて私が育った浜辺の街(1980年〜1990年ぐらい?)のソレとは色んな意味で違う、2006年の子育て空間を私は目撃したと思う。ここで子ども達は育っていき、大人達は子育てをしていくんだなーと感慨にひたりつつ、今ごちょごちょ考えている「都市化やポストモダン的都市空間がコミュニケーションに与える影響」に関連したメモを残すことにした。

 なお、このメモは、これまで考えてきた事と自分がかつて経験した事、一度の観察をふりかけただけのものなので、今後さらに色んなものを見たり自分自身が子育てをやらかしたりする事で幾らか変化する可能性が高い。願わくは、今回のメモが後日の体験を通して微修正されますように。

 

1.誰が近所にいるのか、やっぱり見えにくい&付き合いが不明

 マンションの同じ棟の人達との関係は、まだ殆ど無いようであった。「これから幼稚園や小学校に子どもが進学するにつれて、近所づきあいも出来てくるんじゃないか」と彼らは話していたし、確かにその通りだろうなぁと思う。出来て間もないマンションなんだからしようがない。しかし、彼らの言う通りに今後近所付き合いが拡大してくるにしても、親同士の交流が元からにあるような“ちびまる子ちゃん的”地域社会に比べると、近所の人とのコミュニケーションの機会・義務が(子どもだけでなく大人も)相対的に少なかろうとは予測される。特に、子どもの社会参加が拡大する小学校よりも前の段階においては、顕著に少なかろうと予測されるし、若い人の流動性が高い昨今では尚更だろう。「近所の大人達という他人」とコミュニケーションを行う機会は、皆無ではないにせよ昔のような質・量を確保しにくいに違いない。無論、こういう傾向はなにも二十一世紀に始まったことではないだろう。東京や大阪などの都市化の進行に伴って既に起こっていて、今も起こり続けている現象と考えるのが妥当である。
 
 新築マンションに観察されるような近所付き合いの相対的減少は、もはや陳腐で見慣れた現象かもしれない。が、子どもが(見ず知らずではなく)共通基盤や共通理解を持った対象とコミュニケーションを試行する機会を相対的に減少させる一要素として私は改めて注目するし、こうした現象が陳腐すぎて当たり前になっているという事にこそ注目する。どこにでもある景色で、たいていの子どもが多かれ少なかれ経験するものであろう、と。

 
2.「都市化」によって、やはり両親の子育てがキツくなっているのでは?

 現代都市空間においても、公園デビュー・PTA・お稽古ごとなどの母親コミュニティはあるにはあるが、それらは空間依存的というか文化ニッチ依存的というか、「公園での付き合い」「PTAでの付き合い」「趣味団体での付き合い」と各次元で縦割りになりやすく、地域社会の面倒だが多元的な付き合いに比べると(たとえ大人同士であっても)共通基盤や共通理解を膨らませにくそうにみえる。こうした共通基盤の少ない状況下で他の母親と感情を共有するという作業は、慰安よりもむしろストレスの源になりやすそうにすらみえる※1。また、前述のとおり近所の共通基盤も希薄で、価値観や文化ニッチが多様化している分だけ摺り合わせにくくなっているだろうから、「隣りの○○さんちのお父さんが面倒みてくれるから…」なんて事を期待するのは相対的にだが難しくなっていると推測される。もちろんその逆も然りで、親の側が近所の子を引き受けて、と我が子との関係をライブで経験・観察する機会も相対的に減少しそうに思える(何かアクシデントがあった時の訴訟を恐れなければならない時代でもあるし)。近所の人達のほうとしても、子どもの世話を頼みにくかろう。「他人に迷惑をかけてはいけない」から。
 
 そのうえ核家族化の進行によって、じいちゃんばあちゃんに子育てを分担してもらうことも困難になってきているっぽい。今回訪れた若夫婦は、奥さんの実家が近隣なので、かなり負担を分担して貰っているというが、それでも奥さん一人で子ども二人の相手をしなければならない状況は辛そうだった。彼女曰く、「私は小さい頃から親に叩かれた事もなかったし、私が子どもを叩くなんて夢にも思ってなかった。でも、ずっと子ども一緒にといて、自分が手をあげることがある事に自分自身が驚いた」。この若夫婦は、環境的にも、両親の諸スペック的にも、祖父母との距離的も恵まれているほうだと思うのだが、それでさえ母親一人が日々負担するものは相当のようである。もしも母方も父方も祖父母が遠方の場合、一人きりのお母さんは終わっていると思った。彼女の話と世情を重ねる限り、これじゃ虐待が増えないほうがむしろおかしいし、少子化が進行するのも無理はない。現代都市空間で母親一人で子どもと対峙し続けるなんて、(子どもの側だけでなく)母親が潰れてしまう※2。もし、これで愚痴を話す相手すらいないような母親の場合は…もう詰んでいると思った。



3.年寄りという「地域社会の麹」の不在

 そういえば、地域社会ってやつは、(それが良いことか悪いことかは別にして)若夫婦だけに運営されるものではなく、定年を過ぎた年寄りの積極的参加と、彼らが長年培ってきた共通基盤・共通理解を通して強化される事を思い出した。そもそも、共働きの多い若夫婦だけで地域社会を形成しようたって、出来る筈が無い。私の育った田舎では、働かなくなった年寄り達も秋祭りの運営や盆踊りの運営に積極的に参加していたし、地域独特の風習・方言にも詳しかった。孫である私は、それらをじいちゃんばあちゃんからよく習い覚えたもので、祖父母世代から学んだ知識や風習の多くは同地域の子ども達と共有する出来るものだった。また、当時の年寄りは(今でも十分田舎のほうではそうだけど)比較的子どもに寛容で、少々おいたをしても多めにみてくれる存在だった。親がいない時も彼らは常に地域に存在するので、子どもが街でコミュニケーションを試行する対象としてなかなか大切な存在だったと思う。一方、かみなりじじいの存在も重要だった――特定の他人が危険な存在であるという事を知り、そういう手合いとどうやって間合いをとっていくかを学ぶ材料になったし、かみなりじじいは常にそこにいるので、不器用な子でも学習出来るほどの練習機会を与えてくれたから。
 
 年寄りという「地域社会の麹」は、近所付き合いを強くする綱としての側面を持っていたと私は考えている。しかし現代都市空間ではそれが決定的に欠けている※3。年寄りは、若夫婦が仕事や子作りに忙しい時も常に地域にいてコミュニケーションを営んでいる。少なくともうちの田舎はそうだった。よって、うちの田舎などでは年寄り達には様々な出番があったし、だからこそ年寄り達は地域を駆動させる重要な「麹」として機能していたと思う(老害だなんてとんでもない!)しかし現代都市空間では、こうした年寄り達のコミュニケーションを見かけることがない。年寄り⇔年寄り間でも、年寄り⇔孫世代間でも、コミュニケーションの機会は相対的に少なくなっていると思う。いや、都会でも年寄りだけが居残った(千里ニュータウンとか?)では、年寄り⇔年寄りのコミュニケーションとコミュニティは保たれているだろうが、子育てや若夫婦が居住する新築マンションに影響を与えるかと言ったらやはりNoだろう。この状況下では、年寄りの側も年寄りの側で、地域の支え甲斐が無くなってしまうだろうし、孫や子どもから感謝される機会も相対的に少なくなりそうだ。


4.買い物シーンから、子どもがコミュニケーションを習得する機会
 
 買い物シーンにおいても、「ちびまる子ちゃん」的地域社会は一変していた。今回私は、若夫婦一家に同行して夕食の買い出しをみせてもらった。どこの地域にもありそうな巨大ショッピングセンターの風景をみていてまず感じたのは、「これらの買い物シーンにおいて、子ども達が“見知った店員”“見知った大人”に遭ったり挨拶する機会は殆ど無いだろう」というものだった。巨大ショッピングセンターにおいては、知っている大人に対して子どもの側から何らかの働きかけをしたり、トライアンドエラーを試みたりする機会がとても少なそうに感じられた。このショッピング空間においては、(原則として)子ども達は「一度きりの全き他人」としか遭遇しない。かつての田舎の商店街では、店員も、客も、地域社会で何度も遭遇する可能性のある人間が多く、覚えてもらうことも覚えることも、働きかけてもらうことも働きかけることも(相対的に)多かったことと思う。だが、都会の巨大ショッピングセンターや都心部のデパートにおいては、これらは期待できない。現代都市空間の買い物シーンにおいては、子どもはコミュニケーションを試行する機会、特に子どもの側から店員や他の客に何かを話しかけたり双方向的にやりとりを試行する機会を与えられにくくなっているとみた。一方で「他人に迷惑をかけるわけにはいかない」という要請は厳然として存在するので、子どもは買い物においては「いい子」でいる事は要請され続ける。これらの減少は「他者」と向き合う際のコーピングにも幾らかは影響を与えるに違いない。例えば、

1.ものわかりが良くて誰が相手でも相手の気持ちを即座に察知して顔色を合わせる子
2.とにかく黙って親のいう事をきいておとなしくしている子になる

 などのコーピングを身につけなければ、子ども達が現代的ショッピングに適合しつつも「他人に迷惑をかけない」のは難しそうである。少なくとも、昔の地域の商店街におけるソレよりは難しいのではないだろうか。

(関連:「他人に迷惑をかけない」という要請は、現代の子ども達の適応に何をもたらすのか)


 ・以上を踏まえた、今回のまとめ

 以上、若夫婦宅訪問を通してコミュニケーションと都市空間について再認識した事々を列挙してみた。核家族化・都市化という現象は、親の子育てにも子どもの成長(特にコミュニケーション関連の成長)にも大きな影響を与えていると私は推測する。もちろん、現代コミュニケーションシーンや社会病理のすべてが核家族化・都市化で説明しつくせるとは思ってはいないが、少なくともある程度の影響を与えてはいそうだとは改めて感じた次第である。多分だが、この状況は既に大分前から存在していて、今もなお進行真っ最中に違いない。

 最後に、今回の訪問を通して私が嗅ぎ取った、現代都市空間の現出に伴う母子を巡る変化をまとめて箇条書きにしてみる。

1.近所付き合いが質・量ともに少なくなって、子どもが地域の大人に遭う機会が減少する。

2.近所付き合いが質・量ともに少なくなって、自分の子と隣の子の関係を生で眺める機会も減少する。

3.もちろん子ども自身が(特に幼い頃に)地域社会からコミュニケーションを学ぶ機会も減少する。

4.文化ニッチ細分化による価値観多様化によって、近所付き合いや母親コミュニティは共通基盤・共通理解を形成しにくくなっている。それは安らぎを与えるだけでなく、たぶんに神経を使うものかもしれない。

5.保育園や幼稚園に預けるまでの間、母親が子どもを近所の人や祖父母を任せる機会が減少し、その分母親一人の負担が増加する。それじゃあ子育てなんてやってられないし作りたくなくなりそうだ。

6.年寄りによる地域社会の結びつけは、現代都市空間では期待できない。現代都市空間では年寄り達による「共通基盤・共通理解・共通文化」の醸成が促進されにくい。また、孫に対する「共通基盤・共通理解・共通文化」の継承は失われるので、子ども達はそれらをコミュニケーションに利用できない。

7.ついでながら、年寄り達の役割や生き甲斐もちょっと少なくなるだろうし、親世代や子世代が年寄り達をありがたいと思う契機も少なくなるっぽい。

8.買い物している時には、とにかく「他人に迷惑をかけない」事に一生懸命になるしか子どもには選択肢がなさげ。勝手知った駄菓子屋おばさんに口をきくような真似は、スーパーマーケットじゃ無理。

9.以上全ては、子どものコミュニケーション試行の機会を相対的に減少させやすく、母親(あるいは父親も)の子育ての負担を増加させやすく、年寄りの出番を少なくするように働くっぽい。少子化や母親による虐待、母親のメンタルヘルス上の問題などにもちょっとぐらい影響しているかもしれない。

 こんな感じになるだろうか。


 件の若夫婦は今後、これら『当時はあったけど失われたもの』を果敢に補っていくのだろうし、逆に現代都市空間のメリットを最大限に生かしていくのだろう。幸い、彼らは幾つか点で恵まれている――新居周辺は未だ自然が豊富で、同世代の子どもや親が多い分だけ共同体形成が期待でき、祖父母が近隣に住んでいて、子ども達の人見知りが少ない――ため、彼らとその子ども達なら上手くやっていけるような気がする。それでも、一人で考えて一人で対応しなければならないタスクが母親に重くのしかかっている傾向は否めないし、地域社会を失った現代都市空間においては(特に幼稚園に行くまでの間)それを補佐してくれる人はいないという困難さは常にある。また、子どもの側もコミュニケーションを試行する機会を(相対的にではあるが)質・量ともに持ちにくい状況下を生きている事にも着目したほうがいいと思う。件の若夫婦ように、比較的恵まれた状況にある者ならば何とかなりそうだとしても、彼らよりもうちょっと苦しい状況の核家族ではどうなのか?あるいは彼らより大幅に苦しい状況の核家族ではどうなのか?都市化・核家族化の問題は、致命的ではないにしても、広く浅い影響を現代都市空間の全核家族に与えるものだし、だからこそ社会病理の形成に影響を与えるものだと思う。そのような広く浅い影響は、余裕のある核家族を転覆させる事はないだろうけれど、余裕の少ない核家族には無視できないダメージを与えるのではないかと、私は懸念している。

 だからと言って、私は後戻りせよと言うつもりはないし、大体後戻りなんてできっこない。今は、現状で何が最善なのかをトライアンドエラーしていくしかないし、事実それが最も建設的な姿勢だと思う。もちろん例の若夫婦も、子どもの未来に悲観することなく、肩にのしかかる重荷につぶれるでもなく、前を向いてベストを尽くしている姿勢が強く感じ取れた。だから、きっと大丈夫だと信じたいし、信じている。








【※1慰安よりもむしろストレスの源になりやすそうにすらみえる】

 逆に、縦割りニッチ割りのお陰で、地域社会の泥臭さでドツボにはまった時の悲惨さは回避出来るという利点も忘れてはならないとは思う。地域社会が共通基盤・共通理解の根を張り巡らせている“地域”は、今回のテキストで述べるように親や子どもの負担軽減・コミュニケーション能力育成に一定の役割を果たすものと期待される一方、地域に住む者は地域から絶対に逃れられず、共通基盤・共通理解を強制されるという辛さ・不便さを兼ね備えている事には注目しておきたい。現代都市空間では、逆に自分の参加する文化ニッチや人付き合いをある程度まで選択・コントロール出来るし、取り替える事も出来る。それは快適で便利な事には違いない。

 …ただし、子どもは一定の年齢になるまでは、現代都市空間であれ地域社会であれ、どのみち選択の権利を与えられないし、参加する文化ニッチや人付き合いといったフィールドを(ある程度歳をとるまでは)自発的に選択することが出来ない。どうせフィールドを自発的に選択出来ないとしたら、どちらのほうが子ども達にとって“有利”なのかは…。





 【※2母親が潰れてしまう】

 もちろん潰れるやすいのは母親だけではないだろう。子どもも潰れやすくなるし、後述するように様々な価値観や他人を学習する機会が減少するだろう。



 
 【※3現代都市空間ではそれが決定的に欠けている】

 逆に、年寄り達が地域の保守的風土と排他性の源となりかねないというnegativeな面も忘れてはならない。