【自分が好き、という状態または技術によせて】

 1あなたは、あなた自身の事が好きですか?
 2あなたは、あなた自身の事を愛していますか?
 3あなたは、あなた自身の(他人に)褒められる部分だけでなく、
  あなた自身の(他人に)褒められない部分も好きになってますか?

  この問いに対しては、「勿論」と答える人と、「そんな事は無い」と
 答える人の大きく分けて二つに分類される事と推測するが、如何な
 ものだろうか。通常、この手の二択の場合、YesとNoの間には連続的
 に無数の段階があって、そこに多くの標本が集積するものだが、
 この『自分を愛しているかいないか』という問いに対しては比較的
 クリアカットにYesとNoの二つの意見に割れるような気がする。
 特に、3の『自分の褒められる所だけでなく褒められない所も含めて
 総体として好きだと言えるかどうか』に関しては、Yes.と言える人と
 言えない人がかなり極端に別れているように思えてならない。

  この、自分が好き、という状態はすごく大切な気の持ち方だと思う。
 いや、敢えてイヤらしい言い方をするなら、すごく有利な気の持ち方と思う。
 他人を愛する場合や、失敗するかもしれない場面に挑む場合などでは、
 自分の事が全人的に好きな人とそうでない人では、心理的状況は雲泥の
 差ではないか?少なくとも私はそうだった。そして恐ろしい事に、いったん
 自分自身を好きと言えるようになるまでこの相違点を十分認識出来なかった
 のである。※1
 自分が好きで無かった時の人間の愛し方・失敗確率へのトライと、自分が
 好きで仕方ない時の人間の愛し方・失敗確率へのトライは、全く違う。
 具体例を挙げるのは後回しにして、ここではこれ以上書かないが、とりあえず、
 住んでいる心理的世界に天と地ほどの差があると私は感じている。
 セルフコントロールのし易さが全然違う。ビクビクしないで生き易くもなる。
 そして、失敗するかもしれない挑戦を受け入れ易くなれば、成長機会も得やすい。
 なにせ、成功よりも失敗のほうが沢山の教訓を与えてくれるのだから。
 そして成長するからますます自分が好きになりやすくなり、更には人から
 好かれやすくなる(勿論、特定の人から嫌われやすくもなるが、自分が好きな
 人には、それは些末な問題でしかない、筈だ)。おまけに、人の顔色ばかり
 窺っている事もなくなるから、自信がつくし、少なくとも周囲にはそう見られる。※2


  「自分が好き」という気持ち。
 こうやって挙げてみると、「自分が好きでないよりはいい状態」のようだ。
 が、「技術」なのかといわれるとまだ分からない。
 ある種の哲学や心理学の理論実践といった形で、技術として成立する余地も
 あるのかもしれない(=それの理論を学び理解する事によって、実践が可能で
 ある、という意味の技術)が、今のところ、誰がやっても成功するほどに確立した
 技術というのは見つからない。
 もしかしたら、その業界の達人中の達人には可能かもしれない技術ならある
 かもしれない。が、誰でも簡単にホイホイ、というわけにはいかないだろう。


  さて、どうすれば自分が好きになれるのだろう?
 ニーチェの格言の中にはこんなのがある。

 「自己侮蔑という男子の病気には、賢い女に愛されるのがもっとも確実な療法である」

 なるほど、然り。確かにそうかもしれない。
 色んな事を考えたくなる素敵な格言であり、尤もだと感じる。
 とは言うものの、この『賢い女に愛される』というのが曲者だ。
 賢い女は、往々にしていい男を選択するチャンスを有している、否、作り出す
 事を知っている。だから、賢い女が自己侮蔑の男を愛するという状況は珍しい。
 ここの賢い、をwiseとしてもcleverとしてもである。
 十分に賢い女性は、自己侮蔑に至って当然という男をわざわざ選ぶ筈がない。
 自己侮蔑が無くなった時に光を放つような潜在性のある男、そういう男だけを
 彼女達は鋭く選択する可能性が高い。
 となると、「賢い女に愛されると自己侮蔑は確かに治る。しかし、そもそも賢い女は
 治りそうな自己侮蔑にしか手を差し伸べない」と推測される。よって、この方法も
 宛てにするのは確率論的には難しい(ゼロ、ではないだろうが)。
 そもそもが、自分自身を好きでない男を、なんで賢い女がわざわざ愛するのか?
 彼女達にも、選ぶ権利がある。
 そう思うと、ニーチェの格言にあるような方法は、少なくとも技術として普遍的な運用が
 出来るシロモノではない。


  では、どうやったら、この「自分が好き」という状態を作り出す事が出来るのか?
 誰か、上手いやり方を探してくれてないのか?人工的に作り出せないのか?
 勿論、精神科的には、関連した様々の事が言われている。
 アイデンティティと絡めて考えたり、コフートやカーンバーグ風味で考えても、自己愛
 関連で近い話はある。フランクルの考え方の中にも、イコールではないにせよ
 相通じる所があるような気がして‥‥いや、それ以外の様々な分野の様々な人が、
 これに類するところのものについて言及しているような気がしてならないのだが、
 そのものズバリの処方箋は見た事が無い。(精神科の本をひっくり返しまくれば、
 あるかもしれない。っていうか探します!)
 いい加減なhow to本や、このサイトのようないい加減なhtmlなら、見かけない事は
 ないのだけれども。

  しかし、「自分が好き」に転んだ人や自分自身の経験、関連領域の書物・知見などを
 観察する事によって、「自分が好き」になるプロセスに共通する項目を見いだす事は
 出来るかもしれない。 「自分が嫌い」→「自分が好き」になる為の必要条件を何か
 感じていらっしゃる方、是非シロクマまで教えてください。

 今、予感しているのは以下の通り。

・人(特に幼少期は両親、が大きいか)に褒められる事。欠点にも寛容であったり、時には
 受容的ですらあったりする経験を幾らか持つ事(愛される事、と要約されるのかな?)。
 これがゼロだと、長所だけ愛して短所を含めた全人的な愛し方なんて、どうやっても覚え
 られっこないと思うんだけど。幼少期にこれが欠乏していた人は、圧倒的に不利な状態
 からスタートって事になると思う。そんな人が、これから増えて来るのかなぁ‥‥。

・成功体験。頑張って成功するような経験が、全くゼロではいくらなんでも自分を好きには
 なれなさそう。何をもって、成功体験、と呼んでいいのかは、環境・個人・性別などに
 よって変わってくるとは思う。なんにせよ、その成功体験は、物質的報酬の有無はともかく、
 心理的報酬に富んだものでなければならない。

・ある程度の若さ。歳を取りすぎると、脳の可塑性は衰える一方。鉄はたぶん、熱いうちに
 打ったほうが加工しやすいんじゃなかろうか。

・人間関係の豊富さは、一見合ったほうがいいように思えるが、どうも必須ではないらしい。
 人間関係の中で人に褒められる事だけに夢中な人は、むしろ「自分の褒められる所だけ
 愛して、褒められない自分は嫌い」を先鋭化させる可能性すら高い。こうなると、全人的に
 自分が好き、という構造の代わりに※2のような構造に至る可能性もあるかもしれない。
 こと人間関係に関しては、おそらくは、量よりも質がこの問題に影響すると推測している。

・自分の事を全体から見る、という事。←言葉じゃ書けない!
 多面的多視的な主観的頑固、うわぁ、日本語じゃないよこれは。
 認知、精髄、価値‥‥駄目だ書けません。
 なんか、言葉で書ききれない大事なモノがあるんだけど、書けない!


 ★「今更遅ぇえよ!」と仰る方が出てきそうだけど、あたしゃ他には今は思いつかない。
  関連要素、募集中!
 ★或る仙人は仰った。「分からない人はずっと分からないよ、色んな角度から
  『等身大の自分を観る』事が出来ない人には、どうやっても無理だね」と。

  以上、相変わらず役に立たない箇条書きをやってしまった。
  今の所、これ以上のことは、愚かな私にはできっこない。
 さらにここから『構造』を精錬出来れば恩の字だろうが、今は無理だ。
 何せ、一番大事なピースが言葉に出来ていない気がする。
 ここでコフートやカーンバーグのような偉大な先人理論に逃げてもいいのかも
 しれないが、彼らとて「自分を好きになる方法」について研究しまくったわけでも
 ないし、彼らのやり方を真似したところで、どうせ訳本利用の粗悪なコピーが一つ
 できあがるのが関の山だ。それだったら成書を一冊紹介したほうが早い。
 それと、まだまだ私の勉強が足りない、という事もある。今は、ここまでしか書けない。

 たとい不完全でも、私は私なりにこのピースを追い続ける事にしようと思う。
 特に、言葉に出来ない部分!もっと、症例検討が必要である。また、せっかく
 精神科やってるんだから、関連する文献を調査する必要がある。


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【※1十分認識出来なかったのである。】

  周囲の「現在自分嫌い」を見ていると、この相違点に気づいてはいても、
 その利点について論理的に把握しようとしている人は稀のようである。
 いや、そもそもそんなの無理なのか?
 勿論、薄々これに感づいて「自分の事が好きだったらなぁ...」と考えている人は
 存外いるものだが。 しかし、後述するように、「自分が好き」という状態or技術を
 獲得するのは、どうも相当に大変な事らしい。

 少なくとも、私自身はこの状態or技術を欲するようになってから獲得までに、
 十年近くを費やしている。自分自身をwash upする為に死にものぐるいだった
 五年間を含めて。←勿論この現象は、私個人のアキレス腱を暗示している。



【※2そう見られる。】
  自己愛性人格障害或いはそれに近いような状態にある人間には、これは当てはまらない。
 そのタイプの人は、「嫌いな褒められない自分」「好きな褒められる自分」という分類分けが
 そもそも存在しない。彼らの意識の中には、好きな褒められる自分、しかいない
 或いは逆に、嫌いな褒められない自分、で心が一杯だったりもする。
 全人的に自分を受け止める、というよりも、どっちかのイメージだけを全人的な自分と見なす
 という傾向にある。←すっげぇ雑な説明です。
 ちなみに、このような心理構造が、世間様との軋轢によって圧迫されると‥。

  この他、境界性人格障害タイプの場合などは上記の「好き」「嫌い」の分裂がみられる等
 の風変わりな心理構造が見られるが、これについてはここでは略する。書きたい説明したい
 では、どれだけ書いてもきりがない。

  なお、コフート/カーンバーグ関連の本を読むと、理論はシンプルだが現実にはこんなに
 単純なモデリングでは説明しきれない面白い心理構造を学ぶ事が出来る。シロクマも現在
 お勉強中。