【ご挨拶】

 このテキスト群では、現代の20代〜30代男性の広範なカテゴリーに認められる心的特徴について紹介し、その心的傾向と(循環的)因果関係にある諸々の現象に関して議論してみる。今回フォーカスをあてる心的傾向とは、“望んでいる対象があるにも関わらず、その対象に対して能動的に対峙出来ない傾向”や、“ある価値体系のなかで自らを劣等に位置づけつつも、その劣等を面白く思っていない&価値体系から脱却するでもない傾向”であり、それでも何とか当人の心的適応を成り立たせる為に(心理学的に言う)防衛機制が営まれている傾向である。また、この心的傾向と(循環的)因果関係にある要素群として、「オタク趣味・オタク文化の在り様」や「コミュニケーションスキル/スペック問題」「そのような心的傾向を持つ者の適応形式」などの、今日的状況についても紹介できたらと思う。

 これらの紹介を通じて、「上記心的傾向は、2000年以降益々台頭してくる&着眼すべき一傾向ではないか」と指摘する事が、本テキスト群の最終的な狙いである。もし、議論がある程度的を射ているとすれば、“対人関係における能動性欠如”の社会病理は、今後の文化シーン・個人の適応・社会現象などを眺めるうえで一定の助けになるのではないかと私は期待しているし、本サイトで展開している脱オタ技術論(というよりコミュニケーションスキル・スペックの拡張に関する方法論、と言い換えるべきか)を進めるうえでも役立つと期待している。

 なお、ここで以下の事を予め断っておきたい。
私は、今回紹介する心的傾向とそれに関連する現象をもって、「全ての根源」や「あらゆる原因」と言いたいわけではないし、ましてや個人の性格傾向に全責任を突きつけ断罪しようと思っているわけでもない。一傾向として世の中じゅうに蔓延しているとは指摘するつもりだけれど、それで全個人の命運が決まってしまうとは思っていない(影響はされるだろうけれど)。微細〜多大な影響を、個人個人が幾らかづつ被る、といった程度の話である。(ミクロでみれば小さな影響でも、マクロな統計的傾向でみれば違うでしょうし、我ながら大それた事書いてます)

 同様に、能動過小の心的傾向が、個人の生来的スペック・家庭環境・社会的状況などと原因⇒結果や結果⇒原因のような一方向的・一元的な関係にあると説くつもりもありません。例えば、20代後半のオタクが侮蔑されていたり20代後半の非モテ男が女性と喋れなかったりする原因を、「先天的な外見のせい」あるいは「中学時代の体育成績」のいずれかに一元的に求めようとは思わないし、「能動性の欠如した先天的心的傾向」に一元的に求めようとも思っていない。先天的な外見が劣りまくっていても尊敬されるオタクはいるし、中学時代に体育が1でも女遊びに忙しい男性がいないわけでもない。能動性が欠如していてもモテやすい男性だって稀には存在するし。影響はあるかもしれないが、全責任がそこにあるとは思えない。

 今回の議論で示される一つの心的傾向&関連した現象群は、所詮はひとつの傾向にしか過ぎず、有象無象を一元的に説明出来るものではないと思う。このテキスト群は、現象群の連関の環のなかのごくごく一部の領域にスポットライトをあてるものであって、連関の環の全体を照らそうなんて最初から目論んではいない。だが、ごくごく一部の領域を摘み出して、「ここにこんなのがありますよー」と指摘し、それに未だ気付かない&着眼しない人に新たな一視点を提供出来たらいいなと私は思っている。そして読者の方が一元的・一方向的因果関係に囚われずに、循環的因果関係の環のなかに、本視点を僅かばかりでも組み込んでくれたら最高に嬉しい。

 PS:今回の“異性などの外部に対する能動性の欠如”という心的傾向を指摘することは、有無や可能不可能を議論するものであって、善悪や是非を議論するものではないことも念のため断っておく(いや大半の人はわかっていると思うけど)。確かにある価値観のなかでは、このような能動性の欠如は有無・可否だけではなく善悪・是非に直結するかもしれないが、別の価値観のなかでは必ずしもそうとは限らない。なかには能動性を忌避する価値観もあるやもしれない。現在のマジョリティの価値観のなかではor“利潤の追求”という価値観のなかでは、確かに能動性の欠如をもって悪と捉えるふしがあるかもしれないが、私自身は、そのような価値観またはイデオロギーに与するつもりはない。一方で、有無や可能不可能の議論を今回棚上げするつもりもない。有無・可否の指摘と善悪・是非の指摘を混同する危険は、議論を行う側が慎重に回避しなければならないものだが、回避可能な混同であると信じたい。