【はじめに】

 1995年に放送された新世紀エヴァンゲリオン。幅広い層を巻き込んで社会現象となったエヴァの特徴は色々あるが、「心を病んだ登場人物ばかり」というのも、しばしば挙げられる特徴ひとつである。碇ゲンドウにしても葛城ミサトにしても綾波レイにしても、いびつな心的傾向をもって描写されており、当時の社会病理と照らし合わせて考え込んだ人も多かったことだろう。もちろん、主要人物たる碇シンジと惣流アスカにおいてもこの傾向は顕著で、劇中、彼らの心象を巡る残酷物語がこれでもかと展開されている。

 今回、ある人から「シンジとアスカはどちらが境界性人格障害に似ているのか?」という質問を頂いたのをきっかけに、久しぶりにシンジとアスカについて真面目に考えてみた。果たしてシンジとアスカはメンヘルチックなのか?特に、現代社会病理の一析出傾向として語られがちな境界性人格障害に似通っているのはどちらなんだろうか?



 【境界性人格障害(borderline personality disorder)の診断基準】

 堅い話になって恐縮だが、まず、境界性人格障害(borderline personality disorder)の診断基準について紹介しておこう。ここではDSM-IV(アメリカ精神医学会)の診断基準を紹介しよう。境界性人格障害は、対人関係、自己像、感情の不安定および著しい衝動性の広汎な様式で、成人期早期に始まり、種々の状況で明らかになる。2chやネットの世界では、ボーダーとかボダと省略されることが多く、人間関係を適切にコントロール出来ないことにまつわる様々なトラブルが発生しがちである。境界性人格障害障害は、“関係性の障害”といわれ、安定した人間関係を構築する事が非常に困難なことを特徴としている。その心理的背景として、彼らは過敏なほどの“他者への見捨てられ不安”を抱えており、それにまつわる様々な行動・症状(自殺企図やリストカット、見捨てられ不安に起因する振り回し等)を呈することになる。アメリカ精神医学会は、以下の9項目のうち5つ以上を満たすことを診断の条件として提示している。


1.現実に、または想像の中で見捨てられることを避けようとする気違いじみた努力(注:基準5で取り上げられる自殺行為または自傷行為は含めないこと)

2.理想化とこき下ろしとの両極端を揺れ動くことによって特徴づけられる不安定で激しい対人関係

3.同一性障害:著明で持続的な、不安定な自己像または自己感。

4.自己を傷つける可能性のある衝動性で、少なくとも2つの領域にわたるもの(例:浪費、性行為、物質乱用、無謀な運転、無茶食いなど。注:基準5で取り上げられる自殺行為または自傷行為は含めないこと)

5.自殺の行動、そぶり、脅し、または自傷行為の繰り返し

6.顕著な気分反応性による感情不安定性(例:通常は2〜3時間持続し、2〜3日以上持続することはまれな、エピソード的に起こる強い不快気分、いらいら、または不安)。

7.慢性的な空虚感

8.不適切で激しい怒り、または怒りの制御の困難(例:しばしばかんしゃくを起こす、いつも怒っている、取っ組み合いの喧嘩を繰り返す)

9.一過性のストレス関連性の妄想様観念または重篤な解離症状

 ここまでの1〜9までを読んでいただければ、「なるほどこれは大変な状態だぞ」とご理解いただけるだろう。当人達も辛いだろうし、周りにいる人もどう付き合えばいいのか戸惑うに違いない。少なくとも、境界性人格障害の診断基準を満たす人は、そうでない人よりも楽しく生きていくのが大変そうだと想像出来るんじゃないだろうか。

 では、早速、これらひとつひとつの診断基準に、シンジとアスカをあてはめてみよう。




 【境界性人格障害診断基準にシンジ・アスカはどれぐらい当てはまるか】

1.現実に、または想像の中で見捨てられることを避けようとする気違いじみた努力

 1.については、本編全体を通してアスカのほうにより多く認められる。アスカの(特定の誰かというよりも他人全般に対する) 見捨てられ不安の強さは、19話以降の各処において残酷なまでに描写されている。「天才でなければ自分は用無しになる、エヴァに乗れるから私は私でいられる」、という思いを抱く彼女は、疑似天才たる為に気違いじみた努力(frantic efforts)をしており、ほぼ完璧な天才少女としての自分づくりに奔走している。アスカが境界性人格障害っぽいと感じることがあるポイントを指摘しろと言われたら、このfrantic effortsが認められる点を私は挙げる。臨床レベルの境界性人格障害においても、受験勉強・ダイエットやファッション・身体訓練などに極限まで打ち込む人をしばしばみかけるが、その無謀なまでの努力には本当に驚かされる事が多い。

 一方シンジのほうは、認められる為の積極的な努力はしていない。シンジも他者からの視線に敏感だが、彼の処世術は努力ではなく、流れ藻たる事に重きが置かれている。途中からエヴァに乗る事を通して認められる自分を意識し始めてはいるものの、アスカほどの拘りは認められない。認められる為に死にものぐるいになるのではなく、認められようとする自分を持たない・認めないスタイルこそが、「シンジらしい」スタイルではないだろうか。


 2.理想化とこき下ろしとの両極端を揺れ動くことによって特徴づけられる不安定で激しい対人関係
 
 二人ともあまり該当しない項目である。敢えて挙げれば、シンジの父親に対する気持ちの変化が当てはまるか?いや、あれぐらいではまだ不十分だろう。境界性人格障害においては、友人・親近者に対して「有益な援助をしてくれる人」と「残酷な罰を与える人」という見方が交互に出てくることが多い。同じ人間に対して極端な評価が入れ替わり立ち替わりするという現象は、作中の二人には殆どみかけない。


3.同一性障害:著明で持続的な、不安定な自己像または自己感。
 
 シンジもアスカも14歳とまだ若く、同一性障害と言ってみたところで、そもそも同一性が確立する時期にまだ達していないので評価が難しい。DSM-IVの境界性人格障害は18歳以上を念頭に置いているため、同一性にまつわる彼らの苦悶をどう評価するかは意見の分かれるところだろう。ただし、シンジもアスカも、「自分は要らない人間かもしれない」という思いを抱え続けているという点では共通している。エヴァンゲリオンパイロットという立場でもって同一性を強化する事に、彼らは最後まで成功しなかった。


4.自己を傷つける可能性のある衝動性で、少なくとも2つの領域にわたるもの(自傷ほか)
 
 この項目も、二人にはあまり認められない。境界性人格障害のなかには、無気力や寂しさを紛らわせるために飲酒・万引き・性的逸脱行為・過食などを呈するケースがしばしば認められるが、シンジもアスカもこのような行動はとっていない。

5.自殺の行動、そぶり、脅し、または自傷行為の繰り返し
 
 境界性人格障害においては自殺関連行動が多々認められ、このことが同疾患の治療を一層困難なものにしている。幸い、シンジもアスカも自傷癖&自殺企図はみられない。少なくとも、臨床で問題になるような行為は一切行っていない。エヴァンゲリオンに乗れなくなったアスカは死のうとはしたが、24話冒頭のシーンには、境界性人格障害にみられがちな「注意を惹くための自殺企図」や「自傷による慰安」という成分が含まれていなかったところに注目したい。映画版25話におけるシンジの「死にたい」も、誰かに助けを求めてというニュアンスが欠落しており、シンジもアスカもこの項目を当てはめにくいと思う。


6.顕著な気分反応性による感情不安定性
 
 境界性人格障害によくみられる感情不安定性は、対人関係の葛藤や要求水準とのギャップに際して特に観察される。作中の二人を見ていくと、些細な事で気分を害して暴れるのはアスカのほうであり、アスカが気分を害する時というのは「認められなければならない私が認められない時」と決まっている(シンジに衆目が集まった時・自分が結果を出せなかった時など)。一方、シンジが激昂する場面はとても少ない。自分が認められない場面でも、シンジはただ弱々しく笑うだけである。唯一、ゲンドウに寄せた淡い期待が踏み躙られた時にシンジは激昂している(18話〜19話)が、あくまで親友を殺す命令を出した事に対して怒っていた意味合いが強いようにみえる。


7.慢性的な空虚感
 
 エヴァンゲリオンの作中においては、「欠けたココロ※1」とか「慢性的な空虚感」が繰り返し描写されているが、こうした感覚は境界性人格障害の人においては著しく認められる。この特徴も、エヴァンゲリオンが時代の寵児となった理由のひとつなのだろう。慢性的な空虚感は、当然のようにシンジ・アスカ両人につきまとっており、彼らは空しさのなかで日々を送っている。物語の後半になって両人の病理性が顕わになるにつれて、彼らの空虚感が強く酷く描写されていた。


8.不適切で激しい怒り、または怒りの制御の困難

 怒りという感情の制御が困難なところも境界性人格障害の特徴だが、この傾向はシンジには全くみられない。テレビ放映の際にシンジが怒って暴れたシーン(18話〜19話)には、怒るに足りるだけの理由が存在しているし、24話の渚カヲルに対する怒りも、話し合いによっていったん収束に向かう性質のものであった(そしてシンジは最も冷静な判断に至るのである)。唯一、映画版26話においてシンジはアスカの首を絞めているが、この一回きりだし、少なくともこの時シンジにはアスカに怒りを表明する十分な理由があったように思える。

 一方アスカはというと、怒りっぽくて随分と色々な難癖をつけてまわっているが、流石に周囲の人間を怪我させるようなことはやっておらず、そこのところは意外と弁えているようにみえる。この項目も、シンジ・アスカともに該当しなさげである。


9.一過性のストレス関連性の妄想様観念または重篤な解離症状

 DSM-IVの説明によれば、「極端なストレスに晒されている時に、一過性に妄想様観念や解離性症状(例:離人症)が起こることがあるが、それらは一般的に、程度や持続時間で追加診断をするほどではない。これらのエピソードは、現実あるいは想像上の見捨てられることへの反応としてしばしば起こる」と書かれている。劇中、二人は様々な“見捨てられ不安”を表明するが、それに関連した妄想や解離はみられていない。


 ここまでをまとめると、
1.6.はややアスカのほうにみられやすく、3.7.はシンジもアスカも両方当てはまるという事になる。診断下位項目を満たす数は、シンジが2つ、アスカが4つとなり、アスカのほうが境界性人格障害に近いと言えそうである。ただし、アスカは18歳で、しかも診断基準を満たすにはあと一つ項目が足りないので、彼女を境界性人格障害と言い切ってしまうには無理があると言える。しかし、シンジに比べればまだしも境界性人格障害に近い。

 また、境界性人格障害のその他の臨床的特徴として、
・女性が75%を占めている。男性は比較的少ない
・家庭環境に問題のあるケースが多い。家庭の雰囲気に緊張が強い。
・自罰と他罰の両方が極端なケースや、ほぼ完全に他罰的なケースが多い。
・幼少期の被虐待経験や極端な外傷体験を持つ者が比較的多い。
・幼少期、極端に育てやすいよい子だったり反抗期がみられなかったりする事が多い

 などがあるが、ここでもシンジよりはアスカのほうが若干該当している。家庭環境はシンジのほうも散々だったが、アスカは女性で、しかも首吊った母親を目撃して固まってしまっている。




 【まとめ】

 よって、総合的にみるとアスカのほうが境界性人格障害に近いと言っていいように思える。少なくともシンジよりは遙かに近い。とはいえ、アスカも境界性人格障害に完全に該当するわけではない。アスカは自傷行為や自殺企図を繰り返さないし、ミサトやシンジを骨折させるわけでもない。見捨てられ不安の為なら、どれほど危険なミッションでも率先して努めるアスカ(10話)だが、能力に比して境界性人格障害としての病理性はそれほど深くはないし、だからこそあそこまで才能を開花させることが出来たのだろう

 では、シンジはどうなるのか。境界性人格障害には該当しないものの、彼もまた強い見捨てられ不安を抱えており、いつも人の顔色ばかり覗っている(そういうところはアスカに似ている)。しかしアスカと異なり、シンジは認められる為に能動的な努力をしないか、むしろ(最初から)深く人と関わらない事によって見捨てられ不安を最小化するような処世術を選んでいる。こうした傾向の人格障害は無いか?と探した時、候補としてあげられるのは
1.回避性人格障害
2.自己愛性人格障害、ただしDSMに記載の無い引きこもりタイプ

あたりだろうか。なお、この1.と2.は併記する事が可能なので、むしろ1.と2.のミックスという表現が近いかもしれない。今回は紙幅の都合で割愛するが、シンジはシンジで見捨てられ不安に対する過敏性と、それに見合った極端な対人関係の在り方を呈している。後日、時間があったら何らかの形で触れてみたい。

 シンジもアスカも、自分の心が傷つく事を強く恐れて生きているが、その処世の在り方は正反対の姿を呈している。受動のシンジと、能動のアスカ、空気人間化する適応を選択するシンジと、誰からも認められる存在たろうとするアスカ。境界性人格障害に近い在り方なのはアスカのほうだが、シンジはシンジで相当のものである。見捨てられ不安に対する過剰さ、同一性の不確かさを抱えた彼ら。シンジとアスカの姿は、現代の若い世代の男女の心的傾向をいいところまで捉えていると思う。現在日本で観察される、

・見捨てられ不安の強い男の子達は、対人場面を限定した受動的な過小適応に至りやすい
・見捨てられ不安の強い女の子達は、相手を選ばない能動的過ぎる過剰適応に至りやすい
・男の子も女の子も、表面的な人間関係の維持を最優先にし、他者の反応には常に敏感

 といった10代〜20代の特徴に、シンジやアスカはなかなかよく当てはまっている。彼らの苦悩や不器用さは、あのアニメを見た同世代人間の多くにとって他人事ではなかっただろうし、だからこそ内外から強い反響があったのだろう。当時、彼らのなかに自分自身を見出した人は決して少なくなかったし、私自身もそうだったと思う。あれから十年。精神科臨床においては、重篤な境界性人格障害の症例をみかける事はかなり減少したものの、軽症例は後を絶たない。むしろ男性の引きこもりなどを含めると、“見捨てられ不安スペクトラム(造語)”に合致しそうな、シンジやアスカのような男女は増えてすらいるかもしれない。まだまだ、見捨てられ不安の時代は続きそうだし、だからこそエヴァンゲリオンは十分な影響力を保ち続けそうである。今回このテキストを書いてみて思ったのは、(社会病理の析出という視点からみた場合)ポストエヴァンゲリオンなどと言うには時期尚早っぽい、ということだ。少なくとも、シンジ達を通して描写されたような若年者の心的傾向は「まだまだ消えてない」。






 【※1欠けたココロ】

 今現在の私なら、『だったら満たされた心ってのは何なんだい?補完計画ですか?はいはいわろすわろす』と一笑に付すのだが、当時の私は随分この言葉に執心していたものである。当時、「満たされたココロ」とか「理解し合うココロ」といったキャッチフレーズに夢中になっていたのは、なにも私一人ではあるまい。「全部は分かりあえない他人同士が出来る限り寄り添って生きていく」という発想と、「人は分かり合えるものである・あるいはあるべきだ」という発想の違いを、当時多くの人は認識できていなかったし、現在でも認識出来ない人は多い。前者はまだしも現実に即しているが、後者は実現不可能で、相手を追いつめかねない危険な理想なのだが…。

 “私の理解するところの”エヴァンゲリオンは、最終的に「他人同士が出来る限り寄り添って生きていく」ことを選択する物語なわけだが、「人は分かり合えるものであるべき」と考えたがる人達や「他者と自分の距離がそもそも認識出来ない」人達にとっては、文字通り気持ち悪い幕切れだったことだろう。