→読むのが面倒な人はまとめだけどうぞ



 “脱オタ”という語彙は、誕生の頃からオタク趣味をやめる事を意味しておらず、元々は(オタク趣味ではない)異性や同性とも摩擦なく付き合えるように(服飾も含めて)色々がんばってみることを意味していた。事実、脱オタしようと思っている&実行している人達は大抵そう思っているようだ。どれだけのオタクがこうした願望を抱き、それを実行に移しているのかははっきりしないが、『電車男』などの影響もあって、少なくともこの語彙がオタク世界じゅうに流通してしまったとは認めてしまっていいだろう。もちろん、脱オタという語彙にどんな感情を向けるかや、どのような評価を与えるかは人によって様々だ。

 今回このテキストをまとめようと思ったのは、この『脱オタ』という語彙の幅広い流通に伴い、避けて通れなくなってしまった問題点を、kiya2014さんという方(リンク先はこちら。いつまであるのかな)が、マクロな視点からきっちり指摘してしまったからである。

 http://d.hatena.ne.jp/kiya2014/19831120#p4
 http://d.hatena.ne.jp/kiya2014/19850201#p41

 詳しくは以上のリンク先をご覧頂きたいが、彼の指摘を私は当然のこととして同意する。なお、kiya2014さんが指摘するところの『脱オタ』と、私のサイトで取り扱う『脱オタ』には若干の定義の違いがあるような気もするが、便宜上、当サイトで元来扱っているこういうものという前提で話を進めていく。即ち、不得手だったコミュニケーションスキル/スペックやリソースを開拓することを通して、対人交流や社会的適応におけるディスアドバンテージを回避する(あわよくばアドバンテージを獲得する)試み、という意味の脱オタである。

 kiyaさんの指摘を待つまでもなく、「適応向上という個人の営みが、集団としてのオタク達にどういう影響を与えるのか」というマクロな視点を私とて持たなかったわけではない。だが、脱オタを行うオタクはごく最近までは非常に少なかったので、影響があったとしても小さいものだと思い、私は敢えてそこら辺の考察を深めようとは思っていなかった。ところが2005年現在、“脱オタ”や『電車男』という言葉はそこらじゅうに撒き散らされ、結果として脱オタという言葉や概念は一部のオタクだけのものではなくなってしまった。「脱オタの流通」によって、脱オタという営みはマクロのレベルでも十分考察の対象たりえるものとなってしまったと思う。この、kiyaさんによるマクロレベルにおける脱オタ考察は、脱オタがもたらすオタク全体への影響を見事に分析していたと思う。それを踏まえつつ、脱オタあるいは適応技術向上メソッドの存在意義について再確認してみる。また、それらの個人的な試みをマクロで見た時の残酷な一面についても触れてみる。

 kiyaさんの指摘は面白い示唆に溢れていると思うので、是非原文をご覧になってほしいが、特に私が重要視した二箇所を引用させていただこう。まず一つ目。
 
脱オタは「誰でも、努力すればできること」という正当性の称号を冠され、価値観に一致しない一定量の弱者の排斥に利用される。さらに、脱オタは”コミュニケーションスキル”の改善と拡大解釈され、脱オタが広まれば広まるほど脱オタは困難になり、しかも、脱オタせよという圧力は強くなる、という(脱オタを指示される側にとっては負の、脱オタを指示する側にとっては正の)スパイラルが発生する。


 この指摘は確かに問題だと思う。私がサイトを開いた頃は、脱オタを望んだ少数のオタク達だけが脱オタを口にしていたのに、今ではネコも杓子も脱オタである。脱オタという言葉を知らなくても、脱オタ的な『電車男』を知らない20代〜30代はあまりいない。この、誰でも脱オタ的営みを知っている状況下で、「コミュニケーションスキル万能論」と「コミュニケーションスキルは努力次第」という誤解が合併することにより、脱オタしない人達に対する排斥圧が高まってしまったのは間違いないと思う。現在、脱オタという概念の存在そのものが、脱オタをしない人達にとっての圧力としても機能しているという指摘は、まず妥当なものだろう。

 そして「やられた!」と思ったのが以下の指摘である。折角ボク黙ってたのに。だがともかくも、私は以下のご指摘を当然のこととして認める。

(電車男に倣ってモテ資本に投資すれば救われんと扇動する人間の目論見とは)まったく逆であって、(自己責任論を基にした経済改革が、二極化する深刻な階層社会を生み出さざるを得なかったのと同様)総員がモテ資本に盛んに投資するようになれば、格差はいっそう残酷なものになる。


 kiyaさんは指摘する。“脱オタが広まれば広まるほど、コミュニケーションスキルだの男女交際だのを尺度とした階層化は一層広まる。ましてや誰もが脱オタを意識するような状況下では尚更に”と。仮に全てのオタクが必死になって脱オタに邁進するようになった場合、脱オタ新規参入組は勿論、元々恋愛ニッチでとぐろを巻いていた人達も一層激しい競争を余儀なくされるだろう。オタク内部における異性獲得競争も、今まで以上に激化・深刻化するに違いない。その結果、kiyaさんが指摘するとおり、競争とヒエラルキーはさらに鮮明になり、(スキル獲得の努力不足と不当に謗られる)敗者は益々打ちのめされるに違いない。

 私が脱オタ関連の適応技術について考察し始めた頃(1999年頃)、脱オタという営みはひっそりと影で行われるものに過ぎなかったので、マクロへの影響は零に近似しても良かったように思う。当時の脱オタは、万人の万人に対する競争ではなく個人の自分自身との戦いとしての意味合いしか持っていなかった。ところが近年になってオタク達の殆どが脱オタという概念を知り、そして脱オタの彼岸に実ったフルーツの匂いを(半ば強制的に)嗅がされてしまった。今現在「脱オタ改造手術」を真に望む一握りを除けば、「脱オタしなきゃ」という切迫感をオタク界隈から感じることは無いし、事実努力も行われていないように見受けられる。が、意識の面では階層化や敗北感の深刻化が既に発生してしまっているっぽい。例えば、非モテと呼ばれる人達のなかで脱オタや異性獲得競争に対するreactionが増えてきている昨今の状況もまた、こうした「圧力の強まり」に対する反作用として捉えることが出来るかもしれない※1

 加えて、彼の脱オタ考察には「努力しても報われない者が出る」「不平等はむしろ加速される」「異性獲得競争に魂を奪われたオタク達の、価値観からの逃走(闘争)が困難になる」というニュアンスも含まれていたが、これらも適切な指摘だと思う。結局のところ、脱オタは、オタク全体の適応向上や地位向上を推進するものではない。むしろオタク集団全体に視点をうつせば、脱オタ的概念の実施や普及は、異性獲得競争やコミュニケーションに関する競争圧力を強め、オタク総体としての「平均不幸体感度」を上昇すらさせかねない。脱オタが十分に流通した状況下では、異性獲得競争はさらに激化し、階層化が促進される。そのうえ元来異性に関する問題から巧妙に自分自身を遠ざけて適応してきたオタク達の鼻先にまで競争が突きつけられてしまう(むろん、これは歓迎されない直面化である)。この状況下で適応を向上させるのは椅子取りゲームに首尾よく成功した一部の人間だけだろうし、脱オタとはその一部の人間になって差異化ゲームでおいしい思いをしようという企てに他ならない。「オタク総員の適応」というマクロな視点を採用するなら、『脱オタクファッションガイド』なんかはオタクにとっての福音書というよりはむしろ焚書の対象にしたほうがよさそうな気さえしてくる。

 だが、個人の適応というミクロな視点においては脱オタは(成功すればという前提においては)今なお有効性を保っているし、『ルール』が変わらない限りは有効性を保ち続けるだろう。むろんここでいう有効性とは、“定められたルール下において限られた資源を奪い合う椅子取りゲームに勝ちやすくなる”という意味においてであり、もっと具体的には、出来るだけ素敵な女性と付き合える(or結婚できる)期待値を上昇させたり、職場で得する期待値を底上げさせる、という意味においてである。コミュニケーション・人間関係というルール下において出来るだけ有利なスペックを獲得し、最も有利な(あるいは少しでも有利な)社会的立ち位置と心理的状況を獲得するという点においては、脱オタという手法は輝きを失っていない※2。そして、この『コミュニケーション・人間関係というルール』や、現在巷流行の『男女交際評価尺度(俺は恋愛評価尺度なんて言わないよ)というルール』は、時代の変遷や政治体制の変化によって幾分弱まることはあれど、絶滅するとは思えない。このルールは強弱こそあれど有史以来の人間に普遍的なもの※3で、繁殖や適応に関する根本的な遺伝形質が無くならない限りは消えないのではなかろうか。このルールから個人または少数集団が逃れることは確かに可能だが、娑婆世界そのものがこのルールから逃れることは不可能と考えたほうが穏当だ。だとすれば、コミュニケーションや適応や繁殖を促進するような要素群、そのなかでも普遍的で汎用性の高いファクターを出来る範囲で強化していく事は、個人の適応を促進する可能性は極めて高い。よって、マクロな視点ではともかく、ミクロな視点においては、(ものの考え方すら含めた)個人の適応技術・スペックを鍛える事は十分に建設的であると私は考える。ただし、一定のルール下の差異化ゲームのプレイヤーの常として、脱オタ施行者の全てが成功するとは限らないし、素養を選ぶという重大な問題点を孕んでいるが故に全ての人に勧められるものではないけれど。

 まことに残酷な話だが、脱オタ的行為・適応スペック向上の試みは「なんとかなりそうな」背景を持っていて、尚且つ主体的に脱オタを志す者だけに福音をもたらす。個人、それも意志をもっていて最低限の要求水準(何をもってそれを規定するのかは、別の機会に譲る)を満たす個人にしか脱オタは貢献しないし、集団や社会には大した益をもたらさない。脱オタは『現状のルールを変える』をものではなく『現状のルールに乗っかる』個人的手法であり、そこには『現況のルールを先鋭化させるか否か』『オタク全体の適応がどうなるか』という視点は存在しないし、(脱オタ施行者当人には)要請されてすらいない。脱オタに関する議論は、元来個人の適応の向上を取り扱うミクロな技術論であり、それ以上でもそれ以下でもなかった筈だ。それも、全員が平等にアクセスできるとは限らない、そういう技術に関する議論だったはずである。

 故に、脱オタに関連した議論で『集団を対象としたbetter』や『ルール変更』を匂わせたテキストを見た際には、私は困惑を覚えたものである。脱オタという営みは確かに当事者の適応を向上させるが、その向上は(誰かとの)差異化を通して椅子取りゲームに勝ちやすくすることに他ならない。もしこの自覚があるなら、脱オタを論ずる視点のなかに「個人ではなくみんなの適応が何とかなるような」期待は含まれ得ない。脱オタ論に偽善的・欺瞞的との批判が集まったのは、こうしたマクロの向上を含意していた時だったように思う。また同様に、脱オタという適応技術向上の企ては「体制革新的」ではなく「体制保守的」なものと意識したほうがよさそうだ。脱オタ施行者が『ルール』を快く思っているか否かに関わらず、脱オタ施行者はこの『ルール』に乗っかることを通して、ルール下における階層構造を強化してしまう小さな1ピースとしても機能してしまう。脱オタは個人の適応を向上させる試みだが、この試みはルールや集団や社会に変更を迫る類のものではない。むしろルールに乗っかるという性質があるため、マクロレベルでは階層構造を強化するものとして取り扱われるのが適当のように思える。ルールを変えることや、ルールをなくすことを夢見る人達には、脱オタはあまり良い風にはうつらないに違いない。

 そうだとしても、脱オタ的な個人的営みはミクロのレベルでは今後も絶えることが無いという予測を再確認しておきたいし、そうした個々人がマクロな視点を論拠として批判の対象となるような事態はあってはならないことは、強調しておきたい。脱オタ施行者達が、自分達のやっている事がマクロのレベルでどうであるのかに自覚的か否かに関わらず、である。そもそもこの手の批判を言い出したら、殆どの人が実際は批判の対象となるべきだろうし、そうした攻撃を無邪気にやりすぎることは批判者当人の足元にも大きな落とし穴を穿つだろうし※4。脱オタ者が椅子取りゲームに勝とうとすることを批判する時、彼らだけを被告席に座らせるのはなかなか難しいことだろう――一緒に被告席に並ぶのは簡単だが、高いところから断罪するのは難しいことのように思える――。尤も、批判の有無や是非に関わらず、脱オタ的な営みはいつまでも発生し続けるだろうから、誰が何を言うのかは問題ではないのかもしれない。『脱オタ』という語彙はもうじき消えてしまいそうだが、差異化ゲーム同様、適応技術向上の営為はずっと残る。脱オタという語彙が消えようが、仮に『現行ルールに若干の変更』があろうが、娑婆世界が依然として勝者と敗者に満ちていることを私は確信している。どうにも無残な、酷薄なことだが。

 無残無残といい続けていい加減嫌になってきたが、最後にもう一度だけkiyaさんのテキストを引用させていただきたい(from浅田彰関連)

際限のない差異を求めるが、同時にその責任(原罪)をも負う、この矛盾


 脱オタに成功した者も含め、差異化によって得をする人間は、差異化ゲームによって搾取される者・疎外される者の存在を前提としてbenefitを獲得しており、これを責任(原罪)と呼ぶのはいかにも相応しいと思う。nerd studyで考察している内容もまた、こうした差異化の希求と原罪を指摘されて然るべきだと私は自覚する。さらに、脱オタ研究は一握りのオタクには益をもたらすとしても、それ以外のオタク達にとってむしろ邪魔かもしれないということも自覚する。だがそれでも、脱オタを志望する(つまり個人レベルの適応を向上させたいと企てる)オタクがいる限り、適応技術を向上させるメソッドを私は研究し続けるし、その恩恵にまず私自身が与りたいと考えている※5。そして、どれだけ物憂げな原罪を認識しようとも私は聖者になるつもりはないし、なろうとしてもきっとなれないということを知っている。無論、あなた達においてもおそらくは同様だろう。『脱オタまたは適応技術に関する技術論』は、原罪を背負った人間どもの手にによって今後も続けられ、実用に供されるに違いない。






 【※1捉えることが出来るかもしれない。】

 もちろん、脱オタ的概念が流通しなければこうならなかったのかもしれないが、そんな事を今喚いてもはじまらない。また、脱オタ的概念が流通したのも、これはこれでそれなりの因果があってのことだろうし。





 【※2脱オタという手法は輝きを失っていない。】

 蛇足だが、kiyaさんの表現するところのBクラスに脱オタ者がようやく到達した段階、つまりCクラスの存在から優越感を感じ取っている段階をもって脱オタの終着点とするのは早計である。むろん、そこで止まってしまう脱オタ者が多いのは事実だし、途上の段階においてBクラスと呼称されるべきプロセスは必須かもしれない。だが、個人の適応はそれが可能である限り、Aクラスへの意図的or無意識的なアプローチに繋がるものだと私は考えている。人はどこまでも貪欲だ。





【※3有史以来の人間に普遍的なもの】

 むしろ生物界においては普遍的なもので、人類だけがその強制力をある程度まで緩和している、と私は考えている。腕力や尻尾のカラフルさなども含めて、生物界における様々な適応ゲーム(異種間は当然として同種間も)には容赦というものがない。…人間においては色々な“大脳皮質由来のお化粧”が上乗せされているので、一般的な生物界ほど競争は直裁的ではないorないように、みえる。





【※4大きな落とし穴を穿つだろうし】

 この落とし穴に見事にはまって、穴の中から快哉を叫ぶ人は、まだいい。なかには穴に飛び込まずに穴の目の前でリストカットしながらうっとりする御仁すらいそうな予感がする。





 【※5まず私自身が与りたいと考えている。】

 いや、考えるなんて生易しいものではないか。automaticに適応向上のメソッドが構築され、実行にうつされると表現すべきだろうか。差異化の残酷に対する認識がどうであるかとは無関係に、適応向上の営みを私は日夜続けているし、続けざるを得ないだろう。