・Aさんの中学校時代

 Aさんは中学生時代にいじめに遭いました。その影響もあってか、Aさんの数少ない友人はいわゆる美少女恋愛ゲームオタクに偏っていて、同じ趣味の仲間同士だけのコミュニケーション状況が続いていたようです。当時全盛期を誇った葉鍵系美少女18禁恋愛ゲーム(痕、To Heart、Kanon等)をプレイし、中学校3年生頃には早くも秋葉原デビューしています。さらに、夏と冬のオタクの祭典・コミケにも出撃していました。同学年の周囲からは「気持ち悪い」と疎まれ、コミュニケーションスキルが低いオタクが侮蔑される際の、比較的典型的な評価に甘んじていました

 また、(これまた若くてコミュニケーションや視野が狭い範囲に限定されているオタクに典型的な傾向ですが)葉鍵系美少女ゲームの素晴らしさを他人が理解しないことが、Aさんはよくわからない状況にあったようです。それらのゲームが、オタク世界ではいわゆる名作と呼ばれる部類である事を鑑みれば、Aさんがそれらのゲームに入れ込む事自体は不思議はありません。ですが、他の趣味世界の人達が、葉鍵系美少女ゲームという、極めて狭い井戸の中の立派な蛙の価値気付く筈が無いであろう点に、当時のAさんが気が付かなかったという点には、着目すべきかもしれません。勿論、ご年齢を考えれば致し方ないことかもしれませんが。




 ・Aさんの高校生時代
 そんな、コミュニケーションスキルがあまり高くないオタクの典型だったとおぼしきAさんに転機が訪れたのは、高1の秋頃の事でした。

 「これは!」と思う異性との出会い。
 好きな人に好かれたい。
 話をしたい。
 仲良くなりたい。

 Aさんは、『恋愛』という劇薬を飲み干し、そして、彼の止まっていた時はようやく動き出したのです。

 それまでは母親がスーパーで買ってきた服を、コーディネイトも着合わせも無視して着るだけだったAさんも、このとき初めて身だしなみを整えようと思い立ちました。これまでファッションに投資する事を馬鹿馬鹿しいと思っていたAさんでしたが、まず手始めに髪を明るいカラーに染め、そしてファッション雑誌や店先のショーウィンドーで着合わせや服装の方向性を視て学んだようです。そして一念発起、当時手元にあった全財産をはたく覚悟で丸井で服を揃え始めました。もちろん、これまで「かばん」にぶら下げていた、美少女恋愛ゲームのキャラクターグッズは廃止して、です。

 Aさんが断行したコミュニケーションに関する改革は、単にファッションだけに留まりませんでした。まず手始めに、好きな人の前ではオタクな話題をふるのは絶対にやめようと決心し、その他の話題の獲得に乗り出したのです。当初Aさんは、高校での出来事や授業の話を活用していました。 得意科目、苦手科目、日々の学校生活の出来事……。逆に言えば、最初はこれっぽっちしかコミュニケーションに供することの出来る話題が無かったという事です。いかに、当初のAさんが話題に乏しかったかが窺えます

 とはいえ、実際は学校こそ違えど同じ高校生同士。オタクな当時のAさんでも、その女性との会話はある程度までは可能でした。そして、彼女が好きな音楽(浜崎あゆみ、ELT、aiko など)を片っ端から取り込み、彼女との会話が停滞しないように努力を重ねたようです。やがて、彼女の側から面白い映画やビデオを紹介されるようになると、単に彼女と円滑にコミュニケーションが出来るようになっただけでなく、オタク趣味以外の様々な趣味にも自然と興味が芽生え始めました。音楽、映画、etc…。単にオタクをやめただけでは終わらず、Aさんは新しい多彩な『世界』を獲得し始めたのです。そして三ヶ月も経った頃には、今度はAさんの側から彼女に『新しい趣味・文化・話題』を提供出来るまでになっていました。この結果、Aさんがコミュニケーションに供することの出来る文化の幅が劇的に広がったのは言うまでもありません。

 一方、彼女にも理解して貰える趣味世界を渉猟するために全力を尽くしたことによって、好ましい結果とは別の副作用も生まれてしまったようです。オタク趣味から完全に離脱し、全能力を新しいコミュニケーション獲得と趣味獲得に費やした結果、Aさんはオタク友人達との会話に使える話題が無くなってしまったのです。新作ゲームやキャラクターのチェックを怠ったことが、オタク友人達とのコミュニケーションを困難にしてしまい、遂には会話が途絶えてしまいました(オタクの会話は、しばしばオタク趣味そのものの話題だけを媒介とする事が多いので、脱オタクに邁進した場合、このような悲劇がしばしば起こりがちです)。結局、Aさんはオタク趣味以外の幅広い世界と引き替えに、これまで住処としていたオタク世界を諦めざるを得なくなってしまったようです。

 しかし、Aさんの、捨て身で継続的な努力は、ほぼ満足と言える結果で報われたようです。Aさんは、その年のクリスマスから約半年間ですが、その女性と実際におつきあいすることが出来たのです。その女性との交際は半年しか続かなかったとはいえ、彼女から『最初はウザかったけど、会うたんびに進化していくのが楽しかった』という言葉を贈られました。

 別れたとはいえ、まがりなりにも女性と付き合うことが出来たという事・服飾などの見た目・話題や趣味などの内面を大幅に変化させたことは、その後のAさんの心理状態に大きな変化をもたらしたことでしょう。




 ・その後のAさん

 その後、Aさんは二度と美少女恋愛ゲームの世界に戻ることはありませんでした。それまでの反動で合コンやナンパに勤しむ時期を経たうえで、現在では、一人のステディと安定した関係を持つことを志向しているとのことです。

 後日、Aさんが中学生の同好会に出席した時、エロゲーオタク時代しか知らない旧クラスメート達の多くが、Aさん本人だと気付くことが出来なかったそうです。Aさんをキモいキモいと侮蔑していたクラスメート達が、今度はAさんに女性を紹介して欲しいと懇願するに至ったと言うのですから、その豹変ぶりは推して知るべし、でしょう。

 以上のような経緯を経て、Aさんは現在、侮蔑されるようなオタクではない状態にあるようです。オタク趣味自体は捨ててしまったそうですが、それによって強い葛藤が生まれたり、精神的不安定が惹起されたりすることも無かったようですから、大過なく脱オタク状態に移行したものと推測しています。




 【Aさんのからのコメント(以下、ほとんど原文)】(強調カラーなどは編集シロクマによります)

・オタク全盛期の具体的服装と、現在の具体的服装(好きなブランドでもいいです)

 オタク全盛期の頃は服は全く気にかけていなかったので、母がスーパーで買ってきた服でした。 色のコーディネートとかもメチャクチャで、今考えるとひどいセンスでした。 カバンにKANONのバッチみたいなものとか、付けたりしてたこともを覚えています。

 現在は代官山のハリウッドランチマーケット(ハリラン)とかAPC原宿のbusy work shop(APE) などがお気に入りです。APEが好きなくらいなので裏原の制服みたいな感じの服を好みます。 昔はOIOI系の服も好きだったのですが、今は着ている人が多いのであまり好きではないです。 また、おしゃれな人から見ればダメブランドですが、初心者さんにはup start outletなんかお勧めです。


・侮蔑されるタイプのオタクをやめたいっ!と発心した、その時の状況や心境

 生まれて始めて本気で好きだと思う人に出会えたのが直接のきっかけでしょう。 それは、それまでパソコンに向かって恋していた自分がバカバカしくなった瞬間でもあります。 どうすればその人と少しでも仲良くなれるか、それを考えると、まずは侮蔑されるようなオタクをやめるのがファーストステップだと考えたのが始まりだったと思います。


・何年ぐらいかかったか、また、どんな事で苦労したり困ったりしたか

 2ヶ月くらいで見た目はなんとかなりました。 何とかなったと言っても最低限のレベルに到達するまでの期間ですが…まぁ好きな人に振り向いてもらうためならなんでもしようと思っていたので、オタク的趣味を捨てることにも大きな抵抗はありませんでした。 『仲良くなってからバレて嫌われたらいやだな』という気持ちが強かったんです。

 ただ、それまで仲のよかったオタク友達と関係がギクシャクしてしまい苦労しました。 というより、それからまともに話してくれなくなってしまいました。 それと、やっぱりいざオシャレをしようと思うとどこでどんな服を買えばいいかに迷いました。


・「これが私の脱侮蔑オタクのキーポイント」

 やはり、本当に好きな人と出会えたと言うことに限ると思います。
この人のためなら自分はなんでもできる! そう思える人に出会えた自分は、自然と他人に侮蔑されるオタクをやめました。 もしもその人に出会っていなければ、今の自分はいなかったかもしれません。 いたとしても、オタクをやめようと思うまでにもう少し年月がかかったかもしれません。


・「現在の、侮蔑されやすそうなオタク達に対するメッセージ」

 私も、別にオタク的な趣味が悪いとも気持ち悪いことだとも思いません。 実際に自分で体験していた時期があるだけに、オタク的趣味にひかれる気持ちもわかるんです。

 だけど、オタク的趣味を持つことと外見に気をつかわないことは、イコールではないはずです。 どうやら普通の人は、オタク達の趣味が嫌というよりも、むしろ極度に見苦しい外見が嫌みたいですよ。 自分は結果としてオタク的趣味を捨ててしまいましたが、続けながら見た目を変えることも出来る筈です。

 外見が変わったあなたは今までとは全く違ったハーレムのような生活を送れますよ。一人の女の子と長く付き合うもよし、ナンパして遊ぶのもよし。 メチャクチャかっこいいギャルゲーマーがいてもいいじゃないですか♪ そうやって一人一人が努力していけば、いつかギャルゲーがそこまで侮蔑されない日がくるかもしれないですよ。 でも…本当の恋ってギャルゲーより全然スリルがあって全然楽しいですよ! 自分の言葉で好きな子が笑ってくれた時の幸せとか、あれはゲームでは味わえないですよ!





 【編集者独断の、症例検討】

  Aさん、貴重な経験談ありがとうございました。

 異性への恋心が起爆剤となって、ファッションをはじめとするコミュニケーションスキル&異文化獲得が一気に推進されたことが伺われます。まだ若く、恥をかいてもそんなに世間体が悪くない年頃だったとはいえ、初めて髪にカラーを入れたり丸井で服を買ったりするのはかなりの心理的プレッシャーを乗り越えなければならなかった事でしょう。また、ファッションに対する継続的かつ系統的な学習が為されたことから察するに、お金や精神的重圧だけでなく、時間的投資も相当のものだったに違いありません。にも関わらず、Aさんが必死に闘い続けることが出来たのは、やはり恋愛というファクターがあってのことでしょう。あの人と仲良くなりたい、付き合いたい。まだ人生諦めてない健全な独身男性なら、そりゃぁ死に物狂いになるってものです。そして、幸運にも、意中の女性と交際出来たことが、(ファッションも含めて)さらにAさんのコミュニケーションスキル獲得を推進したことに、疑う余地はありません。半年後に失恋に至ったとはいえ、おそらく極めて豊かな遺産を、Aさんは恋愛を通して獲得したのではないでしょうか。また、「最初はキモいと思われていた」筈のAさんが、その女性と付き合うことが出来た背景には、

 1継続的かつ系統的な努力を行う意志

 2その女性と交際するにあたって必要な問題点を自分なりに検討し、(たといそれが痛みを伴うものであっても)躊躇わずに変革を断行したこと

 3雑誌やショーウィンドウから学ぶといった、外部情報の積極的利用

 4若さゆえの、新奇なものに対する吸収の早さ

 5運(容貌の好みの問題や相性だけでなく、色々な意味で)

 などが関与しているのではないかと推測しています。

 加えて、『オタクカーストの底辺から意中の女性と交際できるまでに這い上がったという経験』は、間違いなくAさんの精神に強い自信をもたらし、ちょっとした心の支えになったのではないでしょうか。

 たった一人の好きな女性との交際。若い頃からコミュニケーションスキル競争で頂点にいた人達ならともかく、美少女恋愛ゲームの世界しか恋を知らなかったオタクにとって、これは、天と地がひっくり返るぐらいに世界観が変わる体験だったことでしょう。Aさん自身も、コメントの欄でこの事には触れていますし。その後Aさんはナンパや合コンの時期を経て、今は落ち着いた生活をなさっているようですが、現在のAさんを形成している諸経験の根底には、最初の女性との交際が出来たということ・そしてその為に自分自身が精一杯力を出し尽くせたということ、の二つがあるのではないかと私は推察しています。

 どちらか一方だけでも欠けていたなら、おそらくAさんは現在の境遇とはかなり違った人生を歩んでいらっしゃったのではないでしょうか。必死に努力したという事と、それが報われたという事、そして異性からさらにコミュニケーションスキルを獲得する契機を与えられたという事、これら全てが、Aさんの現在を(モノカルチャーな恋愛ゲームオタクよりは)豊かな世界にしていると推察したいところです。

 蛇足ながら、このAさんの例では、オタク趣味から完全撤退したことによる「アイデンティティの喪失や危機」「オタク趣味への憧憬」が発生していない点にも、注目すべきかもしれません。確かに、オタク仲間との会話に苦慮するようになり、オタク友人を失った事は痛手だったかもしれませんが、その後の文脈を読む限り、Aさんが外の世界で交際の手を広げていたことはほぼ間違いないでしょう。そして、高校1年生というまだ若い時期に脱オタク趣味に走ったが故に、オタク趣味に執着したり、オタク趣味が唯一の自己アイデンティティとなってしまう状態(=オタク趣味を取り去ったら、自分のアイデンティティを支えてくれる何者も無い状態)に陥る事が無かったのだと推測されます。彼はまだ若かったがために、オタク趣味にアイデンティティ確立を依存する前の段階で、『革命』を起こせたのでしょう。例えば二十代後半までオタクをやっている人の場合、オタク趣味を捨てきって新しい世界に無一文で飛び込むなんて、そうそう出来るもんじゃありません。二十代後半で脱オタをやり始める人は、もしオタク趣味を捨てるつもりでいるとすれば、おそらく大きなアイデンティティ上の危機に晒されるのではないかと思われるのです。このフットワークの軽さは、やはり若さのなせる業でしょう

 以上、恋愛の契機に、コミュニケーションスキルの拡大と、ホビーの脱オタク化が推進された一症例を検討してみました。恋愛の成就、という幸運が味方しなければどうにもならない部分がある一方で、Aさんのコミュニケーションスキル獲得活動が、最も基本的な部分をきっちり抑えている点も見過ごすことはできません。即ち、

 1継続するだけの意志や、強い動機

 2見知らぬものにトライするだけの勇気

 3ファッションをはじめとする諸スキルに対する積極的学習と、時間的金銭的投資

 4オタク趣味に縛られる事なく、新奇なものにトライできるだけの若さと柔軟性

 です。

 これらが揃っていたからこそ、コミュニケーションスキルが比較的短期間に向上し、そして恋愛成就という幸運も呼び込むことができたのではないでしょうか?勿論、これらが揃っていても、恋は時の運、必ずしも意中の女性とは付き合えるとは限りません。とはいえ、上記の四つは、侮蔑されるようなオタクが這い上がるためには無視できない要件なのは間違いないでしょう。

 逆に言えば、これらが揃っていれば仮に一度失恋したとて、再び闘うことも出来るのではないかと思います恋愛を契機に、と私は表記しましたが、その恋愛を下支えした背景として、基礎的で継続的な努力・投資・研究があった事を忘れてはならないでしょう。


 ※本報告は、Aさんのご厚意により、掲載させて頂きました。今後、Aさんの御意向によっては、予告なく削除される場合があります。ご了承下さい。