『げんしけん』木尾士目、講談社、アフタヌーンコミック

[参考:]げんしけんオフィシャルサイト(コミック版のページ)
[参考:]wikipediaげんしけん


 ・オタクの緩やかなコミュニティを描いたげんしけん

 2006年12月、コミック版の『げんしけん』も完結した。この作品は、まず第一にエンターテイメントであり、読者が読んで楽しむ作品であり、それがためかオタク男性の生態について美化しすぎている部分も多々みられる。そうは言っても、

1.オタクのツボを突くべく、それなりにオタ読者が喜びそうな餌を満載している
2.ギャグやコメディのオブラートに包みつつも案外辛辣なオタ的葛藤も描いている

 という部分には着目が可能であり、そういった部分を腑分けしていくことによって、オタク達の実態について接近することができるかもしれない。また、『げんしけん』というコンテンツがそれなりに売れた背景について思いを馳せてみるのも面白いだろうと思い、紹介してみる。オタクな人もオタクでない人も、読んでないとしたら勿体ないので是非ご一読ください。



 1.「現代視覚研究会」というファンタジー

 『げんしけん』というタイトルにもなっている、現代視覚研究会(現視研)。この、ぬるま湯の如きオタク系同好会を舞台として物語は展開されていく。この作品をご覧になって、“オタクサークルって楽しそうだなぁ”と思った人は多いだろうし、自分自身がオタな人達も我が身を振り返って幸せな気分になったことと思う。だが、楽しい娯楽作品である以上、リアル一辺倒というわけにはいかないわけで、現実のオタクサークルを題材にしつつも、本作品には幾らかのファンタスティックな修飾が施されている。

 現視研のなかで最もファンタスティックな脚色は、何と言っても男女比だろう。オタク系サークル、とりわけ斑目さん・田中さん・笹原くん達のような典型的な男性オタクが所属しているような大学のオタクサークルに、あれほどの多くの女性が在籍している事は、まずあり得ない。本来なら、サークル内に女性が一人二人いればまだ良いほうで、サークル内に女性がゼロ、というグループも少なくない。コミックマーケット参加者の男女比が示す通り、確かに、オタク界隈には多くの女性が存在しているし、『げんしけん』中の女性オタク達はオタク描写としてそれほど的外れではないけれども、男性臭いオタクサークルに女性が混入している割合は、本来もっと低い。春日部さんのような非オタク女性・大野さんのような屈託の無いオタク女性・荻上さんのような同族嫌悪丸出しの屈折オタク女性…このいずれのタイプも、男性主体のオタクサークルには滅多にいない特別天然記念物のような存在である。コスプレ系列はともかく、部室のモニターを囲んでアニメDVDを鑑賞しているようなオタクグループには、女性オタクでさえ縁がないのが実情だ。オタク女性はオタク男性とは違った世界で違ったコミュニティを形成することが多く、両者の接点は極めて少ない。そのうえ女性オタクは、いわゆる“大学デビュー”に際して、オタク趣味を捨てたり、隠れオタク化する者が少なくない、ときている。

 この、男女比にまつわる“脚色”がもたらす効能はかなり大きく、侮れない。

 男性オタクコミュニティと縁遠い人達が読むにあたって、女性陣の存在(とりわけ春日部さんという非オタク女性の存在)は挽肉料理に対するナツメグのような機能を果たしている。つまり、本来なら体臭の濃すぎる男性オタクコミュニティを垣間見るにあたって、“春日部さんが読者の代わりに驚いたりドン引きしたりしてくれるお陰で”読者は十分な心の準備のもとで作品を楽しむことが出来る、のである。例えば『ルサンチマン』にはこうした機能を担う女性キャラの存在が不十分であり、非オタク女性に読ませると素でドン引きされてしまうリスクが大きいわけだが、『げんしけん』は春日部さんをはじめとする女性陣の存在によって、オタクの異性関連の葛藤にまつわる“臭み”が上手く中和されている。「ここはドン引いて笑うところだよ」というマーカーとして非オタクを案内してくれる春日部さんの水先案内人的役割は、『げんしけん』の対象読者層を広いものにしていると思う。
 
 一方で、男性オタクコミュニティに所属する当事者兼読者にとっては、この女性キャラの混入は全く逆の機能を果たす。つまり、女性達が適度に混じっている『げんしけん』を読むにあたって、男性オタ読者は異性に関するコンプレックスを作中から感じ取りすぎることなく、楽しく読むことが出来る、というわけである。荻上さん&笹原くん、あるいは大野さん&田中さんといったオタクカップルが作品に登場するが故に、異性に関するコンプレックスを脱却する事適わないオタク達は、確認したくもない現実(オタクやってる限り女性とは無縁)を迂回することが出来る。いっそ、オタク趣味にのめり込む人間も人並み以上の女の子と付き合うことが出来る、というファンタジーに耽溺することさえ可能かもしれない。

 『げんしけん』の男女比はいかにもフィクションだし、登場する女性達は現実のオタク内コミュニティには希有なほどの魅力を放っているが、このフィクションは非オタク読者にとっても、オタク読者にとっても、有効な装置として機能している。このフィクションの導入により、『げんしけん』はライトなオタクからヘビーなオタクまで幅広く楽しめる良質のエンターテイメントとして成立している。

 もう一つ『げんしけん』の大きなフィクションを挙げるとするなら、『げんしけん』のキャラクター達はとにかく仲が良い、ということが挙げられるだろう。確かに男性オタクコミュニティというものは、良く言えばコミュニケーションにまつわる摩擦の少ない、悪く言えばコンテンツ依存的で離散しやすい傾向が強いので、そう簡単には内部コンフリクトを起こしたりはしない。しかし、異性が一人〜数人入ってきた場合(勿論この場合は異性の歓心や関心にまつわる利害がコミュニティ内に発生する)や、オタク趣味に関して優越感を競い合うような状況においては、割と長期間に渡る緊張・対立が潜在しがちである。『げんしけん』においては、こうした利害や優越感/劣等感に関する対立はあまり深く掘り下げられていないか、むしろ回避されてすらいる。春日部さんへ恋慕に関する斑目さんの葛藤も、結局は個人的・内面的なものとしての描写に終始されており、高坂くんへのジェラシーや独り身を託つ侘びしさなどはあまり描かれていない。少なくとも、春日部さんへの横恋慕がオタクコミュニティ内の空気を悪くしてしまうようなカタストロフィには至っていない

 こうした、異性や自意識にまつわるヤバいコンフリクトを回避したのが『げんしけん』という作品であり、この回避のお陰で、葛藤の強いオタクでも楽しめる&オタク界隈の良い所取りをしたいライトな読者にも読みやすい娯楽作品として仕上がっている。それを良いととるか悪いととるかは人それぞれだろうが、もし『げんしけん』が肩の力を抜いて楽しむ作品・門戸の広い作品として企図されたものだとしたら、それは成功裏に終わった、と言うことが出来るだろう。なお、オタク界隈の異性や自意識にまつわる問題を掘り下げたい人は、『ヨイコノミライ』あたりを読めば良いのではないだろうか。

 そのほかにも、『げんしけん』には数多くのフィクション(またはそれに近い相当珍しい状況)が存在する。コスプレした時の春日部さんの言動や、完売してしまった初回現視研同人誌、編集者になっちゃった笹原くんetc、無いとは言い切れないにしても、比較的稀で幸運なイベントが『げんしけん』には目白押しである。だが、そうしたフィクション的要素も『げんしけん』を秀逸なエンターテイメント作品とすることに概ね貢献している、とみて良いだろう。




 ・「2.現代視覚研究会」というリアリティ

 だが、『げんしけん』は何から何までファンタジーという作品には終わっていない。ご都合主義的なファンタジーに包みつつも、オタク的な屈折・葛藤・歓びといったものをかなり盛り込み、描写に成功している。荻上さんの葛藤であるとか、斑目さんの春日部さんへの振る舞いであるとか、笹原くんの“覚悟”の問題とかである。それらのオタク的悩みのひとつひとつは、前述のファンタスティックとのコントラストのお陰でかえって焦点が絞りやすくなっており、読者はキャラクター一人一人のもどかしさやみっともなさや真剣さに集中することが出来る。特に、笹原くん・荻上さん・斑目の心理描写にはオタクのかなり深いところも含まれているんじゃないかと思う。

 実は、『げんしけん』は個々のキャラクターの描写に関する限りにおいては、かなりきちんと描写しているんじゃないかな、と私は思っている。現代視覚研究会という「容れ物」に関しては、1990年代後半の大学オタクサークルをかなりファンタスティックにアレンジしているが、個々のキャラクターの言動や心理描写という次元では相当書いちゃってるんじゃないだろうか。そんなわけで、以下の段落ではキャラクター個々について紹介してみる。



[気になる男性キャラクター]

・笹原くん
 第一巻で現視研に入部する主人公。オタクネタをついつい口にしてしまう所・エロゲーへの願望と恥ずかしさ・荻上さんとの微妙な関係など、「こういうオタクを一度はみたことがある」というある種のステロタイプを見出した人もいるのではないだろうか。願望に対してストレートに対峙するのは得意では無いんだけれども、お膳立てが整っていたり制限がかからないならそれ相応に願望に正直、だけど体育会系のような頑張りには無縁、といった、ぬるいオタクのルーズなライフスタイルを彼は体現している。荻上さんとの交際も、大野さんのお膳立てがなければ到底うまくいくものではなかった。

 笠原くんのこうしたライフスタイルが端的に顕れているのは、第一巻の“覚悟の足りなさ”だろう。世の中には、羞恥心やら世間体やら男女交際やらをかなぐり捨ててオタク趣味を求道するオタクが少数存在する一方、「そこまでやる覚悟は無いんだけどオタク趣味がやっぱりメインの娯楽で、だけど自分はオタクとしての社会的偏見を自覚したくないし“一般人”でいたい」などという、ちょっと虫の良いルーズなスタンスを求めるオタクコンテンツ消費者が多数存在する。どうみてもオタク的感性・オタク的嗜好の塊だというのに、自分はオタクでありたくない、周りはオタクだけど自分はオタクじゃないもんねという自意識を持ったオタクは、オタク界隈では全然珍しくない。幸い、笹原くんはこうした自意識が適度な範囲におさまっているので同族嫌悪に走ることもなく、巻が進むにつれて威風堂々たるオタクへと開花していく。だが、笹原くんの“オタクである自分”“エロゲーに耽溺することへの抵抗感”などは、自称一般人他称オタクの心境を巧みに描写したものと言えるだろう。


・斑目
 重要なキャラクターである。笹原くんをオタク煉獄へと誘う態度、だけどオタクであることに誇りを持てないアイデンティティ、結構いい加減な就職活動とそれに引き続く『げんしけん』入り浸りetc…彼は男性オタクの社会適応に関する真実の一端を、これでもかと呈示してくれる。物語前半部にとりわけみられる、ヤンキー達に対する劣等感・海水浴における振る舞い・服を買いに行くシーンなど、斑目さんの行動はいちいちオタクのツボを突きすぎるので、彼に自分を重ねるオタクは結構多いんじゃないだろうか。服装、話の振り方、話題の選び方、どれもこれもがいちいちオタクである。あーオタク。上手く言えないけれども、斑目さんはオタクのツボを実によく押さえていて、痩せオタの類型としてはかなりビンゴ!と言わざるを得ない。就職した後も旧来のオタクコミュニティに依存せざるを得ない彼の姿も、就職後のオタクのライフスタイルでは珍しいものではない。就職後も現視研に居残る斑目さんにとって、オタクコミュニティとしての現視研は、唯一の居場所であり、アイデンティティを備給し得る唯一空間であり、外への可能性や能動性は閉じてしまっている。もし、現視研というコミュニティが崩壊したとしたら、彼は無名の2ちゃんねらーとなって堆積するのだろうか。

 しかし斑目で最も重要なエピソードは、やはり春日部さんとの関係だろう。オタク男性が異性に惚れてしまった、だけど惚れた相手には彼がいる!という状況下における彼の振るまいを堪能しよう。みっともなく、初心で、滑稽なまでに自意識過剰…しかしあまりにも切実な恋路が、全編を通して描写されている。結局、彼は最終巻まで思いを伝えることなく悶々とし続けた(ついでに言えば最終巻まで他の女性に惚れるチャンスを逃し続けた、とも言える。勿論斑目視点では、他に異性と出会う機会は想像され得まいが)。とっくに春日部さんにバレていたけれども、バレている事すら分からない程度に鈍感で初心だった斑目。オタクが非オタク女性に恋愛感情を抱き、その感情を抱えたまま悶々と加齢していくプロセスとして、斑目はある種のステロタイプを体現している。そうやって斑目がオタク社会人になっていく過程を、あなたは嘲笑するのだろうか、それとも…。


・高坂くん
 春日部さんと付き合っているか否かに関わらずオタク趣味に全力投球する高坂くんは、イケメンで、優しく、力強く、何でも出来る人だ。しかもオタクとしての造詣は超一級で、遂にエロゲー制作会社に就職してしまっている。彼のようなオールマイティで力強くイケメンなオタクは、頻度は低いが確かに存在する。多くのオタクが「オタク趣味以外は生き筋が無かったからオタクやっている」のに対して、高坂くんは「オタク以外の生き筋もあるけれども敢えてオタク趣味に邁進する」という大きな違いを持っている。このメンタリティの違いなり余裕なりが、高坂くんを一層ポジティブな存在にしている。

 春日部さんとの交際やファッションを二の次にしてオタクとしての高みを突き進む高坂くんだが、シメる所は圧倒的な正確さでシメてくる点にも注目しよう。春日部さんが泣く時や、笹原妹が男に絡まれた時、などなどの人間関係の要所要所で高坂くんはまちがえない。そんな彼が他のオタクを寄せ付けないほどのゲームオタという設定になっているのは、あるいは皮肉か。


・田中さん
 フィギュア・プラモ・コスプレ衣装が専攻の田中さんも、ある種のオタクの雰囲気をよく捉えている。束ねた髪や無精髭の組み合わせは、体格と相まって本当に秋葉原にいそうな雰囲気をよく出している。田中さんは(斑目とは対照的な)柔らかな物腰と屈託の無い態度で誰にでも接する。控えめでテレテレな田中さんと、それよりはアクティブな大野さんとのカップリングはオタップルの有り様としてはそんなにおかしなものではないようにみえる。男性側/女性側双方がオタクである自分に強すぎる葛藤を持っているとオタップルは成立しにくいが、この二人は現視研メンバーのオタク達のなかではオタク自意識に縛られる部分が少ないのでなんとかなっているのだろう。


・漫画部の原口さん
 メインキャラクターではないけれども印象深かったので紹介しておく。原口さんは、漫研で「編集者みたいなこと」をやっている太った眼鏡のオタクである。「クリエイティブである事や尖っていることが優れたことで、消費する事やヌルオタであることが劣っていることである」という意見を持った原口さんのようなオタクも世の中には案外存在する。しかも、こういうオタクが実際にコンテンツクリエイターである事は稀で、もちろん原口さんも「編集」はしても「創作」はしていない。編集や評論はやるけれども自らはオタクコンテンツを生み出さない、しかし消費オタやヌルオタを見下す原口さんのような人物が、オタク井戸からはみ出すことなく安住し続けている、という構造は面白い。そしてそんな原口さんは、漫研のメンバーから煙たがられ、他の同人サークルにも身勝手な振る舞いで迷惑をかけ続けているのである。


・会長(一巻からの会長)
 このキャラクターもメインキャラクターではないけれども、物語の中盤まではたびたび登場して良い味を出している。現視研創始者としての会長のデザインは他の『げんしけん』のキャラクター達と比べて昔風であり、1990年前後の古い時代のオタク達の雰囲気を漂わせている。“マイコン同好会的な何か”とでも言えば良いだろうか。まだオタクが消費動物に喩えられない時代の生き残りが、消費動物たちのたまり場たる現視研の創始者として配置されているのは、オタク界隈の歴史的変遷を思い返すうえで考えさせられるセッティングである。




[気になる女性キャラクター]

・春日部さん
 現視研のような男性オタクコミュニティに免疫のない読者に対するワクチン。本作品における、非オタクの為の水先案内人。彼女はオタクやエロゲーに対して嫌悪感を示し、やおい同人誌に対して目眩を起こし、コミケの異様な熱気に暑苦しさに辟易する。春日部さんのこうしたリアクションは、男性オタクコミュニティに免疫の無い読者には一呼吸置く機会を与えている。しかも、そうしたリアクションを高坂くんに真っ向からスルーされたり、オタクパワーに圧倒されたり、現視研にいるうちに段々慣れていっちゃったりするものだから、オタクが読んでいても彼女の反応はそんなに不快感を刺激しにくい(しかも高坂くんの幼なじみだったりするし)。つまり、非オタクが読み手であろうとコテコテの男性オタが読み手であろうと、あまり不快感を惹起することなく“オタクじゃない女性がオタクに面と向かった時のリアクション”を呈示することに成功しているのが春日部さんなのだ。これはとても素晴らしいことだと思う。勿論彼女はファンタスティックな存在なわけだけど、春日部さんという架空の設定のお陰で『げんしけん』は男性オタクコミュニティに属していない人でも抵抗感なく楽しめる作品になったんじゃないだろうか。

 彼女はオタクに対して十分な先入観を持ちつつも高坂くんを追いかける形で現視研に入ってくるが、オタクコンプレックスがもともと皆無な故か、現視研のメンバー個人個人には次第にうち解け、ちゃんと人間扱いするようになっていく。この辺り、春日部さんは相当まともな女性として描写されており、斑目をはじめとした個々のオタクに対しても、あくまで人間対人間として向き合っている。そんな彼女の振るまいのお陰で、男性オタクコミュニティ⇔非オタク女性という異文化の衝突に伴う緊張感は作中最小限に抑えられている(対して、一巻でヤンキー達と現視研メンバーが電車の中で遭遇する場面には、強い緊張感が表現されている)


・大野さん
 帰国子女、という設定は、大野さんのおおらかで(比較的にせよ)屈折の少ないオタクメンタリティを表現するうえでなかなか考えられたものだと思う。女性オタクには荻上さんのような同族嫌悪を抱えていたり、何かしらの劣等感を抱えた人が少なくない(勿論こんな事を彼女達に面と向かって言おうものなら、たぁいへんなことになってしまうので、よいこのみんなは真似しないでね!)わけだが、アメリカで鍛えられた能動的オタクメンタリティの持ち主、という設定ならば、大野さんのようなキャラクターにも一定のリアリティを保障することができる。そんな彼女も、荻上さんという強烈な自意識過剰女性オタを前にした時にはさすがに色々と刺激されちゃったようだが、それでも最終的には荻上さんを後押しするようになっていく。大野さんも春日部さんも、こういう所は基本的にいいひとというか、女性的イジワルさが無いというか、それはそれで『げんしけん』のファンタスティックな所なわけだが、しかしこうした女性陣のお陰で読者は男性キャラ達の動きをin vitroに観察することが保障されている、と私は考える。


・荻上さん
 オタク同族嫌悪に骨の髄まで漬かった、やおいに関する悲しい過去を持った女性、荻上さん。しかしいかに同族嫌悪が強かろうとも、やおいへの迸るパトスを抑圧することは荻上さんには不可能なのである。そういう意味では、彼女は現視研メンバーの中で最もコンテンツクリエイター的な、我慢不能の創作家的な熱さを内包していたりして、最終的に漫画家になっちゃう設定もわからなくもない。
 
 荻上さんのような、男性オタ/女性オタに関する同族嫌悪に振り回されつつもオタク的因業から逃れることの出来ない人というのは、男女を問わずにオタク界隈に結構多い。少なくとも1970年代後半以降に生まれたオタクのなかには、「オタクな自分」「オタクな仲間」に対して肯定できない屈折した感情を持つ者が少なくなく、荻上さんのメンタリティは痛々しいながらもオタク達には他人事では済まされないものがあると思う。そういったオタクには共感を与え、非オタクには「こういう人もいるんだー」という感想をもたらす荻上さんの存在は大きい、と思う。

 なお、八巻以降の笹原×ツンデレ荻上のカップリングはちょっとファンサービスっぽい。ここにも書いたように、ツンデレ荻上は、オタク的にはおいしいキャラクターだ。少なくとも男性オタク的には、荻上さんはとてもかわいらしい萌えキャラとしても機能するだろう――あまりにも同族嫌悪が強いのでない限りは、だが。



・ともあれ、良いオタク漫画です。

 このように、『げんしけん』はファンタスティックな設定とファンタスティックな一部キャラ(ex.春日部さん)をt擁しつつも、現実のオタク達の行動上の特徴や痛々しさや優しさを上手くミックスして表現している。その混交の加減が絶妙であるがゆえに、娯楽作品として高いクオリティと広い読者層を獲得することが出来たのだろう。リアリティだけを貪欲に追求した作品と比べるといささか理想化しすぎている部分があるとはいえ、理想化しているが故に表現出来ること、発信出来ることというものもある。オタクコミックというものににあなたが何を求めるのかにもよるが、おそらくとしても『げんしけん』は相当広い読者層に十分な満足度を与えることだろうし、その間口の広さは単純に凄いこととして受け止めておいても良いと思う。また、リアリティ至上主義者達やオタク世界を知りたい人達に対しても、この作品におけるキャラ達の振る舞いは様々な示唆を与え得るものではないかと思う。