【脳内補完現象について】

  ちょっとここで、現在オタク世界の深淵で起こっている(2001年現在)、
 ある現象について報告してみたいと思う。


  最近は、シスタープリンセス(以下シスプリと呼ぶ)のように、作品
 そのものを読んだだけでは楽しみにくく、消費者側があれやこれやと
 空想を付け加える事によって初めて楽しさが味わえるといった作品や、
 その関連商品(キャラクターグッズなど)が現れている。これらの商品
 複合体は、オタク以外の人から見ると理解が困難な代物が非常に多い。

  例えばシスプリの設定は、「12人のかわいい妹がいて、しかも全員が
 読者(自分)に好意を寄せているという」荒唐無稽なものである。
 コンピューター恋愛ゲームなどとは無縁の生活をしている成人にとって
 不可解な代物であり、なかなか感情移入が困難な人も多いのではないかと
 思うが、現役オタクの中で、実経験の恋愛を殆ど全く経験せず※1男に
 とって都合のいい仮想恋愛ゲームだけをやって育ってきた人達にとっては
 この設定を乗り越えられる場合がある。否、恋愛経験をしてきてもこの
 圧倒的な男性優位の設定に魅了される人は意外といるかもしれない。

  事実、多くのファンが脳を売り渡し‥‥もとい感情移入し、自らと
 妹たちとの様々な関係を空想して楽しんでいる。
 彼らはこの空想を、色々な言葉で呼称している。
 ここで挙げた「脳内補完」という耳慣れない言葉も、そうした呼び名の
 一つである。このシスプリという商品は、当初アニメ雑誌の連載企画として
 産声をあげたらしい。「妹達の質問に答えて正解すれば」キャラクターの
 画を配したキスカードやお泊まりカードが貰えるという読者企画だった
 わけだが、この入手困難なカード目当てに読者が殺到し、何冊もの雑誌を
 買いあさる信者が続出したのだという。シスプリはやがて、アニメ等様々な
 メディアにも滲出する事となり、オタク顧客を相手に一定の成果を挙げている。

  シスプリは、登場する女の子の絵がいわゆる綺麗なアニメ/マンガ絵に
 なっている。だが、メディアから与えられるストーリーを受動的に楽しもうと
 しても他のマンガ・アニメ等のほうが優れている点も多く、はまる意味が
 あまりない。しかし、シスプリに陶酔している人達の多くは、メディアが提供する
 ものを前提としつつも、徹底的に想像の世界で自分だけの独自の物語を
 作ってしまって、不足を補っている。まさに脳内補完の言葉どおり、足りない
 ものを脳内で埋め合わせて補っているのである。そして、シスプリはこれを
 前提としたメディア戦略をとっているかに見える。否、シスプリだけでなく、現在
 このような“読者の脳内補完”、あるいはそ“同人誌あたりでみんなが賑やかに
 色々作って楽しむ事”を前提としたメディア展開というのが、オタク相手の商売
 メディアでは常識となっているようである。※2

  この形式は、脳内補完という空想が難しい人には受けないという欠点があり、
 従ってアニメ絵で脳内補完出来ないような、大多数の男性/女性にはウケない。
 しかし、それが可能な人間であれば、筋書きを自由に自分本位のものに書き
 換える事が出来るという、代え難いメリットを手に入れる事が出来る。現在の
 オタク市場では、そういう芸当が出来るオタクが結構沢山いるから、この戦略は
 マーケティングとして多分妥当なのだろうし、事実シスプリは売れていた。

  シスプリの同人誌のサムネイル画像を虎の穴などで探すと、どういう想像が
 彼らの間で流行っているかの一端をかいま見る事が出来る。興味本位で見に
 行くと見たくもないものに出くわすかもしれないので、あまりお勧めはできないが。
 また、グーグルで「シスタープリンセス」で検索をかけてみるのも面白い。
 現実にはあり得ない話や展開が極めて多く(そもそもがシスプリの設定が現実
 にはあり得ないのだが)、それを彼らが楽しんでいるという構図がみてとれる。

  シスタープリンセス。
 自らの力で空想出来る者だけが、この禁断の果実の甘みを知っているの
 だろう。想像力によって楽しむ事を知っているおにいちゃん達だけが、あの
 高みに昇る事が出来る。私には無理だ。とても想像力が足りない。
 しかしこの脳内補完ということを「異常者の妄想」と斬って捨てるのはどうか。
 どこまでが異常なのか。この、どこまでが異常といえる脳内補完でどこまでが
 異常でない脳内補完かという議論は、蠱惑的だがきりがなく、私の扱える代物
 では無さそうなので当サイトでは取り扱わない。この脳内補完というのは、議論の
 切り口によって肯定的にも否定的にも切り取ることが出来るのは言うまでもない。
 或いは皮肉を込めるか込めないかによっても様々な議論の断面を呈するだろう。
 ここでそれをいちいち挙げるのも億劫なので、以下に当サイトの主旨である
 「汎用性のある適応」という観点からだけ、脳内補完という現象を考察してみる。

  このような、アニメ的キャラクターに対する激しい傾倒は――オタクカースト
 点でも少し触れたが――対外的にバレると非常に厄介な事になりやすい。
 オタクに対して理解ある人々ならともかく、オタクに対してあまり好意的でない
 多数派の人々は、脳内補完というものを受け入れない。ゆえに、脳内補完を
 象徴する品物を見せびらかしたり、その手の言動を繰り返す事は危険である。

  例えば携帯のストラップにシスプリのキャラクターを使ったり、職場でシスプリ
 同人誌を読んでいたりすれば、いい具合に偏見の目を集める事が出来るだろう。
 それは、いけない行動ではないが、対人コミュニケーション上、損をしやすい行動
 だとは言えるだろう。厄介な事に、脳内補完という妄想を楽しむうえで、キャラの
 グッズを妄想触媒として使用しなければならない不幸な人達もいる。こういう人は、
 たとい損をしやすい行動だと分かっていても、「常にキャラクターを連れて歩いて
 いる気分を優先したいため」、キャラクターグッズを購入して肌身離さず身につける
 道を選ぶ可能性がある。こうなると、偏見を持っている人々から痛い視線を集める
 確率は飛躍的に上昇せざるを得ず、オタク以外のコミュニティとの接触を阻害する
 一要因として考慮しなければならない。

  脳内補完の対象となるメディアが、コミュニケーションに役立ちそうな情報をもたらす
 事は皆無と言って良い事などを考えるにつけても、表面的な社会適応に関しては、
 脳内補完は役に立つ事は無くてむしろ適応を阻害しうるものだと言える。

  次に、内面的な社会適応スキルに脳内補完は影響するのだろうか。正直、
 あのような蛸壺メディアと適切な距離をとる事が出来る人であれば、どうという事は
 あるまい。そういう人は、携帯ストラップに目の大きな女の子のキャラクターグッズを
 採用するのがどれ程デンジャラスな事かはよく分かっており、外面的なレベルも
 含めて、脳内補完からあまり悪影響を受けないものと思われる(仮に楽しんでも、
 振り回されない)。

  問題は、他に楽しみがないようなモノカルチャーなオタクや、嗜好や欲望は
 あっても判断力に乏しい一部の安いオタクの場合、である。これらのオタクの
 場合、脳内補完という遊びは大変に素晴らしいと同時に、唯一の女性体験であり、
 また唯一の情緒的感動である場合可能性がある。素晴らしい感動であり、唯一の
 ものであり、そしてセクシャルな意味を持つものであるという状況は、大いに判断力
 を曇らせてしまう。そもそも、『脳内補完』という遊び自体が、与えられた情報を
 自分の妄想でカスタマイズして想像して楽しむという、閉鎖的で自己完結的な
 性格を持つ以上、そこから何か社会適応という開放的で社交的なものに役立つ
 経験を与えられる事はあまり考えられない。キャラクターの妄想に耽溺する事は、
 そのキャラクターを一層好きになったり、妄想的にスケベになるのを助長する事は
 あっても、女の子と実際に付き合うhow toや、非オタクの人達と交流するhow toを
 教えてくれるものではない※3

  これは、恐ろしいことである。
 恋愛苦手意識の強いオタク系若者に、恋愛技術は与えずに、恋愛願望だけを
 煽る営為、という側面を脳内補完は持っている。
 しかも、脳内補完は自分の妄想の都合に合わせてカスタマイズ出来るので、
 実際の恋愛よりもラクで自由度が高い。こうなると、ますまその人は脳内補完を
 求め、アニメの女の子を求める。特に、意志が弱いならば。そうやって秋葉原を
 彷徨っている内に、一年、また一年と恋愛技術格差は広がっていき、ますます
 恋愛技術を向上させる希望は潰え、脳内補完への依存度は高くなる。脳内補完を
 若いうちから繰り返す事で、一部の若者は特に異性との付き合い方に関して非常に
 適応技術が阻害される、いや技術成長を停止させられるという危険性は、警告しても
 いいと私は思う。

  また、脳内補完に供される一連のメディアが保有している「恋愛の構造」の問題
 にも言及しておく必要があるだろう。まともな恋愛は、本来は男女が互いの意志・
 人格を尊重し好ましいものとしながら、対等な愛情関係を形成していくという構造を
 含んでいるものだが、(男性優位の脳内補完の場合は殊に)このようなニュアンスは
 放棄されがちである。脳内補完では、恋愛の構造が「対等な愛情関係」ではない
 言いたいのである。
  むしろそこにあるのは、「保有」であり「支配」であり「庇護」であり「依存」である。
 消費者が支配者か被支配者かは様々だが、そこには対等の関係というニュアンスは
 抜け落ちている。果たして、こんな幼稚な男と付き合いたいと思う女性はいるのか?
 いや、いない事はないかもしれない※4が、もっと大人の男性がいいと思うのが普通
 だろう。だが、脳内補完しか知らないと、女性に支配される事と庇護して貰う事しか
 知らない。勿論、(馬鹿じゃない)女性はこういう男性の性格には鋭敏であり、そして
 彼女達は噂話が大好きで、重要な対人情報を何気なく交換しあっている。

  以上、脳内補完メディアが社会適応にどう影響するかを検討してみたが、全体
 として社会不適応に傾きやすいメディアだという事が推測された。脳内補完メディア
 が社会適応に役立つという弁護の意見も載せたかったのだが、どうにも弁護
 しきれなかった。しかし、今回の検討で得られた結果を考慮すると、仮に何か適応
 促進的なファクターが見つかったとて、大勢に影響は与えないのかもしれない。

  よって、当サイトの視点からは、結論は以下のようになる。

 「脳内補完メディアは、オタク以外との付き合いを志向するオタク男性にとって、
 社会適応を妨げる危険がある。よって、慎重にこれと付き合うことが推奨される。


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 【※1全く経験せず】
  これは女性経験の有無だとか付き合った事があるだどうだといった
 レベルではない。満足に失恋さえした事のない人達こそが、最もここで
 強調されて然るべきだろう。





 【※2常識となっている。】
  このような現象は、もちろん2000年になっていきなり出てきた潮流ではない。
 元々、アニメなどとグッズの商業展開を複合的に行う手法は、ガンプラの
 時代から存在したわけだし、脳内補完という方法論自体も、「ときめき
 メモリアル」という巨大なゲーム複合体が流布した頃には既にオタク達に
 よってある程度コンセンサスが得られていたのだから。
  その後は、オタク同人市場の存在なども含めて、オタク需要を十分に
 フォローした作品が、この界隈で成功を収めるような方向が加速している。
 (もちろん、非オタクも狙って成功している作品もいっぱいあるけどね)
  ラブひななど、ある種のオタクスペクトルと、潜在的オタクニーズに
 対して強烈にアプローチした作品と言えるだろう。アプローチが露骨すぎて
 毛嫌いされるところがあるが、それは、願望の強さの裏返しである事も
 多いようだ。





 【※3教えてくれるものではない。】
  このような問題点は、脳内補完という言葉に限らず、アニメ・小説などの、
 フィクションから享楽を得る全てのメディアにある程度当てはまる事である。
 フィクションを楽しむ行為は、欲望を促進させても、欲望に到達する手段を
 教えてくれる事は無い。勿論、優れたフィクションの中から、実際的な
 技術を抽出する事も有り得るが、ただ楽しむだけではこれは期待できない。
 必ず、そこから構造や方法を抽出するための「考える作業」が必要になる。
  まして、消費者の享楽を満たす為に、御都合主義に媚びた作品の場合、
 「実際にそうであるより、消費者がそうでありたいこと」を優先させて
 現実をどんどん逸脱するので、実際的な技術の抽出はますます困難になる
 場合もある。気をつけなければならない。




 【※4いない事はないかもしれない】
  だが、このような「対等な関係ではなく支配と被支配」というのは
 アニメの世界に限った事ではなく、社会病理となっているきらいがある。
 (昔から存在はしたし、そもそも男性の女性観にはこういうニュアンスが
 しばしば混入しているものだが)

  実際は、こういう幼稚な関係を好む女性というのはいるものである。