生きててよかった 第2部 「pitiable passion」
Episode-12 【doom/破滅】








 ようやく待ちに待った夏休みがやってきた。

 前期の試験期間で最後の科目・ドイツ語Gのテストを終え、
 私は再びシンジの住む街へ。



 今は、お腹の中の事も、そんなに心配はしてない。
 この前電話で全部シンジに喋っちゃったら、少し気が楽になったから。


 もちろん、彼だけを責め続けたわけじゃない。
 むしろ、私がシンジに謝る事のほうが多かったかもしれないほど。

 昼間からゴロゴロしていた頃、いつもバカを言ったのは私で、
 いつもそれをやめさせようとしたのはシンジだからね。



 今ではとても後悔している。
 心の赴くまま、シンジを愛するままに過ごした、あの頃の自分を。

 なんてバカだったんだろう。
 何で自分があそこまで溺れたのか、よくわからない。
 昔は女として見られることを、あんなに嫌って恐れていた筈の事に‥
 何故私は、あんな醜態を‥‥。


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 その日の金沢は、梅雨の終わりを告げる激しい雨に見舞われていた。

 夕方のラッシュで混雑する駅を出て、私はバスターミナルを目指して
 歩こうとしたけど、横からたたきつける風雨がひどくて、まともに前に進めない。


 “これじゃ傘なんて使えないわね”

 途方に暮れ、諦めてタクシー乗り場に向かって歩こうとした時、
 不意に私を呼び止める声があった。



 「アスカ、こっちだ!」

 「え?誰?」


 駅のロータリーに停車している沢山の車、そのうちの一台が、
 私に向かってチカチカとヘッドライトを点滅させている。

 誰だろう?



 「俺だ、加持だ!」

 不規則で激しい雨音に混じって、微かにそんな怒鳴り声が聞こえた。



 「加持さん?でも、なんでこんな所に?」



      *          *          *


 私が助手席に飛び乗るや、車は土砂降りの中を走り始めた。


 「アスカ、久しぶりだな。
  これからシンジの家まで行くんだろ?話は聞いている。」

 「シンジから聞いたの?」

 「ああ。」

 髪や顔にかかった雨滴をハンカチで拭きながら、運転席の男と言葉を交わす。
 でも、なんで加持さんがこんな所に?


 そんな私の疑問に対する加持さんの答えは、『出張で金沢まで
 来てるから、ついでにシンジ君の所へ』というものだった。

 ちょっと胡散臭いような気はするけど、まあ、気にしないでおこう。

 どうせ、加持さんの仕事と私達とは何の関係もないもんね。


 「ふぅーん‥って事は!加持さん、今日はシンジの家に‥‥」
 「いや、心配しなくていい。アスカが来る日取りについては、
  前からシンジ君に聞いてあったから、ちゃんとホテルの予約をしてあるよ。
  第一あの部屋、三人で寝るのはちょっと手狭だろ?」

 「そ、そう、そうよね。」


 心配と疑問をひとまず解決し、ホッとする。

 余計な人間が一緒にいると落ち着かないし、何より、シンジと抱き合えない。


 “加持さんか‥‥前ほど嫌いじゃないけど、う〜ん‥”


 会話が途切れた薄暗い車内に、律儀なワイパーの音だけが響いている。

 雨に濡れる外の景色にも見飽きた私は、隣に座る男の顔を窺う。

 相変わらずの無精髭を生やした加持さんは、再会から5年経った今も、
 見た目には殆ど変わりがない。今年で35歳になる筈なんだけど、
 その割には若く見えるかな。

 何か、昔と変わった事ってあるかな?
 変わったとしたら、それは私の中の変化かもしれない。

 一時期あれほど憎んでいた加持さんだけど、今では少しだけ嫌いじゃない。

 ミサトとは何かが違うのよ。
 一緒にいても、それほど神経を使わなくてもいい雰囲気を漂わせているというか‥‥
 あんまりピリピリしたものを感じなくて済む。


 私が少し大人になったからかな?
 ううん、加持さんがミサトよりも大人なのかもしれない。

 まあ、実際のところはよくわかんないけどね。


 「‥‥アスカ、さっきから黙りこくって考え事か?」

 「え?あ、ま、まあね。」

 「そうか、じゃあ、ごゆっくり。」



 “あの時私を一生懸命に見てくれたとしたら、私はおそらく精神崩壊を
  しなくて済んだはずなのに。”

 加持さんが自分との距離をいつも保っていた事に、私は恨みを募らせていた。
 ミサトを選び、私を捨てた事に強い憤りを覚えたまま、中学時代を過ごしていた。


 でも、今は少し事情が違う。
 それが仕方の無い選択だったという事を、私も理解ぐらいは
 出来るようになったからね。

 私だって‥‥シンジを選んだ為に、一人の親友を深く傷つけたもん。

 人は誰でも、異性として誠実に誰かを愛したい、誰かを守りたいと思った時、
 一人しか選べないということを、私は身をもって知らされた。
 あれ以来、ケンスケとの距離のとりかたに、神経を使うようになった。
 お互いにこれ以上傷つけあわず、友達でいられるように。



 ネルフにいた頃の全てを許せるってわけじゃないけど――そんなわけで、
 それでも私の加持さんに対する印象は、少しづつ変わりつつあるような気がする。


 「そうだ。加持さん。」
 「何だ?」

 不意に思い出した事があって、尋ねてみる。
 運転中だというのに、加持さんはチラリとこっちに顔を向けてくれた。


 「あの、私の事‥‥知ってるの?」

 「私の事!?‥‥‥‥ああ、もう聞いた。びっくりしたよ。
  シンジ君に手をあげたのは、たぶんこれが初めてじゃないかな。」

 「シンジを殴ったりしたの!?」

 「ああ。直接話を聞いたとき、頭に血が昇ってしまって、思わず、な。」

 「加持さんでも冷静じゃなくなる時って、あるのね。
  まあ、それはいいとして、もうシンジを責めないで。だいたい私が‥‥。」

 「いや、そうはいかないよ。こういう事は、たとえアスカがどうであれ
  男の責任だ。実際に妊娠して苦しむのは、シンジ君じゃなくて、
  アスカだし、大抵そういう事を始めるのは男のほうだからな。」


 視線をフロントガラスに固定したまま、加持さんはそう言った。

 怖い顔をしていた。



 「‥‥。」

 「学校を休んでまでシンジ君の所に行ってたんだってな。」


 「‥‥‥うん。」
 「そうか、アスカらしいな。‥‥あ、もう着いたみたいだぞ。」

 見慣れたワンルームマンションの前で車が止まり、ドアロックが外れる。


 『アスカらしいな』という思わせぶりな台詞に、私は微かな動揺を覚える。
 加持さんが何を考えてそう言ったのか、少しひっかかる。

 だけど、私は結局それについてはなにも訊ねず、助手席を降りて
 雨の中に飛び出し、大急ぎで玄関の軒下まで走った。



     *         *         *



 ピンポーン

 「シンジ、私よ、早く開けて!すんごい雨なんだから!」


 ガチャ


 「わあ、シンジだ!!嬉しい!!」

 「あ、アスカ、おかえり。
  ちゃんと加持さんが迎えにきたよね?」

 「うん、お陰で助かったわ。じゃあ、入るわよ。」


 玄関をあがってキッチンに入ると、そこは夕食の準備の真っ最中。

 換気扇が、雨にも負けない音を立てて回転している。
 フライパンには、今しがた調理を終えたばかりなのだろう、
 オレンジ色のクリームソースが白い湯気をあげていた。

 ちゃんと夕御飯の用意をしててくれた事に、今更ながらに感心する。
 さすが、シンジね〜。


 「いい匂いね。
  いったい、なに作ってんの?」


 「夕御飯のパスタだよ。
  キノコとあさりを使ったクリームソースのやつ。
  トマトペーストをちょっと使ったから、こんな色してるんだ。」

 「へぇ‥‥。」

 “初めて作るから、ちゃんとできてるかどうかわかんない”とか
 言いわけをしながらも、フライパンにシメジや椎茸を投げ込み、
 箸でチャカチャカやったりコショウを振ったりしているシンジ。
 じっと見ていると、プロになれるんじゃないかと思えてくるのは、
 私のひいきのしすぎかな?



 ピンポーン

 「ただいま。
  お、ずいぶん形になってきたな。俺も腹減っててな〜。」

 うっとりと恋人の調理に見とれていた時、玄関のドアが再び開いて
 加持さんが入ってきた。
 駐車場から歩いてきたせいだろう、すっかりずぶぬれになっている。


 「あ、加持さん。あの、アスカも来た事だし、じゃあ、早速‥」

 「いや、今は難しい事はナシだ。
  それより、タオルか何かを貸してくれないか?」


 何かを言いかけたシンジを加持さんが制止し、そして二人は
 ちらりとこちらに視線を向けた。


 ほんの一瞬なんだけど、加持さんの視線、そしてシンジの視線が私を撫でていく。

 どちらも違うものだけど、どちらもなんだか辛い。

 私は、自分の荷物を整理するために、それと、二人の男から離れて少しだけ
 一人になるために、リビングのドアをそっと開けてキッチンから逃げ出した。



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 夕食の後かたづけが終わった後、私達は今後の事について話し合った。
 勿論、私のお腹の中にいる子供についてね。


 アスカがイヤじゃないなら、やっぱり堕ろしたほうがいいんじゃないかな――
 シンジの最初の言葉はそれだった。

 二人とも大学を出て、経済的にも独立してから、本当の子育てをしよう。
 僕は、絶対にアスカを裏切らない。だから四年間待ってて欲しい。
 要約すればそういう感じの事を、シンジは言っていたと思う。



 残酷にも思える、堕胎を勧める言葉にも、それほど嫌な気分を味わう事はなかった。

 私自身、妊娠したことを全然嬉しく思っていないからだと思う。

 私とシンジの子供には違いないけど‥‥シンジを繋ぎ止める為に、
 汚らわしく、イヤらしい事を繰り返してきたその産物に過ぎないのだから。

 シンジに抱かれるのはそんなにイヤじゃなくなったけど、
 自分の子供なんて‥絶対に要らない。

 ええ、欲しくないわ。

 子供なんて、子供なんて、子供なんて‥絶対に要らない。



 「加持さんはどう思うの?」

 黙って私達の話を聞いていた年長者に、微かな期待を込めて尋ねてみる。


 「やっぱり、いくら何でも早すぎやしないかな。学生の子育ては大変だと思うし。
  そもそも‥アスカは、最初から子供が欲しくて妊娠したんじゃないだろ?」

 「う、うん。」

 予想通りの回答。
 私は、小さな安心を手に入れる。


 「‥‥すぐに欲しいって答えないって事は、アスカは本当に子供が
  欲しいわけじゃないんだよ、おそらくな。
  そして、シンジ君だって、今は子供を望んでいない。」

 「‥‥‥。」


 「両親に心から望まれているわけでない子供が
  親からどういう仕打ちを受けるか、アスカなら知っているだろ?」

 「‥‥‥ええ。知ってるわ。」



 加持さんが私を哀れむような目で見ていた。
 ううん、シンジも同じ表情をしてる。


 この二人は、私の過去を知っているからね。

 思慕、憧憬、期待‥‥そして、疎外、慟哭、絶望。
 自分は、私自身を苦しめてきた大人達みたいには、絶対になりたくない。

 子供を要らないと思っている間は、子供は産めない。
 生めば、その子は、要らない子供になるから。
 そう、かつての私みたいに‥‥。




 「君達に限ってそんな事はないと思いたいが‥
  それでも君達には、大人になる為の時間がもっと必要だと
  俺個人は思うんだ。いろんな意味でね。」

 「‥‥。」

 「アスカ‥‥どうするの?」

 「‥‥。」


 二人の男達の決断を促す目に、言葉に詰まる。

 唇を噛んだまま、私は動けない。

 迷いは無いつもりなのにね。何故だろう?

 子供なんて要らないって、心の底から思ってるのに。
 それなのに、私は何を戸惑っているんだろう?



 「私‥‥」

 「まあ、あくまで妊娠しているのはアスカだ。最後は、自分で考えて、
  自分で決めて欲しい。勿論アスカが産むんなら、養父として
  出来るだけの事はするつもりだ。」

 「アスカ、どうするの?」



 “‥シンジと私の子供‥”
 “でも‥今の私は‥私は‥‥”


 「やっぱり、もうちょっと考えさせて。」


 たっぷり考えた上で、の返答が、それだった。

 陳腐でなんの解決にもなっていない台詞を、私は低い声で二人に告げた。



 だけど、そう言うのが、その時の私には精一杯。

 なんですぐに、“堕ろす”って言えなかったのだろう。わからない。

 まあ、いいや。
 夜になって、シンジと二人きりになってから、また考えてみよう。



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 その夜、シンジの家を出た加持が向かったのは、市内のホテルや旅館ではなく、
 すぐ近所に立っているネルフの監視所であった。


 ただの町工場にしか見えない汚い建物、その裏手に回った彼は、
 勝手口のプレートが掲げられた錆だらけのドアをノックし、シンジから
 借りた傘をさしたまま、暫し待つ。


 「俺だ、加持だ。開けてくれ。」


 [お久しぶりです、加持部長。今、開けますから]


 ガチャ

 どこからともなくスピーカーの声が聞こえ、続いて内側からロックが外される。


 傘をたたんでドアを開け、建物の中に入った加持を待っていたのは、
 平凡な町工場の外見からは想像もできないような、テクノロジーと
 ミリタリーの世界であった。


 諜報用の様々の機械類や最新のコンピューターに、たくさんの武器・弾薬。

 慌ただしく動き回っている人間達にしても、尋常ではない。
 ネルフの制服を着た者以外に、黒い背広姿の男や迷彩服を着た兵士の姿が
 ちらほらと見受けられる。

 そこは、閑静な住宅街という外界から完全に隔絶された、
 小さな異様の世界であった。




 「こりゃまた随分派手に改装したもんだな‥」



 いつの間に改造したのか、トタン張りの外見からは想像できないような
 分厚いコンクリート壁や天井が、どこか威圧的に見える。

 監視に従事している人員にしても、昔とは数が違う。

 つい一月前までは、ミサト直属の部下を四名置くだけだったものが、
 現在では情報部から6名、保安部から10名、そして加持直属の部下が
 4名‥計20名の合同チームが編成されているのだ。

 どれも、加持が入手したゼーレに関する情報を踏まえた上での措置である。



 「ネルフ金沢支部にようこそ、加持部長」

 無言で周囲を見渡しながら小さな感慨にふける加持に、
 一人の黒背広が話しかけてきた。

 赤い無花果をあしらったネルフのネクタイピンと、渉外部所属を示す
 北極熊のバッジを身につけた、加持より若干若く見える男である。


 「衣笠か、久しぶりだな。
  お子さんのほうは、どうなった?」

 「ええ、御陰様で。元気のいい男の子でした。
  家内の喜びようったら、大変なものでしたよ。」

 衣笠と呼ばれた男は、加持の言葉に目を細くした。

 彼の素直な反応は、加持にとっても気持ちの悪いものではなかった。


 「そうか、無事生まれたか、そりゃ何よりだ。」

 「ええ。ありがとうございます。」


 羨望が混在しないように微かな努力を払いながら、加持は部下に祝福を贈る。

 ミサトやチルドレン達の為とはいえ、いまだに自分の子供が持てない事に対して、
 彼とて苛立ちを感じないわけではないのだ。



 「おめでとう。衣笠も、もう親父か、時の経つのは早いもんだ。」

 「もう4年ですからね‥‥おっと、そろそろ本題に入りますね。
  これです、情報部や保安部の方とも協議した結果、こうなりました‥‥。」

 急に真顔になった部下から、一冊の報告書が加持に手渡された。

 機密保持の為に全て手書きの書類に目を通しながら、しきりに加持は
 頷き続け、そして数分後には満足しきった笑みを浮かべていた。



 「これは、誰がメインになって書いたんだ?まさか、君が?」

 「いいえ、日向三佐です、保安課の。あの人がここにいらした時に、
  色々とご助言をしていただきまして。こんなの、自分にはとても書けません。」

 「何?日向が?
  合格点というより、隙らしい隙が無いと思えば‥そういうわけか。
  現在の作業状況は?」

 「はい、ワンルームマンションへのCCDカメラの増設と
  県警への協力要請のほう、既に完了しています。」

 「結構だ。残りのほうも、急いでくれ。」

 「しかし、本当にゼーレが攻めて来るんですか?
  それも、この一週間が狙いなんて‥アダムもリリスも存在しないのに、
  今更あの子達を拉致というのは、自分には理解できません。」

 「理由までは未だ判らないが、奴等が二人を狙っている事だけは間違いない。
  ウラは取ってある。」

 半信半疑の部下に、加持は強い語調である。


 「そうですか‥。」

 「あの時に手に入れたディスクが決定的だったのさ。
  奴等の目的が、おそらく人類補完計画だろうという事も判っている。」

 「補完計画!三度目のインパクトは、御免被りますね。」

 「その為のネルフだ。
  計画に従って、警備と監視には万全を尽くしてくれ。」

 「は、はい。」


 まだまだやるべき事は山積しているが、今はこれで良い――引き締まった
 部下の表情に満足した加持はその場を離れ、一息つける為に給湯室へと
 向かった。


 “さてと‥‥”

 “果たしてこれで、どこまで戦えるのか‥‥”


 狭い給湯室に一人きりになると、まだ幼さの残る二人の養子達の顔が
 思い出される。

 自分で入れた出涸らしの茶を啜りながら、男は独り、物思いに耽るのであった。



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 一夜開けた金沢は、昨日の雨が嘘のように晴れ上がっていた。


 雨上がりの朝が美しいのは、この街とて例外ではない。

 久しぶりの青空や木々の潤い、澄み切った匂いの空気は言うに及ばず。

 アスファルトの水たまりに映る太陽や、やけに騒がしい雀達、濡れた
 朝顔の花‥‥‥あらゆるものが人々の五感を優しく包みこむ。

 雨上がりの朝、街は本当に美しい。



 長い夜に疲れ果て、未だヒュプノスの楽園に遊ぶ幾百幾千の恋人達‥‥
 目覚めた後、彼らはどのような今日一日を過ごすのだろうか。

 沢山の可能性が目覚めた二人に幸福の糸口を与え、
 そして沢山の笑顔が、二人の絆をさらに深めることだろう。

 こんな日は、自然も運命も、二人の味方をしてくれるから。






 ――だが。
 運命の神は、知っている。

 その日、不幸と絶望の底に沈む男女が、確かに存在する事を。
 罪深き大人達によって運命を背負った、否、背負わされた、一組の
 罪無き子羊のつがいの事を。

 その多感で美しい少年と少女は、シンジとアスカという名前だと言うことも。


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 「ねえ、本当にいいの?」

 「うん。昨日、一人で色々考えたんだ。あの後にね。」

 不安そうに恋人を見つめる男と、決意を胸に秘めた女。
 朝食を食べ終えたアスカがシンジの家を出ていこうとしていた。

 今日も薄化粧の彼女は“今日はお医者さんと相談してくるだけだから”と
 言い残し、玄関のノブに手をかけようとする。


 「ちょ、ちょっと待って!」

 「何?キャッ!」


 肩を掴んで無理矢理アスカを振り向かせ、シンジが軽く接吻した。

 ほんの僅かに桜色に染まるアスカの頬に手を当てると、
 彼はアスカの耳に口を近づけ、小さく囁く。

 「僕を‥‥信じてる?」


 恋人の低く優しい声の持つ魔力に、アスカの瞳孔が微かに揺れる。
 彼女は、開きかけになっていた玄関のドアを閉め、自分の顔を
 シンジのそれに何度もこすりつけた。


 「じゃあ‥‥待っててくれるよね。」

 コクリ、と頷いたアスカに、シンジはもう一度だけ、短いキスをした。




 「それじゃ、行って来るね。」

 「うん。」


 アスカが再びドアを開ける。

 玄関口から差し込んでくる午前10時の日差しの中、
 彼女は軽く微笑みをシンジに返して「いってきます」を告げた。
 


 それは、後にシンジが回想するたびに思い出される、やけに
 かわいいアスカだった。



   *         *         *



 バス停に向かったアスカの姿を見送った後のシンジは、
 さっそく家事に取りかかった。

 キッチンで朝食の後かたづけを済ませた後は、
 リビングの窓を開けて掃除機を取り出す。

 これから約二ヶ月にわたってアスカが滞在する上に、加持の訪問が
 予想されるからと、シンジはいつになく張り切って掃除を始めるのだった。

 “アスカが帰るまでに、全部やってしまわないと‥‥”


 これまでアスカの滞在のたびに部屋を散らかされた事を思い出し、
 一瞬顔をしかめるシンジ。
 彼は男にしては珍しいくらいのきれい好きであったが、掃除自体は
 それほど好きというわけではないようである。


 “掃除だけじゃない、買い物も洗濯も済ませてしまおう”

 休む間もなく、リビングのゴミ箱からビニール袋を取り出し、台所に向かう。
 流し台の生ゴミも市指定のゴミ袋に一緒にまとめ、さらに次の仕事に
 取りかかろうとした時、不意にリビングの電話が鳴った。


“誰だろう?加持さんかな?”

 ゴミ袋をその場に置き、シンジはリビングに向かった。



 “そういえば、ホテルで朝食を食べたらすぐに来るって言ってたのに‥”


 ピッ



 「もしもし」

 「俺だ、加持だ!今、アスカはどうしてる?」

 電話の向こうから聞こえてきたのは、耳が痛くなるような大きな声だった。



 「う、うん、病院に向かっていないけど‥‥ど、どうしたんですか?」

 受話器の向こうの声が緊張を帯びている。
 シンジは気づき、身を堅くした。



 「そうか‥‥アスカはいないのか‥‥いいか、その場から動くんじゃない。
  何があっても、誰が訪ねてきても、絶対に玄関に出るんじゃないぞ。
  わかったな、俺もすぐそっちに向かう。」

 「か、加持さん、ど、どうしたんですか?」

 ただならぬ雰囲気に気圧され、鼓動が高まる。

 焦りや苛立ちを感じさせる大人の声は、普段は意識下に眠っているシンジの
 古い記憶を呼び覚ますと同時に、言い知れぬ不安感を与える。


 「時間がないから、用件だけを言う。いいか、俺達が行くまで絶対に
  動くんじゃないぞ。アスカも、必ず守ってみせる。だから、
  シンジ君は何も心配しないでそこにいろ。」


 「アスカ!?
  加持さん!アスカがどうかしたんですか!?」

 「アスカの心配はするな!すでに部下を送ってある。
  もう時間がない、また後で!」

 ピッ
 プーップーップーップーッ


 「か、加持さん!加持さん!!!」

 急に切られた電話に、シンジは何度も呼びかけるが、当然返事は帰ってこない。


 「切れた‥‥」

 「そういえば、加持さんアスカがどうのって言ってたけど‥‥」

 「僕は、どうしたらいいんだろう‥」



 これからどうすべきかを思案しようとするシンジ。


 だが、その為の時間は与えられなかった。




 ガシャン

 「わっ!!」


 一分もしないうちに、りリビングのガラスが割れる音がして、
 一人の男が転がり込んできたのだ。

 粉々になった窓ガラスが、掃除機をかけたばかりのカーペット上に散らばった。
 掃除の成果をフイにした不作法な訪問者は、シンジが予想した通り、
 馴染みの人物だった。



 「無事か、シンジ君」

 「か、加持さん‥‥」



 “血の色だ‥‥”


 義父が着ているカッターシャツに赤いまだら模様があるのを見て、
 シンジは言葉を失う。

 長らく見ていなかった血の色、右手に握られた拳銃。
 そして、加持は荒い息をしている。


 パニックに陥りそうになる自分を自制するのに、シンジは非常な苦労を
 払わなければならなかった。



 「急いでここを出る。ついて来るんだ。」

 「ど、どうしたんですか?」

 「話は後だ、時間がない!裏から出るから、靴を用意しろ。」

 「は、はい!」


 玄関から一番履き慣れたスニーカーを取ってきて、カーペットの上に置いた。

 靴の裏の汚れがカーペットに残るであろう事を悲しく思いながら、
 シンジはスニーカーの紐を結ぶ。

 そして、ベッドの側にあった写真立てから写真を抜き出して
 ズボンのポケットにねじ込んだ後、手招きしている加持に続いて
 窓から外へ飛び出した。




 ガガガガッ


 「わあっ!」

 「ただの威嚇だ!止まらず走れ!!」

 「は、はい!」

 銃声に怯えながらも、加持の言葉のままにシンジは走り続けた。

 ずっと忘れていた恐怖を思い出した心臓が、バクバクと音を立てている。




 “アスカは‥‥アスカは‥‥”

 「加持さん、アスカは!!」

 「大丈夫だ!俺の部下達がガードしている!気にするな!!」


 “気にするなって言ったって‥”

 不安というよりむしろ恐怖を抱えながらも、なおもシンジは走り続ける。


 少し前に家を出た恋人は、今頃どうしているだろうか。

 それは彼にとって、考えるだけで気が狂いそうになる命題。


 シンジは、自分がこういう時に何も出来ない人間である事を、
 心から呪うしかなかった。




 生きててよかった 第2部 「pitiable passion」 完






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