生きててよかった 第3部 「信仰」
Episode-05 【母】








  ***************************************************************


 …あの時私は、虚脱したアスカに半ば半狂乱になって語りかけていた。

  濁りの混じった青い瞳に、自分の中にある全てをぶつけていた。

  思い返せば、サードインパクトの直前にシンジ君に話してきかせた事と
  同じような台詞だったと思う。

  それが、シンジ君とアスカがLCLから還って来た事とどういう因果関係が
  あるのかは誰にも判らない。

  でも、あの時あそこでああしたという事実に関する限り、それが私にとって
  最良の選択であったという事に確信せずにはいられないのである…


                    ――葛城ミサトの日記帳より抜粋――


  ***************************************************************




 青い闇を破る鳥達の鳴き声‥‥遠くから聞こえてくる。

 アマゾン奥地の密林を歩き続けて、4日目の朝がやってきた証拠ね。

 総勢約一千名の兵士達とともに、私は、ゼーレ本部の
 地上口・そのすぐ近くまで到達していた。




 「よし、時計合わせ!3,2,1,スタート!」


 私の声に合わせて、迷彩服を身に纏った男達が一斉に時計のスイッチを押す。
 カチリ、という沢山の音が、緊張をいやがうえにも高めていく。


 いよいよ作戦開始の時が来た。

 私の育てた部隊の実力が、試される時が来た。


 「これより、ゼーレ本部強襲作戦“ストームコーザー”を開始する。
  私の指揮する隊は、セカンドチルドレンの救出を担当し、笠原隊は先発して
  本部の偵察を担当・あわよくばこれを爆破する事を主命とする。
  なお、加持部長率いる渉外部直轄の部隊は、私の隊に随伴する事。」


 「了解!」


 「質問は?
  無いわね。
  では、各員の健闘を祈る!グッドラック!」




 待ってなさい、アスカ。シンジ君の所に、必ず連れて帰るから。

 そして、ゼーレの老人達‥‥父の敵。
 全て、これで終わらせてやるから、覚悟していなさい。



----------------------------------------------------------------------------



 「遂に来たか‥‥奴らが。」

 「はっ!ネルフ保安特課の部隊を中核とする総勢約一千名、
  第三及び第五滑走路より侵入を開始したもよう!現在、応戦中!」


 「兵を引かせよ。」

 「は?議長、今、何とおっしゃいましたか?」

 「可能な限りの戦闘員・非戦闘員を、セントラルドグマ第3層まで後退させろ。」
 「で、ですが、それでは‥‥」

 「ネルフ側には知られていない地上側の通路がある。そちらを使って、別働隊を
  地上に派遣。施設内部で挟み撃ちにする。」

 「なるほど‥‥」

 「その為に、半ば故意にネルフ側に情報を流したのだからな。
  せいぜい騙されて貰うとしよう。
  ところで、チルドレンのほうはどうなっているか?」


 「サードチルドレンの奪取に関しては、赤木博士の修理を受けた
 “ニケー”計3機、全て発進させました。
  今回はATフィールドを計算通り展開出来るとの事です。」

 「セカンドチルドレンは?」

 「精神に破綻を来しつつあります。一度、自殺を試みましたので、
  現在は薬を用いて落ち着かせています。」

 「そうか‥‥ならば結構だ。」


-------------------------------------------------------------------------------






 ゼーレ本部に侵入して、既に3時間が経った。

 警備システムによる散発的な抵抗を受けつつも、私達は概ね順調に
 進撃を続けていた。


 「加持の情報通り、薄い防御ね。まあ、秘匿性が命のゼーレだから、
  端から大規模な防御は想定してなかったけど。」

 「ああ。それに、マヤちゃん達のチームが入手した地図どおりじゃないか。」

 「ウチの情報部も、捨てたもんじゃないわね。」



 ピーッ

 『こちら、笠原隊!現在、セントラルドグマ第三層にて中隊規模の敵に遭遇!
  現在、交戦中!』


 「了解!殲滅されたし!」

 加持との会話を一旦中断し、私は傍らの通信機に向かって大きく声を張り上げた。



 「殲滅されたし、か‥‥。順調そのものだな、今のところは。」

 振り向くと、ヘルメットと迷彩服の似合わない加持が、私のほうを見ていた。


 どこか浮かない顔が気になる。

 アサルトライフルの銃身を撫でながら、意味深な表情を浮かべている。



 「加持‥どうしたの?」

 「どうもおかしいと思わないか?」


 「う、うん‥‥幾ら何でも、順調すぎると思うわ。
  地図も、情報部が入手したのと殆ど一致しているし、抵抗らしい抵抗も無いし‥」

 素直に私は思っている事を口にした。


 近くにあったノートパソコンのディスプレイに映るゼーレ本部の地図を
 覗いてみると、既に施設全体の五割までもが占拠・もしくは
 破壊を意味する紅いマーカーによって塗りつぶされている。

 それでも私は、首を傾げる。


 そう、あまりに手応えを感じないような気がするの。

 こんなに簡単に全てが運ぶというのはあまりに出来すぎている‥‥。


 「葛城司令官、何故あんな顔してるんだろう‥‥」
 「さあな、体調でも悪いのか?」

 そんな声が遠くの方から微かに聞こえて来たが、無視した。

 目の前の敵と戦う事しか知らぬ一般兵士には、ディスプレイを眺めて訝しがる
 私の心境がわからないのは無理無い事だから。

 加持は、私の杞憂するところの全てを理解しているようだけど‥‥。


 「なあ葛城、そろそろ前に移動しないのか?
  笠原隊にいい加減追いつかないと、前線を把握できんぞ。」

 「え?
  ええ、そうね。そろそろ出発しましょ。」

 ディスプレイから目を起こし、私は加持のほうを向いた。
 他の渉外部直属の部下達と同様、彼は既に出発の準備を終わらせていた。

 加持とその部下達は、相変わらず動きが早い。

 私は、自分の隊の準備を急がなければならなかった。





 「さて、加持もうるさい事だし、前進しますか‥‥総員、出発準備!
  先鋒の笠原隊に追いつくわよ!!」

 「了解!!」

 周囲にいた私の部下達が、慌ただしく動き始める。

 煙草の火を揉み消す者、装備のチェックをする者‥‥彼らが支度を終えるのを
 待っていた時、突然、通信機のやかましいアラームがかかった。



 ピーッ ピーッ ピーッ ピーッ


 「うるさいわね‥‥今すぐ取るわよ、今すぐ!!」

 片づけたばかりの通信機を取り出し、
 毒づきながら私はレシーバーのスイッチを入れた。




 「こちら司令部。どうぞ」

 『‥‥こちら、笠原隊!!敵の増援、著し!!至急、救援を許しを請う!!
  至急、来援を!!!』


 のんびりとした私の口調は、悲鳴にも似た通信兵の声で報いられた。


 ピーッ

 さらにもうひとつ、別のレシーバーのランプが点灯し、アラームが鳴った。



 『‥‥こちら、第五滑走路守備隊!!施設外より約400の敵に攻撃を受け
  現在応戦中なれど、このままでは全滅します!!装備とエリアを放棄し、
  セントラルドグマ第一層までの後退を、許可願います!!』



 “しまった‥‥”




 とりあえず、通信機の向こうに指示を出す。

 地上の部隊には後退を命令し、笠原隊にはすぐに増援を送ると連絡した。

 加持のほうをちらりと見ると、予想通りの表情がそこにあった。


 「加持は、どう思う?」

 「たぶんミサトと同意見だ。
  完全に謀られたようだな、我々は。
  これからどうするつもりだ?」

 「こうなったら、ゼーレを潰すのはさすがに無理でしょうね。でも、アスカだけは
  連れて返るわよ。シンジ君と約束したもの。」

 「しかし、できるのか?」

 「そこをやるのが、私達の仕事よ。」



 微妙な角度で眉をしかめる加持に私は無理をしてウインクを返し、
 私は大きな声で部下達に出発を告げた。


 「さあみんな急いで!笠原隊に追いつき、敵の本隊を叩くわよ!!!」




-----------------------------------------------------------------------------







 「ク‥‥ス‥‥リ‥‥」

 声帯が壊れてしまっているのね、きっと。
 自分の口から出たとは思えないような、掠れ声しか出てこない。


 「お前‥まだ薬が欲しいのか?
  今日になって、もう5本目だぞ?」

 『監視員』の嫌味にも、私は薬を求める事をやめられない。

 「クスリ‥‥‥クスリ‥‥」


 体が寒く、気持ちが悪い。
 きっと、奴らが打つ薬には麻薬のような副作用があるんだろうと思いながらも、
 私は薬を求める。

 半ばは快楽の欲求に負けて、半ばは自暴自棄で。

 だって、私はもう、生きていたくないから。

 おもいっきり自分が情けない生き物だって、骨の髄まで思い知らされたもん。

 誰も、やっぱりホントのホントに私を愛してくれているわけじゃないって、
 痛感したから。

 私もただの自己中な生き物だって、シンジを大切にしているのも全部
 私自身の為で、シンジの為じゃないって身に滲みて思い知らされたから。


 だから、死んだほうがマシ。
 麻薬なら麻薬でいいわよ。
 気持ちよく、誰にも迷惑かけずに死ねるもん。

 そうよ、今度こそ死んでしまうのよ。
 もう、二度と私が悲しい思いも惨めな思いも裏切られる事も無いように。




 「そんなに薬が欲しいのか?そうか、じゃあやるよ。」


 数秒後、私の左腕にチクッとした痛みが走った。

 そして、ゾクゾクする感じ。

 最後に、私は何もかも忘れる事ができる。


 フンワリとした恍惚が全身を駆けめぐり、私は安堵の息を漏らした。

 ああ、一人でも幸せね、薬さえあれば。



 「つくづくお前はバカな女だな!」
 「‥‥」
 「チッ!議長の絶対命令で、お前の体手を出せないのが、本当に口惜しい!!」


 快楽にただ溺れるばかりの私を、男が言葉でいたぶる。
 けど、そんなのどうでもいい。


 「あ〜、きもちいい」
 「いいよぉ」

 見てくれも何もかも捨てて、私は快楽の底へと再び沈んでいった。
 薬で狂死する事なんて怖くなかったし、涎を垂らしているのも気にならなかった。

 ただ、今が気持ちよければ、それでよかった。

 まさに、人間失格な、快楽のしもべの私。
 あ、でもそれはシンジに溺れて見境のない私もおんなじか。

 でも、もうすぐ薬のせいで死ぬんだから、別にいい。
 こんな私は、消えてしまえばいいのよ。


 私は知っているんだもん。
 私を取り巻く全て、愛も夢も信頼も、全部幻だったって事。

 この私の、人を信じる心も、私を大切にしている人の心も、
 みんな、みんな‥‥きっと嘘なのよ‥。



------------------------------------------------------------------------------


 「まずいな‥‥これでは長くは持たないぞ」

 耳元で加持の低い呟き。

 どこか非難めいた響きを感じたので、私は明確な返答を避けて
 ノートのディスプレイを熱心に覗き込む素振りを示した。


 「‥‥‥。」

 赤く表示されたエリアは、既に一時間前の70%まで落ち込んでいる。
 特に、退路を断たれつつあるというのは、非常に大きな問題だ。


 やや躊躇いながらも、私は部下の一人に意見を聞いてみた。

 「敵が、予測よりも多すぎます。
  損耗率も、特に我が隊では12%と著しく、
  数時間以内に戦線が崩壊する可能性が高いと愚考します。」

 よく通る大きな声で答えたのは、先発隊をつとめた笠原二佐だ。

 筋肉質の彼の声音に潜む疲労と動揺を、私は微かに感じ取っていた。


 「他にこの場に居合わせている佐官は‥‥そうだ、加持君はどう?」

 「俺も笠原君とほぼ同意見だ。
  うかうか手をこまねいては、全滅するぞ。」


 「そうね‥‥。」

 勿論、このまま手をこまねいていれば破滅が待っているという事は判る。

 だが、ここまで来て撤退を命じるという事は、それはそれで
 私にとっては勇気の必要な事であった。


 「葛城一佐、時間がありません。どうか、ご決断を。」

 笠原二佐のその言葉から、或る種の懇願のようなものを感じ取った私は、
 迷いを残しつつも、撤退する事を決定した。

 だけど、ただ撤退はしない。

 最低限やっておかなければならない事は、やっておきたい。

 後一歩まで来たのだから‥‥


 「では、二時間後を目処に撤退を開始します。」

 「ただし。」

 「私はアスカ救出の為に、これよりセントラルドグマ第四層を
  ルート2を経由して目指します。
  後の指揮は、笠原君と加持に任せるから。」


 「お、おい‥‥」
 「か、葛城さん!!」


 男達の顔がより一層の驚きと不安に彩られるのを無視して、私はポケットから
 扱い慣れたハンドガンを取り出した。




      *          *          *



 加持達に部隊の指揮権を委任し、私は10人の選りすぐりの部下を率いて
 セントラルドグマ第四層を目指した。

 ドグマ第四層――研究施設とおぼしき構造物が集中するブロックね。
 本隊を陽動代わりにしての隠密行動とはいえ、オートディフェンスや警備兵の
 苛烈な抵抗が予想された。

 だが、予想に反して侵入は順調に進んだ。
 私達が足を止めたのは一度きり、それも警備兵の分隊に遭遇した時ぐらいなもので、
 粗悪な技量の敵を相手に、戦いは十数秒でカタがついた。


 そして、30分後には、目的地であるD−42地区と呼称されるエリアに
 私達は到達していた。


 「さあ、着いたわ‥‥地図によれば、この辺りがセカンドチルドレンが
  幽閉されている可能性の最も高いエリアよ。そういうわけで、
  ここからは手分けして探します。
  見つけた後の手筈については、所定の通りにしてください。」

 「了解!」

 地図のコピーを私から受け取り、部下達が散っていく。
 最後の一人が私の視界から消えたと同時に、私も、
 自分に割り当てられたエリアへと急いだ。


    *          *          *



 「これで8つめ‥‥最後の部屋か‥‥」

 やけに頑丈な金属製の扉の前に私は立っていた。

 ピッ

 地図と照合すると、扉の向こうには100平米程度の空間があるらしい。
 狭い部屋にしては、妙に分厚い隔壁だ。
 その不自然さに、私は目を光らせた。



 「こういう時の為に、爆薬を持ってきてあるんだから‥‥」

 “3,2,1,0!”

 どぉーんという轟音とともに、衝撃波を伴ったすさまじい風が
 通路を吹き抜ける。

 物陰からすぐに飛び出し、扉の中をそっと覗いた。


 未だ煙が立ちこめているせいで、視界が悪い。

 それでも、殺菌灯の青白い灯りの下に戦闘員とは明らかに異なる人間の姿を
 認める事ができた。


 「‥‥よし、敵じゃないようね。アスカなの?」

 ハンドガンを構えながら、室内へと入った。


 硝煙の煙をくぐり抜けて私が見たのは、予想通り、
 ベッドに縄で縛られた一人の少女の姿だった。


 「‥アス‥カ‥‥うっ!」

 不快な刺激臭に、思わず鼻を押さえた。



 彼女は、生きていた。けど‥‥。


 「アスカ‥‥どうしたの?アスカ!!」

 彼女の声を叫ぶ。

 殺菌灯を見上げたまま動かなかった虚ろな瞳孔が微かに動き、
 彼女の口から掠れた声が漏れた。

 「何か言ったの?」

 「‥‥リ‥‥」

 「!?」

 「‥‥ク‥ス‥リ‥‥」

 「アスカ!?」



 一瞬、アスカと自分の間にあったモノなど全て忘れてしまうくらいの
 インパクトがあった。

 掠れた声、臭い、床に散らばる注射器‥‥。

 あまりの出来事に、頭が真っ白になった。




-----------------------------------------------------------------------------






     恍惚の扉の奥に世界に引きこもった私を、ノックする音がした。
            意識が現実に引き戻された。
  扉の前に立っているのは、でもシンジじゃなく、私が憎み続けていた女だった。




 アスカ……

 誰?

 誰かいる?     ‥‥誰かいる。





 「ク‥ス‥リ‥‥クレ‥」

 きっと、あの変な男ね。


 クスリ打って貰って、もっともっと気持ちよくなろう。
 中毒起こして、死んでしまうまで。

 それだけが、私の願いだもん。
 もう、他には何もないもん。



 「アスカ、私よ、ミサトよ!」

 違う‥‥聞き覚えのある声だ‥‥ミサト?

 ああ、あの女ね‥私を苦しめる事しか知らなくて、私を陰で
 盗聴するばっかりのあいつね。

 でも、なんでこんな所にいるんだろう。




 「待ってて、今、助けてあげるから‥‥よいしょっと。
  さあ、シンジ君の所に返ろうね。」


 久しぶりに目に力を注いで、焦点を合わせてみた。

 ぼんやりと霞んだ私の視界に、ミサトの顔が映る。


 所々に汚れのついた迷彩服を着た彼女の表情は、
 私の知らないものだった。



 「歩ける?」



 何も答えたくなかった。
 憎しみがミサトに返答する事を阻んだから。

 答えない私を、歩けないと判断したのだろう、ミサトは私を無理矢理背中に
 背負って部屋の外へと歩き始めた。



 「さあ、行くわよ‥‥‥‥うっ!危ない!!
  伏せて!!」


 「あうっ!」

 でも、部屋を出た瞬間、背負われた私は床に放り出された。
 そして、耳をつく銃声。


 怖くなって逃げようとしたけど、私は歩けなかった。

 自分の汚い臭いが染み付いた床の上で、のろのろ藻掻く事しか出来ない。

 床に這いつくばっている自分の姿を連想して、私は数日ぶりに
 自分が惨めだと思う事ができた。





 「アスカ、もう終わったわよ。」

 「‥‥う‥うごけない‥‥」

 必死に首だけを起こすと、ミサトが私の目の前にしゃがみ込んでいた。

 肩で息を切らせながら、作り笑いなのか何なのかわからない微笑を
 浮かべている。


 「本当に歩けないのね。でも、私が背負っていくから心配しないで。」


 拒もうかどうしようか。

 家に帰っても、何も信じられるものなんて無い。
 シンジに会っても、もう、私は彼を信じられないだろう。
 あれだけ約束を交わしていたのに私を陰で裏切っていた彼。
 それ以上に、自分の気持ちに自信がない。

 ミサトについては‥‥言うまでもない。

 だったら、ここで薬漬けになったまま、消えて行くほうがいいかもしれない。



 でも、私に迷う権利は与えられない。

 「さあ、行くわよ。みんなの所に帰りましょ」

 ミサトが、私を背中に再び背負い、歩き始めたようとしている。



 振り解こうかとも思ったけど、やっぱり体が動かなかった。

 だから、私は口に出して拒絶した。



 「イヤ‥‥わたし‥しにたい」

 それに対するミサトの反応は強烈だった。

 背中に背負われていた私は地面に叩き付けられ、一瞬私の息が止まった。



 ばちん

 「アスカ!!!!」

 そして、ミサトは私を平手で打った。

 生まれてこのかた、こんなに力一杯人に叩かれた事は無いくらいに。

 ただ一度、シンジに首を絞められた時を除けば、誰にも手を出された事のない
 私にとって、それは強烈な体験だった。



 「何言ってるのよ!」

 「あんた、自分が何言ってるのかわかってるの!?」

 「死にたい!?」

 「どれだけの人があんたを心配して、あんたを待って、あんたの為に悩んでいるか
  考えた事ないの!?」


 叩かれた事ではっきりした私の意識に、ミサトの叫び声が次々に突き刺さる。


 それらは、私の中にあるモノと急速に反応を起こし、火をつけた。

 ぐらぐらする頭で、必死に『思い』を言葉という記号に翻訳し、
 躊躇わずに口から出した。

 ミサトが激怒するであろう事も気にしないで。



 「なによ‥‥継母とか言って私とシンジをいつも盗聴してた癖に
  今更なにをいうのよ」

 「どうせここに来たのも仕事の為でしょ?
  あんたは、いつも自分の事しか考えてないもん」


 ばちん!

 さっきと反対の頬に、強い痛みと熱感を感じた。

 叩かれたショックで情けない音を立て続ける私の鼓膜を、ミサトの
 怒鳴り声がさらに激しく振動させる。




 「うるさいわね!!!」

 絶叫とともに、ぐいと胸ぐらを掴まれる。
 ミサトの顔が私の視界いっぱいに広がった。

 目を見開き、唾を飛ばしながら彼女が私に迫る。
 心も、体も、両方とも。


 いつしか感情の波間に揺れる自分に、私は気がついた。




 「だからって、あんたが死んでいいわけないでしょ!!」

 彼女の涙が飛んで、私の頬を伝って流れ落ちた。
 ミサトは顔を歪ませて、私の体を何度も大きく揺すりながら怒鳴り続けている。

 怒濤のように押し寄せる彼女のパトスに、私は黙り込むしかなかった。



 「私の事が嫌いなんでしょ?復讐したいんでしょ?ええ、いいわよ、
  生き残ったら好きにするがいいわ。だけどね。」


 「あなたが死んだら、どれだけの人が悲しむと思ってるの?
  あなたが死んだら、シンジ君はどうなるの?洞木さんはどんな顔するの?」


 「なんで自分の事しか考えようとしないのよ!あなた一人の命じゃないのよ!
  どれだけ沢山の人があなたの事を考えているのか考えて!」


 「自分勝手に死ぬなら死ぬでいいわ、私は止めない。
  でも今はね、私はあんたをみんなの所に返すまでは、絶対にあなたを
  死なせない!死なせるものですか!」

 「死ぬんなら、みんなに本当に見捨てられてからにしなさい!!」



 ミサトは一息でそこまで喋ると、大きく息を吸い込んで、大きく吐いた。

 ミサトの、生きろという言葉が、私には気持ちいいのか悪いのかわからない。




 複雑。

 でも、私は思っている事をただ口にする事にした。

 思い知らされた私の事実をミサトにぶつけた。

 長い会話になるだろう。

 わかっていた。




--------------------------------------------------------------------------







 「‥‥でも、私なんて、勝手だもん。
  私はいつも自分の事しか考えていなかったもん。
  ダメよ!そんな私なんて要らないわよ!」


 幸運の神の気紛れか、薄暗い通路で口論を続ける私達を
 見咎める者は一人も来ない。


 私はさらに続けた。


 「みんなの為に?そんなの、本当の私じゃない!
  私はいつも自分の事しか考えないのよ!
  ‥‥それは、私に償いを求める事しか知らないあんたについても
  言えることだけどね。」


 「こんなの、生きている価値がない。こんな自分に生きる意味なんて無い!

  私はシンジを愛していなかった。
  愛していたのは、シンジの全てじゃない、私に優しい時のシンジだけだった!
  私を抱いてくれる時のシンジだけだった!

  シンジの嫌な所からは、わざと目を背けていた!
  それで真実の愛を口にしながら、いつも自分の快楽を‥‥
  安らぎを守るために藻掻いていたの!」


 「ヒカリが心配してくれているのも無視して、自分の快楽を守ろうとする女なのよ。
  そして‥‥今もこうして命がけで迎えに来たあんたを私は憎んでいる、
  憎むことをやめないでいるような女なのよ。

  お腹の赤ちゃんを殺そうとする私なの。
  私の継母と同じ、自分が要らないからって子供を殺すようなエゴの塊なのよ!」


 「私が一番なりたくなかった、自分勝手な大人なのよ、私は!
  人を思いやる気持ちも愛する事もできないのよ、全て上辺だけなのよ。
  本当に人を好きになった事がない、他人を傷つける事しか知らないのよ!
  だったら、ここで薬に溺れて消えてしまったほうがいい!!」




 「違う!!それは違う!!」

 ばちん。


 また、ミサトが私に手を出した。


 「そんなの違う!そんなの、絶対に違う!!」



 「私も同じよ!ううん、シンジ君だって、加持だってみんな同じなのよ!
  だったらどうだっていうの?生きる価値が無いの?死んだほうがいいの?
  違うわ!!それだったら、みんな死んでしまったほうがいいって事じゃない!
  冗談じゃないわよ!!

  誰だって、自分勝手な自分をどうしても捨てられない‥‥自分というものを
  捨てきれない。だけどそれがどうしたっていうのよ!

  それが人間よ!不完全でも、それが私の知っている人間なのよ!
  それでも生きていく、他人を理解しきれない・愛しきれない中でも
  必死に自分で自分の道を選んで生きる、それが人間じゃない!

  あなたは間違いを犯したかもしれない。けれど、それはあなたが
  自分で考えて自分で決めた事なのよ、あなた自身が選んだ道なのよ。
  沢山の不完全な可能性の中から、ひとつの選択をする‥‥
  シンジ君にも昔言ったけど、それは価値のある事なのよ。

  あなた自身の事なのよ。
  今、あなたが悔やんでいるのなら、死にも快楽にも逃げないで、
  自分の過ちを償えばいいじゃない、正せばいいじゃない!
  そうやって、人は一歩一歩進んでいくものじゃないの?」




 「‥‥‥‥何よ‥‥ミサトに‥あんたなんかに何がわかるのよ!!」



 「だからってどうなのよ!
  あんた、このまま死ぬっていうの?」

 「みんなを置いて死んでいくっていうの?
  それこそ人間じゃないわよ!!それこそ自分勝手よ!
  それで、どれだけ沢山の人が悲しむと思ってるの?
  シンジ君は、あなたを失ったらどうなるのよ!!」


 「間違いがあったっていいじゃない!!
  あなたが正しいと思ってやった事なら仕方ないじゃない!
  人を傷つける事しかできない、いつも本当は自分の事しか考えない
  あなたかもしれないけど、それに気づいたならそれで価値のある事じゃない!

  人は、正しいと思うことを見いだしたとしても、いつも不完全よ。
  これが一番だと思っていても後で間違いに気づき、後悔する。
  私も、そしてきっとあなたやシンジ君もその繰り返しなのかもしれない。

  やっと幸せになったとしても、すぐに幻滅して後悔する‥‥自分の真実を
  打ち壊され、今のあなたのように生きる事が辛くなる‥‥私もそうだった。

  だけど私は、そのたびに迷いながらも悩みながらも前に進んだのよ。

  今だって、本当にアスカにこうしているのが正しいなんて自信ない。
  でも、今アスカを守るのが今の私の全てなのよ!
  たとえ後で後悔するとしても、それが自分なのよ!
  自分で選んだ事なのよ、自分が信じる事なのよ!」


 「うっ‥‥ううぅぅぅ‥‥」

 ミサトの前では初めて見せる涙。
 何故泣いちゃうんだろう。


 「アスカ、生きるのよ。
  どれだけ今が辛くても生きなさい。
  死んではダメよ、決して死んじゃダメよ。

  あなたが何かを感じたのなら、何かを選んだのなら、変わりなさい。変えなさい。
  サードインパクトを境に、あなたはシンジ君には素直になれた、
  変わる事ができた、その事を忘れないで。」



 私が泣いたためか、目の前の大人の口調が少し柔らかさを帯びていた。

 私は頬がベトベトになっていくのを自覚しながら、少し穏やかな気持ちで
 彼女の言葉に耳を傾けた。



 「ほら、そんなに泣かないで。
  あなたには、泣き顔や怒った顔よりも、笑顔のほうが似合うわよ。」


 しゃくりあげる私の頭を、ミサトが撫でる。ううん、撫でてくれた。


 何かが‥‥よくは判らないけど、私の中の何かが、
 変わり始めているような気がした。




 「いいわね‥‥」

 「うん。」

 「じゃあ、みんなの所に帰ろう。
  走れる?」


 「‥‥うん。」



 私の手を引っ張ってミサトが走り始めた。

 最初のうちは足がもつれて仕方がなかったけど、引っ張られるうちに
 自然に自分の足が動くようになった。


 薬の禁断症状なのか、悪寒を感じ始めていた私には
 そのミサトの手の温かさが心地良かった。

 まだ、その事を認めまいとする気持ちもあったけど、確かな事実だった。



----------------------------------------------------------------------------







 「こっちよ、遅れないで!」

 「うん」

 ハアハアと息が上がる。


 だけど、ミサトの手を離すまいと必死になって私は走り続ける。

 もし、私がこの手を離したとしても、ミサトはきっと立ち止まってくれるだろう。

 頭ではそう解っていても、何故か決してその手を離してはいけないような気がした。



 「もうすぐよ、あの階段をあがれば‥」

 ミサトがそう言いかけた時だった。




 「何者だ!!」




 ミサト以外の何者かの声に続いて、流れる私の周囲の景色が不意に止まった。

 勢い余った私は、急に立ち止まったミサトの背中に思い切りぶつかって尻餅をつく。

 続く銃声、ミサトの悲鳴。



 「ミサト!?」

 「うっ‥‥でも‥‥!!!!」


 私には何も答えず、ミサトが手にした銃を連射した。

 敵の断末魔が響いて銃声が止まった後、ガチャリという耳慣れぬ音がした。



 私は伏せていた頭を起こし、見た。

 音の原因は、ミサトが手にしていた銃を落としたものだった。




 「‥‥うっ‥‥ここまで‥‥みたいね‥」

 「あの時アスカが受けた痛みは、こんなものじゃなかったんでしょ?
  我慢できないはずがないわ。」

 「‥‥大丈夫、加持達の所まで一本道よ。心配しないで。」


 ミサトが無理をしているのが痛いほどわかった。

 両手で腹部を押さえて、冷や汗を流すミサト。

 それでも口は微笑みを崩さず、目は私を静かに見据えたまま、
 なおも彼女は立ち上がろうとした。



 「ミサト‥‥」

 私は、義母の体を支えようと思って体を掴んだ。




 「あうっ!!」

 痛みに耐えかねてか、ミサトが濁った大声をあげる。


 自分の胸が熱くなるのを感じた。
 ミサトの前なのに、シンジに心を許した時と同じくらいに。
 何故か胸が熱かった。




 「ミサト‥‥ミサト‥」

 「アスカ、いきなさい。一人でも、歩けるでしょ?」


 「‥‥イヤ‥‥」


 ずっと忘れていた想いが甦るようだった。

 ううん、こんなの生まれて初めてかもしれない。

 いったい何なんだろう。

 それは、生まれて初めてミサトに対して持つ感情。

 だけど、もう二度と同じ気持ちにはなれないかもしれない。

 ミサトが死に瀕していると、理性が訴えていた。



 きっと、もう役にも立たないと知りつつも、私は足下に落ちていた銃を拾って
 ミサトの足ポケットに押し込む。


 「ありがとう‥‥この銃があれば、私は大丈夫だから。」


 ミサトの体に触ったとき、私の両手にも赤いものがいっぱいついた。

 血は、とても暖かかった。



 「さあ、いきなさい、アスカ。」

 「あの階段を登ってすぐ右に曲がれば、そこに加持達が待っているから。」


 「‥‥イヤ‥‥」


 「ぐずぐずしないで!時間が無いわ。私には構わずに走りなさい!」

 突然、渋る私の前でミサトが立ち上がり、傷口を押さえていた血塗れの手を
 私の頬に充てて叫んだ。


 「あなたには、まだ待っている人がいるでしょ!!
  まだ、あなたは死ねないでしょ!ぐずぐずしないで!」



 そう叫んだミサトの両手には、力が籠もっていた。

 ミサトが一呼吸するたびに彼女の腹部から血が溢れる。

 でも、私には、どうする事も出来なかった。


 「‥‥‥いきなさい、アス‥カ‥‥」

 「‥‥にげないために、いまはにげなさい‥‥」



 「!?‥‥‥ミサト!!」


 涙の止まらない私の目の前で突然、私の頬を押さえていた両手から
 フッと力が抜けた。

 ミサトの姿が視界から消えた。


 どさり。


 少し遅れて聴覚が視界に追いついた。

 音がした方向に、ぎこちなく首を向ける。



 「!?」

 「ミサト!?」

 「ミサト!!!!!」


 そこには、動かなくなった義母の姿があった。


 暖かなミサトの体を抱きながら、私はミサトの為に声をあげて泣いた。



-----------------------------------------------------------------------------


 「加持さん、もう時間が無いんです!
  限界です!」

 「笠原か!時計は!?」

 「1650です!
  既に葛城さんの指定した時間から40分も経っています!」

 「こちらの兵力は?」

 「既に、400人以下まで減少しています!このままでは戦線を
  維持する事すらできません!どうか、ご決断を!」


 “‥‥酷な注文だな‥‥”

 「わかった。通信機をよこせ。撤退命令を出す。」

 「はっ!」



 ピッ

 『作戦は完全に失敗した。
  遺憾ながら、これより撤退を開始する!!第二、第十三小隊を前線に
  投入し敵を怯ませ、その隙に兵を退く!いいな!無駄死にはするなよ!』




 「どうも、ありがとうございました。ご心中、察するにあまりあるものが‥」
 「すまんが笠原君」

 「は?」


 「暫く、その、一人にしてくれないか?
  戦闘中に不謹慎だが、煙草が吸いたい。ちょっと、見逃してくれ。」


 「はっ!」






 “ミサト‥‥アスカ‥
  ‥‥すまん‥‥”






 ネルフ保安特課の部隊がゼーレ施設に侵入して約8時間後の、
 現地時間17時32分。

 700名近い死者・行方不明者を出してネルフ部隊はペルー国境へと撤退した。

 セカンドチルドレンの救出は失敗に終わり、総責任者葛城ミサトを失うという、
 それは文字通りの惨敗であった。





                          →to be continued








戻る   抜ける   進む