生きててよかった 第2部 「pitiable passion」
Episode-07 【pseudo-adults/オトナ】








 ゴールデンウィーク明けの5月6日、その早朝の出来事である。

 第二新東京市のオフィス街にそびえ立つ、ネルフ本部ビル。
 その最上階の大会議室に、深刻な空気が漂う。

 急遽この場に集まめられたのは、部長クラス以上の幹部と
 情報部の課長達であった。
 議長を務めるべき人物の到着を待って、彼らは先程から
 待機しているのである。



 「それにしても、時田司令、遅いな。」

 「旧東京県警の責任者から、説明受けてるんですって。」

 「お役所仕事って奴ですか。そんなの、ウチの所でも把握してるのに。」

 「決して無能な人じゃないとは思うけど、やっぱり官僚あがりの限界かしらね。」

 張りつめた緊張の中で不逞にもボソボソと小声で話し合っているのは、
 机の上に両肘をついているミサトと、今回の事件の対応に追われて
 寝不足顔の青葉、その両名であった。

 なかなか会議が始まらない事に対する不満を紛らわすために、
 なおも彼らは私語を続ける。


 「ねぇ青葉君、リツコを拉致したのは、どういう奴等だと思う?」

 「彼女の能力が目当てなのは、まず間違いないでしょう。
  テロ国家か、国際犯罪組織、或いは‥‥」

 「ゼーレ、か。」

 「は、はい‥‥」

 ミサトの言葉に、青葉の顔が僅かに翳った。
 ゼーレという存在は、彼にとって常に仕事の目標となるものであり、
 それが捗らない以上、即ち悩みの種であった。

 諜報一課がゼーレ捕捉の最前線という位置づけがなされているにも関わらず、
 いっこうに成果の上がらぬ部下の苦悩に、ミサトは同情を禁じ得ない。

 と同時に、青葉ほどの優秀な人材を充てながら、何ら得る所がない事に対して
 苛立ちも覚えずにはいられないのである。


 「やっぱり、ゼーレ絡みの決定的な手がかりは得られてないの?」

 「はい‥‥少なくとも、ウチの方面からは、あまり。」

 「そう‥‥。」

 「でも赤木さん、これで良かったのかもしれませんね。
  予定日の直前でしたから、少なくともこれで‥。」

 「青葉君、いくら私語とはいえ、ここはそういう事を言うところじゃないでしょ?」

 「は、す、すいません。
  以後、気を付けます。それより‥‥」


 「何?」

 「あの二人、元気にしてますか?」

 「あの二人、ねぇ‥‥‥元気、には違いないんだけど‥。」

 ミサトは諜報4課からの報告書を思い出して、溜息をついた。


 「なんか、全然元気ないって顔してますけど。」

 「うん、シンジ君はいいんだけど、アスカがね‥‥」

 「アスカが、どうかしたん‥」ピリリリリ
 「あ、電話みたいなんで、ちょっと失礼‥‥」

 携帯電話を手にして、急いで青葉が退出する。


 30秒後、戻ってきた青葉の顔が微妙にひきつっているのを見て、
 ミサトは何かあった事を確信した。

 「ねえ、今度は何?」

 「‥‥ハッキングです。第二データバンクのチルドレン監視エリアを、
  現在レベルAにて防衛中。侵入者は、目下不明。
  ということで、後、お願いします。」

 「わかったわ。行ってらっしゃい」


 退出する青葉を見送りながら、ミサトは一人、思う。


 まさかとは思うが。

 何かが起ころうとしているのではないか。
 リツコの拉致や、執拗なハッキング、ネルフのみならず、各省庁の予算カット‥。
 何かが、再び起ころうとしているのではないか。



 「私はあの子達の母親だっていうのに‥。」
 「最近は、電話すらしていない‥」

 諜報四課の盗聴から得られる子供達の近況が、不思議と思い出された。


 「今のうちにアスカを叱っておかないと。」

 これから仕事が忙しくなる事を予感したミサトは、母親としての自分が
 何をなすべきなのかを思案し始めた。



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 “急がないと‥”


 午前の講義を終えた洞木ヒカリは、半ば強引に学校の友人達に別れを告げ、
 大急ぎでカフェテラスに向かう。


 “今日は月曜日だから、お昼はトウジと一緒。”

 毎週の約束が、脳裏をよぎる。

 待ち合わせの場所にいつも使っている自販機コーナーに到着すると、
 案の定、少し退屈そうな顔をした恋人か彼女を待っていた。


 「遅かったのぉ、何しとったん?」

 「あ、ゴメンね。友達振り切るの大変だったから。」

 「そうか、いつも悪いなぁ、無理ばっかさせてもうて。」


 「いいのよ、私が言い出したんだから。」

 昼食をトレーに載せて、陽の当たる窓際の二人掛けの席に。

 シンジ達に比べてどこか恋人らしくない雰囲気が漂う中、
 向かい合っての昼食が始まる。

 皿の上のサンドイッチに手を伸ばしながら、ヒカリは
 “食べながらでいいけど、ちょっと、聞いていい?”と
 切り出した。

 「何や?」

 「確か、トウジって、金曜の4コマの木下先生の法学も取ってるよね?」

 「きもひはのほうがく?ああ、ほっほるへど。」

 「ほら、食べながら喋らない!お行儀悪い!」

 ツナサンドをくわえたまま返答するトウジを、ヒカリが叱る。
 トウジは大急ぎで食べていたものを飲み込んで、
 苦しそうな表情をしながら急いで言い直した。

 「あ、ああ、すまんすまん。
  金曜の法学なら、とっとるで。
  それより、なんで今更そんな事を?」

 「確か、あれってアスカも受講してたと思うんだけど、
  あの娘、ちゃんと講義受けてる?」

 「え?ああ。そういえば、最初の頃は見かけたような‥
  そやけど、ゴールデンウィーク過ぎた辺りから、わいに
  ノート頼んだっきりでめっきり来んくなったぞ。」

 「って事は、やっぱり最近来ていないんだ‥‥」

 「やっぱり?どういう事や?」


 「あのね、アスカ、月曜の1コマの英語とか、最近ずっと来てないのよ、
  必須単位なのに‥」

 「な、なんやて!?」

 ヒカリの表情と言葉に、トウジは驚いた。

 語学の必須単位にとって、出席がいかに大切なものであるかは、
 工学部のトウジもよく知るところである。それに出ていないとあっては‥
 いかに能力のあるアスカでも、留年は免れない。

 彼は僅かに身を乗り出して、ヒカリの言葉に耳を傾け始めた。

 「寝坊か何かだと思ってケータイかけてもいつも電話が通じないし、
  家のほうにかけても留守だし‥。」

 「そら、むっちゃヤバいんと違うか?」

 「だから、金曜にアスカに会ってるか確認したの。
  ‥‥一体、どうしちゃったんだろ。」


 「なあ、ヒカリ?」

 「なに?」

 「今日でも、あいつん家に行ってみたらどうや?」

 「う、うん。そうね。」


 「わいも、シンジに電話して聞いとくさかい、な。」

 「え?ホント?そっか、碇君なら、何か知ってるかもしれないわね。」

 ホッとしたヒカリの顔を見て、トウジは微かに頷いた。

 二人は、ようやくいつもの明るさを取り戻し、
 短い昼食の時間を楽しみはじめた。


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 「ただいま〜!」
 「おかえりなさい!」

 今日も5時ジャスト。
 道草しないで帰ってきたわね。


 靴を脱いで玄関をあがるシンジに、私は今日も質問する。

 「ねえ、シャワーにする〜?御飯にする〜?」


 「え?また準備しててくれたの?僕が作るって言ってるのに‥」
 「ううん、こういうのって、やっぱり女のほうが作るものでしょ?」

 「は、はあ‥‥」


 「ねえ、それでどっちにするの?」

 「じゃあ、御飯。」

 “はぁーい”って答えた私は、さっそくお鍋をに火をつけ、食器棚から
 茶碗や皿を取り出した。


 う〜ん、自分でも、これって相当頭が悪いと思うわ。
 だって、まるっきりおままごとだもんね。

 さしずめ、私が“新妻”で、シンジが“新郎”。
 せっかく同棲生活してるんだし、どうせ将来は結婚するんだからって事で、
 家の中で二人きりの時は、ベタベタしまくり。

 はじめは照れていたシンジだけど、最近はちょっと嬉しそうに思えるのは、
 私の思い込みかな?


 「はい、今日は、ブリが安かったから、てり焼きにしてみたの。」

 「へぇ〜、また魚なんだ。アスカ、最近やたらと魚買ってくるね。」

 「だって、この街で売ってる魚って、どれもすんごいおいしいんだもん。
  肉料理派だったけど、ちょっと考え変わっちゃった。はい、これ。」

 こんがりとに焼き上がった魚の切り身を、御飯やお味噌汁と一緒にテーブルへ。

 三日連続の魚料理の中では、いちばんいい出来だと思う。
 ちゃんと、喜んで貰えるかな‥。


 「じゃ、いただきます。」
 「私も食べようっと。いただきま〜す!」

 シンジとほとんど同時に、私も魚に箸をつけた。


 “げっ!また、失敗‥‥”

 「き、昨日のトビウオのソテーよりは、ず、ずっとおいしいよ。」
 「そ、そう、あ、ははは‥」

 シンジの口の端が、少しひきつってる。
 うーん、まだまだ修行が足りないみたいね‥。


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 シンジの暮らすワンルームマンションから僅か数十メートルの距離に
 その小さな町工場が立ったのは、ごく最近の事であった。

 “矢野ケミカル”という看板の掲げられた建物の実態が、
 特務機関ネルフの監視所であるという事実を知る者は、この街にはいない。

 まだ冷えこむ晩春の夜、トタンで覆われただけの汚い室内に流れる男と女の声。
 卓上のスピーカーから流れてきているそれを、今夜も4人の男達が
 DVDに記録し続けていた。


 『ねえ、明日で帰らないの?』
 『ん?う〜ん‥帰ってもなぁ‥‥』

 『先週もそうだったし‥‥金曜と月曜の授業、それから火曜の授業‥』
 『わ、わかってるけど、一応ノートとかは友達に任せてあるから。』

 『だけど‥』
 『大丈夫よ。ね、だから、明日も一緒にいていいでしょ?』


 「明日以降もアスカちゃん、こっちにいるみたいですねぇ。」

 「ああ、困った娘だ。葛城さん、これを聞いてどう思うんだろう‥」

 「それに、相変わらず、あの人を憎んでいるみたいだし‥‥
  なかなか思うようにいかないみたいだな。」

 4人の監視員のうち、2人はシンジの監視員、残りの2人はアスカの監視員である。
 普段は別々に行動するはずの彼らだが、最近はこうして金沢市内で
 行動を共にする事が、とみに増えていた。


 「噂では、インパクト前のこの二人は、すごく仲が悪かったらしい。
  で、その不仲に葛城さんが一枚噛んでいたっていうのを聞いたことがある。
  葛城さんを憎んでいるのはそのためだってな。」

 「噂は噂だ。俺は知ってるぜ。アスカって娘、葛城さんに
  “死んでも何でも必ず敵を倒せ”って命令されたそうだ。
  結局それが原因で、サードインパクトの直前に苦しみながら
  殺されたとか‥‥」

 「まあ、何が事実であっても、葛城さん、辛いだろうな‥。」




 『ねえ、シンジ』
 『何?』

 『こんな事ばっかりしてたら、私達、ダメになっちゃうよ。』
 『なっちゃえばいいよ。』


 再び男達が沈黙し、スピーカーからの声だけが響く。

 盗聴器の向こう側が、次第にそれらしい雰囲気に変わっていく事に気づいて、
 男達は揃って嫌な顔をした。


 「また始まったのか?誰も見ていないと思って‥勘弁してくれよな。」

 「昼間と夜のギャップが、だんだん広がってますね。」

 「ああ‥‥今時珍しいくらい、いい子達だとは思うんだが、さすがに‥」



 『こらっ!何すんのよ!イヤらしい!』
 『うっ‥‥だって‥』



 「なあ、それより、夜食にしようぜ。俺、腹減った。」
 「それもそうっすね。」
 「夜はまだまだ長い。」
 「確か、葛城さんからの差し入れが残っていたはずだ。」

 誰かの提案に、残りの者達も賛成する。

 部屋の隅に転がっていた段ボールからカップ麺を4つ取りだして、
 お湯を入れて待つこと3分、彼らのささやかな夜食が始まった。


 ヌードルを啜るズルズルという音が、甘いカップルの囁きをBGMに
 室内に響きわたる。

 男達にとって楽しからぬ春の夜は、まだまだ続く。

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 紅茶のカップを手に、シンジがアスカを揺り起こす。

 “もう、水曜日だよ”と言うシンジに対して、目を醒ましたばかりの
 アスカは“帰りたくない”と今日も首を振った。

 彼女がここに来たのは先週の木曜日の夕方で、今朝が水曜日‥‥
 これでまる一週間の滞在になる。

“自分はちゃんと大学に行っているから何も心配する必要はないが、
 金沢に滞在し続けるアスカはそうもいかない。”
 自分の事で恋人の学業に支障が出つつある事を、シンジは苦々しく思っていた。


 「‥‥はい、紅茶。ゆっくり飲むんだよ。」
 「ありがと。」


 「今朝もアスカ、寝言言ってたよ。」
 「今度は何?またいつもみたいに、“死ぬのはイヤ”?」


 「ううん、僕の名前を呼びながら、怖いとか何とか‥後はごにょごにょ
  言っててよく聞き取れなかった。」

 「そっか‥‥」

 暖かい紅茶を飲み終わり、大きく溜息をついた彼女は、
 「心配しないで」と応え、シンジの頬を軽く撫でた。

 「それより、勉強しないといくらアスカでも‥」
 「そっちは全然大丈夫。これは、私が自分の意志で決めている事なのよ。
  どうせ今年は教養部なんだから、絶対に留年とかはしないって。」

 「‥‥。」
 「私が13歳の時にドイツで大学出ているって事、忘れたわけじゃないでしょ?」

 「う、うん‥‥」

 空になったティーカップを受け取りながら、浮かぬ顔をするシンジ。


 「この私が、勉強とかテストで悪い点取ると思う?」

 「う、うん。確かに、アスカは要領がいいし、頭もいいし‥」

 「ならいいわよね。あんたは何にも心配しなくてもいいって!」


 アスカ自身、そろそろ第二新東京に帰らなければならないという
 自覚はあるのだが。
 だが、口を割って出てくるのは、根拠があるのか無いのかわからないような、
 自信の言葉ばかりであった。

 まだ不安そうな顔をするシンジの頬をもう一撫でして、
 彼女は洗面所へとまっすぐに歩いていった。





                          →to be continued








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