生きててよかった 第1部 「生きててよかった」
Episode-03 【慰めのない世界】
「アスカ、‥‥どこ行ったんだろ」
どうしてアスカに会いたいんだろう‥‥ミサトさんでも、綾波でもなく‥。
話そうにも、どうせ何も話せないとは思う。
アスカは‥最近、すごく元気ないから。
けど‥‥。
「でも、会ってどうするんだ? 綾波の話でもするのか?」
零号機の爆発によって破壊し尽くされた第三新東京市、
その爆心地にできた湖の湖岸に僕は立っている。
かれこれ10分はこうしているだろうか。
不規則でもの悲しい波の音が、ヒグラシの声に混じって聞こえてくる。
沈みゆく大きな夕陽。
黄昏色に染まる湖の畔。
どれも悲しい感じがして、好きじゃない。
「トウジもケンスケも、みんな家を失ってどこかに行ってしまった。
友達は‥‥友達と呼べる人は、いなくなってしまった。‥‥‥誰も‥」
「綾波には会えない。その勇気がない。
どんな顔をしたらいいのか、わからない。」
「アスカ‥」
「ミサトさん‥‥」
「母さん‥‥」
考えても、答えはどこからも返ってこない。
家を出たきり戻ってこないアスカ、今頃、いったいどうしてるのかな?
ミサトさんも、部屋から篭ったまま相手にしてくれない。
一生懸命パソコンをいじっているみたいだけど、僕には何も教えてくれないんだ。
母さんは‥‥本当の母さんは‥‥あそこに‥いるのかな?
それと、綾波‥綾波は‥。
“もう、帰ろうかな”
そう思ったときだった。
鼻歌が聞こえてきたのは。
第九のメロディが、湖のほうから流れてきたんだ。
“‥‥え?”
少年だ。僕と同じくらいの歳かな、
湖の中に顔を出す石像、その上で誰かが鼻歌を歌っている。
「歌はいいねぇ」
「え?」
「歌は心を潤してくれる。リリンが生み出した文化の極みだよ」
紅色の夕陽をバックに少年が振り向いた。
ああ、すごい美男子だ。
少し長めの髪に、僕と同じ感じの制服姿。
その肌はとても白く、目は‥その目は‥‥不思議なことに、
綾波のそれと同じく、赤かった‥。
「そう思わないか?碇シンジ君?」
「僕の名を?」
「知らない者はないさ。
失礼だが、君は自分の立場をもっと知ったほうがいいと思うよ」
この人は、僕を知っているんだ。
僕は、有名なの?
沢山の人が僕を知ってるって?
‥そんな実感、無いけど。
「あの‥‥君は?」
「僕はカヲル。渚カヲル。君と同じ仕組まれた子供、フィフスチルドレンさ。」
「フィフスチルドレン?君が?‥‥あの‥渚君?」
「カヲルでいいよ、碇君」
「僕も、あの、シンジでいいよ」
「ハハッ」
笑顔。
カヲル君の笑顔。
その時の僕には、その屈託のない笑顔があまりに眩しかったんだ。
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次の日、僕はカヲル君とお風呂に入った。
恥ずかしかったけど、悪い気はしなかった。
その夜は誘われるまま、カヲル君の家に泊めて貰った。
どれも初めての経験だ。
本当に沢山の事を話したと思う。
自分のことを喋る事も、自分を人に知って貰う事も、少し恐かったけど、
どこか気持ち良くて、どこかほっとした気分だった。
「他人を知る事がなければ、裏切られる事も、傷つけ合う事もない、
でも寂しさを忘れる事もできない。ガラスのように繊細だね、特に君の心は。」
「僕が?」
「そう、好意に値するよ」
「コウイ?」
「好きって事さ」
「人間が嫌いなのかい?」
「べつに‥‥ただ、どうでも良かったんだと思う。」
「僕は、君に会うために生まれてきたのかもしれない。」
カヲル君は、全てを優しく受けとめてくれた。
それはもう、たまらなく心地良かった。
それはもう、どうしようもなく嬉しいことだった。
だから、何もかもしゃべれたんだと思う。
渚カヲル、カヲル君。
これが、本当の友達っていうものなのかな‥‥。
* * *
何であの時たくさん話したのかを、その翌日、改めて家で考えた。
だってそうだろ?
前の日まで知らない人だったカヲル君に。
いくら優しかったからって、変だろ?
やっぱり、寂しかったからかな。
アスカも、ミサトさんも、綾波も、父さんも‥‥誰も、
僕をいっぱい知ろうとしたり、僕に優しくしようとしてくれなかったからかな。
うん、そういう事かもしれない。
でも、優しいカヲル君がいてくれるなら、僕は、それでも大丈夫かもしれない‥。
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それから一週間後、シンジは試練に遭遇した。
カヲルは、使徒だったのだ。
「さあ、僕を消してくれ」
その瞬間、確かに誰もシンジに強要はしなかった。
心を許せた唯一人の“人間”を救い、世界を滅ぼすか。
世界を守るのと引き替えに、彼を殺してしまうのか。
だが、選択を選ぶ時間はあまりに少なく、『遺言』を口にするカヲルの笑顔は、優し過ぎた。
少年は、少年を殺した。
不条理に満ちた世界を守るために、世界で唯一心を通わせることができた人を、
握りつぶしたのだ。
『カヲル君が生き残るべきだったんだ‥‥』
誰の為に、彼はそうしたのか。
何故、そうしたのか。
何が、そうさせたのか。
その答えは、シンジ自身にも、よくわからない。
落ち込み、苦悩するシンジに対して、ミサトは言い放つ。
「生きるのは、生きる意志をもった者だけよ。
彼は死を望んだ。生きる意志を放棄して、見せかけだけの希望にすがったのよ。
シンジ君は悪くないわ」
「冷たいね、ミサトさん」
ミサトの言葉は、慰めや気休めをもたらす事もなく、
ただ、偽りの保護者との心の距離を、彼に再認識させただけに過ぎない。
この時シンジは、ミサトに対して心を閉ざすことを決意する。
彼の不幸はそれだけに留まらなかった。
追い打ちをかけるように、アスカ保護の報がシンジの耳にも入ったのだ。
初めて面会を許され303病室に通された時、かつて快活だったその少女は、
ただ真っ白なシーツの中で眠り続けるばかりだった。
げっそりとやせ細った体。
消毒液と排泄物の嫌な匂い。
神経質な心電図の音。
そこには、シンジの知るアスカはもう、いなかった。
その日、シンジは少女の抜け殻を抱いたまま、涙が涸れるまで泣き続けた。
「僕は、一人だ」
支えとなりうる全てを失った少年。
彼もまた、生きる意志を急速に失っていく。
→to be continued
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