生きててよかった 第2部 「pitiable passion」
Episode-03 【I miss you./バイバイ、シンジ】
「予算削減!?冗談じゃないですよ!」
「ええ、そちらにはそちらのの都合があるでしょうけど、
こっちも世界を守る仕事やってるんですよ、
そこの所、上に何とか訴えていただけないんですか?」
“穏和な司令が怒鳴るなんて‥‥珍しいわね”
実務性だけを追求した殺風景な第一執務室にて。
来客用のやや柔らかすぎるソファに座ったまま、
ミサトは上司が電話を終えるのを辛抱強く待っていた。
秘書官が入れてくれた紅茶も、今はすっかり冷め切っている。
「‥‥わかりました、そういう事ですか。
ですが、こういう事が続けば、ネルフが充分な機能を果たせなくなる日が
来るであろう点、よくご理解いただくよう、宜しくお伝えください。」
「はい、‥‥はい。
では、失礼します。」
チン
「珍しく、熱くなってらっしゃいましたね、時田司令。」
「ああ‥‥」
ハンカチで額の汗を拭きながら、時田は憔悴しきった声で応じる。
喉が乾いていたのだろう、テーブルの上に放置されていた
ぬるい紅茶を、彼は一気に飲み干した。
「まずいな‥‥。
おっと、待たせていたんだったな、すまない。
判っているつもりだが、まあ、一応用件を聞こう。」
「ええ、ご存じの事と思います。」
僅かに苦笑しながら、ミサトはB4サイズ十数枚の書類を時田に手渡した。
表題に“諜報三課・諜報四課の人事異動に関する一考察”と書かれているのを
見た時田も、つられるように苦笑した。
「参ったな‥情報部の課はどこも困っているのは判っているんだが‥‥。」
「司令、諜報四課だけでも、何とかならないんでしょうか?」
「葛城君、今の電話、聞いただろう?」
「え、ええ‥‥。」
受話器に向かってさかんに唾を飛ばす上司の姿を思い出し、ミサトは沈黙した。
「とにかく、駄目なものは駄目だ。はっきり言って、どこの部署も手一杯なんだ。
とてもじゃないが、そっちには人員も予算も回せない。」
「やはり、どうにもなりませんか‥‥」
「ああ。戦自や国連のほうも同じらしいがね。予算と人員をカットされて
ヒイヒイ言っているから、余所にねだっても無駄、勿論内務省にねだれば
ご覧の通り無駄‥‥手詰まりさ。」
「そこを何とかして予算を引っ張ってくるのが、あなたの仕事でしょう?」
「これは手厳しい‥‥その通りだな。」
「では、書類のほう、せめて目を通して下さるとありがたいです。
失礼しました。」
「ああ、読んではおくよ、」
ぺこりと頭を下げて僅かに微笑み、執務室を辞するミサト。
有能な部下の後ろ姿を見送りながら、時田は再び苦笑を漏らした。
「頼りにならない上司だな、俺は。」
“今の葛城君といい、渉外部の加持君といい、
旧ネルフの人間は有能揃いだが‥‥。”
“いかんいかん‥。”
考えれば考えるほど不愉快になる事実を頭から追い出すために、
時田は今届いたばかりの新しい書類に目を通す事にした。
「なるほど‥‥これからはあの二人、別居するのか‥」
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久しぶりの休日、友人に会うために私は旧東京までやってきた。
行き先は、国連が管理する特殊犯専用の留置所。
国際法廷にて死刑が確定したリツコは、ここでその日が来るのをを待っている。
『面会は、いつもの時間までです。よろしくお願いします。』
「はい。」
コンコン
「リツコ、お久しぶり。」
「こんにちは、ミサト。」
ドアを開けると、いつものようにリツコが座布団に正座していた。
ありきたりな灰色の囚人服を着たリツコ。だが、柔和な表情からは彼女が
虜囚である事はとても想像できない。
今日も、机の上には半紙が、彼女の右手には筆が見える。
また、熱心に写経をしていたのだろう。
「相変わらず、色々やってるわね。」
久しぶりのリツコの独房‥‥思わず見渡してしまう。
窓に格子が入っている以外は、普通の家のプライベートルームと
さして変わらない造りの6畳間が、今の彼女の全てである。
そのスペースを、仏教関係の本や金剛般若経の写しが
びっしりと埋め尽くしている。
『牢屋』と言うにはあまりに心落ち着く空間には、
今日も微かな壇香の匂いが漂っていた。
「あなた、仕事が忙しいのではなくて?」
「まあ、確かにね。シンジ君とアスカも、いよいよ引っ越しだし。」
「こんな未来のない友人の所なんかに来ないで、
少しは休んだら?」
「ううん、私が来たいから来ているだけよ‥‥ここにいるのが、
一番落ち着くものね。
あ、これ、加持君からのおみやげ。」
「ありがとう。いただくわ。」
赤いシンプルな包装紙を受け取りながら、リツコがまた笑った。
老人を連想させる、柔らかな笑顔。
かつてのリツコが消えてしまって、別の人格が乗り移ったようだが、
この落ち着いた雰囲気を、少しづつだが私も好きになりかけている
ような気がする。
―――2年前、特別法廷で死刑を言い渡されたリツコは、またも変わった。
別に、彼女自身が人殺しをやったわけではない。
ただ、碇司令の手足となって補完計画に参画したこと‥
ネルフの技術部長であった事‥それが彼女の罪状だった。
死刑に処されるという事実は、いかなリツコと言えど、
ショックだったのだろうか。
元々生きる意志の強さを感じさせない、インパクト後のリツコであったが、
死の宣告はそれでも彼女に僅かな生への意志が残っていたことを教えてくれた。
生気の全くない静けさが彼女に訪れた。
それが死を言い渡された直後のリツコだった。
一時期のアスカほどではないにしろ、彼女の心は遠い世界を彷徨い、
なかなか私達の所には戻ってこなかった。
私や加持の言葉も、伊吹さんの必死の叫びも、リツコには殆ど届く事は無かった。
そんな彼女に立ち直るきっかけを与えたのは、意外な事に、
リツコの祖母が勧めた仏教だった。
全てを失い尽くし、生きる意志を失ったリツコは、
祖母の半ば強制的な勧めのもとに尼僧としての洗礼を受け‥‥
大方の予想を裏切って、彼女は、たちまち熱心な信者になった。
今は、月に一度程の割合でこの地を訊ねるたび、彼女が一歩一歩自分から
遠ざかっていくのを私は感じる。
静謐の世界に旅立とうとする友人を見るのは、正直少し辛い。
だけど、そういう素振りを私はあまり見せたくない。
最期の瞬間まで、私は彼女の数少ない友人の一人として
ごく平凡に振る舞いたいものだ―――
「さすが加持君。いい品よ、これ。」
「喜んで貰えてよかったわ。加持に、伝えとくわ。」
包装紙を丁寧に剥がしたリツコが手にしているのは、中国産の見事な筆だった。
筆先に目を近づけて、僅かに微笑するリツコ。
“‥‥世捨て人、か‥。”
どこか透明感のある彼女の顔に、私は微かに嫉妬を覚えた。
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シンジの旅立ちを見送るために、私も一緒に早起きして、
朝の駅までついていく事にした。
昨日は午前三時まで起きていたはずなのに、二人とも妙に目は冴えていた。
朝食中も、駅に向かうタクシーの中でも、いつもと変わらぬ会話を
交わし、いつもと変わらぬ仕草を見せようと、努力していたと思う。
楽しかった事は、思い出さないようにした。
今は、目の前にシンジがいる、それだけで満足だと自分に言い聞かせていた。
『2180新円になります。』
「どうもありがとう。」
「ありがとうございます。」
駅前でタクシーを降りた私達は、駅舎の中へと入っていった。
腕時計を見ると、針は6時きっかりを指していた。
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「一番線、一番線は‥‥」
「こっちよ。
ほら、何やってんのよ。」
「ああ、ホントだ、ごめんごめん。」
自動改札をくぐり、白馬/富山方面行きと書かれた矢印どおりに
私達は跨線橋を降りた。
さすがは日曜日の早朝‥‥いつもは混雑している第二新東京駅だけど、
人の姿は疎らにしか見あたらない。
階段を下りた先の一番線もやっぱり例外ではなく、ほとんど無人だった。
静かな灰色のプラットホームに、野鳩の間抜けな鳴き声だけが響いている。
「G.W.には、必ず帰るから、待ってて。」
突然、右隣を歩くシンジがそう呟いた。
「当ったり前でしょ‥帰ってこなかったら、きっと許さないからね‥」
ドラマみたいな威勢のいい台詞も、やっぱり勢いを失ってしまう。
これからは、一月に一回――ううん、もっと会えなくなるという悲しい事実。
頭の中から追い払おうとしても、やっぱりダメね。
どんなに普通に振る舞おうとしても、声のトーンが落ちてしまう。
あと数分‥あと数分でシンジとはお別れ。
5年間一緒に暮らしてきた人と、一番大切な人と、これでお別れ。
『‥‥今度一番線に入線しますのは、6時19分発の特急白山号、
白馬・富山経由金沢行きになります。 御乗車の方は、
白山号と書かれた黄色い札の前にて‥‥』
「もうすぐ時間だね。」
「うん。
座って待とうよ。」
小さな願いを叶えるために、私はシンジと一緒にベンチに腰掛けた。
どうせ誰も見ていないわよ、と自分に言い聞かせて、恋人の広い肩に寄りかかる。
「‥‥」
「アスカの髪、シャンプーの匂い‥」
僅かに白い息を吐きながら、シンジが呟く。
首の部分、ほんの僅かにシンジの首に触れている部分が、じんわりと暖かかった。
「プラットホームでこんな事する私って、バカかな‥‥」
「だとしたら、僕も同じだから‥‥」
「じゃあ、しばらく、このままでいい?」
「僕も、こうしていたい。」
何も考えず、電車が来るまでこうしていよう。
言葉なんて、要らない。
偶に前を通りかかる人がこっちも向いても、人目なんて気にしない。
『好きな人と一緒にいる』という事。
昨日までは当たり前だったこんな事が、今は、たまらなく貴重なものに思える。
広い肩も、ちょっと高めの声も、薄い唇も――今は私のすぐ隣にある
シンジの全てが、みんな遠くに行ってしまう。
孤独な世界から私を救ってくれた、私だけを真摯に見つめて、
私だけを愛してくれたシンジが‥行ってしまう‥‥。
:
:
:
『まもなく、一番線に、列車が入ります。危ないですから、
白線の内側まで下がってお待ち下さい。』
「来ちゃったね、リニア‥」
「シンジ‥‥」
『今度の一番線に入りますのは、白馬・富山方面、特急白山号金沢行きです。
列車、入ります、白線の内側に下がって下さい‥』
少し慌てた声のアナウンスに続いて、白色の特急列車がホームに滑り込んできた。
軋んだブレーキの音を立てて列車は止まり‥‥静かに乗降口が開く。
「じゃ、行って来るね。」
「いってらっしゃい。体、気を付けてね。」
「アスカこそ、一人暮らし、ちゃんとがんばるんだよ。僕がいなくても、
ちゃんと三食食べるんだよ。」
「うん。」
「悪い男に浮気したらダメだよ。」
「当たり前よ。シンジも。」
ジリリリリリリ
短い会話に終わりを告げるように、
発車ベルがホームに鳴りひびく。
「アスカ‥‥」
「何よ」
「ちゃんと好きだから、心配したり泣いたりしないで。」
「心配もしてないし、泣いたりもしないわ。」
言葉とは裏腹の私にシンジは短くキスを残して、
シンジは搭乗口のタラップに乗り込んでいく。
涙を堪えて歪んだ顔をした自分を想像した。
きっと、私は情けない顔をしている。
それでもいいから、今すぐ時間が止まって欲しい。
『一番線、白山号、発車します。ドアがしまります、ご注意下さい!』
「アスカ、元気でね。」
「‥‥うう‥‥‥うううっ‥‥」
だけど、みっともないとも恥ずかしいとも思わなかった。
‥‥車掌の笛の音が聞こえ、私とシンジの間にガラスの仕切りが設けられ、
ガクン、という軽い振動に続いて列車が動き始めた。
滑るように加速する、シンジを載せたリニア。
見つめ合うシンジと私の距離が、だんだん開いていき‥
‥たちまち見えなくなっていく。
あっと言う間にシンジの姿は、私の滲んだ視界から消えてしまった。
「‥‥‥‥いっちゃった‥」
小さく呟き、列車のいなくなったホームに背を向けた。
周りには、相変わらず誰もいない。
私は、ポケットからハンカチを取り出して目をゴシゴシとこすった。
熱い涙は、いつになっても止まってくれなかった。
→to be continued
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