生きててよかった 第1部 「生きててよかった」
Episode-13 【きみがほしい】








         The mind is its own place, and itself Can make
         a heav'n of hell, a hell of heav'n.

                              J.Milton, Paradise Lost


          心というものは、それ自身一つの独自の世界なのだ、
        ――地獄を天国に変え、天国を地獄に変えうるものなのだ。

                              ミルトン 『失楽園』より

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 意識が戻ったとき、僕は星空を見上げていた。
 暗闇が残した蒼さ、それと、太陽がもたらす曙色が混じりあった、
 気持ちの悪い空を。

 ただ、何も考えないまま、背中に伝わる細やかな砂の感触、
 それと波の音を感じていた‥。


 夜明けはもうすぐだ。
 星達も、やがて消えてしまうだろう。




 自分がどこにいるのかを知りたくて、僕は身を起こして辺りを見回してみた。

 目に飛び込んでくるのは、夜明け前の湖畔の光景だ。
 新芦ノ湖は、海と繋がってしまったみたいだし、
 周りの森も吹き飛んだみたいだけど‥
 愛鷹山や富士山の景色に変わりはない。

 破壊されたビルや電柱も形を残しているから、爆発の規模はそれほどでも
 ないのだろうか。

 だから、人々が戻ってきてもあんまり困らないだろうと思う‥‥。



 でも、遠くのほうに見える、巨大で半透明な『綾波』の体が、
 これまでに起こったことが嘘や悪夢ではなかった事を教えてくれる。


 それだけじゃない。
 柱のようなものが辺り一面に立っているし。
 もう一度見上げた空には、地平線から月まで延びる、赤い光条。

 どれも、あそこで見た、世界のイメージそのままだ‥‥。

 そう、あの記憶は間違っていない。
 たぶん全て本当にあった出来事なんだと思う‥。

 そして、あの時のアスカの気持ちも、僕の気持ちも。



 波の音が聞こえる‥‥。
 寄せては返す、不規則で、でもどこか暖かな響き。


 “あ”

 水面上に視界を這わせた時、制服姿の綾波が見えたような気がした。

 でも、いつだったかの白昼夢と同じく、それは一瞬で消え、
 二度と見ることは無かった。

 表情も、思い出すことができない。



 湖から目をそらし、再び世界を。

 そして、気づく。

 人がいた。
 僕が、良く知っている人が。

 ううん、今まで何も知らなかった、ほんの上辺しかわかってあげられなかった人。



 アスカ。

 アスカが、アスカだけが、戻ってきたんだね‥‥僕の側に。

 僕が好き‥だった娘と‥思う。
 ううん、ひょっとしたら、好きになりかけた沢山の女の子の一人かもしれない。

‥そんな事はないかな‥ないと思いたいけど、自分の気持ちに自信はない。
 僕は、卑怯で、臆病で、ずるい男だから。




 彼女の細い首筋を、月明かりがくっきりと照らしていた。

 アスカは‥‥アスカは‥‥僕を‥‥‥‥

 『本当に人を好きになったことないのよ!』
 『自分しかいないのよ!!』
 『哀れね』

 “僕を一人にしないで!”
 “僕を捨てないで!”

 『‥‥イヤ』



 今度は確かな手応え。
 無表情な彼女の顔が、赤く、やがて黒く染まってゆく。

 力を込めて、しっかり掴んでいく。

 すー、はー、すー、はーという恐ろしい呼吸音にも、僕は怯える事が無かった。

 でも、おしまいだ。
 殺すんだ。
 殺してしまうんだ。
 殺すしかないんだ。

 わかるもんか。
 こいつは、僕を大事にしてくれなかった、僕を裏切ったから。

 殺してしまえば、でも‥‥もう、拒まれて辛い思いをする事も無いんだ‥‥!



 その時。
 アスカが僕の顔のほうに手を伸ばしてきた。
 抵抗されると思って、さらに手の力を強くする。


 でもそれは勘違いだった。

 包帯を巻かれたその白い手は、僕の頬を――優しく――撫でたんだ。


 アスカが。

 あのアスカが。






       “一人はイヤなの、辛いの”    “誰も私のこと、見てくれないもの”

            “ずっと、ずっと一緒だったのね!ママ!”

        “だけど‥‥‥あなたとだけは、死んでもイヤ”“‥‥いくじなし”

         “ねえ、シンジ、キスしよう”  “ふぅ〜ん、冴えないわね”


                “だから見て、私を見て!”


               “なんであんたがそこにいるのよ!”

       “見もしない、助けてもくれない、抱きしめてもくれない!誰も!誰も!誰も!!”


             “一人はイヤ!一人はイヤ!一人は、イヤ!!!!”






    “――でも、ぼくはもう一度会いたいと思った。その時の気持ちは本当だと、思うから――”


                    “もういいの?”
                     “うん、”



                  “‥さよなら‥‥母さん‥”







 僕は‥‥なんて事をしようとしていたんだ。




 手の力を緩めると、大きな命の音が聞こえた。

 空になりそうだったアスカの胸に、息吹が戻るのがわかる。

 彼女が息を取り戻した瞬間、今、自分が何をしていたのか、
 それがどれだけ馬鹿で勝手な事だったのか、僕はようやく悟ることができた。


 自責の念が胸を深く突き刺さり、その痛みに耐えかねて涙を流す僕。



 あの時に思った事を、全部僕は裏切ろうとしていたんだ。

 目から溢れるものは、いつまでも止まらない。
 アスカの頬をベトベトにしていく。


 「気持ち悪い‥‥」
 この日、世界に響いた多分最初の声。



 僕は――臆病で自分勝手で弱虫な自分が、こんな自分が、憎い。



 「本当にごめん‥‥ごめん‥‥ごめん‥‥」

 貧しい語彙を繰り返しながら、アスカを――今この瞬間、この世に生きている唯一の
 他人を――僕は力の限り抱きしめた。


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 意識がはっきりと戻ったとき、私は男の膝の上に抱かれていた。


 男は激しく肩を震わせ‥‥私に謝罪を繰り返しているようだった。


 私の頬は、そいつの流した涙で、濡れていた‥‥。 







 それがシンジであると気づいた私は、思わず「離れてよ」と口にしてしていた。

 何も言わずに慌てて私から離れるシンジに一瞥もくれず、辺りの景色を見回す。


 「あ〜あ」


 私の一言に、シンジはビクッと反応し‥‥その後は恐る恐る私の表情を伺っているみたいだった。

 「なんか、だるいわねぇ。」


 邪魔だと思ったので、頭と腕に巻かれていた包帯をシュルシュルと解き、
 左目を覆っていた眼帯を外すと‥‥目は、何ともないみたいね。

 続いて、右手を開いたり閉じたり。
 ちゃんと動くし、痛みもない。



 そうやって私が体の具合を確かめている間も、
 シンジはやはり無言のまま、じっと私の一挙一動を見つめ続けている。



 「何じっと見てんのよ」


 イライラしてくるわね。
 こいつ、何にも変わってないじゃん。



 「え‥‥‥あ‥‥」

 シンジは何か言いたそうな顔をしたまま突っ立っている。
 まったく‥‥。




 「何よ、鬱陶しいわね」

 「あの、さっきは‥‥ごめん‥‥」

 私を絞め殺そうとしていた事に対する言葉だと、わかった。



 “どうしよう‥”


 許せないという気持ち。
 拒絶する事への恐れ。 


 なんて答えていいのか判らなかったから、シンジには何も言わずに
 私は目を逸らした。

 自分が現在置かれている状況を飲み込む事で、今は少しでも心を落ちつけたい。



 「赦して‥‥赦して‥‥‥」


 目に飛び込んできたのは、まっぷたつに割れた大きなファーストの顔。
 雲をかぶっている所を見ると、半端な大きさじゃないわね。

 いったいどういう事なんだろう。

 ファーストが“私の中”とか言っていた事と、関係があるのかな?



 「ごめんなさい‥」


 え?顔だけじゃない。
 手や足も見える。

 真っ白な指が赤い雲の間に飛び出ている様は、現代美術のオブジェみたいね。
 ここが現実世界だという事を忘れさせてしまうくらいの、強烈なインパクト。


 「アスカ‥アスカ‥‥」



 それにしても、凄い世界ね、ここ。
 これが、あの出来事の結果!?

 目の前の湖は、芦ノ湖よね。
 あら、海に繋がっているじゃない、これって。




 「ねぇ、赦してよ、僕の事を‥」


 「うるさいわね!!!」
 「黙って聞いていれば、『僕を赦して赦して』って!」

 しつこく繰り返される弱々しい言葉に、私はとうとうカッとなった。



 そう、私の都合なんて何にも考えずに、自分が赦される事しか
 興味ないなんて。

 私が周りを一生懸命見ていても、そんな事なんてお構いなし!
 で、私の首絞めたことをとにかく赦して貰おうとしているシンジ。


 こいつは、あの世界でいったい何が変わったっていうの!?
 何よ、なんにも変わってないじゃん!!

 相変わらず私の気持ちなんて全然お構いなしなんだから!




 「あんた、自分が何をしたか分かってるの?」

 「私を殺そうとしたのよ!!」

 「それも、二度も!!!」


 「それで、赦してくださいですぐに赦して貰えると思ってるの?」



 「ごめん‥‥ほんとにごめん‥」


 「ふざけないで!!それだけじゃないわ、私をオカズにしてたことも、
  私を揺さぶるだけ揺さぶって私から逃げ出したことも、とうてい許せないわ。」


 「みんな、あんた見たでしょ!私の心の中。
  ええ、あんな無様な女が私の正体よ。
  あんたと同じ、泣き虫の甘えん坊のろくでなしが私の正体よ。
  あんたみたいな男に見つめられる事さえ待つように成り下がった、
  その程度のクズ女よ。」


 「そ、そんなろくでなしだなんて‥」


 「だからさ、すぐにハイそうですかとあんたを赦せるほど、
  私、寛大な女じゃないって分かるでしょ?」




 「あ‥‥」




 「あんたの顔なんか、みたくもないわ。」





 「今すぐ私の前から消えて。」



 「でも、他の‥‥」
 「消えてって言ってんのよ!!!」




 「嫌だ!」



 「じゃ、これ以上ここにいるなら、あんたを刺すわよ」

 後で悔やむことになったんだけど。
 私は、完全にキレていた。


 プラグスーツの足ポケットから、戦闘用のダーツを取りだした。
 勿論、オモチャじゃない奴。

 これで心臓をひと突きにすれば、簡単にシンジを殺すこともできる。



 「ああ‥‥‥」

 明らかに狼狽えるシンジ。

 私が一歩前に出る度に、シンジは一歩下がる。


 曙色に染まる夜明けの海岸線。
 そんな美しい世界の真ん中には、心の醜い男が立っている。

 私の目の前に。


 私は、この男を、許せない。



 「さっさとどっか行ってよ」

 「‥‥‥」


 「行けって言ってるのよ!!!」






 「!!!」

 威嚇するために、シンジの足下に一本投げた。
 風を切るヒュッという音をたてて、ダーツは
 シンジの両足のちょうど真ん中の位置に突き刺さった。



 効果はてきめんだった。

 シンジは“わぁああ!!!”という泣き声をあげながら、
 湖の反対の方向へと走り去って行った。



 「さてと」

 シンジが立っていた地面に突き刺さったダーツを抜き取り――

 「これからどうしようか?」

 私は男が逃げていったのとは反対の方向に歩き出した。




 “いくじなし”

 ちらりと湖の方を見たとき、不思議な哀しさが、一瞬だけど、私を包んだ。





                          →to be continued








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