生きててよかった 第1部 「生きててよかった」
Episode-04 【運命の前日】








 湖。

 セミの声。

 廃墟。

 青い空。



 これから、また僕は病院に行くのか?



 でも、何をしに?

 あそこに行っても、アスカ、いないんだよ。





 ミサトさんも綾波も、とてもじゃないけど会う気がしない。



 ミサトさんは、恐くて残酷だから。

 それに、僕の気持ちなんて、なんにもわかってくれないから。



 綾波は‥‥綾波は‥。










 

 ボチャン・・



 僕の目の前、突然の落下音に続いて湖面に波紋が広がった。

 それはゆっくりと広がり、次第次第に消えてゆく。




 壊滅した第三新東京市。

 住んでいる人なんて、もう殆どいない。



 ああ、ケンスケやトウジに会えたらいいのに。






 あれからもう、二週間になると思う。

 毎日病院に行くけど、アスカは目を覚まさない。

 体は大分元に戻ったと思うけど‥。



 担当医の先生にアスカの事を聞いたけど、何も教えてくれなかった。

 勿論、僕には何もできない‥‥‥何もしてあげられない‥‥。





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 電源の落とされた小さな電算室に、人の声がする。

 目のいい者ならば、数人の人影が寄り添うように話し合っている姿が

 暗闇の中に見えたかもしれない。



 ネルフ本部、科学部に勤めるD級勤務者達の間では、

 こうして密かに集まって噂話をする事が、最近とみに増えていた。





 「なあ、使徒は全て倒したんだろ?」

 「ああ、その筈だ。A級勤務者が喋っているのを聞いたことがある。

  使徒はこないだの少年までらしいぜ。」

 「じゃあ、何なのよ、おかしいじゃない、こんなのって。」







 彼らの話題は専ら、何故か解除されない警戒体制についてと、

 これからの彼ら自身の行く末についてであった。



 だが、未来を予見せしめるような情報は

 彼らのような組織の末端の人間には何一つ知らされないのが世の常である。





 自分たちがタナトスへの供物とされる運命を、彼らは未だ知らない。





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 「はい、時田です。」



 『おう、吉澤だ。噂は本当だったぞ。本気でネルフと一戦交えるらしい。

  後始末のほう、お前の所の会社にも回ってくると思うぞ。』



 「やはり、そうか。事後処理は喜んでさせて貰うが‥

  し、しかしそれは間違いないのか?」



 『ああ。間違いない。総理にも確認は取った。ところで、

  お前の実家は、新小田原だったよな?』



 「そうさ。お前も学生時代、確か遊びに来たことがあっただろ?」



 『家族に電話するんだな。念のため、大阪方面に脱出するように。

 総理はかなり楽観的だが、俺もこの件、少しヤバいと思っている。』



 「ということは、N2やABC兵器の使用も?」



 『それについては間違いない。ゼーレがアメリカに協力要請したらしい。

  だから最悪何を使うか、見当もつかんよ。』





 その言葉を聞いたとき、時田シロウは受話器を握りながら、、一人大きく頷いた。

 そして、学生時代からの親友である彼がもたらしてくれた情報に、

 大いに感謝した。





 『まったく、突然の決定で、俺も大忙しさ。ここだけの話だが、

  総理とウチの長官のほうにも、ゼーレから直々に要請があったんだ。

  奴等も、まさかネルフがサードインパクトを狙っているとは

  想像してなかったらしくて、大慌てだと聞いているが。』



 「それで、戦自に叩いてくれ、という訳か。しかし、大丈夫なのか?

  あいつらにはエヴァンゲリオンとATフィールドがあるって事、忘れたか?」



 『大丈夫だ。奴さん、大慌てでエヴァ搭載の爆撃機を9機もよこしおったよ。

  万が一奴等にエヴァを動かされたら、連中に任せればいいさ。

  第一、建物の制圧が俺たちの仕事だ。あんな人形、

  屋内の兵士を相手に何ができる。』



 「なるほどな‥」



 『そういう事だ。というわけで、急いだほうがいいぞ、何にしてもな。』



 「ああ、ありがとう。お前も死ぬなよ。」



 『俺は後方で戦争ゲームやってるだけさ。死ぬのは前線の部下達だけさ。

  まったくひどい話だがな。』



 「それもそうか‥じゃ、な。」




 

 チン





 “えらい事になったもんだな”



 電話を切った後、時田の胸に不安感が重く広がった。



 特務機関ネルフ、秘密結社ゼーレ。



 不自然だったJA暴走事件の事が、彼の脳裏をよぎる。





 “どれだけ調べて全容を把握できない組織、ネルフ、ゼーレ‥”



 “米国政府よりも厄介な奴等同士の共食いか‥”



 “面倒な事にならなければいいが‥‥”





 男は、一枚のDVDをセットし、JA事件後に独自に調べていた情報を

 ディスプレイ上に一覧させた。



 「ネルフに関する資料‥と。」





 事実の収集という観点から見れば、間違いだらけのリソースに目を通す時田。



 だが、少なくとも時田の胸中に渦巻く疑惑を確信へと昇華させるには

 それは充分すぎる代物であった。





 「‥‥やはり、これは不自然だ。ネルフがサードインパクトを起こすなら、

  使徒とアダムが必要な筈だ。だが、使徒はすべて倒された今、それは

  あり得ない‥‥。資料が間違っているのか、それとも‥別の目的が

  あるのか‥‥」



 充分な時間さえ与えられれば、この時田という官僚、意外と有能である。


 最悪の事態を予見した彼は、その数分後、最も頼れる人物に電話をかけ、

 当面の対応策を上申していた。






 「時田です、万田さんを頼む。そうだ内務省長官の万田さんだ。

  至急、とりついで貰いたい。」



 「もしもし、ああ、時田です。実はですね、例の防衛省の件ですがね‥‥‥」



 「そういうわけで、第三新東京の部隊、移してもらえませんかね?」



 「え?わかりました‥その際は、責任は、私がとります。閣下には

  何もそのような事は‥。名目は、適当に用意します。」



 「は、はい。では、お願いします。」







“高くつきすぎたかな‥‥”



 自分のデータを信じての事とは言え、バクチになった事を少し悔やむ。



 額をハンカチで拭いながら、時田は失敗した後の対応について

 思考を巡らせ始めた。







 だが、彼の心配とは裏腹に、この時の上申は後に正しく報いられるのである。



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 『東棟の第二・第三区画は、本日18時より閉鎖されます。

       引き継ぎ作業は、全て16時30分までに終了して下さい』







 「ミサトさんも綾波も恐いんだ。」

 「‥‥助けて、助けてよアスカ」





 少年は吸い寄せられるかのように、朝の303病室へ。



 白くて長い廊下を歩くのも、もう毎日のことだ。



 行き場も無く、話し相手さえも失った少年が

 微かとはいえ希望を抱きうる対象がそこにあった。


 黙して語らぬ少女の抜け殻が。





 「ねえ、起きてよ」



 「ねえ」




 ベッドの中、心身を蝕まれた少女は静かに眠り続けていた。



 気怠い時の中、“それ”に対して、一方的に欲求を垂れ流し続ける少年。




 「目を覚ましてよ」

 「ねえ。」


 医療用の電子機器の発する音と、白い殺風景な景色が、彼の感覚を刺激する。

 さらに、薬品や血液、排泄物などが混じり合った、不快感をそそる匂い。



 それらの不愉快な組み合わせが自分の心を蝕み続ける一要素となっている事を、

 シンジは充分に知覚していないようだった。





 「ねえ、ねえ!アスカ、アスカぁ、アスカ!!」





 ‥‥やがて。

 今日も、胸いっぱいに絶望をつめこんで。





 少年は、動かなくなった。



 患者の体を揺さぶった振動の余韻で、点滴のパックがゆらゆらと揺れている。



 次第に、電子音が彼の耳につき始めた。

 嫌な臭いも再び鼻腔を刺激する。





 「助けてよ‥助けてよ、助けてよ、助けてよ」



 少女は、答えない。







 「またいつものように僕をバカにしてよ!!」



 少女は、答えない。







 首にこぼれ落ちた一筋の涙にも、アスカは微動だにしなかった。






 閉塞感、そして苛立ちが募る。

 再び、少年の手に力が篭った。



 「ねえッ!!」





 バサリ




 力を込めて引っ張るという行為が、常ならぬ結果を引き起こした。



 毛布が落ち、ホルター心電図の電極がプチプチという音を立てて取れたのだ。

 少女が纏っていた薄い肌着のボタンも取れて、アスカの体は露になった。





 「‥‥‥」





 痩せているとはいえ、生まれて初めて見る年頃の女の子の体。





 朝の太陽が、少年の黒い影をアスカの体に投げかけている。



 目の前の、殆ど全裸同然のアスカ。



 誰もいない空間。



 飢えきった心。



 欲情。



 部屋の鍵。



 アスカ。









   ハァ・・

      ハァッ    



     ハァ





    ハァッ

      ハア

     ハァ・・・・

         ハア



       ハァ

            ハア

             ハァッ

              ハァッ

               ハアッ







                   ッ





                   ウッ













                   最
                   低
                   だ
                    `
                   俺
                   っ
                   て
.                    ゜











 心の中でシンジは――アスカを汚した。





                          →to be continued








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