生きててよかった 第2部 「pitiable passion」
Episode-09 【空しき流れ】








 「再度の集いから、はや半年。」

 「疲弊した世界を襲う気象異常や民族紛争に、とどまる勢いはない。」

 「待てぬ!もはや、座して待つ事には耐えかねる!」


 「議長、計画はどうなっているか?」


 「問題はない。資金・資材・人員ともに、予定の数が揃った。
  後は、計画の準備だけだ。」

 「あの女のほうは?」

 「目下調整中だ。学者共の報告では、まもなく作業は完了する。
  まずは、ネルフ本部へのハッキングを担当させるつもりだ。」

 「アダムとイブは?」

 「そう急くでない。準備も終わらぬ段階であれらに手を出すことは、
  得策ではない。そうだろう、議長。」

 「ああ。依然、彼らに対するネルフのガードには隙が見いだせぬ。
  全ての準備が整うまでは、こちらからの手出しは危険すぎる。
  葛城ミサト‥‥彼女は、優秀な女性だよ。」


 「では、さしあたり、準備を急ぐ事が先決だ。」

 「案ずるでない。全て、予定を上回るペースで進行している。」


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 午前二時、熟睡中にかかってきた電話によって、その日の
 ミサトは起床する事になった。

 すぐ側に置いてあるコードレスに手だけを伸ばし、
 緩慢な動きでそれを引き寄せ、彼女は布団の中でボタンを押した。

 ピッ

 「もしもし‥‥」




 『お休み中の電話、すいません。』

 「なに?青葉君?」




 『はい、緊急事態です。ハッカーの進入を許し、かなりデータを喰われました。』

 「どれくらいやられたの?」

 『第二メインバンク所属の、諜報三課・諜報四課担当のブロックを
  根こそぎやられました。』

 「それって確か‥‥エヴァ関連技術とチルドレンの監視記録‥!」

 ぼんやりと霞んでいた頭脳回路も、青葉の緊迫した声音を前に、
 急速に澄み渡りつつある。
 慌ただしく口を動かしながらも、ミサトはネルフの制服に着替え始めていた。



 「ミサト、仕事か?」

 隣で寝ていたはずの加持も目を覚ました。
 が、用件があったのは自分ではない事を知るや、彼は再び目を瞑る。

 ミサトはそんな夫の為に、受話器を手にして寝室をそっと抜け出した。



 『ええ、エヴァ初号機・弐号機に関するシンクロデータや、チルドレンの
  保護・監視記録などが、全て‥‥』

 「もちろん、防ぐための最善は尽くしてくれたと思うけど‥‥」

 『は、はい、それでも防ぎきれませんでした、申し訳ありません。』

 「それについては後で。
  私も、今すぐそちらに向かうから。」

 ピッ

 電話を切り、最低限の身だしなみを整えたミサトは、寝室に戻って
 夫の頬を一撫でした後、何も言わずに家を出た。


   *        *        *



 簡易MAGIの置かれた第一電算室に到着したミサトは、
 青葉の出迎えをうけた。
 その場に居合わせる多くの技術者達と同様、敬礼を返す彼の目の下には
 おおきな隈ができていた。


 ――青葉ほどの人物が指揮して防げなかったのだ。おそらく、他の何人にも
 防ぐことのできないハッキングだったのだろう――
 ミサトは、そう理解している。

 無駄だと知りつつも、彼女はレコーダーの記録を閲覧してみたが
 ミスらしいミスは当然見あたらない。苛烈な戦いの記録は、
 むしろ青葉の有能を証明するものですらあった。

 ひたすら申し訳ありませんを繰り返す彼らしくもない彼に
 「仕方ないわよ」と声をかけ、ミサトは周囲の部下達とともに、
 事件の後始末に加わった。




 「青葉君」

 「なんですか?」

 端末のキーを叩きながら、すぐ隣の知己に声を掛ける。


 「侵入者はやっぱり判らなかったの?」

 「は、はい、逆算には失敗しているんで、はっきりとした事は‥‥‥」

 「そっか‥‥」

 「ですが、人間業じゃないって事だけは確かです。
  向こうが正規のMAGIタイプか、そうでなければ、赤木さんみたいな
  コンピュータの天才が相手か‥‥」


 そこまで話していて、ハッとした青葉が動きを止めた。
 ミサトもである。


 いまだ行方の知れない死刑囚、赤木リツコ。

 彼女の能力をもってすれば、この簡易MAGIに対するハッキングなど、
 いとも容易だろう‥‥それが、そのとき彼ら二人に共通した認識であった。


 「そういえば‥‥手口というか、手技が‥‥」

 「‥‥‥。」

 「まさか、赤木さんが?でも、何故?」

 「だけど、点と点がこれで繋がるなんて事、考えるにはまだ早すぎるわ。
  青葉君の言う事も、可能性がないってわけじゃないと思うけど。」

 「あ、はい、早合点ですね、確かに。」

 「やっぱり、証拠がないとどうにもね。」


 口ではそう言いつつも、ミサトはその可能性を危惧せずにはいられない。

 自分達が人並み以下の洞察力しか持ち合わせていない事を、
 ミサトは神に祈らずにはいられなかった。


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 アスカが第二新東京大学の門をくぐるのは、約2週間ぶりの事である。

 久しぶりに訪れた旧松本キャンパスは、初夏の顔つきで彼女を迎えた。
 学生の姿もまばらな緑の銀杏並木を歩くと、春ゼミの爽やかな声が耳をうつ。
 長野県独特の強い日差しが、木漏れ日となって歩道のタイルにまだら模様を
 描く中を、栗毛の美少女はわき目もふらずに走り抜けていく。


 「急がないと‥」
 腕時計を見て、小さく呟いた。


 時刻は十時二十六分、次の講義の開始時間まで4分しか時間がない。
 それでも、講義開始のぎりぎり直前には、彼女は“62番講義室”に
 飛び込む事ができた。



 『え〜、では、さっそく先週の続き、始めます。』


“確か、この時間は環境科学とかいう講義だったっけ?”

 配布されたプリントに目を落としながら、アスカは微かな記憶を
 たぐりよせ、かろうじて講義の名称を思い出すことができた。

 汚い講義室の後ろのほうの席、見知らぬ学生に囲まれての一人きりの受講である。

 先週の続きと言われても何の事かわからない上、内容の薄そうな講義に、
 受講開始早々、彼女はうんざりしていた。


 暇つぶしに教室を見渡していると、いつだったかの合コンの時に
 一緒だった女達が、前のほうの席に固まっているのが目に入る。

 だが、ゴールデンウィーク以降は彼女達とろくに遊んでいないアスカにとって、
 そのグループの中に今更飛び込んでいく事は、やはり躊躇われるのであった。


 “ヒカリはいないかな‥‥”
 不意に寂しくなって親友の姿を求めるも、どこにも見当たらない。

 暫くして、ヒカリがこの時間は別の講義を受けている事を思いだし、
 アスカは教室を見回る事を諦めた。


 『‥‥で、あるからして、我々の食料生産に、甚大なる打撃を‥』

 テレビの教養番組と大差の無い内容の、薄っぺらな講義が続いている。
 教授の妙な口調にも飽きてきたアスカは、特にこれといってする事も無く、
 無為に時間を過ごすしかなかった。


 “ここって、一応日本の最高学府でしょ?確か‥‥”

 “それにしては‥暇ねぇ‥‥”


 ぼんやりとした彼女の脳裏に、昨日の夜の、ヒカリからの電話が思い出される。

 学校に行かないと、このままでは単位をみんな落としてしまうからと
 言われた事を思いだし、ヒカリも心配性だと心の中でアスカは笑う。

 “こんなの、大学でやる事じゃないわよ。”

 ドイツの一流大学を13歳で卒業したエリートにとって、
 全てがあまりに幼稚で、くだらなかった。

 教養部の名の通り、一般教養を身につけるのが目的なのか知らないけど、
 どうしてこんなに低レベルなのよ!
 壇上の教授にそう怒鳴ってやりたい気持ちを、彼女は毎秒毎分
 抑制しなければならなかった。


 “友達は‥‥いないし”
 “サークルにも入ってない”
 “授業はご覧の通り‥‥最低‥”


 “何より、シンジがここにはいない!”


 ヒカリが言うんだから出てみたけど、でも、やっぱりこんなんだったら
 出なくてもいいや――そう結論づけたアスカは、今週いっぱいはヒカリの為に
 授業に出て、それ以降は試験期間が来るまで学校をさぼり通す事を
 心に堅く決意するのであった。


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 さらに一週間後、碇シンジの部屋にて‥‥。

 一組の男女が、もつれあうようにベッドの上に倒れ込んだ。

 ノースリーブとタンクトップのアスカと、やはり室内着のシンジは、
 二人とも、深海魚を連想させるような濁りきった目をしていた。

 カーテンを閉め切った薄暗い部屋の中、皺だらけのシーツの上で
 彼らは戯れ始める。


 「ね、ねえ、アスカ、ホントにいいの?」
 「いいのよ。今日は、ずっとこうしててもいいの。」

 「僕のほうは、学校が『サマーフェスティバル』で休みだからいいんだけど、
  御飯の用意とか、洗濯とか‥」
 「御飯?ああ、ほら、押入れにカップ麺かなんかあったでしょ?
  だから大丈夫。」

 「僕も、アスカとこうしてるのは好きだけど‥でも‥」
 「好きなら、いくらでもいいのよ、お互い、愛し合ってるんだから。」

 「でも‥‥」

 「私と一つになりたいんでしょ?心も体もひとつになりたいんでしょ?」



 シンジは思わずにはいられない。
 これが同じアスカなの?と。

 半年前は、お尻に手が微かに触れただけでガタガタ震えていた少女は、
 今、彼の首筋に舌を這わせている。

 あれほど裸になる事を嫌っていたのも、既に過去の話だ。
 今は、口では嫌といいつつも、いつも顔では笑っているようにさえ思える。

 シンジには人並みの欲求もあったし、アスカという少女が好きで好きで
 たまらない。が、昼間から情交を重ねるようになった現在の自分達の有りようが
 異常である事くらいは、理解できた。


 いや――さらにシンジは考える。

 アスカもきっとわかっている。
 自分達が、危険な泥沼にはまり込みつつあるという事に。

 片時も僕の側にいなければ、心が‥‥そして、ひょっとしたら
 このままでは体さえ‥‥落ち着かなくなっていく彼女を、
 何かをしなければならない。

 ちょうど甘やかした幼児の欲求に際限がないように、アスカは僕と
 一緒にいる事を際限なく望んでいる。そして、ひょっとしたら僕自身も。


 このままでは‥‥僕達はいつか壊れてしまう。



 いつもの結論が導き出され、シンジは悲しくなる。

 《そろそろ、どうにかしなければならない》

 それが、彼には判っていた。


 「でも‥‥」
 「いいのよっ!前にも言ったでしょ?昔よりは、これでもずっとマシだって。
  これは確か、シンジの言葉の引用よ。」

 「う、うん‥‥そうだけど‥それは確かだと思うけど‥」

 まるで動物か赤ん坊みたいだよ。
 その一言を賢明にも腹の中に飲み込み、シンジはアスカから
 いったん体を離した。


 「それなら、いいでしょ?
  あんたが私の体がいっぱい欲しいって事、ちゃんと知ってるのよ。」

 「もちろん僕も嫌いじゃないけど‥‥もっといろんな事をしないと、
  せっかく二人でいるのに勿体ないよ。外に出かけたり‥」

 「問答無用!」

 再びシンジに飛びついて、アスカは頬と頬を擦りあわせた。

 男の嗅覚を刺激する化粧水の芳香、そして、
 とびきりに美しく、あどけない恋人の横顔‥。
 アスカが両手をシンジの腰にまわした時、彼の中で何かが弾けた。



 未来への展望や常識はたちまち霞の向こうに消えてしまい、
 愛しい横顔と快楽の極彩色に全てが塗りつぶされていく。


 「でも、今日こそちゃんと避妊しないといけないよ。」

 「大丈夫、心配しないで。まだ、大丈夫なんだから。」


 理性と名づけられた砂の塔が音も立てずに崩れていき、代わりに
 欲望と独占欲ばかりがとめどもなく膨張していくのを、
 シンジは自覚していた。



 「こらっ!シンジのスケベ!」

 「今更わかりきった事言わないでよ。」


 今日何度目になるのか判らない、愛の確認の繰り返し。

 シンジとアスカは、己の所行に僅かな後ろめたさを感じつつも、
 深く、さらに深く、恍惚と安息の海の底へと、堕ちていく。





                          →to be continued








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