生きててよかった 第3部 「信仰」
Episode-11 【和解】
次の日、私はミサトを出迎えるために第二新東京国際空港に向かった。
もちろんシンジも一緒にね。
相変わらずしつこい取材者達を振り切るように空港じゅうを走り回った末に、
国際線のSSTO専用ポートに向かう。
「アスカ、こっちだ!!」
税関のゲートの側で手招きしている加持さんを見つけ、そっちを向くと‥
「‥‥いた‥‥」
見覚えのある黒くて長い髪が、私に背を向けるようにして椅子に座っている
のが見えた。
躊躇いながら、ゆっくりと“彼女”のほうに歩み寄る私。
彼女に向かって加持さんが話しかけるのが見えた。
緊張に体が堅くなる。
そして彼女が、振り向いた。
「ミ‥‥ミサト‥‥」
「あら‥‥アスカとシンジ君‥‥無事だったのね。」
久しぶりに見るミサトの顔が、少しやつれて見える。
彼女がよく見せる微笑み――それが偽りのものなのか否かは、本当の所は誰にも
判らないんだけど――が、迷いを抱えた私を見据えている。
「‥‥あ‥‥」
うう、私、なに喋ればいいんだろう?
昨日の夜、あれこれと考えていた出迎えの台詞が、どうやっても思い出せない。
それでも、シンジに肩をポンと叩かれた私は‥‥彼女の前に進み出る。
「ミ‥‥ミサト‥」
「よく‥生きて‥‥‥」
「‥‥ミサト‥ミサト‥‥」
「‥‥ミサト‥‥ミサト‥‥ミサト!!!」
最後まで、出迎えの言葉は思い出せなかった。
かわりに体が動いてくれた。
彼女が病み上がりだって事も忘れて、名前を呼びながら彼女の胸に飛び込んでいく。
何も言えない私を、大人の両腕が包み込む。
あやすように私の髪を撫でている。
「アスカ‥‥そんなに泣かないでよ‥‥もう‥‥」
ミサトの胸にすがりつく私の首に、冷たいものがぽとりと落ちる。
そっか‥‥‥泣いているのは、私だけじゃないのね。
ミサトが私の為に流す涙。
私がミサトの為に流す涙。
どちらも、昔はそんな事あるはずがないと思っていたものなのにね‥‥。
シンジや加持さん‥‥それに、知らない人達が見つめる事も気にならない。
私とミサトは抱き合った格好のまま、いつまでも泣き続けた。
* * *
「ふぅ‥‥久しぶりにいっぱい泣いちゃった‥‥恥ずかしい。」
「でも、よかった。
アスカが仲直りしてくれて。
もう、喧嘩ばっかりしないでね。」
「‥‥べ、別に仲直りしたとかそういうんじゃないわよ。
一度殺されたのを、一度助けて貰ったから、これでイーブン。
後は、これからのミサト次第よ。」
「アスカは相変わらずそういうのには素直じゃないな〜。」
「な、なんか言った?」
「べ、別に‥‥何も言ってないけど。
と、ところでさ、あの二人はまだかな?」
「そういえば遅いわね。
さっき、タバコを買いに行くって売店に向かったっきり‥‥あ‥来た来た!!」
大股でミサトがこっちに歩いてくるのをシンジに指さした。
「な、なんかミサトさん、怒ってるみたいに見えない?」
「ほんとだ‥‥また、くだらない事で腹を立ててるんじゃないの?」
「ちょっと!!!
あなた達!!!」
「どしたの?」 「な、なに怒ってるんですか!?」
「これは何?これは!!!!!」
ミサトが差し出したのは‥‥一枚のスポーツ新聞!
「あ‥」
「‥‥そ、その‥‥これはアスカが‥‥」
第一面に、カラーで表紙にでかでかと写し出されているのは、
あの時の私達のキスシーン。
こめかみに青筋を浮かべたミサトを前に、シンジの顔がサッと赤くなる。
私は‥‥へっちゃら‥かな?
「あ、あんた達、人前でやっていい事といけない事の区別がつかないの?」
「だって‥‥その‥ね‥‥シンジ‥‥」
「ぼ、僕は何にも悪くないんだよ、みんな、アスカが勝手に‥‥」
「なんですってぇ!」
「どっちが悪いかはおいといて‥‥ほんとにバカねぇ、
こんな事したらよけいにマスコミを喜ばせるだけじゃない‥。
ほら、噂をすれば‥‥」
どたどたどたどた。
遠くのほうから足音が迫ってくる。
「まずいっ!アスカ、逃げよう!」
「ちっ!今日は上手く捲けたと思ったのに、もう追いかけてきたの!?
ミサト、話はまた今度ね!先、帰るから!」
「ち、ちょっと待ちなさいよ!!二人とも!!」
ミサトを置いて逃げる私達。
せっかく迎えに来たのに置いていくなんて、ちょっと悪いかな。
まあ、家に帰ってから、何かしてあげればそれでいいわよね。
何がいいかな‥‥。
* * *
私達に遅れること、約一時間。
加持さんに連れられてミサトが私のマンションに着いたのは、三時頃だった。
「ミサト〜、おなかのほうは大丈夫なの?」
「ええ、ちょっとまだ痛いけど、実生活にはもう何の支障もないって。」
私の質問に笑顔で答えるミサト。
本当にうれしそうね‥‥元気に日本に帰って来れたからかな?
ううん、それだけじゃないと信じたい。
「さてと‥‥アスカ、今日の晩御飯、何作る?」
「もしかして、四人分?」
「そうだね。二人とも今日は夜までいるんでしょ、加持さん?」
「ああ、今日は仕事は上手く言って休んである。」
「私はまだ職場には復帰してないし、もちろんそのつもりよ。」
「ん‥‥‥じゃあ、色々つくらなきゃね‥‥でも、ミサトの好きな食べ物って
なんなんだろう‥‥」
自分で言ってみて、ミサトの好物を自分が何も知らない事に気づいた。
よく考えたら、インパクトの後はシンジは私の好みのものだけを作って、
それを四人で食べていたもんね。考えようによっては、ミサトと
加持さんにはかわいそうな事をしていたのかも。
「ねえミサト、ミサトの好物って何なの?」
「アスカ、そんなの聞くだけ野暮だよ。
ミサトさんは、お酒があればそれで幸せっていう人なんだから。」
「シンジ君?その言い方はひどすぎない?
それじゃ、まるで私がただの酔いどれみたいに聞こえるじゃない!!」
「それがミサトさんの地って奴ですから。」
「ひっど〜い!シンジ君!あなた、いつからそんな事を!!」
「わかったわ、お酒があればそれでいいのね。」
「ア、アスカ!シンジ君の言う事を間に受けちゃダメよ
私はただの酔いどれじゃないんだから!」
怒っているミサトを無視して、私はお酒を買ってくるために玄関を出た。
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夕方にはお料理がすべて完成。
まだまだ苦手な日本料理はシンジが担当して、私は洋風のものを担当した。
お酒は‥‥どれくらいミサトが飲むのか量がわかんなかったから、
とりあえずいっぱい買ってある。
「じゃあ、ミサトさんの帰国を祝して‥‥」
「かんぱ〜い!!」
“乾杯”の部分はミサトが音頭を取って、少し早めの夕食が始まった。
作りすぎにも思える沢山の料理皿を前に、ご機嫌の私とシンジ。
一緒に作った料理は、ちゃんとおいしかった。
「ぷはぁ〜〜〜!!!やっぱり、日本のエビチはおいしいわね〜!!」
「日本のエビチ?って事は、まさかお前、海外でも‥‥」
「あ?そうそう、酒は百薬の長って言うじゃないの〜、だいじょ〜ぶ、
飲み過ぎない程度にしか向こうじゃ飲んでないわ」
ミサトのでたらめな発言に、一瞬みんなの目が彼女に集まる。
でも、もう酔っぱらいかけてるミサトは甘ったるい声で“まあ元気に
生きて帰ったんだからいいじゃな〜い”だって。
「ほぉら、アスカももうすぐ19歳でしょ?
さあ、飲んで飲んで!!」
「加持〜〜!!まさか、私のお酒が飲めないっていうんじゃないでしょ〜ね!」
「はいシンちゃんいい子ね〜〜!たくさん飲んで、強い子になりなさい!」
“ミサト‥‥こんなにはしゃいで‥”
“こんなに嬉しそうにして‥‥”
「ぐごー‥‥‥‥ぐご‥‥‥‥」
「あ〜らら、加持ったらもう寝ちゃって!ここはアスカの家なのに‥
ねえ、シンちゃん‥‥」
「く〜‥‥‥‥く〜‥‥‥‥‥‥」
「しょ〜がないわね〜、二人とも男の癖にだらしがない!
一人で飲むか‥‥」
“死ぬまでミサトには謝らせるつもりだったけど‥‥”
“私が受けた苦しみを、必ず返してやろうといつも気張っていたけど‥‥”
“‥‥‥私は‥‥間違っていたのかもしれない‥‥”
「ねえアスカ?」
“‥‥‥私のほうから、もっと早くこの人の事をわかってあげたほうが
よかったのかもしれない‥‥”
「アスカ、どうしたの?」
「な、なに、ミサト?」
「ど〜しちゃったのよ、ボケボケッとしちゃって。」
我にかえった私の前に、ほんのりと顔を紅くしたミサトがいた。
どアップのミサトの顔。
私の知っている顔より、随分化粧が厚かった。
彼女が、私の耳元に小さく囁く。 “ねえ、飲みましょ?”と。
私はすぐに冷蔵庫を開けてお酒を探したけど、およそアルコールと名のつくものは
一瓶一缶残っていなかった。
* * *
「一度、あなたと二人きりで話がしてみたかったの。
今日は‥‥いいわよね」
「‥‥うん」
眠る加持さんとシンジを置き去りにして、ミサトと一緒にタクシーで夜の街へ。
ミサトが連れていってくれたのは、第二新東京市の繁華街の、とある雑居ビルの
四階だった。
《男性のみのお客様の来店は、御遠慮させていただきます・エデン》と書かれた
看板がぶら下げられたドアを、彼女が開いた。
チリリン・・・
「いらっしゃい」
静かなバーには、カップルが一組いるだけで、それ以外にはお客さんはいなかった。
「窓際のテーブル、行ってもいいわよね」
「どうぞ」
マスターに『この娘に、メニューを持ってきてあげて頂戴』と頼む彼女は、
さっきまでとはうって変わって、素面の時と全然変わらない様子。
「私はギムレットを。
アスカは‥‥決まった?」
「じゃあ、モスコミュール。」
薄い緑色のカクテルグラスと、ジンジャーエール色のタンブラーが運ばれてきた。
何かを話すとか言ってたけど、ミサトは何も言わずに窓の外の夜景を眺めている。
私も、店内を流れるショパンの調べに耳を傾けながら、
アルコール度数の妙に薄いモスコミュールを少しづつ喉に流し込んだ。
静かで何もない、でも何かがあるような時間が過ぎていく。
「ねえミサト、話、するんじゃなかったの?」
自分のタンブラーがようやく空になった頃、そうミサトに訊ねた。
ミサトは暫く視線を宙に泳がせた後、私のほうに向き直った。
「アスカ、あなた、もう酔ってる?」
「う、うん。まあまあ。」
「じゃ、きっと嘘をつかないで本当の事言ってくれるわね。」
「!?」
意味を理解できない私は、ミサトの顔をのぞき込む。
ちょうどその時、店内にいたカップルが店を出て行き、
自分達以外の客はいなくなった。
「私の事、今でもやっぱり‥‥その‥‥嫌い?」
「‥‥‥。」
「ごめん、やっぱり、こんな質問するには早かったかな。
日本に来て到着早々だもんね。ごめん。」
私が何も言わないうちに小さな声で謝るミサト。
たぶん、私は無意識のうちに顔を曇らせていたんだろうな。
「ごめん。今の質問は、もう忘れて。さ、もう一杯飲みましょ。」
ミサトが作り笑いを浮かべる。
その瞬間、私は声を発していた。
「嫌いよ。」
「‥‥‥そっか。」
「‥‥そんな‥‥いつも私の御機嫌取ろうとするミサトなんて‥だいっきらい。」
「‥‥アスカ‥‥」
半ば無意識のうちに口にした言葉の群れ。
数秒後、ミサトが瞳を微かに潤ませた。
「さあ、飲みましょ。
どうせミサトが出してくれるんだから、派手に飲まないと!」
「アスカ‥‥ありがとう‥‥」
「やめてよ、元の元気なミサトじゃないと辛気くさくていけないわ。
二人で飲みに来たんでしょ、ねえ?」
「そ‥‥そうね。フフッ‥アスカの言うとおりよね。」
あ、今度は本物の笑顔だ。
「マスター、注文お願い。
私はダイキリ。アスカは?」
「じゃあ‥‥カクテルあんまりわかんないから、今度はお任せしようかな。」
「かしこまりました。」
しゃかしゃかしゃか‥‥
心地よいシェーカーの音を耳にしながら、私は何度も思い返していた。
自分の言った言葉、それとミサトが見せた二つの笑顔を。
ひょっとしたら嘘かもしれない・偽善かもしれない自分の言葉と、
ミサトの安らいだ表情を。
結論――まだ疑問が残っていても、とりあえず私はミサトを大切にしていいと思う。
「失礼します。ダイキリと‥‥こちら当店オリジナルの
カクテル“アイリス”といいます。白と紫のシャーベットを、スプーンで
混ぜて召し上がってください。」
「アイリス‥ふ〜ん‥‥あやめかぁ‥‥確かに綺麗な紫と白のカクテルね。
うわっ!おいしいわよ、これ!!」
「そう?よかった。それにしても、マスター、気の利いた事しちゃって‥」
私のカクテルグラスを眺めながら、しんみりするミサト。
それが何故なのか判らないまま、私はシェークみたいなカクテルを飲み続けた。
あやめの花言葉が“和解”である事を私が知ったのは、
それからずっと後になってからの事だった。
→to be continued
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