生きててよかった 第1部 「生きててよかった」
Episode-16 【そして、歯車は回りはじめた‥‥】








 アスカを背負って歩き続けて約2時間。

 日の沈む頃、ようやく僕達はコンビニまで帰って来る事ができた。



 「今も、辛いよね?」

 「‥‥‥‥。」

 返事はない。

 床の上に敷いたタオルの上で、アスカは眠りについていた。

 瑞々しさを失った顔から、不規則で荒い寝息が聞こえてくる。

 僕も同じくらい疲れた顔をしているのかな――窓の外の赤い太陽を眺めながら、
 僕はちらりとそう思った。



 「アスカ‥‥」

 「こんなになっちゃって‥‥。」


 瑞々しさの無い痩せた顔は、見ているだけで気分がめいった。
 せっかく再会できたっていうのに‥‥。

 だけど、もうアスカに泣いたりすがりついたりなんかしない。
 だって、誰も僕を‥‥アスカを救ってはくれないもの。



 床の上のかわいそうなアスカを、少しでもマシな所で眠らせてあげたいと思い、
 少し休んだ後、僕はコンビニの隣に建っている大きな家を当たってみる事にした。

 案の定、田舎の農家を思わせるその家は、窓ガラスが割れている事以外は
 殆ど無傷で、普通の家に置いてあるような日用品――布団とか、服とか、
 救急箱とか――は、だいたい見つける事ができた。

 ホッとする暇もなく、小ぎれいな和室を選んでアスカを連れてくる準備を始める僕。
 沈みかけの太陽を気にしながら、割れたガラスを掃除したり布団を敷いたり‥‥疲れは不思議と来なかった。


 掃除が終わったら、今度は晩御飯の用意をしようかな。

 カセットコンロやお米もあるんだから、お粥くらいは食べさせてあげられると思う‥‥。











 ‥‥‥アスカ、起きて、アスカ‥‥

 ‥‥ねえ、起きてよ‥起きてよ‥‥




 また私を呼んでいるの?
 シンジ、私をどうしたいのよ?

 ああ、あいつの事だから、きっと私にすがるのよ。
 私の事好きだからじゃなくて、誰もいないよりマシだから私にすがる、ただそれだけ。

 卑怯者ね。

 シンジもミサトも‥私の周りの人間って、どうしてみんなこうなのかな?

 私を利用する事は知っていても、私をホントに大事にはしてくれない。

 みんな、結局自分の事しか考えてない。

 そして私は最後には捨てられるのよ。



 起きるの、やだな‥‥。


 「アスカ、ねえっ!目を覚ましてよ!
  夕御飯できたよ!」

 えっ!?
 夕御飯?


 「よかった‥アスカ‥‥‥」
 「‥‥」


 言葉につられ、思わず開いてしまった目に飛び込んできたのは、瞳を潤ませたシンジの笑顔だった。

 とても意外だったから、無視してやろうってたくらみは、完全に失敗。
 間髪入れずに“おはよう”って言われ、私は言葉を失ったままシンジと見合う形になった。

 窓から差し込んでくる夕日に照らされ、汗とほこりに汚れた顔が、オレンジ色に染まっている。

 茶色い瞳、綺麗ね。
 自信の無さそうな、あのいつものシンジとはほんの少しだけ違う感じがする。



 「あ、あのさ、お粥作ったから。お腹が大丈夫なら食べてよ。」


 お粥。
 シンジの笑顔。



 「ちょっと待ってて、いますぐ持ってくるから。」

 シンジは本当にうれしそうな顔で私の顔をじっと見ている。

 私の体にかけられた毛布が、ふわふわと優しく私を包む。あったかい。




 「あっ!まだ起きないで。まだまだ熱があるんだから、今は寝たままでいいよ。」

 体を起こそうとした私にそう言い残すと、シンジは背を向け部屋の外へ出ていった。



 言われた通りにほてった体を布団の中に沈めたまま、首だけを動かして
 部屋の中を眺め回してみる。

 まず、小さな窓。寂しそうなオレンジの日差しが差し込んでいて、光の中を沢山の
 ほこりが漂っているのが見える。

 長く伸びた光と影の帯に沿って視線を流すと、実物を見たことないような古いものがいっぱいあった。

 畳の上には木製のタンスに大きな竹籠、それから小さなブラウン管のテレビなんかが並んでいて。
 少し暗くて狭い床の間には、中国風の壺と真っ白な熊の置物が置かれ、タンスの上に
 座っている博多人形が、ツン、と澄まして私を見下ろしている。

 こういうのは初めてだけど、「典型的な和室」って、たぶんこういうのを言うんだろうな。


 確か‥‥湖からシンジに連れられて来て、コンビニに着いて、それから‥‥
 うーん、あんまり思い出せない。ここは、どこなんだろう。




 「お待ちどうさま。お粥、持ってきたよ。」

 突然部屋に戻ってきたシンジの手には、白い茶碗と箸があった。
 半透明の湯気がさかんにあがっているのが見える。

 微かに漂ってきた匂いのせいか、私のおなかがグーッとみっともない音をたてた。


 「さあ、食べて元気出して。」

 「‥‥。」

 シンジが差し出すスプーンには、ひとくちぶんのおかゆ。


 「はい、口開けて。」


 「‥‥自分で食べる。」

 湖で喧嘩して以来、声を出してシンジに答えたのは始めてだと思う。

 「じゃ、体起こす?手伝うから。」

 そのせいか、シンジがちょっとだけ嬉しそうな顔をしたような気がした。

 「うん。」

 シンジに手伝ってもらってよっこらしょと体を起こし、お箸を手にする。
 私にとって何ヶ月ぶりなのかわからない、シンジのつくったごはん。

 おかゆの湯気はほわほわと柔らかくて暖かくて‥‥顔で浴びながら、なんだか幸せな気分。


 「あつっ!」


 最初のひとくちは‥。
 おいしい。


 「だっ!大丈夫?」

 「‥‥」

 私を案じてくれるシンジには返事する気は無かったし、してる余裕もなかった。

 ガツガツと食べ始めている。

 猫舌だっていうのに、お箸が止まらなかった。
 とても熱くて、大嫌いな梅干しが真ん中に乗っているっていうのに、
 そのおかゆは信じられないくらい美味しく感じられた。


 『ゆっくり食べないとダメだよ』というシンジの言葉も、今の私には聞こえない。

 私、きっと飢えているんだと思う。
 梅干しの種まで食べてしまいたいくらい。



 「ごほっ!」
 「ほら!急ぐから!!」

 「ごほっ!ごほごほごほっ!!」

 急ぎすぎて、気管にご飯つぶが入って蒸せてしまった私の背中を、
 シンジがさすってくれた。


 「大丈夫?」
 「うん」



 おかゆを全部を食べ終わると、シンジは私にそのまま寝ているように言い残し、
 再び部屋から出ていった。


 私は満腹感にひたりながら、シンジが戻ってくるのを待っている。



 でも‥‥

 “‥‥なんで私、安心してるのかな‥”

 やがて、もう一人の私が、耳元でささやく。

 いつの間にか自分自身をシンジに委ねている事に気がついて、私はハッとした。


 “シンジに、私が?安心?”

 驚き、恐くなってくる。
 いつの間にか油断している自分、いつの間にか気が楽になっている自分に。




 ついでに、大事なことを思い出した。


 “そういえば私、裸じゃなかったっけ!?”

 シンジ‥‥私に何をしたんだろう?
 確か私、カッターシャツを着せられた以外は裸だった筈、でも‥‥何かを着ている
 ような気がする‥‥。

 「‥なによぉ!このパジャマ!!!!」

 見たこともない黄色い半袖パジャマ!
 そしてこれは‥なっ何よ!私、裸だったはずなのに!!
 そのうえ、ベージュ色の、見覚えのない下着を着せられている事に気づき、
 もっと愕然。

 「‥‥それに、私‥‥臭い‥」
 ふとパジャマに顔を近づけたとき、自分がすごく汗くさい事にも気づいた。

 ああ‥すぐにお風呂に入りたいけど‥この熱じゃどのみちムリよね‥。




 「どうしたの?アスカ?」

 ちょうどその時、再びシンジが戻ってきた。

 いろんな気持ちがごちゃまぜになっていて、素直に答えることができない私。
 視線をそらすために布団の中に顔を突っ込み、『何でもないわ』と冷たく答えた。


 「ほら、頭冷やすから、顔出して」

 「やだ」

 「ねえ、熱あるんだから、冷やさないと。それに、飲み物も持ってきたからさ。」

 「飲み物?わっ!冷たっ!!」

 飲み物欲しさに毛布から首を出した私のおでこに、待っていましたとばかりに
 冷えた手ぬぐいが乗せられた。 ひんやりしていてとても気持いいけど、ありがとうは
 言えそうにない。


 そして、シンジから麦茶のペットボトルを手渡される。
 今度は、ちゃんとキャップはあけてあった。


 「ゆっくり飲むんだよ。」

 「飲ませて。」

 「え?」

 「起きると体が辛いから、膝枕して飲ませて。」

 「ほ、ほんと?」

 「そうよ。二度も同じ事言わせるんじゃないわよ。」



 ゆっくりと口の中にそそぎ込まれる麦茶は、とてもぬるかった。

 それでも、私は別に構わないと思っていた。

 何も言わずにシンジの瞳を覗き込みながら、お茶を飲ませてもらう。
 膝枕してもらってるおかげで、とても体が楽ね。



 “甘えたい。”

 “私だけを見てくれる‥‥”

 “私の為に、こんなに色々‥‥”


 喉の奥からこみあげてくるような、この熱い感じはいったいなんなんだろう。

 別れ際のファーストの、『シンジが私を選んだ』という言葉がよみがえる。

 シンジは、本気で私を助けたいのかもしれない。


 でも、ホントに信じていいのかな?
 心を許してホントにいいのかな?
 疑いの気持ちも、まだ強いと思う。

 シンジが、やっぱり自分の事しか考えてなかったら‥‥私を助けるのは
 単に私しかここにいないからだったら‥‥そう思ったら怖いもん。

 今、ここでシンジにありがとうとか言って、それなりに仲良くなって‥‥そこまではいいとして。
 でも、それで裏切られたらどうするの?
 ファーストの言ってた事が本当なら、ミサト達もじきに戻ってくるかもしれないし。

 その時に私から他の誰かのほうにあいつの目が向いたら‥‥また、あの繰り返し。


 溶け合ったときにわかったけど、私は、エヴァに乗れなかったら誰にも見向きもされない人間。

 だからシンジも‥‥今だけ寂しいから助けてくれてるだけで、こんな私をホントに
 愛してはくれないような気がする。

 みんなが戻ってきたら‥‥私はまた捨てられる。
 また、誰にも見向きもされなくなっちゃう。


 だから、心を許してはいけないのかもしれない。シンジを信じちゃいけないのかもしれない。



――なのに、私はシンジに甘えたがって、優しくされてる事に、どこかでうれしくなってる。

 『私は誰にも頼らない。私は一人で生きるの』小さい頃、そう堅く誓った事を
 忘れちゃったわけじゃないのに。



 お茶を飲み終わった後、私は何も言わずに布団の中に潜り込んだ。

 シンジは『ちゃんと普通に寝ないとダメだよ』って言ってたけど、無視して、
 熱くて暗い自分だけの世界に埋もれる事にした。



 でも、シンジと瞳を合わせる事も優しくされることも、なんだか怖くなってきたの。

 甘えているうちに、私が私でなくなっちゃうような気がする。






      *         *         *





 布団に潜り込んだはいいけど、やっぱり熱くて眠れそうにない。
 お茶を飲んだ後、今まで以上に汗が体じゅうから流れてきて、どうにもなんない。

 布団の中の私の世界は、自分の汗の臭いと熱っぽさと真っ暗だけの世界。
 空気が悪くなってきたせいか、息苦しいし。


 「うう‥‥熱い‥‥」



 結局、すぐに布団から顔を出すハメになった。

 待ちかまえていたかのように、シンジが私のおでこに載ったタオルを
 冷たいものに交換してくれる。また、気持ちいい。

 素直に“ありがとう”が言えたらいいのに。



 でも、代わりに私の口から出てきたのは、『こんな事して、救ってやれると思ってるの?』って冷たい台詞。
 馬鹿な私、なに考えてるのかしら。

 かわいそうなシンジの顔に、サッと緊張と戸惑いが走った。

 私は容赦せずに次の言葉を浴びせかける。

 言葉というより、言葉のナイフね。

 こんなに色々としてくれるシンジに、優しくしてくれるシンジに、
 ひどい事を言う私は、バカどころか最低な奴かもしれないって思いながら、私は
 シンジをなじっていた。


 「私を助けるのも、後で私を玩具にする為なんでしょ‥‥」

 「‥‥‥。」

 「どうせ私はみんなの代用品なんでしょ?知ってるもん‥‥」

 「‥‥‥。」

 「ただ、一人が寂しいだけなんでしょ?誰でもいいんでしょ?」

 一気にまくしたてたせいか、息が辛い。
 そこまで喋って大きく溜息をつき、私は次のナイフを投げかける
 ために大きく息を吸い込んだ。


 「違う!」


 その時、びっくりするくらい大きなシンジの声がした。

 「絶対に違う!なんでわかってくれないんだよ!!」

 声というより絶叫。
 言葉というより叫び。


 「僕、本気なんだよ!」

 「まだ信じてくれないの?アスカじゃなくっちゃダメなんだ!」


 それは、シンジの、初めて見る表情だった。

 夢の中で首を絞められた時とも、一緒にミサトの家で暮らしていた頃も見たことの無い、
 怒ったような泣きそうなような、微妙な表情だった。


 「じゃあ、なんで私じゃなきゃダメなの?
  ミサトでもファーストでもなく、なぜ私なの?」

 「それは‥‥アスカがいちばん好きだから‥」
 「何がどう好きなのよ。
  溶けてた時にも言ったけど、ファーストもミサトも怖くて、私に逃げてるだけじゃない。
  一番好きってわけじゃなくて、ただ、私が一番都合がいいだけじゃない。」

 「綾波のほうが、アスカより優しいよ。ミサトさんのほうがアスカより大人だよ。
  ただ、一緒にいたいっていうだけなら、あの二人でも構わなかったと思う。」


 「フン!じゃあ、なんでそんな怖くて都合の悪い私を呼んだの?ファーストより
  優しくなくて、ミサトよりも子供の私を、なんで呼んだのよ!」

 「もう一度会いたいって思ったとき、一番会いたかったのがアスカだったから。」


 「私の首まで絞めたくせに‥」
 「でも、アスカなんだ。嫌いって言われても、突き放されても、アスカなんだ。
  だから今、こうやってアスカが隣にいたんじゃないか。」

 「‥‥‥‥」


 私の言葉に、シンジは間髪入れずに答え続ける。

 その迫力と言葉の中身が、『バカなもう一人私』を黙らせる。
 残されたホントの私も、そんなシンジの言葉を聞きたくて黙っている。


 そういえば、再生の直前、ファーストも似たような事を言ってたわね。
 シンジが私を最初の一人に選んだとかって。


 けど、シンジの前で笑ったり泣いたりはしたくないから、汗っぽい布団の中に逃げ込んだ。




 「アスカ。僕、アスカを大事にする。」

 「今は、信じてくれなくても、僕は、アスカが元気になるまで看病するからね。」

 「絶対に、アスカを死なせない。力になりたいんだ。」


 布団越しに、必死なシンジの声が聞こえる。



 「でも‥‥あんたなんて大っきらい。」

 小さく呟いてみた。



 あんたなんて大っきらい。

 シンジの言葉とは思えない言葉に、酷い返事だとは思う。

 ホントはそうじゃないかもしれないけど、言わずにはいられなかった。

 今、逃げて、ごまかしているのはシンジじゃなくて私なのかもしれない。


 布団の外のシンジは、何も答えない。







 アスカにあげたおかゆの残りはすっかり醒めてて、とてもまずかったけど、
 もったいないと思って全部食べた。

 「ふぅ‥‥‥」

 寂しい満腹感を抑えながら溜息ひとつ。それから、食器を洗うために川に出る。

 暗くなりはじめた空には、オレンジ色のLCLの天の川と明るい一番星、
 それから綾波の巨大な体が、寄り添うように西の空に浮かんでいる。

 東の山際には、丸い月が昇っていた。
 オレンジ色のシミがついているように見える。気のせいかもしれないけど。

 今まで気にもならなかったけど、辺り一面廃墟の寂しい世界が、
 とても陰気で、怖い。




 「‥‥だいっきらい、か‥‥」

 布団に潜り込んだアスカが、小さく小さく呟いた言葉が、今も胸に刺さっている。

 大事にするよっていう僕の言葉に返ってきた言葉が、それだったんだ。


 暗い川面には、べそをかいた僕の顔が映っている。
 めそめそと泣きながら、僕は箸や茶碗を洗った。
 冷たい水が胸の辺りまで跳ね上がるのも気にしないで、気が済むまでバシャバシャとやった。



 家に戻ると、アスカは布団から顔を出していた。

 僕が部屋に入ると、一瞬だけ僕のほうを向いてすぐに視線を逸らし、表情を
 堅くする彼女。

 せっかく汗を拭く為のタオルとかお茶とか持ってきてあげたのに、冷たい態度が悲しい。


 「ねえ‥‥アスカ‥‥」

 「僕の事、やっぱり大っきらいなの?」

 それは、アスカには聞いてはいけないのかもしれない言葉かもしれない。
 少なくとも、会話の最初にかける言葉じゃないと思う。

 でも、僕は我慢できずに口にしていた。



 「ねえ‥‥アスカ‥‥。」


 「‥‥なによ。」

 アスカの気怠い声が返ってきた。


 「僕を信じて。お願い。
  もう、アスカを酷い目に遭わせない。
  今日みたいに苦しんでいても、必ず助けるよ。」

 「アスカを助けるから。アスカを守るから。
  それが、アスカのホントに願いなんだって、僕は知っている。
  僕、アスカの力になりたいんだ。」

 「‥‥‥。」

 思った事を一息で喋ったけど、アスカは何も答えてはくれなかった。
 代わりに、アスカは僕を避けるように再び布団に潜り込んだ。
 そして、僕が何を話しかけても、もうアスカは何も答えようとはしなかった。


 微かに青白い世界に、僕とアスカは二人きり。

 夜は、まだまだ長い。

 次に、アスカは布団から顔を出した時、アスカはどんな顔してるんだろう。

 また冷たい顔だったとき‥僕は、今の僕でいられるのだろうか。
 自分勝手に戻って酷い事をしそうな自分を、僕は止める事ができるのだろうか。

 僕にはあまり自信は無い。
 早く、アスカと話がしたいと思う。








 布団の中は暑苦しくて汗くさいのに、また私はなかなか顔をだせずにいる。


 どうして私って、こんなにも素直じゃないんだろう。イヤになっちゃう。

 私の力になってほしい。私の側にいてほしい。
 私を守って欲しい。私を助けて欲しい。
 誰かに精一杯大事にして貰う、一緒にいて貰う事が私の本当の願い。

 溶け合った事のあるシンジは、それをみんなもう知っているのに、
 今も強がりを続けてる私。



 “あんたとずっと一緒なんて、願い下げよ。加持さんならともかく、
  あんたなんか‥‥”

 喉にこみ上げてくるのはいつも拒絶ばかり。
 今までずっと私を支えていたプライド、処世術、それとシンジへの恨み‥‥
 そういうのが、欲しいものに近づきたい私をためらわせている。


 “イヤ。私はもう、一人になりたくない!”

 ホントは一人になりたくない。
 側にいて、私を大事にしてくれる人が欲しい。


 “ホントは、そんな情けない私も認めて欲しいくせに”

 そんなのは、判ってる。わかってるわよ、アスカ。

 だけど、ダメなの。出来ないの。
 素直になるのも、シンジに甘えるのも怖いの。


 

 「ねぇアスカ‥‥お茶持ってきたから。あと、汗拭かないと」

 悩む私に、突然、優しいシンジの声がかかった。

 布団から顔を出すと、無理して微笑むシンジの顔が青白い月光の中に浮かんでいる。

 声をかけてきたのは、私の気持ちを見透かして?

 そんな事ないに決まってると想いながらも、シンジの顔を覗く。
 汚れた顔には、涙の通った筋が、くっきりと残っていた。

 私を裏切った事もある涼しい瞳で、ホントの私をどれくらい見てくれているんだろう。


 「ほら、飲んで。」

 「‥‥‥うん。」

 
 私が壮健美茶を飲んでいる間、シンジは汗を拭いてくれた。

 熱のせいで少し寒けを感じる私の背中を、シンジの乾いたタオルがなでていく。



 お茶を飲み終わった後、長いことシンジの顔を見つめ続けた。

 私は何も言わなかったし、そんな私を見つめ続けるシンジも、何も言わなかった。


 まだ、シンジと喋りたいとは思わない。こっちから話しかけるのが怖い。けど‥‥。


 時々、私の熱を確かめる為か、シンジが私の手を握ってくれるのは嬉しい。
 ほてった私には、ひんやりしてて、気持ちがよかった。



 シンジに優しくされたい。
 シンジと喋りたい。
 でも怖い。
 私が私でなくなっちゃうような気がするもん。




 オレンジ色の光の帯と大きな満月が、私達を窓からじっと眺めている。

 シンジと話をする勇気が、今は欲しい。





     *          *           *




 「ねえ‥‥‥シンジ‥」
 「なに?」


 「どうして、私を襲わないの?」
 「な、何言ってんだよ!!」


 「ほら、今だって真っ暗闇で二人きりしょ?
  私は弱っているから、その気になれば、襲って手込めにするのは簡単よ。」
 「そ、そんな事するわけないじゃないか!!」

 「‥なんで?あんたが何を考えていたか、私、知ってるのよ。
  あんた‥私を慰みものにしたいんでしょ?
  いつもみたくやってみなさいよ。本物の私使って。」


 「‥でも、本当のアスカにそんな事できるわけないよ。」

 「どうして?やっぱりいくじなしだから?それとも私が恐いから?」


 「そんな事したら、アスカがかわいそうだよ。
  アスカが僕と一緒になりたいってわけじゃないのに、そんなひどい事、できっこないよ。」

 「それであんたが気持ち良くなれなくても我慢できるの?」


 「自分が気持ちいい思いをするために人を犠牲にするなんて、イヤだよ」

 「ふーん‥‥あんたでもそんな事考えるんだ‥でも、現にあんたは私を傷つけていたのよ。ずっとね。
  それだけじゃないわ。私をオカズにしてた事、許せると思う?」

 「‥‥‥ごめん。」

 「私どんな気持ちでいたのか、溶け合ったあんたはみんな知ってるでしょ?
  どうせ無様な女だと思ってるでしょ。上辺だけ強がりな私の事を。」

 「無様だなんて、そんな事ないよ。僕に似てるな‥とは思ったけど。」


 「‥‥‥。」

 「なんにも知らなかったんだ‥気づかなかったんだ‥アスカの心の中の事。
  ううん、アスカから逃げて、気づこうとしなかったっていうのもある。
  曖昧にしとくのが一番だと思ってた。アスカが‥‥それでアスカが
  苦しんだ事も知らなかったんだ。僕は、アスカがとても強い人だと思ってた。」


 「‥‥‥。」

 「ごめん。 今は、謝る事しかできないけど、僕、もっとアスカの事、
  一生懸命知ろうとする。知って、素顔のアスカも大事にする。」


 「‥‥‥。」

 「曖昧なままにしないよ。他の人とおんなじようにアスカを見る事もしない。
  アスカがあの時言ってた通り、僕、アスカが望むなら全部アスカのものになる。
  ‥‥だから、だから僕を信じて。」


 「誰もいないから、私に言い寄ってるだけじゃないの?」

 「違う!!みんなが戻ってきても、僕、アスカを大事にするよ。」


 「‥‥すぐに、信じられないわ。ホントなの?」

 「証拠を出せって言われても、どこにもないよ。
  でも僕を信じて欲しい。僕、二度とおんなじ間違いはしない。」


 「‥‥‥。」

 「アスカが今まで通り何にも言わなかったら、やっぱり何にもできないよ。
  だからさ、もっと話をしてよ。僕、不器用だから。」


 「‥‥わかってるわよ。でも、私、まだあんたの事は信じてやんない。」

 「それぐらいわかってる‥‥‥。
  だから、僕、アスカを待ってる。」


 「‥‥‥。」





 「あ、アスカ、また汗かいてる。」


 「いっとくけど、あんたが拭いていいのは背中だけよ。」

 「う、うん。それよりもさ、アスカはもう寝なよ、まだ熱あるんだし。」


 「私が寝ている間、あんたはどうすんのよ?」

 「熱が下がるまで、起きてるよ。汗拭いたり、頭冷やしたりしてあげないと。」


 「‥‥‥」

 「だから、先に寝ていいよ。」


 「‥‥‥」

 「やっぱり信用できないの?僕のこと。」

 「‥」

 「ムリもないか。」

 「‥‥‥」


 「だけど、もう二度とアスカに酷いこと、絶対にしない。
  首を絞めたり、襲ったり、そんな事は絶対しないから。せめてこれだけは
  信じて欲しい。お願いだから。」

 「‥‥‥」


 「約束する。アスカは信じてくれないかもしれないけど、
  僕はそうするつもりだからね。」

 「‥‥‥」

 「信用できなくてもいいなら、僕の事を疑っていてもいい。
  それでも、とにかく今は体を大事にしてよ、アスカ、まだ熱あるんだから。」

 「‥‥‥‥‥‥。」


 「あれ?何にも答えない‥‥‥アスカ、寝ちゃったのかな?」

 「‥ううん、まだ‥‥起きてるわよ」


 「どうしたの、アスカ?」

 「ううん、何でもない。ちょっと考え事。じゃ、私、もう寝るから。」

 「うん。」


 「その前に。」

 「!?」

 「あのね、寝るときにはつけないのよ、胸のほうは。肩がこるからね。
  それにこの下着、サイズが全然違うわ。私、こんなにおっきくないもん。」

 「‥‥‥ご、ごめん‥。よく、わからなかったんだ。」

 「真っ暗だけど、一応あっち向いてて。」

 「うん」

 ゴソゴソ‥‥


 「もういいわよ。」

 「う、うん‥‥」

 「寝ている間に変なことしたら、今度こそ刺すわよ。
  私を襲ったら、どんな事をしてもあんたを殺すから。あんた、前科持ちだし。
  それはようく覚えておく事ね。」

 「絶対そんな事しない。」


 「‥‥それと、もう二度と下着なんて着せちゃダメよ。」

 「ごっ、ごめん‥‥仕方なかったんだ‥」


 「今日だけは、仕方がないから特別に許してあげる。じゃ、おやすみ。」

 「おやすみ、アスカ。」








 体を横に向けて、私は眠りにつくために目をつむった。

 シンジとの会話は、ずっとロクにしゃべってなかったせいか、ずいぶん長い話に思えた。

 シンジの言葉が、うれしかった。


 うれしいって思う気持ち、まちがいないと思う。

 でも‥‥嬉しいけど‥‥これで、本当によかったのかな‥。







 アスカの寝姿が暗闇の中に浮かびあがっている。
 腕時計は午前二時。もうそろそろ、僕も寝ないと。

 一生懸命看病したせいか、それとも単に眠っているからなのか、
 とにかく今は熱も引いているみたいだ。
 アスカの布団が柔らかに上下し、それに合わせて穏やかな寝息が聞こえてくる。



 それにしても‥‥。
 やっぱり助けてよかった。

 ちゃんとアスカを大事にできるのかとか、自分がいい気分になる為に
 アスカを助けるんじゃないかとか、そんな事を
 湖に着くまでの間に僕はいろいろと考えていた。

 けど、今になってみれば、そのどれもがバカバカしい。
 くだらない理屈を振り回していただけだったとさえ思えてくる。



 現にアスカは、助かったんだ。
 たとえもし、僕が自己満足の為に、自分が寂しくなるからという衝動の為に
 助けただけだとしても。

 ほら、アスカ、少しだけ許してくれたんだ。
 確かに僕は、今もずるくて最低な男かもしれないのに。
 ただ喋ってくれただけと言えばそれまでだけど、僕は単純に嬉しかった。



 だから、今は価値とか理由とかについて、ごちゃごちゃ考えるのはよそうと思う。

 とにかく、この娘に出来るだけの事をしてあげて、元気になって貰わないと。

 それが結果として、これまでアスカを傷つけてきた事の埋め合わせにもなるし、
 僕がアスカに嫌われないようにする一番いい方法だと思いたい。

 勘違いかもしれないけど、アスカもどこかで喜んでくれてるような気がするし。



 僕自身、人の為に必死に何かをするっていう事がこんなに気持ちいいなんて
 思ってもみなかった。

 逃げなくてよかった。


 だから明日もがんばってみよう。
 きっとがんばれるさ。

 とにかく、自分にできるベストを尽くすんだ。
 僕は不器用で臆病だけど、それでもアスカを一人で放っておくよりは、
 何かしてあげられるはずだよ。

 未来なんてわからないし、アスカに裏切られる事だってあるだろう。

 だけど、もっと必死になってみよう。自分が傷つく事を、僕はもう恐れない。
 アスカを傷つける事のほうが、ずっと今は怖いし、そんな態度じゃ、僕も
 アスカもホントに気持ちのいい仲にはなれないと思う。



 “あんたが全部私のものにならなきゃ、私、なんにも要らない。”


 アスカ、僕を信じて。

 僕、アスカを、いちばん大事にする。



 窓から見えるLCLのオレンジの帯に向かって、この気持ちがアスカに
 通じますようにって祈ってから、僕は毛布にくるまって目を閉じた。







 明け方に、私は一度目を覚ました。

 私の隣でシンジが毛布を羽織ったまま、畳の上に転がって眠っていた。


 “逃げるなら今よ”

 悪魔の声だろうか。
 心の中でそういう声がした。

 眠る前にシンジと話していた時に渦巻いていたモノが、たちまち消えていく。
 かわりに、『もう一人の私』が、冷たく耳元にささやく。



 ‥‥そうね。
 ここには食べ物があるみたいだからね。

 熱も引いている。
 今ならいける。


 こんな男と一緒にいる事はない。
 こいつの優しさがいつまでも続くはずがない。

 あの時と同じ思いは、もうしたくない。

 今だけ甘えさせてくれても、助けてくれても、
 けっきょく最後に私は捨てられるんだから。
 大事にしてあげるって口で言っていてもと、きっとこいつは私を裏切られるんだから。

 ‥‥ううん、人間なんてみんなそうね。ママだって、一生愛するって言った男に
 簡単に捨てられちゃったもんね。

 だから私は誰にも頼らない。一人で生きるの。

 シンジに頼りたい。でも、それは我慢しなければいけない気持ちなのよ。



 青く、薄暗い部屋を見渡し、いつしか私は凶器を探していた。
 壺に、テレビに、熊の置物に‥‥人殺しの役に立ちそうなものは、辺りに見つからない。



 “でも、首を絞めれば‥‥”


 殺してしまえば‥‥。
 一人ぼっちになるかもしれないけど、こいつに
 裏切られてひどい目にあうよりはいいと思う。

 表面だけ大事にされるなんて、もう私はまっぴら。

 昨夜のシンジの台詞だってさ、ホントは私をずっと守ってくれるってわけじゃないよね、きっと。
 だいたいさ、いまどき、ずっと一人の女を大切にする男なんて、いるわけないもん。



 だから、私はシンジの首へと手を伸ばしていた。


 「‥ア‥ス‥カ‥‥」

 その時、シンジの寝言。


 「‥アスカ‥‥いっちゃダメだよ‥」

 私の名を呼びながら、シンジは泣きそうに顔をしかめた。





  『あなたが碇君と抱き合っていた時に感じていたものも、無くなるのよ。』
   ‘‥‥だから、私‥‥本当に大事な友達とか、側にいる人とか‥‥。’


      『今、あなたが心の中で思ったこと、本当にできるの?』
            ‘うん。やってみる。’

            『心を裏切られても?』
           ‘‥‥私‥‥それでも‥‥’


             ‘ありがとう、レイ‥‥’
          『あなたを待っている人がいるわ‥‥‥』





 「私、何やってるんだろう‥‥‥。」

 ファーストとの約束や昨夜のシンジの言葉――私の心が軋みをあげた。


 意地を張って、また大事なものから逃げだそうとしている自分に気づいた。

 私は細い首筋に伸ばした手を下ろし、眠る彼を優しくなでてあげた。


 私に優しい今のシンジが、なぜか悔しい。

 それ以上に、首を絞めようとした自分が、とてもイヤらしい生き物に思えた。



 ありがとうと言うことも、素直に笑うこともできない自分。
 裏切られるのを恐れて、シンジとの間に壁を作りたがる自分。
 シンジを信じられそうにない自分。

 シンジはこんなに頑張ってるのに。


 殺そうなんて思った自分は‥。

 私、まだ何にも変わってないって事ね。

 これじゃ、シンジの事なんて、なんにも悪く言えない。
 あのとき首を絞めたシンジと、これじゃなんにも変わらないじゃない。

 ううん、あれからシンジは私の為に本当に色々としてくれたから、
 世話になりっぱなしで意地を張りっぱなしの私のほうがむしろひどい人間かもしれないわね。



 ファーストとも約束したもんね。
 もう、一人では生きないって。

 そうよ。
 本当の私は‥‥一人で生きると口で言っても、一人はイヤだもん。





 “やっぱり、もう一眠りしよ‥”

 まだ暖かみの残る自分の布団に戻り、私は静かに目を閉じた。
 きっと、次に起きるのはシンジが先だろう。私、朝は苦手だからね。


 でも、起こしてもらったら、少しでもいいから素直になってみよう。

 たぶんすぐには無理だけど、いつかシンジの事を少しは信じられるように
 なるかもしれない。


 昨日シンジがしてくれた事は、忘れちゃいけないような気がする。


 私の為に泣いてくれるなんて、あのシンジが。

 誰一人、私の事で泣いてくれる人なんていなかった、この私の為に‥。


 もし、これからも今と変わらず、私を真剣に見てくれる、守ってくれるのなら‥
 私がほんとはどんな人間か、知っているのに見てくれるんなら‥‥


 まだ恐いけど、シンジは私をホントに大事にしてくれるって、
 信じる事ができるかもしれない。


 恋人になんてなりたくないけど、親友くらいにはなれるかな。
 そうしたら、万が一ふたりだけの世界だったとしても、もう一度
 生まれてきてよかったって私にも思えるようになるのかもしれない。

 私の期待しすぎかな‥どうなんだろ‥‥。
 でも、今はいい夢を見続ける事にしよう‥‥。






 朝、アスカが目覚めると、彼女の枕元にはシンジが座っていた。

 「おはよう」
 「うん‥‥おはよ。」

 「すぐにご飯、持ってくる。
  もう、準備はできてるから。」

 シンジが食事を持ってくるために部屋の外に出ていく。


 「ふわぁあああああああ‥‥」

 眠い目をこすって思いきり伸びをした後、アスカも布団を出た。

 ガラスのない窓辺に腰掛けると、気持ちのよい朝風が痩せた頬を撫でる。

 今日は、とてもいい天気だと彼女は思った。




 「アスカ、もう動いても大丈夫?なんならそこの机で食べる?」

 「うん。」


 戻ってきたシンジの手元にあった大きなお盆、その上に並べられた
 朝食を見て、アスカが軽い驚きの声をあげる。

 湯気をあげるベーコンエッグとオニオンスープが、まず彼女の目に留まった。
 ほどよい焦げ色のついたクロワッサン、それと竹輪とほうれん草のお浸しも、
 眠っていた彼女の胃袋を目覚めさせ、恥ずかしさにアスカは赤面した。


 「‥これ、全部私が?」

 「気にしないで。全部、アスカが食べて。僕はもう、食べたから。」

 「‥‥‥うん。」

 むしゃむしゃと食べ始めたアスカを、シンジは幸せそうに眺めている。

 「どう?材料は真空パックの奴ばっかりだから、あんまりおいしくないかもね」

 「ううん。」

 「そ、そっか、よかった。」


 アスカが、ちらちらとシンジのほうに視線を送っている。

 ありがとうを言おうにも言えない彼女の気持ちに、勿論シンジは気づいていない。




 「ごちそうさま。」

 「ちょっと待ってて。今、熱い紅茶用意するから。」



 食後、シンジが部屋を出ていった後、一人になったアスカは部屋のテレビの
 ブラウン管を鏡代わりにニッコリと微笑んでみた。

 こんな顔でもシンジは喜んでくれるのかな‥‥灰色のガラスに映った、別人のように
 すっかりやつれた顔を見て、彼女は溜息ひとつ。

 これじゃ魅力的でも何でもないわねと思いながらも、アスカは
 枕元に置かれていたヘッドセットで横髪を束ねはじめた。




      *         *         *



 十数分後、湯気の上るマグカップを二つ手にしたシンジが戻って来ると、
 食事を終えたアスカは窓から外を眺めていた。


 「ねえ、どうしたの?お茶、入ったよ」

 「‥‥‥ファーストが‥‥」

 シンジのほうを向かずに、アスカはそう答えるだけだった。

 窓から入ってくる風に、栗色の髪が柔らかに揺れている。


 「ん?ああ‥綾波の事?」
 「シンジも気づいていたの?」

 「うん。ご飯の材料を取りにコンビニに行く途中にね。
  昨日まではちゃんと見えていたのに、今朝になったら綺麗に消えてた。」

 湯気のあがるマグカップをアスカに手渡しながら、シンジはそう答えた。


 「どうしてだろ?」
 「どうしてかな?」

 “やっぱりそういう事なのかな?”
 “やっぱりそういう事かもしれない‥‥”

 この時、シンジもアスカも殆ど同じ事を考えていたが、
 互いにそれを口に出すことは無かった。



 「‥‥あ、忘れてたんだけど、ここってお風呂ないの?」

 「うーん‥‥ある事はあるんだけど、動くのかな?プロパンガスだから、
  ガス漏れとかしてたら恐いと思って、調べてない。」

 「そっか、じゃあ、私が後で調べてあげる。これでも私、そういうの得意だから。」
 「アスカが!?」

 「何よ、私の事、エヴァに乗れない時はなんにもできない女だと思ってるでしょ」
 「ちっ!ちがうよ!!誤解だよ!!」

 意外そうな表情のシンジにむくれるアスカ。
 いつの間にか、シンジと言葉を交わす事に彼女は躊躇わなくなっていた。



 「私、大学では理系の研究室に入っていたの。だから、そういうのを
  いじるのには慣れててね。」

 「そうなんだ、でも、どうして?」

 「私のいた研究室はね、研究費が少なかったせいもあって、すっごいボロの
  ガス供給器を使ってたのよ。だから、そういうのはお手の物。
  私も何度も修理したわ。」

 「あの、アスカが?」
 「だから、そんな意外そうな顔しないっ!!」

 「ご、ごめん」
 「進歩がないわね。また“ごめん”だなんて。
  謝ってばかりだと、ホントに謝りたいときに信じて貰えないわよ。」

 そこまで冗談混じりで話していたアスカだったが、そこで急に真顔になると
 『私もあんたに“ごめん”って謝れればいいのにね』と呟いた。

 うつむき加減の彼女の顔がちょっと紅い事に、シンジは気づいていた。


 「い、いいよ。僕がアスカを傷つけ続けていたんだから。アスカが謝ること‥」

 困った顔でフォローを入れるシンジの言葉を遮って、アスカは続ける。

 「ううん、私だってあんたにはずいぶん酷いことしたからね。でもね、
  まだ、自分の悪いところを謝れそうにないのよ、素直に。だから、
  もう暫く待っててほしいの。」


 「うん。わかったよ、アスカ。ありがとう。その言葉だけで嬉しいよ。」

 シンジもその言葉に真摯に応じた。


 「その代わりね。」

 「なに、アスカ?」

 「私を裏切ったりしたら、それはナシよ。まだ私、あんたを
  全部信用したわけじゃないからね。そこは覚えておきなさいよ。」

 「わかってる。そのかわり、アスカも隠し事はしないで。」

 「‥‥。」

 「辛いときとか嫌な事は、何でもはっきり言うんだよ。そうしないと僕、
  また知らないうちにアスカを裏切ってしまうかもしれないからね。
  そういうのに、不器用だから‥‥。」

 「そんなのわかってるわよ。」

 「うん。」

 「それなら、今日から仮の友達ね。」

 「仮の友達?」

 「ええ。そんなとこね。まだ、ホントの友達じゃないかな。
  ま、改めて、よろしくね」

 「う、うん‥‥。よろしく。」


 ぎこちなく握手を交わし、そして笑顔を見せる二人。


 少年も少女も、やつれて汚れた顔をしていたが、それでもどこか幸せそうな笑顔だった。





                          →to be continued








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