生きててよかった 第1部 「生きててよかった」
Episode-20 【アンバランス】
「葛城、大丈夫か!?葛城!!」
「加持‥‥ちゃんと戻って来れたんだ‥」
「ああ。青葉君達とももう会った。もうすぐ迎えもくるぞ。
お前、ちゃんと立てるな?」
「ええ、なんとか。
それよりシンジ君とアスカが‥‥」
:
:
:
「そうだったのか‥‥わかった。じゃあ、行こうか。」
「‥‥私‥‥」
「今はそれ以上何も言うな、葛城。とにかく、二人を探そう。」
「ええ、そうね。」
-----------------------------------------------------------------------------
私の目の前に、獣のような目をした男達が立っていた。
一人、二人‥‥全部で‥三人、私を見下ろしている。
戦おうか?
でも、武器もない上、歩くこともおぼつかない私には、どうする事もできない。
じゃあ、助けを呼ぶ?
誰も‥‥来てくれる筈がない。
シンジも、ミサトも、誰も私なんて見てくれないもの。
今頃あいつらは‥‥。
「誰もいなくて困ってるんだね、君。」
「何なのよ、あんた達」
睨み付けたつもり。
だけど、ニヤつく男達の表情が、私の虚勢をどこかで
萎えさせていたのかもしれない。
男達は、そんな私を見て逆に喜んでいたから。
「見ろよ、この表情!!」
「たまんね〜〜!!」
「お前、どうして欲しいんだ?言ってみろよ」
「こ、これ以上こっちに来ないで!!!来たら殺すわよ!」
「はやく来てだとよ!!ひゃひゃひゃひゃひゃ!!」
「ひゅーひゅー!!」
「殺すったって、どうやって俺達を殺すのかなぁ?教えてよ。」
ゲラゲラと笑いながら男達は一歩一歩、私に近づいてくる。
何をしようが行く末は同じだと言うことを、私は知っている。
こんなところでこんな奴等に私は‥‥。
これから自分を待っている運命が恐かったけど、少し自暴自棄な気持ちが、
叫びたい衝動に不健康なブレーキをかけていた。
「おっ!睨んでる睨んでる!!こわいこわい!!」
「でも、心の中は怯えまくってるんだよな〜!!」
「ダメだ!俺、我慢できねぇ!!!」
突然、私の正面に立っている太った男が、私にのし掛かってきた。
涎のついた顔を、私の頬に近づける。
顔にかかった臭い息に、私は窒息しそうな思いを味わった。
「イヤッ!!!!」
「ぐぅぁあああああああ!!!!」
本能がそうさたのだろう、私の左足が男の股間を力一杯蹴りあげる。
たまらずのけぞる汚い男。
「ち、近づく奴はみんなこうなるのよ!!」
「こ、こいつ!!」
「ガキのくせに!!」
「もういい!!やっちまえ!!」
「う、イヤ!やめ‥‥イヤァアアアアアアアアアアアア!!!!」
「うるせーんだよ!!」
「あぐ!」
痛い!殴られた!
「おい、口にハンカチかなんか詰めろ!」
「‥‥ん‥‥うぐ‥‥」
このまま私、ここで‥こんな奴らに‥‥イヤなのに‥‥絶対にイヤなのに‥‥。
“そうだ。死んでやる!!”
でも、ハンカチのせいで舌も噛めないんだ。
「胸は小さいくせに、スタイルは悪くないな、さすがガイジンのガキは違うぜ」
「一度、こういう事をしてみたかったんだ!」
こんなのってないよ。
ひどいよ。
せっかく生き返ったのに、なんでこんなに辛いことしかないの?
なんで私、こんな目に遭わなきゃいけないの?
エヴァの中で殺されたときと同じ。
また誰も私を助けてくれない。
みんな、私を見捨てるだけ。
誰も私を守ってくれない。
シンジも誰も、また来てくれない‥‥。
こんなにひどい目に合っているのに‥‥。
「さっきはよくも蹴ってくれたな!!死ぬほどボロボロにしてやる!!」
-------------------------------------------------------------------------
「イヤッ!」
聞こえた!?
聞こえた!!
確かに今のはアスカの悲鳴だ!近い!!
「どこだ!?アスカ!?」
「アスカ〜〜〜!!」
名前を呼んでから静かに耳を澄まし、ゆっくりと辺りを見回す。
時刻は、曇り空の午後4時。
吹きすさぶ風は、時間とともにますます強くなっているような気がする。
早く、アスカを見つけて帰らないと。
ん?
“‥‥あれは?”
遠くの廃墟の影に、誰かいる。それも一人じゃない。
‥柄の悪そうな男だ‥‥。
もしかして‥‥もしかすると‥‥!
「まさか‥‥‥襲われてる!?」
口に出すと、『襲う』という言葉はとても恐ろしく聞こえる。
そんなの、絶対にイヤだ。
「アスカ!!!」
恐怖も忘れ、その怪しい集団に向かって僕は走った。
途中、何度も瓦礫に足をとられたが、それでも走り続けた。
近づくうちに。
事態を知ってしまう僕。
風に乗って聞こえてきたんだ、奴らの声が。
悪い予感を僕は確信に変えた。
「よくも蹴ってくれたな!!死ぬほどボロボロにしてやる!!」
「やっちまえ〜!!!」
「見ろよ、この歪んだ泣き顔!!」
「さっきの威勢はどうしたんだ!?」
急がないと!!
「やめろ、やめるんだ!!!」
急げ!!
あのビルの横に回り込めば見えてくる筈だ!!
僕は、アスカがそこにいることを確認するために、彼らのすぐ側に走り寄った。
「しつこいガキだ!!」
「おい、少し痛めつけろ!ほれ、足、怪我しているみたいだから。」
「このっ!!」
『!!!!!!!!!!!!』
喉を絞るように太く苦しげなアスカの絶叫。
耳を塞ぎたくなる。
「アスカ!!!」
「足、痛いか、ガキ。」
「さっきの威勢はどうしたんだい?お嬢さん?」
「ひゃっひゃっひゃっ!!さぁて、そろそろ始めようかねぇ。」
そして‥‥‥。
「ああ‥アスカ‥‥‥」
僕の目に、見たくない光景が飛び込んできた。
体を縮めて、アスカが必死に男達に抗らい続ける姿が見えたんだ。
男の一人が抵抗するアスカを殴りつけ、露わになった胸を鷲掴みにしていた。
ちらちらと見え隠れするアスカの顔や肌には、赤や青のアザが、
既にいくつもできている。
身にまとっていた黄色いTシャツは無惨に肩から裂け、
履いていた筈の青いジーンズが脇に捨てられていた。
口に詰め物をされたアスカの苦しそうな表情。
目からは、涙がいっぱい溢れていた。
-----------------------------------------------------------------------------
「アスカ〜〜〜〜!!!」
「ちっ!邪魔が入ったか!」
「このガキ殺して、続きをしようぜ。」
「そうだな。」
“大事にすると言いながら、こんな事になってしまうなんて。”
“僕は‥‥僕は‥‥!”
人は、このときの僕の状態を指して“錯乱”とか“極度の興奮”と
言うのだろう。
怒りやら自責やら、ごちゃまぜになった沢山の感情のせいで、
既に僕の頭はほとんど麻痺していた。
「さ、坊や、ちょっとだけ時間を割いてあげるからね。」
「これが何ていうアイテムか知ってるかい?ナイフっていうんだよ」
「ひゃひゃひゃ!!!」
怒りに徐々に浸食されていく自分の心を自覚する事は出来ても、それを
コントロールする術などなかった。
あったとしても、しなかったと思うけど。
狂い始めた僕の脳裏に、かつての惨劇が浮かぶ。
目の前のアスカの姿に、肉片にされた弐号機の記憶がダブった時、
僕の中から理性は完全に弾け飛んでいた。
“許さないっ!!”
“僕は、こいつらを許さない!!!”
“絶対に、絶対に許さない!!!”
「よくも!!!」
ポケットから取り出した銃のロックを素早く外し、
僕は男の一人に銃口を向けていた。
「へ?」
「お、おい‥」
「な、何だよ‥‥」
怒りのためか、少しくらくらする。
何も考えられない。
ただ、頭の中に、男共に対する憎しみだけがべっとりとこびりついている。
「死んでしまえ‥‥死んで‥‥!!」
「な、なあ、武器は捨てる!!」
「冗談やめろよ、な、な」
「こいつ、お前の女か?犯ろうとしたことは謝るから、な、なぁ」
奴らの振る舞い一つ一つに訳もなく怒りが沸いてきた。
「お前らみたいな奴ら‥‥死んでしまえばいいんだ‥‥
お前らみたいなのがいるから‥お前らみたいな奴がいるからアスカは!!」
「よくも、よくもよくもよくも!!!!」
心はこんなに震えているのに、手は震えていない。
両手で握りしめた凶器の銃口は、
訓練そのままにピタリとひとりの男を見据え、離さない。
「助けてくれぇええ!!」
「お、おい、マジかよ!?」
「見ろ!この通りだ!!なっ!謝るから!!」
「殺してやる!!殺して‥‥殺して!!!!!!!!!!!!」
「殺してやる!!!!!!」
僕の中にかろうじて残っていた抑制の糸、その最後の一本も、
プツンという音も高く、無惨に弾けた。
ぱん
半ば無意識のうちに、僕は引き金を引いていた。
どさり、という音を立てて、顔を打ち抜かれた男が目の前に倒れ、
血が滝のように吹き出し始める。
「ひぃいいっ!!」
「に、逃げろ!!」
ぱんぱんぱん
さらに銃は吠え続けた。
鉛の凶器は謝る一人の首と腹部に穴を穿ち、逃げようとした
もう一人の太股を貫いて真っ赤な血柱をあげた。
「あぐぅうううぉおおおおおおおお‥‥助けて‥命だけは助けて‥助け‥」
ぱん
まだ息のあった男の顔面にも銃を撃ち込んでから、僕はアスカに走り寄った。
人を殺したという罪の意識は――少なくともその時は――全く感じていなかった。
目の前の女の子だけが、僕のすべてを支配していたから。
「アスカ!!アスカ!!!!」
口に入っていた詰め物をとってあげ、露わになった肩を抱いた。
「‥‥うううう‥」
余程恐かったのだろう。
アスカの体の震えが伝わってくる。
「アスカ‥‥」
「‥‥ぅううぁああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!」
僕に体を預け、突然大声で泣き始めたアスカを、しっかり抱いた。
血と火薬の匂いも気にならない。
周りに倒れる死体のことも、自分の行った殺人行為も。
ただ、目の前で泣きじゃくるアスカを、強く抱きしめてあげる事しか、
僕は考えたくなかった。
そうしてあげることが、今は僕に出来る一番の事だと思ったんだ。
「‥恐かった‥‥恐かった‥‥恐かった‥‥」
「もう、二度とこんな思いはさせない。もう、二度と‥‥。」
しがみついて泣くなんて、アスカ、初めてだ。
アスカもこうやって泣くこと、あるんだね。
----------------------------------------------------------------------------
夕刻の憂鬱な空から冷たい雨が降り続いている。
ミサトと加持が少年少女を見つけたとき、二人は何も言わず、
ただ静かに抱き合っていた。
すぐ側にアスカのジーンズと三人の男の死骸、そして、一挺のベレッタが
転がっているのを目撃した時、二人の大人は我が目を疑った。
「シンジ君‥‥」
「こ、これ、どうしたの?」
問いかける大人達に、シンジは何も答えない。
黙って雨に濡れたまま、肩に顔を埋めるアスカの髪をシンジは一撫でした。
「まさか‥みんな君がやったのか‥」
「ねえ、どうしたの?」
「‥‥僕が、殺しました。」
「アスカが‥‥ひどい目にあっていたんです。」
「だから、助けるために撃ってしまいました。仕方なかったんです。」
静かな雨音にさえも紛れてしまいそうな声で、ようやくシンジが答えた。
半裸のアスカは、シンジの首に縋り付いたまま何も言わない。
「そうか‥‥。」
「シンジ君は、なにも悪くないわよ。」
加持は落ちていた銃を拾ってゆっくりと眺め、
それを背広のポケットに納める。
「そう思いたいです。だけど、人殺しには違いないです‥‥」
「だけど、殺さなければアスカが酷い目にあってたんだろ?」
「今は非常時なのよ。大事な人を守る為だったんなら、仕方ないわ。」
「そう‥‥ですよね‥‥。もう、イヤだったんです‥‥
もう、僕はアスカを失いたくないんです‥」
「ええ、だからシンジ君は悪くないわ。今日のことは、忘れなさい。」
「‥‥‥。」
「そ、それより二人とも、私たちと行きましょ。青葉君達が、待ってるわよ。」
「さあ、アスカもズボンはいて。ここにいてもしようがないさ。」
「誰があんた達なんかと!!」
突然声をあげたアスカに驚くミサト達。
アザと擦り傷だらけの顔で、アスカは“私は、シンジといる!!あんた達となんか、
絶対に一緒にいたくない!!”と大声で繰り返し始めた。
「アスカ‥‥」
「でも‥‥」
「‥‥‥」
加持も、ミサトも、シンジも、それぞれがそれぞれの表情で少女を見つめる。
彼女の頬には、埃と涙の白い筋が残っていた。
「私を見てくれるのは、シンジだけだもん!!
あんた達大人は!あんた達大人は!!」
「さあシンジ、二人で行きましょ。こんな奴らに用はないわ。
ぎゃっ!!」
立ち上がろうとして、またもアスカは無様に転んだ。
痛そうに顔を歪める。
「アスカ!どうしたの?」
「痛い‥‥また、足、怪我したのかもしれない。」
「どうした?」
手で右足を押さえるアスカに加持が走り寄った。
「そこ触らないで!!ああああ!いたいいいいいい!!!」
「痛い!痛い痛い!!!!!!!」
「我慢するんだ、アスカ。」
「シンジ君、靴下を脱がしてやってくれないか?そう、そのままゆっくり‥‥」
「どうですか?」
「赤くなっているな。捻挫や靭帯損傷くらいならいいが‥‥
まあ、骨折ではないと思うが。」
「これからどうしましょう‥」
「青葉が言うには、もうじき迎えが来る筈だが。それまで粘るしかないだろ‥‥」
「でも、いつ来るかわからないんじゃないですか?」
「どうする!?」
「あの、歩いて2時間くらいの所に、僕たちが勝手に住みついた場所があるんです。
そこまで行けば、食べるものとか、日用品くらいはあります。」
「そうなのか?」
「ええ。今日も、身を守る為の銃を手に入れようと思ってここまで来てたんです。
そしたら、こんな‥こんな事に‥‥‥」
「みんな‥みんな私のせいよ‥私が‥私が‥‥」
「ミサトさん‥‥。」
「葛城、今はやめろ。そうか、わかった。
仕方がない、雨を避けるために今晩はそこに行こう。
雨がやんでアスカの足が落ち着いたら、また湖岸に戻ればいいさ。」
「しかし、雨がひどくなってきたな。果たして、夜までに付けるか?」
「おんぶして大丈夫でしょうか‥‥」
「他に方法がないさ。案内してくれ。」
「ぼ、僕が運びます。」
「いや、いい。俺と葛城が運ぶから。」
「イヤ‥‥シンジ以外は触らないで、私に‥」
「アスカ、何言ってるんだよ!!」
アスカはシンジの腕にしがみついたまま、離れようとしない。
激しさを増した雨が、彼女の髪や肩を冷たく撫でていく。
「イヤといったらイヤ!!お前達なんて!!」
「シンジ以外はダメ!!」
「我が儘を言うな!!」
加持がアスカに平手打ちをしたが、それも逆効果だった。
“よくもぶったわねぇ!!”との叫び声も荒く、逆上したアスカ。
結局、シンジの気の長い説得と抱擁をもって、アスカが納得するまでに
小一時間を彼らは要する事になる。
ようやく騒ぎが収まった後、加持がネクタイを解き、
その辺に落ちていた棒を使ってアスカの足を固定した。
ミサトも加持も、そしてシンジも、その間一言も口を開かなかった。
雨の音と時折聞こえるアスカのうめき声だけが、
彼らの耳を陰気に刺激し続けていた。
-----------------------------------------------------------------------------
私は、何故加持さんを憎んでいたんだろう。
私を構ってくれなかったから。
ミサトとシンジの面倒ばかりで。
二人だけ大事にして。
そうだったよね。
だけど今、私は加持さんの背中に背負われている。
嫌いな大人の背中。
最初は好きだったのに、気づいたら嫌いになっていた人の背中。
「アスカ、痛くないな?」
「‥‥‥」
加持さんの背中は、シンジのそれよりずっと広かった。
私の足を庇って、少し無理な姿勢を取ってくれている。
だから、シンジに背負って貰うより、痛くない。
嬉しくなんかないけどね。
ミサトも私をおぶろうとしたけど、それも必死になって断った。
“日没までに帰れなくなる”というシンジの言葉に仕方なく折れたけど、
嫌で嫌で仕方がなかった。
「痛かったら、すぐに言うのよ」
というミサトの言葉にも、私は決して口を聞かなかったわ。
時々右足にミサトの手が当たって、そのたびに痛かったけど。
絶対にミサトにも加持さんにも‥‥あの時私を助けてくれなかった大人達、
私を道具として扱うことを知っていたすべての大人達に頼りたくない。
私をセカンドチルドレンとして扱い、アスカとして扱ってくれなかった奴らに、
誰がすがるもんか。
だけど、シンジは違う。
あの時の、私を見殺しにしたシンジじゃない。
さっき、シンジは私を助けてくれた。
もうダメだと思っていたその時に。
今まさに、助けて欲しいその瞬間に、彼は駆けつけて、私を救った。
彼が現れた時の事も、あの時のシンジの言葉、シンジの顔つき、
シンジのした事、きっと忘れない。
何度も疑ったり嫌いになったりしたけど、今度こそ本物よ。
今度こそ、今度こそ!!!
シンジだけを私は信じるし、私はシンジだけを大事にしたい。
せめて、恩は返したい。
だけど、他の人になんて誰が凭れるもんのか。
加持さんやミサトなんて、誰が信用するもんか。
-----------------------------------------------------------------------------
「着きました!加持さん、あの建物です!!」
シンジの怒鳴り声が、やかましい雨音に混じって加持達の耳に微かに届いた。
何も答えずに加持とミサトはシンジの指し示す民家を目指し、再び歩を進める。
夜の帳の中、遠くに見える初めての建造物に、大人達も心の中で
安堵の溜息をもらしていた。
* * *
一行が民家にたどり着いた頃には、空は嵐の様相をさらに深めていた。
激しさを増した雨が容赦なく彼らの体を叩き、時折遠雷の低い音が空に響きわたる。
店の前の谷川も、先日までの清らかな姿を一変させ、今は逆巻く泥流と化していた。
時刻は、既に午後8時である。
垂れ込めた雲のせいもあって、既に辺りは濃い暗闇に包まれている。
シンジが玄関のドアを開け、皆がそれに続く。
「待っていてください」
と言い残し、懐中電灯を持ったシンジだけが家の奥へと入っていき、大人二人と
アスカは玄関の中で彼を待った。
雨や風を免れるだけでも、彼らの気持ちは随分楽になっていた。
「さすがに疲れたな」
「ええ。」
アスカをそっと鴬張りの廊下の上に寝かし、加持は大きな溜息をついた。
ちらりと少女のほうを見るが、暗闇の為にどんな表情をしているのかまでは
わからない。
ただ、トタンを叩く雨音に混じって聞こえてくる荒い呼吸音だけが、
彼の耳にも届いていた。
「アスカ、ホントに大丈夫なの?」
「正直、俺にはわからん。医者でも看護婦でもないからな。」
「加持さん!ミサトさん!タオルと救急箱持ってきました、
アスカをお願いします。」
「ああ、ありがとう、シンジ君も体拭けよ。」
「いえ、今はいいです。ちょっとコンビニ行って色々取ってくるから。
あ、あと、奥の部屋、ランプつけときましたから。
着替えるものとかアスカのパジャマとかもあるんで、行って下さい。」
シンジは早口で彼らにそう告げると、玄関の外に飛び出した。
「昼間の事といい、今のといい、シンジ君、少し変わったわね。」
シンジが出ていき、暗闇の中でミサトが呟いた。
隣に座っていた加持はそれに対し、こう答える。
「いや。俺達ネルフの大人が駄目にしていただけかもな。
彼は元々、今時珍しいくらい、いい子だからと俺は思うが。」
彼にしては、語気が荒い口調だとミサトは思った。
「ええ、私がいけないのよ、みんな私がいけないのよ。」
「葛城、それは違う。いや、そうだとしても、これからはそうじゃないさ。」
「だけど!私、誰一人、守れなくて、誰一人助けられなくて、みんなを傷つけて‥」
「あの世界で、約束したじゃないか。もし、戻るなら、
今度こそ二人の母親をやると。今暫くはアスカに嫌われるって事も、
わかっていただろう?」
「そうは言っても!!」
「‥‥もう、今はよそう。それより、アスカを奥の部屋に運ぶんだ。手当をして
やらないと。」
「そうね、無駄話はやめて、急ぎましょ。」
長い沈黙の後、そんな言葉を交わして、二人はアスカを抱えて
暗い廊下を歩き始めた。
------------------------------------------------------------------------------
「シンジ君は?」
「アスカにつきっきりさ。俺が交代すると言っても、全く聞かなかった。」
「そう。それにしても、こんな浴衣を着せられるなんて‥‥」
「何も無いよりはマシさ。食い物や飲み物だってあるんだし。
シンジ君に感謝しないと」
「ええ、わかってるわ。青葉君達、今頃どうしてるかしらね‥‥」
「ところで、俺がいない間に何があったんだ?アスカとの間で?」
「ええ、とにかく色々あったのよ。」
「あの娘が追いつめられていくのを見ているだけで、私、何もできなかった。
いいえ、何もしなかったっていうのが正しいかもね。
シンジ君にはあれこれ構ってあげながら、アスカには指一本動かさなかったの。」
「だから、こっちの世界に戻ってきて、アスカに復讐された。
体のアザは、その時のものよ。」
「構わないなら、どういう事か教えてくれないか?」
「とにかく何もできなかったの。私。そうとしか、言いようがない。」
「精神崩壊していくアスカを、黙って見ていたの。
助けてという声にも聞こえないふりしてたの。仕事をいつも言い訳にして。」
「どんなにアスカが辛そうでも、何も、何もしてあげられなかった。」
「それだけじゃない。私はあの子に死ねって言ったの。
そういう命令を出したの‥‥。」
「作戦部長としては、正しい判断だった。」
「だけどね。」
「もう、私は、アスカに二度と顔見せできない。
あの娘を一度殺したのは、他でもない、私の命令だから。」
「葛城」
「何?」
「お前がそうやって泣いても逃げても、何にもならないんじゃないのか?
お前はそれで気が済むかもしれないが、アスカはお前を恨み続けるだけだぞ。」
「わかってるわよ、そんな事」
「わかってないさ。それに、もう自分を責めるんじゃない。
独りで背負い込むんじゃない。
後ろを見るのも時には大切だが、今は前を見ろ。」
「そんなのわかってるって言ってるでしょ!!何よ!人事だと思って
偉そうなこと言って!あんた、何様のつもりなの?」
コンコン
「加持さん、ミサトさん、入るよ」
「ほら、目、拭けよ。」
「うるさいわね。」
「どうぞ。」
「アスカ、やっと眠ってくれました。だから、僕ももう寝ます、隣で。」
「あの、ホントにいいの?私達が代わりについてもいいのよ。」
「駄目なんです。
アスカ、加持さんとミサトさんに絶対会いたくないってきかないんです。
だから、アスカの世話は僕がなるべくします。
それに、僕自身、少しでも側にいたい気がするし。」
「シンジ君、シンジ君じゃないみたいね。」
「え?」
「葛城!」
「な、なんでもない。わかったわ。何かあったら、いつでも呼んで。
じゃ、おやすみなさい。」
「おやすみなさい。」
「葛城、俺達は大人なんだ。少なくとも、彼らから見た俺達は大人なんだ。
大人は、せめて子供の前では大人をやらなければならないと思わないのか?」
「何よ、また偉そうに。あんた、いつからそんな偉い人間になったの?」
「‥‥偉そうだな、確かに。だが、俺達以外に誰が彼らを見てやるんだ!?
母親代わりをやるといったお前がそんなんで、どうするんだ?」
「‥‥うるさいわね!わかってるわよ!!
だけど、私はアスカを一度殺したのよ!
そこんとこ、あんた考えてモノ言ってるの!?」
「大声をあげるなよ、またシンジ君に聞こえるぞ。」
「‥‥‥」
「だだっ子だな、まるで」
→to be continued
戻る
抜ける
進む