生きててよかった 第2部 「pitiable passion」
Episode-05 【Are you remember tears of the parting?    .
              / あの涙を、あなたは覚えていますか?】








 「嫌な知らせだ。日取りが、決まったらしい。」

 「‥‥そう。で、それはいつ?」


 「5月7日、今日からちょうど20日後だ。伊吹君にも、もう連絡はしておいた。」

 「随分急ね。わかったわ、私も会いに行く。」

 「ああ、そうしてくれるとありがたい。俺も、今度ばかりは時間を作って、
  彼女の所に行こうと思う。」


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 「リツコの部屋に入るのは、これで最後ね‥‥。」

 思い切って開けたドアの向こうには、いつもの空気が待っていた。

 仏具や写経の為の品々はもちろん、香の匂いに満ちた6畳半の
 中心に座っているリツコも、以前と変わらぬ素振り。

 親友が取り乱していたらどうしようか、沈みきっていたらどうすれば良いのか。

 そんなどうしようもない事態すら予想していただけに、心の底からホッとした。


 「あら、今度はミサトね。また来てくれてありがとう。」

 「今度は‥‥って?」

 「今週は、面会に来てくれる人がやけに多くて。
  あなたの他に、マヤと青葉君も‥‥そうそう、あの加持君が
  来てくれたのには驚いたわ。あの人、
  今はとても忙しいって聞いていたのに。」

 「そっか、そうなんだ。」

 リツコの言葉に、ハッとする。
 これでは、余程察しの悪い人間でもない限り、何かが起こった事が
 見え見えではないか。そして、リツコの察しの良さは、
 私の知っている人物の中でも指折り‥‥。
 だが、彼女は穏やかな声でそんな私の杞憂を打ち消してくれた。

 「死刑の日取りはもう聞いてるわ、だからそんな心配顔はしないで、ミサト。
  こんな身の上でも、あなた達が来てくれる事には本当に喜びを
  感じているつもりよ。いつもありがとう、ミサト。」

 「リツコ!?」

 「死ぬこと自体は怖くないわ。
  おばあちゃんも去年死んじゃったから、もう心残りな人もいないし。」


 穏やかだがはっきりとした口調でリツコが語り続ける。
 切れ長の目も、いつもと変わらぬ光を湛えていた。

 その横顔を見ながら、私は一言も発する事が出来ない。
 今、自分がリツコに何を言うべきか、わからなかった。


 「そして、あの人に対する想いも、やり残した仕事ももう無い。
  今はただ穏やかに一切が過ぎていくだけよ。
  あなた達とも、こうしてお別れも出来た事だし。」

 「‥‥。」

 「結局人は、一人で生まれて一人で死んでいく。命ある者の
  宿命から逃れられないんだから、遅いか早いか、ただそれだけよ。」

 「‥‥。」

 「短い人生だったけど、その間、私なりに頑張っていろんな事をやって‥
  私は私の人生を生きたつもりよ。」

 「‥‥割り切ってるのね。」

 「私はもう数日で死んでいくんでしょうけど、それでも、あの人に出会えて、
  あなた達に出会えて、本当に良かったと思ってる。」

 「‥‥。」

 「ありがとう、ミサト。あなた達と同じ場所、同じ時間を生きられた事を、
  私は幸福に思ってるわ。」

 「リツコ‥‥」

 「ほら、そんな顔しない。前も言ったでしょ?あなたには、そんな顔より
  笑顔がよく似合うって。ミサトがそんな顔してたら、天国に行けないじゃない。」

 「‥‥ええ、でも‥」

 「私はいいのよ、私は。あなた達と何も変わらないくらい、
  かけがえのない人生を送ったって自負してるわよ。長さはたとえ短くても。」

 「‥‥。」


 今日も私は、リツコのそんな『説法もどき』に、圧倒されかかっていた。

 ここに来るときには、不幸な友人を慰めようといういう気持ちで一杯なのに、
 いざ帰るときに清々しい気持ちになっているのは私のほうという、毎度のパターン。
 最終日の今日も、どうやらその例外では無さそうだ。

 いや、ひょっとしたら、最初から私は、彼女から安らぎを得る為に
 ここに通っていたのかもしれない。

 リツコの解脱しきったようで、それでもどこか暖かさの残る態度と言葉は、
 子供達と仕事に疲れた私の日常にとって、確かに無くてはならないものに
 なってきているような気がする‥‥。


 とにかく、今日は面会時間ぎりぎりまで残ろうと思う。
 悔いのないよう、精一杯リツコと言葉を交わすつもりだ。

 そして、小さな救いを胸に、街へ戻ろうと思う‥。

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 大学に入って、ちょうど一週間が経った日の出来事だった。


 まだまだ慣れない学食で独りのお昼を食べていた時、
 どこかで見覚えのある人影を見かけ、僕は箸を止めた。

 眼鏡をかけた元気そうなその人物‥‥‥誰かと思ってよく見ると、
 それはケンスケだった。

 何があったのか、ここ半年くらいは少し元気のなかった彼だけど、
 それが嘘のように明るい表情をしていた。
 きっとすぐに判らなかったのは、そのせいだろう。


 「あ、ケンスケ!」

 だから、声をかける事に躊躇いはなかった。


 「シンジじゃないか!」


 こうして再会を果たした僕達。


 一ヶ月くらい前は結構会ったいたはずなのに、
 妙に懐かしく感じられるのが不思議だ。

 二言、三言‥‥言葉を交わす。
 会話の中、お互い昼休みが忙しい事を知った僕たちは、
 講義が全部終わってからゆっくり会おうという約束を交わし、
 しばしの別れを告げた。


  *            *             *



 カランカラン
 『いらっしゃいませ〜』


 待ち合わせ場所に指定していた学校前の狭い喫茶店に入ると、
 入口近くの広いテーブルにケンスケが座っているのが目に入った。


 
 「あ、もう、来てたんだ‥‥待たせちゃったかな?」

 「いや、そんなには待ってないよ、気にするなって。」


 アイスティを注文し、僕も向かいの席に腰を下ろす。

 テーブルに視線を落とすと、置かれている沢山の雑誌や空のコーヒーカップが
 目に入る。彼の言葉とは反対に、随分待たせてしまったみたいだ。

 『ごめん』という言葉が喉から出かかったけど、僕はそれを自制した。



 「久しぶりだな、シンジ。どうだ?この大学?」

 「え?うん、一応志望校だからかもしれないけど、満足してるよ。」

 「俺、この大学は滑り止めだったんだけど、意外と悪くなくてびっくりしたよ。
  第二新東京ほどじゃないけど、勉強する所も遊ぶ所も、きっちり揃ってるし。」

 こういう時のお約束通り、互いの近況を話し合う所から、会話は始まった。

 新しい学校の事、互いのアパートの場所と電話番号、
 見つけた安くて旨い店‥‥話題なんていくらでもある。
 お互い、遠い街に来て間もない時期だからかもしれないけど、
 僕達は、凄い勢いでいろんな事を話し合った。


 “これは長くなりそうだな。”
 冷たいお茶を飲みながら、そう思った。

 ケンスケも同じ事を考えているのだろう、店のマスターにコーヒーのおかわりを
 注文している。


 「そうそう、アスカは元気にしてるかい?」

 「うん。毎晩電話してるけど、ちゃんと元気だよ。」

 「そうかぁ、毎晩か、仲いいよな、お前ら。」

 「ゴールデンウィークに、こっちに来るって。ケンスケも、家まで会いに来る?」

 「いや、いいよ‥‥フフフ‥‥ちょっと。」


 僅かに俯いて、思わせぶりに笑うケンスケ。
 なんだか不気味なものを感じながらも、僕は素直に聞いてみた。


 「フフフって‥‥どうしたの?」

 「いやぁ、今度のゴールデンウィークは、どうも予定が詰まっちゃいそうでね。」

 「はぁ?」


 「相変わらずお前は鈍いなぁ、こういうのって。デートだよ、デート。」

 「デート!?あの、ケンスケが!?」

 意外すぎる単語に、開いた口が塞がらない。
 いつの間に?あの、女なんてどうでもいいって言っていたケンスケが?

 一体、いつの間にデートなんかで喜ぶように‥‥。


 「失礼だな、シンジ。そんなにびっくりする事かよ。」

 「あ、ご、ごめん、その‥‥」


 「お前にはアスカ、トウジには洞木‥‥思えば苦節三年。
  ああ、やっと巡ってきたこの世の春‥‥俺は今、幸せだ‥うう」

 ガラスのテーブルをダンダンと叩いて悦びを表現するケンスケに、圧倒される僕。

 あ、店のマスターが横目でこっち睨んでる。
 何とかしないと‥。


 「あ、わわわかったよ、うん、じゃあ、僕達は僕達、ケンスケは
  ケンスケのG.W.ってわけだね。ほ、ほらもっと落ちついて、ね。」

 「そ、そうだな、ハ、ハハハ。
  とにかく、お前らはお前らで、お互いを大事にしろよ。
  俺的には、一応ベストオブカップル受賞者だからな、4年連続で。」

 「そ、そうなの?」

 「ああ、手本だと思ってるよ。」


 「ありがとう、まあ、見てなって!」

 僕にしては大胆な言葉にも、ケンスケは爽やかな表情を崩さずに
 『ああ、しっかり見させて貰うぜ』と応じる。

 “お手本、か‥。なんか、嬉しい。”
 



 僕が感慨に浸っていたせいか、会話がようやく途切れた。

 久しぶりに腕時計を見ると、既に店に入って一時間以上経っている。

 イラつくマスターを横目に長居するのも何だと思った僕達は、
 喫茶店を出て外で暫く喋った後、別れを告げた。


 久しぶりに楽しい放課後を送れた事を、僕は単純に喜んでいた。

 夕陽をバックにした帰り道、ケンスケの話していた事を思い出す。

 やっとケンスケにも恋人ができた事には、びっくりだ。
 女の友達なら、アスカをはじめたくさんいるケンスケだけど、
 特定の誰かっていうのは今まで一度だって無かったからね。

 長続きして欲しい。
 そう、僕とアスカみたいに、長続きできるカップルになって欲しいな‥。


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 シンジの家に行くのは、明後日だって言うのに、
 私ったら、もう準備を始めてる。

 着替えや下着、歯ブラシも、みんな詰め込んじゃった。
 おみやげに持っていく信州のワサビも、ちゃんと冷蔵庫の中に冷やしてある。


 「フフッ‥‥。」

 やることが無くなった私は、ベッドサイドの写真立てを手に取った。

 去年の夏休み、みんなで新潟の海に泳ぎに行った時に撮った、お気に入りの一枚。

 小さな長方形の中、お気に入りの水色ビキニを着た私が、
 ガサガサの白いTシャツ姿のシンジの肩によりかかっている。

 散々みんなにバカにされたり、からかわれたりした事と引き替えに
 取って貰った事もあってか、自分にとって一番思い出に残っている
 写真になっている‥。



 だけど誰もいない事をいいことに、こんな写真見てニヤニヤしている自分って、
 バカなのかなぁ。

 でも、好きなのよね、この写真。

いい男と、まあまあいい女。

 ううぅ早く会いたいなぁ‥‥そうだ、そろそろ11時だから
 シンジに電話しよっと。


 ピッ

 プルルルル・・

 「あ、シンジ?こんばんわ〜!」

 「うん、ご機嫌よ、だって、後二日よ、二日。嬉しいっ!」

 「‥‥やだぁ、そんなんじゃないわよ、バカシンジぃ!」

 「うん‥‥うん‥‥」


 電話をかけると、今日も彼に会える。
 目の前にいるわけじゃないけど、充分ってわけじゃないけど、
 声が聞ける間は、確かに彼と一緒にいるって実感があるもんね。

 早く会いたい‥‥きっと、電話の時とは比べものにならないくらい、
 私は幸せになれるだろうから‥‥。




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 電気の消された夜の部屋に、月明かりが差し込んでいる。


 大きな縞模様の影が、窓のほうから真っ直ぐに伸びていた。
 それは、アルミサッシに掛けられた鉄格子によってもたらされるものだった。


 青白い畳の上に、女が立っていた。

 何事かを可聴域の下限ぎりぎりで呟いている。



 「私の命」

 「私の願い」

 「碇ゲンドウと私」

 「葛城ミサト」

 タンスの上に置かれた鏡を凝視したまま、彼女は世迷い事とも思える
 不可思議な単語の羅列をなおも続ける。


 「加持君」

 「伊吹 マヤ」

 「私の大切な人達」


 「罪」


 「死」



 「私」


 「私」


 「私」



 ビリビリビリ


 突然、沢山の紙が破られる凄まじい音が部屋の中に響いた。

 畳の上に、破り捨てられた半紙がひらひらと舞い降りる。

 ボロボロに破られたそれらには、びっしりと経文が綴られていた。




 「あの人はもういないのに‥」


 「母さん‥‥」



 「イヤ!! 私‥‥まだ死にたくない‥‥!」



 やがて、それまで静かだった部屋に女のすすり泣きが小さく響き始めた。





                          →to be continued








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