その男は、嘗てはごく普通の男だったかもしれない。
 だが、エロスとタナトスの悪戯が、彼を変えたのだ。

  男は鬼と化した。
 仇を追いつめるために、彼は世界を巡った。
 目には目を、歯には歯を。
 憎しみとは、恐ろしいものだ。

  目的の為なら無垢の人々を殺める事も辞さぬ程に、男は堕ちた。
 血にまみれたその手を眺めては、苦悩を続ける孤独の鬼。
 「これでいいのか?」という問いに、無論、答えは返ってこない。

  が、それももう終わりだろう。
 これを最後に、苦しみも憎しみも、怒りも溶けてゆくと信じたい。
 一匹の鬼の物語が、今、終わりを告げる。
 ペンにもパンにもよらず、ただ、剣のみによって。





            open my heart 外伝:『KAWORU』






  密林の中を、重武装の兵士達の行軍は続く。
 気温は41度、湿度94%。
 植物からの蒸散と赤道直下の太陽がもたらす、うだるような熱さ。
 長袖と30キロの装備は、兵士達の命を守るために絶対必要なものばかりだが、
 それらは快適さと常に引き替えのものであった。
 だが、男達は、そういう事に慣れた、熟練兵ばかりであった。

  集団の前のほうから、突如「あれだ、止まれ」という小さな声がした。
 一行の歩みが止まり、先頭の者が指し示す建築物に皆が注目する。


 「着いたようだな」

 「うまいことカモフラージュしてやがる。排気ダクトも、あれじゃ
  赤外線で捕まえられない。確かにこれじゃ、空からの攻撃は難しいな。」

 「これに間違いないな。ロバート、後は頼む」


 「おうよ。」

 『イタリア先遣隊第四小隊より司令部へ。
  南二区の発電ブロックに到着。命令を乞う。』

 『こちら司令部。作戦はすべて予定通りである。爆破されたし』

 「了解」

 通信兵が通信を終えると、誰が音頭を取るというわけもなく、
 寡黙な兵士達は発電プラントへ向けて再び歩き始めた。


 ‥‥数分後、大音響と共に、ジャングルの数カ所から黒煙が立ち昇り、
 殺戮の宴が、幕をあけた。







 ガガッ
 ガガガガッ

 ドーン


 『フランス第一海兵空挺連隊、左翼より施設内に突入します』

 『ゼーレ研究者は、抵抗する者を除き、極力拘束せよ。
  繰り返す、ゼーレ研究者は‥‥』

 『北部第6変電所の制圧、成功した模様です。これに伴い、第一滑走路の
  防空システムは機能を低下させたと考えられます』

 「輸送機の連中に連絡。第一滑走路に戦自第二空挺団を降下させろ。
  エヴァ輸送機をすべて制圧した後、内部に突入させる」


 「全て順調ですね、サー。優秀な上官に恵まれた事を、神に感謝します。」
 「我々はまだ勝ってはいない。これからが本番だ。」


 緑濃い密林のあちこちから、どす黒い煙があがっている。
 嫌な風景だ。
 間断のない銃声や轟音、それに、超低空で頭上を越えていく強襲ヘリや
 戦術攻撃機の爆音が俺の鼓膜を叩く。

 それらは、俺のやっている事が創造ではなく、所詮は破壊に過ぎない
 という事をしつこいくらいに認識させる。
 20世紀後半からの大規模な伐採に加え、セカンドインパクトの
 気候変動で大打撃を受け、ここに来てようやく再生しつつある
 アマゾンの森を、自らの手で痛めつけることに、俺も躊躇せずには
 いられない。環境への影響は、出来るだけ少なくしたいものだ。
 それに、世界平和の大儀があるとはいえ、こうして人殺しを指揮し
 続けることにも疲れてきた。

 だが、奴等を根絶やしにしない限り、再び人間は絶滅の危機を迎えないとも
 限らないのだから、今は我慢しなければ。
 これでもう、終わりなんだから。
 終わりにするんだから。


 『カナダ隊です。下士官より、捕虜の待遇についての問い合わせが
  殺到していますが‥‥』

 「極力ジュネーブ条約に則った待遇を。ただし、無理な場合は
  現場の判断に委ねる。そう伝えろ。」

 『了解。』

 「サー、それでは司令部の意図を曲解する部下が発生します‥‥」

 「これがゼーレに対する私のやり方だ。
  結果として、双方の死者の数を減らすことができる。
  君も、狂信者相手の戦いというものに、早く慣れることだな。」

 「イエス、サー」

 新しい副官は、戦争の本質というものを理解していないと言える。
 指揮官は、効率というものを全てに優先させなければならない。
 俺も着任当初はアマアマだと本職の軍人共に何度も言われてきたことだ。

 『アメリカ歩兵第5大隊より司令部へ。東ブロック正面の敵を
  ほぼ制圧した。命令を乞う』

 「施設に侵入し、残敵を掃討せよ。」

 『ラジャー!』


 俺の仕事だった。
 使命だった。

 4年を賭けて、遂に、遂に見つけた奴等の基地。
 アマゾンの奥深く、密林の中にソレはあった。
 衛星の赤外線探知にも探知されず、航空写真にも写らぬ秘密の施設を
 見つけたのは、ネルフ諜報部の勇敢なスパイ達の活躍によるものだった。
 心底、俺は彼らの命を懸けた活動には感謝している。
 こうして、奴等を、憎むべき奴等を根絶やしにすることができるのだから。

 俺の指揮下の陸軍戦力だけでも約三個師団。
 それに対して、奴等は多くて数個大隊がせいぜいだろう。
 もはや、勝利に疑いを挟む余地はない。

 ミサトさん、見ていて下さい。
 これが、僕からあなたへの最後の手向けです。


 「日向司令、国連軍のベクター大将から、後方に下がり、
  指揮を執られたし、との通信が届いておりますが‥‥」

 「ここの留守番は君に任せる。私は第二通信予備隊とともに内部に突入し、
  前線の状況を把握してくる。私のノートのほうに、戦況は逐次届けてくれ。」

 「ですが、司令‥‥」

 「本部への言い訳は後で考える。至急、遊ばせてある予備の指揮戦闘車を
  連れてこい!!前線に出て、戦況を把握する。」

 「日向司令!!」

 制止する部下の声を無視して、俺は走ってきた一七式指揮装甲車に飛び乗り、
 奴等の潜む“巣”へと向かった。






  その部屋の中央、黒いテーブルを囲むように、老人達の憔悴しきった顔、顔、顔。
 ほのかな明かりの中に浮かび上がるそれらは、一見すると幽霊のようにも見える。

  13名のゼーレの最高幹部のうち、今ここに残っているのはわずかに5名のみ。
 かつて共にあった同志は、国連の手に落ちて『事情聴取』の果てに処刑されたか、
 逃亡中に事故で命を落としたか、あるいは自らの前途に絶望して自殺を遂げたか、
 ともかく、何らかの不名誉な形による死を遂げていた。


「もはや、ここまでだ。我々の願い、人類の希望は失われた。
 KAWORUのみでは、補完はあり得ない。」

  誰だろう。
 一人が乾いた声でそう言った。
 それに続くように響く、鋭い、だがどこか生気のない音の亡霊達。


「エヴァ14、15、16号機の建造も、遅々として捗らず、遂に今日の日を
 迎えるか。」

「人の滅びは、これで必定となった。愚かな碇の息子達の手によってな!」

「忌々しきは、あの2人の鬼子達!そして、リリス!
 まさか、無力な筈の餓鬼共が!」

「碇ゲンドウにしても同様だ。彼らの行動は、つくづく理解に苦しむ。」

「何を言っても既に手遅れだよ。人間を、人の力を軽視し、ただ永遠の
 安寧を求めた我らへの、これはあるいは神罰かもしれん‥‥」

「キール!貴様、この期に及んで何を言うのだ」

「苦い事実認識というやつだよ。
 とにかく、我々は負けたのだ、ネルフと、チルドレン達に‥。」

「同志達よ、我々が今なすべきは‥‥」


 ドドーン


  耳をつんざくような爆発音が、老人達の会話を中断させた。
 それに続いて聞こえてくる、おそらくは一方的であろう銃撃戦の、
 生々しい音と絶叫。また一つ、彼らの死が近づいたのだろう。


「愚か者め‥‥」

  キール・ローレンツのその忌々しげな言葉も、老人達にはもはや
 負け惜しみにしか聞こえない。
 あるいは、自分達自身の心境を反映しての印象なのかもしれないという
 事に気づく心の余裕を、彼らは既に失っていた。



 バタン

 ガガッ ガガガガッ

 ガガガガガッ



 「武器を捨て、手を挙げろ!抵抗する者は、射殺する!」

  突然、襲った殺戮の嵐は、亡霊達を沈黙させた。

 乱入した兵士達の手によって、老人達のうち、4人がたちまち銃弾に倒れた。

 「抵抗を放棄する。私は、キール・ローレンツ、人類補完委員会委員長だ。
  ジュネーブ条約に則った、捕虜待遇を希望する。」

  ひとり床に伏せて、無事だった老人の声を聞いて、兵士達が色めき立つ。


 「こちら、ドイツ第48分隊。人類補完委員会委員長を名乗る
  キール・ローレンツなる男を発見する。対応を乞う。」

 「拘束したまま、現地にて待機せよ。調査隊をそちらに派遣する」
 「了解」







「お前がキールだな!お前だな!!」

「貴様だ!!貴様が悪いんだ!!みんな、みんな貴様のせいなんだぞ!!」

「よくも、これだけの人間を殺したな!よくも、あんなものを作ったな!!」

「お前だ!お前が悪いんだ!!よくも‥よくも‥よくも殺したな!!!!」


 俺は、自分の感情を止める事が出来なかった。
 極秘の画像ファイルで数え切れないほど凝視したその人物を見たとき‥‥
 俺は、獣になっていた。
 昔年の恨み、そしてこれまでずっと抑制してきたあの感情を前にして、
 全く歯止めは存在しなかった。

 部下達に押さえつけられ、引き離されるまで、狂った俺はその老人を
 銃底で殴り続けた。


 「司令!やめてください!」

 「日向司令!」

 「そんなことをして、何になるんですか!」

 「ご自分の立場というものを、考えて下さい!!」

 「うるさい!お前達に何がわかる!こいつさえ殺せれば、俺はいいんだ!
  俺なんて、どうなってもいいんだ!!」




       *          *          *




 正常な意識が戻ったとき、キールと名乗った男は、アザと血でまみれていた。

 俺の体を押さえつけている部下達の必死の表情が、荒い呼吸の
 俺の心に、冷たい水を差してくれた。

 息を整え、手にしていた自動小銃を手放すと、周りが見えてくる。

 俺は自分の使命を思い出した。


 「‥‥すまない、みんな。
  議長、大変な無礼を働き、申し訳ありません。議長には、
  この件について提訴する機会をさしあげる事を、約束します」

 「‥‥‥。」

 「まず、施設の通信網を使って、あなたの部下に投降を呼びかけていただけない
  でしょうか?
  兵士をあまり死なせたくないもので。」

 「了解した。おそらく無益だとは思うが、やってみよう。」


 「その後、KAWORUの保存施設のほうまで、ご同行願います。」

 「うむ。案内しよう。」



 *          *         *




 20分後、老人によって俺達は施設の最も深い階層へと案内された。
 見たことも無い奇妙な螺旋模様のついたエレベーターを乗り継ぎ、
 地底の広大な空間に出る。
 キールの手によって明かりがつけられ、眼前に現れた光景は‥
 それはもう、異様なものだった。

 幅10メートル、高さ4メートルくらいの巨大な水槽の中、
 オレンジ色のLCLの中に、何人もの全裸の少年が笑顔を浮かべて
 浮かんでいたのだ。

 その少年の顔には見覚えがあった。

 確か、あの少年。

 渚カヲル、第十七使徒タブリス。

 ブーンという機器の駆動音だけの世界に浮かび上がる、それは
 悪魔の芸術だった。
 誰もが、その恐ろしく、奇怪で、美しいオブジェに暫し目を奪われた。




 「これで間違いなく全部ですね。」

 「そうだ。ここ以外に生産拠点は残っていない。」


 「どうします?日向司令?」

 「議長?くどいようですが、ここにあるもので本当に全部ですね?」

 「ああ。『部品』は他の階層にも残っているが、完成品はこれだけだ」

 「そうですか‥。すべて処分しろ」

 「了解。」


 銃声が薄暗い地底空間に木霊する。

 俺達は、その感情のない『人形』の体幹に、四肢に、顔面に、
 自動小銃で沢山の穴を穿った。

 うたれても尚、微笑み続ける人形。
 飛び散る肉塊、血。
 溢れるLCL。


 部下の一人が、『ヒヒッ』という奇妙な声を上げて銃を落としてうずくまった。
 無論、それをとがめる者など誰もいない。

 いつの間にか、足下が赤く染まっていることに気づき、
 見慣れていた筈にも関わらず、何故か俺も嘔吐した。








 2020年4月15日、俺は軍人としての任務を全て終え、
 出向先の国連軍第2軍団から特務機関ネルフにその籍を移した。
 軍人としての俺の生活は、こうして終わった。
 来月からはネルフ副司令として、俺は子供達の――そして世界の――
 為に尽くす事となるだろう。

 沢山の血生臭い光景が俺の脳裏にこびり付いている。
 殺した。
 この手でも何人も殺した。

 最愛の人の復讐は果たしたが、自分の手が朱に染まっただけで、
 何の救いもなかった。
 残ったのは、むなしさと悲しさ、そして嘔吐だけだった。

 一体、俺は何をやっていたんだろう?
 殺しても、恨みを晴らしても‥‥ただ空しいだけで、気持ち悪いだけで‥
 全部吹っ切れたとはいえなかった。
 作戦が終了しても、結局何も俺の中では変わりはなかった。
 俺は‥‥今も、苦しい‥。

 この方法が、一番適切だったとはどうも思えない。
 これからは、きっと違う方法を取らなければならないのだろう。



    *        *        *



 翌々日、日本に帰り着いた俺は、青葉達の所を真っ先に訪ねた。

 エプロン姿で玄関に出てきたマヤちゃんも、夕食後に上手くもないギターを
 弾き続ける青葉の奴も、とても幸福そうだった。

 そんな彼らに軽い嫉妬さえ覚える自分は、いったい何なんだろう。

“日向、お前、老けたんじゃないのか?”
 青葉にそんな事も言われた。

 そうかもしれない。
 俺は、どこか遠回りしていたのかもしれない。
 情けない限りだ。
 懐かしいエビチュも、マヤちゃんの笑顔も、こんなにいいもんだなんて‥‥

 その日は11時頃まで青葉の家に粘って、昔話や子供達の事で盛り上がった。



 夜、一人で歩く帰り道。

 日本の夜って奴は、騒がしいが、穏やかでいい。

 酔っぱらいの喧噪も、こおろぎの鳴き声も、どれも戦場にはなかったものばかりだ。

 遠くのほうから、だみ声の歌も聞こえてくるが、今はそれも心地いい。


“これが、平和か”

 知らず知らずのうちに、財布からあの写真を取り出す。

 街路灯の明かりの下、立ち止まってそれを見た。
 今日の彼女は、いつも以上に嬉しそうな表情をしていると、俺は思うことに決めた。


Episode-22に続く



 こんにちは、匿名希望です。
 拙作を読んで下さり、どうもありがとうございました。

 まあ、無くてもいいんですが、一応これが日向さんの最後の戦いの記憶です。


 彼は、本編ではこの後、あまり出てきません。
 出てはきますが、既に大分決心した後の日向さんです。


 2004年注;蛇足、という格言がありますが、まさにこれは蛇の足。
 外伝という取り扱いがぴったりでしょう。物語としても、それほど
 エキサイティングではなく、ただ事実を淡々と綴っただけのもの。
 だめです。






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