「‥‥ねぇ、私の事、好きなんでしょ?」

「好き。好きだよ、アスカ。」

「本当に?本当に好き?」

「そうだよ!」


「‥‥‥」
“そうだよなんて‥”

「もう口癖だね、アスカのそれ。」


「だって‥‥私には、他に何もないもん。シンジだけだもん。
 私には‥‥他に‥‥」

「僕だけって?
 そんなことないよ、あの洞木さんだっているじゃない。
 他にもトウジやケンスケにさ、流城もいるし、それに青葉さん達‥‥」
「ううん。私、シンジなしじゃ、ダメなの。
 友達とかじゃなくて、なんていうか上手く言えないけど‥‥
 一番大事なのは、シンジなのよ。
 シンジがいなくなったら、もうおしまいなのよ‥‥」




            Episode-24【心の痛み】


[1st part]


「‥‥」

 私の言葉に、シンジは長いこと答えられずにいるみたいだった。
 シンジの声音の僅かな変化には、さっきから気づいている。
 ううん‥‥シンジだけじゃない。
 私の声もきっと不機嫌な時のそれだと思う。


 青葉さんとマヤさんの幸福な結婚式に出席して、
 家に帰った後の私達の電話、その会話と呼べない会話。

 無言の合間ばかりが気になる。

 堅くて冷たい雰囲気が延々と続いて、私達の神経をジリジリと
 すり減らしていく。

 ‥‥そう。
 今夜も悪いのは私。
 私が辛いのも、シンジを不機嫌にしてるのも、きっと私のせいよ。

 でも、耐えられないのよ。
 あんなの見ちゃったら‥‥。
 帰りの電車であんな嬉しい事言われたから‥‥。


 「アスカのこと、ホントに好きなんだけどね。」

 「だったら!」

 「‥‥‥‥。」

 受話器の向こうのイラつく声を何とかしたい気持ち。
 それと、シンジに甘えたい気持ちが何度も火花を散らして衝突しては、私を苛む。
 また心の渇きを感じ始めた馬鹿な私は、今夜こそは止まれないような気がする。
 こんな馬鹿はやめなきゃいけないって頭では解っているつもりなのに‥
 ‥‥つもりなのにね。


「だからさ、シンジは‥‥‥あんな風に将来貰ってくれないの?」

「またそれ?もうやめてよ」

「私、シンジを裏切ったり離れたりするつもりないから。だから、
 シンジが相手なら。」

 そこまで一気に喋ったあと、
 私は『子供の夢とかって、絶対笑わないでよね』と呟いた。
 それが全然フォローになってない事は勿論知ってる。
 うん。
 シンジを困らせてる自分に対する、心の言い訳に過ぎないって。


「‥‥‥どう言えばいいのかな‥‥僕は」

“私の待ってる言葉、判ってる癖に。”

「何度言ったらわかるのよぉ。私、ほら、シンジしか見てないじゃない!だから!」

「でもさ、それって無茶苦茶だよ。おかしくなったの?アスカ。」

「おかしくなったなんて‥‥ひどい。
 私、ただ、シンジから離れたくないって気持ちを形にしただけじゃない。
 これからもこうして欲しい、ずっと一緒にいたいって、
 そう思ってるだけじゃない。」

「そう言われても‥‥先の事なんてわかんないよ。もちろん僕はアスカが
 好きだけど‥‥そんなずっと先の事なんて。
 頼むから、頭冷やしてよ」

 わかってるわよ、そんなのわかりっこないって。
 私、ただ優しい嘘を求めてるだけだって。
 ‥‥でも‥‥ 嘘でいいから、先の事なんてわかんなくていいから。
 ただ、とにかく今はイエスが欲しいの。

 落ちつきたいのよ、ごまかしの言葉でもいいから、今だけでも安心したいのよ。

「そんな事で決めることなの?第一、僕もアスカもまだ十八歳だし、
 そんなの全然だよ。それに‥‥アスカだって人間だから、
 気が変わっちゃうかもしれないし‥‥」

 でも、彼は‥‥
 シンジは、決してそうしてくれないのよね。
 ただ、真実を話すだけ。

 今の私が欲しいのは、冷えた正直よりも熱い嘘なのに。


「だから、いつも言ってるでしょ!!シンジのほうから裏切る事でもなかったら、
 絶対に私のほうからは裏切らないって!
 どうしてそんなに私の言うことが信用できないの!?」

「そうじゃなくて。今のアスカはもちろん信用してるよ、その言葉も。
 アスカはこんな欠点だらけの僕を好きでいてくれてる、ホント、感謝してる。
 でも、5年先や10年先のアスカと僕は、きっと今とは別人なんだよ、
 わかってる?」

「私は何年経っても私よ、シンジが大好きな私のままよ!5年後の私が
 信じられなくて、今の私が信じられるってどういうことなのよ!」

「だってそうじゃないか、アスカ、僕と最初に会った頃は
 本当にわがままでひねくれた女の子だったよ、
 でも、その後変わってくれたじゃないか!今のアスカに!」

「そ、それは‥‥」

「僕だってそれと同じかもしれないんだよ。
 今、アスカが好きだけど、先のことは、厳密にはわかんないよ」

「イヤ!!そんなの、聞きたくない!」

 そんなの、この私が頭でわかってないと思うの!?
 知ってるわよ!未来の私も、未来のシンジもわからないって!

 ‥‥だけど、そんなの、絶対イヤなのよ!
 そんな言葉、シンジからだけは聞きたくないのよ!!


「‥‥こんなに愛し合ってるのに?こんなに好きなのに?」
「‥‥‥」

 今の私、ホントにバカね。
 ヒステリー起こすなんて。
 こんなのいけない、でも、もう止まらない。
 誰か、私を助けて。


「五年後、十年後のシンジも、私は今と変わらないくらいシンジが好きよ、
 私、そう信じてるもん!だからシンジだってそうしてよ!!!」

「僕は‥‥わからないんだ‥‥今、アスカが好きだけど、
 これからもずっと好きかどうかなんて‥自信がないし‥‥それに、仕事とか
 いろんな事で、どうしても都合がつかないって事もあるかもしれないし‥」


「‥‥じゃあ、シンジ、どういうつもりで私を抱いたの?
 いい加減な気持ちで抱いたの?」
「何なの?シンジにとって、私って、何なのよ、ただの慰めの為の玩具なの?」
「あの時、シンジはずっと私を大事にするって約束してくれたじゃない!
 あれは、雰囲気でそう言っただけなの?」

 自分で言ってる事の馬鹿さ加減に、目頭が熱くなってくる。
 シンジと喧嘩するために電話したんじゃないのに。

 ただ、『好きだよ』って優しく言って貰いたくて電話したのに‥‥。

「そんな事聞かないでよ、僕だって完璧じゃないんだ、
 アスカが好きなのは間違いないけど、100パーセント純粋に‥‥」

「バカ!きまじめシンジのバカ!」

「バカはアスカだよ!わかるわけないじゃないか!
 さっきから訳のわかんない事ばっかり言って!」

 もう切りたい。
 イヤよ。そんなの聞きたくない。

 けど、つらくても聞きたくなくても今は切れない事を、わかってる。

 今切ったら、次に会うとき、次に話すときがもっと大変だって。
 絶対仲直りして、シンジが私を嫌わない形で電話を終えないといけないって。


 でも、抑制を失った私は、ただ泣き出すことしかできなかった。

「私がどんな気持ちであんたに抱かれたか、わかってんの!!」

「私が、私が、わたしがぁああ‥‥‥ううっ‥‥」

「ずっと一緒にいてあげるって‥‥聞きたかったのに‥」

「‥‥バカ‥‥シンジの、シンジのバカァ‥‥‥」


「泣いてるの‥‥ごめん、ごめんよ、アスカ」

「私、シンジなしじゃダメだもん‥」

「アスカはそんな弱い女の子じゃないよ、一人でもやっていけると思うし、
 美人だし‥‥」

「ちがう、ちがうちがう!」

「‥‥」

「何にもあたしの気持ちなんて判ってくれないのね、
 こんなに、こんなに、こんなに‥」

「僕だって。」

「え!?」


「もう、僕、今日は疲れた。アスカもそうでしょ?
 だから、もうやめようよ。」

「‥‥‥」

「それにしても、こんなにがんばってるのに、やっぱり全然アスカのことを
 判ってあげてないかもしれないね、僕。
 アスカも‥‥僕も気持ちをきっと知らないと思うしさ。
 もう3年以上付き合って‥‥」

「イヤァアアアアアアアアアアアア!!!!!!!!!」


 恐れのあまり、思わず声が出た。
 それが、全ての始まりだった。

 後で思うと、あの時の私はキチガイになっていたと思う。

 涙声の私はそのとき、電話向こうのシンジに対して
 猛烈な勢いで、無様な『お願い』を続けていた。

「ア、アスカ!?」
「お願いだから、私を捨てないで!!」
「アスカ?」
「見捨てないで!!」
「イヤよ!!もう、一人はイヤよ!!!」

「イヤ、絶対イヤ、一人はイヤ!」
「シンジと一緒じゃなきゃイヤなの!!!」

「私を一人にしないで!!」

「私を、捨てないで!!」


 私の耳には、荒くなった自分の息づかいしか聞こえてこない。
 私が落ちつくのを、シンジは静かに待っているようだった。


 叫びすぎたらしい。

 喉が痛い。





「シンジ‥‥私‥」

「‥‥‥わかったよ、ゴメン、ゴメンよアスカ。
 とりあえずさ、明日、直接会ってゆっくり話をしようよ。
 大学生なんだから、一日くらい休んでも平気だしさ。
 第二新東京駅駅の前の公園で3時に。じゃ、待ってるから。
 今日は、もうゆっくり寝てよ、疲れているんだよアスカは。
 じゃ、おやすみ。」


 プツッ    プーップーップーップーッ


「シンジ‥‥‥シンジ!?」

 怒っているからだろうか、珍しく電話は向こうから切られていた。

 私は、受話器を手に持ったままその場に立ち尽くすしかなかった。


     “明日、いきなり会って何するのかな”

     “ここまでやりあった事、今までに一度もなかったわよね‥‥”

              “やっぱり‥‥もうおしまい‥‥かも‥‥”


  “仕方ないかもね‥私みたいなバカ女、シンジだって願い下げかもしれないし”


 自分で思った事に、ぞっとしてくる。

 “私、ホントにバカね。”

 受話器を置くと、不安がワッと押し寄せてきた。
 それに耐える術は、私には泣くこと以外には何もなかった。






 [2nd part]



  平日朝10時の図書館というものは、静寂なのが常なのだが、
 その日の松本市立図書館は静かとは言い難い訪問者を迎えていた。
 経済学のコーナーを、あれこれ喋りながら若い男女が彷徨っている。
 若い二人組は、レポートに役立ちそうな文献を探し回っているシンジと、
 その隣でシンジが選んだ本の品定めをしているナオミであった。

「流城、これなんかどう?19世紀のアメリカを経済モデルにした本だけど‥‥」
「だぁめ!時代はケインズ以後が対象よ!そんな古いの、どうすんのよ!」

「じゃあこれは?『2010年の中国経済動態について』って奴。」
「それもダメね。ケインズ経済論の長所をレポートでは書くんでしょ?
 中国が経済崩壊してく過程なんか書いても、面白い評価貰えないわよ。」

  本当は、午後にやるつもりだった参考書探しの約束を朝一番に変更された
 せいもあって、ナオミは少々不機嫌な様子だった。
 昨日の夜は遅くまでケンスケ達と大学の新歓コンパだった上‥
 低血圧でもともと朝に弱い体質なので、彼女の体調は殆ど最悪だった。
 その上、朝に呼び出された理由がアスカの錯乱に端を発すると聞かされては‥
 いつも笑顔のナオミといえども、機嫌が悪くなるのは無理もない。

「りゅ、流城さ、ここ、図書館なんだから、静かにしないと‥‥」
「ハイハイわかりましたシンジ様」

「ごめん‥‥流城」

「ほんとにそう思うなら、早く使えそうな本、さっさ見つけてよね。
 早く帰ってもう一眠りしたいんだから。 あー、頭痛い。」

 二日酔いにズキズキ痛む頭を押さえながら、ナオミも本棚を物色し始めた。

 シンジは、本棚をひっかき回すだけにしか見えない彼女の仕草を見て
 一瞬嫌な顔をしたが、結局何も言わずに自分の仕事を続ける。


「うーん‥なんだかいい本見つからないわねぇ。
 ‥‥これは‥‥やっぱりダメね」

「ねえ、流城、これどう?」

「うーん‥‥ちょっと今一つね。やっぱ、先生の指定教科書、買うしかないかな。」

「でも、大学の教科書って高いから、出来れば見つけたいんだけど。」

「そぉなんだけどね‥‥」

 二人はさらに本棚を漁り続けたが、参考図書は見当たらない。

 やがてイライラの頂点に達したナオミが『あ〜やめやめ、
 腹減ったから御飯にしよ〜よ』と言って作業を放棄し、
 彼女はシンジを引きずって図書館の側の喫茶店へと向かった。



   *          *          *



「ここのクロワッサン、すごくいい味だね」
「そうね。結構穴場かもね。覚えとこっと。」

 ふわふわした大きなクロワッサンを一呑みにするように、ナオミは
 大きく口が開けてパンをほおばった。
 体質のお陰で、ナオミは太る心配という苦しみから自由なのだ。


「流城さ、一応女の子なんだからパンはちぎって食べたらいいんじゃないかな」

「い、一応ですって!!!し、失礼な!」

 大きく開けた口を慌てて塞いで、パンをちぎるナオミに
 シンジはくすくすっと笑った。

 「でも流城ってさ、そういう所がいいんだと思うな、自然体っていうか。」
 「うーん。誉められたのかけなされたのか‥。
  まあいいわ。それにしても知らなかったわね〜。図書館の近くに
  こんないいお店あるなんて。友達に教えてあげよっと。」

 「うん、ホント、いいお店だね、雰囲気もいいし、おいしいし。
  アスカも喜ぶかな?」

 「まぁたアスカ‥‥ねぇ。今まで黙ってたけどさ、一体どういう事なの?
  このナオミ様を差し置いて、午後から急にアスカに会いに行くって‥‥
  そんなこと、今までになかったでしょ?
  もしかして‥‥なんかあったとか?青葉さん達の結婚式の帰りにでも」


 『ぶっ』


 ナオミの言葉に、シンジは口の中のスクランブルエッグをガラスばりの
 テーブルに撒き散らした。
 気管のほうにも食べ物が入ったのか、ごほごほと噎せているのが可笑しい。

 「でも、やっぱり図星みたいね。
  隠し事は苦手ね、相変わらず。」


 水を飲んだ後、シンジは再び口を開いた。
 “憂鬱と不安を足して2で割ったような表情ね”とシンジの事を
 思いながら、彼女はじっとその眼を見つめていた。

 「実はね、アスカに泣かれちゃって。
  昨日、電話してた時にね。
  わんわん泣くアスカなんて、久しぶり‥‥そう、久しぶりだった。」

 「捨てないでって繰り返してた」

 「‥‥だからさ、これから午後に会いに行ってそれで‥‥」


 「仲直りしにいくってわけ?」

 ナオミが、突然口を挟んだ。

 「だとしたら、しっかりね。」

 「うん」

 「間違っても、別れ話とか始めちゃダメよ。」

 妙に短い口調。



 「わかってる。本当に僕を頼ってくれる人、アスカだけなんだ。」

 「‥‥‥」

 「一緒にいて欲しいって言ってくれるの、アスカだけなんだ。」

 「そう‥‥ね」

 ‘!?’

 ナオミの表情がさっきから少しづつ暗くなっている事に、シンジも
 ようやく気づいた。

 アスカ以外の人間には鈍感な彼が、ナオミの心情の変化に
 気づく事ができたのは、とても珍しいことだった。

 少しばかり俯き加減でテーブルに肘をつく彼女は、表情が暗いものの、
 どこか澄んだ目をしていた。
 そのことが、シンジにはとても不自然に見えた。


 「流城?」
 「なに?」
 「なんか、ちょっと暗いね」

 「別に、なんでも無いわよ」

 “あんた達のせいよ”とナオミが心の中の呟きは、勿論シンジには届かない。


 「ふー、しっかり食べたことだし‥‥帰って寝るかな。
  シンジ、この朝御飯、あんた持ちでお願いね。早朝呼び出し料金って事で」

 「あ、あの‥‥」

 「じゃ、ね、シンジ。午後から、がんばんなさいよ。」

 呆気にとられたシンジと食べかけのパンやサラダを残して、
 ナオミは振り返りもしないでさっさと店を出ていく。

 いつもは大食いのナオミが全部食べずに残して行ってしまうことを
 不思議に思いながら、シンジは足早に帰っていく彼女の後ろ姿を
 じっと見つめていた。






[3rd part]




 【AM5:50】

 「うぉおおおおおおお!!!!」

 「これで‥ラストぉおおおおおお!!!!」

 「‥‥ぅううううっ‥‥ぅううううううううっっ!!!!!」

 まただ。
 またこの夢。
 どんなに恐ろしい夢よりもリアリティに溢れた、恐怖の記憶。

 「まさか?ロンギヌスの槍!?」

 「ギャアアアアアアアアアアアアアア!!!!!!!」

 いつも同じ瞬間に同じ言葉を私は発する。
 いつも同じ瞬間に絶叫し、夢の中だというのに強烈な痛みを知覚する。

 いつもおんなじ。
 決してそれることのない悪夢という名のレールの上を、
 私はどうすることも出来ずに走り続けるだけ。

 視界が左側だけ赤く染まることも、泣きながらレバーをがむしゃらに引くことも、
 一番苦しかった時――お腹や胸を何かに喰い破られるように感じた瞬間――も
 あの時と全く同じね。

 そこにいるのはエヴァを操るしかなかった頃の、かわいそうな14歳。
 最近はこうして夢の中で夢だと気づくことができるようになったけど‥‥
 一度たりとも夢を破ることも、夢の内容を変更することも出来たためしがない。

 そして。
 悪夢はようやく、醒めつつある。

 ああ、早く終わって欲しい。


 「殺してやる‥‥殺してやる‥‥殺して‥」
 『アスカ!!まだ生きてるよね!』

 「シンジ!!」



 ‥‥目を醒ました時、まだ私の部屋は薄暗かった。
 枕元の時計は、六時近くを指している。

 いつものことだけど、心臓がドキドキと言っているのがわかる。
 冷や汗もたっぷりかいている。

 気分の悪い目覚めを解消したくて、ベッドから半身だけ身を起こして
 軽く伸びをしてみたけど、それは何の効果ももたらさない。


‘シンジ、今夜も助けてくれたんだね’

 口癖のような言葉が、頭の中に木霊する。
 でも、その認識は今の私にはすこし辛い。

‥‥あの電話から、一晩。
 彼からは、あの後一度も電話は無かったし、
 謝るために電話をかける勇気も、憔悴しきった私にはなかった。



 「シンジ‥碇 シンジ」

 一番好きだった言葉。
 一番好きな言葉。
 これから先も‥‥一番好きでいられるのかな‥‥‥。


 確か、今日の午後三時に駅で待ち合わせなのよね。


‥‥とにかく謝らなきゃ。
 いくら取り乱したとはいえ、あんなにむきになっちゃうなんて‥
 昨日の私って、ひどかった。

‥‥でも、あれが私の紛れもない本心。
 捨てられたくない、離れたくないっていうのが。

 どんなに無様でもいいから、一人になりたくない。
 もう一人ぼっちだけは二度とイヤなの。

 ひょっとしたら、これから私は振られるのかもしれない。
 けど、今はそんなことを考えるのはよそう。

 うまくやって、昨日のことは全部忘れられるようにすればいいんだから。
 そう思うのよ、アスカ。



【AM10:35】


 プルルルル プルルルル

“誰から? もしかして‥シンジ?”

 朝食の後かたづけの最中にかかってきた突然の電話に、
 私は一瞬胸を躍らせた後、極度の緊張を感じた。

 彼からの電話だったとしても、それが楽しいものだっていう
 保証はもう無いのだから。

 留守電のスイッチがonになっているのを見て諦めた私は、
 洗剤で泡だらけの手を拭いて、手近にあった子機のボタンを押した。

 ピッ

 「はい、もしもし?」

 『もしもし、洞木ですけど、アスカ?』

 「なんだ‥‥ヒカリだったのね‥‥」

 ヒカリの声に私、安堵と悲しみを覚えてる。
 シンジだったら‥‥やっぱりよかった‥の‥かな?

 『なんだとは失礼ね〜。今日学校来てないから授業のノートコピーしといて
  あげるって知らせるために、こうしてわざわざかけてあげたのよ〜!』

 「ゴメン。あのね、風邪ひいちゃってさ。青葉さんの結婚式の日、
  なんだか夕方から寒かったでしょ?たぶん、そのせいだと思うの。」

 『そうなの?じゃ、必須単位の講義のノートとかは、後でメールで送るから』

 「ありがと。お礼は前と同じお店のケーキ。
  ズコットかモンブランでいいわよね?」

 『もちろんよ。それじゃ、風邪、早く治しなさいね。お大事にねっ。』


 ピッ


 親友にまで嘘をついてしまう自分の事を思って、嫌な気持ちになった。

“私、何やってるんだろ?”

 子機を置いて、私は洗いかけのお皿を手に取って再びスポンジでこすり始めた。



【PM2:55】

 人通りの激しい、第二新東京駅の正面口前の公園の入り口、シンジが
 待ち合わせの場所に指定した駅前の広場に、私は立っていた。

 この場所に着いてから、まだ10分しか経ってないのに、
 もう2回も変な男に声をかけられている。

 私がすぐにナンパされる事を知ってるから、普通、シンジは私より早くに
 来てくれて待っててくれる。
 なのに、今日は彼の姿はいつになっても現れない。

 この場所に立ってると、足が疲れるし、目立っちゃって声かけられるし‥‥
 そう思って私は広場の噴水の側のベンチに腰を下ろした。



【PM3:20】

「もう‥‥遅いわね〜」
 小さな独り言を繰り返し、苛々を繰り返す。

 シンジは、まだ来ない。

 もう何時間も待ったような気がして、私は時計を見たけど
 ‥‥まだ25分しか経っていない事を知ってうんざりするだけだった。


『おまたせ』

“シンジ!?”

 思わず声の方を振り返ったが、そこにはシンジはいない。

 『もぉ〜、遅刻よ、遅刻』
 『わりいわりい』

 代わりに、腕を組んで去っていく、自分と同じ位の年頃のカップルの姿が
 目に飛び込んできた。

 もう‥‥イヤ。
 ベンチに座りっぱなしだったから、お尻が痛い。
 しょうがないわね。

 噴水の所にでも行こうっと。

 そう思った刹那、駅の裏口の方からだろう、救急車のサイレンの音が
 耳に入ってきて、私はなんとなく不愉快な気分になった。



【PM4:30】

 待つことには慣れていない筈なのに、もうかれこれ一時間半も
 私は待っている。

 デートのためにと思って先月に買った、茶色のロングスカート‥‥
 最初の誕生日に貰ったアクアマリンのイヤリング‥‥
 シンジと一緒の時しか絶対につけない赤色のヘッドセット‥

 久しぶりに、真面目にオシャレしたっていうのに。


 すぐ側の噴水の水を眺めてみると、自分の顔が映った。
 揺れる水面の向こう側の顔は、見るからに悲しそうに見えた。

 だから、私はそれを子供のようにバシャバシャやってかき消した。


 うん。諦めちゃダメよ。
 絶対諦めちゃダメ。


“そうだ”
“ちょっと恐いけど‥‥シンジの携帯かけてみよう。”
 そう思って、バッグから自分の携帯を取り出し、勇気を出してダイヤルしてみる。

 けど、通じない。
 電波の届かない所にいるのか、スイッチ切ってるのか‥‥。

 気を取り直して今度は家のほうにかけてみた。

“はい、碇です。ご用の方は、発信音の後にメッセージをどうぞ”

 ピーッ



 「シンジのバカ‥‥ずっと待ってるのに‥。」

 自分で呟いた独り言に哀しくなって、何かが胸の奥からこみあげてくる。


 辛い気持ちが目から雫れないように、見上げた空。

 西の方に、綺麗な山吹色の太陽が浮かんでいる。

 そうだ。
 あのお日様が山に全部沈むまで待ってみよう。

 それでダメなら‥‥私‥‥諦めよう‥‥。



 【PM6:05】


 山に太陽が沈んでいく。

 まだ赤くない、まだ元気そうな太陽が
 アルプスの黒い山陰に隠れていく。

 ああ‥‥‥もう半分しか顔が出てない。
 お願い、沈まないで。

 そのまま暫く止まっていて。
 お願い、もう暫くだけ、私の心を壊さないで‥‥



 【PM6:40】

 陽が沈んでからも暫くの間、私はその場に立っていた。

 人前だからだろう、涙は出ない。
 笑顔を作れって言われたら、いつでも作れると思う。

 でも、心の中は“もうダメ”っていう言葉で溢れかえっていた。

 そう。シンジはもう待っていてもきっと来てくれない。
 わかる。わかるもん。

 どこ行っちゃったのよ‥‥私は‥‥どうすればいいのよ‥‥‥
 もうダメよ‥‥この気持ち、どうすればいいのよ‥‥

 誰か‥誰か助けて‥‥。


open my heart 第三部に続く



 ここまで読んで下さった方、本当にありがとうございました。
 とうとうこの日がきました。
 書き始めた時に決めていたことなので、避けることはできませんでした。

 この世界の18歳アスカがこれからどうするのか、どう変わっていく
 のかを、どうか見てやって欲しいものです‥(オレに出来るかな??)。
 しかし、まずいな。アスカ、頼むから自棄起こさないでくれよ。

 では、失礼します。
 よろしければ、第三部も読んでやって下さい。


 2004年注;ニフティでは、1997年11月にここまで連載しました。続く第三部、
 第四部は、一気に1997年12月1日〜12月4日にかけて、彼女の誕生日に
 合わせて怒濤のようにアップしました。そんなわけで、こちらのアーカイブも
 いったん改変作業を一休みします(連続でやりすぎて疲れたー)。
 連載当時の状況に近づけるため(!?)という言い訳のもと、一休みさせて貰います。






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