open my heart 第三部   






 Episode-25【日常の、終わり】



 「なあ、どうする?これ。青葉さんは留守だぜ、新婚旅行で。」
 「どうするってお前‥‥一大事だろ、こりゃ。すぐに報告だろ?」

  狭い部屋の中、緊張にうわずった声が張りつめた空気をかき回す。

 ネルフ諜報部諜報三課、その狭い電算室では、二人の若い職員達が
 結論の出しにくい相談を続けていた。
 二人とも、表情は堅い。
 出先の監視員からサードチルドレンが突然倒れたとの通報を受け、
 その善後策を彼らは検討しているのだが‥信頼する上司は今、
 この場にはいない。

 「でもな‥‥一生に一度の新婚旅行だぜ。連絡するってのもヤボだと思うがな。
  そうだ、冬月司令に直接指示を仰ぐってのはどうだ?
  青葉さんの実際の上司って、諜報部のチーフじゃなくて司令だって事、
  お前も知ってるだろ?」

 「無理だよ。冬月司令は確か、仙台の国際会議に出席してる筈だからな。
  やっぱり、青葉さんに直接電話で知らせるしか‥‥」

 「しかし‥‥今どこにいるか見当がつかない。確か行き先、オーストラリアだろ?
  携帯とかも使えないし、通信キットは‥持っていかないって言ってた筈だ‥‥」

 「仕方あるまい‥‥宿泊先を調べて、ホテルに連絡を入れよう。」
 「わかった。それなら俺は監視員のほうに改めて指示を出すよ。じゃ。」

  男達は、それぞれの役目を確認すると再び慌ただしく動き出した。







 “久しぶりの日当直も、ようやく終わりか‥‥”

  午後も3時をまわった頃になってようやく、心臓内科医・河田は遅い昼食を
 とっていた。
 当直室で、雑誌『メディカル朝日』を読みながら食べる冷めきった丼物は、
 今月に入って三回目の天丼である。
 塩分やカロリーが高いとは知りつつも、空腹を満たすために機械的に
 喉の奥に押し込む。医師生活に慣れている者の常として、ゆっくりと
 味わって食べる習慣は、既に失って久しかった。


 “引き継ぎ、遅いな‥‥”

  腕時計をちらりと見て、河田は有意義な土曜の夜の過ごし方について
 思いを馳せる。頭の中に思い描かれる沢山の可能性に、彼はささやかな
 幸福感を覚えていた。

 “‥‥‥今日はマージャン好きの助教授に付き合う必要もないし‥
  家族サービスに充てるのも悪くないだろう‥‥”

 “久しぶりの土日の休みだ。とにかく、無駄にはしたくないものだな”



 ジリリリリ

 だが、そんな彼の思惑をかき消すように、無情にもコールのベルが響く。


 「相変わらずうるさいな」

  わずかな舌打ちをその場に残し、男は思考パターンを素早く医師としての
 それに切り替え、席を立った。
 箸とどんぶりを傍らのテーブルの上に置き、ハンガーにかけてあった
 白衣を手にする。
 白衣の袖に手を通しながら、壁掛け式の受話器に走った。


 「新東大付属病院心臓内科です。」

  決まり文句を声に出すと、もう河田は目の前の職務以外は全て
 忘れることが出来た。長年の訓練と経験の賜物である。


 『救急センターです。これからそちらに一人送ります。患者は一八歳男性、
  強い胸痛を訴えています。現在の意識レベルは002です。
  15分後にはそちらに到着の予定』

 「他に、何か?」

 『車のほうからは、それ以上は聞いていません。とにかく、よろしくお願いします』

 「わかりました。」

 チン

 受話器の横のディスプレイには、看護部からの《スタンバイ完了》の
 メッセージが既に入っていた。

“急がないと”


 処置室へと続く白い廊下、病院の匂い。
 大股で処置室へと歩く医師は、そこでかつての受け持ち患者と
 対面するという運命を知らない。



      *          *          *



  第二新東京大学医学部付属病院の救急処置室にその患者が運び込まれて
 きたのは、宿直室に電話が入ってからきっかり20分後の事だった。
 連絡より五分の遅れである。
 苛立つ河田を待っていたのは、どこか見覚えのある顔の男の子だった。

 “この男の子は‥‥”

  既視感に一瞬惑うも、それは頭の隅に追いやって、診察を始まる。
 処置台の上に乗せられたその少年の顔色は蒼白で、冷汗が認められた。
 意識は一応あるようだが、朦朧としている印象は否めない。

 「バイタルサインとモニター心電図を至急。セット1も用意してくれ」
 看護師達に素早く指示を出すと、河田は頚部に手をやって脈をとった。

 “かなり力が弱いな‥‥しかも、拍が早い‥”



 「君の名前は?」
 「碇 シンジです‥‥」
 「碇‥‥シンジ‥‥そうか。
  どこか痛むか苦しいところはないか?
  どの辺りだ?」
 「‥‥‥」
 「碇君、大丈夫か?」
 「‥‥‥」

 “まずいな‥‥”

  患者が意識を失った事を知ると、彼は即座に問診を諦めて次の作業に
 取りかかった。最低限必要な打診や聴診などを素早く済ませ、胸に
 心電図の電極を取り付け、モニターに目を凝らす。

 “これは‥‥どういうことだ!?”

  意外なその結果に河田は驚きを隠せなかった。
 なぜなら、映し出されたその波形は、若者には珍しい
 急性心筋梗塞に特有のものだったからである。


 「先生、検査結果です。血圧は75/40、脈拍126。体温は35度0分。
  K式緊急血液検査では、ショックの典型的な所見が見られます。
  白血球数・ミオグロビン・CK1の上昇も確認してます。
  その他については‥‥特に顕著な上昇はあまり。」

 ベテラン看護婦の報告に無言で頷き、彼は傍らにあった超音波検査の
 機材を手に取って意識を失った患者の胸に押し当てた。


 “確かこの青年は‥‥そうだ。間違いない。あの時の少年だ”

  心エコーのモニターに映る異常な動きの心臓を見ながら、医師は
 かつてのあの忌まわしい手術の事が脳裏に蘇り、目の前にいるのが、
 当時死刑執行を迫られていた少女・綾波レイの心臓を移植されて
 かろうじて生き残った、ネルフの人型兵器エヴァンゲリオンの
 パイロットであるという記憶も、はっきりと思い出していた。
 その少年が、こうして再び自分の目の前に現れた事に、河田は
 不思議な因果を感じずにはいられない。

 「酸素吸入を3リットルで開始。念のためバルーンパンピングの準備も。
  それから、マイクロシリンジでイノバンとドブトレックスを6γで頼む。
  俺は、血栓溶解剤の準備をするから」
 「はい!」
 「それと一段落したら、中央検査部にも連絡を頼む。
  誰でもいい、向こうの当直の先生か技師を捕まえといてくれ」

 医師達の慌ただしい午後は、まだ始まったばかりだった。







 [2nd part]

  同じ頃、仙台市立中央病院。
 奇しくもシンジと時同じく、冬月もまた病院に運ばれていた。
 環太平洋復興国際会議の席上において、突然意識を失って倒れたのである。
 救急車で搬送され処置を受けた後、意識を回復した冬月は一人の年老いた
 医師と向かい合っていた。

  狭く、少し古めかしい診察室だった。
 ひんやりとした空気は、空調のせいなのか、それとも、
 彼らの心情の投影なのか。
 既に意識を回復したとはいえ、診察椅子に座っている冬月の顔は悪かった。


 「過労には違いないんですが、問題はもっと深いところにあります。」

 医師の、冬月に対する最初の一言がそれであった。

 「ネルフの総司令という役職が多忙だという事は存じ上げている
  つもりですが、しかし‥‥」

 「先生、癌ではないのですか?」

 唐突で、それでいて確信をもったようなその言いようは、老医師にも
 強い印象を与えるものだった。
 老医師が目を合わせても、冬月は視線を曲げずに対峙している。

 「私も職業柄、その辺の知識は素人よりはあるつもりです。
  この体重の減少といい、続く微熱といい‥‥。
  あるいはという覚悟はあるんですが‥‥」

 「‥御高名な冬月先生ですからね‥‥」

  老医師はそれらの言葉を聞いて観念したのか、机の上にあった分厚い
 ファイルをめくってそのうちの何枚かを冬月に手渡した。
 そして、説明を始める為に必要なCTスキャンやMRIの画像写真を、
 微かに明滅するシャーカステンに貼りつけ始めた。

 手元のファイルとCTやMRIの画像所見を、患者は交互に覗きこむ。
 充分に覚悟はしていた筈の彼だったが、
 それらは、直視するにはあまりに堪えるものであった。


「あなたに本当に知識があるなら、
 これらが何を意味するのかはもうお判りだと思います。」

「おっしゃるとおり、癌です。
 胆管癌で、肝と肺に大きな転移像が見られます。
 腹腔にも腫瘍塊がせり出しており、腹水もみられますから、
 腹膜播種の可能性も否定できません。」

「このCT像では‥‥ここと、ここの膨らみ‥そう、それです。そこが
 腫瘍細胞の占めている部分です」

「私は‥どうなのでしょうか?
 今の医学水準では、私の病気はどのぐらいの見込みがあるのでしょうか?」

「‥‥それは‥‥」

「すいません、聞くだけ無駄だと知ってはいるんです。」

「根治を目標とした手術は最早不可能と考えられます。肝臓の60%の摘出、
 さらに右肺の摘出と腹腔内の大規模なリンパ郭清を行うことは、体に
 甚大なダメージを与えるでしょう。そこに化学療法と放射線を使うと
 なると‥‥」
 

「そうですか‥‥いえ、お話はよく解ります‥‥」

 医師の答えが、ほぼ『不可能』と同義である事を冬月は知っていた。


 暫く顔を伏せてじっとした後、冬月は
“余命はどれくらい延ばせるのですか?私は、死ぬ前に
 やっておかなければならない事があるんです。”
 と医師に訊いていた。

 “最新の化学療法でごまかすことができれば、半年くらいは職務に
 耐えられる状態を維持できるでしょう”というのが、質問に対する
 老医師の答えだった。







 “もう、考えるのはよそう”


  アスカは独り、夜の街を歩いていた。
 色とりどりのイルミネーションに包まれた、眩しい第二新東京の夜。
 だが、傷心の少女の目には、すべてがモノクロも同然だった。

 “何やったら楽しいかな”

 “帰っても‥‥いいことなんてないもんね”


 慌ただしく行き交う人々の姿。

 ときどき聞こえるクラクションの音。

 時刻はもう、8時をまわった頃だろうか。



 “シンジ‥‥”

 彼女には、全てが空しい。


 “そうだ。お酒でも飲もう”

 空っぽの心を抱えたまま、アスカは独り、夜の街を歩き続ける。


to be continued




 第三部では、「当然のごとく」オレアスカ的心理描写が増えます。
 というわけで、一部の方、間違いなく読みづらく、かつ共感幻滅になっちゃうと
 思います。申し訳ありませんが、それでもわがままは最後まで続けます。
 だって、アスカ好きだもん。 すいませんが、ご了承下さい。

 2004年注:全てが懐かしいです。この25〜27話ぐらいについては、
 限定主義者の方から剃刀メールを貰ったことを覚えています。
 まだLASという言葉もそれほど普及していなかった時代、LAS過激者
 というか前頭葉欠如LAS者というか、そういう限定主義者は既に存在して
 いたわけで、現在も存在し、そしてこれからも存在し続けるのでしょうね。







 →上のページへ戻る