Episode-33【好きな人・憎かった人】


 午前中に病院に行くのは、本当に久しぶりのことね。

 外来患者で混雑する正面ロビーを抜けて、
 別館の西病棟に通じる寒い渡り廊下を歩く。


 歩きながら見た、窓の外。

 灰色の空から、絶え間なく綿のような雪が落ちてくるのが目にうつる。

 どうも、本降りになってきたみたいね。



 そうこうするうちに、エレベーターに到着した。

 乗っている間、暇なので天井の鏡を覗く。


“懐かしい‥‥”

 遠い昔、自分が入院してた頃の事を思い出した。

 毎日シンジに会いに行くたびにエレベーターの鏡を覗いては、
 自分の顔つきをチェックしていたわね。
 あの頃は、私もシンジも‥今以上に幼かった。


 今日の私はというと、ちょっと恐い顔が鏡に映っていた。
 緊張してるんだと思う。


    *      *      *



 病室に着くと、点滴をうけるシンジが私を待っていた。

 シンジの笑顔がどこかひきつっているのは、やっぱり恐いからかな?
 ひょっとしたら、私が恐い顔をしているせいかもしれない‥。

 仕方ないわよね。
 今度の手術で、全部決まっちゃうんだから。

「いよいよね。きっと大丈夫だから。」
 何も言わず、ただ静かに頷くシンジ。


 私のほうを、じっと見つめている。
 そんなに強く見つめないでよ、理性が保たないじゃない。

 私は目を逸らしたままベッドサイドに行き、ゆっくりと彼の頭を撫でてあげた。

 「ねえ?あと、どのくらいで始まるの?」
 「もうすぐ麻酔科の先生がやって来て、それから手術室に入るって、
  そう聞いてるけど」

 「そうなんだ‥‥。」




 「ありがとう、こんな時に来てくれて。
  いつもの時間だったら、もう手術の最中だったと思うよ。」

 「ううん、河田先生がわざわざ携帯に連絡入れてくれたの。
  これから移植手術をやるから、その前に会ってあげてくれないかって。」

 「先生が?そうだったんだ。 あ、アスカ、学校‥」

 「バカねぇ。
  こんな大事なときに、学校なんて行ってられるわけないじゃない。
  シンジのほうが、ずっと大事よ!」

 「ご、ごめん」

 「あ、あやまんなくてもいいのよ、シンジ。
  ノート取りはヒカリにお願いしたから、大丈夫。
  病人はね、自分の心配だけしてればいいのよ。」

 「そうだね、アスカの言うとおりだと思うよ‥‥」


 「ねえシンジ」

 「なに?」

 「必ず、必ず生きて戻ってきてくれるよね」

 「うん。」

 「死んだら赦さないからね。私を置いてったら、絶対に赦さないからね」

 「わかってる。」

 「約束よ」

 「約束する。絶対、またアスカに会うって。」

 「絶対だからね」

 そこで言葉が途切れた。

 見つめあう私とシンジ。




 私たちが幸福になるための、高いハードル。
 シンジの目の前にある、どうしても乗り越えなければならない試練。

 生きて欲しい。
 絶対、生きて私達の所に戻ってきて欲しい。

 シンジの目に、今は不安の色はない。
 勿論、諦めの色も。

 素直な茶色の瞳には、ただ私の姿だけがうつっていた。

 「目、綺麗だね」

 「アスカの青い目の方が、ずっと綺麗だよ」




 ガチャ‥‥

 「あ、惣流さんじゃないですか」


 恋人同士の雰囲気は、その一言で飛んでいってしまった。
 私の密やかな企みも、突然入室してきた二人のお医者さんによって
 中断するしかなくなってしまった。


 「あ、河田先生。シン‥ いえ、碇君を、どうも、ありがとうございました。」

 「まだ終わったわけではないですよ、これからがシンジ君にとって、
  一番の正念場ですから。
  こちらが、今回麻酔を担当して下さる、吉野さん。名医だよ。」

 「「よろしくおねがいします」」

 「こちらこそよろしく。じゃ、そろそろ始めよう。
  行こうか、碇君。」

 「‥‥はい、お願いします」

 シンジが点滴を持ったまま、ベッドを降りて、廊下に向かって歩き始める。


 「あの、ちょっと、いいですか?」

 二人のお医者さんに、思わずお願いした。
 もう少しだけ、シンジと話しておきたいから。




 先生達を病室の外に追い出した私は‥‥

 私はシンジに軽くキスして、それからくるっと回り込んで―――
 パクッとシンジの耳を優しく噛んだ。

 「続きは、退院してからね。」
 「‥‥アスカのバカ。」

 「じゃ、いってらっしゃい。」
 「うん。いってくる。」

 最後におでこをコツンとやる。

 私の大好きなシンジ。

 必ず、続きもしようね。


ガチャ

 ドアを開けて、シンジが部屋を出ていく。
 ちらりと、ドアの隙間から廊下で待っている先生の姿が見えた。

 ついていけば、手術室まではシンジと一緒にいられるかもしれない。


 でも、そうはしなかった。

 余所の人には、自分の涙は見せたくなかったから。


 シンジ達がいなくなったことを確認した私は、病室のドアにロックをかけ、
 まだ暖かみの残るベッドに体を投げ出した。





   [2nd part]


 手術が始まって、何時間になるのだろうか。

 手術室の前の長椅子に座ったまま、私はじっと動けない。

 お尻が痛いけど、それもあまり気にならない。


 何度も横になろうとしたけど、そわそわとしてしまって
 眠ることも出来ない。

 読みかけの本を開いてみる。
 でも、目が活字を拒絶するから、思うように先に進まない。


 とにかく、壁の向こう、そればかりが気にかかって。

 ああ、『手術中』っていう赤いランプがこんなに忌々しいなんて。


 早く終わって欲しい。
 ううん、長くかかってもいいから、シンジを元の元気な姿にして欲しい。


 お願いします、お医者さん。

 シンジを、生きたまま私に返して下さい。


 神様、お願いです。

 まだファーストの所には連れていかないで下さい‥‥。




   *           *            *



 “‥‥‥あ。”

 いつのまにか居眠りをしていたのだろう、
 突然の慌ただしい物音に、ハッと意識が戻った。

 長椅子に腰掛けた私の目の前を、シンジを乗せたベッドが
 規則正しい電子音を響かせながら通り過ぎてゆく。

 まだおぼろげな意識の中、“ついていきます”と言って私は席を立った。

 けど、看護婦さんの一人が“クリーンルームにこれから入りますので”
 と言って私の行く手を遮り、たちまち私の視界からベッドが消えていった。

 半ば怒った口調で、“碇君は大丈夫なんですか”と尋ねてしまう。



 そんな私に、“間違いなく大丈夫です”という声。
 声の主は‥‥ああ、河田先生だ。


 「大丈夫ですよ、惣流さん。」

 「手術中、トラブルなどは一切ありませんでした。」

 「ドナーの心臓が、摘出されてから少し時間が経っている点を
  心配していたんですが‥‥殆ど問題のない状態でしたし。」

 「とにかく、あとは一ヶ月間、拒絶反応さえ抑えてしまえば、
  シンジ君は必ず元にもどります。」

 「‥‥!?惣流さん?」


 嬉しさと感謝の気持ちで、すぐには言葉が出なかった。

 それでも私は、少し間をおいてから
「ありがとうございます、先生、本当にありがとうございます」
 と何とか答える事ができた。

 先生の顔を見る。
 ひどく疲れているみたいだけど、それでも満足そうな表情だった。

 「先生、これからも碇君の事、お願いします。」

 「ええ、退院するまでは、こちらに全部任せてください。
  でも、それから先は、私達には何もできませんから、
  今度はあなた達がしっかりするんですよ。」

 「はいっ!」

 「そうそう、無理して『碇君』とは言わなくていいですよ」
 「え?」

 「第二内科じゅうで有名ですからね、あなた達の事。
  余所の患者さんまで噂しちゃって。」

 「‥‥うう‥。」

 は、恥ずかしい‥‥。

 「では、失礼します。術後管理が大変なので。」

 「はい、今日はどうも、ありがとうございました。」


 さてと‥‥。

 手術が無事に終わったんだから、シンジはきっと元気になってくれるわよね‥‥

 今日は疲れたから、家に帰って、なんか食べよう。
 よく考えたら、朝から何にも食べてなくて、お腹も減ってるし。


 そう思って窓の外を見た。

 まだ降り続いている雪。

 いつの間にか、どこもかしこも真っ白ね。

 これじゃ自転車は無理ね。
 仕方ない。

 今日はタクシーで帰ろう‥‥。



     *          *          *


 次の日、シンジの病室に行ってみると、そこには誰もいなかった。

 ナースセンターに行って事情を問うと、これから先2週間、シンジは
 拒絶反応を防ぐためにクリーンルームで過ごすから、当分は
 一般病棟に戻れないと説明された。



 2週間。それって、ちょっと長すぎるわよね‥‥。
 面会もできないって言われちゃったし。

 仕方がないと思って家路につこうとしたその時、
 エレベーターのホールでぱったりと青葉さんに出会った。

 ひとしきり、成功した移植手術やパソコンショップの準備について話をした後、
 私は冬月さんの病室に来てくれるように再び頼まれ、躊躇した。

 なんでも、かなり危ない状態になっているらしくて、それで今日は
 会いに来たのだと言う。


 少しイヤだと思ったけど、それでも私はコクリと頷いた。





[3rd part]


 冬月さんが入院しているのは、東病棟の6階、
 第一内科病練の奥のほう、619号室だと聞いた。


 苦悶の表情を浮かべる老人の姿を予期しながらそこに入ると‥‥。


 あれ?

 今日の冬月さんは、とても穏やかな表情をして眠っていた。
 たぶん、モルヒネかなんかの強力な鎮痛剤を使っているんだと思う。

 あ、目を開ける‥。


 「惣流君じゃないか、それと青葉君も。」


 「はい‥‥」

 口のきける状態の冬月さんとこうして会ったのは、どれだけぶりだろう。

 でも、いざ会ってみると、やっぱり言葉が見つからない。


 この人には感謝しなければならないのに。
 目の前にいる苦しむ人に、一言言うだけで、ただそれだけでいいのに。

 ここまで病気が進んだのも、私達の為にがんばってくれてたせいもあるって、
 知っている私なのに。



 「シンジ君のほうは、どうかね?」


 「‥‥」


 「手術のほうは、とてもうまくいったみたいです。今は、クリーンルームのほうで
  免疫抑制剤の投与を受けているそうです。」

 私が何も答えられないから、結局青葉さんが答えてくれた。
 十八にもなって、それっぽっちの事が出来ない自分に、腹が立つ。


 「そうか‥‥」

 ベッド上の老人は私のほうを向いたまま、口だけを緩慢に動かし続けた。

 「もう、私が君たちに対して罪を償うことはできそうもないが、
  それを聞いて少し安心したよ。ひとつ、肩の荷が下りた感じだな。」

 「知っているつもりだよ、何故こうやって話せるのかも。
  ターミナルケアに特化した治療が始まってるんだろう。
  頻発していた痛みも、ここ一週間ほどは全く感じん‥‥。」

 「惣流君に会うのも、これが最後だろうな、たぶん」




 「‥そんな事、ないです。」

 え?

 出てきたその言葉は、あまりに醜く、配慮が足りなかったかもしれない。
 口にしてから、もっと言葉を選ぶべきだったと、すぐに後悔した。

“そんな事、ないです”!?
 なに言ってんのよ、もう、この人がどうしようもない状態なの、知ってる私なのに!


 そんな私の言葉だったんだけど、冬月さんは『ああ、そうだとも』と答えて
 薄く微笑んだ。



 「そうよ、まだまだ、大丈夫ですよ」

 いつのまにか、へたくそな相槌らしきものをうっている自分に気づく。


 自分が、いつの間にか、この人を傷つけないようにしてる事に驚いた。

 今は死に瀕しているとはいえ、かつて‥‥幼かった頃の私を死地で戦わせた老人。
 ママを奪った組織のナンバー2。
 弐号機が廃棄された後にママの事を教えてくれた、憎むべき人物。

 なのに‥‥。


 「昨日、迎えが来たよ、夢だったかもしれないがね。」
 「碇夫妻、赤木親子、君の母親、ほかにも沢山の人がいた‥
  こっちは良いと言っていたよ。」

 「冬月さん、何言ってるんですか!!」

  青葉さんの励まし。
  なぜ空しく聞こえるんだろう。


 「おそらく意識障害の仕業だろうな。
  あんな幻覚が見えてくるようでは、もう長くない。
  こんな罰当たりな人間にも極楽というものを見せてくれる神という奴は、
  案外慈悲深いものかもしれん‥‥。」


 嫌いだったのにね、本当に。

 何故か、黙って聞いていられない。
 私は、冬月さんをかわいそうだと思う。

 とにかくこの人が死ぬのは‥‥いなくなるのはイヤだと思えた。

 そうよね、あの時以来、私のことを見てくれてたもんね。
 だからなのかもしれないけど‥‥。


 「‥‥‥。」


 自分の判断に自信がなかったから、その場で唯一頼れる人の顔を伺った。

 青葉さんは私のほうをじっと見つめ、ただ黙って頷いた。

 私には、それだけで充分だった。


 「冬月さん」

 「何かね?」

 「あの‥‥」

 「‥‥‥?」

 こちらを見つめる冬月さんをじっと見つめた。
 病人独特の弱々しい目が、痛い。

 何故か喉が渇く。
 体も堅くなってる。

 でも、アスカ、がんばって。
 自分自身の為にも、この人の為にも。


 「今まで、本当にありがとうございました。
  病気になるまで、いっぱい私やシンジのために
  手を尽くしてくれてたって、青葉さんや日向さんから聞いています。」

 「私、素直じゃないから、なかなか言えなかったけど、今はすごく感謝してます。」

 「今度は、私達の番ですね。
  シンジが元気になったら、彼も連れて必ず来ます。」

 「あの、必ず退院して下さいね、今までの恩返ししたいから。」


 何を喋ってるのか、自分でもわからなかった。

 自分は、幼稚で失礼なことを言っているとさえ感じた。

 余所の18歳の大学生は、もっとちゃんとした事を言えるんだろうけど、
 それでもそれが私の精いっぱいだった。


 失礼な所とかもあったと思うけど、よくやったと思う。
 私にしては。


 『ありがとう』
 感謝の言葉。

 なかなか言えなかったけど、やっと言えたんだから。



 ベッドのほうを覗く。

 あ、冬月さん、笑ってる‥‥。



 もう一度、青葉さんの方を見ると、また大きく頷いてくれた。

 うん。
 これで、よかったのよね、私。



     *           *            *




 次の日、冬月さんが亡くなった事を、私は聞いた。

 とても安らかに、眠るように息を引き取ったという。


 私は、昨日『ありがとう』を言った自分を、少しだけ誉めたくなった。

 私も、きっと冬月さんも、これで少しだけ、後悔しないで済んだと思うから。
 ほんの少しだけ、近い人になれたと思うから。


                   to be continued




 冬月さんを助ける事ができませんでした。

 全ての人を救うには、私の文章構成力・構想力はあまりに貧弱で、
 如何ともできませんでした。

 いつか、エヴァのキャラクターがみんな笑顔で終われるSSを書けたら
 いいと思います。
 勿論、それが夢で終わってしまう可能性の方が高いのですが。


 とにかく、この(匿名希望)ワールドの冬月さんにお礼がしたいです。

 ありがとう。
 そして、お疲れさまでした。

 2004年注:こんなコメント書かないほうがいいのになぁ。





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