第7話:大人と、少女と



 私は今、助手席にレイを乗せて車を運転している。
 自分でハンドルを握るのは本当に久しぶりのことだが、今朝から
 かなり走っているので、感覚はだいぶ戻ってきていると思いたい。

 車は、白馬自動車道を北に向かって走り続けていた。
 もちろん、レイには気付かない形で護衛はつけてある。
 レイの最期の時間の為に、私は赦す限りの人員と予算を割いていた。

“いろいろなものを見たい”というレイの言葉を聞いた時、何故か私の脳裏には
 水のある風景‥‥海を連想していた。


 「レイ君は、海は見たことがないだろう?」
  無言になって久しい車内で、私はそう切り出した。

 「海?」

 やはりそうか。

 「そう、海だ。」

 「海って、どんな感じ?」

 レイの答えはある意味予期して当然のものだったが、私は少し答えに窮した。


 「見渡す限り、地平線の彼方まで水面が広がっているんだ。
  それで、海の水は塩の匂いがして…まあ、実物をみるのが一番だな」
 
 「はい、楽しみにしてます」

 楽しみ、か。

 かつてのレイでは考えられなかった言葉だ。
 碇の息子への臓器移植の要望、変化に富んだ表情。
 そして“いろいろなものを見たい”という言葉。
 この3人目のレイは、十分に人間としての感情、感性を持っている。
 “人形”に過ぎなかったレイも、三人目にして遂に完全な“ヒト”に
 なることができたのか。

 リリスを元に、胚の段階から人の手によって創られた、補完計画の道具に
 過ぎなかった綾波レイという『使徒』‥いや、『天使』と言うべきか。
 創り出された最初の一人目は不完全な感情の暴走により、扼殺され。
 次の二人目は能面ような顔の下に徐々に感情が芽生えつつあったが、爆死し。
 そして三人目は‥‥

 男と女から生まれ出た普通の人間と、なんら変わらぬ感性を獲得するに至っている。

 これまでのネルフ、そしてゼーレの科学者達の見地から言えば、それは
 最も喜ばしい成功であり、賞賛されて然るべき功績だろう。
 タブリスのような例外も含めて、結局は人とは根本的に心理構造が異なると
 思われていた使徒から、遂に、ほぼ完全な『人間』を創りだすことに成功した
 わけだから。

 しかし。

 しかし、そのような研究も、発見も、それが生み出した全ての
 成果も抹消されなければならない。

 それも完全に。

 不安定な現在の世界事情を考えると、やはり全て抹消されねばならない。
 この少女は、あの悪魔から生まれた鬼子という側面をもっている。

 だからこそ、私はこの少女を抹消すべしというブレーンの進言にも
 従ったのだ‥‥。いや、それは自分に対する弁解に過ぎないのだろうが‥。



 私はちらりと助手席の方に視線を向けた。
 
 レイは窓の外の景色――山吹色の太陽、そして白馬連峰の嶮しい山々――
 を飽きることなく眺めていた。



 だが、これでいいのか?
 疑問は尽きない。

 彼女はヒトとして生きる力と、生きたいという意志を、ここにきて
 ようやく手に入れたというのに。

 それを危険な道具だからという理由で、世界の災いの種だからという理由で
 あっさり殺してしまうのは、それこそ神の摂理を覆す行為ではないのか?

 多数の幸福のためにやむを得ないとはいえ、私の行為はやはり殺人そのものだ。

 もし世間に事実が知れ渡る日が来ようとも、ヒトではない、ヒトの創ったモノ
 に過ぎないと強弁すれば、少なくとも私達が殺人罪に問われる可能性は薄い。

 だが、これは私にとってそういう低い次元の問題ではない。

 おそらくは、この世のいかなる人間よりも純真な心を持った生物を、
 いや、文字通り“天使”と呼ぶべき彼女をを抹殺する命令を、私は下した
 のだから。

 豊かな可能性を、私は世界のためと称して握りつぶすのだ……
 その意味を考えるべきではないのか?


 再びメビウスの輪に囚われようとしているのが解った。

 それをくい止めてくれたのは、彼女の他愛のない一言だった。


 「冬月さん、私、お腹減ってきた」


 その言葉には、私を現実に立ち戻らせる強い効果があった。

 「ああ。高速を下りたらすぐに食事にしよう。」
 レイの一言に、私は大いに心の中で感謝した。




  *        *         *




 二十分後、車は新親不知I.Cを下り、新青海市に入っていた。

 「レイ君は、確か肉は駄目でも魚は平気だったな」
 「はい、生でなければ」

 「そうか。なら良かった。」

 私は、お世辞にも綺麗とはいえない海沿いのレストランに車を止めた。

 「ここだ。見た目は良くないが、いい所だ。まだ休暇がとれた頃には、
 よく寄らせてもらった店だ。味は確かだよ。」
 「はい」

 店に入り、奥に進む。
 日本海が一望できる、二階の窓側の席に私達は向かった。

 「あの、向こうに見えるのが海‥‥広い‥海」
 「そうだ。あれが海だよ」

 夕刻の、オレンジ色に輝く海を、彼女はじっと眺めている。
 その明るい表情からは、無邪気な喜びしか読みとることができない。

 「食事が済んだら、行ってみよう。」
 「はい。」

 これほど活き活きとした、レイを見たのは初めてである。
 死を目前にしているという事実を全く感じさせない。
 ただの14歳の少女の笑顔だけが、私の前にはある。

 天使の名にふさわしい、眩しい少女。


 “彼女のことを思うなら、今は私も素直に楽しむことだろう‥‥”

 それがその場で導かれた、私の小さな結論だった。



 ‥‥食事を終えた後、私達は海岸に向かった。
 浜辺へと降りていく細い砂利道を見つけ、早速車を海のそばに止める。

 「塩水の匂いがする…ううん、ちょっと違う感じ」
 車から降りたレイが最初に言った言葉は、それだった。

 漂う磯の匂い、目の前に広がる青紫の日本海。
 私達は今、暗くなりはじめた夕暮れの海岸に立っている。

 セカンドインパクトから15年、わずか15年しか経っていないにも関わらず、
 目の前に広がる自然はほぼ完全に再生を遂げていた。

 「広い‥とっても広い‥」
 いつの間にか、レイは穏やかに波が打ち寄せる波打ち際に立っていた。
 制服のスカートが、夕凪をうけて柔らかに揺れている。

 「少し海に入ってもいい?」
 レイは私の答えを待たずして、靴と靴下を脱ぎはじめていた。

 「ああ、だが無茶はいかんぞ」
 「うん」


 「冷たい水‥」
 夕暮れの水際でレイは普通の少女そのままに戯れている。

 「緑色のわかめがいっぱい生えてる‥」

 「何?この渦巻きは何?」

 「これが魚?生きている魚‥とても速い‥」

 夕暮れの浜風に乗って、時折レイの声が私の耳にも入ってくる。

 命の息吹きに満ちた日本海に驚き、感動する声と仕草。
 生の素晴らしさを感じさせる、ひとつひとつの表情が、たまらなく眩しかった。

 連れてきて本当に良かったと思う。

 私は、レイを、子供のようにはしゃぎ回る彼女を、いつまでも眺めていた。




 一時間ほど経っただろうか。

 沖のほうに目をやると、地平線近くにイカ釣り漁船の明かりが
 隙間なく並んでいた。

 あたりがすっかり暗くなってきたのでレイに戻るように言い、
 私は車のエンジンをかけた。

 少女が私の車の所に走ってくる。


 ‥そして、車は再び走り出した。



  *       *       *



「今日は、ありがとうございました」
 車が走り出してすぐ、開口一番にレイはそう言った。

「いや、いいんだよ。むしろ、こんな事しかできなくて、私の方こそ
 すまないと思っている。」

「いいえ、とても楽しかったです。海、とっても綺麗で、たくさん生き物
 がいました。」

「そうか。」

「それから、海の水はとても塩辛くて。」

 新鮮な体験を次々に話すレイ。

 感情の破綻していた一人目や、仮面をかぶったような二人目とはまるで別人の、
 感受性豊かな少女が私の隣にいる。

「‥‥で、指でそれをつついたら、紫色のインクみたいなのを
 出したの。ホント、変な生き物。」

「それはアメフラシと言う名前の生き物だよ。セカンドインパクトで
 絶滅しかかったが、綺麗な海にはだんだん戻ってきているようだよ。」

「アメフラシ‥」

「ああそうだ、喉が渇かなかったか?確か、さっき海水を少し飲んだって
 言っていただろう?」

「あ、うん。」

 少し走ってようやく自販機を見つけ、私は車を止めた。
 スポーツドリンクと缶コーヒーを買い、再び出発する。

「さて、出発だ。」




「あの海、魚が結構いただろう?」

「はい。沢山。とても綺麗でした。」

「時間があれば、近くの水族館なども連れていきたかったな。もっと色々な
 ものを見たり触れたり出来たんだが。」

「いえ、充分楽しかったです。今日の夕御飯に出てきた、えっと、
 何のスープでしたっけ‥」

「ああ、鱈汁の事かね。」

「ええ、とてもおいしかったです。」

 素直で、何の混じりけも感じさせない返答の数々は、乾ききっているはずの
 私の心を湿らせていくようだった。


 いっそ、愚か者になって今すぐレイに大声で詫びたくなる。


“だが、それは移植を希望したレイの心を踏みにじる事になるのではないか。”

 しかし、そんな下等な詭弁を心中で弄することで、
 私は無理矢理その衝動を押さえつけるしかなかった。



「レイ君‥‥私は思うんだが‥‥」

「‥‥‥」


 返答がない。
 耳をすますと、かわりにすーすーという寝息が聞こえてくる。


 一日中、いろいろなことがあったのだから、とても疲れていたのだろう。

 私は車をいったん止め、トランクに入っていた薄手の毛布を取り出し、
 穏やかな寝息をたてているレイの体にそれをかぶせた。


「‥‥‥レイ、か‥‥」

 第二新東京への帰り道は、話し相手がいないためか、とても長く感じられた。
 真っ暗な車中、いろいろと私は考えてしまう。


 偽善・殺人・憐憫・傲慢・救済・虚構・・・・

 それらの言葉は、依然として私の脳裏を横切っては、毒霧をまき散らす。
 決して快いものではない。

 だが、今日という一日を終え、一つだけ言えることがある。

“今日という日は、レイにとっても、私にとっても最良の日であった”と。

 大いなる偽善。
 破滅の前の晩餐。

 そう言い切って否定してしまうのは簡単だ。
 だが、今日を含め、一つ一つの彼女の行為には、それでも何らかの意味が
 あるのではないか。私はそう、信じたい。

 移植の希望、シンジ君へのつたない手紙、夕暮れの海辺で見せた
 無邪気な表情。
 一瞬、そう、ヒトの長い一生から見ればまさに一瞬の輝きときらめき。
 それでも今日の彼女は、誰よりも眩しく輝いていたではないか。

 なんら光を発することなく、なんら笑顔を見せることなく消えていった
 かつての綾波レイ達、あの二人に比べれば、短いながらも、彼女は
 充実した時間を持つことができたのではないか。


 規則正しく、穏やかなレイの寝息が聞こえてくる。

 “レイの長い一日”は終わったのか。

 車は、第二新東京市に到着しつつある。

 私は何故か大きく息をついた。
 私にとっても長かった一日は、ようやく終わろうとしていた。



to be continued




 この話、書きたかったんです。
 稚拙ですが、話自体はそれでも満足しています。

 2004年注:当時、浜辺ではしゃぐレイを想像しながら描きました。
 疲れた私を癒してくれました。EOEが公開される直前の、当時のエヴァ馬鹿
 達ならきっと共有していたであろうあの緊張感の中、このSSは製作されて
 いました。馬鹿な書き込みだらけのこのSSファイル達ですが、あの頃の自分を
 思い出させてくれます。




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