・オタク趣味以外にアイデンティティを補強する手段を持たない人達
    ――オタク趣味に後ろ向きだけど、すがりつかずにはいられないという矛盾――



【はじめに】

 Zさん(仮称)はオタク趣味人としてハイレベルな知識と経験を持った、手強いオタクさんである。専攻はコミック分野・洋物ファンタジーあたりだろうか。一方で、東洋思想や西洋哲学、宗教学などへの造詣も深く、オタクな話題を交換する時にもそれらを交えた芳醇な視点を提供してくださる方である。
 
 このZさんと話をしていた時に、興味深い台詞が出てきてハッとさせられた。
 
「世に言うオタの人達は、生業としている仕事や全人格的なモノ※1を帰属先とせず、趣味の分野でアイデンティテイを形成しているのかしら? 」

 ああ、オタク趣味やサブカルチャーにアイデンティティ・自己実現感を依存している人があまりにも周囲に多すぎるせいで、Zさんのようなオタクさんが存在していることをすっかり忘れていた。私よりも年上の世代で壮年期にすんなりと移行したオタク趣味愛好家の場合、オタク・サブカルチャー趣味に自分のアイデンティティを賭けるという感覚がピンと来ない人が多いかもしれない。Zさんは私よりほんの少し上くらい(30代前半、東浩紀分類でいけばオタク第二世代の典型か?)で、なおかつ十代の頃から職業人として生き筋が決定していたとの事。Zさんは思春期をこじらせる暇もないうちに、自分自身の投射対象が定まっていたのだろう
 
 翻って昨今のオタク達――とりわけ就職前のオタク達や、就職しても職業的アイデンティティや自己実現感に到達しきっていないオタク達――をみてみると、どうだろうか。彼らが自己実現感なりアイデンティティなりを獲得する装置はどこにあるのだろうか?どこにもない!しかもオタク趣味じゃ十分に満足出来てない!オタク趣味やサブカルチャーぐらいしか「僕が僕である事の刻印」を見いだせずに燻っている男性オタなら、今日日幾らでも存在するだろう。Zさんとはかけ離れた人生行路を行くオタク達に、今回は焦点をあててみたい。



【オタク趣味そのものではアイデンティティや自己実現感を牽引しにくい】

 仕事や特定の価値観・宗教観を得ることが出来ない思春期男性であっても、アイデンティティや自己実現を獲得する手段が無いわけではない。例えばスポーツ・男女交際・クラス内の縄張り争いなどを通して得られる成功体験は、束の間のアイデンティティや自己実現感を思春期男性に与え、将来の成功体験を増幅する自信も提供してくれる。かりそめとはいえ、そうした体験の数々はモラトリアムをたゆたう男性の自意識に重要な養分になっていることだろう。

 だが、現代思春期男性の全員がこうした“養分”にありつけるわけではなく、あぶれた男性がどうしても出てきてしまう。例えば侮蔑されがちなオタクのように、クラス内のコミュニケーションシーンに落伍した者には、こうした自意識の“養分”は少ししか与えられない。スポーツに自分を託すことも出来ず、異性によって承認欲求を満たすでもなく、学業や仕事で認められるにもまだ早く※2、選べる趣味はオタク趣味ぐらいしかないというオタク達。こうした、従来からの正攻法でアイデンティティ・自己実現感を得られず、望むと望まざるとにかかわらずオタク趣味・サブカルチャー方面にしか追いやられた男性というのが、オタク界隈には今間違いなく溢れている。とりわけ1970年代以降生の第三世代オタクにおいては顕著である。

 彼らの多くは、オタク趣味やサブカルチャーを主体的に選択したというより仕方なく選ぶしか無かった、という点に注目しよう。passiveにオタクとなった手合いのなかには、オタクになりたくてなったというより、女の子と遊んだりスクールカースト上位に位置づけることが出来ず、仕方なくオタクになったという経緯の者が実に少なくない。こうした彼らであるが故に、自分自身の消極的選択に自負も誇りも持つことはかなり難しい※4。仕方なくオタク趣味を選んだという負い目を背負いながらもオタク趣味以外に遊び方を知らず、同族嫌悪や自己嫌悪を身に覚えつつも日々を過ごすオタクは決して少なくない。

 だとしても、オタク趣味そのものが十分にアイデンティティを牽引する装置として機能すれば良いのだが、不幸にも最近はそうもいかなくなってきつつある。かつての“おたく”は「オタク趣味という、まだまだ未開のジャングルを選んだ場合、個人個人で力を出し切って開拓せざるを得ない」という事情があったため、選択に際しては(それなりの苦労と引き替えに)アイデンティティを得やすかったかもしれないが、時代を経るにつれてオタク趣味を消費する為の敷居は下がってきている。オタクライフがすっかり整備されていて微塵の苦もなく享受できるようになった現在オタク趣味を消費するにあたって求められる最低咀嚼力は低下の一途を辿っており、「単にぬるいオタクであること」だけではアイデンティティや自己実現感を獲得できなくなっている点に注目しなければならない※3。乗用車で富士山の五合目まで登ったところで登山家としてのアイデンティティが芽生えないのと同様、まとめサイトという名の流動食を流し込むだけの受動的オタクライフでは、主体性の女神を振り向かせるのは困難だが、ここまで情報網や販売網が整備されてしまった現在、オタク苦行をわざわざやろうという酔狂な者はあまりいない。

 また、オタク趣味への根強いバッシングの存在もまた、オタク趣味を通したアイデンティティ獲得を中途半端なものにする一因と考えられる。女の子やマジョリティ男性に馬鹿にされない趣味なら話が違ってくるのかもしれないが、オタク趣味に対する世間/女の子の眼差しはまだまだ厳しい(とりわけ、二次元美少女が絡むジャンルは蛇蝎のように忌み嫌われている)。この嫌悪の視線の故に、オタク趣味をいくら究めてみたところで、思春期男性が喉から手が出るほど飢えている自己実現・アイデンティティの獲得は極めて狭い範囲に留まらざるを得ない。それこそ、オタク内部で優越感ゲームを展開するぐらいが関の山である。世間のオタク趣味への低い価値づけ故に、オタク趣味に自己同一性を見出したところで、「自分の趣味界隈では内弁慶だけど、一歩蚊帳を出てみれば誰も認めてくれないし、自分自身も自分を認められない」という心性に留まってしまうリスクが高い。例えばエロゲー評論で高い評価を受けたオタクなどは、エロゲー界そのものが貶められている状況下においては、エロゲーオタク以外の前でも通用するアイデンティティは得ることができない。


 こうした、
1.オタク趣味以外に趣味の選択肢が無く
2.オタク趣味に対して主体性を要請されることもなく
3.しかもオタク趣味バッシング故にオタクとして頭角を顕しても局地的にしかアイデンティティが得られない

 といった背景を抱えた第三世代オタク達の多くは、オタク界隈の外でも機能し得るようなまとまったアイデンティティを獲得する事が出来ない。さりとて他に楽しみや(局地的とはいえ)自己実現感を感じさせてくれる趣味も選べないので、消極的にオタク趣味を消費しつつ、オタ内部でしか機能しないアイデンティティにしがみついて齢を重ねていくものと予測される。幸か不幸か、細分化の進んだオタク界隈の狭い井戸のなかだけでは優越感やアイデンティティは獲得しやすい。よって、十分にpassiveかつコミュニケーション等に難のあるオタクの場合など、非オタク界隈に背を向けて“唯一のアイデンティティ”“唯一の優越感”を獲得する装置としてのオタク趣味界隈にどっぷりと依存し、オタク界隈内部で醜悪な優越感ゲームを演じまくってしまうやもしれない。事実、オタク趣味の話になると居丈高で、他の話は全く駄目というオタクや、空気を読まずに自分がいかにオタクとして優れているのかを一方的に喋り続けるオタクというのは存在している。彼らには、そうした(オタク界隈内部だけにしか通じないうえに、方法としても拙劣このうえない)自慢話以外に、自己実現感やアイデンティティを疑似体験できる方法が存在しないのだろう。もう、Zさんのような境地は遙か彼方で、いつになったら到着するのか見当もつかない。



【そもそも、モラトリアムが延長せざるを得なくなってしまった現況が大きな要因なんだろう…けど】

 おそらく、Zさんのように職業人・社会人としてのアイデンティティをさっさと確保出来るなら、思春期をこじらせる度合いも期間も短く、オタク趣味なぞに自分自身を(不承不承)賭けなければならない度合いも低くなるのだろう。だが、モラトリアムの延長が現代思春期事情の贅沢な点でもあり不幸な点でもあるわけで、そうは問屋が卸さない。今回お話したZさんは十代で職業人として離陸し、自分の意志でその道に邁進していったわけだが、このような幸運に与れる人は今現在そう多くない。とりわけ大学や大学院などを経由しなければならず、職業の方向性すらすぐに定まらない人の場合、モラトリアムはどうしても遷延しがちである。また、職業としての輪郭が曖昧な職業に就いた人・自己実現感の乏しい現場に就いてしまった人※5、現場でなかなか認めて貰えない人にとって、職業人や社会人としてのアイデンティティ・価値観といったものはたちどころに獲得できるものではない。就学期間が延長し、職業の細分化が進んだ現代社会においては、アイデンティティや自己実現を職業から手に入れることは意外と難しいのではないだろうか。少なくとも、二十代後半以降まで“おあずけ”を喰らったままの人が沢山いる、とは言えるのではないだろうか(インターネット上にはとりわけ吹き溜まっている!)
 
 そのうえ、もし途中でニートや引きこもり等にたどり着いてしまったら、“おあずけ状態がいつまでも遷延する”ときている。就職・就学に躓いた者が自力で立ち上がることは、現在の日本社会ではまだ簡単な事ではない。手に職があったり、既に大きな人脈を確保しているならともかく、そういったものを持たない若年者は、幸運と素養と環境に恵まれなければズルズル行ってしまう可能性が高い。ニートや引きこもり、廃学生などがMMOに自己実現感を求め、そしてaddictionを形成して益々ダメになるという図式も、アイデンティティの空洞を巡る補償の営みとしてならば十分に了解可能と言える。職業的・社会人的アイデンティティや自己実現感を得ることの出来ない十代・二十代男性(そのうえ恋愛やスポーツでは活躍出来ない)→オタク趣味内部でようやくゲット出来る自己実現感に夢中→そればかり追いかけているうちに他が疎かになり→ますますオタク趣味以外の世界での適応が阻害される というスパイラルに乗っかったオタクの後ろ姿を、あなたもきっと見たことがあるのではないだろうか。

 こうした実情をみるにつけても、アイデンティティや自己実現をスムーズに職業から得られたZさんのケースは、1970年代以降生まれのオタクとしてはかなり例外的で幸運な存在のように思える。むしろ、思春期を通してアイデンティティや自己実現に飢えに飢えて飢えまくったオタク男性としては、オタク界隈でようやく“優越感の模造品”にありついて夢中になってしまい、オタクの井戸の底でいつまでも優越感ゲームを繰り広げるというパターンのほうが多いんじゃないだろうか。



【手に入らないからオタク趣味にアイデンティティを仮託する、だけれど思春期は終わらない】

 このように、ある種の男性達にとってオタク趣味は唯一アイデンティティを仮託出来る貴重な場として機能している、と考えられる。恋愛やスポーツ、職業やステータスといったものに自分自身を賭けることを許されない彼らであっても、オタク趣味世界においては比較的容易にく自己実現“感”にありつきやすい。オタク趣味界隈の寛容さ・懐の深さは、思春期適応競争弱者でも気兼ねなく楽しめる安全圏を実現し、侮蔑されがちなオタク達の精神衛生となけなしのアイデンティティを防衛するバリアーとして機能している、とも言えるだろう。恋愛やスポーツや仕事や学業では自己実現出来ない人達にとって、これは大きな福音、ではある。

 一方、オタク界隈が“誰でも簡単にやれて”“誰にでもやさしい“が故に、いつまでも続く自己満足装置になってしまいやすいという問題から目を逸らすわけにはいかない。ぬるま湯化の一途を辿り、(元々あまり必要なかった)コミュニケーション能力が一層要請されなくなっているオタク界隈に漬かっているうち、コミュニケーションや社会適応に関する諸機能の研磨をみないままにスポイルされていく可能性は少なくないのではないか?ただでさえ受動的にオタク趣味しか選べなかったような適応上の不利さ加減を抱えている彼らが、ぬるオタ井戸の底でぬるぬるとスポイルされ続けるなら、就職後に職業的アイデンティティ・職業的自己実現を確立する事はなおさら困難と推定せざるを得ない。

 オタク趣味で自意識を埋め合わせる事ばかりに夢中で、実際的な技能や欠点克服を怠り続けたキリギリス達は、就職した後もオタク趣味以外にろくなアイデンティティの仮託対象を見出すことができず※6、よって三十路を過ぎても終わらない思春期を浮遊し続けるのではないかと思う。やがて歳をとって処世術が固定されていった果てに、彼らはオタク趣味内部で自意識やアイデンティティを埋め合わせ続けるしか自分の心的適応を維持する手段が無いと気付くのかもしれない。オタク趣味以外にアイデンティティを補強する手段を持たないオタク達。彼らは、いつまでも自意識やアイデンティティをオタク趣味内部に求め続け、飢え続け、思春期心性を抱え続けるのだろうか?あるいはそうかもしれない。







 【※1全人格的なモノ】

 このZさんとのやりとりの中で登場する『全人格的なモノ』というのは、この場合、宗教や特定の哲学、文化などの基づいた(個人にとってほぼア・プリオリに近い)価値観を指しているようでした。



【※2学業や仕事で認められるにはまだ早く、】

 ただし、まだ早いも遅いもなく、そもそもコミュニケーション能力を含め学業や仕事で頭角を現す素養を最初から持っておらず、その萌芽もみられない人、というのも混じっていることもある。

 若ければ可能性が無限、という人もいれば、若くても可能性が極めて限定されている人もいる。「誰でも若ければ何とかなる」と思い込むことは一種の慰安にはなるものの、現実にはあまり即していない。



【※3注目しなければならない】

 ただし、自己実現感が低くなった代わりに、オタク界隈への参入障壁が極めて低いものになった利点にも注目したほうが良いと思う。馬鹿でも何でもオタク趣味にありつけるという事・人脈や技術を獲得しなくてもオタク趣味を消費出来るようになったという事は、オタクというプールの数的膨張に貢献しただろうし、“にっちもさっちもいかない人”がささやかな慰安としてオタク趣味を消費する事を容易にもしたわけで、ここら辺の功罪を評価する視点は様々であるべきだろう。少数のエリートオタクが主体性を獲得しながらオタク趣味を霊験あらたかなものにしていくのと、大衆オタクがぬるく楽しむオタク界隈と、どちらが良いとするかはいかにも意見のわかれそうな所である。



【※4かなり難しい】

 そのうえ、彼らの消極的受動的にオタク趣味を選んでいるという自覚が、自分達の境遇に対して「仕方がない」「これは俺の本気じゃないから」「これは俺が選んだことではないもの」という言い訳を与えている可能性にも注目して欲しい。自分で選んで頑張ってやっている事に対してではなく、自分で選んだわけでなくぬるく惰性でやっている事ならば、それを言い訳したりメタ視してごまかしたりする事は容易になるし、事実、能動性の欠如した第三世代オタクの多くの成員が葛藤を防衛する手段としてこういった逃げ道を多用している。

 この逃げ道の利便性に味をしめてしまうと、彼らはますますオタク趣味界隈で「本気じゃなく」「仕方なく」たゆたう方向に傾きやすくなることだろう。もし、言い訳やメタ視による防衛を十分確立したうえで、非オタクとのコミュニケーションを断絶してオタク界隈に引きこもって局地的オタ内アイデンティティに満足するようになったオタクは、もうオタク界隈から外をまなざそうとしないだろう。こうした背景をもって“一生モノの受動オタク”が完成するのだろうと私は踏んでいるのだが。



【※5自己実現感の乏しい現場に就いてしまった人】

 自己実現感の乏しい現場、なるものがどのような現場なのかは敢えて挙げない。しかし、相対的に自己実現感の乏しい職種や現場というものが発生している、と言うことまでは十分可能だと思われる。



【※6アイデンティティの仮託対象を見出すことができず】

 もしも、現代の日本においても伝統的価値観・宗教的アイデンティティ等が十分に機能していれば、世間から冷笑されがちな趣味にアイデンティティを見出さざるを得ない必然性は低くなっていたに違いない。ところが、現在の日本は伝統的価値観も仏教/神道の宗教的プレゼンスも非常に弱くなってしまっており、それらを拠り所とする幸運に与れる人は少数派になっているのが現状だ。

 それどころか、こうしたアイデンティティ需要につけ込む形で、浮遊する若年者につけ込んで人さらいをやらかすカルト教団が跳梁跋扈しているというひどさったら!