【イラク自衛隊派遣問題にまつわる主張から感じられる、
  “議論”当世事情】(2004.4/16)


  最近イラク人の過激派組織によって日本人が拉致されたことも手伝って、
 またぞろ自衛隊派遣・自衛隊撤退に別れた二つ主張が巷に溢れている。
 幸い、三人の日本人は解放されたものの、また二人拘束されてしまったので
 この問題は当分はマスコミやネット上でとりあげられることだろう。
 自衛隊の派遣にまつわる主張を眺めていると、概ね派遣・撤退の二つに
 意見が別れているように見える。即ち、

.「自衛隊は撤退すべきではない。テロリストの脅迫に折れてここで自衛隊を
 撤兵することは、国際政治において、特に米国との関係において巨大な負の
 効果をもたらす。いったん派遣を決めた以上、今このタイミングで撤退する
 ことは日本の国際的評価や政治的立場に大きな傷を残す。政府は、少なくとも
 この段階では撤退を表明すべきではない」

.「いや、自衛隊は即時撤退すべきである。そもそも国連決議に基づかない、
 米国主導の政策に乗る形で自衛隊が派遣される事自体がおかしいのだ。
 憲法第九条を曲解するのもいい加減にしろ!そして今、自衛隊を派遣した
 事によって日本国民の命が現に危機に曝されている。地球より重い日本人の命を
 助ける為には、自衛隊を即時撤退させ、少しでも拉致された人々の命が
 救われる可能性を高くすべきだ。人命への配慮の欠けた政府の決定は落第だ」

 といった類のものだろうか。
 この他にも色々な主張が飛び交っているのも事実だが、この比較的
 相反する二つの主張が大きなウエイトを占めているのも事実だ。

  特に、大がかりなマスコミでは、どちらか一方のニュアンスに相当大きく
 傾いた発言(いや、扇動、と呼ぶべきだろう)が放送されており、一方の主張を
 行う者は、他方の主張に含まれている潜在的価値については全く考慮しないで
 とにかく自論は正しく、対照は正しくないといった主張を繰り返している
 マスコミの扇動は、国会の与党と野党の水掛け論にどこか似ている。
 国会議員などの政治的目的のもとに主張をする必要がある人は、まあ
 致し方ないのだが、マスコミまでもそれをするというのは困ったものだ。
 或いは、マスコミにも政治的意図があると考えればいいのだろうか?
 (事実は全くその通りなのだろうけど)
 まさにこれは、議論ではなく主張であり、啓蒙ではなく扇動であり、
 ヒトラーが生前にほざいていたアジテーションの方法とあまり矛盾しない。
 視る者に考える事を促す発言ではない。視る者に考えを刷り込む発言である
  多くの(メディア上で踊る)主張者達の言説は、
 「その主張が議論として慎重に取り扱われたか否か」よりも、
 「その主張をどれだけ多くの人に正しいと思いこませるか否か」
 重点が置かれているように見える。自称知識人の中にも、このような
 やり方を採用する人は混じっているようだ。

  このイラク派兵(派遣、でもいい)と日本人誘拐の問題については、
 実際にどちらかが完璧でどちらかが完全悪という事はあり得ず、1.2.の
 双方の視点が、それぞれに無視出来ないコストとベネフィットを含んでいるのだが、
 現在の国内の主張者達の発言(或いはマスコミが切り取った断片か)を見ていると、
 1.の主張者は1.のベネフィットと2.のコストばかりを口にして
 2.の主張者は1.のコストと2.のベネフィットばかりを口にしているようだ。
 どちらを採ってもコストとベネフィットがあって、そのどちらも軽視できない
 ものがあるというのが本当の所だろうに、そのような複眼的・複合的な視点や
 議論はあまり呈示される事は無い
 特に民放のワイドショーや通俗雑誌あたりは目を覆いたくなる。
 一方からだけの主張を視聴者に呈示し、考えさせようとはしない。
 刷り込むだけだ。
 戦争や平和というキーワードを打ち込めば無思考になりがちな日本国民を
 相手には、これぐらい杜撰な議論(いや、議論の名には値しない。ただの主張だ)
 でも構わないとでも思っているのだろうか?

  この件に関しては、問題の複雑さが孕んでいる複雑な視点を損ねないように
 という慎重さや配慮がなされた発言というのは、頑張って探さないと見かけない。
 やはり、日本国民に無思考を促しやすい議題だからだろうか?
 マスコミはともかく、インターネット上の論者ならもう少し丁寧な議論を
 試みている人がいてもおかしくないと思ってあちこち眺めてみたものの、
 やはりどちらかの主張に大きく傾いているばかりの主張者が殆どであり、
 相互のコストとベネフィットを比較した、(分かり難いという欠点はあるにせよ)
 慎重な議論を試みている論者は非常に少ないようだ。
  もちろん、議論や主張といった風ではなくあくまで感想を控えめに述べるだけの
 人も多く、そういう人には好感が持てるわけだが、明らかに単なる感想を越えた
 論調を選択しているにも関わらず、一方のベネフィットと他方のコストだけを
 声高に述べる主張者があまりにも多いように感じられた。
  インターネット上の主張者達の過半も、結局はマスコミ上で大きな声を
 あげて賛同者を集めているアジテーターとあまり変わらないという事なのだろうか?
 彼らの多くは、ある種の専業主婦・女子高生ほどには無思考ではない筈だから、
 頭が悪いが故に議論を怠っているとは考えにくいのだが……だとすれば、彼らも
 持論が広く受け入れられることのほうが、議論が慎重で危なげないか否かよりも
 重要だと考えていると推測したくなってしまう。それとも或いは、彼らは
 議論というものの訓練を受けていないから、そうなってしまうのかもしれない。
 議論という営為を、自説のベネフィットを主張し他説のコストを突くことによって
 自説をまかり通すものだと誤解している人間は、今も昔も過半を占めているようだ。
 そして、日本だけでなく欧米諸国でもそのような考えが広く存在するようだ。
 これが、種としての人間の現状あるいは限界なのだろうか?
 それとも、ネット上の主張者達にも殆どの場合は商業的・政治的目的があって、
 わざわざ扇動的な発言を行っているのか?どうなのだろう。

  議論が議論たるには、つまり単なる主張合戦を越えて相互の考えを複合させて
 より高い次元の考察を生み出すには、自説のコスト・ベネフィットと他説のコスト・
 ベネフィットを可能な限り考慮に入れる必要があり、そのうえで最も妥当な総括を
 導く必要がある声の大きいほうが勝ち・他者の意見をねじ伏せたほうが勝ち
 というのではそれは議論ではなく、子供の口喧嘩と大差ない。しかし、こんな
 当たり前の事すら出来ていない“議論もどき”“声の大きさ比べ”がまかり
 通っているのが現状で、歴史を紐解くと、現在だけではなく遙か昔から人間の
 大半はそうであったことが解る。現在の自衛隊派遣問題の時に限らず、
 様々な時代と様々な国家において、同様の現象が幅広くみられている。

  どちらか一方に重きを置いて主張すること・議論すること自体は不適切では
 ないと思う。だが、どちらか一方だけを主張して、他の視点はお構いなし、
 或いは他の視点の長所や自らの視点の短所を完全に黙殺してかかるのは
 不適切であり、非常に危険でもある。
 アジテーションには最も効果的なのはそういう方法であることからも解る通り、
 考えることを面倒くさがる大衆・視聴者の多くに対して一方的で幅の狭い考察を
 与える(いや刷り込む、か)には、こういう方法が最も適してはいるのだが。
 議論をする、と言って実際は主張をしているに過ぎない主張者は、このことが
 孕む不誠実さに留意しながら自らの主張をするのが適当ではないだろうか?
 或いは、主張・感想と割り切って、これは議論ではないことを明示する
 事によって、考えない読者の思いこみを防ぐようにしてあげるのが穏当では
 ないだろうか?

  自分の主張が認められること・自分のテキストが多くの人に読まれて
 注目されることだけを目的としているアクセス乞食的情報発信者ならともかく、
 そうでない主張者はこのことにもう少し留意するか、もう少し慎重に
 考察を行ったうえで主張を呈示したほうがいいような気がしてならない。
 ましてや、イラク自衛隊派遣問題のような“硬くて複雑な”問題に
 ついて議論と称するものを発信しようとするなら尚更だ。自分の主張が
 単なる主張や扇動ならそう明記して貰いたいし、議論なら議論然として
 丁寧かつ慎重に(たとえその為少々分かり難い文章になっても)扱って
 欲しいものだ。とはいえ最も最悪な、議論と銘打って扇動をする輩も含めて、
 この手の扇動的な・或いはナルシスティックな情報発信者はいつの時代にも
 絶える事は無く、これからもメディア上を跳梁跋扈して無思考大衆にあれこれ
 刷り込み続けるのだと思うと、私などはうんざりしてしまうのだ。

  しかし、分かり易さを求める大衆を前にすると、主張者一般は議論を丁寧に
 することを放擲し、議論を単純化して他説を無下にすることによって
 自説の支持を積極的に集めたくなるものなのかもしれない
 実際、そうした扇動型のほうが議論型よりも自説が理解されやすく、支持されやすい
 ことを主張者の多くは知っていることだろうし。
 なにせ名声や支持を前にすると、人の心は脆いのだから。
 (さらに金や異性が絡むと、絶望的なまでに脆いのは言うまでもない)
 例えばくだんの自衛隊派遣問題についても、どちらか一方の意見を解りやすく
 主張するだけの方が、両方の意見を慎重に検討して丁寧かつ複雑に議論する
 よりも、遙かに多くの支持者を獲得することが出来ることが想定される。
 だったら、支持や名声に弱い主張者が議論を放擲しても全く不思議ではない。

  さらに、(ネットも含めた)メディアにおける昨今の情報の生産/消費の
 スピード化を考慮すると、巧遅よりも拙速が、複雑で時間のかかる考察
 よりも簡素ですぐに解る主張のほうが現在は需要があるのかもしれない
 このような議論・主張にまつわる淘汰圧がかかった状況下では、主張者側も
 視聴者側もどちらもが、単純明快で声の大きな主張を、わかりやすい主張を
 求めがちになるのはむしろ当然の傾向かもしれず、個々の主張者の
 議論欠如と主張過多に眉をひそめても意味が無いのかもしれない。
 そしてこう結論づけたくもなる、“それが現代なんだよ”と。

  しかし、問題を真剣に議論したいと思うならば、時代の要請がどうであれ、
 主張合戦ではなくやはり慎重なdiscussionが必要なことには変わりない
 そして、時代の要請ゆえ、様々な意見の様々なコスト・ベネフィットを考慮に
 入れた丁寧な議論が難しい情勢とはいえ、そういう丁寧な議論が不必要かと
 言えば絶対にそんな事はない。むしろ、このような情報の生産と消費のスピードが
 極度に早まっている時代だからこそ、複雑でもいいから慎重で丁寧な議論が
 一方では求められるのではないだろうか?
  そして、金やら何やらでとかく汚染度の高いマスメディアと異なり、
 ネット上では個々の情報発信者はいくらでも慎重で丁寧な議論を試みる
 ことが許される(ただし、自分のサイトがマスメディアに近い性質を帯びれば
 帯びるほど、これは難しくなっていくのだが)。だからこそ、私はネット上の
 個人サイトにもう少し期待したくなってしまう。
  彼らの多くは、丁寧で慎重な議論ができるような知的ポテンシャルは
 持っているように見受けられる。そして実際、分かり易さを後回しに
 してでも丁寧で慎重な議論を展開しようと腐心している人も見かけるし、
 中には丁寧な議論と分かり易さの両立を模索している人すら存在する。
 私自身も出来ればそうありたいと思っているし、その為に精進が必要だと
 常々思っている。難しく、そして多くの読者から読むことを面倒くさがられる
 可能性の高い選択だが、これはこれでやり甲斐のある作業ではないだろうか

  今後も、今回の自衛隊派遣並みに複雑な要素群からなる問題は
 絶え間なく発生して、議題としてメディアやネット界隈を賑わすことだろう。
 願わくはその時に、少しでも多くの「少々複雑でも丁寧で慎重な議論」が
 現れる事を期待したい。
 また、「理解しやすいが断定的な主張」「支持されやすいが他の意見・要素群を
 無視する主張」ばかりにならない事も期待したい。
 もちろん、私のサイトはアクセスだの何だのから比較的自由なので、
 少々複雑でも丁寧で慎重な議論を志向したいと思っている。
 (まだまだ力不足・スタミナ不足・情報収集能力が低いなど、問題だらけだが)




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