【適切なテレビの虫 ほか】(2004.09/24)
「結婚を否定するってのもアリかもしれない。
それだけじゃなくて、恋愛を否定するという選択も別にアリなんじゃないか」
昨今のこの国では、(特に未婚の若い男女に関する限り)恋愛をする事が
当たり前のような、あるいはいっぱしの男性や女性なら恋愛をしているのが
当たり前というような風潮が蔓延している。詳しい実態はこちらなどをまめに
見て頂ければきっとよく分かるだろうけど、仕事が出来るか否かなどと同じ
くらいに恋愛が出来るか否かや、恋愛をしているか否かが一種の評価尺度
のように取り扱われることがかなりあるように感じられるのだ。巷に流布する
恋愛に関する議論や、様々な人達との世間話をみていると、なんだか誰もが
恋愛をしなければならないような気分になって、恋愛をしていないと自分が
人格不良品かコミュニケーションスキル低劣な人間のように感じられる。実際、
恋愛における競争のグローバル化とそれに伴う競争の激化は、魅力的な者と
そうでない者の(恋愛における成果!?の面における)格差を広げてしまうだろうから、
コミュニケーションスキルやパーソナリティの問題を抱えた人はパイを得にくく、
そして魅力的な者はパイを得やすくなる――つまり、恋愛が出来るか出来ないかを
対人交流能力のモノサシとして利用しやすくはなってはいるわけで、このような事情
も恋愛をしないor出来ない人間を出来損ないのように見がちな風潮を支える一助と
なっているのかもしれない。
上記に限らず、様々な要素群の集大成として、現在の若い人達は恋愛を
強迫的に求めがちになったり、求めざるを得ないかのような気持ちになったり
しているのは間違いない(その要素群をここで全て紹介するのはやめとくけど)。
このようなモノサシは特に若年者同士の場合に顕著で、恋愛を遂行する為の
資源の多寡や、実際に行っている恋愛についての情報は、他人を評価したり
自分が評価されたりするさいの重要な評価尺度になっている。良きにつけ
悪しきにつけ、恋愛が出来る人間は比較的高い評価が為されやすく(仮に他の
能力に綻びがあったとしても、である)、恋愛をしていないか出来ない人間は
比較的低い評価に甘んじやすい(仮に他の能力に抜きんでたものがあっても、
である)※1。
もっと世間に流通してもいい考え方
じゃないかと常々思っている。特に、恋愛が可能ではあっても過剰で苦しい
コストを支払っている人達や、恋愛が困難で不向きにも関わらず強迫的に求め
続けて嘆かざるを得ない人達の場合、恋愛が本人の社会適応にもたらす
費用対効果がかなり悪い。精神的な充足とか思い出とかいったメリットが
ある一方で、実に様々なデメリットが過剰な恋愛にはついて回るのだから。
恋愛の、コストとベネフィットのバランスが悪い状態の場合、恋愛を制限したり
放棄したりする選択肢が有効な局面が大いにあるように思える。それも、
仕方なく放棄ではなく積極的に意図的に放棄したり、恋愛を抑制したり
精神を預けきってしまわないようにするのだ。
ああ、こんな方策はわかってる人は分かりすぎるほど分かっていそうだ。
故人も多くの人がこんな事を格言に残してはいるし。
必要とされる物的・精神的コストと要求レベルなどを鑑みるに、恋愛という
一過性の精神状態は、充足の内容と期間に比して高いコストを要する傾向に
ある。恋愛を長く維持しようと思えば思うほど、もっと高いコストを要するし、
短期間でも激しく燃焼しようとすれば別のコストやリスクを背負うことになる。
特に、単純な男女交際なんかじゃつまんないと言い始め、宝石恋愛としか
呼びようがないような劇的酩酊状態を追求しはじめると、果てしないリスクと
技術とコストを要求されることとなる。もうそうなると、恋愛は娯楽とか文化とか
いったレベル以前に、負担あるいは依存と呼ぶに相応しい重荷となる。
(まあ、そこまで苦しくても通すからこそ宝石の如き恋愛ではあるのですが...)
また、恋愛が向いていない人の場合・元々異性との交際が向いてない人の
場合・近隣に同性しかいない環境に住んでいる場合などは、そもそも恋愛を
始めようとする段階から(精神的・時間的・金銭的)コストが相当かかる事となり、
しかも成功確率の問題などから、社会適応や精神的適応に寄与する期待値は
かなり低いと言わざるを得ない。※1
(だから、いわゆる非モテと呼ばれる人達が
安易に恋愛に飛びつかずに疑心暗鬼になったり臆病になったりするのも、
或る意味では適応的である。ただし、長期的に恋愛或いは男女交際が必要だと展望している人の
場合、短期的にはともかく長期的には話が変わってくるのだが…)
上記のような状況の人々の場合、例えば恋愛というほどごたいそうでは
ない男女の交際(性行為のひとつや二つ入ったって恋愛とは呼ぶ必要は無い)
で代用したり、(配偶が絡む場合は)見合い結婚などで代用したりしてコストや
リスクを軽減させることも悪くないのではないだろうか。
もっと単純に、性的関係だけを求めているならやり方は幾らだってある。
それすらどうでも良かったりエロゲーとかで代用できるなら、性的関係すら
省略できるかもしれない。
とにかくも、恋愛だの男女交際だのを簡略化すればするほど、他の局面に
おいてはむしろ有利にするための余力を得ることが出来ることだけは
間違いない。
当たり前の事を書いていると言われそうだ。
実際、当たり前の事を書いているつもりだ。
このような判断が消失し、恋愛の結晶を追い求め続け飢え続けるほうが、
或いはポーズだけでもそういうポーズをとり続けていなければならないほうが
どこかおかしいのだ。
恋愛が一過性で高いコストを食うイベントという側面を持つ以上、実際は
恋愛の追求という要素を斬って捨ててしまったほうが適応的な場面は多い。
ではないかと思われるのだ。
恋愛は、それなりのコストを消費する営みであり、しかも一般にはいつか
どこかで(それも比較的早期に)消えてしまうものである。
もしも、「永遠の愛」、まあそこまでいかなくても「長続きする恋愛」や
「細くなってしまった恋愛が、慈悲や恩愛の精神に移行していく」なんて
のを志向するとなると、要求されるコストは並大抵ではなくなる。
まして、恋愛には個人的な向き不向きがあるだろうし、恋愛が無いほうが
遙かに上手くいく結婚とか上手くいく生活だって存在する。誰もが恋愛を
追いかける、或いは追いかけなければならないという強迫的観念は、
全ての人に適応的な意義を持っているとは思えない。
昨今の経済活動や流行の影響によって、現在の若い世代の恋愛に
対する強迫的なhave toは殆ど信仰に近いレベルにまで達している。
近頃では非モテという言葉がネット上を跋扈し、いやネット上だけでなく
様々な場面において恋愛を一つの必須スキル或いは必須の体験とみる
ような風潮がみられている。結婚は人生にそれほど必要だと思っていない
人で、むしろ恋愛のほうが体験すべきプロセスであるかのように考えている人は
結構多いんじゃないかと思う。
このhave toを放棄すれば色眼鏡でみられるし、このhave toに勝利
出来ない者は負け組とみなされる昨今の状況!しかも、恋愛に対して
どこまで人は情熱的なのか?第一情熱がどこに由来するものなのか?
どこかの工場で大量生産された恋愛の模造品を、ルイ・ヴィトンのバッグか
ブルガリのブレスレットと勘違いして買い求める若者の群…という、そんな
情景さえ浮かんできてしまう。そしてこの場合、「恋愛」という商品を買え
なかった人間は惨めな思いを錯覚し、「恋愛」という商品を必死に買った
人々は、つかの間の安心感を得るという状況…スタンダールなら、これを
何と呼ぶのだろう?虚栄恋愛あたりか?それとも、消費恋愛とかいう
新しいカテゴリーでも創るのか?
恋愛なるものが人生の必須プロセスであるかのような錯覚が、人々の
間に流布している。或いは、恋愛なるものを人生の必須プロセスと
みなすような世論が蔓延している。
もちろん、恋愛の性質がどういうものであるのかという事には触れずに、だ。
もっと踏み込んで書くならば、恋愛の性質のメリットだけに着目し、デメリットや
コスト、難易度には触れずに、と書いたほうが適切かもしれない。
恋愛はリスクやコストを伴い、精錬するにはスキルや素養や運を要求される。
しかも一時的な色慾の発露で終わってしまいがちな選択行動だという事を
考えると、これに膨大なコストを費やすのは(流行という視点から離れて、という
前提がつくものの)常に優れた選択とは言えないように思える。
いや、むしろ物質的なレベルではその生産性は限りなく低い。あくまで
社会的な文脈だとか
人によっては、敢えて恋愛という選択行動を選ばず、恋愛スキルを取得
しないで生きていくのもアリだとは思う。もちろん、この分野で現在の流行と
距離をとることになる以上、「恋愛教信者」から変人扱いされたり侮蔑されたり
するリスクはあるだろうが、まあ、そんな事は大した問題じゃないだろう?ねえ。
尤も、いったん目の前の恋愛に取り憑かれてしまった者には、以上の
ような考察は不可能だ。また可能にすべきでもないと私は考える。
もの狂いのように七転八倒して、恋愛の様々な味を味わい尽くして、これが
恋愛だと誰にでも言えるような情熱恋愛をこそ、いっそお奨めしたい。
もちろん、情熱恋愛はきわめてコストが高く、要求される供物は半端ではない。
それでも構わなければ、破滅を覚悟して情熱恋愛に飛びかかり、天国と地獄を
味わい尽くせばいいだろう。きっと痛い思いや人生的破滅と引き替えに、
計算高い恋愛モドキとは異なった何かを、あなたは得ることが出来るだろう。
繰り返すが、このような打算抜きの精神的恋愛は極めて危険な代物だ。
スタンダールは称揚しているし、私も憧れてはいるが、あまりにハイコストだ。
儚い精神的宝石を賭けて、人生とか精神的安定とか、色んなものをチップに
要求されるんだからたまらない。もしそういうリスクを避けたいなら、恋愛という
賭場から距離を置くべきだろう。或いは、もっと掛け金の少ないギャンブルを
行うべきだろう。
→一つ前のページにもどる