ひとつの指輪はすべてを統べ、 ひとつの指輪はすべてを見つけ、 ひとつの指輪はすべてを捕らえ、 暗闇の中につなぎとめる。 映画『指輪物語』より 魔力の籠もった品物と言われて、さて、皆さんはまず何を 想像するだろうか? ハリー・ポッターでもお馴染みの、天駆ける魔法のホウキ? それとも、どんな異性でも魅了してしまう魔法の媚薬? いやいや、呑んでも呑んでも旨いウイスキーが沸いてくる 不思議な酒樽、なんていうのも素敵かもしれない。 もちろんこれらはほんの一例で、実に様々な品物が連想される ことだろう。洋の東西を問わず、童話や伝説に登場するマジック・ アイテムは、人間の想像力の及ぶ限り存在し、様々な効能と 逸話をもって人々を魅了してきた。その中には、『北風のくれた テーブル掛け』や『ききみみずきん』に登場するような愛らしい 魔法の品がある一方で、『ヤマタノオロチ伝説の草薙の剣』や 『北欧神話のトールハンマー』のような、凄まじい力を体現した 驚異のアイテムも存在したのである。 では次に、世界で最高の魔力を秘めた魔法の品というと、 あなたはどんなものを選ぶだろうか。 人によって“最高”の指す意味は違っているだろうし 、だからこそ “何でも叶えてくれるやつ”あたりが現代人の一番人気に なるような気もするが、昔の人々は“権力”や“支配”を司る 魔術品に、特別の価値を見いだしていたようである。 確かに、古代・中世の支配者達の桁外れの権勢や栄華と、 民衆の困窮を比べると、それも一理あるような気がする。 かの時代においては、権力や支配を手に入れるということは、 およそ地上のあらゆる歓楽と欲望をほしいままにすることに直結 したはずである。だから、王権や支配に対する人々の憧れも、 現在よりもずっと大きかった事だろう。 来年続編が公開される映画『指輪物語』の“ひとつの指輪”など、 その辺りの事情をきちんと反映したマジックアイテムと言えるだろう。 “ひとつの指輪”を手にした人物は、その強大な魔力によって 多くの人間や化け物を魅了し、支配し、自由に操ることが出来る。 作中では、この恐ろしい指輪に象徴された★1“影響力”“支配力”を 巡って、さまざまの悲喜劇が展開される。ちっぽけな指輪に世界 じゅうをコントロールする程の魔力が秘められているというのだから、 もう必死の奪い合いである。しまいには、死してなお指輪を求めて 徘徊する幽鬼まで現れる始末である。 だが、そこに私達がみるのは、純粋な魔法の虜になった人間 同士の特殊な争い、といった非現実的シチュエーションではない。 むしろ、権力や支配力一般を前にしたときの人間の悲喜こもごもが、 “ひとつの指輪”という小道具を介して浮き彫りになっている、と 捉えるほうが自然だろう。 ゆえに、『指輪物語』は魔力の籠もった指輪を主題とした ファンタジー映画であるだけでなく、“権力”“支配”の魔力に 向き合った人々の心理を写実した、人間模様の物語、とみる事も 可能なのだ。 さて、こんな空想上の品物でも、一度夢見てしまえば欲しくなる のが人間の慾というやつである。この手のマジックアイテムを夢見て、 古来、たくさんの錬金術師とそのパトロン達が、膨大な資金と時間を 研究に費やしてきたわけだが‥‥。 しかし、彼らの必死の努力にも関わらず、真に魔力を持った品物が 生み出されることは結局なかったようである。 いや、たぶんそれで良かったのだろう。 もし指輪物語の“ひとつの指輪”のような道具が万が一創られて しまったら、果たして歴史はどうなっていただろうか? 何しろ、人間は愚かである。 野心を持った人間など幾らだっているし、そうでなくても、支配や 権力の圧倒的な具象を前にして、平静を保てる賢者など滅多に いるものではない。指輪とその魔力が新たな災いの種となるのは、 火を見るより明らかだ。 しかし、である。 “ひとつの指輪”ほどではないにしても、相当な“支配の魔力”を 持った道具を、人間達は遂に誕生させてしまった。 万能ではないにせよ、国一つを、時には世界全体を大きく動かす 驚異のマジック。それは錬金術師達の業によって生み出された のではなく、科学者や発明家、印刷業者や通信社の手によって 命を吹き込まれたのだ。 そのマジックは、人々によって“メディア”と名付けられた。 グーテンベルグの活字印刷に端を発した“メディア”という名の マジックアイテム複合体は、産業革命や技術革新を背景に、 急速に“魔力”を、つまり影響力と支配力を高めていった。 なにしろこのメディア、大した魔力の持ち主である。 例えば、どこかの冴えないパン屋が全国紙で「隠れた名店を発掘!」 とでも報道されたらどうなるだろうか? たとえパンの味が平凡でも、翌日の売り上げは確実に増大する。 もし、そこそこ味が良ければ、口コミなども手伝って、かなりの 利潤が期待できるだろう(それを維持できるかは、別問題だが)。 このように、メディアは広範囲の人々に情報を届ける性質を原動力 として、人々の心、特に欲望や情動に働きかける強力な魔力を 行使することが出来るのだ。 “悪い奴がいるぞ!放っておくと危険だから警察に連絡を!” “○ーソンだけの、オリジナルグッズ!冬季限定のお買い得商品!” “○○先生の作品が読めるのは、少年ジャ○プだけ!” これらのスペル(宣伝)は、世間の全部とはいかないまでも多数の 人達に強力な効果をもたらし、行使者が望んだ効果を発揮する。 魅了、啓蒙、捜索、鼓舞――効果は実にさまざまだ。 一回のコマーシャルや報道で一人一人に与える影響は小さくとも、 莫大な数の人に対して、しかも継続的に行えば効果は絶大である。 特に公衆衛生や気象情報など、大勢に情報を提供してはじめて 意味がある分野では、メディアから受ける恩恵は計り知れない。 しかし、使う者の意図によっては、メディアは恐ろしい黒魔法 ともなり得る。その気になれば、啓蒙ではなく偏見を、鼓舞ではなく 扇動を、国じゅうに流布する事も可能だからだ。 “ひとつの指輪”にしてもメディアにしても、巨大な力を持った 道具というものは、それ自体は善でも悪でもないが、保持者 次第では巨大な善にも巨大な悪にも染まり得る。 ゆえに、悪人の手に渡ったメディアは、“ひとつの指輪” 同様、その魔力を最も暴悪な形で顕現させるのだ。 案の定、二十世紀に入って、メディアの魔力を極限まで引き出せる ひとりの天才が現れた。 第三帝国の総統となって全世界を恐怖に陥れた、あの男である。 彼が行った事を検証する事によって、メディアがどれほど恐ろしい 潜在力を秘めているかが実感できるだろう。 ヒトラーの演説VTRを見たことがある人はご存じだろうが、 彼の大衆扇動は殆ど神業めいていて、実際、効果は絶大だった。 高く振り上げられた拳、計算された絶叫とささやき、単純だが扇情的な 殺し文句、サーチライト、壮麗な国民音楽の演奏――全てが完璧な ハーモニーを形成し、呪術的な力で演説会場全体を丸呑みにしていく。 考えるよりも感じることを強制する、圧倒的なスペル(宣伝)を 繰り返し叩き込まれる事によって、聴衆は冷静な判断を失っていき、 やがて恍惚とした表情を浮かべながらハイルヒトラーを絶叫する。 そして鬼気迫る会場の熱気は直ちに全ドイツに放送され、第二第三の 相乗効果を生み出すのである。 また、ナチスの宣伝大臣・ゲッベルスは、他にも色々なメディア 利用法を実行している。例えば派手な政治キャンペーンとは別に、 メディアが流す様々な番組中に、こっそり仕掛けを施したりもした。 愉快な娯楽番組や慰労番組、ドキュメンタリー‥‥彼は何でも 着目した。こっそりと、ごく控えめにナチスにとって有利な情報を 忍び込ませて国中にばらまく方法は、一度や二度の宣伝では 心変わりさせなくとも、継続的に行えば絶大な効果が得られる。 当時世界有数の教育水準にあった筈のドイツ国民も、その魔力の 前には全くなす術が無く、気付いた時にはほとんど全員がナチスの 信者になってしまっていたのだ。 結局、ヒトラー達はメディアの力を借りながら、僅か数年で殆ど すべてのドイツ国民を掌握してしまった。当時のドイツ国内の不満を 巧みに利用した点や彼のカリスマ性などを引き算しても、やはり、 メディアの魔力が果たした役割の大きさは看過できない。 そして、いったん支配のスペルを詠唱し終えたヒトラーが次にやった 事は‥‥皆さんもご存じの通りだ。 『指輪物語』の冥王サウロンと、どこが違うというのか。 ファンタジーの世界に限らず現実の世界でも、優れた魔力を持った 品物が野心家の手に渡るとろくな事が無いという、悲しい証左である。 では、ヒトラーが滅びた現代、メディアの魔力も滅びたのだろうか? もちろん答えはNOである。むしろメディアは一層私達の生活に密着し、 その魔力は以前より増大していると考えるべきだろう。 近年では“情報化社会”などという言葉も出現したが、この“情報化” とは、メディアや通信機器を通しての情報のやり取りが増えた、という 意味に他ならず、人間の情報判断力が向上した事を意味するわけ ではない。 ゆえに、情報化社会は、人間の判断力はそれほど変わらないまま、 飛び交う情報量とメディアが保有する魔力(影響力)は増大した社会、 という側面も併せ持っている。 もちろん、民主主義の観点から、情報操作や過剰な扇動・宣伝に 対する規制が設けられ、メディアが危険な使われ方をしないような 法整備も行われてはいる。いや、だからこそ、法的な規制の対象と ならない範囲やバレない範囲においては、メディアの洗練された魔力と、 その魔力を手中にしている人々の意志は、我々の生活に大きな影響を 与えているのだ。 例として、ハリウッドを挙げてみよう。 ハリウッドといえば、世界中に名映画を配信する、アメリカが誇る クリエイター集団だが、「世界中に配信され、全世界の文化風俗に 影響を与える」という性格上、メディアとしての魔力の大きさは 破格である。 アメリカは民主主義国家であり、映画製作者は法律を逸脱した “扇動広告”を作品中に盛り込む事は出来ないし、そうでなくても、 ひどすぎる作品は良識派ジャーナリズムによって批判される。 とはいえ、ハリウッドがアメリカの思想・文化を世界に喧伝する 格好の媒体となっているのは、動かし難い事実である。 冷戦中の戦争モノや、星条旗のもとに全世界が団結するという 『インディペンデンス・デイ』のように露骨な作品は言うまでもなく、 そうでない諸作品においても、メディアとしてのハリウッド作品には その時代のアメリカにとって有利な傾向のものが多い★2。 なにせ、世界中の人々に夢と憧れを与えるハリウッド映画である。 そこに盛り込まれた様々な米国的諸要素――泡立つペプシコーラ、 高層ビルディング、正義感過多のハイテク軍隊、等々――は、 作品の完成度の高さもあって、視聴者に鮮烈な印象を与える確率が 高い。作品の出来がなまじ素晴らしいだけに、感動した心を押しのけて まで作中に忍び込んだ米国的諸要素を冷静に評価するのは大変困難 である。大のお気に入り映画の作中で、米国的諸要素が肯定的に 描写されている時、それらを嫌いになる確率は高いだろうか? もちろんそんな事は無い。大抵の場合、むしろ好意を持つものだろう。 このように、人を感動させる強烈な力を秘めたハリウッド作品や、 宣伝を懐に忍ばせたハリウッド作品は、どんなに冷静で客観的な 論説よりも大衆を説得し、心動かす影響力を秘めている。 そして、その有効性と集金性ゆえ、このハリウッドというメディアには、 いっそう優れた人・金・モノが集中していく(資本主義では当然の成り行きだ)。 その結果、監督陣・俳優陣・CG技術といった魔力の触媒はますます 成長していき、メディアとしてのハリウッドは一層強くなる。 だから、映画の宣伝文句として登場する“興行収入、更新!”という テロップは、とりもなおさず『ハリウッドは、人を動かす魔力をさらに 増大させています』という事実の、ふてぶてしい告白でもあるのだ★3。 もちろんハリウッドだけでなく、雑誌、新聞、テレビ、WWW、 あらゆるメディアにおいて★4、このような“魔力の行使”と “魔力の集積”は日々起こっている。 さらなるテクノロジーと資本主義の発達に伴って、メディアは今後も ますます魔力を集積させていくことだろう。メディアの強い影響力に 晒されれば晒されるほど、ますます個人の意志による判断は困難に なっていくと想像される。先に触れた通り、巧妙なメディアの影響力を 前にして冷静に物事を見極めるのは至難の技だからだ。 ちょっと判断力を働かせずにボンヤリとしていると、わけのわからない 品物を買わされたり、悪辣な政治家を当選させる羽目になりかねない。 流行も、主義も、嗜好も、まるごとメディアから借りてきたような 人物というのは現代でも時々見かけるわけだが、メディアが持つ 影響力が増大すれば、この傾向に拍車がかかるはずだ。 メディア発信者にとって都合の良い、マリオネットばかりが街に 溢れかえる時代が到来してしまう可能性すら有り得る。 本来、メディアの魔力が増大していく以上、その魔力に押し切られない ようにする為にも、私達人間側の判断力も同じスピードで強化していく べきなのだろうが、人間の判断力は脳の機能の問題もあるので、結局は メディアの発達には追いつけない。いや、個々人での抵抗は不可能では ないかもしれないが、集団としての大衆は、このままではメディアの力に 逆らえずに、上手にコントロールされてしまう★5可能性が高い。 これは、色々な意味で非常に危険な状況と言えるだろう。 知識や情報ばかりでなく、判断までメディアに全て任せっきりの 状況は、必ずそれにつけ込む輩を台頭させる。 法制上、ヒトラーのような暴君は簡単には顕れないにしても、例えば 商業や文化の分野では、大衆の判断停止をいいことに甘い汁を啜り たがる曲者が現れてしまうはずである(いや、既にその兆しはある★6)。 さりとて、今更メディアを縮小・制限する事など不可能だし、言論自由の 問題もあって、メディアに足枷を課すのは非常に難しいのが実状である。 誤解のないように付け加えておくが、こういうメディアの魔力の 危険性を強調したからといって、メディアという存在を批判したい わけではない。敢えて批判するものがあるとするなら、メディアの 発信者と受信者の一部にみられる、『無思考や無責任』をだろうか。 メディアは前述のようなリスクはあるにせよ、現代の文化レベルや 市場経済を維持・発展させる重要な担い手であり、高度な現代社会を 支える生命線の一つである。メディアに潜んでいる魔力(操作性)を 気にするばかり、メディアが伝えてくる情報を片っ端から否定して しまうと、今度は判断する為の情報そのものが無くなり、逆に盲目に 陥ってしまうリスクが高い。 私達がメディアから掛け替えのない恩恵を蒙っているという事実を 無視して、一方的に批判の論陣を張るのは迂闊と言わざるを得ない。 では、どうメディアと向き合えばいいのか。 個人が頑張ってテレビ局を占拠したところで、事態は何も変わらない。 個人で出来る事といえばせいぜい、メディアの巨大な魔力に流されず、 しかし利用出来る部分だけは利用するような姿勢と判断力を養う事 ぐらいだろうか。 これは理念としては簡単だが、実践するのは大変に難しそうだ。 とはいえ、メディアが発信する情報についてよくよく吟味する姿勢が 大切、とは最低限言えるだろう。 例えば、 【この情報が流れる事で、誰が得をして、誰が損をするのか】 【どんなタイプの情報に“魔力”が潜みやすいのか】 【この情報発信者は、“魔力”を潜ませてきそうな曲者かどうか】 などについて考えてみるような習慣は、必須ではないかと思う。 メディアに潜む魔力が魔力として作動する時は、主として視聴者の 欲望や感情や道徳心に訴えかける事によって無判断を促し、その隙を 突いて隠された思惑を達成する場合が多い★7(もっと手の込んだ奴もあるが)。 だから、メディアが欲望・感情・道徳心に露骨に訴えかけてくる際は 要注意である。現在のメディア、殊に資本主義経済や政治的圧力と 関係のある大型のメディアが感動を提供する時には、感動に何らかの 魔力を乗せて人々の考え方に影響を与えようとしている場合がある。 もちろん疑ってばかりではろくに映画も楽しめないので、程々に しないと神経が保たないが、程々に疑う程度であっても、寄生虫の ように潜り込んだメディアの魔力を見つけだして排除し、情報を 再認識できるチャンスはあるはずだ。 これは、完璧に出来る人はどこにもいない試みだとは思う。 だが、少しづつ取り組む事、懐疑的な姿勢を失わない事に意義がある のではないかと私は考えている。 空想上の魔法でも、現実のメディアでも、強大な力に触れる人間は、 それ相応の判断力が無ければ、魔力の虜にされやすい。★8 ゆえに、メディアの魔力が増大し続けている情報化社会という環境は、 かつてなくシビアな判断力を求められる環境であると言える。 一部の知識人や偉い人だけが判断を求められるわけではない時代 だと いう事を、私達はもっと意識すべきではないだろうか。 「ひとつの指輪を越えるもの」――以上(2002.12/08) →元のページに戻る →グーグルに行って自分でも検索をしてみる |