自分のことば 
自分自身への戒めも込めて



[比較的長いもの]


 ・【馬鹿】

 馬鹿、と言われてみることで、自分自身を査定する遊び。

 馬鹿と言われてじっとこらえる人。ふふんと心の中で笑える人。
 そうですか、と意に介さない人。
 これらは、よしんば頭が悪いとしても、自分を乗りこなすことが
 出来ている、能力の許す限りにおいて有能の人である。

 馬鹿と言われてすぐ逆上するのには、大抵ろくなのがいない。
 実際に頭が悪いか、よしんば能力のある人物だとしても、
 自分自身を乗りこなせないなら本領を発揮できない。



 ・ストーカーも、オタクも、そして我々現代人の多くも、異性を
 保有する事や他者を制圧する事・他者に制圧される事を欲して、
 それに恋愛と名付けたがる。しかしそれは間違いで、性愛かも
 しれないが恋愛ではなく、支配と保護という原始的な関係に
 満足しているに過ぎない。

 真に自由な男女はこのような退行を避けて、真に恋愛を行う。
 自由な男女は恋愛を目指すのが好ましく、支配や保護、
 被支配や非保護にこだわるのは相応ではない。



 ・片栗粉や薬品と同様、情報もまたフィルターを通さなければ
  精錬する事は出来ない。フィルターが無い場合は論外として、
  フィルターが痛んでいる場合は交換することを勧めたい。

  しかし、情報のフィルターは交換するわけにはいかないので、
  せいぜい掃除や修理で我慢するほかない。



 ・信仰と科学は表面的に対立する事があったとしても、科学が信仰を
  対象として捉える事は出来る。対象と対立した時、科学は科学的な
  視点を失うが、対象を科学的に捉える限り、科学は常に科学的である。

  一方、信仰は形而上学的事由から、科学と対立する必要がない。
  信仰は科学を形而上学的見地から批判する事は出来るが、わざわざ批判
  しなくとも、真の信仰は、十分に形而上学的絶対性を失わないはずだから
  である。
  ゆえに、一個人の内面において両者が共栄する可能性は十分にあり得る。





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