9月16日 (晴)

   高校時代に日記を書き始めてもう五年になるけど、今日ほど
 恐ろしく、圧倒的な出来事は初めてだ。記憶に残っている限り、
 こんなに異常な体験は一度も無かったと思う。
 
  朝は、日常の装いで僕を欺いた。
  連日の徹夜麻雀で弱り切った体で、午前9時頃に一度目覚めた。
 のどが渇いて、キッチンで水だけ飲んで二度寝を決め込んだあの時、
 まだ僕は平和のうちに住んでいた。
 だから、いつもと同じように、僕は二度寝を決め込む事が出来ていた。
 あの時間、まだ僕は変化に気付いていなかったんだ。
 
  昼。
  再び目覚めたのは、午後の二時半だったと思う。
 枕元の目覚まし時計に、僕は最初の兆候を見いだした。
 文字盤の一から十二の自然数が、ほんの僅かだけど、
 陽炎みたいに揺れ動いていた。
 数字の密やかなマス・ゲーム――何かを僕に訴えかけているようだ。
 数学の優越?
 時間の敗退?
 観念が時間を支配しようと企てている?
 
 
  寝不足と二日酔いのせいで、目がおかしくなったのか?
 
  奇妙な変容を呈していたのは時計だけじゃなかった。
 全部だ。見えるもの、全部。
 僕が寝ている間に、何か、世界が変わってしまったようだ。
 見慣れた筈の自分の部屋が、今は未開のジャングルも同然だ。
  なるほど、勉強机も、洋服ダンスも、プレステ2も、電話機も、
 確かにそこに、“ある”。
 “ある”という意味にだけ着目するなら、昨日の僕の部屋と
 まったく同じかもしれない。でも、それが今朝見たものと同じだという
 確証が、僕には分からなくなっていた。
 
  室内の一つ一つの物品が、同じモノでも“違う”ような気がする。
 バイトして買ったブーツもプレステ2も、喜んで買ったあの時の
 ブーツやプレステ2と同じモノなのか、僕には証明出来ない。
 
 
  観念の、支配。
 
  観念、というものが、どうやっても頭から離れない。
 思考がまとまらない。
 時計が、僕を睨んでいるからか?
 
  いつもよりノロノロと着替えて、髭を剃って身支度した。
 飯でも食えば気持ちが落ち着くかと思い、近所のローソンまで出掛けた。
 ここでも気付いてしまった。
 いつもと同じ景色、いつもと同じ店員、いつもと同じおでん。
 でも、騙されちゃいけない。
 目にみえるすべてのものが、ポーカーフェイスを決め込んでいる。
 
  このローソンでも、時間の連続性は断絶している。
 不連続だ。
 デジタルだ。
 昨日のローソンと、今日のこのコンビニエンス・ストアが同じ
 ものである事を、僕はどうやって証明すればいいのだろう?
 
  考えたいけど、思考がまとまらない。
  1から12までの時計盤が、僕を睨んでいるからか?
 
  コンビニから帰宅した後、サンドウィッチとサラダを牛乳で
 無理矢理かきこんだけど、体が受け付けなくて全部吐いてしまった。
 どうやら、体調もおかしいらしい。
 遠雷が、少しづつ僕の心に近づいてきているような恐さ。
 落ち着かない。
 この、胸のざわめきをどう書いたらいいんだろう?
 空気の中に重金属が混入しているような錯覚を覚える。
 いや、これって本当に錯覚なのか?
 不安で仕方がない。
 世界は、いったいどうなっていくんだろう?
 デジタルな非連続性を前に、僕は圧倒される。
 
  夕方になって、もっと暗示的で不吉な出来事に遭遇した。
 今日の松山の街に沈む夕陽は、どうにも真っ黒なオレンジ色をしていた。
 オレンジはオレンジでも、あれは黒いオレンジだ。
 明るくなくて、とても陰気で、不健康な太陽光。
 飴状に溶けた腐食を、僕達の頭上に投げかけている。
 狂的なまでに文学的な、それは絶景だった。
 僕は、あの気狂いの太陽から、何かサインを読みとらざるを得ない。
 
 
  夜、色々なことが怖くなって、実家の母さんに久しぶりに電話をした。
 「徹夜の麻雀は体に悪い。ちゃんと休みなさい」と、お説教を頂戴した。
 どうしてだか、急に頭に来て電話を切った。
 
 あの優しい母さんを怒るなんて。
 今日の僕はなんか別人みたいだ。
 変に、感情的になっている。
 
 



 
 
  9月17日 (晴)
 
  昨日より、もっと恐ろしい。
 あまりに変化が激しくて、書くべき事はいっぱいある。
 だけど、頭が重くて文章を考えるのもおっくうだ。
 
  何故なんだろう?
 こんなに疲れているはずなのに、昨日の夜は一睡も出来なかった。
 徹夜で二日間麻雀を打った後だから、これで三日寝ていない事になる。
 神経が、高ぶっている?
 
  たぶん、この重々しい、不吉な空気がいけないんだろう。
 室内の湿り気を、新鮮な朝の空気に入れ換えたくなって、
 僕はカーテンと窓を開け放った。
  だけど、この試みは失敗だった。
 やられた!不意の一撃だ。
  冷えた朝の空気は、澄ました仮面の下に悪魔的な微笑を湛えていた。
 もやの中に弱々しく鎮座した太陽は、タールのように重苦しい白色光
 ――骨と水銀の呪い――を垂れ流している。
 
  おかしい。
 確かにおかしな事になっている。
 何か、始まろうとしている。
 精一杯考えて根本を求めようしたけど、僕の頭は混乱している。
  リラクゼーションを求めて、僕は聞き慣れたミスチルの『ボレロ』を
 ステレオにセットした。
 
  ―― 怖い!

  なんでミスチルの歌が怖いのか?
 あんなに勇気を分けてくれた筈の『tomorrow never knows』すら、
 今はおどろおどろしく聞こえてならない。
 了解不能の不安に襲われて、僕はステレオのコンセントを引っこ抜いた。
 
 
  目覚まし時計は、今も「時間に対する観念の優越」を主張している。
 
 
  心身ともにくたびれてはいたけれど、今日はゼミの日だったので、
 無理を押してでも出席しなければならなかった。
  大学までの、通い慣れた片道十五分間が、遠く長く感じられた。
 天気予報で寒気団が接近していると言っていたのは大嘘だ。
 なぜなら、僕は猛烈に汗をかいたからだ。
 そのくせ、人文学部のコンクリートビルに入ってからは、今度は汗が
 サーッと引いて体が震え始めた。寒い。寒気団が接近しているのは、
 案外本当なのかもしれないと、僕はすぐに考えをひっくり返した。
 
  ゼミが始まってすぐ、菅原先生も、加奈も、コータも、けん坊も、
 僕を心配しはじめた。
 『顔が真っ青だし、しゃべり方もおかしい。
 すぐに帰って、医者に行ったらどうだ』。
 本気で心配している事を、皆の口調から感じ取らざるを得なかった。
 
  昨日の、母さんとの電話の事が思い出された。
 
 “徹夜の麻雀は体に悪い。ちゃんと休みなさい”と母さん。
 確かに、母さんの言うとおりだ。御免なさい。
 
 
  あさって、加奈がノートのコピーを家まで持ってきてくれる事に
 なったので、僕は仕方なく帰宅する事にした。
 今日の宗教学ゼミは、楽しみにしていた「宗教と政治の関わり」に
 ついてのまとめ日だったので、早退するのが本当に悔やまれた。

  帰り道、僕は本当に泣きながら家に帰った。
 こんなに悲しい気持ちになるのは、なぜなのか分からない。
 涙が、止まらなかった。
 酸のように、ひりひりする涙。
 信じられない、奇妙な涙。
 途中、マックスバリューで風邪薬と食べ物を買った時、店員が
 怪訝な目で僕のほうを見ていたような気がする。お釣りの勘定が
 上手く行かない。あの店員が僕の思考を妨害しているせいだと
 思い、カッとなったけどぎりぎりの所で我慢した。
 涙が、止まらなかった。
 今日の僕は、ほんとうにどうかしてる。
 本当に、これが僕なんだろうか?
 異常なほどに、 自分自身が感情的になっている。
 
 
  夜、久しぶりにテレビをつけてニュースを見た。
 飛び込んできた惨事の知らせに、愕然とした。
 これは、大変な事になった。
 全身総毛立った。
 
  高知の繁華街で火事が起こって、今も延焼中だとアナウンサーは
 告げていた。行方不明者も、いるらしい。
  現場の中継が入った。
 紺色の背広姿のレポーターの背景に、シャーマンのように踊り廻る
 不正義な炎と、影絵になった街の景色と、消防車と、事態の深刻さに
 気付かない無知な野次馬たちが映し出されていた。
  遙か彼方で起こった、この事件。
 黒い太陽、水銀を含んだ有毒な空気。
 これらの異常現象は、韻を踏んだように一つの方向性を暗示している。
 
  そして、目覚まし時計が呈示する、観念の時間に対する優越。
  これももちろん根拠だ。
 
 
  始まった、と僕は直感するしかなかった。
 
 
  世界が、遂に傾き始めたのだった。
 高知市街の火災も、いよいよ陰謀が動き出した事を示す、せいぜい
 些末なボヤに過ぎないはずだ。
 これからは、きっともっと悪くなって、凄惨な殺戮劇が始まるのだ。
 暗黒を内に秘めた太陽は、全てを見下ろしている。
 世界の、終わりだ。
 
  凄まじい勢いで、いくつもの符合が僕のなかで結晶化し始めた。
 ああ、僕は完全に気付いてしまった!
 どうにもヒントが多すぎる。
 多分、あの黒太陽が秘密裏に世界人類を欺きたがったあの陰謀を、
 僕は感知してしまったのだ。
 
 
  悪しき空気と、時間に対する観念の優越、大火災、
 変容する僕の部屋のプレステ2や衣服達‥‥
 も う、始 ま っ て い る。
 
  映画「マトリクス」は、この陰謀について示唆的な作品である。
 この、暗黒支配に抵抗する者は、エージェント達によって粛清される。
 太陽が支配するか、機械が支配するか、要はその違いだけだ。
 FBI、CIA、IMF‥‥日本政府もアメリカにべったりだから、
 日本の自衛隊や警察に伝えてもやっぱり危険だ。
 殺されかねない。
 きっと、すべての組織は呪太陽の統制を受けているだろうから。
 
  なんという事に、なってしまったんだろう。
 この日記帳は、もう誰にも見せられない。
 黒き太陽のしもべたちに見つかれば、僕は消されてしまうだろう。
 
  不意に、母さんの声が聞きたくなった。
 加奈やゼミの他のみんなにも、この重大な危機を伝えたい。
 だけど、電話は盗聴されるから危険だ。
 手紙も、奴等の手に渡ったらそれでお終いだ。
 電話線を切って、ポストは封をして、携帯電話とパソコンは
 全て壊すしかないだろう。
 ハッキングや盗聴を防ぐ。
 バイトで買ったプレステ2、VAIO、FOMA、みんなさようなら。
 最後まで使ってあげられなくて、本当にごめん。
 まだどれも現役だったのに。
 悔しさと悲しさに泣きながら、僕は大事にしていた宝物を破壊した。
 
 
 秘密裏にみんなを助けなければならない。
 
  だけど、注意深くだ。
 
  僕だけは、決して騙されないぞ。
 
 
 

 
 
  9月18日 (
 
 
  もう、そこまで来ている‥‥一日経過した。
 昨日より、ひどい。
 確実に、世界は呪いによって汚染されている。
 どうすればいいのか。
 
  午前六時。
 真っ直ぐに伸びた短針と長針は、まるでロンギヌスの槍のようで、
 観念が、今度は僕自身を狙っている事を暗示していた。
 エージェント。
 黒き太陽に狙い撃ちされるのが怖くて、カーテンを開ける事は
 ためらわれた。第一、やつらが家の周りに張り込んで僕を
 監視しているのは間違いないじゃないか。
 
  顔を見られるのは、まずい。
 秘密第一だ。
 
 
  午前七時。
 急に寂しさがこみ上げてきた。本当だったら、電話をかけて加奈や
 母さんや友達の声が聞きたいんだけど。
 でも、出来ない。
 電波を使う道具は処分してしまったし、外出したくても不可能だ。
 外に行けば、確実にエージェントの餌食になるだろう。
 
  何も頼るものがない。
  実家に送り損ねて居候していた、今年の旅のアルバムが部屋の
 隅に転がっていた事に気付き、ページをめくって気分を紛らわせた。
  ゼミのみんなと出掛けた四国八十八カ所巡りの時の写真が、
 アルバムの中にきちんと整列している。
 真っ青な四国の空と遍路白衣はあくまでも清純で、今日の
 破滅を知らないはちきれそうな笑顔が、却って痛々しく感じられた。
 
  泣かずにはいられない。
 自分が無力で、終末が恐ろしくて、ひとりぼっちで、だから泣いた。
 感傷的に、泣いた。
 自分でも信じられないくらい、涙腺が故障したように泣きまくった。
 
  納経帳と般若心経も、押入の奥にあったのを引っぱり出した。
 地蔵菩薩さま、無仏の我らを救い給え。
 一生懸命、御真言を唱えた。
 唱えるしか、僕には選択肢がなかったから、唱えたのだ。
 
 
  おん かかかび さんまえい そわか
  おん かかかび さんまえい そわか
 
 
  僕は今気付いた。
 苦しいときの神頼み、という言葉は、卑怯者を断罪する言葉ではない。
 受難者の苦悩と絶望を、浅ましさであぶり出しにしただけの言葉だ。
 
 
  昨日の火事で三人死んだと、ニュースで報じていた。
 テレビはもう、壊すしかない。
 電波を受信するから、テレビも危険だ。
 
 
 

 
  9月19日 ( )
 
 
  朝、久しぶりにシャワーを浴びた。
 ずいぶん長いこと、浴びるのを忘れていたような気がする。
 熱いお湯が、敏感な皮膚にチリチリと噛みついて苦痛だった。
 
  それよりも――僕は気づいてしまった――シャワーを浴びて
 いる途中、鏡を見ているうちに、重大な異状を発見してしまった。
 愕然。
 にわかには、信じられなかった。
 シャワーを浴びている自分が、溶けている。
 輪郭は、まだはっきりしている。
 でも、僕の中身が問題だ。
 どろどろになった自分自身は、その質量を変える事なく、
 形相だけがものすごい勢いで変わっていく。
 自分の本質が、非連続的に、デジタルに、目の前で変容していく。
 
 
  カフカの『変身』では、確か虫だった。
 ――虫になったっていいじゃないか、虫のままでいられるなら!
 ひとつのものに定着できるなら、まだマシってもんだ。
 僕のは全然落ち着きが無い。
  犯罪者になり、マネキンになり、背徳者になり――エージェント
 にも一瞬変わったような錯覚を覚えた。
 いや、これは錯覚なんかじゃない。

  ‥‥エージェントだ。
 波打つ鏡の中で、恐ろしい目つきの、僕そっくりの風貌の男が、
 素っ裸でシャワーを浴びながら突っ立っている。
 
 
  突然、甲高い男の笑い声が聞こえてきた。
 怖くなった僕は慌てて風呂場を飛び出し、台所からフライパンを
 持ってきて鏡を叩き割った。
  エージェントはそれで消えうせた。
 でも、勿論知っている。
 エージェントは、また形を変えて襲ってくるに決まってる。
 その証拠に、甲高い笑い声が止まらない。
 奴等が、僕を恫喝する為に、内耳にプログラム電波を送って幻聴を
 発生せているらしい。
 
  狡猾な奴らめ。
 
 
  午後になって、加奈がゼミの資料を持ってきてくれた。
 インターホンが鳴った時、最初はどきりとしたけど、聞き慣れた
 恋人の声に、僕は救われる思いがした。
 
  「大丈夫?」
 
  優しく声をかけてくれる彼女のことが、天使のように思われた。
 良かった、僕の知っている加奈だ。
 加奈は、まだ汚染されていない。
 差し入れてくれたサプリメント・ウォーターはどこまでも美味かった。
 
  ああ、優しい加奈!
 加奈を、魔の手から救わなければならない。
 僕は彼女にわかりやすく説明する必要があった。
 
  盗聴の問題があるから、暫く電話や電波のたぐいは使えない事・
 外にはエージェントが見張っていて、秘密を知ってしまった僕は
 狙われている事・太陽も空気もすべて歪みはじめて、世界転覆の
 大陰謀が動き出している事・だから、汚染されていない人間は外出
 しては危険だという事――僕は、すべての真実を正直に話した。
 
  ‥‥だけど。
 
 
 「そんなはずないって。最近の護って、絶対おかしいよ。
  どうかしちゃったの?
  なんにも、世の中は変わってないよ、ね、落ち着こうよ。」
 
 
 
  畜生!
 どうやって、真実を加奈に伝えればいいんだ!
 どうすれば、この陰謀を信じて貰えるっていうんだ!
 
  僕が真剣に話せば話すほど、彼女は僕をいたわり、心配し、
 しまいには心療内科を受診するように勧め始めた。
 加奈は、僕と話している時、時々怯えた顔をしたりもした。
 僕がデジタルに変身し続けているから、怯えているのか?
 
  やがて、加奈は大きくため息をついた後、意を決したかのように
 携帯電話を取り出した。
 
 
 「このまま護を放っておくことなんて私にはできない」
 
 「護がどう思ってても、私、菅原先生と大家さんに連絡するね」
 
 
  危ない!探知される!
 
  携帯電話を取り出した加奈に、当然僕はつかみかかり、電話機を
 取り上げ、すぐにそれをたたき壊した。
 加奈が僕を心配してくれる気持ちは知っていたけど、
 心を鬼にして破壊した。
 エージェントの侵入を防ぐ為の、やむを得ない行為だ。
 奴等の高笑いが、今も聞こえてくるから。
 
  加奈はびっくりして、怯えて、泣きながら玄関を出ていった。
 
  フローリングには、彼女の気持ちを代弁するかのように、
 無惨に砕けた携帯電話の破片や部品が散乱している。
 かわいそうな、加奈。
 心の中で土下座して謝った。
 加奈、ごめん。
 本当にごめん。
 だけど、仕方ないんだ。
 それが世界の決定だから。
 
  加奈が帰っていった後、僕は玄関に家具でバリケードを築いた。
 入ってきたのは加奈だったから良かったものを、もし、エージェント
 だったらどうするつもりだったのか。
 うかつだった。
 もう、誰も入ってこさせるものか。
 
  奴らの目を誤魔化すために、今夜からは御真言を唱えて身を護ろう。
 大きな声で、はっきりと唱えなければならない。
 不動明王の加持力におすがりしよう。
 
 
  のうまく さんまんだ ばざらだん せんだ まかろしゃだ
  そわたや うんたらた かんまん 
  のうまく さんまんだ ばざらだん せんだ まかろしゃだ
  そわたや うんたらた かんまん 
 
 
  夜おそく、マンションの大家さんにまんまと化けたエージェントが、
 玄関をドンドン叩いて、御真言をやめるようにわめいていた。
 もちろん僕はだまされずに一晩中御真言を唱えて、奴らが
 入ってくるのを防ぎきったけど。
 
  でも、いつまで僕は戦わなければならないのだろう?
  誰と?
  黒き太陽。
  変容する世界の陰謀。
  エージェントと組織。
 
  でも、どうやって?
  僕は、いったいいつまで御真言を唱えつづけることができる?
  眠らないで、眠れないで、いつまで戦える?
 
 
 

 
 
   月20日 ( )
 
 
  もうだめだ。
 声がかすれきた。
 目も、調子が狂ってきている。
 歪んだ世界は、薄暗い睡まによっていっそう不気味に、
 幕切れのカーテンを誇示する。
 御真言をとなえすぎて、のどをやられて、声がでない。
 線香と納経帳と般若心経を抱きしめるんだけ、今の僕に出来る
 精一杯の防衛策だ。
 
 
 
 
  玄関のドアの向こうには、たくさんの監視の目が僕のこと始終
 みはっている。
 インターホンから聞こえる声からすると、奴らは
 
 1母さんと加奈とけん坊のクローン兵器(きっと、みんな殺された)、
 2保健所の職員を名乗ったエージェント、
 3救急隊員を装った公安警察のメンバー
 
 のようだ。
 ついに、大勢で僕を連行するためにやってきたのか。
 大部隊だ。
 銃や催涙弾で武装しているかもしれない。
 いや、きっとそうだろう。
 あいつらば、僕の命を狙ってきてるんだから。
 黒き太陽のひみつの為に、僕を口封じするつもりだ。
 
 
  耳は、卑劣なエージェント達の哄笑を垂れ流し続けている。
 このままだと気がふれそうだ。
 笑い声だけに飽きたらず、奴らは操作電波を僕の脳にたたきつける。
 ただでさえウスノロになっている僕の脳が、操作電波にかきまわされる。
 
 
  はやく死ね 死ね 死ね 死ね
  セップク セップク セップク
 
 
  電波が皮膚から入ってきて脳髄にとどくと、どうしてだか電波の
 言うことをききたくなってしまう。まるで、自分が昔から包丁で
 腹を切りたくてしかたないような、一瞬の錯覚。
 こわい。
 第三人称の願望電波が、その瞬間、第一人称の衝動意志に変身する。
 
 
  はやく死ね 死ね 死ね 死ね
  切っちゃえよ、切っちまえよ!
 
  何度か、あやうく台所にフラフラと包丁を取りに行きかけて、
 慌てて我に返った。
 きょう気の沙汰だ。
 このままでは、僕の精神がもたん。
  奴らの言いなりになって腹を切るか、このまま精神をやられて
 精神病になてしまうか、それとも奴らにつかまってしまうのか、
 もう時間の問題だ。
 
 
  ああ、ついに玄関がこじあけられた。
 開くトビラ
 あの太陽の明かりが差し込み、空気は不浄にまみれて
 奴らの、僕の名を呼ぶ声が、高く低く、うねりのように
 音キョウ攻撃。
 
 
  ご真言を唱えることも、たたかうことも出来ない
  この、真実の記録を残すだけが、崩れる世界に対する抵抗だ
 
  長引く汚染のせいか寝てなかったツケがまわってきたのか
 自分の体細胞が、なだれをうって死滅していく。
 不浄の太陽が、どんどん
    眩しくなっていく。
 
  終わりだ もう終わりだ
 
  加奈、けん坊、母さん、僕も、今からそっちへ行く。
 
  死ぬ
 
  みんな、ごめん。
 
 
 

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