【存在と自由、幸福に関して】(2001.1月)
非常に危険な場所を彷徨している。
宗教・哲学・分裂病という名の魔物が、「発病しろ〜発病しろ〜」と喚いている。
自らの汎用性を追求していった時、様々な行動スキルを身につけるだけでなく
様々な視点を切り替えたり物事のドグマを素早く見抜くためのスキル獲得が
有益であるという印象を徐々に感じていた。私個人の昔からの伝統として、
良くも悪くも「実際的だがそれほど奥が深くないスキル群獲得」
「器用貧乏ではないが万能とはとても言えない」事を志向する事が高校時代
からずっと続いているわけだが、特に哲学の領域をパイオニアとして選択したのは
この一年がおそらく初めてだろう。まだまだ難しい本は読めないのが現状だし、
そもそも難しい本を読むという大コストを支払うだけの時間とエネルギーも無い
わけだが、それでも、ここまで連続的に哲学「的」な思考を続けたのは初めてだ。
嬉しい事なのだが、どうも近頃危機感を覚えずにはいられない。
精神科的には、ある程度の行動スキルと僅か以上の視点切り替えスキルが
あれば「大衆の一人として無思考に生きていく」社会適応は可能であると
踏んでいる。だから、特異な技能や才能を開花させようとせず、あくまで
普通の人として普通の一生を送りたいならば、もう今の自分は考える
必要なんてない。例えば医者としての道を究める事で真剣な生を模索する
ならば、これ以上の各種汎用スキルなど放り出してしまえば良いだろう。
地位が、守ってくれる。
しかし。
現在、生を実り豊かで幸福(幸福の定義も、実り豊かな生、の定義も、
非常に曖昧で抽象的なものなのだが)を実践する為の要請として、
1一つ二つのスキルやhobbyがつぶれたり人間関係が破損したぐらいでは
小揺るぎもしない生活上の汎用性形成。同時に、現状の生活に
おけるある程度の快適性の維持発展。(範疇的・通俗的汎用性)
2視点切り替え機能の拡張による、様々な価値観や思想・作品に対応
出来し、年老いても新しいものに対してそこそこは寛容に成り得る
だけの汎用性形成。(精神的・視座的汎用性)
3六道輪廻の世界において、喜怒哀楽を交えつつも、たとい憂鬱に
なろうとも「もう一度よみがえるとしたら、今の自分の人生をもう一度
繰り返す事に異存無しとするだけの生に対する意味づけ」を持って
価値のある行動・判断を行っていく姿勢づくり
というものがある。
これらの要請を満たす為にはどうしても各種の努力やら実験やらが不可欠
であり、遊んでばかりはいられず各種スキルを身につける為の時間と手間が
必要なのだが、単に色々な事をやってみるだけでは絶対に駄目だと思われる。
例えば、三種類ある趣味の手数を倍の六つにした事で不幸になる確率や絶望する
確率を減らす方法論は無意味、ではないかもしれない。しかし、完全ではない。
時間にも限界がある上、単に趣味や社交範囲を増やせば幸せというものでもない。
またどれだけ富貴な人でも幸福になれるとは限らないという厄介な問題
をはじめ、2や3に関連した精神的内面的な問題については、単に通俗的な
趣味・スキルやらモノやらを増やせば解決出来るとは到底思えない。
死出の旅路に金やらモノやらは何の役にも立たないし、人は最後には
いつも独りだ。人間関係の器用な構築をもってしても、結局は
乗り越えられない嘆きの壁は存在するだろう。
スキルという名のアプリケーションを導入するだけでは、生の意味づけやら
幸福の根本的追求は片手落ちで、OSとも言うべき内面的心理基盤にも触れる
必要があると常々考える。ただし、この心理基盤という言葉に、私は
心理学的諸要素を含むだけでなく、ポリシー、視点の柔軟性、価値観、
宗教観、などをも包含させたい。
私は、世界の皇帝となったり一生遊んで暮らせる身分になったとしても、
それだけでは必ずしも自分が絶対に幸福になれず、意味ある生を生きる事も
出来ないと確信する。いや世紀の大発見やら大仕事を為し得た偉人さえも、
世界的名声を得たからといって彼自身の内面的な渇きを解決出来たかと
言ったら必ずしもYesとは言えない事例があると確信する。必ず、プラスαが
必要なのではないだろうか。そして、そのプラスαに関する研究が必要なのでは
ないだろうか。
やはり、生きるという事やら幸福という事について、自分なりに何か
結論が欲しい。自分が納得できて、自分に最もしっくりした奴が、である。
他人から借りてきた粗悪コピーやらを組み合わせたものでも何でもいい、
とにかく、何か自分で組み直して構築して自分の世界についてもっと汎用性を
向上させたい。もっと不幸を回避するスキルを究めてみたい。
そう思って狂気すれすれの世界に飛び込んだのだが、存在やら生やらに
ついて視点切り替え装置を弄んで色々と考えてみると、考えていて
あんまり心地良くないことばかりが浮かび上がってきた。
以下の例は哲学好きの諸先生からみれば幼稚な事だが、私にとって大切なのは、
私がこれに初めて気づいた、という事である。
小学二年生にとって九九が大切な獲得であるのと、同様である。
以下は、2001年初頭のシロクマの考えである。
・太古の昔はどうか知らないが、現代人間社会において一個人の思想上の
自由は著しく侵害されている。マスメディア・集団の価値観・世間によって
自由は常に浸食され、削り取られている。これに抵抗を示し思想上の自由を
行動やポリシーに少しでも反映させようとするならば、激しい抵抗を
受けるか、分裂病を発病する(してしまう)しかない。隠者となる事が
可能ならばこれを回避し得るかもしれないが、宗教的或いは哲学思索的な
サポートなしでは隠者となる事も相当に難しく、そういうサポートが
あったとしても容易ならざると推測される。
・厳密な意味で思想の自由とは、法律上の思想の自由とは全く別個の
ものである。何を考えて何をやっても良いとしても、もしも範疇的・
通俗的なことを考え範疇的・通俗的なことをやる事しか出来ないとする
ならば、それは自由ではない。仮に法律や規制からは自由だとしても、
その人は思想上は全く不自由な囚われ人である。惨めな、猿まねしか
出来ない犬とどこが違うというのか。九九が出来る犬、という事なのか。
・偉い哲学者達や思想家が言うように思想やら姿勢やらドグマだけによって
人間が幸福になれるというのは多分間違いである。いや偉人は幸福には
なれるかもしれないが、偉人になれなかった多数の人は必要最低限の物質的
サポートを必要条件として追加したほうが現実的である。
しかしながら、やはり思想やら姿勢やらドグマは真に幸福な生においては
必要条件である。哲人や思想家のように体系化したり明文化する必要は
ないにせよ、そこに借り物ではない其の人なりの生に対する何らかの
policy或いは哲学(注:学問としての哲学ではない)が求められる。
これなくしては、いくらお金持ちになっても金メッキされた幸福の偶像を
手に入れる事しか出来ないだろう。
・分裂病を発病し自閉状態をきわめた時、高確率で自由を手に入れる
可能性がある。もちろん幻覚妄想・不眠・不安焦燥などなどの
症状が残るようなら駄目だが、症状が残らないようなタイプに
なってしまえばおそらく自由になる。行動上の自由は一生入院とか
経済難などで完全に失われるが、精神は自由に開放される。
誰からも認められない、誰からも一顧だにされない身勝手な思想を
手に入れる事が出来る。しかし、その身勝手さを彼らは有効に
利用できない。もし、この身勝手さを有効に利用する術を持って
いて、しかも社会に残る事が出来るとするなら、変人奇人と
言われつつも分裂病者は、自由を守る事が出来るだろう。
何も考えず、ホモサピエンスという一個の社会的習性をもった
動物(プレーリードッグとかチンパンジーとかと同様の)として生きる事を
拒んだ事の報いか。ここから先に進むには、どうやら以下のどれかまたは
全てがあるといいんじゃないかと思ったりする。
・宗教的サポート。自分はどうやら浄土真宗の門徒らしい事・怪しい宗教の
跳梁跋扈が激しい事を考え、やるなら大乗仏教という事になるだろう。
最初は宗教学という視点で接近するのもいいかもしれない。老後は必須。
・発狂と隣り合わせの、存在に関する考察。一歩間違えると思考の
コペルニクス的転回によって、分裂病のほうを向いてしまうのではないかと
いう気がする。とても怖い。確か、9年前に存在について考えていて、
「気温が下がる戦慄」を数秒だけ味わった事がある。また危ない橋を
渡らなければならない。また、失敗して変な結論が出ると、思索上は
立派でも幸福には何の役にも立たないドグマをうち立てて自殺して
しまう恐れがある。それ自体も立派な生と言えるが、周りの人達への
迷惑と自らの可能性が心残りとなってしまう。←迷惑、などという考えが
あるうちは、跳べないか?
・考えるにはエネルギーと時間を有する。範疇的・実際的スキルへの
悪影響は避けられない。それだけではない。このような魔の実験を
公に伏せておくには精神エネルギーを消費するし、おそらく隠し通す
事は無理だろう。王様の耳はろばの耳、にあたる行為が必要。
2002年冬季筆者注釈:
結局、シロクマの考えはこれを踏襲した方向に向かっていく。
このページの存在が、その端緒である。
愚かしい自分専用の省察を究めるために、彼はモゴモゴと今も動き
回っている。