【過去の自分をエミュレーティングする作業としての、
日記等の文章保存の意義】
人間は、物心ついた時からずっと変化していて、ひとつの
場所に留まる事を知らない。単なる加齢現象としてだけではなく、
経験の蓄積や脳の成長と劣化、ライフイベントや地位の変化、周囲の
人やモノによる影響などによって移り変わっていく。
特に思春期と呼ばれる時期においては、人間はドラスティックな変化の
連続を経験し、一ヶ月前の自分と一ヶ月後の自分がすっかり変わって
しまうなどという事も稀ではない。
だからこそ、何か書き物を残したり写真を残したりする事は、
その当時の自分が持っていた文化・風土・風習・思想などの様々な
メッセージを未来の自分に託すという副作用を有する。日記などはその
極端なもので、普通の書き物などと違って他者が見る事は一切前提に
していない、まさに未来の自分だけを読者とした記録と言えるだろう。
近頃、この日記などの書き物に思いもかけない効果がある事が分かった。
そのきっかけはこうである。
数年前、私は未来の自分が読む事を念頭に置いたエッセイを書いて
みた。内容は学生時代のゲーセン漬けの生活を回想する事を目的と
したものだったが、ついでに未来の自分に対して「こんな考えを未来に
俺は持っているだろう」とか「今の私を未来の自分は非難するだろう。
だが、今の私の立場では、こう考える」
といったメッセージを託してみた。
それをつい最近になって読み返したのだが、思いのほか面白かった。
まるで、過去の自分が今の自分に対して議論を吹っ掛けているようにも
思えたのだ。当時の自分に可能な精一杯の力で今の私に問いかけてくる
メッセージ。自分が時間に伴って常に変化している連続体だという事を、
感覚的にも思い知った瞬間だった。
この時、私は思ったのだ。
「記録を残す際に、未来の自分に対して語りかけるようにする事で、
後日、現在自分をエミュレートして未来の自分と現在の自分が
ディスカッション出来るように出来るのではないか?」と。
文章上ちょっと工夫すれば、未来の自分に対して現在の自分が
議論を吹っ掛けたり、未来の自分が被るような苦悩に対して予防的
警鐘を鳴らしたり出来るかもしれない。そうすれば、例えば
10年後、未来の私は現在の私の若さを笑う事が出来るだろう。
それだけではなく、歳取って硬直した考えや経験に伴う傲慢を、
正す事が出来るかもしれない。
そんなわけで、私は未来の自分へのメッセージを定期的に
書く事にした。なるべく、今の自分が未来の自分に対して懸念する事に
重きを置いて、メッセージが単なる懐古に終わらず、歳取った愚かな
自分に直言出来るもののほうが面白いかもしれない。
挑戦的だが論理的なもの・自分の今の考えを素直に
発露したものがきっと良いだろう。何しろ相手は同じ自分である。
遠慮もいらないし、言葉の定義づけが食い違うなどという事も
少ないだろうから、誰にも邪魔されず、濃密な議論が期待できる。
主観客観にこだわる必要もない。
何せ未来の自分と現在の自分は阿吽の呼吸で話し合う事が出来る。
言葉が持つ独特の問題に頭を痛める必要もなく、自分に役立つ事や
自分に興味のある事を、誰に遠慮するでもなく語り合えるのだ!
我々の若さは、永遠ではないし、変わっていく中には、「改悪」も
当然含まれているだろう。だからこそ、若い頃の自分と議論させる
事で、少しでも目の曇りを予防したいと思うのは当然の成り行きである。
若さゆえの愚かさは、未来の自分がきっとただしてくれる。逆に
老いや経験に幻惑されている所は若者が手厳しく批判するだろう。
このようなやりとりによって、私は将来の自分に「若者の自分」の直言を
植え付けてやろうと企んでいる。
そして、結果として私は、未来に起こるであろう硬直した思考を刺激し、
少しでも思考の可塑性と汎用性を維持する助けにしたいと企んでいる。
※あくまで、これは僅か一経験から導いた私の推測です。根拠に乏しい
個人の経験に過ぎない点に留意してください。