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ハナモク

一週間のうちで、何曜日が一番好き? と問われたとしよう。まるで中学1年生の物憂い放課後みたいな質問だ。夕まぐれの木造校舎、三階の西日の当たる窓際で最近仲良くなったばかりの久留米田くんと二人きり、盛り上がっていた会話の接ぎ穂が不意に途切れ、この世の終わりにも等しい静寂がのしかかる。その重みから逃れんとして、よりプレッシャーに弱い一方からもう片方に向けて、見切り発車を承知の上で放たれたような質問だ。熟成期間があまりに不十分なこの問いは、答弁の意欲をなんら刺激せず、彼と級友の隙間を漂っておざなりの答えを連れ帰るのみである。え、そんなの聞いてどうすんの的な袋小路は、発問されたと同時に彼の行く手を遮り、この進路に抜け道はないことを悟らせる。ありがちな舞台演出ならば、ここでヒグラシの効果音がスピーカーから流れ、がつんと照明が落ちるところである。

ねぇ、久留米田くん、君が一週間のうちで一番好きなのは何曜日? 
……? んー、日曜(なんだ唐突に)。 
なんで? 
まー(なんでといわれてもなあ)、お休みだから?
ふうん。……。

もし私が久留米田くんの役柄であれば、たとえ脚本をねじ曲げてでも、七曜のうち最も好ましい日を、「木曜日」と答えるだろう。それは信念に裏打ちされた回答であり、確定的断定的なこと、ヒグラシが恐れ入って逃げ出すほどである。

なぜ、木曜日であるか。好きなドラマの放映日であるから、というのは理由として副次的にすぎない。ドラマによらず総じてテレビ番組の企画というものは、3ヶ月を基本単位としており、その余をながらえるか否かは大人の諸事情にゆだねられている。そのような不安定な要素に依存して特定の曜日に肩入れしていたのでは、私は改変期ごとに宗旨変えを検討しなければならない。私の掲げる理由は、もちっと普遍的である。国家が転覆しようが貨幣制度が崩壊しようがいかなる外的変化に見舞われようとも私の木曜日支持が揺らぐことはない。
すなわち、木曜日は金曜日の前日ゆえに輝かしい。
えー、そりゃ、ただのハナモクじゃん、しかもハナモク、死語じゃーんとか、そこ、言わない。静粛に。

土曜を公休とする週休二日制を前提としたとき、土曜日を最上とする土曜日派と日曜日を至高とする日曜日派の二大勢力が拮抗することは疑いようがない。しかしながら土曜日派と日曜日派の間に休日礼賛の協調路線は存在せず、2009年度極東休日学会春季総会においても、両派に歩み寄りの兆しがなかったことは有識者がこぞって憂えるところである。両者両極の中点にあり、激しい反発を生じせしめているのは、かの「サザエさんシンドローム」の存在であるとされる。

土曜日派の主張はこうである。日曜日の日没前後、逢魔が時とも言える時間帯、茶の間にサザエさん(別の学派によれば「笑点」)のあたら脳天気な音楽が鳴り響くやいなや、条件反射的に増幅される終末感。夕闇にまぎれてしのびより、自由時間に浸潤する善男善女に幸福との別れを勧告し、もうすぐ月曜という絶望でもって人々を悲しみの淵へと追いやる。土曜日派はこのような「サザエさんシンドローム」がルーチンとして否応なく組み込まれた日曜日そのものを楽しまず、日曜に安寧たる休日を名乗る資格を認めない。日曜日といえば休日の代名詞のような扱われ方であるが、その実質は月曜日の前日に過ぎないというのが土曜日派の説である。

かたや、日曜日派は、別名日曜原理主義派とも称され、古来、万民の安息日として定められた日曜日の神聖不可侵性を教義とする。ゆとりだか何だか知らないが、民草をたぶらかし国をも滅ぼしかねないぬるい政策で、たかだか十数年前に導入された週休二日制により、ようやく休日の末席に連なることを許された土曜日に真の休日たる矜恃が備わっているか。そもそも、サザエさんや笑点が放送開始となった昭和の高度成長期には、土曜日などはまだ「半ドン」といって呼び捨てにされ、休日としては不完全な三級品であったのだ。おにょれの歴史の浅薄さを顧みて顔を洗いなおし、反省房でしばし正座しておれ、ぶわっかもん。というわけである。

両派の論点が全くかみ合っていないことに双方気づくまで、あと100年を要するだろうとの観測もあり、議論に一定の成果が現れることは、今世紀中には期待できない。

つづく、のか?

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