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―Part1:タオルと先輩と―




人生経験、15年と数ヶ月。

災難は、予期せず突然やってくる。

 

 「栄純君――?、まだ入ってる?オレ、もう出るけど・・・」

 

人もまばらにになってきた寮の入浴場。タイルの壁に、小湊春市の声がよく響く。

 

 「・・・えっ?・・・今、なんか言った!?春っち・・・」

 

はっ、と顔を上げた沢村栄純は、湯船の中でいい加減、のぼせかけていた。

瞬く間にポタポタと、したたり落ちていく額の汗。

 

 「オレ、もう出るよって、声かけたんだけど」

 「あ・・・ああ、オレもそろそろ・・・」

 

自分と同時に風呂に入った同じ1年生でチームメイトの春市が、洗面器にシャンプーや

タオルなどを一まとめにして、洗い場に立ち上がっていた。

 

 「お先に♪」
 前髪をかき上げ、ニッコリ笑って脱衣所へ出て行く。

 

 “うーん。・・・ま、いーか・・っ!” 

沢村は熱い湯に半身浸かったまま、伸びをした。

ついグダグダと考え事をしてしまい、深刻な悩みに発展しそうだったのでとりあえず中断する。

“夏本番前”合宿の最後の日から、自分と他人を比較して色々落ち込む日々だった。

いくら悩んでも、答えは長風呂で出るはずがない。

 

青道高校硬式野球部の男子達が汗とホコリを洗い流すこの場所は、心の疲れを取る場所でもある。

沢村はのろのろと湯船のフチをまたいだ。

もう、春市も、降谷も居ない。

チームメイトの降谷暁は“カラスの行水”で、頭や体を洗い終えるとさっさと出ていってしまう。

誰かが声をかけることが無ければ、湯船には滅多に浸からない。暑がりな性分なのだろうか。

3年生はもとより、2年生もとっくに居なくなっていた。


・・・いや、1年生に交じって洗い場に一人だけ上級生の姿がある。

 

 「あっ! クリス先輩〜!お疲れさんです!」

 

3年生の滝川クリスの姿を見つけ、沢村は声をかける。

洗顔した泡をシャワーで洗い流していたクリスの視線は、洗い場の鏡越しに沢村に向けられた。

いつも通りの冷静な眼差し。何か喋っているが、沢村には聞き取れない。

 

 「えっ!今、なんと・・・?クリス先輩?」


沢村は両手を突き、ひざでにじり寄りながら、愛想笑いをして近づく。

 

 「今、気が付いたのか、と言ったんだ・・・」


洗顔料のチューブを手にし、鏡に映る沢村を見るクリス。

 

 「はーっ!!スミマセンっ!気が付きませんで!!」


右手で敬礼して恐縮の意を表す。

クリスの座るイスの後ろに回り、「お背中流しますっ!」とタオルを手にした。

 

 「いや、いい・・・」

 「つ、冷たいですよ〜っ!クリス先輩〜!」

 「もう洗ったんだ・・・」

 「はっ!スミマセン!肩をお揉みしましょうかっ?」

 

クリスは自分の背後からキャンキャンまくし立てる沢村に、うんざりしてため息をついた。

日頃のハイテンションに加え、風呂場の開放感でのぼせ気味な後輩、――正直、うっとうしい。

 

 「・・・オレはもう出るぞ」


クリスは腰を上げた。

同じく立ち上がりかけた沢村だが、急に両膝を折り、床に両手を突いてひざまずいた。


 「!?」


振り向いたクリスに、過去の記憶が一瞬、頭をよぎる。沢村が自分に対してまた土下座をするつもりかと。

しかし沢村が、そのまま洗い場の床にぐったりと突っ伏してしまい、驚いて足を止めた。

 

 「・・・お前・・!?」


横たわったまま、両目を閉じている沢村の肩をつかむ。



 「沢村!?おい!」


肩をつかんでゆすってみるが、返事が無い。周りの1年生部員が二人のそばに寄ってきた。



 「のぼせたんですかね・・・?」

 

そうならいいが・・・。

クリスは、声をかけてきた一人に「部長に電話してすぐ来て貰ってくれ」と、指示を出した。

監督の片岡は、今夜は学校の理事会の用事に参加している。急には来られないはずだった。

シャワーヘッドを手にし、水の温度にまで下げてから仰向けにした沢村の上半身に浴びせかける。

うっすらと両目を開いた沢村に声をかけた。

 

 「良かった!・・・気が付いたか?」



ほほを叩いて反応を見る。

クリスに向かって何か言おうとするのを手で制し、“喋らなくていい、そのままじっとしてろ”と、囁いた。

目の焦点は合っている。良かった。



 “どれだけ長湯してたんだ・・・こいつは・・・”

確かに顔色はいぜん紅潮したままで、全身熱い。誰かが沢村に対して、交代で長時間の説教でもしたのか。

毎年一人は、それが原因で風呂場でノビてしまうヤツがいたが。

 

 「・・・すみません・・、オレ・・・」

 

今にも消えそうな声で沢村がわびていた。

頭を支えてやりながら、クリスは顔をのぞき込む。



 「くらっときたのか?」

 「・・・ ハイ」

 

冷たく絞ったタオルを額に当ててやりながら、努めて落ち着いた声で会話を続けた。



 「気にするな・・・。ここ数日は、特に体力を消耗してたんだ。長風呂は良くないぞ・・・」

 「すみません・・・」

 

自分に何が起こったのか。

さっき、立ち上がろうとして目の前が何も見えなくなり、平衡感覚が・・・ 全身の力が、抜けた?

記憶をたどってみた沢村だったが、頭の中はまだ霧がかかっていた。



 “アレ・・・? クリス先輩、オレの腕つかんで・・・? 脈・・・測ってます?”

何の為に・・・?

問いかけたかったが、声を出す力も無いほど脱力していた。

伝令を務めてくれた1年生が、脱衣所から顔を出してクリスに話しかけている。

 

 「部長はすぐ来るそうです」

 「すまない」

 

“パキッ”と勢い良く音を立て、クリスがペットボトルの栓を開けるのが見える。

 

 「沢村、一口でもいいから飲め」


上半身を浅く起こされて、冷えたスポーツドリンクが口元に運ばれる。

手に取ろうと左腕を動かしたが、それより早く下あごを支えられ、ボトルから液体が注がれるのを感じた。








――――――――――



 「沢村・・・!大丈夫かっ!?」


数分後。

脱衣所でバスタオルに身を包んだままの沢村に、野球部の部長が声をかけていた。

 

 「部長、自分も付き添います」

 「助かるよ」


クリスが手っ取り早く着替えて、上着を手にしている。

誰が用意したのか、大きな紙袋には沢村の着替えを詰め込んでいた。

 

 「・・・えーと、 あの・・・ すみません、クリス先輩・・・?」

 

 “そろそろ、何か着たいんですけど・・・” バスタオルを巻いたまま、立とうとする沢村をクリスは制する。


 「ちょっと待て。まだ動かなくていい」



廊下から走ってくる者たちの足音。そして聞き覚えのある、同室の先輩達の声が聞こえた。

 

 「沢村ちゃん、大丈夫か?」

 「このヤロー、クリス先輩に迷惑かけやがって」

 「増子センパイ・・・、倉持センパイ・・・」

 

途端に両腕と両足をそれぞれ先輩に持ち上げられ、体が宙に浮いた。



 「・・・えっ?」

脱衣所からあっという間に廊下を抜け、二人に抱きかかえられたまま、部長の運転してきた車の

後部座席へと押し込まれた。反対側のドアを開けて、クリスが乗り込む。

手には沢村の着替えとランニングシューズを入れた紙袋を持っていた。

 

 「あっ・・・ あの・・・ ドコ・・・へ???」 連れて行かれるんでしょう?オレ・・・。



こんな夜遅くなのに部長まで呼ばれて来て、“オオゴト”になってしまった。

あぐらをかいたまま沈黙を続け、不安と羞恥心が交差してきて、助けを求めるようにクリスの横顔を見る。

走り出した車は、ほどなく市内の病院の門を通過した。

 

 「沢村、救急外来だが、歩けるか?」

 「キュウキュウ・・・?病院っすか・・・?」 車の窓の外には、“救急”“受付”などの外灯が見える。



地下の駐車場へ入るスロープを下り、車を停めて部長は携帯電話で誰かと話していた。

 

 「あ、オレ、大丈夫です・・・けど」 今からお医者さんですか・・・? 慌てて座り直す。



クリスは沢村の頭をタオルで拭いてやりながら、どこか強く打ってないかと問い、左肩に触れる。

下着も着けていない沢村は、何にも抵抗できず、心もとない。

クリスから着替えを差し出され、車内のルームライトを点けられたので、赤面しながら服を身につけた。

 “うわー恥ずかしーな、オレ・・・ よりによってクリス先輩の世話になって・・・”

 

 


――――――――――



静かで薄暗い廊下のイスに腰掛け、問診票を目の前にして固まる沢村。


 「どうした?気分悪いのか?」 クリスはペンを差し出し、隣に座ってやる。


こんなに突然、病院へ連れて来られ、慣れない緊張で日頃働かない頭が、ますます働いてくれない。

やがて女性看護士の優しい声で呼ばれ、診察室へと促される。

有り難いことに部長もクリスも付き添ってくれた。

白衣を着た、若い男性の当番医。

その前の丸いイスに腰掛けるように指示されても、無意識に体が拒否して動きがぎこちない。

 

 「今まで、めまいや立ちくらみは?」

 「・・・無かったとおも ・・・いまス・・」 緊張で舌がもつれそうだ。



医師の両手が沢村の顔に伸びてきた。両目の下まぶたをつまんで離す。



 「ふーん、部活していて吐き気や動悸はあった?」

 「えっ・・・?ドーキって・・・何すか?」

 

そんなやり取りを聞きながら、すぐそばに立って辛抱強く見守る部長とクリス

背中に感じる二人の存在感だけが頼りに思える。

若い医師はもう沢村には目もくれず、いたって事務的な口調で看護士に指示を出している。

 

 「点滴1本、いっときますか」


振り向いて、沢村ではなく部長を見ながら口を開いた。

 

 

沢村は看護士の笑顔を見ながら、幼なじみでかつてのチームメイトだった若菜を思い出す。

テキパキとした機敏な動作と、かしこそうな眼差しが似ている気がした。

診察室のとなりの処置室で、看護士に言われるがままにカウンターテーブルの前に座る。

しかし、そこに用意されたものを見て、思わず腰を浮かせた。

 

 「あ!!注射・・・っすか?・・・」

 

健康診断の予防注射で、恐怖をこらえつつ嫌々ながら腕を差し出す、あの数秒間の“拷問”・・・。

狼狽する沢村をクリスは事も無げに「黙って座ってろ」と、腕を組んで見下ろしている。

 

 「最近の注射針はハイテクだから、全然痛くないぞ」

 「針・・・っ、 ぅええ〜〜〜」

 「採血しますからね。腕を出して下さい」



看護士は沢村に、有無を言わせぬ笑顔で催促する。



 「右利きですか?」

 「いや、オレ、左!・・・キキですけど・・・」

 

喋っていないと恐怖感で、それこそ再びぶっ倒れそうだった。

むき出しの腕にぎゅうぎゅう巻かれるゴムチューブが痛い。

正視に耐えがたく、コトが終わるまでを代わりにクリスの顔を見つめながら耐える。

確かに思っていた程には痛くなかったが。

そして最後の難関は、仰向けに寝かされて20分ほど点滴を受けさせられたことだった。

 

 “はあ・・・なんでこんなコトになっちまったんだろー・・・”

 

点滴の管を抜かれた後の腕を押さえながら、沢村はクリスと並んで再び廊下のイスに腰掛けた。

部長が携帯電話を差し出して、家に電話をかけるように言っている。

血液検査の結果など、明日再び来院しなければ教えてもらえない。

沢村の母親は部長の説明に単身上京しようかと迷っていた。

しかし、一人息子の強がりを変わらぬ口調で耳にし、きっぱりと諦めた。

 

 

 


―Part2:「先輩天国」?―

 

 

 「クリス先輩・・・オレ、何か病気なんでしょうか・・・?」

 

車に戻り、肩を落として猫背になった沢村のとなりで、クリスは後頭部をこづく。

 

 「心配するな」 小声でつぶやく。

 「おそらく明日、貧血改善の薬を処方して貰うくらいだろう」

クリ先輩、カメラ目線すか?

 

 “貧血・・・”

そうか、オレって貧血でぶっ倒れたのか・・・。我が身の貧弱さを嘆いてしまう。

クリスは前を向いたまま、まだ携帯電話を手にしている部長を見ている。

部長は先ほど、監督・片岡からの伝言を沢村に伝えた後、高島副部長と連絡を取りあっていた。

 

静かな夜の街を ―今は、もう一つの“我が家”である―青道高校の寮へ帰るために車は走りだす。

夜の暗がりの中で、となりに静かに座るクリスの横顔は一層大人びて見えた。

自分一人の落ち度で、周りの人達にこんなにも迷惑をかけてしまった――。

 “オレ、特にクリス先輩には、マジで迷惑ばっか・・・” 


クリス先輩、病院なんて・・・きっと嫌な思い出だらけかもしんねーってのに・・・

一番の恩義を感じている先輩に、一番迷惑をかけてしまっている自分を思い、沢村は涙をにじませた。

今までの日々を振り返ると、未熟な自分に対してクリスはあまりにも親身に、誠実に接してくれるばかりか、

自らの時間を犠牲にして、その上全く見返りを求めない。

 

 「あの・・・ ありがとうございました。今日は・・オレ・・・」 クリスに向かって深々と頭を下げる。

 「部長も、・・・すみません。ありがとうございました。もー長風呂はしません・・」

 

部長はバックミラー越しに視線を返し、柔らかく返事をする。


 「沢村、気にするな。まあ、よく有ることだから・・・明日は高島副部長と一緒に行っておいで」

 「はい・・・」



クリスは再びうつむいた沢村の後頭部をコツンと叩いた。姿勢が悪いぞ、とつぶやいている。

背筋を伸ばした沢村のほおに、今度はこぶしをグリグリと押しつける。


 「ふほぁ〜〜〜・・・」


沢村の口から洩れる意味不明の言葉。言わんとしていることは、こうだった。

 “元気出せよ、うっとうしいって、おっしゃってますか〜?クリス先輩、もっと大きな声でしゃべって下さい〜”

 

 

 

――――――――――


寮の自室に戻ってくると、増子と倉持が夜食の菓子類を広げてテレビを見ている。

その傍らには御幸一也の姿もあった。時刻は夜の10時を回ろうとしている。

振り向いた御幸は、さすがに今夜は真面目な顔つきだった。

 

 「お帰り、沢村。もう調子、良くなったか?」

 「う、アンタ・・・なんでココに・・・」

 

沢村の腰が引けて、心拍数が上がる。今は、コイツとは話したくないのに・・・。

御幸から色々言われると追い詰められた気持ちになり、つい反発してしまうので気まずい。

クリスに対しては自分の弱いところを素直にさらけ出して、ありのままの感情をぶつけ、結果甘えてしまうが。

御幸だってまぎれもなく自分の先輩なのに、どうあっても対等の立場でありたいと思うのは何故だろう。

 

ふだん面白可笑しくからかわれたり、口うるさく知ったかぶりの指摘をされるのが嫌だから、なのか。

それでも本当は、すごく有能な捕手で、人間の心の機微を解っている男だと認めているのに。


御幸がいかに才能のある球児か。それに加えて、日々の努力も怠らないことは周知の事実なのに、

それに比べてとうてい肩を並べられない自分は、この男と釣り合わない。

そんな引け目が、日々募っていた。

 

 「・・・もお、調子はバッチシ!」



ここは強がって見せるしか・・・。

引きつった顔でそれだけ言うと、沢村は歯ブラシとチューブを手にして、“じゃ、歯ー磨いてきまーす”と

部屋を出た。立ち上がる御幸に、増子と倉持は振り向く。

 

薄暗い洗面所で明かりも付けないまま歯を磨く沢村に、追いかけて来た御幸が近づく。

 

 「沢村・・・、お前を待ってたんだから、ちょっと話そうぜ」

 「・・・・・・・・」

 「病院、クリス先輩に付き添ってもらって良かったじゃねーか。早く戻って来られたし、な?」

 「・・・・・・」

 「風呂場でぶっ倒れるなんて、オレも経験済みだよ。ま、病院にゃ行ってねーけど・・・」

 「・・・・・」



うがいをして口を濯いだら、何か言わなくては。御幸がここまで親身になって、気を遣ってくれているのに。


 “ちぇ・・。いつも意地が悪ぃーくせに、何だってそんな・・・”


素直にあいづちを打って、礼を言うだけのことが、どうしてこんなに難しいのか。

暗がりの中で御幸を振り向いて、しぶしぶ顔を見上げる。

 

 「沢村・・・、オレがお前にイロイロ言うことで、お前を追い詰めて負担かけてること、あるよな」

 「・・・・別に、そんな・・・」

 「うーん、 まあ・・・ それだけお前に期待してるっちゃ、してるんだ。・・・けどな」

 「・・・?」

 「オレの言い方が、なんつーか・・・」 めずらしく御幸が言葉を選んでいる。

 

沢村の左肩にそっと右手を乗せ、しごく優しげな表情をつくって囁いた。

 

 「・・・悪りぃな・・・至らない先輩でよ・・・」

 「!」

御幸は短く言葉を切り、さっと踵を返して“ゆっくり休めよ”と、つぶやきながら立ち去って行った。

 

 「あ・・・」 

 

なんだよ、それ・・・。

こんなに気を遣われて、ろくに返事もしないまま、一人取り残されたぞ。オレ・・・。


いつもみたいにニヤニヤ笑ってからかえば、オレだって言い返し易いのに。

至らない先輩なんて、そんな・・・ 自分の方こそ、百倍も未熟な後輩なのに。

悪ィな、なんて・・・  ちぇっ。

 

今夜はすっかり調子が狂っている。ふがいない自分に対して、親切を施してもらうことが恥ずかしい。

半ば駆け足で部屋に戻り、同室の先輩たちには素直に礼を述べると、布団をかぶって亀のように丸まった。

倉持が布団に近づき、“おい、コレ、あのヤロー(御幸のことらしい)が、見舞いに持って来てたぞ”と、

2リットルボトルのスポーツドリンクを沢村の頭にぶつけた。


 “先輩天国じゃん、なあ? ヒャハハっ・・・”



今夜はイジケまくって日本酒の一升瓶ならぬ、2リットルのスポドリを枕にして眠るだろう。

そして自分の部屋へと戻った御幸は、“さっきのオレ、うそ臭かったかな? まぁ、あんなもんだろ・・・”

と、キゲン良く録画番組のビデオを見始めた。

 

 

 

――――――――――


翌朝――。

沢村に向けられた監督・片岡の表情は、いつも通りに厳しい。

しかし、「体調管理の不行き届きだけで済まされる問題じゃない。よく診てもらって来てくれ」と、

腕を組んだまま、真剣な口調で告げた。

タクシーに一緒に乗り込んだ高島副部長は、こういう場合の常として、まるで母親か姉のように優しい。

昨晩の病院に着いて、順番が回ってくるまでは沢村の中学時代の部活話を引き出していた。

 

 「沢村君、あなたの投げる左利きのムービング、うちにとってきっと貴重な武器になると思うわ」

最後にはこう締めくくって、ほれぼれするような笑顔で励ました。

 

昨晩と違う内科医は分かりやすく親切に説明してくれる中年男性で、沢村は“鉄欠乏性貧血”の

状態にあると告げられても、安心できた。確かにクリスの言った通りだ。

処方された内服薬は2週間分も出されると、ちょっと気が重かったが、何日かすれば以前と

変わらない自分に戻れる。

授業に出る前、自分の携帯電話から母親に連絡を入れると、お互いにほっとすると同時に

野球生活に打ち込むため離れた距離を感じて、しばし感傷的になった。

 

 

昼休みの混雑で賑わう学生食堂――。

昼食を取るため、それぞれのメニューの窓口へと移動する学生達の流れに沿って、沢村と春市と

降谷の三人はノロノロと歩む。そろそろ夏らしいメニューも出始めていた。

 

 「今日、何にしよーかなー」 春市のお決まりのセリフ。

 「カニ玉定食がいいんじゃない?」 これも降谷のお決まりの返事。

 「栄純君、何にする?」

 

列を進みながら唯一の気楽な食事を前にして、無駄話が楽しいひととき。

沢村の災難は、昨晩のうちにチームメイトであるこの二人へ伝えられている。

よって普段と何ら変わらない接し方だった。

兄弟のいない一人っ子の沢村にとって、春市や降谷と家族以上の時間を共有するのが、今の日常だ。

同じ目標に向かって、同じ土の上で汗をかき、同じ釜の飯を食って、一緒の風呂に入る。

部屋こそ違うが、一つ屋根の下で寝起きする部員同士、もう単なる他人とは思えない。


他愛のない話をクラスメートも交えて喋りながら、それぞれの好物を口に運んだ。

 

 

 


―Part3:「Hey you」?―

 

 

数日後、今まで通りの慌ただしい日常に戻った野球部の午後練習。

西東京地区大会の組み合わせが発表され、全員の顔がハンパ無く真剣だった。

 

  「沢村君、ちょっと来てくれる?」



夏服のブラウスがサマになっている高島副部長に手招きされて呼ばれ、沢村は後を付いて

野球部の部室へと入る。部屋には既にクリスが立っていた。

 

 「監督とも話してあるんだけど、明日の午後はクリス君と二人でお出かけしてらっしゃい」

 

高島礼の口から、自分に向かって驚きの指示が下された。

 「えっっ!!・・・クリス先輩とオレが、ですか? ・・・どっ、何処へ・・・?」

副部長とクリスの顔を交互に見つめる沢村に、クリスは冷静な態度で説明する。

 

 「オレが通っているトレーニングセンターだ・・・」 クリスは手にしたメモ用紙を差し出し、

 「出かける時はちゃんと制服を着て来い。お前が持って行くものは、これに書いた」とつぶやいた。

 「は・・、ハイ!」

 

差し出されたメモ用紙を両手で受け取る間、頭の中を疑問符がぐるぐると回る。


 “トレーニングセンター・・・クリス先輩の・・・? それって・・・”



あの場所・・・?

クリスの顔を見ると、無言で沢村を見つめ返す琥珀色の瞳があった。心臓の鼓動が高鳴る。

オレも行くって・・・

 「1回だけ、プロのトレーナーに見てもらうからな」

 

そう言ってクリスは部屋を出ていってしまった。 プロ? ・・・どういうことだろう。

クリス先輩みたいに、何か特別なトレーニングを受けなくちゃダメなんだろうか。

高島礼は、ノートを開いて何か書き込んでいる。

ペンを走らせながら、「何も心配ないわ。大丈夫よ」と微笑む。


 「クリス君が、あなたを観察してて色々と思うところが有るらしいの。一度、指導してもらうといいわ」



沢村の頭の中では依然、混乱が続いている。

降谷と比較され、“それに比べて、お前は・・・” クリスの深いため息が、胸にくい込んだ痛みを思い出した。

稲実のエース投手・成宮鳴の多彩で華麗な変化球のキレ。完成度の高い芸術的な投球に、実戦経験と知識。

クリスや御幸から日々ダメ出しされ、他人と比較されてきたが・・・。

これはクリス先輩がそんな自分のために、何か特別な秘策を用意してくれたのでは・・・?

心臓のドキドキが、胸のときめきに変わる。沢村の瞳はキラキラと輝いた。

 

 「ハッ!!クリス先輩に恥はかかせません!!」 とっくに部屋を去ったクリスに敬礼をする。

 「わっ、ビックリした・・・」 不意の大声に、高島礼は汗をかいた。


 “この子の地声の大きさ、たまにイラっとするわね・・・”

 

 

 

――――――――――


また翌日――。

メモ用紙を見てクリスとの待ち合わせ場所と、時刻を確認する。持ち物の用意もぬかりは無い。

昼食を終え、寮の自室で姿見の鏡の前に立つ。沢村は制服のネクタイを丁寧に結び直した。

先輩に恥はかかせませんと大口を叩いた自分だったが、徐々に自信を無くし狼狽(ろうばい)していた。

 “この寝グセ、やっぱマズィぞ〜!!”

ふだん気にも留めない自分の髪型を初めて客観的に見て、我ながら呆れ果てる。

朝練の後、シャワールームで洗髪したはずが、なぜこんな盛大な寝グセが付いてるんだろうか。

 “・・・そっか!オレ、また授業中に寝ちゃったもんな・・・!” (どんだけ変な姿勢で居眠りしたんだか)

 

 「なんだテメー、まだ出かけなくていいのかー?」

部屋に戻ってきた倉持が「クリス先輩と、お出かけなんだろー?」と、カバンを投げて尻にぶつける。

お出かけっ・・・なんでソレを知っているっ!?・・・いや、それよりも、このアタマを・・・!

鏡の前でオロオロする沢村を倉持は一目見るや、柔術の寝ワザをかける。

 

 「テメぇ・・このヤロー!なに勝手にオレ様の整髪料、使おーとしてやがる!」

 「ぐぉ・・・ 倉持ゼンバイ・・・ 寝グゼ、どーやっだら・・・・」

 「寝グセ? はんっ!そのまま行って恥かいて来い!」



倉持は沢村の頭をグシャグシャに乱し、ネクタイまでむしり取る。

しかし、そんな擦った揉んだの挙げ句に沢村を鏡の前に座らせ、ヘアスタイルのセットを買って出た。

“オレ、クリス先輩に怒られますって!マジで・・・”と、沢村が半ベソかき始め、さすがに自分も

同室者の不行届として、3年生の伊佐敷に怒鳴られることを想像したからである。

この時期、寮内の情報網は恐ろしく綿密で正確だ。

面倒だが、ここは後輩虐待より、恩着せがましく世話を焼いておくしかない。


沢村の盛大な寝グセに、食堂の電子レンジでつくらせた蒸しタオルを当てて直してやる。

慣れた手つきでスタイリングムースをつけ、ドライヤーとブラシでブローまでしてやった。

 

 「すげ・・・!倉持センパイ、うまいっす・・・」

 「お前のゴマすり、たまにうぜーな・・・」 まんざらでもなさそうだったが。

 

 “バカみたく口開けたまま、アホ面さえしなけりゃな。コイツもちったぁ・・・”

 

 「こ・・・これは・・・・っ!!!!」

 「悪くねーだろ? ・・・ぷっ、・・・ヒャハハハハハハっ!!・・・おらっ!・・・とっとと行ってこい!!」

 

時計に目をやった沢村は、弾かれたように立ち上がる。ネクタイの結び目を再び確認し、バッグを抱えた。

荷物はバッチシ!尻ポケットに財布・・・ある。携帯電話をマナーモードにしてバッグに押し込む。

 

 「いいいっ、っってきまース!!!」


シューズを履いて午後の眩しい太陽の下、広い敷地を突っ切って待ち合わせ場所までダッシュした。

かつてスカウトとして、自宅に迎えに来た高島礼との道中でさえ、こんなに気を配ることは無かったと思う。

指定場所の正門手前。クリスより早く着き、文字通り、左手で胸をなで下ろす。

 

 “なんかドキドキすんなぁ・・・ これが、えーと・・・胸のドウキってやつか?”

 

 「胸がどうかしたのか?」

 「わっ!クリス先輩・・・! ・・・そんな後ろから急に・・・」

 

時間通りに来た制服姿のクリスが、振り向いた沢村の頭を凝視している。

自分は確か、野球部の後輩をスポーツトレーニングへ誘ったはずだったのに。

これからジャ○ーズ事務所のオーディションでも受けようかという、このヘアスタイルは一体・・・?

 

 「お前、気合い入れすぎだ・・・」

 「は・・ははっ!お疲れさんです!今日はヨロシクお願いしやすっ!」

 

梅雨の合間の晴天。乾いた夏風の中を、バスの停留所へと並んで歩く。

定時に到着したバスに乗り込み、座席に並んで座ると、沢村の胸中に不思議な感動が生まれた。

長野の中学を卒業し、東京にやって来たのは、ついこの前だったというのに。

高校野球の世界の扉を開け、何も知らないド素人の自分が経験した数ヶ月を振り返ってみる。

特にクリスと出会ってからの短い間に、“先輩・後輩”の人間関係とは縁遠かった自分が、

今はこうして・・・

 

 「つまりは、食生活もだ」

 「えっ ・・・なんすか!?」


クリスが自分に向かって何か話していたのを聞き逃していた。

改めて、となりに座る偉大な先輩の顔をまじまじと覗き込む。今、その表情は険しい。

そう言えば先ほど、「お前、夕飯の後、よくコーヒー飲んでるだろう?」と聞かれ、「ハイ」と返事をしたはず。

その後に続くクリスの小声を聞き逃し、一人で感慨深く、短い思い出にトリップしていた。

 

 「食生活も改める必要がある、と言ったんだ・・・」

 「す、すみません!オレ・・・本当は、好き嫌いとかナイんですけど」

 

先輩の有り難い忠告を聞き逃していたことを悟られず、何とかスムーズに会話を続けようと努めた。

決められた寮の食事のカロリーや、部員のために用意される栄養補助食品にスポーツ飲料。

クリスの目の届く限り、沢村たちは必要な量を摂取していると思っていたが間違っていた。

 

 「お前の鉄欠乏性貧血・・・、原因の一つにカフェイン摂取が関係していると思う」

 「え・・・ カフェインって言うと、コーヒーですか?」

 

特に重い夕飯の後、インスタントコーヒーで濃いめのカフェオレをつくっては、よく飲んでいた。

家族の食生活の影響で、食後のコーヒーは健康に良いと思いこんでいたし、食べたものが早く消化される。

そんな期待を抱いて、ツライ満腹感を解消しようとしていた。

 

 「最も盛んな成長期だ。その上、部活の練習でお前が消費する栄養素は、摂取する量を上回ってしまう。

  更にカフェインは、せっかくの鉄分が体に吸収されるのを妨げるらしい。飲むのは悪いことじゃないが・・・」

 

食後2時間を経過してから、と言われた。どのみち、夜の睡眠の妨げになるので禁止された。

有り難い忠告だ。 今後、コーヒーは朝食と昼食を取った後の眠気覚ましに、間隔を置いてのみOKとされた。

おそらく、同じ1年生部員の金丸には、新たな監視項目が追加されるかもしれない。気の毒な話だが。

 

 

――――――――――


そんな会話の後、バスは見覚えのある道を通って“○○トレーニングセンター”表示の停留所に停車した。

先だって、高島礼に連れてきて貰った時の記憶がよみがえる。

この場所には、クリスの秘密があった。

馬鹿な自分勝手の思いこみ、偏見、心の焦りで、沢村はクリスを軽蔑し、クリスを否定してしまった。

そして、それを御幸や高島礼にもぶつけてしまい、自分の愚かさを身に染みて味わったあの日。

 

センターの正面玄関をエントランスへと抜けながら、クリスの横顔を見上げる。

テーピングが痛々しいクリスの、汗を流して地道な筋力トレーニングを黙々と続ける姿を思い出す。

まだ、あのトレーニングを続けているはずだった。沢村の胸はチクチクと痛む。

受付でビジターの手続きを終え、ロッカールームへと連れ立っていく間も、無口で平然としているクリス。

 

沢村は、指示された通りに持ってきた青道のユニフォームを履き、上半身は練習着のアンダーシャツのみで、

ランニングシューズの紐を結んだ。マシンルームの手前の、アップ専用コーナーへと促される。

トレーニングシャツの上に、海外ブランドのジャージスーツ姿のクリスは、目立つほどサマになっていた。

部活のストレッチメニューを二人で2セット繰り返す。

 

 「それから、貧血の原因のもう一つ・・・」


クリスは真剣な顔つきで、沢村の背中を押さえながら囁く。


 「お前のシューズと、ダッシュやランニングにはいくつか問題が有ると思う」

 

沢村も真剣な顔つきで呼吸を整えながら、リズム良く筋肉に酸素を送り込んだ。

つまり、これから自分の運動の基礎に、何らかの指摘と徹底的なテコ入れが行われるのだと思った。


 “シューズ・・・” 

今、自分が履いている海外メーカー製のランニングシューズに目を落とす。

入学前の春休みに長野の地元で買ったものだが、日々の練習にこき使われ、早くも傷みが目立つ。

何度か洗っても野球部のグラウンドの土は、汗で湿り気を帯びたシューズに濃い染みを残していた。

それでも履きやすいと思って選び、今なお自分の足に馴染んでいるサイズだと思うのだが。

 

 「あの、オレ・・・」

沢村が話しかけようとした瞬間、クリスに大股で近寄る大柄な男に目をうばわれる。

日焼けした濃い肌、太い両腕。TV番組のプロ野球中継でしか、お目にかかれないような巨漢の・・・

 

 「うわーーーーー☆!!!」(沢村の奇声)

 「ヘェーイ!ユゥゥー!!」

 「うわーー!!!!っっっ・・・」(沢村の奇声)

 “クリス先輩に抱きついて・・・・!!!! ・・・こ、このオッサン誰だー!!!”(沢村・心の叫び)

 

目の前で、背の高い外国人の中年男が突然現れ、大事な先輩をなでくり回していた。

クリスが満面の笑みをたたえて、その男性の肩や胸をぽんぽん叩く。

いや、お互いに叩き合い、最後には握手を繰り返した。沢村にとっては衝撃で、驚愕の光景だった。

 “ク・・リス・・先輩・・・?英語ぉ〜〜???” 今、自分の耳には英会話しか聞こえない。

 

 「またオマエか・・・エセジャパニーズ・・・」

 「わーっ!!またこのオッサン・・・っ!! ・・・はっ!」



今度は、見覚えの有りすぎる人物が現れた。

 

 「ク、クリス先輩の・・・ おちちうえ様・・・っ!!」

滝川クリスの父兄であるジョージ・アニマルを再び目の前にして、思わず両手・両膝を床に突く。


 「お父サマ・・・、息子さんには、ヒジョーにお世話になってマスー」

本心の言葉が出たが、クリスから“恥ずかしいから土下座はやめてくれ”と言われ腰を上げた。

 

二人の米国人男性と、一人のハイブリッド高校生に囲まれた純・長野県産少年は、緊張で居たたまれない。

特に、どうあがいても日本語が通用しそうにない“水色の瞳のオッサン”には、先ほどの光景を

思い出し、目のやり場にすら困ってしまう。

 “このオッサン、いきなりクリス先輩のほっぺにチューするんだもんなー・・・”

 

自分にも同じことをされたらと思うと及び腰になり、クリスの背後にべったり引っ付く。

あまりにも刺激的な出来事で、その後の記憶は、なんだか現実離れしていた。

クリスが、「この人は昔、親父のトレーナーだった人だ」と、沢村に紹介してくれた。

今でも現役で、プロのアスリートを何人も担当していると聞かされても、それは高校1年生の自分には

縁遠い世界のイメージだった。せっかく名前を教わっても、覚える以前にアタマに入っていかず・・・。

大きな手で力強い握手をしてもらい、クリスの翻訳を交え、指示通りに体を動かすことになった。

酸素をたっぷり取り込んで温まってきた筋肉が、放熱のために汗を絞り出す。

 

 

 


―Part4:そして、強くなれる―

 

 

長い時間に感じられたが、クリスが“今度は自分のトレーニングの時間なので、先に学校に戻ってくれ”

と告げた時、まだセンターに来て2時間しか経っていないことに気が付いた。

親しげに英語で会話を交わす3人に頭を下げ、室内トラックを後にする。

着替えようとしてロッカールームに向かう沢村を アニマルは手招きしてフロントのソファへ座らせた。

 

 「あ、え・・・ 今日は、どうも アリガトウございました!」

 

向かいに座るアニマルに向かって、噛まないように丁寧に礼を述べ、深く頭を下げる。

二人きりになると以前の自分の愚行を思い出し、バツが悪くてしおらしくした。

サングラスをかけたまま、差し出されるスポーツドリンクのボトル。恐縮しながら受け取り、フタを開ける。

えっと・・・あの、本・・投げちゃったコト・・・ まだ、怒ってらっしゃいます・・・?

重い沈黙が続くので、過日の自分の行いをわびようとした、その時・・・

 

 「おミヤゲダ、もってけ・・・」

 「えっ!?」


突然、自分に差し出されたアニマルの手に、いつの間にか大きな紙袋が握られている。

さらにぐっと押しつけられ、両手でそれをしっかり抱きかかえた。


 「は・・・、ありがとうゴザイマスっ!!」

 “おみやげ・・・ 何だ???” 嬉し恥ずかし、複雑な気持ちで紙袋の中をそっと覗いた。

 

 “えっ!シューズ??”

新品のシューズの箱が見え、ドキリと心臓が跳ね上がる。土産物ではなく、立派な贈り物だ。

 

 「わ、すみません!・・・オレ、あ・・・らっ?」


アニマルにもっと礼を言いたくて顔を上げると、すでにその姿は沢村から遠く離れていた。

去ってゆくその背中に向かって、フロア中に響く大声で礼を言う。 “お父サマ”だけ一言、余分だ。

振り向いたアニマルは、むっつりとした表情で無言のまま、親指を立てて見せた。

 

わき上がる熱い気持ちで涙をこらえてロッカールームに入ると、沢村は紙袋の中身を見て仰天した。

どれも違うメーカー製の新しいランニング用シューズが、3箱も入っている。

新品の中敷きと、靴下がこれまた半ダース。そして見覚えのある筆記体で書かれた、“一度に沢山飲むな!”

の文字の袋に、各種サプリメントの未開封容器がいくつも・・・。

 

大きく開かれた少年の目はそれらを見つめ、やがて静かに、遠い目標の先に立つ自分の姿を胸に描いた。

 

 

 

――――――

 

一人学校に戻り、夕暮れ空をあおぎながら野球部の敷地を迂回して寮に帰り着く。

午後の特訓とミーティングを終えた部員達が、ちらほらと野球部の更衣室から出ていくのが見えていた。

自室に荷物を置くと、夕飯を取る前にいつものTシャツとジャージに着替える。

夕闇の迫る薄暗い渡り廊下に、食欲を刺激する暖かいにおいが満ちていた。

食堂へ入ると待っていたかのように、降谷と春市が近づいて来た。沢村の左右にそれぞれトレイを並べる。

タイミングを計ったように御幸がやってきて、沢村の正面に腰掛けた。

 

 「どう?何か勉強になったの?」

春市が、箸を動かしながら横から覗き込むのと同じ左右対称の動きで、降谷も沢村を見つめる。

二人とも興味津々で、今日の沢村の体験レポートを夕飯の話題にしたがった。

それを余すところ無く聞く権利が自分にもあると言いたげに御幸は、不遜な笑みをうかべている。

クリスの姿は無い。今は、滝川家の旧客を交えての家族団らんで、自宅にいるのだろうか。


 「あ・・・うん、 えーと・・・」

箸で汁椀をぐるぐるとかき回す。濃厚なダシの効いた豚汁に、具が色々と入っていた。

 

 「 オレ、クリス先輩のお父さんに、き・・気に入られちゃった・・かな 」

 「は・・?」「・・・?」「・・えっ?」

箸で“の”の字を描きながら、照れ臭そうにうつむく沢村を3人は、怪訝な表情で見つめた。

――なんで、クリス先輩のお父さんが、そこに出てくるの?―― 3人の発する電波は痛いほど沢村に届く。

 

 「あっ!いや・・・オレ・・ 今日は、えーとプロのトレーナーさんに見て貰ってきた・・・」

 「うん。だから、それが、どう勉強になったのかな、って・・・」

 「具体的に、よろしく」

 

クリス先輩から聞いたことを出来るだけ思い出し、要点を伝えようと頑張ってみる。

今日は、自分の走り方のみの指導だったわけだが。

 

運動の着地の姿勢で、踵(かかと)への衝撃が強すぎて、全体重の負荷で血中の鉄分が壊れ易いという。

驚きの事実だった。自分のランニングスタイルを披露してみると、両足のつま先の向きが良くないとかで、

指示された足運びや腕の振りを試してみると、負荷が軽減した気がする。

 

シューズのソールもすっかり痛んでしまい、踵へのインパクトを吸収しづらい点や、効率良く、つま先を

鍛えて走る方法を教わった。・・・はずだった。

きっと体は覚えているはずだが、口で説明するのは難しい。

クリスは英語で喋っている方が、声が大きく明瞭だった。それが沢村には印象深い出来事だ。

 

 「へえ、良かったな。お前が教わったコトは、専門家の指導だもんな」


降谷や春市にも教えてやれよ、と言葉を残して御幸は席を立った。

春市はさっきから感心した表情(沢村には、そう見える)で、クリス先輩って親切だね、とつぶやいた。

 


――――――

 

今夜は、アニマルから贈られたランニングシューズで、グラウンドを走ってみる。

今まで足を包んでいたシューズの堅い素材に、歪んでヨレが生じた隙間で着地の衝撃が大きかった。

こうして新しいシューズを試していると、それが良く解る。しなやかで柔軟な素材がピッタリと足を締め付け、

両足に羽が生えたように軽い。走り易く、スピードも上がったが、短時間で切り上げた。


寝付きの悪いもん同士、仲良くキャッチボールでもしてろ。

御幸がそんなアドバイスをしたので、降谷も適度に走っては中断した。

温まった肩で、やや遠慮気味にキャッチボールを始める二人。

 

 「お前、なんで青道に入ったんだよ・・」


降谷の強靱なバネの長身と剛速球に、コンプレックスを抱きながら沢村はぼやく。

 

 「・・・だから、言ったじゃん。御幸センパイなら僕の球、捕れるだろうと思って・・・」

 

降谷は、一球一球をフォークの握りで、丁寧に投げ返していた。

 

 「どーしてもアイツじゃなきゃ、捕れない球だって言うのかよ」

 「僕がココに来ちゃ、イケナイわけ?」

 

不毛な会話が続きそうだった。ケンカしたい訳じゃないが、沢村にとって同じポジションを争う立場では、

仲良くしたいと思う気持ちは皆無だった。

 

 「だって・・・北海道から一般入試で、わざわざ東京まで来るんだし。絶対にハズレの無い人じゃないと」

 「何っ!?北海道ぉー? お前、北海道から来たのか!!?」

 

動きが止まった降谷の、憮然とした表情が物語っていた。 ひどいな・・・ホントに全然ヒトの話、聞いてないよ・・・

クールダウンの後、ドリンクを飲みながらベンチに並んで腰掛ける。

 

中二の夏からだっけ・・・ 降谷は淡々と言葉をつなぐ。

部活の輪から、自分一人が徐々にはじかれ始めた頃だった。先輩達の顔を立てて、自分の得意技を

加減するのが辛かった。1年の半分を雪で覆われ、凍っているグラウンドの土は、部員達の情熱をも奪う。

野球部に在籍しながらも未練を断ち切り、自腹で買った硬球を担いで、孤独な放課後を過ごす。

橋ゲタの壁、自分だけの投球練習。

 

沢村の顔から血の気が引いた。長野での仲間たちの笑顔を思い出す。

喜怒哀楽を共にし、汗を流して同じ目標を追い、大きな思い出を残してきた初めてのナインだった。

たとえ1試合すら勝てなくても、一度しかない中学時代の、何にも代え難い青春を分かち合えたのに。

駅のホームでの別れ際、オレたちの絆は永遠だと感じて胸が締め付けられ、一斉に顔をぐしゃぐしゃにした瞬間。

あの絆を支えに、今の自分がある。



 「それで、アイツに受けて貰おうって、ココに・・・」
 想像もしなかった降谷の意外な一面を知った。

 

 「そのコトだけど・・」と、降谷はヒザで沢村の太ももを突く。

 「ちゃんと “御幸センパイ” って呼べば?」

 「えっ?・・」


のんびりした口調と裏腹に、目が真剣だった。

降谷の真剣な目つきより、御幸の顔を思い浮かべて汗をかく。


 「う・・・・」

 「ここんとこ本人、目の前にして、“アンタ”とか、“てめー”しか言ってないし・・・」

 “あの人、全然、気にしてないみたいだけど・・・つき合い長くなるし・・” 言わんとすることは、よく解る。

 

沢村から見た降谷は、最初こそ“厚かましいヤツ”に思えたが、ちゃんと気を遣ってるところは遣っていた。

一つ壁にぶち当たって、乗り越えられたと思ったら・・・そんなコト、お前に・・・

 

 「お前らが夜中にまでランニングするから、オレがクリス先輩に怒られちゃったぜ」

 「ぉわっ!!!」 「・・っ!?」

 

二人同時に飛び上がって、振り向く。

にやにや笑いで腰に両手を当て、“怒られた”と言うわりに、偉そうなポーズの御幸が立っていた。

 

 「て、てめー・・・ビックリさせんな〜!!」 御幸を指さし、結局、沢村は噛みついてしまう。

 「御幸センパイ・・・いつから、そこに?」


降谷が険しい目つきで御幸に問うているが、じっとりと汗をかいて頬が紅潮し始めていた。

 

 「オレー?今、ここに来たぶぁーーーっか!だけどー?」



上機嫌な、この口調。御幸も人差し指を降谷に向けた。

このニヤニヤ顔・・・ “御幸センパイって呼べば?”の、もっと前から聞かれていた気がする。

こっそり二人の会話を盗み聴きしていたのなら、先輩と言えど許し難い。

 

 「自分は、もう寝ますから」

御幸をにらみ、沢村には一瞥もくれず、降谷はスタスタと歩いて行ってしまった。

残った二人は見つめ合う。

 

 「御幸センパイって呼べよ」

 「 くっ・・・!!!! 」

 

このニヤケっ面に、絶対言うこと聞くもんかヨ・・!

立ち上がって、身構える沢村の足下を御幸が見つめている。

 

 「良かったな、ソレ」

 「は・・・」

 

一気に毒気を抜かれた。

新しいランニングシューズを・・・ “貰ったもの”だと、どうして分かるんだろう?

 

 「分かるさ・・ あの人が考えていることは、オレには良ーく分かるんだ・・」

 

眼鏡の奥で細められた目が、気のせいでなく切なげに見える。

沢村が不思議そうな顔をして、御幸の顔を見つめた。 “あの人”・・・って、クリス先輩のこと、か?

 

どんなに不躾な態度や、“アンタ”呼ばわりされても、自らのことでは御幸は決して怒らない。

実は心の奥で、沢村に深く感謝していることを隠していた。

 

 「ま、いいんじゃねーか?オレなんかさ、パパさんにクルマ買って貰っちゃったし!」 ニカっと笑う。

 

運転免許も持ってないクセして、どの口がそんなデタラメ言っているのやら。

この男が一体何を言いたいのかさっぱり解らず、結局、からかいに近寄ってきただけと思い腹を立てた。

くそー、アンタなんてクリス先輩の爪のアカ煎じて飲んでろーと、指を差しながら逃げ出す。

 

 “う〜〜〜、これじゃますます先輩なんて呼べねーっつーの!”



去って行く沢村の後ろ姿を 前髪をかき上げながら、御幸は見送る。

捕球するように構えた左手を見つめ、ぐっと握りしめた。

ありがとうな、沢村・・・   気持ちの奥底に隠していた、辛くて長い1年が消え去った。

 

 

翌日の夕飯後。

菓子折の紙袋を手にして、沢村はクリスの部屋のドアをノックする。

熱心に試合のビデオを見ていたクリスは、“気を遣うなよ”と言いながらも沢村の礼を受け取った。

 

後輩の穿くシューズを手にして体の不調を気遣ってやれる、この貫禄。

かつての主力の座を後輩に譲っても、今なおクリスは青道野球部の要に座っている。

そして、自信と笑顔を取り戻した息子に、その父親があれほどまで感謝するのが沢村という男だった。

確かで、濃密な人間関係のうねりが部内に生じていた。

 

定番になった夜の練習メニューをこなす沢村と降谷。

それを眺めながらネット裏で素振りを行っている御幸に、クリスがドリンクを手にして近づいてきた。

 

 「あの二人、ちょっとは仲良くなったんじゃないか?」

クリスは、お互い認め合っているのを決してうわべに出さない、ギクシャクしたルーキー投手たちを眺める。

 

 「二人一緒のところを突いて、可愛がってやるのがコツですね♪」


御幸はクリスに対して、感じの良い笑顔をつくる。さらっと、後輩いじりを報告しているのだが。

 

 「今、沢村が穿いてるアレ・・・ 喜んでましたよ」 自分の足下を指さして、ランニングシューズを示す。

 「親父も・・・ ちょっとアイツに引き寄せられたかな」

 「沢村って、ダメ過ぎてほっとけないとこ有りますよね・・ ま、人を引きつける魅力になってるんだけど」

 

クリスは御幸と並んで座り、“確かにアイツには、他人を引っ張り込む磁力みたいな才能あるな・・・”とつぶやいた。

 

 「本人、鉄分不足でぶっ倒れるくせに・・・!」 御幸は人差し指を沢村に向ける。

 「フン・・ 言えてるな」

 

クリスの笑顔が、1年前となんら変わらず自分に向けられる。 二人だけにしか感じ得ない空間。

この笑顔、 瞳の輝きが この場所に戻ってくるのに1年かかった。

お互い、明けない闇の中を手探りでもがき、苦しんだ時期もあった。

 

笑いかえした御幸の両目から大粒の涙がこぼれる。額の汗が流れるのと変わらない速度で。

夜露でくもった眼鏡のせいで、自分の涙目なんか見えないと思っていた。

口には出さないが、未熟な沢村のひたむきな真っ直ぐさが、二人の窓から光を入れる。

もう、大丈夫だ。

だから、お前らも強くなってくれよ――

 

 





―――END―――

  

 

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