■--無防備な背中--■ ▲TOPページへ戻る
―Part1:兄と弟―
印字された自分のフルネームを確認して間違いの無いことを告げると、小湊春市は
その用紙を受け取ってクリアケースへ丁寧にはさみ込む。
このところ急に増えてきた部活や高校野球の資料、寮生活の注意事項のプリント、様々な
リーフレットなどを春市は全て整理して、上手にファイリングしていた。
大事なそれら・・・。
自分が待ち望んだ新たな環境で、自ら打ち立てた目標にまい進する為の証しだった。
スポーツメーカー製の大きなトートバッグに、書類の入ったクリアケースやバインダーをまとめて突っ込む。
小柄な体にバランス良くバッグを担ぎ、春市は二つ歳の離れた兄の亮介と並んで店内を歩く。
行楽シーズンのセールスをうたう大きな文字のポップや特価の値札があふれているここは、春の大型連休で
賑わう郊外型の巨大スポーツ用品店だ。
「分かってると思うけど、オレ、同じ説明は二度としないよ」
「うん、ありがとう。兄貴・・・」
硬式野球に詳しい兄の亮介を追いかけるように、この春から同じ高校へ入学、同じ野球部へ
入部を果たし、お互い先輩・後輩の関係となった。小学校から中学校までも同様であったように。
今年の正月に久しぶりの再会を得たきり、春休みには一度として帰省しなかった兄の顔は
4ヶ月ぶりにやっと部活で見ることができた。
そしてこれから1年間は一緒だと思ったが、予想していた以上に亮介との距離は遠く、部活で
間近に兄の顔を見る機会さえ少ないことに気が付いた。
「最初だけお前につき合ってやるかな」
部活に必要なものを買う予定で外出しようとした春市は、思いがけない兄の申し出に驚く。
先だっての2・3年生対1年生の試合、春市の握る木製バットを見るに見かねて、兄として責任を感じたのか。
促されるまま一緒にバスに乗り、学校から最も近い便利な店を教わる。
小学生の頃は、もっと頻繁に二人で出かけたけれど。
春市がリトルシニアに上がった頃から、もうずっと亮介は先に、遠い場所に行ってしまったような気がする。
並んで歩きながら、春市は伸ばした前髪の間から何度も兄の顔を見た。
正月に会った時より若干成長して見えるし、大人びた顔に近づいたと思える。
自分と同様に小柄な兄は、童顔に見えることも手伝って一見、親しみ易いムードをかもし出すが
その温厚そうな表情からは想像がつかないほど、人一倍激しい闘志を持った負けず嫌いな男だった。
いつも穏やかな微笑みは、どこか得意げに見える。
並々ならぬ努力と、あふれる才能によって裏打ちされた実力からくる自信のせいなのか。
「春市・・・、これも買っておけば?」
「うん。・・・って、コレ・・・、いくらすんの?」
勧められるままに手に取って買い物かごに放り投げるが、先ほど取り寄せを依頼したバットを始め、
かごの中のもの殆どが、今までと比べものにならないくらい高額な出費になりそうだ。
兄弟二人そろって少年野球に打ち込み、兄を追いかけて同じ私学に入学してからも
本格的に高校野球に打ち込む3年間。親のすねをかじる身で、両親には感謝の言葉が尽きない。
しかし、いつからか兄の亮介は自分の使ったものを「お古」として弟に譲ることは、一切しなくなった。
「しょうがないよ。オレ達は出費のこと考えるより、上を目指して頑張るしかないじゃん」
正月に自分の進学先の決意を伝えた時ですら、亮介は“お前の決めたことにオレは何も言うつもり無いよ”
と、それ以外何も言わなかった。
最初の1年でレギュラーを勝ち取らなければ、高校野球の公式戦で兄と戦えるチャンスは無い。
反対されるかと思ったが、自分が兄と同じ場所に入って競い合うことは許されたのだと思った。
常に、自分にも他人にも厳しい亮介。
亮介の言う“上を目指して頑張る”とは、すなわちレギュラーとして自分のポジションを譲らず、かつ
守備や打率の数字に徹底してこだわり、チームで公式戦を勝ち上がって優勝をつかむこと。
その先には、もしやプロのアスリートとしての視野を意識しているのだろうか。
そんな結果を示すことで両親を納得させ、安心させるつもりだろうか。
亮介の目指す高みは、今の自分にはとても実感できない。
もっと時間の許す限り、こうして一緒に語りながら歩めたらいいのに。
どうして兄貴は、こんなにも先へ先へと自分を置いて行ってしまうんだろう。
「昼メシ、食ってこうか・・・」
「! ・・・イイの?」
二人で一緒に外食するのも、すごく久しぶりに思える。
思いがけない事ばかりで嬉しくて、日頃のきつい練習の疲労が一気に吹き飛んだ。
スポーツ用品店を出て五月晴れの空の下、駅前に続く街路樹に沿って二人とも大股で歩き出す。
学校へ戻ればお互い寮室の離れた場所で、それぞれの生活が再び忙しく回り始める毎日。
それまでの短い、滅多にない“兄弟水入らず”のひととき。
こうして接してくれていると、何があっても兄弟の絆だけは永遠だと春市は思えた。
―Part2:ライバル―
それにしても、降谷暁には驚かされる。
春市は観客席に腰掛け、前方のダイヤモンドに響き渡るざわめきの中を
いたって無表情のままマウンドに向かって歩く降谷の姿を凝視する。
「すごい・・・ 本当に出てきた」
関東大会、1回戦。神奈川の強豪、横浜港北学園との8回表の場面で、満を持しての投手の交代劇だった。
“エースの丹波先輩が続けて4失点なのに、2年生の川上先輩を差し置いての登板かぁ”
隣の沢村は声も出せずに固まっている。怒りの形相はすさまじい。
“降谷君、いつもマイペースな感じだけど、こんな場面でも落ち着いてんだよね・・・”
よどみない投球リズム。迷いなく、鋭い視線。気合いのこもった表情。
その長身と筋力は、弓に矢をつがえて引き絞る戦場の射手。
狙いを定め、ためた腕がしなる。降谷は次の回もきれいなフォームで、豪快なストレートを立て続けに放った。
6連続三振。場内のどよめきが止まらない。
“やってくれちゃうな・・・!”
ピッチャーはゲームの主役になる大場面がめぐってくるよね。でも、オレだって・・・!
がぜん闘志が湧いてくる。
同じ1年生とは思えない体格とパワーだが、攻撃力に関しては少しも劣っている気はしなかった。
誰よりも先に一軍に上がり、速攻でこんな働きをする降谷には、投手としての力量が備わっていたと言うことだろう。
むしろ春市は自分の日々の研さんと、持ち前のプレーセンスで、降谷に匹敵する戦力を誇示したい。
焦らなくてもチャンスは来る。その瞬間を思って熱く闘志を燃やした。
小柄で目立たなく、大人しそうに見える春市の燃えさかる胸中は、その場の誰も気が付かなかった。
――――――――――
6月の1週目。1時限目の授業が始まる前の教室。
春市は、“ゾノさん”からの情報をクラスメートでもある降谷に伝えておこうと席を立つ。
「今日は沢村君のクラス、体育かな?来ないと静かだね」
そう切り出して自席に腰掛けたままの降谷に話しかけるが。
「そう?・・・」、とだけ返された。毎度のことだが、会話のキャッチボールはさっぱり弾まない。
先月、帝東との練習試合で爪を割ってしまった降谷は、しばらく投球を禁じられ自分たちと同じ練習
メニューに交じって日々悶々とこなしていた。
そのせいか誰が見ても不機嫌そうに見えるこの男に、この同じクラスにいる野球部員の春市以外は
話しかけるのをずっと避けている。情報は一方通行どころか、停滞気味だった。
次に行われる練習試合の働きで、最後の一軍昇格枠が埋まってしまう。
降谷には差して興味のないことだろう。実際、眠たげな表情に何ら変化は見られない。
しかし、春市の闘志は、身近なライバルとして降谷を意識しながら轟々と燃えさかっていた。
――1年生でたった一人先に行かれんの、黙って見てるだけのオレじゃない――
この気持ちは誰にも伝わってないかもしれない。
でも、構わない。
今度の試合は、自分の実力を発揮するチャンスだし、その結果をモノにして降谷の横に並んでみせる。
抜き身のナイフのように光る瞳で降谷を見つめ、自席に戻った。
窓際に座る降谷の背中。
バランスの取れた長身で、一人だけ飛び出て身体能力の高い1年生。
兄の忠告の中でも、今まで最も重きを置いてきた、“他人を羨んだって、何の得にもならない”――。
青道高校に入学し、みんなと共同生活を送るにつけ、他人を羨むなんて断固あり得ない。
上手にスイッチを切り替えられる。自分だけに向き合って、自分のペースをつかんで取り戻せる。
だから納得のいく結果を得られる。
うとうとして、ついにガックリと頭を垂れた降谷の背中を見つめ、四六時中マイペースな奴だと思った。
“また寝ちゃってるよ・・・”
周りの人間を過敏に意識し、人の言動に敏感な沢村とはまるで正反対だ。
しかし、こうして寝こけていても、降谷の背中には何かしらの強い主張が感じられる。
そしてなぜか、一分のスキも無いように張り詰めて見えた。
――――――――――
黒士館との試合を明日に控えた土曜日の夜、いつもの苦しい夕飯をすませ寮の自室でのひととき。
TVの画面を見ながら、同室の2年生・前園健太が何度も「うまそうやなー」とつぶやいていた。
「ゾノさん、何がですか?」
机に向かって授業の課題をやっつけていた春市は振り向いて声をかける。
「春、コレ、見てみいなー」
手招きする先の画面にはローカルグルメの特番で、いかにもな美食を出す店が映っている。
お洒落なデートスポットでもあるその場所で、お笑いタレントのクイズの対象になる飲食店。
「うわ・・・、美味そー・・・」
春市も画面をのぞき込んで同意する。
正直、重い夕飯を無理矢理平らげた後で、もはや何を見ても美味しそうに見えないのだが。
気のおけない、気さくな先輩の前園にはつい調子を合わせてしまう。
特に2年生の先輩とは、これから長いつきあいになる。良好な人間関係の維持が望ましい。
関西出身の前園は画面から視線を春市に移す。
「なあ、春も、実家は神奈川やってん。お前、こないなトコぎょうさん知っとるか?」
前園が言わんとすることは、あまりにお洒落なデートスポットで、ひょっとしたら春市は地元でカノジョと
こんな場所に出かけたりすることが有るのか、という事だった。
「オレ、野球漬けの毎日だったから(今もそうだけど)、こういうトコ1回も行ったこと無いないですよ」
これは本音だった。
前園はニヤっと笑って、ハハハっと気分良さそうに春市の膝を叩く。
画面は切り替わり、横浜の名所が映る。
「横浜駅の周辺は昔から知ってるけど、・・・そういや中華街もずーっと行ってないなぁ」
「中華街か、神戸にも中華街があるさけ、オレもなんべんか行ったことはあるけどな」
二人は共通の話題で盛り上がり、明日の試合のことをしばし頭から追い出した。
そしてその夜、春市は布団にもぐって長い夢をみた。
楽しい気分で人混みを上手にかきわけて歩く自分。夢の中で春市は幼い子供だった。
左手の先に手をつないで歩いてくれる兄の亮介がいる。
それだけで、頼もしくて嬉しくて、はしゃいでしまう幼い自分。何年前の記憶なんだろう――。
「ハルイチ、こっちきて見よう!」
遠くに川面のきらめきが見える小高い斜面に並んで座り、河川敷の練習用グラウンドでくり広げられる
少年野球の賑わいに見とれる。
近所の“お兄ちゃん”達が、亮介と春市に向かって手を振ってくれた。
「ハルイチも一緒にヤキュウやる?」 となりで亮介が笑っている。
「うん、やりたい!」
亮介はいつも楽しいことを教えてくれる。だからずっと一緒に遊びたい。
一緒に遊べるなら、ヤキュウもきっと楽しいに違いない。一緒に遊んで、疲れて眠り、目が覚めると
そこには亮介がいてくれる。春市にとって両親よりも存在の大きい、亮介との日々。
つないでくれる手は、離したくない。
夢の終わりはいつも幸せで、くすぐったい思い出があふれている。
成長して兄離れしたつもりの自分を自嘲するような・・・。
“また兄貴が夢に出てきたかな?”
目が覚め、夢の内容を思い出そうとしてみたが、すぐ諦めた。今日は速攻で真剣モードへと気持ちを切り替える。
寮室を誰よりも早く出て洗面所へ向かう。上々の好天気になりそうだ。
―Part3:借り―
朝練を一通り済ませると、エネルギーを蓄える為それぞれが食堂へと足を運ぶ。
今朝の献立が何なのか、掲示板に張り出されたそれを1年生たちは敢えて見ようとはしない。
寮の食事は部員達にとって義務であり、その摂取カロリーの数値はノルマなのだ。
「コレか・・・! うぉぉぉぉ、朝っぱら、コレなのか・・・っ!」
トレイを持って前を進む沢村栄純の振り向き顔に、春市はつられて食欲が失せてしまう。
今までも“朝っぱら、コレ”って・・・あったじゃん。だけど確かに、朝からキツイよね・・・。
トレイの皿の上には、苦手な鯵(アジ)フライが2枚も乗っていた。
慢性的な筋肉の疲労が、内臓にも蓄積している気がする。
“腹が減っている”信号を脳は感知しているけど、食欲がわかない。
沢村と並んでテーブルに着くと、降谷が当たり前のように向かい側に腰掛けた。
頂きますとつぶやいて、春市は降谷の食べ始めるタイミングより早く箸を動かす。
降谷は、食欲旺盛なのか、食べ物の好き嫌いが無いのか、もくもくと箸を動かして平らげていく。
本来、朝食のおかずに揚げ物が並ぶことの少ない小湊家の食卓から見れば、青魚系の鯵は
味も香りも濃く、フライとなっては今の自分には正直見るのもイヤだった。
夕飯に出たときも少々うんざりしたが、揚げるのに使われている業務用の天ぷら油は
朝に求めたい味覚と嗅覚からは、遠くかけ離れている風味だ。
「はぁ・・・」
「どうするよ〜、コレ・・・」
沢村も最後のおかずに鯵フライを手つかずのまま残している。
ときおり2年生の鋭い視線が、包囲した1年生に巡回のサーチライトのように向けられる。
皿に残して立ち上がるのは到底不可能なミッションだ。
青道の野球部に“苦手な献立”のいいわけは通用するはずもない。かつて苦しんで平らげてきた
2年生たちは、今ここで1年生の苦しみを眺め、監視することで日々のストレスの発散に置き換えている。
その証拠に、降谷の隣に座る御幸一也ときたら実に機嫌良く、「おサカナってカラダにイイよなー♪」と、
沢村と春市を指さして席を立ち去った。「やっぱDHAだねっ♪」と、捨て台詞を残して。
「ぐぐっ・・あのヤロ・・・っ!」
怒りに任せて箸をぐっさりと鯵フライに突き立てる沢村。
勢いをつけてガブリといきたいところだが、最後に回した分、よけいに腹が張ってきて苦しい。
鯵フライはとうに冷めて、レベルの落ちた香りが益々受け付けがたい。
「これ、使う?」
降谷がポケットから何か取り出して、ゴンッと二人の前に置いた。
「えっ?・・・ナニコレ?降谷君・・・」
思わず問いかけたものの・・・誰が見ても、それは瓶入りドレッシングだった。
“ノンオイル青じそドレッシング”と、丸々日本語で読めるポピュラーなしろものだ。
「おっ、おお〜〜〜〜〜っ!!コイツはぁ〜〜っ!!」
すかさず沢村は箸を置き、ドレッシングの瓶をがっしり掴む。フタを開けて、どばどば〜と遠慮なく
鯵フライに回しかける。そう言えば、二人ともソースをかける気すら失せていた。
しその香りが辺り一面に広がり、油っこい鯵フライの匂いを打ち消していく。
「あっ!オレも使っていい?」
春市は、コレなら食えっかもしんね〜と、つぶやいて口に運ぶ沢村に習って、瓶を手に取る。
「好きなだけ使えば」
降谷は、もはや最後となったおかずのポテトサラダを口にし、味噌汁椀を手にした。一瞬、目が合う。
しその香りと、さっぱりした酸味が助かる。白飯の茶碗を持ち、鯵フライの皿と交互に箸を運ぶ。
いつものウスターソースよりは格段に違う風味に、新鮮な気分で口に運べる。
「うん、青じそはイイかもね・・・」 何とか食べきれそうだ。
「お前、どーしたんだよ、コレ・・・」 沢村は口をもぐもぐ動かして、ドレッシングと降谷を交互に見る。
「コンビニで売ってた・・・」 長い指で汁椀をつかみ、しれっと答えながら味噌汁をすする降谷。
「ふーん、ありがとう」
フタをきっちり閉めたか一度確認して、春市はドレッシングを降谷に返す。
いつも通り、無表情で無愛想に見える降谷。ときおり一人でふらっと出かけては、消耗品や嗜好品など
買い込んで寮へ戻ってくる。ふだん、淡泊な性格のこの男に、こんな親切心があったとは。
こんな風に工夫したり、変化をつけて乗り切るのは自分の得意とする分野なのに・・・。
降谷には思いの外、一歩二歩、先へと行かれている気がする。些細なことだけど、ちょっと悔しい。
“やっぱ、負けたくないなー” 内心、いつもどこかで降谷を意識してしまう。
長い指で正しい箸の持ち方をして味噌汁をかき込む降谷を見ると、利き手の爪がきれいに整えてあった。
「あ、爪、治ったんだ・・・」 春市は小声で降谷にささやく。
「うん」
そっけない返事だが、声のトーンは高い。降谷が上機嫌であることに、春市はやっと気が付いた。
“どうりで、ね・・・”
機嫌の良い降谷に、今日は心のゆとりが生まれたのか。
それなら春市は、再び自分のペースを維持しようと、内なる自分へ向き合う。
この感情コントロールが今日も上手くいったおかげで、春市は自分の才能を充分に引き出して
試合にのぞむことが出来た。
夕刻――。
部員全員が集められた屋内練習場に、強い緊張が走る。
自分の周りの張り詰めた空気をそれぞれが、複雑な思いで感じ取っていた。
春市も胸の高鳴りが止められない。
すぐそばの前列に並ぶ、兄の後ろ姿。その背中が、何か言いたげに見える。
“兄貴と同じ高さに登る階段が、もうすぐここに用意される――!”
自分はその階段に足をつけることが出来るのだろうか。
監督の片岡が姿を現した。自分の心臓の鼓動が痛いくらい響く。
一軍に昇格した“合格者”の名前が二つ述べられ、一気に全身の血液が沸点に達した。
体中を誇らしい達成感が駆けめぐる。
“兄貴・・・!オレ、今この階段を上がっちゃうよ?”
“兄貴と同じ舞台に上がっちゃうよ・・・?” “ねぇ、どう思ってるの・・・?”
穴があくほど亮介の背中を見つめた。兄の背中も、全くスキが無い。
部員たちそれぞれが緊張の糸を解かれ、体中の筋肉が弛緩していくのを感じた。
解散を告げられたが、2年生の同室者がうなだれたままで立っている。
“ゾノさん・・・!”
今まで自分の面倒を見てくれ、惜しみない親切を与えてくれた先輩を差し置いて、その希望をうばった。
幸運のカードが回って来たと、素直には喜べない。
でも今、手にしたこのカードは絶対に誰にも譲りたくない。
これから熾烈なレギュラー争いと、過酷な一軍メンバーの練習スケジュールが待っている。
その夜は遅くまで、部屋の誰もが寝つけないのが分かった。
暗闇に横たわったまま、寝息をたてる者は誰もいない。
春市は布団をかけて仰向けになったまま、右手で軟式球を繰り返し握っていた。
強い緊張や不安がある夜は、これをやっていると妙に落ち着いてくる。
ボール表面の凹凸を指先でなぞりながら、同じパターンの思考を巡らせる。得意のイメージトレーニングだ。
一つ先の、自分の呼吸を読む。
一番理想とするモーションを頭に浮かべて、次の行動はそれを実行にうつす。
飛んでくる白球の芯が見える。回転の力の中心となる芯が。
自分の振るバット、開いたグラブは、その芯をジャストミート出来る。呼吸は乱れない。
体の重心は低く、安定している。腰をひねったタメ。・・・全てのリズムが完璧だ。・・・大丈夫。
春市は、浅い眠りの中で夢をみては覚醒し、それを繰り返した。
―Part4:再び借り―
雨の降る早朝、前園が屋内練習場に行くと言う。
朝トレなら自分もつき合いますと、春市は後ろからくっついて歩く。
気持ちの切り替えが出来て、前向きで、不屈の根性の持ち主であるこの先輩に、尊敬の気持ちは大きい。
“ゾノさんと同室で、ほんと良かった・・・”
シューズを履き替えて練習場に入ると、3年生の滝川クリスと、2年生の御幸がそこに並んでいて驚いた。
朝の挨拶をにこやかに受けてくれる。
“クリス先輩、笑ってる・・・!?”
御幸を前にして喋り続けるクリスを見ながら、この二人ってこんなに仲良かったんだ・・・と、重ねて驚く。
“しかも御幸先輩のこんな顔、見たこと無いけど・・・”
まだ入部して日も浅いが、いつも自信たっぷりに白い歯を見せてニヤけている御幸の、はにかんだ微笑。
大人しく相づちを打ち、背すじが伸びていて姿勢がいい。
そして切なげに眉を下げ、やや細めた眩しそうな目でクリスをじっと見つめている。
やがてクリスの右手が御幸の肩に置かれ、ぽんぽんと二の腕を叩いてから二人の会話の終了となった。
じっと黙ったまま立ちつくす御幸。
クリスの後ろ姿を目で追っている。
“御幸先輩、すごく下手に出てるな・・・”
主人に忠実な狩猟犬のように見えた。
もしかすると一軍に戻ることの叶わなかった先輩捕手から、反対に激励を受け、心が乱れているんだろうか?
御幸が春市に視線を向け、今からセットプレーの練習やるぞと告げた。
強いライトの下で、いつもの自信に満ちた得意げな笑みが戻っている。眼鏡の奥の目が少し赤い。
御幸の複雑な心境は、春市には到底理解できなかっただろう。
やがて降谷と沢村が呼ばれて来て、増子と倉持も加わった練習場は、一気に賑やかな空気になった。
――――――――――
そうか・・・。“去年の今頃、御幸先輩にも、今のオレ達と同じような時期があったんだ”と、春市は考える。
それにしても天才捕手と名高い、有名人だった御幸が、なぜ青道を選んだんだろう?
色んな名門校から誘われたらしいが、去年の青道にはどんな魅力があったのか。
より高いレベルの高校や指導者を選べたはずで、地元の東地区に実力のある投手だって多かったのに。
食堂で朝ご飯を食べながら、春市は降谷の向こうに座る御幸を見る。
兄からの忠告の一つ、“他人の詮索はするな”は、特に厳しい。とても御幸には訊けそうもない疑問だ。
春市は考え事が混み入ってくると、食べる物の順序が狂ってしまう。
白飯を立て続けに口に運び、無意識に小鉢の酢の物をかき込んでしまった。
“うあー 酸っぱ・・・!!” のどの奥がギシギシ鳴るようなエグさだった。
横隔膜がびっくりしたのか、胃がびっくりしたのか、腹の中で何か痙攣(ケイレン)して気持ち悪くなる。
歯を磨いて授業に出る身仕度を整えるが、梅雨のせいか、ワイシャツもネクタイも湿っぽく不快だった。
「・・・ひくっ!」
ついてない。こんな時間なのに、しゃっくりが出てきた。
「っく!」
数秒間、息を止めてガマンしてみようとしたが、より大きなしゃっくりが出てしまった。
息苦しさを紛らわそうと、ミント系のきついガムを取り出して噛み始める。気持ちは紛らわせる事が出来た。
そのうち止まるだろう。
しかし教室に入ってから、なおも一定間隔でしゃっくりは出てくる。
「あれ?しゃっくり出てるぞ」 沢村がやって来て、春市の席の前で頭をかき始める。
うーん・・・と呻った後、いきなり春市の耳元に口を近づけて、「わっ!!」と怒鳴った。
「ど?」
しゃっくりは止まったのかと尋ねたのだった。
「えいじゅんく〜ん・・・」
周囲の視線が痛々しい。しゃっくりが出ていることをクラスの何人かに気づかれてしまった。
しかも、まだ止まらない。
「栄純君、ふだん地声が高いから、別に驚かないなぁ・・・」 (・・・いつもテンション高いしさ・・・)
前方に座る降谷が、ななめに腰掛けて頬杖を突いたまま、こちらを見ている。視線が合った。
「・・・ほっとけば、そのうち止まるんじゃない?」 眠そうに言い放つ。
何だか急に恥ずかしくなって、春市は自分の顔が紅くなるのを感じた。今どき、しゃっくりが止まらないで
困ってるなんて、幼い子供みたいだ。長身の降谷に、ガキ扱いされたような気になる。
いつもクールぶって・・・。こんな時、ことさらマイペースで飄々とした降谷の態度が鼻についてしまう。
同じチームメイトなのに。我が身の心の狭さを意識して、今度は落ち込みそうになる。
「冷たいもんイッキ飲みすると止まるって、じーちゃん言ってた」
沢村は次なる手段を実行しようとしたが、始業の本鈴が鳴る。春市に「後でなんか買ってくっけど・・・」
と告げて、自分のクラスへと戻って行った。1時限目の間中、春市は止まらないしゃっくりに悩まされる。
誰がその災難に見舞われているのか、時々後ろを気にして振り向く者がいるが、降谷だけは一度も
振り返ろうとはしない。その視線は珍しく、黒板とノートの間を行ったり来たりしている。
春市の左右に座る者たちは日頃親しく会話を交わす仲なので、平静なまま見知らぬふりをしてくれる。
“こんなに止まらないしゃっくりなんて、初めてだよ・・・” ため息が出た。
息苦しい1時限目の授業を終え、席を立って廊下に出ると沢村と鉢合わせた。
まだ止みそうもないしゃっくりに、二人連れだって飲み物の自販機の前に立つ。
春市は冷たいコーヒーのボタンを押した。沢村までイッキ飲みにつき合ってくれる態度が嬉しい。
二人仲良くカップを手にして、同時に喉に流し込む。
「あー、やっと止まった・・・!」
ほーっと、ため息をついた途端、短い静寂を破り、またも憎い音がノドから出てしまう。
がっかりする沢村。春市は軽い衝撃を覚えた。
一体、自分の身に何が起こったのか・・・。だんだん不安になってくる。オレ、大丈夫かな?
「まだ止まらないよ、困ったな・・・」
しかし心配そうな顔をした沢村に対し、あえて笑顔をつくり、「ちぇっ。こうなったら記録更新かな?」と
ふざけた態度を見せる。不安を隠そうと沢村に「次の授業、うちのクラス、移動だから」と告げ、
また後で・・・と、手を振って別れた。
教室に戻り、教科書とペンケースなどを片手に廊下に出る。
出来るだけ小さな音で、みんなの後を歩く。
“オレ、朝から何か変なのかな・・・?”
自問しても、しゃっくりの疲れでイライラして思考がまとまらない。
順風だった昨日までを振り返る。けっこう、思い通りにやってこれたんだけどね。
同室の先輩たちとも上手にやってこれたし、友達も出来た。人間関係は良好で、衝突は無い。
部活を一度も休まず、ケガもせず、納得のいく結果を出してこれたし。
念願叶って兄貴と同じ場所へ、同じ一軍のメンバーに加われた。
まだ何も不安は無い。不安の無いことが、不安なんだろうか。・・・むつかしいな。
疑問の糸口をさぐってみたが、手応えが無い。むっつりした顔で歩き続ける。
“オレって、こんなにメンタルの弱い人間だっけ?兄貴が振り向いてくれないって思ってる?”
“だって兄貴は、自分にも他人にも厳しい。オレにだって甘い顔はしない”
しゃっくりが出る度に、この災難をどう克服しようかと焦る。兄の亮介だったら、どうするだろう。
つかまえて訊いてみたい。兄の口から、答えが欲しい。
ふいに、ななめ後ろに人の気配を感じた。
そして春市は、背中に電流が走ったような衝撃を受ける。
「――あ゛っっ・・・!!!」
心臓が止まりそうになるほど突然の出来事だった。
首下から背中を一気に、人差し指でツツーっと撫でられたのだ。
不意を突かれて、自分の手の届かない場所をくすぐられた感触に耐え難く、全身に悪寒が走った。
さっきの自分の声、誰かに聞かれた? 動揺する春市。ペンケースを廊下に落としていた。
いやそれより、一体誰がこんなイタズラを・・・
「ふっ・・るや・・・くん・・」
振り向くと、いつの間にか降谷が自分の後ろを歩いていた。
ペンケースを拾って手渡してくれる。全然気が付かなかった。
自分が一番最後だと思って歩いていたのに。
「あ、ゴメン。ビックリさせ過ぎた?」
そう言うものの、いたって悪気なしの表情ですたすた歩き始める。春市も足早に後を追う。
「うわーもぉー、ビックリしたよー・・・」
イヤな汗が流れる。しだいに顔が紅潮してきた。
背後から不意を突いて驚かされたショックに腹が立ってくる。変な声、出ちゃったじゃん。
「だって、背中、スキだらけなんだもん」
「・・・スキ?」
そういう自分はどーなんだよ?・・・突っ込みたかったが降谷の背中には、なぜだかスキが無い。
同じことをやり返してやろうと思ったが、今は視線のガードが堅い。悔しい。
「降谷君てば、本当にいっつもマイペースだよ・・・」 全身の力が抜けてきた。
「そうかな・・・」
「・・・そうだよ」
並んで歩く降谷を見上げ、「マイペースだって人から言われたコト、無い?」と、突っ込んでみる。
一瞬、春市を見下ろした降谷は、つーんと横を向いて無言のまま歩く。
「あ、スルーしたよ・・・」 更に突っ込む春市。
「せっかく人が・・・」 唇を尖らせる降谷。
何かぶつくさ言ってるし・・・。汗が引いて、気持ちが落ち着いてきた。 ま、いっか。
流石にしゃっくりは止まったので、呼吸と気持ちがラクになってきた。でも礼を言うのは、なんかやだ。
心の片隅では感謝しつつ、ライバルにこれで借りが二つ出来ちゃったと思う。
その後沢村に、しゃっくり止まったかと訊かれ、“おかげさんで”と、ニンマリ笑った。
雨上がりの空から射す光が空気のプリズムを透過し、午後のグラウンドに美しい虹をつくっていた。
―――END―――