透明な・・
 
 
宇宙船の事故自体はそれほど珍しいことではない。だが避難用のカプセル(一人用宇宙船)の睡眠装置の機能が作動しないというのは、今まで聞いたことがなかった。本来ならカプセルの非常信号を受けて母星の救助隊が助けに来るまで何年でもぐっすり眠って過ごせるはずが、この時私は意識があり五感も僅かに働いていた。ただ他の装置は正常に働いているとみえて新陳代謝は極端に落ち込み、体を動かすこともできないし空腹を感じることもなかった。
 私は長い間宇宙空間を彷徨っていた。昼も夜もなく覚醒と睡眠の区別もつかない私には、あの事故からいったいどれほどの時間が経ったのか、分からなくなっていた。闇と静寂の宇宙空間で救助を待つだけの時間は、ジリジリと私の心を蝕み、待つことの期待を絶望に変えていった。
 そしていつか私にとって死は間近に感じられるようになった。それだけが自分に残されたただ一つの道なのだと、ぼんやりとした意識の中で感じていた。
 きっと救助は間に合わない。母星に自分を待っている人が居るわけでもない、宇宙士としての腕も平凡なものだ。事故のためのはるかな距離を、こんな自分一人のために膨大な時間と資金や人を使って助けにくる理由がどこにあるのだろう、きっとこのままこの宇宙の片隅で、干からびた死体となって彷徨い続けるに違いない、そんなことを繰り返し思っていた。
 しかし装置の作用が確実だったのだろう、死はなかなか訪れなかった。
 意識は考えるでもなく何かを考えている。宇宙船での乗組員とのやりとりや事故に遭遇した瞬間のこと。人々の逃げまどう姿、叫び声・・ 繰り返し思い出すたびもうどれが実際にあったことなのかわからなくなっている。
 カプセル内に横になり、ちょうど目の所にわずかに設けられた覗き窓から望む遠い恒星の光だけが唯一の変化だったが、それもまた緩慢だった。
 そして意識は次第に考えることをやめ、襲いくる孤独と寂寥感に涙を流すこともできず、私はただ漂っていた。死の訪れを待って、待って待って・・
 
 そしてそれが訪れた。
 私の耳に何かが聞こえたのだ。
 私は目を開けた。唯一可能な体の動きである瞬きを私は何度か繰り返した。
「なんだ?今、確かに何かが聞こえた気がしたが。」
あえて声にならない言葉で自分に問うてみる。
自分の意識のリフレインではない。幻聴なら何度も聞いたが、それでもない気がする。
 私は耳を澄まし、その音を確かめるべく全神経を集中した。
 それはまた聞こえた。小さなカプセルの壁からか、あるいは外の宇宙空間からか、微かではあるが、確かに音が聞こえてくる。目の前の計器はピクリとも反応しないが、今まで耳にしたことのない、不思議な心地よい音が私の意識に響いてきた。
「なんだろう、この音は。何かの声のようだが・・」
 そう、まさにそれは声だった。音に感情が宿っている。私の母国語よりやや低音で、音にたくさんの種類があり、強弱があって高低があった。その声が私に向かって何かをささやいている。低く高く穏やかに激しく・・
 初めはごく低い声だったが、それが次第に大きくなるにつれ、私の意識がだんだんはっきりしてきた。言葉としては意味の成さない声だが、強く胸に響いてくるのだ。気持ちが揺り動かされるのだ。
 そしてその音が一定の大きさに安定する頃、私は確信した。それは唄だった。だれかが唄を唄っているのだ!
 驚きも疑問もすべて棚上げして、私はその声に聞入った。その歌声は私の干からびた心に染みわたっていった。
 私は母星の共通言語以外で歌われる地方の唄が好きだった。唄の内容が分からなくても、唄う人の感情は伝わってくる、それを思い出した。この唄は確かに感情を持っている。まったく聞いたことのない発音だが、その歌い手の気持ちが私に語りかけてくる想いが、私には分かった。
 目の前に死しかなくて、何を考えても虚しいだけだと思っていた私に、また感情が甦ってきた。硬直した心が柔らかくなって、唄を受け止めようとしている。その唄に自分の心が揺り動かされることで、実は私はちゃんとここで生きているのだということに、改めて気がついた。
 歌い手も言葉もわからない、その不思議な旋律の唄を、私は体中で聞いた。動かない手も肩も足も、リズムを追っているようだ。テンポの早い唄には、瞼の動きで合わせた。緩やかな唄には、目を閉じて聞入った。
 唄はさまざまな気持ちを甦らせた。その一つ一つがすべて元々私の中にあった感情だと気がついた時、私は現実を直視しようと思った。
 実は私はかなり参っていたのだ。この状況は気に入らなかったし、しかし、私は生きている。そしてここから逃れる術を知らない。
 それでもこの唄がある。私の意識に直接響き、私の感情を揺さぶり続ける、この唄がある。
 私は長い間その唄に聞き入っていた。唄は、暖かく、切なく、悲しく、安らかに私に語りかけた。意味も分からない言葉に気持ちが溶かされ胸が熱くなり、今、どうして涙の機能が凍っているのか悔しくなった。もし泣けるなら、声が出せるなら、大声で泣くだろうと思った。
 ずっと私はその唄を感じ続けた。そしてついに耐えられなくなった。唄に呼び起こされたたくさんの想いが胸の中で溢れてきて、もう抑えようがなくなってしまったのだ。
 人恋しかった。母星の暮らしに戻りたかった。胸の中でどんどん膨らんでくる寂寥感と、そのことを独り言でさえ言えない今の苦しい状況が、むしろ唄で増幅されたようだった。
 
私は意識を集中した。その唄の主に自分の心を伝えたいと思った。このままではかえって辛い。自分の中で嵐のように渦巻いているこの感情をどうごまかしていいのかわからないから。
 目を閉じ、唄も聞こえないくらいに思いだけを凝縮し、私は心で強く念じた。
「だれ?あなたは
誰ですか? 何故、私に唄が聞こえるのですか?」
 もちろん返事があるとは思っていなかった。そう念じたところで、小さな声ひとつ出るわけではない。
 しかしその唄がふっつりと止むと、声が私の問いに答えた。
「○○○○」
意味は分からなかった。だがそれが私に応えたものだということははっきりと分かった。その短い、唄ではない声に、驚きと喜びの感情が表現されていたからだ。
「私の気持ちが届くのですか!?」
その時の驚き!
「聞いてください! 私は寂しい、一人で宇宙を彷徨っている。とても寂しい。お願い、もっと話してください。」
私は畳み掛けるように意識を集中し、唄の主に念じた。
 声がまた何かを答えた。言葉としてはまったく理解できないが、暖かく力強い感情で私は包み込まれたような気がした。
『わかっている、辛いでしょう。もう少し頑張って』
そう言っているようだった。
「唄を聴かせてください。あなたの唄をもっと聴かせてください。」
私はその声が消えてしまわないように、一心に願った。
 また唄が繰り返された。私の希望を叶えるために、誰かが唄を唄ってくれている。
 唄にはたくさん励まされた。でも自分の呼びかけに反応があったことの嬉しさは、その比ではない。
 いつ死ぬかもわからない立場の自分が、急に力強い勇者になった気がした。今、私は宇宙の漂流者ではなく、その唄の享受者だ。
 私の為のその快い唄声に包まれながら、私はまた様々な記憶を蘇らせた。
 子供の頃の生まれ故郷の大地を走る風と草の匂い、宇宙に飛び立つ訓練をしていた頃の青く若い日々、甘くて苦かった恋、初めて宇宙に飛び立った日の宇宙空間への畏怖と感動・・ 
 唄は大人になってからとうに忘れていたそんなことさえも思い出させ、私は切なくて大声で泣きたくなった。
 目の前の窓から見える圧倒的な暗黒の宇宙の中で、今、私は確かに生きていた。
 唄に身をゆだねながら、これまでだって決して一人ではなかった。そして今の私にはこの唄がある。このまま死んでしまっても、私のこれまでの人生もそんなに捨てたものじゃなかったと、そんなことさえ思った。
 唄を求め、唄に酔いながら、合間に私は意思を念じた。
「私の言葉がわかるなら、私の言葉で教えてください。あなたは誰?なぜ私にあなたの唄が聴こえるのですか?」
 
答えられた声の意味が分かるわけではない。でも私の意思への反応が何よりも嬉しかった。
 長い時間を掛け、私たちは感情の応酬を行った。私は声で発音することができなかったし、私の耳に届くその声も言葉としては成り立たない。しかし気持ちを念じることで徐々にではあるが、意思の疎通ができるようになってきた。
 そしてやがてその声は「れ・り・す」と発音した。
「レリス?それがあなたなのですか?」
「れ・り・す ワタシ れ・り・す」
「レリス、ありがとう、ありがとう。あなたのおかげで、私は生きています。」
 『レリス』というこの存在。私を生かしてくれる命。
 その名前を知ったことで、唄は一層身近になった。
 「レリス、あなたはどこですか?何故あなたの唄が私に聞こえますか?」
 「あなたは誰ですか?教えてください。」
 時折挟み込まれる私の質問と、答にならないレリスの声を聞きながら、唄は繰り返された。
 そしてまた長い時間が過ぎていった。私を励まし気力を高めてくれようとする意志は強く感じたが、会話は難しかった。
 それにレリス自身にも私の質問の答えがわからないようだった。
 まずレリスの住む星の位置と私が漂流している位置の距離が互いにわからない。もしこの付近の宇宙空間にリアルタイムで交信できるような文明があれば、私はとっくに助け出されているはずなのだが、カプセルの計器にはなんの反応も表れなかった。
 レリスがどうやって私を見つけ、唄を聞かせてくれる気になったのか、それも分からない。二つの意思が何によって繋がったのか、まったく見当がつかなかった。
 でもそんなとはどうでも良かった。私はレリスの唄を感じ、声を聞くだけでどうしようもないくらいの幸福感を得られたのだから。
 「ガンバレ モウスグ ガンバレ」
レリスは何度もそう伝えてきた。それが感じられると、この絶望的としか言えない状況の中でも、勇気が湧いてくるのが不思議だった。
 唄を一曲聴く毎に、感動と感謝で胸が詰まる。私は何度か
「レリス、あなたに逢いたい、目の前でその唄が聴きたい。」
と念じた。レリスは
「ワカッテル、アナタノ感謝、れりす、嬉シイ。イツカ、時ガ来レバ、キット・・」
そう答えてくれる。
 ・・レリス・・ 
 私は救助を待つだけの身であることさえ忘れ、レリスを全身全霊で感じ続けた。

 そして私は助け出された。レリスの唄がふっつりと聞こえなくなり、恐慌に襲われそうになる直前、カプセルの覚醒装置が赤い光を点滅し異様な信号音を立てた。何かの薬品が噴射されたのか、空気の味も変わった。
 直後、覗き穴の彼方に見覚えのある形の宇宙船が見えたと思ったら、それはあっという間に私のカプセルを救助船の底の穴から内部に吸い込んだ。
 私はカプセルに駆け寄ったたくさんの救助隊から口々に励ます声を掛けられ、担架に乗せられ慌しくその船の個室のベッドに移動させられた。手足を伸ばしても余りある、広いベッドだった。
 顔を高潮させた医師が訪れ、丁寧な言葉遣いで、ゆっくりと事故のことを尋ねた。
 カプセル内で薬品を吸ったせいか、私は多少は動けるし、声も出た。

 医師は、弱々しいかすれ声ではあるが、私が質問に的確に答えられることを確認し笑顔で頷いていたが、異常に痩せてしまった状況が睡眠装置の故障のせいだと分かると、かなり驚いたようすで
難しい顔をしたまま医局に戻っていった。
 これから体力の回復のためのさまざまな措置が施されるのだろう。すべてはマニュアル通りだ。
 救助されたことにもっと感謝しなくてはいけないと思いながら、一人きりになるとついレリスのことを考えてしまう。ベッドの上で、何度も何度もレリスに念じたが、当然答えはなかった。そのことが救助された安堵に増して、寂しかった。
 しばらくベッドから離れることができなかったが、時間と適切な処置のおかげでベッドに起き上がり、そろそろ歩くこともできるようになった頃、医師がこんなことを言ってきた。
「あなたの生還は奇跡です。過去にも何例か睡眠装置の未作動という事故があったようですが、いずれも正常な精神状態で戻った者はいませんでした。」
「そうですか。でも私の場合は、他の装置は正常だったので、飢え死にの恐怖はありませんでした。」
私は無感動に答えた。医師は私の目を見ながら首を振った。
「そんなことではないのです。症例の漂流者達はみな宇宙空間での孤独に耐え切れず、自分の魂を閉じてしまいました。助け出されてもまったく反応が戻らず、治療後もそのままだったと報告されています。」
 それは経験した私が何よりも知っていた。どんな強い人間だってあんな孤独にいつまでも耐えられるわけがない。 
 でも私にはレリスがいた。あの唄があった。私の存在を認識し、励まし、勇気を与えてくれた。
 だから私は心を保つことができたのだと、誰より私自身が知っていたが、そのことを医師に伝える気はなかった。言っても信じてもらえないだろう。別にそれが妄想だと思われてもかまわないのだが、レリスを感じ続けたあの時のことを第三者に理解できるように言葉で伝えることは難しいし、レリスの唄は私の中で他のなによりも大切なものになっている。それを妄想の産物だとか、妄想を崇める狂人だとかいうレッテルを、レリスの為にも貼られたくなかった。
 医師はしばらく私の言葉を待っていたようだが、結局何も言わない私に、職業上の笑顔を浮かべて出て行った。           
                
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