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萱野3丁目の旧西国街道沿いに「萱野三平旧邸長屋門」があります。明治時代に萱野家が転居したため、2棟あった家屋は取り壊されてしまいましたが、三平が切腹したと伝えられる長屋門と土塀の一部は、萱野家と地元の人々の努力により伝え残され、昭和48年に大阪府の史跡に指定されました。 |

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平成3年には箕面市へ寄贈され、市は平成5年に「萱野三平記念館・涓泉亭」を開館し、一般公開を行っています。「涓泉亭」の名称は、三平の俳号が『涓泉(けんせん)』であることから名付けられました。 |
| 俳人涓泉が活躍した元禄時代は「松尾芭蕉」や「井原西鶴」に代表される著名な俳人がその足跡を残しましたが、私たちが住んでいる摂津の地でも俳諧が盛んになり、東の芭蕉、西の鬼貫と称される伊丹の上嶋鬼貫を始め、水田西吟、厚東休計、萱野一族でも三平の叔父の「藤井家房」、従兄弟の「水仙堂蘭風(藤井光貞)」、兄の「萱野紅山(重通)」、義兄の「北河原好昌」等が活躍しました。幼い頃から俳人に囲まれた育った三平は、12歳の時に赤穂へ仕官しました。主君浅野内匠頭の参勤交代に同行し、江戸では、松尾芭蕉と親交が深かった水間沾徳の指導を受けました。討ち入りという勇ましい武士の姿の影に隠れてしまっていますが、赤穂藩士の多くは俳人としても活躍しました。 |

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中でも子葉(大高源五)、竹平(神崎輿五郎)、涓泉の技倆(ぎりょう)は特に優れ、当時の俳諧人の間で広く認めらるようになっていましたが、元禄14年3月14日の「江戸城松廊下」での刃傷事件が、俳人「涓泉」として大成するはずであった三平の運命を変えてしまいました。内匠頭の切腹、お家断絶、赤穂城明け渡しの厳しい幕府の処分を受けた後、仇討ちの時を待つため、萱野の実家へ帰っていた三平を、元禄14年秋、大高源五が訪ねてきました。三平と一緒に、勝尾寺や箕面滝で遊んだ後、桜塚(豊中市)に住む西吟や伊丹の鬼貫のもとを訪れるなど、俳人仲間を訪れているように思えますが、もちろん三平に会いに来た最大の理由は、仇討ちの急進派であった三平をなだめることであったと思われます。 |
| ところが、わずか2〜3ヶ月後の元禄15年1月14日、三平は自宅長屋門の一室で27年の人生に自ら終止符を打ちました。仇討ちに反対した父重利に対する親孝行と、主君浅野内匠頭への忠義の板挟みになったことが、その理由であったと伝えられています。歴史に“もしも”は禁物ですが、27年の短い一生の間の、俳人として活躍した期間はさらに短いものであったにもかかわらず、多くの優れた俳句を残した「涓泉」があと10年でも生きていたらと考えると残念でなりません。 |

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 萱野三平辞世の句
「晴れゆくや 日ごろ心の 花曇り」 涓泉 |
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※「うら枯や 餅にとどまる 櫻つか」の子葉の句碑が豊中市中桜塚にある原田神社(阪急岡町駅前)の境内に建てられています。 |