忠臣蔵

ホームページで見つけた子孫資料

贋物か本物かは知らない!!

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武林唯七
義士の一人武林唯七は孟子の末裔(歴史読本昭和56年12月号)
赤穂義士関係文書・色紙短冊類

赤穂義士資料保存会々長武林(竹林)氏旧蔵品1箱

 



 


四十七士・大高源吾・重要候補
 




Yahooオークションより

本当なのどうかわ知りませんが??

けど、面白いですね・・いろいろあって

 
長さ一尺六寸七分五厘 反り七分0厘 目くぎ穴一 元幅3.3 先幅3.5 元重ね0.8 先重ね0.5 登録埼玉6224

2006年03月17日15時11分説明追記:

前に付いていた甲種に(鞘書きも)に大志津となっておりますが、特別保存の鑑定書では1つ下げられ石川貞綱になりました☆豪壮で見事な出来の良い薙刀です。









細井広沢

忠臣蔵討ち入り協力 肉筆 本物保証


Yahooオークションより


軸長さ201cm巾39.5cm本紙縦132cm横27cm紙ほんです、

折れが二ヶ所くらいあります、軸先は角か象牙を

竹節型に削っためずらしい高価なものです、

 吉良家討ち入りを目論む浅野家旧臣に協力した人物は幾人かいるが、

細井広沢は最も有名な一人であろう

細井広沢は下記のページをご覧下さい

    




 

元禄15(1702)年11月7日(第191号)

「浅野内匠頭家来口上」を協議

柳沢の儒臣細井広沢が添削
 

細井広沢の致仕 田中光郎

 (1)吉良家討ち入りを目論む浅野家旧臣に協力した人物は幾人かいるが、細井広沢は最も有名な一人であろう。儒者・書家として知られる広沢は、通称を次郎大夫といい、柳沢家で物頭を勤めたほどの武士である。剣術にもすぐれ、堀内道場で堀部安兵衛等と同門だった。討ち入りの趣意書に添削をくわえるなど党外の同志といってよい活躍をし、一党の機密文書の手控えである『堀部武庸筆記』を託されたことでも知られている。 その広沢が柳沢家を退去するにいたった事情が岩波文庫『元禄世間咄風聞集』に見られるので、少し。この記事は既に宮澤誠一氏によって注目されているが、少し詳しく考えてみよう。
(2)
 同書によれば、事情は次のようである。
 広沢には牢人時代から親しくしていた太田左大夫という友人があった。太田は源頼政の末裔で系図などを所持していたが、生活が苦しかったので、この系図を利用して何とかしたいと考え、広沢に依頼した。広沢は松平右京大夫輝貞の家老を訪ねて太田のことを依頼、家老は件の書類を提出するようにという輝貞の意を伝え、左大夫はそれに従った。ところが、いつまで経っても音沙汰がないので、しびれを切らした広沢が再び家老を訪ねると、既に他界していた。仕方がないので別の家老を通じて何とかしてほしいと(「牢人のうゑを御見次被遊被下候様に」)願ったが、“それはできない。書類は返す”というのが輝貞の返答。頭に来た広沢は、無法なことをおっしゃる(「さりとては右京太夫様ならずの儀を被仰候」)と言い捨てて帰った。

 仕官を望んだと解すべきだと思われる。後段では何か下賜されることを期待していたようにも見られる。恐らくこういうケースでは仕官させるか、それができない場合は相応のものを与えるのが常識だったのであろう。(佐野政言の刃傷事件も、こうした常識が前提になっているかも知れないが、ここでは深入りしない)

 これに激怒した輝貞、そのままにはすまさんと柳沢家に申し入れて、広沢は逼塞と相成る。吉保は事情聴取ののち、「広沢の言い分はいちいちもっともであるが、右京大夫様から申し入れがあった以上そのまま召し抱えておく訳にもいかない。他家への奉公などは構わないから、心次第どこへでも行くがよい。また、荷物の運搬などにも支障があるだろうから、当家の中間を使ってよろしい」という温情ある申し渡しをした。さらに、広沢が牢人となっては左大夫はなお困窮するだろうと、金30両と紗綾20巻を与えた。

(3) この史料は噂話を書き留めたものであるから、無条件に信用する訳にはいかない。しかし、同書におさめる噂は概して信憑性の高いものであることも否定できない。いちおう事実だという仮定のもとで話を進めるならば、広沢の人となりをよく伝える逸話だということができよう。第一に、牢人時代からの親友・太田左大夫に対する義理堅さが見て取れる。さらに、大名を相手にして歯に衣着せぬ物言いに、率直・剛毅な性格を感じさせる。堀部安兵衛の親友として一挙に協力したのも頷けるというものである。
 柳沢吉保について言えば、広沢の言い分を認めて温情・度量のある取扱いをしており好意的に受け取られている。松平輝貞が若干分が悪いが、家老の死に伴う複雑な事情も考えられ、情状酌量の余地はあろう。

 広沢の致仕は何時のことなのであろうか。同書は譜代大名(または上級旗本)の屋敷で語られた話を書き留めたものと推定されている。従っておおむね話された順序に記録されていると思われるが、元禄15年8月に起きた山角五郎左衛門の不始末と、同年12月の山田三大夫配下の徒士の借金トラブルの間に記載されている。大体この頃の事情と考えるのが妥当であろう。
 ところで、同書は刃傷事件についてかなり詳細な記事を残しているのに、討入事件については一行も触れていない。敵討ちの話などは好みだったはずなので、何故記載していないか不思議ではある。何か憚る事情があったのか、定かでない。だが、もしも記述があるとすれば、ちょうどこの広沢致仕の場所に当てはまるはずである。
 何らかの事情で討入事件について記録できなかったとしても、話題としては出ていたかも知れない。その際に、直接事件に関係しない(すなわち記載を憚る必然性のない)内容のみ書き記すということはあり得るように思われる。広沢の致仕が、それ自体としてではなく、討ち入り事件との関連で語られた可能性は否定できない。もしそうだとすれば、致仕の時期を絞り込むことはむずかしく、討ち入り事件以前のある時点としか言えない。

 広沢が致仕したのは、まず間違いなく吉良邸討ち入り以前のことに属する。『堀部武庸筆記』が広沢に預けられたことをもって、柳沢が一件について熟知していたという推論の根拠とされる場合があるが、恐らく妥当しないであろう**。何にせよ彼の伝記にはよくわからないことが多い。材料を集めて考察を深めていきたいと思う。

森銑三『初雁』なども事件を致仕後のこととしている。

**

 仮に討入事件ぎりぎり(ないし直後)の致仕だったとしても、左大夫一件から考えて友人との義理を重んずる広沢が、不用意に柳沢に情報を漏洩するとは考えづらい。


付記

本稿を公開した後、佐藤誠氏から佐佐木杜太郎『細井広沢の生涯』(満願寺、昭58)の存在を教えられた。同書は致仕を元禄15年5月ころとしており、その根拠は柳沢家の記録『楽只堂年録』に名が見えなくなることなので、確実とは言えないまでも大はずれはないであろう。
 また、細井家の家譜には「松平右京大夫之意に忤い浪人と為る」と記され、後年長谷川平馬に与えた書には「太田左兵衛事に付、松平右京大夫殿意に逆ひ申候間、浪人致候」とあるそうである(同書pp139-40)。太田の名こそ違っているものの(広沢が書いているのだから左兵衛の方が正しいだろう)、『元禄世間咄風聞集』の記事はおおむね事実と考えてよさそうである。
 御教示をいただいた佐藤氏にはここに記して感謝を表したい。

付記2

 その後三村清三郎『近世能書伝』を得て、さらに詳しく事情を知った。ただ、付記にするには少々多すぎるので、「続報・細井広沢の致仕」と題して別稿を草した。参照いただければ幸甚である。

 ☆表紙へもどる

 

「浅野内匠頭家来口上」を協議柳沢の儒臣細井広沢が添削


浅野内匠頭家来口上

 
11月7〜8日(東京本社発)

討ち入り目的を検討


 内蔵助番記者に大石内蔵助さんが討ち入りの目的を語りました。
 「単なる敵討ちなら手段を選ばず、目的を達すればよい。しかし、これはあくまで公平な裁きを幕府に訴えるための手段です。そのために私たちの趣旨を幕府に伝わるようにしたい」と。
 そこで討ち入りの口上書を検討しました。

「@内匠頭は上野介には以前から意趣があったところ、殿中においてその時のがれがた  いことがあって、刃傷に及びました。
 A時節、場所をわきまえなかったので、切腹を命じられ、領地を召し上げられました。
 B私たち家来共は恐れ入り、城地を差し上げ離散しました。
 C喧嘩の時、留める方がいて、上野介を討ち取ることができず、内匠頭の死に際の無   念は家来として我慢できません」


君父の讐で悩むが細井広沢さんが助言

 ここまでは順調に進んだが、一番大切な目的のところで混乱しました。原案にあった「主君・父の讐とはこの世で共に暮らせない」(「君父の讐共に天を戴かざるの儀黙止がたく」)の一節である。
 そこで念のために「礼記」(典礼)に当たってみましたが、「父の讐は共に天を戴かず」とあるのみで「君の讐」という文言はありませんでした。
 その時、堀部安兵衛さんが細井広沢さんにその辺の事情を聞くことになりました。細井さんは以前「堀部武庸筆記」を預けられた最も信頼できる人です。細井さんは「大事をなすには文章によるべからず」、すなわち「大事な時には言葉などどうでもよいではないか」と答えたといいます。
 そこで次の口上ができました。


 D高家歴々に対し浅野の家来がうっぷんを晴らすということには憚りがあるが、君父の讐は共に天をいただかないと言うように、黙っておれないので今日上野介宅へ推参し  た。
 Eただひとへに亡主の意趣を継ぐ志です。私共の死後検分の方には、幕府にお見せ願いたい。


内蔵助さん、死を覚悟して幕府への訴えを決意


 この口上書を見て思うことは、まず「内蔵助らが本懐を遂げた後、泉岳寺で切腹しなかったのは死を惜しむ臆病者だからだ」という説を採用する書籍が最近でも多数発売されています。これは史料を読まずに、状況のみで事実を推測する浅い視点と言わざるを得ません。史料を見れば、死を覚悟していることが明瞭です。
 次に幕府対する批判は一切ありません。これが内蔵助さんのするどい作戦です。史料から分かるように、この口上書が幕府に渡るように工夫されています。討ち入り時だけでなく、引き上げ時にも同じ物を大目付仙石久尚さんにも届ける用意周到さです。
 
史料原文

 浅野内匠頭家来口上

「 去年三月…右喧嘩の節、御同席御抑留の御方これあり、上野介討ちとめ申さず、内匠末期の残念の心底、家来共忍びがたき仕合せにこざ候。
 『高家御歴々にたいし家来共欝憤をさしはさみ候段、憚りには存じたてまつり候へども、君父の讐はともに天をいたゞかざるの義、黙止しがたく』今日上野介殿宅へ推参仕候。ひとへに亡主の意趣をつぐ志までにござ候。
 私共死後もし御検分の御方ござ候はば、御披見を願ひたてまつらんとて、かくの如くにござ候。以上」
 

出典

赤穂市発行『忠臣蔵第三巻』

        



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