カブレラが四球攻めに憤慨しているという話ですが、王さんが55本ホームランを打った年の四死球は127(確か)。んで、今期のカブレラは107(確か)。しかも王さんの時よりも試合数は多いはず。
「1点を争っている試合で、55本もホームランを打っている選手と真っ向勝負するのは、まともな考えではない」
 とまあ、そんなようなコメントが新聞に載ってたんですけど。
 大概の場合、人は判断基準を自分に置くです。でもこれは普通のことです。
「自分の嫌がることを人にしてはいけません」
 そんな言葉を誰もが聞いたことがあると思うんですけれども。
 自分に当てはめて考えるのは簡単ですよ。直感に従えばいいんですから。
大空寺様のお言葉に、次のようなものがあります。
私はあなたにパンを焼いてあげました。大空寺様はこのお言葉を否定的な喩えとして仰られています。
だからあなたも私にパンを焼いてください。
 「私」はパンが大好きで、パンを焼いてもらえたら嬉しい。
 だから「あなた」にパンを焼いてあげれば、「あなた」は喜ぶに違いない。
 そして喜んだ「あなた」は、「私」にパンを焼いてくれるに違いない。
……本当にそうなのでしょうか?
 この辺りの論理の飛躍が、どうしても気になるというか。
 「パンを焼いてくれたらいいなぁ」と「パンを焼いてくれるに違いない」では、受ける印象は雲泥の差で。
 大空寺様に喝破していただき、相手のことをもうちょっと考えられるようにならなきゃなあ、と思った次第。
 なんにせよ、オリュンポスの瑠璃嬢にはちっと荒療治の方が効くかな、と思った次第。
 北風と太陽の話のせいで、太陽的な手法ばかりもてはやされてますけど、時には北風だって使えるんじゃないかと。
 耳コピー。
 古橋秀之「サムライ・レンズマン」(徳間デュアル文庫)から。
《アクション》
 レンズマンを束ねるキムボール・キニスンは、キャットの言い値で小切手を切ろうと提案することにした。
 サムライ・レンズマンことシン・クザクは、キャットに向かって土下座で嘆願し、応じなければ腹を切る覚悟だ。
《リアクション》
『しかも、このキムボール・キニスンのサイン入り小切手は収集家の間で額面の数十倍の値がつくから、それだけで一財産だ。これで文句はあるまいね』
「……大ありだ」キャットの表情がけわしくなった。「金積みゃあたしが尾っぽ振ると思ってんのか。気にいらねえな」
(中略)
『ならば、なおさらわからんな。このわたしが頭を下げているというのに、いったいなにが不満なんだ?』
「ンだとコラ!?」キャットが立ち上がり、最高基地の方角に向かって叫んだ。「頭ァ下げンなら、ちゃんとあたしの目の前に来て下げやがれ!」
「……うむ、この通りだ、ミス・モーガン」水面に両の拳を突き、クザクが頭を下げた。
「これで足りぬとあらば、わたしは腹を……」
キャットは慌てて手を振った。「わかった、もういい。腹は切るな」
 クザクは、「サムライ・レンズマン」と言われるだけあり、その思考はあたかも侍、武士です。そんなクザクの口癖は「腹を切ろう」です。
 誰かに詫びるとき、真摯な思いを理解してもらいたいとき、彼はすぐに腹を切ると言い出すのです。
 そんなクザクの言動に最初は戸惑うキャットですが、何度か彼に守られる内に、キャットはクザクにある種の信頼を覚えるようになります。
 それと同時に、「腹を切る」という、クザクにとってはある意味重大な決断と、その決断を一蹴することに、キャットは慣れっこになっているのです。
 「腹を切る」という、クザクの性格を端的に表している癖と、そんなクザクを放っておけないキャットの姐さん気質が、ちょうどマッチしているというか。
つまりは、
・すぐに「腹を切る」と言い出す癖……キャラクターメイキング
・キャットからある程度の信頼を得ている(さらに「腹を切る」という言動への耐性をつけてもらっている)……それまでのアクションの結果
 この二つが揃ったとき、「キャットに『これで足りぬとあらば、わたしは腹を切る』と嘆願する」というアクションが成功するわけで。
 それまでの積み重ねもなしに「断るならば腹を切る」と詰め寄ったって、キャットに「勝手に死ね」と言われるのがオチだろうし。
 大抵の場合、キャラクターメイキングの時点ではNPCの性格(というか、関わるであろうNPCが誰であるか)なんぞわからんわけですが、なにがしかの特徴をつけたのであれば、しつこいほどに強調してみるといいのかも、と。
 一話読み切りのアクションというのは、ちと勿体ないな、と。
 特徴もつけりゃいいってもんじゃなくて、自分の中で完結していない──言い換えれば「ツッコミ所のある」特徴がいいのかな、と。
 んで、それまでに全然関わったこともないくせに、頼む態度がなってないとこうなるってのがキニスン。
 けれども、キニスンがいるからこそクザクの行動が映えるってのも一理。
「叙情詩アクション」というものが、ある。
 一見、ただのなりきりプレイに見えるが、実はそーでもない。
 叙情詩アクションとなりきりプレイの違いは、「プレイヤーの思惑」にある。
 「なりきり」とはいいつつも、本当になりきっている人はあまりいない。
 所詮演じているに過ぎない。
 だが叙情詩アクションは違う。
 本当にキャラクターの気持ちになってしまうのだ。
 そこにはメタ的な視野はない。
 打算もない。
 思惑もない。
 あるのは気持ちだ。気持ちだけだ。
 無論キャラクターが策士であれば、そこに策略はある。
 しかしそれでも、あくまでキャラクターの視点において策略は練られる。
 僕は、この叙情詩アクションの名手を、二名ほど知っている──本人がそれを意識しているか否かはともかく──さらには僕の幻想が少なからず含まれているはずだ──。
 それが多いのか少ないのかは、よくわからない。
 けれど、少なくともこの二名については、彼ら──もしくは彼女らの叙情詩アクションが、僕はとても好きだ。
 あー、リアクションが来ないと書くことないなー。
 うんにゃ、ないってこたないんですが。
 対費用効果。
 プレイヤーにどこまで権利を委譲できるか/もしくは権利を委譲しているように見せられるか。
 どれだけ効果的に「楽」ができるか。
そういう諸々。こればっかりは経験論の感覚でしかないよーな。言葉じゃ説明できない/ある程度までしか説明できない。