風の回廊

松澤 俊郎


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1. 風花

 

「立入禁止」の札の下がっている鎖をまたいで、渚は、ゆっくりと屋上への階段を上がっていった。階段は、もう長いこと人の通った痕跡がなく、湿った埃を積もらせており、古いカルテやレントゲン・フィルムが、その壁に沿って今にも崩れ落ちそうに積み上げられていた。最上段のガラス戸を引きあけると、肌を突き刺す冷たい外気が、舞い上がった粉雪とともに吹き込んできた。渚は、一瞬、首をすくめて立ちすくみ、それから、夕暮れの屋上へと足を踏み出した。雪は、朝から静かに降り続いていたが、今はほとんどやんでいて、足首まで埋もれながら東側の鉄柵の所まで歩いていく渚の白衣の襟首に、屋上塔から吹きこぼれる数片の風花が舞い込んだ。渚は、また首をすくめた。 

 東にそびえる朝日連峰の山々は、すでにその灰白色の稜線を重い夕闇に溶け込ませ、米沢、山形へと続く曲がりくねった峠越えの国道を、あえぎながら登っていく車のライトがゆっくりと動いていた。 

 柵の上の雪を両手でかき寄せて、何となく握りしめながら視線を下に向けると、日勤を終えた看護婦が二人、はずしたキャップを手に持って、看護婦寮の方へ歩いていくのが見えた。ひとりの看護婦が、雪に足をすべらせてもしたのか、キャッとひと声短く悲鳴を上げ、それから自分の声を恥じたように、うしろを振り向いた。一瞬、屋上の渚の視線を感じて見上げたように見えたが、また何事もなかったかのように、連れと言葉を交わしながらゆっくりと歩いていった。その遠い姿に向かって、渚は、握った雪の玉を投げた。それは届くはずもなく、ゆっくりと新雪の上に落ち、沈んでいった。 

 足首から入ってくるものの冷たさに、渚は我にかえり、室内に戻るためにまた自分の足跡をたどり始めた。かなり気温は下がっているのだろう、先刻自分の踏んだ雪の跡はすでに凍っていて、最初の数歩で、渚は足をすべらせてしたたかに転倒した。

 白衣の雪を払って起き上がった渚の目に、残照とさえもう言えないわずかな明かりが、西の松林の向こうの海辺の空に漂っているのが見えた。その空をひと時見つめ、のしかかっている重いものを振り払うようにして、渚は、階段へ向かってまた歩き始めた。

 

 四階の看護婦室に戻ると、準夜勤の看護婦たちはもう検温にでも行ったのか、ひっそりとしていて、一画をカーテンで仕切った仮眠用のソファーに、勤務の終わった主任看護婦の直井由紀がひとり腰を下ろしていた。
「先生、お茶でも入れますか」
 と直井は言って立ち、寿司屋の名前の入った大きな湯飲み茶碗に、抹茶をひとすくい入れ、立ったまま、茶筅でかきまわした。
「どうぞ」
「ありがとう」
 渚は、そのぬくもりをしばらく手の中に包んでから、ひと息に飲んだ。
「おたがいに、ひどい茶道ですね」
と、直井は笑った。渚も苦笑した。

「渚先生、……」
「うん」
「何か、ひどく疲れていらっしゃる御様子。……どうかなさったんですか」
 直井は、渚の向かい側に腰を下ろし、小首をかしげながらナース・キャップを取ると、髪止めをはずして軽く頭を振った。背まで届く豊かな髪が、パラリと広がった。こうした瞬間の、彼女たちのくつろいだ姿には、一種なまめいた女らしさが感じられ、また時には、それぞれの看護婦の持っている生活の匂いがただよう、と渚はいつも思った。
「……もっとも、お疲れになっていて当然ですけど。……先生おひとりで、この病院の内科を支えておられるのだから。……私たち、本当にお気の毒に思いますし、私たちにできることは何でもやるつもりでいるんですけど、でも、看護婦としてできることなんて、どうしても限界があるんです」
 直井の言葉には、しんみりとした誠意が感じられた。

 彼女は、二十八、九歳になるだろうか、この同じ病院の事務職をしている夫とのあいだに、二人の子供があり、それを義母たちに託しつつ働いてきていた。夫の方は、この県立病院の労組の委員長をしていたが、夫婦そろって温厚な人柄で、とくに主任の由紀の方は人情が濃やかな人だったので、二十歳前後の若い看護婦から、自分の母親ぐらいの歳の看護婦までを、大きなトラブルもなく掌握していた。

「私は、あなたたちの気持ちに支えられながら、何とかやってきた、感謝しているよ」
 と、渚は言った。それは、正直な気持だった。時には看護婦に対して八つ当たり的にぶつかることもある渚の余裕のない心境を、それとなく汲みとりながらやわらかく対応し包んでくれている、幾人かの看護婦たちの優しさがなかったら、自分は実際、とうに破局的になっていただろうと渚はあらためて思った、
「ただ……、力が尽きたという感覚があるんだよ。そして厄介なことに、これは、寝たり食べたりしたら回復できる、というものではないようなんだ。何と言ったらいいのだろう、……疲れというより、虚脱感や、脱力感のようなものなんだ」

 直井は、眉根を寄せて考え込む表情になった。渚は、ああ、自分は余計なことを言おうとしているのかもしれない、と思ったが、
「何かあったのですか」
 という直井の言葉の真摯な感じに促されて、話し始めてしまっていた、
「医者とは、何なのだろう。……ひとりの人間がいて、ひとつの病気に苦しんでいて、助けを必要としている。私は、その病気を診断し、それを治すために、現在の医学的水準で可能な限りの方法を試みようとする。だが、病が救いがたいものであり、彼の死はすぐそこに見えている時、医者とは、遂には、何でありうるのだろう。……」
 渚は、すでに己れに対して限りなく発し続けてきた、答えのない問いを口にしていた、
「慰めを与える者でさえもありうるのだろうか。……このあいだの、県立病院学会の看護部門での演題で、『末期癌の患者のたどる段階的心理とそれに対応した看護のあり方』というのがあったね。自分が末期癌であることを告知されたり、何かではっきりと知るに至った患者は、まず第一段階として『反抗期』に入る、これに対応した看護はこう、次の段階ではこう、…そういう内容の演題だったね。でも、私は、あれを聞きながら、違う、違うと心で叫んでいた。あの演題は、職業人としての看護婦が、業務の対象として託された『患者』なるものに、どう的確に、技術的に、対応すべきかという、まさに技術論だった。なるほど『共感』という言葉は使われていたが、彼女たちの言う『共感』そのものが、対応技術の範疇のものとして語られているにすぎないような気がした。だから私は、……」
「ええ、聞きました」と直井は言った、「私は留守番の勤務をしていて学会には行かなかったけれど、帰ってきた看護婦から、先生が、演題に対して疑問を述べられたと聞きました。……あなたたちの『共感』も、『共苦』も、看護技術論の問題として語られる所で終わっている限り、勤務の交替の時刻になれば、それらを次の人に『申し送り』として渡し、自分は健常な、人生を楽しみうる者として、着がえて病院を出ていける、その限界と矛盾からは、一歩もはみだしえないのだ、……そんなふうにおっしゃったのですか」
「その通りだ。……それを、あなたに伝えた人は、どう受け取ったのだろうか」
「それなりに理解はしていたと思いますけど。……まじめな先生ね、と言っていました」
「まじめ、か……」
 渚は、自分の感情をどう説明したらいいのだろうと、苦しんでいた、
「私の発言は、実は、演題を一所懸命に発表した彼女たちの認識をもっと深めてもらおうという思いやりの助言ではなかった。私はただ、憤っていたんだよ、彼女たちにも、そして何よりも、私自身にも。……私は、言いたかった、私たちは、ともに、無力だ、と。その、無力であるという自覚、冷水を浴びせられるような自覚から出発しないで、自分たちが何か一歩の高みにいるような考え方でいる限り、あらゆる議論の中に、空疎なものがまつわり続けるのだ、と思ったんだよ。……我々にとって、患者は、学会で論じられる時、ほとんどの場合、マテリアル(材料)であり、ケース(症例)だ。もちろん、そのクールさは、学問という立場では必要なことでもある。けれども、耐えて今クールに事柄を処理しているんだ、というかすかな心の痛みがそこに感じられくなった時、私は思ってしまう、私たち医者や看護婦は、何と傲慢の罠に陥りやすいものなのだろう、ってね」
「そうですね。……」
 と、直井は、自分自身に責めを感じたように、少し翳った声で言った、
「私たちが、着がえて病院を出ていく時、そんなにきれいさっぱりと患者さんのことを忘れていけるわけではないけれども、それでも、実際上、ある種の解放感を感じていることは否めないですね。人間としての責任も含めて、勤務時間という単位で、負ったり、放したりしているという所はあるかもしれません。……それを言葉にして言われれば、とても辛い部分があるけれど、そういう自分たちのあり方に、時折に疑問を感じることもなくなったら、それは、堕落かもしれません。それに対して、理屈をいろいろつけることはできるかもしれないけれども、自分を救う理屈を考える、ということをあえてしないで、その重い矛盾を矛盾のままに引き受けていく、ということが大事なのかもしれませんね」
「あなたの方が、はるかにまじめだ」と渚は恥じるように言った、
「私は、本当のところ、私自身の無力さに対するやりきれない気持を、ぶつけるように言ってしまったんだよ。……慰めを与える者にもなりえない、共に苦しむ者にもなりえない、何の力もない私が苦しく切なかったんだ」
「先生は、御自分に厳しすぎるのですよ。……先生は、十分に優しい。そして先生は、十分に苦しんでもいる。……どうして、何の力もない私、なんておっしゃるのです。たとえ乏しい力しかなくても、私たちはそれでも一所懸命に病と闘い、死と闘っているのでしょう。闘っている患者さんたちの援助をしたいと願っているのでしょう。先生は、その闘いにおける私たちの指揮官ですよ。その先生が、何の力もない私、なんておっしゃったら、私たちはどうしたらよいのです」
 直井は、渚を励ますというより、むしろ自らが悲しいというような口調で言った。二人は、対立しているわけではなかった。
「私に、そんな力があればよいのだが、……しかし、頑張らなくてはね」と、渚は言った。
「そうですよ、患者さんたちのために、私たち看護婦のために、……そして、いつでも崩れそうな、この私のためにも、……」

 最後の直井の言葉は、少し淋しげだった。大きなトラブルもなく病棟のスタッフたちを掌握しているように見え、患者たちにもどこまでも優しいこの主任の直井にも、やはり多くの苦しみはあるのだろうな、と渚は思った。それでも、……今夜は、渚はもっと語りたかった。自分の心を滅ぼしてしまいそうな今の苦しみを、聞いて欲しかった。その真の聞き手として自分が本当に求めているのかもしれない人は、今、ここにはいなかったが……。

 窓が風で鳴った。直井は立ち上がって、お茶を入れ直した。ふたりは、少しうつむき合ったまま、それぞれに、それぞれの思いを追いながら、黙ってお茶を飲んでいた。

 再び口を開いたのは、渚の方だった。
「人は死における存在だ、と言う。……人は刹那刹那に生滅している、と言う。……朝に死に、夕に死に、一刻一刻に死に、一瞬一瞬に、刹那刹那に死んでいる自分を自覚せよ、と言う。……私は、それを真に深く理解はできないままに受容してはいる。私は、私自身の生に執着はしていない。でも、そんなことは自慢にも何にもなりはしない。私の受容は、哲学でもなく、宗教でもなく、似て非なるただの厭世観なのかもしれないのだから。……その私が、『人々』の生には、執着している。あなたも含めて、私は、『人々』には生きて欲しい。生きることに絶望せず、刹那刹那の生滅の連鎖を、自分の人生、自分の時として生きて欲しい。私の真の絶望は、私自らの絶望の中にあるのではなく、『人々』の絶望の中にあるのだという気がするんだよ。『人々』が絶望しないで生きていってくれる限り、私の絶望はなお救済されている。……それが、私が医者であり続けている情念であり、希望なんだよ」

 直井は、自分の胸を両手で抱くようにし、目を細めて渚の言葉に集中していた。

「……しかし、生死の意味については、いまだ何も知りえぬ私。……ましてや、短時日のうちに確実に死を迎える人にとっての、残された時間の意味など計り知りようもない私。私は、怖いのだよ。この計り知れぬ時間の意味が、怖いのだよ。……時間の長短も、その内容の濃淡も、徹して主観的、個人的なものであって、プライベートというならこれほどプライベートなものはない。では、それはプライベートなものなのだから、私たちは所詮立ち入ることができず、また、立ち入るべきでもないのだ、と割り切って、その周辺の介護の業務に専念すればいいと言えるかといえば、そうではない。……彼らは、家族にさえも、いや、家族にこそ求めえないものを、……その絶対的な孤独への理解を、私たちに求めていることもあるんだ。……家族に向って、助けて! とは叫べない、けれども私たちには、赤裸々に、助けて! と叫びもする。家族をは、恨むことも、憎むこともできない、けれども、どこにもぶつけようのないその恨み、憎しみを、私たちにはぶつけてもくるんだよ。……そうした人たちの苦しみについて何かがわかったような気がしても、それはどこまでも生き残る側の者の視点からの理解なんだね。……三十そこそこの若造が、その倍も生き、その何倍、何十倍もものを考えてきたのかもしれない人たちに向かって、生きる意味について、生きる意欲を持つべきことについて、何を語れるというのだろう。どう励ましたり、慰めたりできるというのだろう」

 その言葉に、顔を上げて、直井が何かを言いかけたその時、検温を終えたのか、ひとりの看護婦が入ってきた。渚と目が合うと、軽く目礼をし、渚たちに横顔を見せながら、仕事机に向かい、黙々と体温表をつけ始めた。野木佐和子だった。

 渚が、話を続けようとして直井の顔を見ると、直井は、看護婦の前であまり深刻な話はいけませんよ、と言うように、渚の目を見つめながら小さく首を振った。そして、話の方向を軽く変えようとするように、言った、
「先生は、まじめすぎるんだわ」
 しかし、この日の、渚のやりきれない気持の流れは、止まらなかった。
「違う。……まじめすぎるどころか、私の思いが、浅くて、中途半端なだけなんだ。」
「先生、今日は、本当にどうしたんです、ひどく、自虐的に聞こえますよ。……先生は、いつも自分を責めて苦しんでいらっしゃる。でも、患者さんたちは、先生の優しい笑顔に毎日慰められ、先生の言葉に励まされているんです、それもまぎれのない事実です」
「わかっている、それはわかっている。……ただね、何と言えばいいんだろう、私は、根本的には、彼らに対して、悲しいほど、何もしてやれないんだ。それを私自身が一番知っており、その代償、いや贖罪として、ただ精神的な優しさとか、あたたかさとかを、差し出しているにすぎないんだ。ニセ医者は一般にとても優しいという。それはコンプレックスの裏返しの気持、そして罪の意識に対する償いの気持なんだと思う。……私が優しいとすれば、それは私の絶望のカモフラージュだ。だから、自分の無力を知れば知るほどに、私は一層優しくなっていく。そして、彼らの中には、そういう私の欺瞞を見抜いている者もある。仮面の裏の、私の絶望と嫌悪の表情を見抜いている者もある。そしてその人たちは、見抜いていながら逆に一層、私を頼っているふりをして、私を傷つけまいと気を使ってくれていたりするんだよ。……その時、人間とし、一番無力で、一番深く病んでいるのは、実は、この私だと、気がつくんだよ」
 主任は、少し首をまわして、看護婦の野木佐和子の様子を見た。佐和子のペンを持った手は、止まっていた。しかし、渚は、なおも続けた、
「回診のたびに、私はそれを、その日の試練のように感じる。医学的には絶望的な患者さんの部屋の前で、私は立ち止まり、部屋の扉をあける前にまず自分の心の扉をしっかりと閉ざす。そして、向けられうる答えようのない質問に対して、答えにならない答えを用意し、自分の顔が医者としての職業的な表情で武装されきったことを確かめて、私はようやく入っていくんだ。それからはひとつの戦いだ。彼と私との、……切実に真実を問う者と、怯えながら嘘で答える者との。……そして、この戦いは、表面的にはいつでも、私の勝利に終わる。私の論理は首尾一貫しており、彼は説き伏せられる。私は、微笑したまま、落ち着いて彼の部屋を出る。そして、そこで私の表情は凍りつき、自己嫌悪と屈辱に襲われて立ちすくむ。……問題は、何なのか。すべてが説明されることなのか。違う。……私が何を言おうと、それは彼の体内にあり、そのあいだにも確実に彼の生命を食い滅ぼしつつあるんだ。……では、言葉とは何であり、微笑とは何なのか。……医者が医者であり、患者が患者であるための、その黙契を決して崩壊させないための儀式なのか。……私は言葉を与え、微笑を与え、彼は納得し、慰めを得たふりをする。痛みさえもが、私の慰めで緩和されたような表情で、彼は私を送り出してくれる。そして、いいかい、私が部屋を出て、ものの五分もしないうちに、彼は痛みを緩和するための麻薬の注射を看護婦に求めるんだ。それを私は、彼の中に厳然として存在する病魔の、私への嘲笑、あるいは、言葉と微笑で有無を言わさずに抑圧された彼の真実を求める心の、復讐のように感じてしまうんだよ」
「悲しいですね」と、直井は小さく頭を振りながら言った。
「そう、……悲しいね」と、渚は答えた、
「夜、布団に入ってからね、私は、患者さんの顔を闇の中に見ながら、時々、汗まみれになってうなされているんだよ」
 それは先生の、……と直井は言いかけたが、渚は、さえぎって言った、
「いや、それは責任感のためではない。それは私の、……怯えのためなんだ」

 静寂が訪れた。コトコトと窓が鳴り、再び、雪が吹きつけ始めていた。膝から下が、冷えきっていた。スチームがまわり始めたのか、暖房の配管の中から、カンカン……という音が聞こえ始めた。…… 

「帰ろうか」と渚は言った。
「ええ」と答えて、直井は、何となく膝のあたりを両手で払って、立ち上がった。

 視線を体温表の上に落としたまま、手の止まってしまっていた野木佐和子が、我にかえったように、手を動かし始めた。直井がその肩にそっと手を触れて、では、あとはお願いしますね、と言うと、彼女は、顔を上げずに、はい、と言った。渚がその背に、お休み、と小さく言うと、彼女は渚を見ないまま黙って頭を下げた。 

 エレベーターは使わず、四階から一階まで、肩を並べるようにして、ゆっくりと階段を下りていきながら、直井は、彼女の中で続いていた問いを口にするように、
「Sさんのことですか」と言った。
「うん、……Sのことだ」と、渚は答えた、「Sが、……私の診療を拒否したんだ」
「えっ」と言って、直井は立ちすくんだように止まった。
「朝の診察の時は、いつもの通りだった。だが、午後、彼の部屋へ行くと、彼は突然、出ていってくれ、と言うんだ。ただ、出ていってくれ、の一点ばりなんだ。そして最後に、言った、……私はもう、先生には来てもらいたくない、ってね」
「そうだったのですか。……」と直井は、深くため息をつくように言い、立ち止まったまま、自分の内心の苦しさを押さえるように、両手で再び自分の胸を固く抱きしめた、
「このところ麻薬の回数もふえていましたし、打って上げてもあまり楽にはならなくなってきていました。Sさんは、もう疲れ果てていたのでしょう。……それに、今日は、あるできごとがあったんです。……それを私は、先生には報告しませんでした。なぜ、と言われてもうまく言えません。ただ私は先生にはSさんのことはもう上申すまいと思ったんです。Sさんの肉体的苦しみは、もう誰にも救えません。先生にも、私たちにも。……今はもう、その苦しみを、ひと時なりと忘れて眠ってくれること、そのために十分に注射をして上げることしかないのだと、私なりに思い定めていました。だから、先生には、十分に注射をしてやってよい、注射の間隔をあける努力はもうしなくてよい、という許可をあえて頂いたんです。……何もあらためて上申しなくても、先生は、上がってきさえすれば、Sさんの部屋に入っていかれます。そこで、Sさんと先生との間に、どんな心の交感があるのか、私にはわかりません。私にわかるのは、ただ、Sさんの部屋から出てきた時の先生の何とも言いようのない苦しみの表情だけです。先生のおっしゃった、屈辱と自己嫌悪の表情、そしてその一瞬の表情を克服して私たち看護婦の前にはやわらかな表情で入ってこられる、ご自分との格闘は、私にも見えていたんです。……そんな先生を見ていながら、何もして上げられない私です。でも、私は私なりに先生を案じ、心を痛めていたんです。そんな私にできることは、私の小さな胸ひとつでおさめて処理して、先生に言わないでいいことはもう言わない、ということだった。……」
 直井は、ポロリと、涙を落とした。渚の胸がつまった。
「ありがとう」と渚は言った。そして、直井の背にそっと手を添え、また階段を下り始めながら、静かに言った、
「今日、Sに何があったのか、……言って下さい」

 直井はまた立ち止まり、渚に顔を向けた。濡れている目に、苦渋と怯えの表情が見えた、「どうしても、言わなければなりませんか」
「いや、そうではないんだが。……人は、結局は、ひとりしか通れない道を通って、ひとりづつ連れ去られていく。それに添うてやることは誰にもできない。しかし、私は、やはり最後まで彼という人を理解する努力をし続けなければならないと思っている。だから、私の動揺などは心配しなくていい。ただ、あったことを言って欲しい」

 直井はうつむき、言葉を探しているようだった。しかし、結局はうまくなど言いようもないことなのだと思い定めたように、蒼白な顔で、一語、一語、押し出すように言った、
「Sさんの、首のリンパ節に転移して、自壊してきていたあの腫瘍のガーゼ交換を、今日は私がやっていたんです。相変わらずひどい臭いでした。ガーゼを取って、局所を消毒し、新しいガーゼを乗せようとした時、何か白いものがチラと動くのが見えたんです。そしてそれは、見ている私の目の前で、腫瘍の中から這いだしてきました。……それは、ウジ虫だったんです! ……私はぞっと背筋が寒くなり、吐き気がし、手がワナワナと震えてくるのがわかりました。私は、自分の表情と手許が奥さんに見えないように隠しながら、あとからあとから這いだしてくるウジ虫をピンセットでつまんでは、つぶして膿盆に捨てていました。……Sさんは、うとうとしていて気がつかなかったと思います。……少し前から、Sさんは、首の腫瘍の所を痒がっていたんです。それでも私たちは、痒いものなのかな、ぐらいにしか考えていませんでした。誰ひとり、そこにハエが卵を生み、それがウジ虫になって巣くっているなんて考えもしなかったんです。……冬の病棟は、暖房もきいていて、確かに冬でもたまにハエがいたりはするんです。でも、あんまりです。生きている人間の体に、なぜ卵なんか、……私たちの不注意です。言いわけのしようもありません。私は、黙ってそれを捨て、看護婦たちの誰にも言いませんでした。ただ、かなり浸み出しが多いから、今後は私が自分でガーゼ交換はする、と言っておいたんです。そして、先生にも言わず、私ひとりの胸の中にしまっておくことにしたんです。……」

 渚も、今は、蒼白になっていた。何ということだ、何ということだと、どこに向けてよいのかわからない嫌悪と怒りに全身を震わせていた。Sは気がつかなかったはずだと言う。しかし、Sが気づいていようといまいと、今日のSの自分に対する診療拒否の叫びと、今聞いたこのこととは、根底で深くかかわっていることなのだと、渚は震えつつ考えていた。

 

S。……    

 Sを、渚が初めて診察したのは、八月中旬の、ある暑い日だった。内科医長の茂手木は、前日から約一週間の休暇を取っていて、その日、渚は、茂手木の患者の分も含めて総回診をしたのだった。

「S、39歳、男。湿性胸膜炎」……と体温表に記載があった。入院時に沢山のレントゲン・イルムが撮られ、ストレプトマイシン、パス、ヒドラジドの三者の抗結核剤が、すでに二週間投与されていた。しかし、Sの呼吸困難も、咳も、軽減していなかった。

 渚が胸部を聴診すると、レントゲンで患側とされた左肺では呼吸音がまったく聴取できなかった。そして、ふと触れたSの左頸部、鎖骨の上に、大小二つの異様に固いリンパ節があった。渚は、自分の顔色が変わるのを、かろうじて抑えた。渚は、回診を中断して、看護婦室に戻り、Sのレントゲン・フィルムを出させた。

 左の肺は、真っ白だった。左右の肺を隔する縦隔陰影は、明らかに左に強く偏位し、左の横隔膜が上に上がっていた。これは、左の肺に空気を送る主気管枝が何かの原因で閉塞して、左の肺に空気が通っていない「無気肺」の状態であって、胸膜炎の所見ではなかった。閉塞の原因は何か? ……疑いようもなく「癌」であった。

 渚は、Sの外来カルテの記載を見た。五月、……すでに三ケ月前の夜にSは咳で受診しており、大学からの当直医が診て、鎮咳剤を投与していたが、この時すでに、「左頸部にリンパ節触知、要XーP(レントゲン撮影)」という記載があった。数日後、Sは昼間、茂手木の外来を受診しており、茂手木は同じ薬を再度処方していた。この時、茂手木は、確かにリンパ節が触れる、と自ら記載していた。しかし、なぜか、胸部のレントゲンは撮られていず、それっきりになっていた。それから二ケ月余たって、Sは呼吸困難に陥り、茂手木によって「湿性胸膜炎」と診断されて入院したのだった。しかし、この診断は、明らかに誤診だった。そして茂手木は、この誤診にこの瞬間にもなお気がついていなかった。

 すぐにでも、内視鏡で気管支を見る必要があった。しかし、この病院に気管支鏡はなかった。渚は決意し、その日のうちに、外科の医長、梅田に頼んで、頸部リンパ節の試験切除をしてもらい、新潟の大学の病理検査室に送り、その日から、直ちに、抗結核剤を制癌剤に切りかえた。四日後、Sは急に呼吸困難が軽快した。レントゲンで見ると、左の肺に空気が通い始めていた。

 なお酸素吸入は必要だったが、食事の時などには短時間ならはずすこともできるようになって、Sは渚に感謝し、胸の水が引けたんでしょうか、と言った。渚は返答に窮した。ええ、少しいいようですね、とあいまいに答えるしかなかった。

 茂手木が、休暇を終えて帰ってくる前日、大学の病理からの報告が届いた。

「扁平上皮癌」であった。渚は、Sの食道透視をしたが、食道には異常がなかった。もはや、原発性の肺癌の診断は確定的と思われた。

 渚は、出勤してきた茂手木に、この一週間の報告をし、Sの件について、なるべくさらりと報告した。茂手木は、一応、礼を言ったが、その顔色ははっきりと変わっていた。

 

 渚が、四月に、新潟県の県北にあるこの小さな県立病院に赴任して以来、わずか数ケ月のうちに、渚と、ひとまわり以上も年上の医長、茂手木とは疎遠な関係になっていた。

 ことの始まりは何だったのか。……医療の現場での医師としてたがいのの見解の相違、思考過程の相違からくる議論といったものはまったくなかった。茂手木は、まともな時刻に病室に来たことがなく、従って、ほとんど渚とはすれ違った勤務をしていた。具体的にどういう齟齬(そご)があったというのではない。ともかく、言葉を交わすということそのものがほとんどなかったのだ。

 これまでの数ケ月、渚はある種の鋭い緊張した意識をもって、茂手木のさまざまな場面での言動を直接、間接に見、聞いてきていた。そして、いつかしら、抜きがたい不信の念を育ててきてしまっていた。おそらく問題は、言動といった、表に現れる部分にはなかった。真の問題は、その言動のよってくるところ、茂手木の得意とする言い方を借りれば、「哲学のレベルの問題」だったのだ。

 

 渚がこの病院の医師宿舎のひとつに荷を下ろしたその晩、挨拶にいった茂手木の家で、長身のこの医長が、神経質そうにたてつづけに煙草を吸いながら、渚に話したことのほとんどは、院長を初めとする院内の人々の人物批評であった。彼の話を聞いていると、この病院の人々のほとんどが変人であり、陰湿であり、彼だけがまっとうで、その彼は、この数年間、いわれなき迫害や無理解に耐えてきていたことになった。

「越後の人間は、腹の底が見えなくて不気味ですな。私は南国、四国の出身で、大学も京都だったし、この雪国の人間の性格の暗さは、性に合いませんな」
 と茂手木は、結論のように言った。

 渚は、自分は大学こそ東京ではあるが、生まれも、育ちも、まさにこの越後、新潟県なのを茂手木は知らないのか、それとも、知っているからこそ言っているのか、と考えた。ある種の不快と不信があった。すべてを断定的に言い切る、茂手木の判断のすべてに対して、自分は判断を保留し、自らの目で見ていくべきなのだろう、と渚は思った

 

 渚は、新潟市のやや北にある、水原町という小さな町で育った。小学校、中学校、高校、そして二年間の浪人生活を、この水原の町の中で送り、大学に入るまで、ほとんどこの越後を出たことがなかった。
 渚は、この町の母の生家で生まれ、中学校に入るまでそこで育った。父母の方は、姉、兄を連れて町の反対側のはずれに住んで小さな商いをしていた。渚は、妹とふたり、母の生家に預けられて、祖母に育てられたが、その祖母も、渚が大学に入った年に亡くなり、渚の生まれ育った家はすでに没落して、切り売りされ、消滅していた。

 兄は地元大学を卒業してやはり医者になり、新しい家を建てて父母とともに住んでいたが、渚にとって、父母は懐かしくても、その新しい家は、過去の思い出につながるものではないだけに、むしろ淋しさを感じさせられ、たまに訪うても、家に帰ったという、しみじみとした感情にはなれなかった。家族と言いつつも、どこかがばらばらの家だった。

 こうした生い立ちの中で渚の心と体にしみ込んだ、いわば「愛の渇き」は、結局、癒されることなく今日まで続き、渚の生き方に影響を与えてきていた。のびやかな受容といつくしみの愛に至りたいと渚は苦しんできていたが、渚の心はやはりなお「愛の渇き」にとどまっていた。「渇き」ながら、なお、残酷な心も残していた。自分一個の苦しみを「人々」の苦しみと同根のものにしなければとあがきながら、やはり「私の苦しみ」である我執からは逃れられなかった。情念としての愛と、より深い意味での人間の道としての愛もまた、渚の中では、混沌としてわかちがたく共存しつつ、相剋(そうこく)していた。

 渚は、大学が東京だったこともあって、卒業後は、大学の医局に在籍しながら、東京とその周辺地区の関連病院で仕事をしてきていた。心の目は、常に遠い故郷に向いてはいても、それは、遠くにあって思うべき地、帰ることのない地、否、……むしろ帰ってはならない地としていつか思われるようになってきていた。

 しかし、今、心に深く傷つくものがあり、生きる場所を求めて、渚は東京を去ってきた。 どこででも生きようと思ってはいた。だが、結局は、心の底でしか聞こえないあるひそかな呼び声に導かれて、この故郷の地に帰ってきたのだった。今、この時で、自分を呼ぶものが何であるのかは、渚にはわからなかった。ただ、山々に残雪の残る早春のこの地に帰ってきた時、渚の心には不思議に静かな安らぎがあった。あの東京では、求めて自虐的に生きていた。いつ死んでもいいと思っていた。しかしあの地では、結局は、何があっても死ねなかっただろう。しかし、この故郷の地においてなら、どんな死であろうとも死ねる。そしてそれはつまり、生きられるということなのだと、渚は思った。

 

 渚にすれば、まさに帰郷であったのだが、しかし、学閥の強い医者の世界の筋から言えば、他県の大学を出た渚は、この郷里の地では、余所者(よそもの)であった。地元の大学の医局が、県内のほとんどあらゆる病院のポストを握っていた。渚自身は、挨拶にも行かなかったが、地元の大学の出であった兄が根回しをし、ようやくこの県北の小さな県立病院に入ることができたのだった。それとても、のちに知ることになるのだが、この病院がある事情で大学からは敬遠されていて、医局からは提示されてもここに赴任したがる医者が長年いなかったことに加えて、たまたまひとりの内科医長が、本人の都合でここから他の病院へ転勤することになり、後任の補充がつかないで立ち往生していたという巡り合わせに支えられてのことであった。

 転出した前任の医長は地元大学の出身であり、残った医長、茂手木は、四国の生まれで、かつ京都の大学の出身だった。渚以上に余所者(よそもの)のはずの茂手木が、なぜこの地に勤務しているのか、初め渚にはよくわからなかったが、のちになって、この地の大学の教授が月に一度回診にくること、その教授が京都の大学の出身であることを茂手木に聞いた時に理解ができた。茂手木に言わせれば、大学のスタッフにするということで教授に請われてこの新潟の地に来たのだが、来てみれば教授もやはりある程度は地元の連中を登用しないわけにはいかず、しばらく時期を待てということで、この病院に赴任させられた、ということだった。

 前任の医長は、渚の初出勤の日から、一週間だけ、オリエンテーションをかねて一緒に勤務してから去った。彼は、この期間、あまりストレートには感情を示さず、茂手木のことについても、病院のことについても、渚に先入観を与えるようなことは極力言うまいとしているように思えた。渚が問うても、すべて先生御自身で見ていかれることです、としか言わず、一方、何か悩みごとができたら、いつでも私に声をかけて下さい、外からですが、できる限りのお手伝いはします、と言った。

 そして、その「悩みごと」は、すぐにさまざまの形で発生してきた。だが、渚は、この前任の医長に相談にはいかなかった。もはやここで生きる決意をした以上、何ごとも、自らの判断と責任で乗りこえて、ここに生きる場を築くしかないと思いつめていた。

 

 医長の茂手木と渚は、外来を週に三日づつ受け持ち、六十人の入院患者も、半分づつ担当しあったが、患者の振り分けは茂手木が行い、渚は、渡されたリストに従っただけだった。他に、十人ほどの結核病棟の患者があって、これも茂手木が半分ほどを渚の担当にした。茂手木が、どういう基準で患者をふり分けたのかは、よくわからなかった。ただ、
「私と私の患者はね、曰く言いがたい信頼関係、いわば、『阿吽((あうん)の呼吸』で結ばれているんでしてね」
 と、わかったような、わからないような言い方をしただけだった。基本的には、渚を医者としての力量において信用していないことは確かだった。渚は、それを当然と思ってはいた。しかし、部屋別という区分けをしないで、同じ部屋の中に、茂手木と渚の両方の患者が混在するという形にしたことは、茂手木の誤算だったのかもしれない。思いも寄らない波紋がやがて生じてきた。

 患者たちは、二人の医者を「比較」し始めたのだった。そして「判断」し始めた。

 その「判断」の根拠は、あまり論理的ではなかった。どちらが、より親切で、丁寧で、寛容で、勤勉であるか、……それは、医学的に、どちらの医者が自分の病根を真に断つ力を持っているか、という「判断」ではなく、いわば、「人気」のレベルの問題であった。……のちになって渚は、この論理的でない「判断」をする患者たちが、実はもっと根源的な「判断」をも下す人々であることを知るに至る。しかし、この時点ではまだ、渚は、この人々の「判断」に困惑するしかなかった。

 茂手木は、午前中の外来を終えると、すぐに医師宿舎に帰り、ほとんど夕方まで家にいた。夕方、病棟に現れると、看護婦も連れず、矢のような早さで自分の患者の回診をして、すぐに消えた。その上、週に二日は、「大学へ行く」と言って朝から不在となり、夕方帰ってきて、形だけの回診をしていた。看護婦たちは、問題点を上申するひまもなかった。 自分は十分に患者のことは把握しているので、「枝葉末節のことが多い」看護婦の上申など自分には不要だと、ある時、看護婦室で茂手木は言った。「枝葉末節」と言われて看護婦も傷ついたが、渚も、それを患者たちに対する侮辱、茂手木の傲岸として不快に思った。

 いわばいつでも留守居役の渚に対して、看護婦たちは、茂手木の患者についても、指示や臨時の診察を求めてくるようになった。熱発をしている、痛みを訴えている、意識が混濁してきている、喀血をした、そして、時には、酔ってクダを巻いている、などなどと……。「大学」へ行っている茂手木を探しても、その所在はつかめなかった。しかたなく渚は、折々に、茂手木の患者の何人かを診察した。ふだんの病状をつかもうとカルテを開いても、ほとんど何の役にも立たなかった。カルテは、真っ白で、何の記載もなかった。看護婦の説明を頼りに、渚は診察するほかなかった。

 やがて、患者の中から、自分の主治医を渚に変えてくれ、と主任に申し出るものが出てきた。主任の直井は、どうしたものだろう、と渚に相談してきたが、それが茂手木の神経をさかなですることになるのは目に見えていた。渚は「無理じゃないか」と言い、主任も何とか患者をなだめたりしているようだった。しかし、ある時、ひとりの患者が、直接、茂手木に対して、俺は渚先生の方にしてもらいたい、と言った。茂手木は、憮然とした表情で回診から帰ってくると、渚に、この患者は明日から君にお願いします、と言って帰った。渚は主任の直井と黙って顔を見合わせ、おたがいに暗い表情になった。

 それは、単なる始まりだった。次の日から、あたかも伝染病が広がるように、主治医を変えて欲しい、という申し出があいついだ。なかには、外科の病院長に、主治医を変えてくれと、直訴しにいく者もあった。

 病院長は、茂手木のことをふだんから快く思っていなかった。自分も加わっての医局での月例の会食に加わらずにいる茂手木の態度を、自分に対する反抗、挑戦と考えていた。彼にとっては、一矢を報いるいい機会だった。彼は茂手木を院長室に呼び、患者からこういう話が出てきたが、内科のことは医長である茂手木が責任を持って掌握すべきである、こんなことを患者が私に言ってくるようでは困る、と皮肉をこめて言った。……渚に対する茂手木の態度が、みるみる固くなっていった。彼は、どこで出会っても、目礼する渚を無視して通り過ぎた。渚の中にも、しだいに憤りが高まっていった。
(私が何をしたというのか、彼らの「選択」をさか恨みする前に、こうしたことを招いた理由を、まずあなた自身の中に探してみるべきではないのか。……)                

 渚は、茂手木の留守のあいだに診ざるをえなかった茂手木の患者について、カルテに、訴えの内容や、自分が下した判断と処置について記載をしていたが、茂手木は、それらをすべて無視し続け、一方で、病室の患者に向って、しきりに渚の悪口を言い始めた。それを耳にした時、渚は、何という低劣な次元の戦いが始まってしまったのだろうと思った。

 そんなある日、茂手木の言う、「自分を連れてきた」教授の回診があった。月に一度、という話だったが、多忙で二回ほど欠け、渚が来てからこれが初めての回診だった。

 この数日前から、茂手木は猛然と自分の患者の検査を始めた。驚いたことに、はるかに日付をさかのぼってカルテの記載も始めた。まさにカルテの捏造(ねつぞう)だった。主任の直井に尋ねると、いつもこうなんですよ、患者さんがかわいそうなんです、と言った。

 当日の朝、茂手木は渚に、午後から教授が来るので一緒に回診についてくれ、と言った。渚は、すぐには同意の返事をしなかった。自分の大学にいるあいだ、渚は、大学闘争の継続として、教授回診にはつかない姿勢を通してきていた。それは、教授会権力に対するささやかな抵抗だった。

 大学を去って、この田舎町に来て、今また教授回診などという煩瑣なことに巻き込まれたくはなかった。渚の拒否的な姿勢を感知して茂手木は、この病院の当直医はすべてこの教授の好意で派遣してもらっているのだからと、くどくどと説明をした。要するにこのことには、茂手木の顔を立てろ、という含みもあるのだな、と渚は思った。こんなことで、茂手木との関係が多少とも修復されるというのなら、……と渚は考えて、答えた、
「教授回診につく、というよりも、ひとりの先輩医師の意見を聞いて学ぶ、という意味でなら参加させてもらいます」

 茂手木は、あきらかにホッとしたが、その内心を隠すように、急に、医長として申し渡す、という態度で、何人かの患者を、教授に呈示する用意をしておくようにと命じた。

 

 その日は、早くから、病院の車が、約五十キロ離れた新潟市の大学まで教授を迎えにいき、その車が午後二時頃につくと、事務長と婦長が玄関まで出迎えに出た。

 渚は茂手木の紹介で教授に挨拶をした。看護婦室での病歴の概要の説明が終わると、教授を先頭にして回診が始まった。いや、正確には、茂手木を先頭にしてと言うべきであったろう。茂手木は、教授の斜め前を腰をかがめて先導して歩き、病室のドアをドア・ボーイよろしく開閉し、ベッド・サイドでは、メモを片手に、教授が何かを言うたびに、ハッとかしこまってメモをするのであった。日頃の茂手木の言動からは想像もつかない、ほとんど卑屈としか言いようのない姿であった。教授が、絶対的権力を握っていた時代の医局員の姿はこうだったのかと、亡霊を見るような思いがしたと同時に、茂手木の人格の多重性をあらためて見た気がして、渚は複雑な気持だった。

 

 茂手木は、京都の大学の文学部哲学科を出てから、医学部に入り直し医者になっていた。茂手木の家には、確かに哲学書が多くあり、日常の会話の中でも何かにつけて、哲学的言辞を弄したが、それは衒学的(げんがくてき)な印象を与えて、多くの場合むしろ反撥を買っていた。

 初めて茂手木の家を訪れた時、渚は、どこから玄関にたどりついたらよいのかと、途方にくれた。道路から玄関先まで、至る所に、大小さまざまな石が、所せましとばかりに置いてあり、本来の通路の踏み石はその中に埋もれてしまっていた。そしてようやくに玄関にたどりついて扉を開けてもらうと、そこもまた、石、石であった。さらに廊下の両側にも石があって、さすがに応接間にはなかったが、さすがに、というのは渚の感覚であって、茂手木自身はきっと応接間にも石を置きたかったのに違いない。事実、以前には、部屋の中にも石がごろごろしていたのだ、と古参の看護婦のひとりが言っていた。彼女が、部屋の中ぐらいは片づけたらどうです、と言うと、やっと片づけたのだという。物置も、今は石で一杯で、子供用の自転車などが、置き場所もなく雨ざらしになっていた。

「石は何も言わん。しかし、石の重み、石のきめは無限の時を語りかけてくる。どんな石でも美しい」と、その時、茂手木は言った。渚は、その時はこの茂手木の言葉に特に違和感も感じなかったし、むしろ親しみを感じて聞いていた。しかし、この、石を愛する哲学者が、ひとたび病院に入ると、一方ではひどく無責任で投げやりに、そしてもう一方ではひどく泥くさく世俗的になるのだった。

 

 初めて渚が訪うた同じ日、茂手木は、自分の処方は「一剤主義」だ、と誇らしげに言った。それは、処方薬を極力少なくして、やむをえぬ場合にのみ、ほかのものを加える、ということだった。これにも異論はなく、理想的にはそうあるべきだ、と渚も思っていた。 しかし、現実には、彼の患者は、驚くほどの多剤を投与されていた。何よりの驚きは、彼の処方における精神安定剤などの向精神薬の多用であった。

 自分は患者とは『阿吽(あうん)の呼吸』で結ばれている、と茂手木が言った真意は、のちになって渚にもわかったが、目に見えぬ絆の存在はもちろん大切ではあっても、茂手木の診療の仕方は、あまりにも恣意的で、いわば私物化しているように思えたし、また、異常な量の精神安定剤の投与は、患者の諸々の訴えを病気に根ざすものとして見ず、患者の精神のゆがみに起因するものとして見る見方への偏りに思えた。さらに言えば、患者の訴えにゆっくりと耳を傾けて聞く姿勢も時間もあえて持とうとしない彼が、患者の「うるさい訴え」の方を「消す」ことをむしろ選んでいる、というようにも思えた。

 また茂手木は、自分が長年にわたり、どれほど県の病院局と、院長の意向に応えるべく努力してきたか、(そして、それに対していかに正しく評価してもらえなかったか)ということをしきりに渚に言ったが、その「努力」とは、病院の医療の質を良くする努力ではなく、「経営」を良くするための努力に他ならなかった。茂手木は、意図的に入院患者の数を増やし、その退院をできるだけ引き伸ばし、できるだけ仕入れ価格の安い「利益幅」のある薬を、しかも数多く与え、入院患者のほとんどに同じような検査や点滴をしていた。

 その検査も、点滴も、彼の決めたセットのものばかりであることを見れば、彼にとっては、患者のAもBもCも、ほとんど「個」としての存在ではなく、患者たち、という集団にすぎないことは明らかだった。彼の言う、看護婦たちの把握する「枝葉末節」のことの中にこそ、時には、医者に対しては表さない患者たちの苦悩や怯えが見えもする、それに心を割くことなく行われる診療とは、何なのだろうと、渚は考えるのだった。

 検査結果の分析や評価はなおざりにしたまま、検査の回数ばかりが多くなされていた。「採血性貧血」などという皮肉な言葉が、看護婦たちによってささやかれていた。

「前の検査の結果もまだ聞かされていないのに何でそんなに血ばかり取るんだ」と言われる私たちの立場も考えて欲しいわ、と言う看護婦もいたが、茂手木自身に向って直接に言われない限り、それはどこまでも「陰口」でしかありえなかったし、何よりも、そうした看護婦の憤りが、「私たちの立場」に対するものであって、「患者の立場」のための憤りになっていないことを、渚は残念に思った。

 茂手木はまた、自らを「反体制的]な生き方をつらぬいてきたと誇らしげに言い、渚がネクタイにワイシャツといった姿で出勤すると、先生はまたえらく「体制内的」なスタイルですなあ、と揶揄して言ったりしていたが、教授の来訪した日、それこそネクタイにワイシャツの正装をして、腰をかがめて案内している茂手木の姿もまた、そんな彼の「分裂」に見えた。回診後の医局での茶飲み話は、むしろ親しい雰囲気の中で進み、渚には、この教授自身もまた茂手木のこの卑屈な態度を決して快くは思っていないのがよく見えた。

 茂手木は、大学のポストを願って、教授に「尽して」きていた。しかし、すでに五年が経ってみれば、彼のためのポストなど、もはやありうるはずもなかった。渚には、それがすぐに見えた。今なおそれの見えないのが、他ならぬ茂手木だったのだろう。茂手木が、耐えて担ってきたものは、「反体制的な姿勢」ではなく、彼の自負心を傷つける「冷遇」だったのだと、渚は思った。その点では、茂手木は、気の毒な人だとも言えた。……しかし、もともと博士号とか大学のポストなどというものには、背を向けて生きてきた渚にとっては、この「不遇」から何ひとつ前進の契機を見いださず、いまだに幻想の上に自分の自負心を支えて生きている茂手木は、やはり、ひとつの病根を断ち切れない病者に思われた。石を愛する哲学者の医師であるならば、このような俗っぽいものに対する執着を捨てて、病者にこそ深い心を向ける、優しい医師にもなれように、と渚は思うのだった。

 茂手木の医長室は、扉をあけたとたんにワッとばかりに崩れ落ちてきそうに、ただただ、ひたすらに、すべてのものが上へ上へと積み重ねられていて、時々崩れ落ちてきた本やレントゲン・フィルムは無造作に脇へ押しのけられ、崩れてできた上の空間に再びものが乗せられていく、という恐るべき状態になっていた。

 見かねた事務職員が、少し片づけましょうか、と申し出て、これが私の「秩序」なのだから、手を出すな、と叱られ、以来、誰も手を出さないでいた。

 厚手の曇りガラスで、茂手木の部屋と渚の部屋は仕切られていたが、書き物をしている渚の背後で、ドサドサと何かの崩れ落ちていく音がいつもした。その音を聞きながら、渚は、茂手木の荒廃した心の崩れていく音のように、いつも感じるのだった。

 渚は、茂手木に反撥し、茂手木の対極に立つことによって、知らず知らず、自分の張りつめた感情を保っていた。茂手木は渚にとって、反面教師であり、まさに文字通りの意味で渚は茂手木からも多くを逆説的に学んでいた。渚は、考えていた、病院の現場における茂手木の無気力、あるいは、疲労は、ただ単に彼個人の人格に起因する問題なのだろうか、それとも、この「医」という人間の業の中に、本来的に「脱力」に陥らせる根源的な限界、必然の敗北が内在しているのだろうか、と。……茂手木への反撥が、感情的な反撥に終わっている限り、その対者の存在がフイとはずれれば、自分は失墜することになるだろう、茂手木は、所詮は反面教師であるにすぎず、その彼への反撥がそのままで自分の生きる柱となることはないのだ、では、どこに自分の柱はあるのか、……「医」もまた人間のひとつの業にすぎず、あらゆる人間の業と同じように限界を持っている、そしてもしもその限界を乗りこえていく道があるとすれば、それはまた、すべての人間の業(わざ)の限界を乗りこえていく道と同じもののはずである、そして、それは、何か、……と。


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