レッスン6 「感謝瞑想」は効果抜群じゃよ

仙 想念観察は順調に進んでおるかね?


武 要領はわかってきたんですけど、「ちくしょう、あの野郎!」とか「俺のこと馬鹿にしやがって」とか、いつまでもネガティブ(否定的)な想念と追いかけっこしているような感じで、ちょっと焦っています。
  全然成長してない・・・


仙 君たちの諺に「石の上にも三年」というのがあるじゃろ? 
  三十年の人生でついたアカを落とすんじゃから、そう簡単にはいかんよ。


武 ・・・ということは、清算するのにこれから残りの人生すべてがかかるっていうんですか?


仙 君次第では、一瞬にして変わることだってできるんじゃ。
  だいたい、君は力が入りすぎているからいかんのじゃよ。
  想念観察は底無しなんじゃから、もっと肩の力を抜いて気長にやるんじゃ。


武 えっ、じゃあ想念観察に終点はないんですか?


仙 そうじゃ。
  その人間の成長段階に応じていくらでも新たな発見があるんじゃ。
  君の場合、「成長しなければ、変わらなければ」という焦りのウラに、女に早くモテたいという打算が働いていることも観察できて欲しいんじゃがね。


武 でも何かこう、着実に歩んでいるっていう実感がないと、根気が続きません。


仙 君の変化は君の周りの変化という形で確実に実現する・・・これは真実じゃ。
  これが実感できないのなら、自分の錯覚した姿に君自身気づいてない点が、まだまだあるということなんじゃよ。


武 それだけ、俺は矛盾に満ちているってことか・・・何だか絶望的・・・


仙 何じゃ、落ちこんでおるのかね?
  ネクラじゃのう・・・それなら、今日はそんな時のために効果抜群の奥義を授けようかね。


武 ほ、ほんとですか? 教えて下さい!


仙 君のようなネガティブ想念オンパレード人間にはうってつけの万能薬じゃ。
  それは、名づけて「感謝瞑想」じゃ!


武 な、何ですか、それ?


仙 ありとあらゆることに対して「ありがとうございます」と感謝していく・・・
  ただそれだけじゃ。
  もちろんネガティブな想念に対してもじゃ。
  どうかね? 簡単じゃろ?


武 何かと思えば「一切に感謝しなさい」だなんて、どこかの宗教みたいだ。 


仙 宗教でやっている「感謝」など、特定の対象に向けられたものでしかないんじゃ。
  感謝することによる見返り、御利益なども期待しておる・・・
  そんなものと一緒にしてもらっては困るんじゃ。
  そもそも、やりもせんうちから、君は何を言っておるんじゃ!
  感謝するということは一番「賢明な」選択なんじゃよ。


武 そんな・・・近道はない、みたいなことをいつもは言っておきながら・・・


仙 誤解せんで欲しいね。
  わしらは努力は必要だとはいったが、苦行をしなさいとは言っておらんぞ。


武 僕には「苦行」に受け取られる時がありますよ・・・


仙 日本でもどこかの坊主たちがやっておるが、苦行はあまり効果がない。
  なぜなら苦行に耐えたその事実にばかり満足し、停滞してしまうからじゃ。
  苦行は一つのプロセスにすぎない、という自覚を持った上でやるならいいが、最終目標と考えるのならやらん方がましじゃ。
  わしらの教えている方法は、生涯かけてやるものじゃから、坊主の一時的苦行などより、よっぽど効果があるんじゃ。


武 「何にでも感謝しなさい」と言いますけど、ネガティブなものにまで感謝していたら、ますますネガティブなものを引き寄せるんじゃないですか?


仙 そうではない。
  感謝とは究極の喜びであり、マイナス(ネガティブ)状態を中和する作用があるんじゃ。


武 ??? よく判りません。


仙 もともと、人間の意識は進化するのじゃから、この世の中に生まれて学習する以上、「なぜ? どうして?」という「疑問」の想念がやってくるのは当たり前なのじゃ。
  ただ、それ自体には善も悪もない。


武 それがネガティブな想念とどういう関係にあるんですか?


仙 この「疑問」想念がマイナス方向に色付けされ、増幅されたものがネガティブ想念として感知されるんじゃよ。
  疑念、疑惑、不信じゃね。
  これがさらに発展して、憎しみや嫉妬心、殺人願望にまで行き着くんじゃ。
  では逆に疑問が解けるとどうなるかね?


武 安心というか、嬉しいというか・・・


仙 そうじゃね。
  疑問が解けて納得すると、その疑問は喜び、感謝に変化するんじゃ。
  だからマイナス・ネガティブなもの、に常に感謝し続けるということは、それらを手っ取り早く中和する行為になるんじゃよ。


武 なんだか言いくるめられているみたいだ・・・


仙 よくよく、君の「ネガティブ想念」の根を掘ってみるんじゃ。
  そのほとんどは、「人が、世の中が理解できない、信じられない」という、否定的性質で色付けされているはずじゃ。


武 そうやってネガティブなことを考えている自分が嫌になる時があります。
仙 ネガティブ想念は、仲間を増やしてくれそうな人間、つまりネガティブ大好き人間はもちろん、ネガティブなものを拒否し、否定しようとする人間の元へも好んでやってくるんじゃ。
  肯定も同じじゃが、否定という刺激を受けても、想念は増殖するんじゃよ。


武 結局、何にでも感謝するっていうのは、「すべてを肯定する」ってことなんですね?


仙 そういうことじゃ。
  君みたいにワガママ放題で生きてきた人間には特にやって欲しいね。
  今まで君は適当な反発の理由を付けて、あらゆるものを拒否し続けてきた・・・
  いわば君は「ミスター・否定」じゃね?


武 ・・・そこまでひねくれているのかなぁ?


仙 君はたびかさなる否定で重くなった身体を,一生懸命に引きずろうとしているんじゃよ。
  今まで自分を変化させるきっかけが掴めず、ただただ流されるだけの人生をやってきたんじゃからな。
  流されること、苦痛を味わうこと、そして苦痛から逃げることが、当然のこととして、意識の中に定着してしまったわけじゃろ?


武 そ、そうなんでしょうか?


仙 「人生は苦である」なんて仏教で教えているくらいじゃからムリもないのう。
  「あなただけでなくみんな苦しいんだよ。仕方ないんだから我慢しなさい」と、苦痛の連帯感をつくることでしか、昔の坊さんは人を説得できなかったんじゃよ。
  しかし、そんな教えでは誰も救われないんじゃ!


武 でも前に「みんな安い給料で働いてるんだから」って言ったじゃないですか?
  それこそ、苦痛の連帯感じゃないんですか?


仙 あれは君の錯覚を指摘する道具として使っただけであって、別に「みんなと一緒に苦痛の想念を感じなければならない」とまでは言っておらん。
  感謝を続けることとは、自分の錯覚を検証していくことでもあるんじゃ。


武 「錯覚の検証」ってどういうことですか?


仙 君は仕事や給料に感謝することで「生かされている」という事実に気づけるはずなんじゃがね。


武 「生かされている」って・・・
  僕は誰にも頼らず、一人で食ってますが?


仙 そこが大きな間違いなんじゃ!
  君の会社は君自身がつくったものかね?
  君に用意された仕事は「他の、世の中の人々の需要」があって初めて成り立つのであり、そのおかげで君は飯にありつけるんじゃろうが?
  その他の周りの環境、親兄弟、そして君の肉体も・・・何ひとつ君の力や努力で手に入れたものはないじゃろ?


武 ・・・そう言われればそうですね。


仙 感謝を続けていくことによって、そうやって段々と自分の足元の事実に気づいていく・・・それを錯覚の検証と言ったんじゃ。


武 いちいち指摘されないと感謝する気になれないんだよなぁ。


仙 だからすべてに感謝なんじゃよ。
  何にでも感謝していくことで、自然と今、今、今に集中するようになってくる・・・自分の足元に注目せざるを得なくなるんじゃよ。
  想念観察も並行してやることじゃね。


武 生きてることにも感謝、ですか?


仙 当たり前じゃ!
  そもそも君たちは、今この地球に住んでいるということがどれほどの「愛」の賜物か、全然気づいておらん!
  意識体の進化にとってはこれ以上ない環境だというのに、何の感謝もない!


武 ・・・(無言)
  君たちは「自分の力で生きているつもり」になっているだけなんじゃ。
  この勘違いから、浪費で地球上をゴミだらけにし、好き勝手に戦争をして核実験までしておる・・・君たちはどこまで原始的な生き物なのか!
  そんな方向で進んだ文明の末路を知っておるか?


武 ・・・他にも今の地球のような惑星があったんですか?


仙 もちろんじゃ。
  そして最終的には必ず、自分たちの住む惑星を破壊しておる・・・
  それが宇宙の現実なんじゃ。
  わしらが見てきたそれらの事実、教訓を踏まえて、感謝していくことの重要性を教えておるんじゃよ。
  君たち一人一人が幸せを実感することが重要だと言っておる。
  そのためには「生かされている」ことを真に実感して欲しいんじゃ。


武 ありがとうございます・・・とここでは素直に言えます。


仙 君の場合、朝から晩まで「ありがとうございます」百万回じゃ!
  感謝瞑想が君には一番の特効薬じゃよ。


武 本当にそれでいいんですか?


仙 わしゃ十万年の経験から君に言っておるんじゃよ。
  やるしかないんじゃ!
  やった上で文句を言うなら聞いてやるよ!
  何もやらないうちから文句を言うとは何ごとじゃ!
  十年早いわい!


武 ・・・じゃあ、なるべくやるようにしてみます・・・


仙 感謝が徹底してくると君の意識は生き生きしてくる・・・これは事実じゃ。
  意識に生気がもどれば、その変化は肉体に現われる。
  つまり幸せそうに見えるわけじゃね。
  そうすればギャルがワンサカ寄ってくる・・・
  どうじゃ、嬉しいじゃろ?


武 そ、それならガンバリます! 早速実行します!


仙 君も現金な奴じゃのう・・・ふぉーっふぉーっふぉーっ・・・

 



解説

Q 感謝瞑想するとどんな効果があるのか、具体的に教えて下さい。

 感謝瞑想は「百利あって一害なし」・・・感謝瞑想は万能の特効薬です。精神的な病のほとんどに効き目があるといっても差し支えないでしょう。これは決して大げさではありません。まさに絶大な効果があります。ざっとあげただけでも次の三つがあげられます。

・エネルギーアップ
 感謝すればするほど、他の存在との一体感を強く意識することになります。これは、[自−他]の境界が次第に薄れ、あなたという「器」が拡大することを意味します。この結果、拡大した分の宇宙エネルギーが、この器に入ってきます。このエネルギーはあらゆる細胞を活性化し,その老化を遅らせ、同時に覚醒、気づきを加速します。

・振動数の上昇
 あなたの意識の振動数が高まります。この結果、周波数の高い放送局にチューナーが設定されますので、周波数の低い放送局を受信することはなくなります。

・観察力の向上
 目の前のあらゆることに感謝することは、当然ながら今、現在に集中することにもなります。従って、一歩ひいた、冷静な視点で現実を見ることができるようになります。


Q 素直に感謝できるものがなかなか見当たらないのですが?

 それは、あなたが感謝に対してプラスの(ポジティブな)イメージを持っていることによります。その結果、あなたは自分に利益をもたらすものにしか感謝できません。いわば打算や都合に基づいた感謝、バランスの崩れた感謝になってしまいます。
 感謝とはプラス(ポジティブ/善)でもマイナス(ネガティブ/悪)でもない、中立の状態をさします。とすれば、この世の中に存在するもので、感謝できないものなど一つもないはずなのです。
 不快、不満と感じられる人、場面に出くわすことがあります。しかし、その出会いがなければ、あなたは否定的にものごとを受け取っている自分の意識状態に気づくことすらありませんでしたね?
 社会で「悪」を演じている人々も、たまたま今回の人生で、そういう役回りになっているだけです。彼らも、意識の深いところでは、不安や恐怖でいっぱいなのです。このような、汚れ役を引き受けた勇気ある人がいるからこそ、他の人々は教訓を得ることができるのではないでしょうか?

 あなたは、生まれてから今までに出会った人々とのさまざまな触れ合いによって成長してきました。その中には反面教師もいたことでしょう。そして今、当たり前のように使っている身の回りの品々のおかげで不便を感じることなく生活することができます。道路、交通手段、衣服、食べ物、水、住居・・・なくてはならないものばかりです。
 自分一人では生きられる人はいないのです。そして、あなた自身もなくてはならない一人です。すべてのものが、お互いどこかでつながり合い、支え合って生きています。このことに常に常に気づいていれば、あなたはいつのまにか感謝の中で生きていることになるでしょう。


Q 「ネガティブ」想念に感謝することが、なぜ有効なのですか?

 「ネガティブ」想念とは、外からの刺激に対して、怒り、恐怖といった形で「ネガティブ」に反応したその結果に過ぎません。感謝はプラス(ポジティブ)でもマイナス(ネガティブ)でもない、中立の波動ですから、刺激に対して「ネガティブ」に反応する前に、無公害の状態に中和して返す作用があるのです。
 ネガティブな想念が次々に浮かんできたら、「あっ、出てきた出てきた。どんどん流そう。これは川の水なんだ。ありがとう、ありがとう・・・」と、感謝して流して下さい。出てきた数だけ「ありがとう」を唱えてみるのもよいでしょう。自分を「感謝の波動」に持っていくことが肝要です。

 ただし、注意して欲しいのは、「ありがとう」のお題目を唱えて「逃げる」ことが感謝瞑想の主旨ではない、ということです。「ありがとう」は言葉ではなく,姿勢や気持ちであり,中立の意識(波動)に同調するプロセスなのです.

 「あいつ死んでしまえ」という想念が流れた
  ↓良くない ↓ とりあえず「ありがとう」を連発 ↓ これで安心

 このような図式に至る背景には「善人志向」・・・つまり「今の自分を見たくない、嫌だ」という発想があります。これでは自分を直視するどころか、逃避しているわけですから、逆効果といえます。それに、想念として出てしまったものは、後戻りしません。
 そもそも想念は、あなた自身が気づけないあなたの傾向、性質をわざわざ教えてくれているわけですから、そのことに対して感謝するのはあたりまえ、とは思いませんか? たとえ自分に都合の悪い出来事であっても、何かの「教訓」があるという感謝の姿勢で臨むことができれば、それはすべて学びのための教材に変化するのです。