日本文学名作名文館

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作品名作家名特質 ページ
雪国川端康成美しさと哀しみと第1ページへ
城の崎にて志賀直哉小説の神様第2ページへ
墨東奇談永井荷風江戸と西洋と下町で第2ページへ
高瀬船森鴎外多才な啓蒙作家第3ページへ
草枕夏目漱石近代文学の創始者か第3ページへ
刺青谷崎潤一郎豪奢な牡丹花第3ページへ
初恋/新生島崎藤村抒情と懺悔・告白第4ページへ
千恵子抄高村光太郎彫刻家・詩人美の探究者第4ページへ
田園の憂鬱佐藤春夫悲壮美と東洋風詩人第5ページへ
小さき者へ有島武郎人生の求道者第5ページへ
走れメロス/女学生太宰治無頼派・新戯作派第6ページへ
枯野抄芥川龍之介大正文学の鬼才第7ページへ
赤蛙島木健作自然と個人から社会を洞察第7ページへ
風立ちぬ堀辰雄愛と死の抒情者第8ページへ
檸檬梶井基次郎康成に心酔・清澄な文体第8ページへ
旅愁横光利一新感覚派の籏手第9ページへ
リツ子・その愛檀一雄豪放な浪漫的生涯第10ページへ
布団田山花袋古い美学の破壊者第10ページへ
鏡の中の少女/草の花福永武彦内面の洞察と美の探求第11ページへ
天の夕顔中川与一ゲーテのウェルテルに匹敵?第11ページへ
俘虜記大岡昇平戦後文学の知的良心第12ページへ
桜島梅崎春生極限の人間存在と究極の愛第13ページへ
猟銃井上靖詩情とロマンと第14ページへ
金閣寺三島由紀夫憂国の美学者第14ページへ
をんなのひと永井龍男簡潔な文体の短編小説の名手第15ページへ
秋の組曲串田孫一詩情豊かな卓越した描写第16ページへ
プールサイドの小景庄野潤三日常の中の哀切第16ページへ
砂の女安部公房人間存在を前衛的作品に第17ページへ
ノルウェイの森村上春樹 即物的リアリズムで青春の彷徨と葛藤を 第18ページへ
野いばら梶村啓二 それぞれの時代と海を越えて懸命に生きる人々を、快い完璧な文章で描写 第19ページへ

第1ページ



雪国〜川端康成

国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。〜略〜
もう3時間も前のこと、島村は退屈まぎれに左手の人差指をいろいろに動かして眺めては、結局この指だけが、 これから会いに行く女をなまなましく覚えている。〜略〜
、 ふとその指で窓ガラスに線を引くと、そこに女の片目がはっきり浮き出したのだった。彼は驚いて声をあげそうになった。 しかしそれは彼が心を遠くへやっていたからのことで、気がついてみればなんでもない、向こう側の座席の女が写ったのだった。 外は夕闇がおりているし、汽車の中は明かりがついている。それで窓ガラスが鏡になる。けれども、 スチイムの温みでガラスがすっかり水蒸気に濡れているから、指でふくまでその鏡はなかったのだった。〜略〜
鏡の底には夕景色が流れていて、つまり写るものと写す鏡とが、映画の二重写しのように動くのだった。 登場人物と背景とはなんのかかわりもないのだった。しかもじんぶつは透明のはかなさで、風景は夕闇のおぼろな流れで、 そのふたつが融け合いながらこの世ならぬ象徴の世界を描いていた。殊に娘の顔のただなかに野山のともし火がともった時には、 島村はなんともいえぬ美しさに胸が震えたほどだった。〜略〜
汽車のなかもさほど明るくはなし、ほんとうの鏡のように強くはなかった。反射がなかった。だから、島村は見入っているうちに、 鏡のあることをだんだん忘れてしまって、夕景色の流れのなかに娘が浮かんでいるように思われ来た。〜略〜

そういう時彼女の顔のなかにともし火がともったのだった。この鏡の映像は窓の外のともし火を消す強さはなかった。 ともし火も映像を消しはしさなかった。そしてともし火は彼女の顔のなかを流れて通るのだった。 しかし彼女の顔を光輝かせるようなことはしなかった。冷たく遠い光であった。小さい瞳のまわりをぼうっと明るくしながら、 つまり娘の目と火とが重なった瞬間、彼女の眼は夕闇の波間に浮ぶ、妖しく美しい夜光虫であった。〜略〜
いつのまに寄ってきたのか、駒子が島村の手を握った。島村は振り向いたが黙っていた。駒子は火の方を見たままで、 少し上気した生真面目な顔に焔の呼吸がゆらめいていた。島村の胸に激しいものがこみ上げて来た。駒この瓶はゆるんで、 咽は伸びている。そこらにつと手をやりそうになって、島村は指先がふるえた。島村の手も温まっていたが、 駒子の手はもっと熱かった。なぜか島村は離別が迫っているように感じた。〜略〜
入口の方の柱かなにかからまた火が起きて燃え出し、ポンプの水が一筋消しに向かうと、 棟や梁がじゅうじゅう湯気をたてて傾きかかった。
あっと人垣が息を呑んで、女の体が落ちるのを見た。〜略〜
「ああっ。」
駒子が鋭く叫んで両の眼をおさえた。島村は瞬きもせずに見ていた。
落ちた女が葉子だと、島村にも分かったのはいつのことだったろう。〜略〜
幾年か前、島村がこの温泉場へ駒子に会いに来る汽車のなかで、葉子の顔のただなかに野山のともし火がともった時の さまをはっと思い出して、島村はまた胸が震えた。一瞬に駒子との年月が照らし出されたようだった。 なにかせつない苦痛と悲哀もここにあった。〜略〜

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  2008.10.1開館

第2ページ


城の崎にて〜志賀直哉

山の手線の電車に跳飛ばされて怪我をした。其後養生に、一人で但馬の城崎温泉へ出掛けた。 背中の傷が脊椎カリエスになれば致命傷になりかねないが、そんな事はあるまいと医者に言われた。 二三年で出なければ後は心配はいらない、兎に角要心は肝心だからといわれて、それで来た。〜略〜
自分の部屋は二階で、隣のない、割に静かな座敷だった。読み書きに疲れるとよく縁の椅子に出た。 脇が玄関の屋根で、それが家へ接続する所が羽目になっている。其の羽目の中に蜂の巣があるらしい。 虎斑の大きな肥った蜂が天気さえよければ、朝から暮近くまで毎日忙しそうに働いていた。〜略〜 ある朝の事、自分は1疋の蜂が玄関の屋根で死んで居るのを見つけた。足を腹の下にぴったりとつけ、 触角はだらしなく顔へたれ下がっていた。他の蜂は一向に冷淡だった。巣の出入りに忙しくその脇を這いまわるが 全く拘泥する様子はなかった。忙しく立働いている蜂は如何にも生きている物という感じを与えた。 その傍らに一疋、朝も昼も夕も、見る度に一つ所に全く動かずに俯向きに転がっているのを見ると、 それが又如何にも死んだものという感じを与えるのだ。それは三日ほどその儘になっていた。それは見ていて、 如何にも静かな感じを与えた。淋しかった。他の蜂が皆巣に入って仕舞った日暮、 冷たい瓦の上に一つ残った死骸を見る事は淋しかった。然し、それは如何にも静かだった。〜略〜


墨東奇談〜永井荷風

わたくしは多年の習慣で、傘を持たずに門を出ることは滅多にない。いくら晴れていても入梅中のことなので、その日も 無論傘と風呂敷とだけは手にしていたから、さして驚きもせず、静にひろげる傘の下から空と町のさまざまを見ながら 歩きかけると、いきなり後方から、
「檀那、そこまで入れてってよ。」
といいざま、傘の下に真白な首を突込んだ女がある。 油の匂で結ったばかりと知られる大きな潰島田には長目に切った銀糸をかけている。わたくしは今通りがかりに硝子戸を明け放した 女髪結の店であった事を思出した。
吹き荒れる風と雨とに、結立の髷にかけた銀糸の乱れるのが、いたいたしくみえたので、わたくしは傘をさし出して、
「おれは洋服だからかまわない、」
実は店つづきの明い灯火に、さすがのわたくしも相会傘には少しく恐縮したのである。
「じゃ、よくって。すぐ、そこ。」
と女は傘の柄につかまり、片手に浴衣の裾を思うさままくり上げた。
稲妻がまたぴかりと閃き、雷がごろごろと鳴ると、女はわざとらしく、
「あら」
と叫び、一歩後れて歩こうとするわたくの手を取り、
「早くさ。あなた。」
ともう馴れ馴れしい調子である。
「いいから先へお出で。ついて行くから。」
路地へ入ると、女は曲がるたびごとに、迷わぬようにわたくしの方に振返りながら、やがて溝にかかった小橋をわたり、軒並一帯に 葦ずの日覆をかけた家の前に立留った。
「あら、あなた。大変に濡れちまったわ。」
と傘をつぼめ、自分のもよりも先に掌でわたくしの上着の雫を払う。
「ここがお前の家か。」
「拭いて上げるから、寄っていらっしゃい。」
「洋服だからいいよ。」
「拭いて上げるっていうのにさ。わたしだってお礼がしたいわよ。」
「どんなお礼だ」
「だから、まアお這入りんなさい。」〜略〜

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第3ページ


高瀬舟〜森鴎外

智恩院の桜が入相の鐘に散る春の夕べに、これまで類のない珍しい罪人が高瀬舟に載せられた。
それは名を喜助と云って、三十歳ばかりになる、住所不定の男である。固より牢屋敷によびだされるやうな親類はないねので、 舟にもただ一人で乗った。〜略〜
其日は暮方から風が止んで、空一面を蔽った薄雲が、月の輪郭をかすませ、やうやう近寄って来る夏の温かさが、 両岸の土からも川床の土からも、霞になって立ち昇るかと思われる夜であった。下京の町を離れて、加茂川を横ぎった頃からは、 あたりがひっそりとして、只舳に割かれる水のささやきを聞くのみである。
夜船でねることは、罪人にも許されているのに、喜助は横になろうともせず、雲の濃淡に従って、 光の増したり減じたりしる月を仰いで、黙っている。其額は晴れやかで目には微かなかがやきがある。〜略〜
庄兵衛は心の内に思った。これまで比高瀬舟の宰領をそたことは幾度だか知れない。 しかし載せていく罪人は、いつも殆ど同じように、目も当てられぬ気の毒な様子をしていた。それに比男はどうしたのだろう。 遊山船にでも乗ったやうな顔をしている。罪は弟を殺したのだそうだが、よしや其弟が悪い奴で、 それをどんな行掛りになって殺したにせよ、人の情として好い心持はせぬ筈である。この色の蒼い痩男が、 その人の情と云うものが全く欠けている程の、世にも稀な悪人であらうか。どうもさうは思はれない。 ひょっと気でも気でも狂っているのではあるまいか。いやいや。それにしては何一辻褄の合わぬ言葉や挙動がない。 比男はどうしたのだろう。庄兵衛がためには喜助の態度が考へれば考へる程わからなくなるのである。〜省略〜
庄兵衛はこらへきれなくなって呼び掛けた。「喜助、お前何を思っているのか。」〜略〜



草枕〜夏目漱石

山路を登りながら、こう考えた。
智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。
住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生まれて、画が出来る。
人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向こう三軒両隣にちらちらするただの人である。ただの人が作った 人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなし国へ行くばかりだ。 人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。
越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容(くつろげ)て,束の間の命を、束の間でも住みよく せねばならぬ。ここに詩人という天職が出来て、ここに画家という使命が降る。あらゆる芸術の士は人の世を長閑(のどか)にし、 人の心を豊かにするが故に尊とい。
住みにくき世から、住みにくき煩いを引き抜いて、有難い世界をまのあたりに写すのが詩である。 画である。あるいは音楽と彫刻である。こまかに云えば写さないでもよい。ただまのあたりに見ればよい。 そこに詩も生き、歌も湧く。〜略〜
世に住むこと、二十年にして、住むに甲斐ある世と知った。二十五年にして明暗は表裏の如く、 日のあたる所にはきっと陰がさすと悟った。三十の今日はこう思うている。−−〜略〜


刺青〜谷崎潤一郎
日はうららかに川面を射て、八畳の座敷は燃えるやうに照った。水面から反射する光線が、無心に眠る娘の顔や、障子の紙に 金色の波紋を描いてふるへて居た。部屋のしきりを閉て切って刺青の道具を手にした清吉は、暫くは唯恍惚としてすわって 居るばかりであった。彼は今始めて女の妙相をしみじみ味わう事が出来た。その動かぬ顔に相対して、十年百年この一室に静座 するともなほ飽くことを知るまいと思はれた。古のメムフィスの民が、荘厳なるエジプトの天地を、ピラミッドとスフィンクスとで 飾ったやうに、清吉は清浄な人間の皮膚を自分の恋で彩らうとするのだった。
やがて彼は左手の小指と無名指と拇指の間に挿んだ絵筆の穂を、娘の背にねかせ、その上から右手で針を刺して行った。 若い刺青師の霊は墨汁の中に溶けて、皮膚に滲んだ。焼酎に交ぜて刷り込む球球朱の一滴一滴は、彼の命のしたたりであった。 彼は其処に我が魂の色を見た。
いつしか午も過ぎて、のどかな春の日は漸く暮れかかったが、清吉の手は少しも休まず、女の眠りも破れなかった。〜略〜

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第4ページ


初恋・島崎藤村

まだあげ初めし前髪の
  林檎のもとに見えしとき
 前にさしたる花櫛の
          花ある君と思ひけり
やさしく白き手をのべて
     林檎をわれにあたへしは
 薄紅の秋の実に 
           人こひ初めしはじめなり
わがこころなきためいきの 
  その髪の毛にかかるとき
 たのしき恋の杯を 
         君が情に酌みしかな
林檎畑の樹の下に
        おのずからなる細道は
 誰が踏みそめしかたみぞと
      問いたまうこそこひしけれ

新生〜島崎藤村

節子を見た眼で岸本は婆やを見た。婆やは流許に腰を曲めて威勢よく働いて居た。正直で、働き好きで、丈夫一式を自慢に 奉公して居るこの婆やは、肺病で亡くなった奮い学友の世話で、あの学友が悪い顔付はしながらもまだ床に就くほどではなく 岸本のところへよく人生の不如意を嘆きに来た頃に、そこの細君に連れられて目見えに来たものであった。水道の栓から迸る やうに流れ落ちて来る勢いの好い水の音を聞きながら鍋の一つも洗ふ時を、この婆やは最も得意にして居た。
何ちなく節子は一番彼女に近い婆やを恐れるやうに成った。それに関らず、彼女は冷静を保って居た。〜略〜
岸本は人知れず自分の顔を紅めずには居られなかった。もしあの河岸の並木のかげを往来した未知の青年のやうな柔い心をもった人が、 自分の行ひを知ったら。あの恩人の家の弘のやうに「兄さん、兄さん」と言って眞身の兄弟のやうに思って居て呉れる人や、 それから自分のために日頃心配して居て呉れる友人や、山の方にある園子の女の友達なぞが、聞いたなら。岸本は身体全体を紅くしても まだ羞じ足りなかった。彼は二十七歳で早くこの世を去った友人の青木のことなぞのも想い到って、「君はもっと早く死んで居た方が 好かった」とあのなくなった友達にまで笑われるやうな声を耳の底の方で聞いた。
もしこれが進んで行ったら終には奈何なるといふやうなことは岸本には考へられなかった。しかし、すくなくとも彼は自分に向って 投げられる石のあるといふことを予期しない訳に行かなかった。彼はある新聞社の主筆が法廷で陳述した言葉を思ひ出すことが出来る。 その主筆に言わせると、世には法律に触れないまでも見遁しがたい幾多の人間の罪悪がある。社会はこれに向かって制裁と打撃とを 加へねば成らぬ。新聞記者は好んで人の私行を摘発するものではないが、社会に代わってそれらの人物を筆誅するに外ならないのであると、 こうした眼に見えない石が自分の方へ飛んで来る時の痛さ以上に、岸本は見物の喝采を想像して見て悲しく思った。
昼と夜とは長い瞬間のやうに思われるやうに成って行った。そして岸本の神経は姪に負わせ又自分でも負った深傷に向かって注ぎ集まる やうに成って行った。〜略〜

智恵子抄〜高村光太郎

あどけない話
智恵子は東京に空がな無いという。ほんとうの空が見たいという。
私は驚いて空を見る。
桜若葉の間に在るのは、切っても切れないむかしなじみのきれいな空だ。

レモン哀歌
そんなにもあなたはレモン待っていた
かなしく白くあかるい死の床で
私の手からとった一とつのレモンを
あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ
トパアズいろの香気が立つ
その数滴の天のものなるレモンの汁は

ぱっとあなたの意識を正常にした
あなたの青く澄んだ眼がかすかに笑ふ
わたしの手を握るあなたの力の健康さよ
あなたの咽喉に嵐はあるが
かういふ命の瀬戸ぎはに
智恵子はもとの智恵子となり
生涯の愛を一瞬にかたむけた
それからひと時
昔山頂でしたやうな深呼吸を一つして
あなたの器官はそれなりとまった
写真の前に挿した桜の花かげに
すずしく光るレモンを今日も置こう

梅酒
死んだ智恵子が造っておいた瓶の梅酒は
十年の重みにどんより澱んで光をつつみ、
いま琥珀の杯に凝って玉のやうだ。
ひとりで早春の夜ふけの寒いとき
、 これをあがってくださいと、
おのれの死後に遺していった人を思ふ。
おのれのあたまの壊れる不安に脅かされ、
もうじき駄目になると思う悲に、
智恵子は身のまわりの後始末をした。
七年の狂気は死んで終った。
厨にみつけたこの梅酒の芳ある甘さを
わたしはしずかにしずかに味はう。
狂乱怒涛の世界の叫も
この一瞬を犯しがたい。
あわれな一個の生命を精しする時、
世界はただこれを遠巻きにする。
夜風も絶えた。

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第5ページ


田園の憂鬱〜佐藤春夫

その蝉は今生まれたばかりだといふ事は一目に解った。それはまだ極く軟かで体も固まっては居ないのである。 この虫はかうして身動きもせず凝呼ちしたまま、今、静かに空気の神秘にふれて居るのであった。 その未だ完成しない羽は全体は乳色で、言ふばかりなく可憐で、痛々しく、小さくちぢかんで居た。 ただそれの緑色の筋ばかりがひどく目立った。それは爽やかな快活なみどり色で、彼の連想は白く割れた種子を裂開いて 突出した豆の双葉の芽をありありと想い浮べたさせた。それはただその色ばかりでなく、羽全体が植物の芽生に髣髴して居た。 生まれ出るものには、虫と草との相違はありながら、或る共通な、或る姿がその中に啓示されて居るのを彼は見た。 自然そのものには何の法則もないかも知れぬ。けれども少なくもそれから、人はそれぞれの法則を、自分の好きなやうに看取 することが出来るのであった。尚ほ熟視すると、この虫の平たい丁度真上あたりに、極微小な、紅玉色でそれよりももっと 宝玉的な何ものかは、科学の上では何であるか(単眼といふものででもあらう)彼は知るよしもなかった。げれどもその美しさについては、彼自身こそ他の何人 より知っていると思った。その美しさはこの小さなとるにも足らぬ虫の誕生を、彼をして、神聖なものに感じさせ、礼拝させるためには、 なかんずく、非常に有力であった。〜略〜
唯一口に蛙鳴蝉騒と呼ばれて居るほど、人間には無意味に見える一生をするために、さうして彼等の命は僅かに数日ー 二日か三日か一週間であらうとは!自然は一たい、何のつもりでこんなものを造り出すのであらう。 いやいや、こんなものと言ってただ蝉ばかりではない、人間を。彼自身を?神が創造したと言われて居るこの自然は、 恐らくでたらめなのではあるまいか。さうして出たらめを出たらめと気付かないで解かうとする時ほど、それが神秘に見える 時はないのだから。いやいや何も解らない、さうだ、唯これだけは解るー蝉ははかない、さうして人間の雄弁な代議士の一生が 蝉ではないと、誰が言はうぞ。蝉の羽は見て居るうちに、目に見えて、そのちぢくれが引延ばされた。 同時にそれの半透明な乳白色は、刻々に少しづつ併し確実に無色で透明なものに変化して来るのであった。 さうしてあの芽生のやうに爽快であるけれどもひ弱げな緑も。それに応じて段々と黒ずんで、恰も若草の緑が常盤木の それになるやうな、彼はこれ等のもを二十分あまりも眺めつくして居る間にーそれは寧ろある病的な綿密さを以ってであったー 自ずと息が迫るやうな厳粛を感じて来た。
突然、彼は自分の心にむかって言った。
「見よ。生まれる者の悩みを。この小さなものが生まれるためにでも、此処にこれだけの忍耐がある!」
それから重ねて言った。
「この小さな虫は俺だ!蝉よ、どうぞ早く飛立て!」〜略〜

小さきものへ〜有島武郎

私は産室に降りていって、産婦の両手をしっかり握る役目をした。陣痛が起こるたび毎に産婆は叱るように産婦をはげましたて、一分も 早く産を終わらせようとした。しかし暫くの苦痛の後に、産婦はすぐ又深い眠りに落ちてしまった。鼾さえかいて安々と何事も忘れた ように見えた。産婆も後から駆けつけてくれた医者も、顔を見合わして吐息をつくばかりだった。医師は昏睡がくるたび毎に何か非常の 手段を用いようかと案じているらしかった。
昼過ぎになると戸外の吹雪は段々鎮まっていって、濃い雪雲から漏れる薄日の光が、窓にたまった雪に来てそっと戯れるまでになった。 しかし産室の中の人々にはますます重い不安の雲が蔽い被さった。医師は医師で、産婆は産婆で、私は私で、銘銘の不安に捕われてしまった。 その中で何等の危害をも感ぜぬらしく見えるのは、一番恐ろしい運命の淵に臨んでいる産婦と胎児だけだった。二つの生命は昏々と して死の方へ眠って行った。
丁度三時と思わしい時にー産気がついてから十二時間目にー 夕を催す光の中で、最後と思わしい激しい陣痛が起こった。肉の眼で恐ろしい夢でも見るように、 産婦はかっと瞼を開いて、あてどもなく一所を睨みながら、苦しげというより、恐ろしげに顔をゆがめた。そして私の上体を 自分の胸にたくし込んで、背中を羽がいに抱きすくめた。若しも私が産婦と同じ程度にいきんでいなかったら、産婦の腕は私の 胸を押しつぶすだろうと思う程だった。そこにいる人々の心は思わず総立ちになった。医師と産婆は場所を忘れたように大きな 声で産婦を励ました。
ふと産婦の握力がゆるんだのをかんじて私は顔を挙げて見た。産婦の膝許には血の気のない嬰児が 仰向けに横たえられていた。〜略〜

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第6ページ


走れメロス〜太宰治

メロスは、単純な男であった。買い物を、背負ったままで、のそのそ王城に入って行った。たちない彼は、巡邏の警使に捕縛された。調べられて、 メロスノ懐中からは短剣が出て来たので、騒ぎが大きくなってしまった。メロスは、王の前に引き出された。
「この短剣で何をするつもりであったか。言へ!」暴君ディオニソスは静かに、けれども威厳を以って問ひつめた。その王の顔は蒼白で、 眉間の皺は、刻み込まれたやうに深かった。「市を暴君の手から救うのだ」とメロス悪びれずに答えた。
「お前がか?」王は嘲笑した。「仕方のないやつぢゃ。おまえには、わしの孤独がわからぬ」「言うな!」とメロスは、いきり立って反駁した。 「人の心を疑うのは最も恥ずべき悪徳だ。王は、民の忠誠さへ疑って居られる」
「疑ふのが、正当の心構へなのだと、わしに教えてくれたのは、おまへたちだ。人の心は、あてにならない。人間は、もともと私欲のかたまりさ、 信じては、ならぬ」暴君は落ち着いて呟き、ほっと溜息をついた。「わしだって、平和を望んでいるのだが」
「なんの為の平和だ。自分の地位を守るためか。」こんどはメロスが嘲笑した。「罪のない人を殺して、何が平和だ」
「だまれ、下賎の者」王は、さっと顔を挙げて報いた。「口では、どんな清らかな事でも言へる。わしには、人の腹綿の奥底見え透いてならぬ。 おまえだって、いまに、磔になってから、泣いて詫びたって聞かぬぞ。」「ああ、王は悧巧だ。自惚れているがよい。私は、ちゃんと死ぬ覚悟 で居るのに。命乞ひなど決してしない。ただ、−−」と言ひかけた、メロスは足もとに視線を落とし瞬時ためらひ、
「ただ私に情けをかけたいつもりなら、処刑までに三日間の日限を与えて下さい。たった一人の妹に、亭主を持たせてやりたいのです。三日のうちに、 私は村で結婚式を挙げさせ、必ず、ここへ帰って来ます。」
「ばかな」と暴君は、しわがれた声で低く笑った。
「とんでもない嘘を言ふわい。逃がした小鳥が帰ってくるといふのか」
「さうです。帰って来るのです」メロスは必死で言ひ張った。
「 私は約束を守ります。私を三日間だけ許してください。妹が、私の帰へを待っているのだ。 そんなに私のを信じらないならば、よろしい。この市にセリヌンティウスといふ石工がいます。私の無二の友人だ。あれを、人質としてここに置いて行かう。 私が逃げてしまって三日目の日暮れまで、ここに帰って来なかったら、あの友人を絞め殺して下さい。たのむ。さうして下さい」
それを聞いて王は、残虐な気持ちで、そっと北鼠笑んだ。生意気なことを言うわい。どうせ帰って来ないにきまっている。この嘘つきに 騙された振りして、放してやるのも面白い。さうして身代わりの男を、三日目に殺してやるのも気味がいい。人は、これだから信じられぬと、 わしは悲しい顔して、その身代わりの男を磔に処してやるのだ。〜略〜

女生徒〜太宰治

あさ、眼をさますときの気持は、面白い。かくれんぼのとき、押入れの真っ暗い中に、じっと、しゃがんで隠れていて、 突然、でこちゃんに、がらっと襖をあけられ、日の光がどっと来て、でこやんに、「みつけた!」と大声で言われて、 まぶしさ、それから、へんな間の悪さ、それから、胸がどきどきして、着物の前を合わせたりして、ちょっと、てれくさく、 押入れから出て来て、急にむかむか腹立たしく、あの感じ、いや、ちがう、あの感じでもない、なんだか、もっとやりきれない、 箱をあけると、その中に、また小さい箱があって、その小さい箱をあけると、またその中に、もっと小さい箱があって、 そいつをあけると、また、また、小さい箱があって、その小さい箱をあけると、また箱があって、そうして、七つも、八つも、 あけていって、とうとうおしまいに、さいころくらいの小さい箱が出て来て、そいつをそっとあけてみて、何もない、からっぽ、 あの感じ、少し近い。パチット眼がさめるなんて、あれは嘘だ。濁って濁って、そのうちに、だんだん澱粉が下に沈み、 少しずつ上澄みが出来て、やっと疲れて眼がさめる。朝は、なんだか、しらじらしい。悲しいことが、たくさんたくさん胸に浮んで、 やりきれない。いやだ。いやだ。朝の私は一ばん醜い。両方の脚が、くたくたに疲れて、そうしt、もう、何もしたくない。 熟睡していないせいかしら。朝は健康だなんて、あれは嘘。朝は灰色。いつもいつも同じ、一ばん虚無だ。朝の寝床の中で、 私はいつも厭世的だ。いやになる。いろいろ醜い後悔ばっかり、いちどに、どっとかたまって胸をふさぎ、身悶えしちゃう。
朝は意地悪。
「お父さん」小さい声で呼んでみる。へんに気恥ずかしく、うれしく、起きて、さっさと布団をたたむ。 布団を持ち上げるとき、よいしょ、と掛声して、はっと思った。私は、いままで、自分が、よいしょなんて、 げびた言葉を言い出す女だとは、思っていながった。よいしょ、なんて、お婆さんの掛声みたいで、いやらしい。 どうして、こんな掛声を発したのだろう。私のからだの中に、どこかに、お婆さんが居るようで、気持がわるい。 これからは、気をつけよう。ひとの下品な歩き恰好を顰蹙していながら、ふと、自分も、 そんな歩きかたしているのに気がついた時みたいに、すごく、しょげちゃった。
朝は、いつでも自信がない。寝巻のままで鏡台のまえに坐る。眼鏡をかけないで、鏡を覗くと、 顔が、少しぼやけて、しっとり見える。〜略〜

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第7ページ


枯野抄〜芥川龍之介

芭蕉はさっき、痰咳きにかすれた声で、覚束ない遺言をしたあとは、半ば眼を見開いた儘、昏睡の状態にはいったらしい。うす痘痕(いも) のある顔は、顧骨(かんこつ)ばかり露に痩せ細って、皺に囲まれた唇にも、とうに血の気はなくなってしまた。殊に傷しいのはその眼の色で、 これはぼんやりした光を浮かべながら、まるで屋根の向こうにある。際限ない寒空でも望むように、徒に遠い所を見やっている。 「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる。」−−事のよるとこの時、このとにとめのない視線の中には、三四日前に彼自身が、その辞世の句に詠じた通り、 茫々とした枯野の暮色が、一痕の月の光もなく、夢のように漂ってでもいたのかも知れない。
{水を。」
木節はやがてこう云って、静かに後にいる治郎兵衛を顧た。一椀の水の羽根楊子とは、既にこの老僕が、用意して置いた所である。 彼はその二品をおずおず主人の枕元へ押し並べると、思い出したように又、口を早めて、専念に称名を唱え始めた。治郎兵衛の素朴な、 山家育ちの心には、芭蕉にせよ、誰にもせよ、ひとしく彼岸に往生するのなら、ひとしく又、弥陀の慈悲にすがるべき筈だという、 堅い信念が根を張っていたからであろう。
一方又木節は、「水を」と云った刹那の間、果たして自分は医師として、万方を尽くしたろうかと云う、何時もの疑惑に遭遇したが、 すぐに又自ら励ますような心もちになって、隣にいた其角の方をふりむきながら、無言の儘、ちょっと合図をした。 芭蕉の床を囲んでいた。一同の心に、愈愈と緊張した感じが咄嗟に閃いたのはこの時である。が、緊張した感じと前後して、 一種の弛緩した感じがーー伝わば、来る可きものが遂に来た云う安心に似た心もちが、通りすぎた事も亦争われない。 唯、この安心に似た心もちは、誰もその意識の存在を肯定しようとはしなかった程、微妙な性質のものであったからか、 現にここにいる一同の中では、最も現実的な其角でさえ、折から顔を見合わせた木節と、際どく相手の目の中に同じ心もちを 読み会った時は、流石にぎょっとせずにはいられなかったのであろう。彼は、慌しく視線を湧き側へ外らせると、 さり気なく羽根楊子をとりあげて、
「では、御先へ」と、隣の去来に挨拶した。〜略〜

赤蛙〜島木健作

何かを期待してぢっと一所を見つめているといふのは長いものだ。それは長く思はれたが、五分は経たなかっただろう。赤蛙は 再び動き出した。前と同じように流れの方に向かって。そして飛び込んだ。これも前と同じに。一生懸命に泳ぎ、 押し流され、水中に姿を没し、中洲の突端に取りつき、這い上がり、またもとの所へ来てうずくまる、−− 何から何までがまえのが前のときとおなじ繰り返しだった。そして今不思議な見ものを見るやなおもひでぎょし凝視している私の目の前で、 赤蛙は又もや流れへ向かって歩きだしたのである。
私は赤蛙をはじめて見つけた時、その背なかの赤褐が、濡れたやうに光っていたことを思い出した。して見ると私は初めから見たのではない。 私が見る前に、赤蛙はもう何度もこの繰り返しをやっていたものかわからない。
「馬鹿なやつだな!」私は笑ひだした。
赤蛙は向こうに渡りたがっている。しかし赤蛙はそのたびに何もわざわざ今渡ろうとしているその流れをえらぶ必要はないのだ。 下が一枚板のやうな岩になっているために速い流れをなしている所が全部ではない。急流のすぐ上に続くところは、澱んだゆっくりとした流れになっている。 流れは一時そこで足をとめ、深く水をたくわえへ、次の浅瀬の急流にそなへてでもいるやうな所なのである。その小さな淵の上には、柳のかなり大木が枝 さへ垂らしているといふ、赤蛙にとっては誂へ向きの風景なのだ。なぜあの淵を渡らうとはせぬのだらう? 
 私がそんなことを考へていいる間にも、赤蛙は又も失敗して戻ってきた。私はそろそろ退屈しはじめていた。 私は道路から幾つかの石を拾ってきて、中州を目がけて投げはじめた。赤蛙を打とうといふ気はなかった。私はただ彼を驚かしてやりたかった。 彼に周囲を見まはすきっかけをつくり、気づかせてやりたかった。石は赤蛙の周囲に幾つも落ちた。速い流れにも落ちた。淵に落ちて、どぶんといふ音 はこっちを見よいふかのやうだった。赤蛙はぴくっとしたやうに頭を上げたり、ちょと立ち止まったりしたが、しかし結局 予定通り動くことをやめなかった。飛び込んで泳ぐこともやめなかった。
 私は石を投げることをやめて、また石の上に腰を下ろした。
 秋の日はいつか日がかげりつつあった。山や森の陰の所は薄蒼くさへなって来ていた。私は冷えが来ぬうちに帰へらねばならなかった。 しかし私は立ち去りかねていた。
 次第に私は不思議な思いにとらはれはじめていた。〜略〜

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風立ちぬ〜堀辰雄

それらの夏の日々、一面に薄の生い茂った草原の中で、お前が立ったまま熱心に絵を描いていると、 私はいつもその傍らの一本の白樺の木陰に身を横たえていたものだった。そうして夕方になって、 お前が仕事をすませて私のそばに来ると、それからしばらく私達は肩に手をかけ合ったまま、 遥か彼方の、緑だけ茜色を帯びた入道雲のむくむくした塊りに覆われている地平線の方を眺めやっていたものだった。 ようやく暮れようとしかけているその地平線から、反対になに何物かが生まれて来つつあるかのように・・・・〜略〜
私達の乗った汽車が、何度となく山を攀じのぼったり、深い渓谷に沿って走ったり、 又それから急に打ち開けた葡萄畑の多い台地を長いことかかって横切ったりしたのち、やっと山岳地帯へと果てしのないような、 執拗な登攀をつづけ出した頃には、空は一層低くなり、今まではただ一面に鎖ざしているように見えた真っ黒な雲が、 いつのまにか離れ離れになって動き出し、それらが私達の目の上に圧しかぶさるようであった。 空気もなんだか底冷えがしだした、上衣の襟を立てた私は、肩掛けにすっかり体を埋めるようにして目をつぶっている節子の、 疲れたと云うよりも、すこし興奮しているらしう顔を不安そうに見守っていた。彼女はときどきぼんやりと目をひらいて私の方を見た。 はじめのうちは二人はその度毎に目と目で微笑みあったが、しまいにはただ不安そうに互いを見合ったきり、すぐ二人とも目をそらせた。 そして彼女はまた目を閉じた。〜略〜
そのあたりの山だの丘だの松林だの山畑だのが、半ば鮮かな茜色を帯びながら、 半ばまた不確かなような鼠色に徐々に侵され出しているのを、うっとりとして眺めていた。 ときどき思い出したようにその森の上へ小鳥たいが放物線を描いて飛び上がった。〜略〜
私は、このような初夏の夕暮がほんの一瞬時生じさせている一帯の景色は、すべてはいつも見馴れた道具立てながら、 恐らく今を措いてはこれほどの溢れるような幸福の感じをもって私達自身にすら眺め得られないだろうことを考えていた。 そしてずっと後になって、いつかこの美しい夕暮が私の心に蘇って来るようなことがあったら、 私はこれに私達の幸福そのものの完全な絵を見出すだろうと夢みていた。 「何をそんなに考えているの?」私の背後から節子がとうとう口を切った。〜略〜

檸檬〜梶井基次郎

また其処の家の美しいのは夜だった。寺町通は一体に賑かな通りでーと云って感じは東京や大阪よりはずっと澄んでいるがー 飾窓の光がおびただしく街路は流れ出ている。それがどうした訳かその店頭の周囲だけが妙に暗いのだ。もともと片方は暗い 二条通に接している街頭になっているので、暗いのは当然であったが、その隣家が寺町通にある家にも拘らず暗かったのがはっきりしない。 然しその家が暗くなかたったら、あんなにも私を誘惑するには至らなかったと思ふ。もう一つはその家の打ち出した廂なのだが、 その廂が眼深に冠った帽子の廂のやうにーこれは形容といふよりも、「おや、あそこの店は帽子の廂をやけに下げているぞ」 と思はせるほどなので、廂の上はこれも真暗なのだ。 そう周囲が真暗なため、店頭に点かられた幾つもの電灯が驟雨のやうに浴びせかける絢爛は、 周囲の何者にも奪われることなく、ほしいままにも美しい眺めが照らし出されているのだ。 裸の電灯が細長い螺旋棒をきりきり眼の中へ刺し込んで来る往来に立って、 また近所にある鍵屋の二階の硝子窓をすかして眺めたこの果物店の眺めほど、その時どきの私を興がらせたものは寺町の中でも稀だった。
その日私は何時になくその店で買い物をした。といふのはその店には珍しい檸檬が出ていたのだ。檸檬などあるふれている。 が其の店といふのも見すほらしくはないまでもただあたりまへの八百屋にすぎなかったので、それまであまり見かけたことはなかった。 一体私はあの檸檬が好きだ。レモンエロウのチューブから搾り出して固めたやうなあの単純な色も、 それからあの丈の詰まった紡錘形の恰好も。−結局私はそれを一つだけ買ふことにした。それからの私は何処へどう歩いたのだろう。 私は長い間街を歩いていた。始終私の心を圧へつけていた不吉な塊がそれを握った瞬間からいくらか弛んできたとみえて、 私は街の上で非常に幸せであった。あんなに執拗かった憂鬱が、そんなものの一顆で紛らわさるー或るひは不審なことが、 逆説的な本当であった。それにしても心といふ奴は何と不思議な奴だろう。〜略〜

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旅愁〜横光利一

塩野は庭下駄を穿いて飛び石の上を渡り、目黒富士の傍へ近よっていった。薄闇の忍んでいる三角形の築山全体に杉が生えていて、 山よりも杉の繁みの方が量面が大きく、そのため目黒富士の苦心の形もありふれた平凡な森に見えた。しかし、八代は廊下に立って 塩野の背を見ながらも、やがて来るそうな千鶴子のことをふと思うと、争われず庭など落ちついて眺めていられなかった。 パリで別れてから、大西洋へ出て、アメリカを廻って来た千鶴子の持ち込んで来るものが、まだ見ぬ潮風の吹き靡いて来るような新鮮な 幻影を立て、広重の描いた目黒富士の直立した杉の静けさも、自分の持つ歴史に一閃光を当てられるような身構えに見えるのだった。
間もなく、庭の石灯篭の袋に火が入り、部屋の火影が竹林の足を染め出すころになって、 女中に伴われ千鶴子たち二人が廊下を渡って来た。〜略〜
その日の夜、矢代は夕食を千鶴子と一緒に摂って、午後の九時ごろ新橋の駅で別れひとり家に帰って来た。すると、 夜の明け初めるころになって彼には何とも分からぬことに出会ってしまった。それはいつものように、 自分の部屋でただ一人眠っていたときに見えた 夢だったが、しかし、それは夢とはいえ、また夢ともまったく違っていた。千鶴子が彼の横の別の夜具の中に寝ていたので、ある。 矢代は誰かに赦されて千鶴子と事実の結婚式を上げよと命ぜられたように思った。そのとき、 充血して来た彼女の口中から清水が湧き出し、 それは非常に美しく、見るまに千鶴子の喜々とした顔色は、いつもと違って全身小麦色になると、はち切れそうな筋肉の波が、 力強い緊迫で温度を高め始めて来た。〜略〜
矢代は湯の中かに千鶴子のいることを感じていた。昨日の朝はどういうものか浴場で顔を合わしたくなかったのに、今朝は間もなく別れて 千鶴子が帰るためもあって、その前に二人きりで話したく思い、絶えず彼は霧の底からあたりを見廻した。槙三から離れてただ二人きりになるためには、 実際この朝の浴場のひとときより矢代には時間がなかった。それも昨夕計らず千鶴子から云い出した婚約のこともあるのに、 まだこんな場所を選ばねばならぬ二人だと思うと、矢代は外国の旅というものの、二人が会うためにはいかに広く特殊な世界だったかを思い、 今さらに驚き振りかえってみるのだった。
彼は浴場を一回りしてみてから、隅の方で身体を流している婦人らしい人影の傍へ近よってみたが、身体の輪郭だけ朧に雲って見えるだけで、 やはり誰が誰だかよく分からなかった。そのうち寒けを感じて来たのでまた湯に入ろうとしかけたとき、
「あら。」 と千鶴子が不意に水面から顔を上げた。
「やあ、お早う。」矢代は全身鏡を受けたように感じて云った。
「いらしたの。」
「今さきです。」
 二人は湯に浸かったまま朝日の射し込んで来る窓を見上げてしばらく黙った。体で膨れた豊かな湯の列なりに、 乳色に染まった限界が雲間の浴みかと見えた。少し離れた位置をとると、もう顔も見わけのつかないほど霧が舞い込み、 ぶつかる湯の波紋が二人の顎の間できらきら光った。
「あれからよく眠れましたか。」と矢代は訊ねた
「あれからお手紙書いたの。後でお渡ししますわ。」〜略〜
久慈は真紀子とパリで別れるとき、特に別れ話を二人でしたわけでなく、また二人は争ったわけでもなかった。 東野の帰るという報せで偶然の便船を得た思いが、どちらにもしたというだけだった。二人の共同生活は、外国にいるかぎりのこととしたと云った 真紀子の言を、承認しあっていた結着が、まだそそままの折のこの会合なだけである。
しかし、実際の生活はもうはるか以前のパリ当時に破れていた。それ以後二人は文通もなく、帰国してからも久瀬は二たび真紀子と会おうとも 思わなかった。が、いま会ってみると、後悔もしなければ、真紀子を畏れる要もなく、千鶴子と並んでいる彼女の姿を眺めていても、 かっての共同の生活が、自分とは関係のない、、別個の異国におくる誰かの生活の絵を見るように、浮き上って来る愉しさが強かった。 おそらく真紀子にしても、同様に前の二人の生活を撫でさすって眺めているに相違あるまい。その互いに思い浮べた絵の方へ二人は近より、 懐かしく何かを云おうとしても、も早や、二人で作った絵の原型は、手も届かぬ遠景となって流れているのである。〜略〜

しかし、自分は真紀子を果たして愛していたのだろうか。−愛していたのは、むしろ千鶴子の方だったと彼は思った。それも、 そんなことに初めは気付かずに、次第に真紀子が彼に近づいて来れば来るほど、鮮明に矢代の方へ傾いて行く千恵子を眺め、 彼は失ってゆくもののさみしさを味わっていた。そして、間もなく彼は真紀子も千鶴子も忘れてしまったのである。しかし、 日本へ帰って最初に思い出したのは、やはり千鶴子のことだった。何ごとのためにか、すべてを欺いていたのも、 日を経るにつれ剥ぎ落ちて、その下から顕れて来るのは、白いレースの襟に浮ぶ千鶴子の眼だった。 自分の愛していることを自分で気づかぬなんてー
 パリにいるときも、じっとそうして一点をよく彼は見詰めたが、またいつもの癖が出て、それはそれとして慰められるたの多くの ことを知りもし、工夫もした。
「君のは愛ではない。大愛でもない拷問だ。」
いまだに千鶴子との結婚を延ばしている矢代にあて、そう書いた久慈も、実は、自分の気持ちをついに顕すことをさしひかえた自身の 偽りつづけた工夫かもしれなかった。〜略〜

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リツ子・その愛〜檀一雄

さうだ。今でもリツ子を愛していることに変わりはない。が、その愛、だ。
疑ひまなく、リツ子も私を愛してくれている。わたしの為に立ち上り、私の綻びを縫ってやらうと、よどんでゆく眼を、無理に指で ひきあけるほどの、切ない生への再起をのぞんでいる。もう本能的な生命への執着とは変わっている。私の為に立ち上がり、 太郎の為におきあがらねばならないというふうだ。
ついこの間も、枕元に立っていた私の足をリツ子が、そっとなでさすっているのに驚いた。性愛への、 満たされぬ淋しさとは違っているようだった。宛ら、仏像への帰依と、愛撫のやうだった。光の底で、私の皮膚のぬくもりを静かに感触し、 何物かをそっと祈念しているやうだった。私もためらって、しばらくその場が立去れないのである。  その愛情が、重荷である。愛情というものが、このやうに一方的に縋ってゆく、そいつが重荷なのである。みじめ過ぎるではないか。 リツ子に昔から感じられた、あの底抜けの善意と信頼が、病気によって誇張されている。 然し私の心の中に巣食ひはじめていった、空洞は、リツ子の善意と信頼をまぶし過ぎると思ったせいではない。 その善意と信頼が発するリツ子の自立性の問題なのだ。女の献身を受けて、決してとまどった訳ではない。対等の男女として、 愛が発し得ない、何かしら淋しい物足りなさである。 〜略〜
「寝たらいい。帰るか?」「もうきつい。とまらせて」媚のようではなく、本当に酔ったやうだった。女中を呼んで、部屋に寝かせた。 私は残りの酒を一二本 あふりながらすわっている。
リツ子の病臥の姿が眼に浮んだ。何か空漠な愛情が私の心の中にひろがってゆく。もう遠く、さぐり取れぬやうに肉体の印象はうすれていた。 とりとめ得るかな?あの命を。駄目だろう、とさう思った。コトリと大空の中に宝珠を取落としてしまっやうなうつろな悲しみが湧いて出た。 が、太郎を残して死に切れるか?あの不思議な俺達の混合物を。何かしら斬新な、手離しがたい生命の寵児を。今夜は蜜柑山で、 どんなことを考えているのだろうか。太郎のどんなに不思議な雪の夜だ?静子のお伽話かな、いや、太郎をぬくめている、雪の夜の、 お伽話のやうに寂しい不思議な肉体だらう。
すると、あああの生命だ、俺がさぐりとりたいのは、と唐突な渇くやうな静子への恋情を自覚した。
私は波ばかり厠に立って、はだら雪の庭土と小池を見下ろしながら、美代福の寝ている部屋に荒々しく渡っていった。〜略〜

布団〜田山花袋
小石川の切支丹坂がら極楽水に出る道のだらだら坂を下りようとして彼は考えた。「これで自分と彼女との関係は一段落を告げた。 三十六にもなって、子供も三人あって、あんなことを考えたかと思うと、ばかばかしくなる。けれど・・・けれど・・・ ほんとうにこれが事実だろうか。 あれだけの愛情を自身に注いだのはたんに愛情としてのみで、恋ではなかったろうか」
数多い感情ずくめの手紙、二人の関係はどうしても尋常ではなかった。妻があり、子があり、世間があり 師弟の関係があればこそあえて烈しい恋に落ちなかったが、語りあう胸の轟、相見る眼の光、その底にはたしかに凄まじい暴風が潜んで いたのである。機会に遭遇しさえすれば、その底の底の暴風はたちまち勢を得て、妻子も世間も道徳も師弟の関係もいっきょ 男は幾度も思った。 けれど文学者だけに、この男はおのずから自分の心理を客観するだけの余裕をもっていた 年若い女の心理は容易に判断し得られるものではない、 かの温い嬉しい愛情は、たんに女性特有の自然の発展で、美しく見えた眼の表情も、やさしく感じられた態度もすべて無意識で、無意味で、 自然の花が見る人に一種の慰藉を与えたようなものかもしれない。一歩を譲って女は自分を愛して恋してすることはできまい。いや、 さらに一歩を進めて、あの熱烈なる一封の手紙、陰に陽にその胸の悶を訴えて、ちょうど自然の力が、この身を圧迫するかのように、 最後の情を伝えてきた時、その謎をこの身が解いてやらなかった。女性のつつましやかなな性として、その上になお露わに迫って くることがどうしてできよう。そういう心理からかの女は失望して、今回のようなことを起こしたのかもしれぬ。〜略〜 最初の1月ほどは時雄の家に仮寓していた。華やかな声、艶やかな姿、今までの孤独な淋しいかれの生活に、 何らの対象!産褥から出たばかりの細君を助けて、靴下を編む、襟巻きを編む、着物を縫う、子供を遊ばせるという生生きした態度、 時雄は新婚当座にふたたび帰ったような気がして、家門近く来るとそそるように胸が動いた。門をあけると、玄関にはその美しい笑顔、 色彩に富んだ姿、夜も今までは子供と共に細君がいぎたなく眠ってしまって、六畳の室にいたずらに明らかな洋灯も、 かえって侘しさを増す種であったが、今はいかに夜更けて帰ってきても、洋灯の下には白い手が巧みに編み物の針を動かして、 膝の上に色ある毛糸の丸い玉!賑かな笑声が牛込の奥の小紫垣の中に充ちた。
けれど1月ならずして時雄はこの愛すべき女弟子をその家に置くことの不可能なのを覚った。従順なる家妻はあえてそのことに不満を 唱えず、それらしい様子も見せなかったが、しかもその気色はしだいに悪くなった。〜略〜
時雄は雪の深い十五里の山道と雪に埋れた山中の田舎町とを思いやった、別れた後そのままにしておいた二階に上がった。懐かしさ、 恋しさのあまり、かすかに残ったその人の面影を偲ぼうと思ったのである。武蔵野の寒い風のさんさんに吹く日で、 裏の古樹には潮の鳴るような音が凄まじく聞こえた。別れた日のように東の窓の雨戸を1枚明けると、光線は流るるように射しこんだ。 机、本箱、瓶、紅皿、依然としてもとのままで、恋しい人はいつものように学校に行っているのではないかと思われる、 時雄は机の抽斗を明けてみた。古い油の染みたリボンがその中に捨ててあった。時雄はそれを取って匂いを嗅いだ。 しばらくして立ち上って襖を明けてみた。大きな柳小行李が三個細引で送るばかりに絡げてあって、その向こうに、 芳子がつねに用いていた布団ーー萌黄唐草の敷布団と、綿の厚く入った同じ模様の夜着とが重ねられてあった。 時雄はそれを引きだした。女のなつかしい油の匂いと汗のにおいとがいいもしらず時雄の胸をときめかした。 夜着の襟の天鷲繊のきわだって汚れているのに顔を押しつけて、心のゆくばかりなつかしい女の匂いを嗅いだ。〜略〜

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鏡の中の少女〜福永武彦

五百木画伯は麻里の部屋の中にいた。
いつもは決して此処へはいったことはない。どんなに言っても、麻里は頑固に父親を自分の部屋へは通さなかった。あたし描きかけの絵を パパに見せるのは厭。
部屋の中には秘密と不安との匂いがした。画伯は窓を大きく開き、部屋の中を見廻した。壁に向こうむきに立てかけられた幾枚ものカンバス。 その鏡の側に、一枚だけこっち向きに置いてある不思議な絵。〜略〜
何という不安そうな顔、痩せた、蒼白い表情、嘲笑と憐憫とを湛えた口。鱗光のように輝いている眼。影のように散った髪。全体が縦に長く、 頭も、顔も、首も、異常なほどひょろ長い。そしてその顔は生きていた。
「麻里か?」
いな、麻里ではない、別の少女、気味の悪いほどよく似てはいるが、画伯のまるで知らない別の娘だ。それは生き、呼吸し、すぐそこに 画伯を見据えている。嘲けるように、父親を睨んでいる。
画伯は打ちのめされたように、その未完成の絵を見た。画家としてのメチエが、次第に冷静に、職業的関心を呼び起こす。 これは天才の絵だ。これが芸術というももだ。己が久しい以前に諦めてしまった芸術、それはつまりはこれだ。名声とか、尊敬とか、 そんな空虚なものとは全く関係のない、それ自体が生きている芸術、それが此処にある。そしてこれを描いたのは、己の娘の麻里だ。 己じゃない。
画伯は素早く空想した。もしもこの絵の背景を描き足して、己の作品だと言って、展覧会に出品したなら、批評家どもは何と言うだろう。 おどろくべき傑作、五百木は遂に此処に達したか。これが彼の新しい出発だ。みんなそう言って騒ぐだろう。
彼の顔にシニックな微笑が浮んだ。天才か。天才と呼ばれて早く死んだ友人たちの顔が、次々に浮んだ。無名の天才たち。 貧しく、みじめだった奴等。己が選んだのは職業としての絵かきだ。芸術としての絵画じゃない。しかし麻里は?
画家は気を取り直すと、急いで部屋を出て行った。〜略〜

草の花〜福永武彦
それは藤木が僕をあいしていることではないだろうか。こうしていたいということ、艪のなくなった舟のうえで、為すこともなく、 二人手を取り合って待っていたいということ、それは藤木がぼくをあいしている証拠ではないだろうか。いつまでもこうして、不安の 重味を量っていたいということは。僕は藤木のかぼそい身体を抱き寄せるようにした。
そして僕の意識の全領域を、あのいつもの眩惑、気の遠くなるような恍惚感が占めめた。もう森のことも矢代のことも考えなかった。 もう誰もいなかった。藤木と僕と、ただこの二人だけ。僕等を囲んで、天もなく海もなく、場所もなく時間もなかった。 風が吹こうとと波が荒れようと、この夜は永遠であり、この愛は永遠だった。 もう不安もなく絶望もなかった。僕の腕の中のこの肉体をあいしているという、皮膚のぴりぴりする緊張と、 愛されているという寡って知らなかった異常な感覚、気の遠くなるような飛翔感、藤木を抱いていながら何等やましさを感じないこの 精神と肉体との統一、ただこの陶酔が永遠にはてしないように・・・・・・。
ーああ月が出ます。
藤木の声が僕の内部を爽やかに突き抜ける。僕は眼を開く。〜略〜

天の夕顔〜中河与一

信じがたいと思われるでしょう。信じるということが現代人にとっていかに困難なことかということは、わたしもよくしっています。 それでいて最も信じがたいようなことを、最も熱烈に信じているという、この熱狂に近い話を、どうぞ判断していただきたいのです。
わたくしは一つの夢に生涯を賭けました。わたくしの生まれて来たことの意味は、だから言ってみれば、その儚なげな、しかし切なる 願いを、どこまで貫き、どこまで持ちつづけたかということになるのです。〜略〜
わたくしが初めてその人に逢ったのは、わたくしがまだ京都の大学に通っていたころで、そのころ、わたくしはあの人の姿を、 それも後ろ姿などを時々見てはまた見失っていたのです。格別美しい人とも思わなかったのですが、どんな関係の人か、 わたくししのいた素人下宿の、部屋の向こうなどで、見えているかとおもうと、またいつか見えなくなっているのでした。 間もなく、その人がそのうちの娘であり、今は結婚して誰かの夫人になっているのだということを知るようになりました。〜略〜
そんな時、丁度わたくしと逢ったのですが、弟のようなわたくしと交際することは、何か姉弟の親しさのように、 この上なく幸福であったが、もし自分が、あなたを愛しだしているのではないか、と考えると、 そのことに危険を感じだしたというのでした。
「今はいいけど、この上交際をつづけていると、わたくし、自分の立場が苦しくなりそうに思われて来ましたの。だから今日は、 お別れにまいりましたの」〜略〜
卓を隔てて端座している彼女には、何か威厳のようなもんが現れ、堅い決意を述べるその強さに圧倒され、わたくしは、 もう何も言う術も知りませんでした。
これが、わたくしが、彼女と逢って、彼女から突き離された最初でありました。
しかし、そのために、わたくしは今に至二十幾年、あの人のことを思いつづける運命を持つようになったのです。〜略〜
こういうことになるのを、どんなに恐れていたかしれないのに、またこんなことになってしまいました。今、夜の三時、 わたくしの眼の前には、あなたの少年の時のお写真が置いてあります。さっきから幾度わたくしはそれを頬に押しあてたことでしょう。 さんざん考えたあげく、もうお逢いすまいと、ずっと前、決心してお別れしたのに、それでもお逢いせずにはいられなくなって、 自分と自分を欺いて、自分の心が平静に帰ったと思っていたわたくしをお察しくださいませ。でもお逢いしてみると、 たちまちわたくしの心は切なく、苦しく、それはどうすればよいのかわからなくなる一方でございました。
思えば二年間して積みあげたわたくしの心も、ほんの三四度お目にかかるうちに、もうあとかたもなく、うちくだかれてしまいました。 わたくしのこの心の弱さをどうぞお笑いくださいませ。〜略〜

たった一日でも、半日でも、わたくしの心があの人のものでなかった時とてあっただろうか。 わたくしを喜ばす地上におけるたった一つのものが、今は無残にこわされようとしている・・・・
すると、あの人も、それがハッキリとわかったらしく、あの人は突然低い声で言ったのです。
「たとえ、わたくしは、この首が飛んでも、もうこの決心を動かそうとは存じません」
この言葉に、わたくしはハッと我に返りながら、一瞬、心がゆるむと、泣くに泣けぬ溜息が嗚咽のように胸から、迸り出るのを感じました。 その時、わたくしの悲しみと怒りは、深い嘆きに変わったのです。こんなに無言の中で、ポツリポツリ言葉を交わしながら、お互いの心が、 ありありと互いに読まれていることに、何か前世の宿縁のようなものを感じたのです。本当にあの人は、わたくしの殺意を、 手にとるように今はハッキリと読みとっていたのです。わたくしの心はわたくし以上にあの人にはわかていたのです。わたくしは決して 一人きりではない。あの人はあの人自身苦しんでいることを、ほんのさっきも告白した。 これ以上あの人を苦しめる権利がわたくしにあるだろうか。
わたくしはそう考えると、彼女の心にある苦悶が、その堪えきれないものが、一つの良心の姿となってわたくしを呼びつづけている ことに気付いたのです。
わたくしは堪えようと思いました。〜略〜

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俘虜記〜大岡昇平

山中で最後に米軍の爆撃をうけたとき、彼は火点観測のため単身前進し、迫撃砲の直撃弾をうけて、 一番先に戦死した。おそらく本望だっただろう。
一種の共感から私はこの若い将校をひそかに愛していた。私もまた私なりに、彼とはかなり違った意味においてであったけれど、 自分の確実な死を見つめて生きていたからである。
私はすでに日本の勝利を信じていなかった。私は祖国をこんな絶望的な戦いに引きずりこんだ軍部をにくんでいたが、 私がこれまで彼らを阻止すべく何事も賭さなかった以上、彼らによって与へられた運命に抗議する権利はないと思われた。 一介の無力な市民と、一国の暴力行使する組織とを対等に置くこうした考へ方に私はこっけいを感じたが、 今無意味な死にかりだされてゆく自己の愚劣をわらわないためにも、さう考へる必要があったのである。
しかし夜、関門海峡に投錨した輸送船の甲板から、下のはうを動いてゆく玩具のような連絡船の赤や青の灯をみながら、奴隷のやうに 死にむかって積みだされてゆく自分のみじめさが腹にこたえた。 出征する日まで私は「祖国と運命を共にするまで」といふ観念に安住し、時局便乗の虚言者もむなしく談ずる敗戦主義者も一からげに わらっていたが、 いざ輸送船にのってしまふと、たんなる「死」がどっかりと私の前に腰をおろして動かないのに閉口した。〜略〜
しかしいよいよ退路を遮断され、周囲で僚友がつぎつぎに死んでゆくのを見るにつれ、ふしぎな変化が私のなかで起こった。私は突然私の 生還の可能性を信じた。九分九厘確実な死は突然おしのけられ、一脈の空想的な可能性をえがいて、それを追求する気になった。 少なくともそのために万全をつくさないのは無意味と思われた。
明らかにこれは周囲に濃くなってきた死の影にたいする私の肉体の反作用であった。かうして異常な状態にあって、肉体がわれわれをして おこなはしめるものはすこぶる現実的であるが、その考へさすものはつねに荒唐無稽である。
私には一人の仲間があった。滋野はある漁業会社の重役の息子で、私と同年の、妻子ある男だった。彼は銃後の資本家のエゴイズムに愛想を つかし、(と彼はいっていた)その手先たらんよりは前線に出て一兵卒として戦ふことを夢みた。彼は内地で教育中、 前線出動の可能性をわざと軍に影響をもつ父親に知らさず、自ら内地に残る手段をたち切っていた。彼の夢は前線の状況を見て破れた。 彼はわが軍が愚劣に戦っていると判断し、「こんな戦場で死んぢゃつまらない。」と思ったといった。
このことばは私にとって一種の天啓であった。この死をむりに自ら選んだ死とするきょ傲が、一種の自己欺瞞にすぎないことに 私は突然思ひあたった。 こんなへんぴな山中でなすところなく愚劣な作戦の犠牲になって死ぬのは、「つまらない」ただそれだけなのである。 われわれは二人で比島脱出の計画を立てた。〜略〜

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桜島〜梅崎春生

山の上にある挺身監視隊長、谷中尉と言った。背が低い、がっしりした、眼の大きい男である。二十三四歳に見えた。 先日、博多が空襲にあった際、博多武官府にいたと言う。その時の話をした。博多は、私の古里であり、博多にいる私の 知己や友人のことを思い、心が痛んだ。
「美しく死ぬ、美しく死にたい、これは感傷に過ぎんね」
谷中尉は、煎豆の殻をはき出しながら、じりりと私の顔を眺め、そう言った。
日が暮れた。そして、一泊することに、心をきめた。遊ぼうと言うので、宿屋を出て、駅の裏手にあるという妓楼に出掛けて行った。 宿の女中に教えられた家は、暗い路の、生垣に囲まれた、妓楼らしくもないうらぶれた一軒屋である。まえの崖の下を、煙突から赤い 焔をはきながら、機関車がゆるゆる通る。パッと火の粉が線路に散ったりした。 星の見えない空には厚い雲の層が垂れているらしかった。
妓が一人しか居なかったのだ。そして、酒はなかった。谷中尉の発議で、私が籤をつくった。このような場所で女と寝るのも侘しく、 私は短い籤を引きたいと願った。しかし、私が長い籤にあたった。谷中尉は、お茶を一杯飲んだだけで、では、とわらいながら立ち上がった。 やや経って、玄関から門までの石畳を踏んで出て行く谷中尉の音がきこえて来た。しばらくして、妓が部屋に来た。
妓には、右の耳が無かった。
女と遊ぶ。このことが生涯の最後のことであることが、私にははっきり判っていた。桜島に行けば、もはや外出は許されぬ、暇さえあれば 眠らねばならぬような勤務が、私を待っているのだ。私は窓に腰をかけ、黙って妓を眺めていた。女は顔の半分を絶えず私の視線から隠す ようにしながら、新しく茶をいれた。にわかに憤怒に似た故知らぬ激しい感傷が、鋭く私の胸をよぎった。
「耳がなければ、横向きに寝るとき便利だね」
このような言葉を、荒々しい口調で投げかけてみたくてしょうがなかった。言わば、頭をかきむしるような絶望の気持ちでーー妓を侮辱 したかったのではない。この言葉を口に出せば、言葉のひとつひとつが皆するどい剣のようにはねかえって、私の胸に突き刺さって来るに きまっていた。口に出さずとも、もはや私の胸は傷ついているのではないか。私は、私自身を屈辱したかったのだ。生涯、女の暖かい愛情 も知らず、青春を荒廃させ尽くしたまま、異土に死んで行かねばならぬ自身に対し、 このような侮辱がもっともふさわしいはなむけではないのか。私は窓に腰かけたまま、じっと女の端麗な横顔に見入っていた。
「こわいわ」
視線を避けるように、妓はちょっと横を向いた。かすかに身ぶるいしたようであった。一瞬、右の半面が乏しい電燈の光に浮き上った。 地のうすい頭から、頬がすぐにつづいているべき部分は、ある種の植物の実の切口のように、蒼白くすべすべしていた。
「瞼を、どうしたの」
「崖から落ちたのさ」
「あぶないわね」
私は立ち上がって上衣を脱いだ。そして、時間が過ぎた。何の感興もない、ただ自分の肉体の衰えを意識するだけの短い時間のあいだ、 私はぼんやり外のことを考えていた。この町に、小さな汽車に乗ってやって来た。明朝はやくバスに乗って去る。一生のうち、初めて 訪れた町であり、もう訪れることはない。このうらぶれた妓楼の一夜が、私の青春のどのような終止符の意味をもつのだろう。 私は窓の下を通る貨物列車の音をわびしく聞きながら、妓と会話をかわしていた。
「桜島?」
妓は私の胸に顔を埋めたまま聞いた。
「あそこはいい処よ。一年中、果物がなっている。今行けば、梨やトマト。枇杷は、もうおそいかしら」
「しかし、私は兵隊だからね。あるからといって勝手には食えないさ。」
「そうね。可哀そうね。−ほんとに可哀そうだわ」
妓は顔をあげて、発作的にわらい出した。しかしすぐ笑うのを止めて、私の顔をじっと見つめた。
「そしてあなたは、そこで死ぬのね」
「死ぬのさ。それでいいじゃないか」
しばらく私の顔を見つめていて、急にぽつんと言った。誰に聞かせるともない口調でー
「いつ、上陸して来るかしら」
「近いうちだろう。もうすぐだよ」
「−あなたは戦うのね。戦って死ぬのね」
私は黙っていた。
「ねえ、死ぬのね。どうやって死ぬの。よう。教えてよ。どんな死に方をするの。」
胸の中をふきぬけるような風の音を、私は聞いていた。妓の、変に生真面目な表情が、私の胸の前にある。どういう死に方を すればいいにか、その時になってみねば、判るわけはなかった。死というものが、この瞬間、妙に身近に思われたのだ。 覚えず底知れぬ不吉なものが背筋を貫くのを感じながら、私は何気ない風を装い、妓の顔を見返した。 「いやなこと、聞くな」
紙のように光を失った顔から、眼だけが不気味に私の顔の表情につきささって来る。右の半顔を枕にぴったりと押し付けた。 顔がちいさく、夏蜜柑位の大きさに見えた。
「おたがいに、不幸な話は止そう」
「わだし不幸よ。不幸だわ」
妓の眼に、涙があふれて来たようであった。瞼を閉じた。切ないほどの愛情が、どっと私の胸にあふれた。
歯を食いしばるような気持ちで、私は女の頬に手をふれていた。〜略〜

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猟銃〜井上靖

その人は大きなマドロスパイプを銜えへ、セッターを先に立て、長靴で霜柱を踏みしだき乍ら、 初冬の天城の間道の叢をゆっくり分け登っていった。25発の銃弾の腰帯(バンド)、 黒褐色の皮の上衣、その上に置かれたチャチル2連銃、生きものの命絶つ白く光れる鋼鉄の器具で、 かくも冷たく武装しなければならぬものは何であろうか。行きずりのその長身の猟人の背後姿に、私はなぜか強く心惹かれた。
その後、都会の駅や盛り場の夜更けなどで、私はふと、ああ、あの猟人(ひと)のやうにあるきたいと思うことがある。 ゆっくりと、静かに、つめたくー。そんな時きまって私の瞼の中で、猟人の背景をなすものは、初冬の天城の冷たい背景ではなく、 どこか落莫ちした白い河床であった。そして一個の磨き光れる猟銃は、中年の孤独な精神と肉体の双方に、 同時にしみ入るやうな重量感を捺印(スタンプ)しながら、生きものに照準された時は決して見せない、 ふしぎな血ぬられた美しさを放射しているのであった。〜略〜


金閣寺〜三島由紀夫

・・・私は行為のただ一歩手前にいた。行為を導きだす永い準備を悉く終へ、その準備の突端に立って、あとはただ身を躍らせればよかった。 一挙手一投足の労をとれば、私はやすやす行為にたする筈であった。
私はこの二つのあひだに、私の生涯を呑み込むに足る広い淵が口をあけていやうとは、夢想もしていなかった。
といふのは、そのとき私は最後の別れを告げるつもりで金閣のはうを眺めたのである。
金閣は雨夜の闇におほめいてをり、その輪郭は定かでなかった。そせは黒々と、まるで夜がそこに結晶しているかのやうに立っていた。 瞳を凝らして見ると、三階の究境頂にいたって俄かに細まるその構造や、法水院と潮音洞の細身の柱の林も辛うじて見えた。 しかしかってあのやうに私を感動あせた細部は、ひと色の闇の中に融けさっていた。
が、私の美の思い出が強まるにつれ、この暗黒は恣まに幻を描くことのできる下地になった。この暗いうづくまった形態のうたに、私が 美と考へたものの全貌がひそんでいた。 思い出の力で、美の細部はひとつひとつ闇の中からきらめき出し、きらめきは伝播して、 つひには昼とも夜ともつかぬふしぎな時の光りの下に、金閣は徐徐にはっきりと目に見えるものになった。これほど完全に細緻な姿で、 金閣がその隅々まできらめいて、私の眼前に立ち現はれたことはない。私は盲人の視力をわがものにしたかのやうだった。 自ら発する光りで透明になった金閣は、外側からも、潮音洞の天人奏楽の天井画や、究境頂の壁の古い金箔の名残をありありと見せた。 金閣の繊巧な外部は、その内部とまじはった。私の目は、その構造や主題の明瞭な輪郭を、主題を具体化してゆく 細部の丹念な繰り返しや装飾を、対比や対称の効果を、一望の下に収めることができた。法水院と潮音洞の同じ広さの二層は、微妙な 相違を示しながらも、一つの深い軒庇のかがに守られて、いはば一双のよく似た夢、一対のよく似た快楽の記念のやうにかさなっていた。 その一つだでは忘却に紛れさうになるものを、上下からやさしくたしかめ会ひ、そのために夢は現実になり、快楽は建築になったのだ。 しかしそれも、第三層の究境頂の俄かにすぼまった形が戴かれていることで、一度確かめられた現実は崩壊して、あの暗いきらびやかな 時代の、高邁な哲学に統括され、それに服するにいたるのである。そして柿葺の屋根の頂き高く、 金銅の鳳凰が無明の長夜に接している。
建築家はなほそれだけでは満ち足りなかった。彼は法水院の西に釣殿に似たささやかな漱清を張り出した。 殻は均衡を破ることに、美的な力のすべてを賭けたかのやうであった。漱清はこの建築において、形而上学に反抗している。 それは決して池へ長々とさしのべられているのではないのに、金閣の中心からどこまでも遁走してゆくやうにみえるのである。 漱清はこの建築から飛び翔った鳥のやうに、今し翼をひろげて、池のおもてへ、あらゆる現実的なものへむかって遁れていた。 それは世界を規定する秩序から、無規定のものへ、おそらくは官能への橋を意味していた。さうだ。金閣の精霊は半ば絶たれた橋にも似た この漱清からはじまって、三層の楼閣を成して、また再び、この橋からのがれてゆくのである。〜略〜

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をんなのひと〜永井龍男

ガソリンの匂ひまで、新鮮なバス会社の朝。 通勤の人々を乗せて、初発から数本の定期車は動いているが、駅から海と山の名所を縫ふ観光バスは、まだ一台もでていない。 すっかり掃き清め、水をまいた、駅前のバス会社。着くバス、出て行くバスごとに、事務所のドアの明け立て、次第にしげくなるが、 ほかに脂粉の香をこめた、案内ガールの詰所だけは、ほがらかな歌声ももれて、朝日の濃くなるのを待っている。
鏡の中で話しながら、たんねんに口紅を、眉を引く者、針でボタンを縫ひつける者も、申込みの団体客が駅に着けば、帽子を粋に、 ちょっと斜めに、傾げてかぶりさへすれば、すぐにでも出発が出来る。
制服には、彼女達の血が通っている。胸のポケットや、腕につけた会社のマークまでが生々としたアクセサリーの役をしている。
「驚いちゃった。昨日の中学生達、変にませてるの!」
とか、
「あんたの車に乗った先生、ちょっと三船に似てたじゃないの」
とか、
「ほら、今度出来た、マーケットの中の、コロッケ屋?安くって、ちょっといけるわよ」
といふ類の会話も、制服を着ていさへすれば、働く人の張りを持った言葉になる。
みんな若く、若いといふだけで、すでにそれぞれ美しい。
予約の団体客の他にも、一日数回、、遊覧客を乗せて名所を巡るバスはある。帽子をかぶり、椅子へ片脚かけて、ストッキングを腿へ 引き直しているのが、今日のその初発の当番だ。
「ぢゃ、アメリカ屋が来たら、その靴たのんでよ」
「オーケイー」
ドアを振り放して、朝日の中へ彼女は出て行く、。ガソリンの煙りが青い。
流行歌を口ずさむ、二三人の声が、しばらく室内をしずめる。
すると、隣りの室へつづく仕切り戸が開き、誰かの手が、バサリと、間近かのテーブルの上へ、一束の郵便物を投げて引込む。
案内ガールの一人が立って、その方へ行く。
「咲ちゃん、咲ちゃん。美津ちゃん・・・百合ちゃん」
葉書もあり、封書もある。それを選り分けながら、宛名を読み上げる。
「ちえつ!あたしのないの?」
「今日はお相にくさま」
「ああら、前橋市って、群馬県なのね。あたし埼玉県かと思ってたよ」 毎朝そんな風に、一時市がさかえる。 春は三月四月、秋は十月十一月と、特に観光シーズンには、案内ガール宛ての郵便の数が多い。夢の多い若い遊覧客が、 彼女たちに様々な手紙をおくるのだ。
中学生も高校生も、「遥かなるお姉さまへ」と書いて寄越す女学生もある。誤字だらけだと言って、気にすることはない。 受取る方も意味が通じれば、なんとも思ひはしない世の中だ。 約束した通り、一緒に写した写真を同封してくる律儀な学生もあり、クリスマス・カードを呉れる学生もあった。みんな、 あなたのうるわしい声と顔が忘れられないと記してある。山間の中学生のアルバムに、案内ガールを中心にした同級生達の写真が、 永く思い出をしのばせるとしたら、そんなにいやな話ではあるまい。
手紙の内容は、もっといろいろある。
少年少女だけでなく、ある地方の先生に、結婚の申込みをうけた案内ガールもあるし、修学旅行以来思いつめた我が子の、 元気のない様子を憂へた母親が、ひそかに手紙の返事をしてやって欲しいと言って来るのもある。中学三年生三人連れが、 もう一度逢ふために、はるばるバス会社へ訪ねて来たといふやうな「冒険談」も、一年に一度や二度はある。それどころか、 高校生のクラス会に招かれて、一晩泊りで案内ガールの方から、遊びに出かけた話しもある。
思ひ出の名所旧跡案内を、教室できかせたのは無論だが、彼女を囲んだ若者達が、どのような騒ぎをしたか、 話し出したら切がない。それには第一、人気のある順に、案内ガールの風貌姿勢から説明してかからなければ、 面白さは出にくいであらう。
沢村咲子も、梅本美津子も。堀百合枝も、少し脚が太過ぎたり、少し鼻筋が低いといふやうな欠点はあるにしても、このバス会社の 全バス・ガールから選び出された花形である。花形は、他に転出する危険性を多少持たないでもないが、彼女達に限って、 そんな様子はない。
彼女達は、その制服を愛している。〜略〜

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秋の組曲〜串田孫一

湖の岸から少しずつ離れて行く道が、暫らく土手のわきをとおって行くと、向こうの方に峠が見える。
二つの丘がなだらかな斜面を交わらせるところで、そこにはもう一本の木も立っていない。
それは私が勝手に峠と思ったが、その向こうの草の斜面はどんな具合いに続いているか知らない。
そこへ大きな太陽が沈んで行った。終日その太陽は湖に金色の小波を作り、湖畔の小畔の小径を歩く人たちに少しばかり汗をかかせた。
五人の乙女たちが、とりどりの色の毛糸で編んだものを脱いだ時、彼女たちは、少し焦げたような、 懐かしい埃の匂いがするように思えた。それはほんの僅かの間、顔の前をたくしあげたスウエターが通る時だけだった。
何故というのに、 彼女たちは、湖上を渡って行く小鳥たちの声が如何にも楽しげであったし、汗ばんだ肌が急に涼しくなって、一斉に声をあげたからだ。
何かというと驚くような声を出した乙女たちは、私がその峠まで送って行くと言って、一足あとからついて行ったことを、 さっぱりと忘れてしまったように、真紅の落日へ向かって駆けて行った。
少しぐらいの登り道でも、彼女たちの足は速く、 追いかけるようにして走るわけには行かない私をどんどん引き離してしまった。
夕日が波紋のとうな最後の光をやっと人の目にも 見えるように放っている中へ、五つの影が入って行った。影が時々四つになり、三つになることさえあった。
私はまぶしくて見られなかった。それに離れて行くにつれて、彼女たちの影のへりは金色になり、それが段々と影のの方へ侵入して来て、 しまいには細い腕だの、ひるがえる帽子のりぼんなどは光の中へ溶けてしまった。
私はそのうち、わざわざ追いついて別れのための言葉を考えることも、手を振ってみたりすることも、全く無駄だと思い始めて、 虫の啼いている草のかげが長くのびている道ばたに腰を下ろしていまった。〜略〜
プールサイドの小景〜庄野潤三

青木氏の家族が、南京ハゼの木の陰に消えるのを見送ったコーチの先生は、何ということなく心を打たれた。
あれが本当に生活だな。生活らしい生活だな。夕食の前に、家族がプールで一泳ぎして帰ってゆくなんて・・・・。
だが、そうではない。この夫婦には、別のものが待っている。それは、子供も、近所の人たち誰もが知らないものなのだ。
それを何と呼べばいいにだろう。
青木氏は、一週間前に、会社を辞めさせられたのだ。〜略〜
夫の話は、そこで終わる。
バアの話もしなかったけれど、会社勤めのつらい思いをこんな風に話したことは、これまでにあったか知ら。
夫がそのような気持ちで会社に行っていたということは、彼女に取っては初めて知ることなのだ。とすると、何という、 うっかりしたことだろう。いったい自分たち夫婦は、十五年も一緒の家に暮らしていて、その間に何を話し合っていたのだろうか?
夫の帰宅が毎晩決まって夜中であり、朝は慌てて家を飛び出して行くという日が続いて来たとしても、自分たちは大事なことは何一つ 話し合うことなしにウカウカと過して来たというのだろうか。休日には家族が一緒に遊びに出かける習慣は守られていたが、 そんなとき夫はどんなことを自分に云い、自分はどんなことを尋ねていたのだろう。彼女は、夫が会社勤めということに対して あのような気持を抱いていようとはついぞ考えてみたことがなっかたのである。ただ遊び好きの人間のように思っていて、 それで毎晩夜中になるまで帰って来ないのだと、何でもなく考えていたのだ。〜略〜
最初の日。夫が出かけて行くと、彼女は何となくグッタリしてしまった。彼女の心には、夫が晩夏の日ざしの街を当てもなしに歩いて いる姿が映る。雑踏の中にまぎれて、知った人に出会うことを恐れながら、おぼつかない足取りで歩いている夫の悩ましい気持ちが、 そのまま彼女に伝わって来るのだ。〜略〜
そのようなイメージが不意に崩れて、どこか見知らぬアパートの階段をそっと上がって行く夫の後ろ姿が現れる。彼女は全身の血が凍り つきそうになる。危ない!そこへ行ってはいや。いやよ、いやよ、・・・
彼女は叫び声を立てる。それでも、夫はゆっくりと階段を上がって行く。いけないわ。そこへ行ったら、おしまいよ。おしまいよ。
このような想像が、家にいる彼女を執拗に襲った。〜略〜
プールは、ひっそり静まり返っている。
コースロープを全部取り外して水面の真ん中に、たた一人男の頭が浮んでいる。
明日からインターハイが始まるので、今日の練習は二時間ほど早く切り上げられたのだ。選手を帰してしまったあとで、コーチの先生は プールのそこに沈んだゴミを足の指で挟んでは拾い上げているのである。
夕凪が吹いてきて、水の面に時々こまかい小波を走らせる。
やがて,プールの向こう側の線路に、電車が現れる。勤めの帰りの乗客たちの眼には、ひっそりしたプールが映る。 いつもの女子選手がいなくて、男の頭が水面に一つ出ている。

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砂の女〜安部公房
ある八月の午後、大きな木箱と水筒を、肩から十文字にかけ、まるでこれから登山りでもするよに、ズボンの裾を 靴下のなかにたくしこんだ、ネズミ色のピケ帽の男が一人、S駅のプラットホームに降り立った。〜略〜
駅前のバスの、一番奥の座席に乗り込んだ。それは山とは逆方向に向かうバスだった。〜略〜
男は終点まで乗り続けた。バスを降りると、ひどく起伏の多い地形だった。〜略〜
男がその道を通っていくと、漁業組合の前の空地で遊んでいる子供たちも、傾いた縁側に腰をおろして、網をつくろっていた老人も、 一軒だけの雑貨屋の店先にたむろしていた髪の薄くなった女たちも、一瞬その手や口を休め、いぶかるような視線をなげかてきた。 しかし男は、一向に気にしない。彼に関心があるのは、もっぱら砂と虫だけだったのである。〜略〜
道はますます急な上り坂になり、ますます砂らしい砂になった。
ただ、奇妙なことに、家の建っている部分は、すこしも高くならないのだ。道だけが高くなって、部落自身は、いつまでも平坦なのだ。 いや、道路だけでなく、建物と建物のあいだの境の部分も、道とおなじように高くなっていた。だから、見方によっては、 部落全体が上り坂になっているのに、建物の部分だけが、そのままもとの平面にとり残されているようでもある。 この印象は、先に進むにつれてひどくなり、やがて、すべての家が、砂の斜面を掘り下げ、そのくぼみの中に建っているように見えてきた。 さらに、砂の斜面のほうが、屋根の高さよりも高くなった。家並みは、砂のくぼみの中に、しだいに深く沈んでいった。
傾斜が急にけわしくなった。このあたりでは、屋根のてっぺんまで、すくなくみつもっても、二十メートルはあるだろう。 一体どんな暮らしをしているのか、奇妙な思いで深い穴の底の一つをのぞきこもうと、縁にそってまわりこむと、 とつぜん激しい風に、息をつまらせた、いきなり視界がひらけ、にごった海が泡立ちながら、眼下の波打ちぎわを舐めていた。 目指す砂丘の頂上に立っているのだった。〜略〜
砂地にすむ昆虫の採集が、男の目的だったのである。〜略〜
「けど、上りのバスは、もう終いですが・・・」
「どこか、泊まるとこくらいはあるでしょう。」
「泊まるって、この部落にかね?」 老人の顔のどこかが、ひくついた。
「ここが駄目なら、隣の村まで歩きますよ。」
「歩く・・・?」
「どうせ、急いでいるわけじゃないんだから・・・」
「いやいや、なにもそんな面倒することはあるまいさ・・・」 急に世話好きらしい、まくし立てるな調子になり、 「ごらんのとおり、貧乏村で。ろくな家もないが、あんたさえよけりゃ、口をきくくらい、わたしがお世話してあげるがね。」〜略〜
「おい、婆さんよお!」
足もとも闇のなかから、ランプの灯がゆらいで、答えがあった。
「ここ、ここ・・・その俵のわきに、梯子があるから・・・」
なるほど、屋根の高さの三倍はあり、梯子をつかってでも、そう容易とはいえなかった。昼間の記憶では、 もっと傾斜がゆるやかだったはずだが、こうしてみると、ほとんど垂直くにちかい。〜略〜
婆さんなどというから、よほどの年寄りかと思っていたのが、ランプを棒げて迎えてくれた女は、まだ三十前後の、 いかにも人が好さそうな小柄の女だったし、化粧をしているのかもしれないが、浜の女にしては、珍しく色白だった。 それに、いそいそと、よろこびをかくしきれないといった歓迎ぶりが、まずなによりも有難く思われた。
もっとも、ろういうことでもなければ、この家は、いささか我慢しかねるしろものだった。馬鹿にされたのだと思って、 すぐに引き返していたかもしれない。壁ははげ落ち、襖のかわりにムシロがかかり、柱はゆがみ、窓はすべて板が打ちつけられ、 畳はほとんど腐る一歩手前で、歩くと濡れたスポンジを踏むような音をたてた。そのうえ、焼けた砂のむれるような異臭が、 いちめんにただよっていた。〜略〜
「ランプ、一つしかないの?」
「はい、あいにくとねえ・・・」〜略〜
「風呂・・・?」
「わるいけど、明後日にして下さい。」
「明後日?明後日になったら、僕はもういませんよ。」
思わず大声で笑ってしまう。
「そうですか・・・?」
女は顔をそむけ、ひきつったような表情をうかべた。〜略〜
女は戻ってくると、黙って部屋の隅に床をのべはじめた。ここにおれの床をとってしまたら、 自分は一体どこに寝るつもりだろう?〜略〜
田植えに使うような編笠をかぶり、女はすべるように、闇の中へ出て行った。〜略〜
「砂掻きだね?」「いつまでやっても、きりなしでしょう・・・」
こんどは、すれちがいざま、あいているほうの指先を、くすぐるように、彼の脇腹におしこんできた。おどろいて、 とびのきながら、あぶなくランプをとり落としそうになる。このまま、ランプを持ちつづけていようか、 それとも地面において、くすぐり返してやるべきか、いきなり思いがけない選択をせまられて、ためらった。〜略〜
「だめよ」
と、背をむけたまま、息切れのした声で、
「モッコが来るまでに、あと六杯は、搬んでしまわなけりゃ・・・」〜略〜
「じゃあ、一つ、ぼくも手伝うとするか。」
「いいですよ・・・いくらなんでも、最初の日からじゃ、わるいから・・・」
「最初の日から?・・・まだそんなことを・・・ぼくがいるのは、今夜だけだよ。」
「そうですかねえ・・・」〜略〜
すると、女のこの仕種と沈黙は、とほうもなく恐ろしい意味をもってくる。まさかと思いながらも、心の奥底で、 いちばん案じていた不安が、とうとう的中してしまった。縄梯子の撤去が、、女の了解のうちに行われたこと、 これは明白な承認にほかなるまい。女は、まぎれもなく共犯者だたのだ。当然、この姿勢も、はじらいなどという、 まぎらわあしいもではなく、どんな刑罰でも甘んじようという、罪人、もしくは生け贄の姿勢にちがいない。
まんまと策略にかかったのだ。蟻地獄の中に、とじこめられてしまたのだ。うかうかとハンミョウ属のさそいに乗って、 逃げ場のない砂漠の中につれこまれた、飢えた小鼠同然に・・・・
「そんなはずあはりませんよ。ここから出て行ったからって、だれもがすぐに暮らしを立てられるというわけじゃなし・・・・」
「同じことじゃないか。ここにいたて、いずれ、暮らしらしいくらしはしちゃいないんだろう?」
「でも、砂がありますから・・・」
「砂すなだって?」
男は、歯をくいしばったまま、顎の先で輪をかいた。
「砂なんかが、なんの役に立つ?つらい目をみる以外は、一銭の足しにだってなりゃしないじゃないか!」
「いいえ、売っているんですよ。」
「売る?・・・そんなのもを、誰に売るんだ?」
「やはり、工事場なんかでしょうねえ・・・・コンクリートに混ぜたりするのに・・・」
「冗談じゃない!こんな、塩っ気の多い砂を、セメントにまぜたりしたら、それこそ大ごとだ。第一、違反になるはずだがね、 工事規則かなんかで・・・」
「もちろん、内緒でうっているんでしょう・・・運賃なんかも、半値ぐりいにして・・・」
「でたらめもいいことだ!あとで、ビルの土台や、ダムが、ぼろぼろになったりしたんじゃ、半値が只になったところで、 間に合いやしないじゃないか!」
ふと女が、咎めるような視線で、さえぎった。じっと、胸のあたりに目をすえたまま、それまでの受身な態度とは、 うって変わったひややかさで、
「かまいやしないじゃないですか、そんな、他人のことなんか、どうだって!」〜略〜
もっと軽い空気がほしい!せめて、自分の吐いた息がまじっていない、新鮮な空気がほしい!一日に一度、たとえ三十分でもいいから、 崖にのぼって海を眺めることができたら、どんなにか素晴らしいことだろう。それくらいは許されてもいいはずだ。いずれ、部落の 警戒は厳重をきわめているのだし、この三か月余りの忠実の仕事ぶりを考慮にいれてもらえば、ごく当たりまえの要求なのではあるまいか。 禁固刑の囚人だって、運動時間の権利くらいはもっている。〜略〜

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ノルウェイの森〜村上春樹
多くの幼なじみのカップルがそうであるように、彼らの関係は非常にオープンだったし、二人きりでいたいというような願望は それほどは強くはないようだった。二人はしょっちゅうお互いの家族と一緒にたべたり、麻雀をやったりしていた。 僕とダブル・デートしたことも何回かある。直子がクラス・メートの女の子をつれてきて、4人で動物園に行ったり、 プールに泳ぎに行ったり、映画を観にいったりした。でも正直なところ直子のつれてくる女の子たちは可愛くはあったけれど、 僕には少々上品すぎた。僕としては多少がさつではあるけれど気楽に話しができる公立高校のクラス・メートの女の子 たちの方が性にあっていた。直子のつれてくる女の子たちがその可愛いらしい頭の中でいったい何を考えているのか、 僕にはさっぱり理解できなかった。たぶん彼女たちにも僕のことは理解できなかったんじゃないかと思う。
そんなわけでキズキは僕をダブル・デートに誘うことをあきらめ、我々3人だけでどこかにでかけたり話をしたりするようになった。 キズキと直子と僕の3人だった。考えてみれば変な話だが、結果的にはそれがいちばん気楽だったし、うまくいった。 4人めが入ると雰囲気がいくぶんぎぐしゃくした。3人でいると、それはまるで僕がゲストであり、ホズキが有能なホスト であり、直子がアシスタントであるTVのトーク番組みたいだった。いつもキズキが一座の中心にいたし、かれはそういうのが上手かった。 キズキはたしかに冷笑的な傾向があって他人からは傲慢だと思われることも多かったが、本質的には親切で公平な男だった。 3人でいると彼は直子に対しても僕に対しても同じように公平に話しかけ、冗談を言い、誰かがつまらない思いをしないようにと気を配っていた。 どちらかが長く黙っているとそちらにしゃべりかけて相手の話を上手くひきだした。そういうのを見ていると大変だろうなと思った。 ものだが、実際はたぶんそれほどたいしたことではなかったのだろう。彼には場の空気をその瞬間瞬間でみきわめて それにうまく対応していける能力があった。

〜略〜
火事が終わってしまうと緑はなんとなくぐったりとしたみたいだった。体の力を抜いてぼんやりと遠くの空を眺めていた。そして 殆んど口をきかなかった。
「疲れたの?」と僕は訊ねた。
「そうじゃないよ」と緑は言った。「ひさしぶりに力を抜いていただけなの。ぼおっとして」
僕が緑の目をみると、緑も僕の目を見た。僕は彼女の肩を抱いて、口づけした。緑はほんの少しだけぴっくと肩を動かしたけれど、 すぐにまた体の力を抜いて目を閉じた。5秒か6秒、我々はそっと唇をあわせていた。初秋の太陽が彼女の頬の上にまつ毛の影を 落とし、それが細かく震えているのが見えた。
それはやさしく穏やかで、そして何処に行くあてもない口づけだった。午後の日だまりの中で物干し場に座ってビールを飲んで 火事見物をしていなかったとしたら、僕はその日緑に口づけなんかしなかっただろうし、その気持ちは彼女の方も同じだったろうと思う。 僕らは物干し場からきらきらと光る家々の屋根や煙や赤とんぼやそんなものをずっと眺めていて、あたたかくて親密な気分に なっていて、そのことを何かのかたちで残しておきたいと無意識に考えていたのだろう。我々の口づけはそういうタイプの口づけだった。 しかしもちろんあらゆる口づけがそうであるように、ある種の危険がまったく含まれていないというわけではなかった。
最初に口を開いたのは緑だった。彼女は僕の手をそっととった。そしてなんだか言いにくそうに自分にはつきあっている人がいる のだと言った。それはなんとなくわかっているとぼくは言った。
「あなたには好きな女の子いるの?」
「いるよ」
「でも日曜日はいつも暇なのね?」
「とても複雑なんだ」と僕は言った。
そして僕は初秋の午後の束の間の魔力がもうどこかに消え去っていることを知った。

〜略〜
「リクエスト・タイム」とレイコさんは片目を細めて僕に言った。「直子がきてから私は来る日も来る日もビートルズのものばかり 弾かされているのよ。まるで哀れな音楽奴隷のように」
彼女はそう言いながら「ミシシェル」をとても上手く弾いた。
「良い曲ね。私、これ大好きよ」とレイコさんは言ってワインをひとくち飲み、煙草を吸った。「まるで広い草原に雨がやさしく 降っているような曲」
それから彼女は「ノーホエア・マン」を弾き、「ジュリア」を弾いた。ときどきギターを弾きながら目を閉じて首を振った。 そしてまたワインを飲み、煙草を吸った。
「ノルウェイの森を弾いて」と直子が言った。
レイコさんが台所からまねき猫の形をした貯金箱を持ってきて、直子が財布から百円玉を出してそこに入れた。
「なんですか、それ?」と僕は訊いた。
「私がノルウェイの森をリクエストするときはここに百円入れるのがきまりなの」と直子が言った。「この曲いちばん好きだから、 とくにそうしているの。心してリクエストするの」
「そしてそれが私の煙草代になるわけね」
レイコさんは指をよくほぐしてから「ノルウェの森」を弾いた。彼女の弾く曲には心がこもっていて、 しかもそれでいて感情に流れすぎるということがなかった。僕もポケットから百円玉を出して貯金箱に入れた。
「ありがとう」とレイコさんは言ってにっこり笑った。
「この曲聴くと私ときどきすごく哀しくなることがあるの。どうしてだかわからないけど、 自分が深い森の中で迷っているような気になるの」と直子はいった。「一人ぼっちで寒くて、 そして暗くって、誰も助けに来てくれなくて。だから私がリクエストしない限り、彼女はこの曲を弾かないの」
「なんだかカサブランカみたいな話よね」とレイコさんは笑って言った。
そのあとでレイコさんはボサノヴァを何曲か弾いた。そのあいだ僕は直子を眺めていた。彼女は手紙にも自分で書いて いたように以前より健康そうになり、よく日焼けし、運動と屋外作業のせいでしまった体つきになっていた。 湖のように深く澄んだ瞳と恥かしそうに揺れる小さな唇だけは前と変りなかったけど、全体としてみると 彼女のうつくしさは成熟した女性のそれへと変化していた。以前の彼女の美しさのかげに見えかくれしていたある種の 鋭さーーー人をふとひやりとさせるあの薄い刃物のような鋭さーーはずっとうしろの方に退き、 そのかわりに優しく慰撫するような独得の静けさがまわりに漂っていた。そんな美しさは僕の心を打った。そしてたった 半年間のあいだに一人の女性がこれほど大きく変化してしまうのだという事実に驚愕の念を覚えた。直子の 新しい美しさは以前のそれと同じようにあるいはそれ以上に僕をひきつけたが、それでも彼女が失ってしまったものの ことを考えると残念なという気がしないでもなかった。あの思春期の少女独特の、 それ自体がどんどん一人歩きしてしまうような身勝手な美しさとでも言うべきものは もう彼女には二度と戻ってはこないのだ。

〜略〜
僕が手をのばして彼女に触れようとすると、直子はすっとうしろに身を引いた。唇が少しだけ震えた。それから 直子は両手を上にあげてゆっくりとガウンのボタンを外しはじめた。ボタンは全部で七つあった。僕は彼女の 細い美しい指が順番にそれを外していくのを、まるで夢のつづきを見ているような気持ちで眺めていた。 その小さな七つの白いボタンが全部外れてしまうと、直子は虫が脱皮するときのように腰の方にガウンをするりと下ろし て脱ぎ捨て、裸になった。ガウンの下に、直子は何もつけていなかった。彼女が身につけているのは蝶のかたちをしたヘアピンだけだった。 直子はガウンを脱ぎ捨ててしまうと、床に膝をついたまま僕を見ていた。やわらかな月の光に照らされた直子の体はまだ生まれ おちて間のない新しい肉体のようにつややかで痛々しかった。彼女が少し体を動かすとーーそれはほんの僅かな動きなのにーー月の光のあたる部分が 微妙に移動し、体を染める影のかたちが変った。丸く盛りあがった乳房や、小さな乳首や、へろのくぶみや、腰骨や陰毛のつくりだす粒子の粗い 影はまるで静かな湖面をうつろう水紋のようにそのかたちを変えていった。

〜略〜

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第19ページ


野いばら〜梶村啓二
タンポポの綿毛が音もなく舞い降りてくる。綿毛はたまたま風に乗って流れ着いた自分の運命にとまどうように頼りなく羽をゆらし、 地上に近づくと、器用に頭を上げて音もなく着陸した。安堵のため息をそっとつき、そのまま地表をなめらかに滑走していく。 その上空には別の綿毛がゆっくりと高度を下げ始めていた。
 無音で着陸する旅客機を空港の出発ロビーから防音ガラス越しにぼんやりと眺めながら、縣和彦は俺も綿毛だなと思った。

〜略〜
空港はどこにも属さない場所だ。自分が踏みしめ、走り回っていた地上から切り離され、自分の生きる世界が重みを失い、 確かなかたちを失い始める。目的地も、帰るべき土地も不確かなものに思えてくる。
俺はなぜここにいるのだろう?縣はまぶしさに目を細めながらアムステルダムの初夏の空を見上げた。あらためて考えてみると自分が ここにいる必然性はなにもなかった。もしきっかけがあるとすれば、新入社員のとき、たまたま会社の机の上に小さな観葉植物を置い ていたことぐらいだった。君は、園芸が好きなのか?たまたまそばを通りかかった部長が世間話のように縣にたずねた。 そんなものが分かれ目になるのだとすると、俺とタンポポの綿毛にどれほどの違いがあるだろう。運よく新卒採用枠に引っかかって、 深い考えも無く総合醸造メーカーに入った。だが、アルコールの仕事に関わることは一度もなかった。気がついてみれば、年に何度も アムステルダムまで飛んで来て企業買収に奔走する日々を送っていある。

〜略〜
買収の対象は花の種苗会社だ。ヨーロッパには単品に強みを持つ小規模な花弁種苗会社が数多く存在する。
花は工業製品である。そこで売買されるのは花という形に変った知的財産権だ。

〜略〜
三週間前のことだった。今度の出張もアムステルダムに来る前にロンドンに降り、ヒースローにあるハーツに直行して、あらかじめ予約 してあったレンタカに飛び乗った。

〜略〜
しかし、めぼしをつけていた村に到着する前に、縣はまったく想定していなかった庭に出会うことになった。カーナビに細い糸のような線で しか表示されていない名もない農道で車のエンジンが突然咳き込み,ギグシャク揺れてから止まった。その年式の古いフォードを借りるとき、 一瞬、不安がよぎったのだが、後の祭りだった。丘陵地帯では村落から離れると携帯電話の電波も届かないことが多い。

〜略〜
車の前を開け、エンジンを見たが、何が出来るわけではなかった。車にもたれて丘陵の遠い稜線をながめながら ペットボトルのミネラウオーターを飲んだ。ゆるやかな風が渡っていった。縣は、自分が思ったよりも焦っていないことに気付いた。 むしろエンジンが止まってほっとしっている自分がいた。ゆるやかに吹く風を感じながら、しばらく縣は風に鳴る梢の音を聞いていた。

〜略〜
縣は道端の草の上に腰を下ろし、緩やかな曲線を描く丘陵地帯を眺めた。低い雲がゆっくりと丘の上を流れていった。黒い鳥の群れが 何度か上空を通り過ぎていった。小一時間ほどそうしてぼんやりと待った。やがて、遠くからエンジン音が近づいてきた。

〜略〜
「故障?」
「ええ」
金髪の女性はまぶしげに目を細めて小さくうなずきながらじっと縣を7見た。彼女は「ちょっと拝見していい?」といって、老眼鏡を かけた。故障車に近づいてエンジンを覗き、運転席の計器を確かめた。ふと助手席に置いてあったイエローブックに目を留めた。
「庭を見にいらしたの?」
彼女は眼鏡をはずし、縣を振り返って聞いた。
「ええ。そんなところです」
「そう」
かすかに微笑んでまた縣の姿を点検するようにじっと見た。
「携帯、使えないでしょ」
「ええ、甘かったですね。」
「修理屋を呼んであげる。修理がくるまでうちで待てばいいわ。」
「ご親切に、ありがとうごあいます。レンタカー会社に連絡すればなんとかなると思います。助かります」
「それから、うちもいちおうオープンガーデンやってるのよ。めったに誰も来ないけど」
そういって銀髪の女性は笑った。

〜略〜
大きな自然石が配置され、複雑な弧を描く池が掘られていた。池には飛び石の橋が渡されている。
柳、つつじ、つばき、ユリ、もみじがその周囲と遊歩道に転々と配されていた。同時にさまざまな種類の オールドローズ、モダンドーズやブルーベル、小菊類、ギボシ、何種類あるかわからないハープ類が複雑に 組み合わされているのはイギリスの庭の典型的な姿だったが、それらを貫いているのは古い日本の庭の骨組みだということに、 縣はようたく気付いた。
雨ざらしで塗装のはげた木製のガーデンテーブルと椅子があった。

〜略〜
「この庭はあなたが作られものですか」
ティポットの載ったトレイを運んできたパトリシアに縣はたずねた。
「いいえ。わたしは手入れしているだけ。大きな構造はずっとむかしからこういう形だったらしいわ」
「いつごろからでしょう」
「さあ、昔のことはわからない。わたしも十年前に来たばかりだから。でも、作られてから百年以上はたっていると思う」
 縣は池にうかぶ蓮の葉をじっと見た。日本人がこの庭づくりに関わっているのではないかという直感が去らなかった。思い切って たずねてみた。
「この庭に日本人がなにか関係していますか?」
 パトリシアは首を傾けてしばらく考えるようすをみせた。
「いいえ。わからないわ」
 結局そう言って、椅子に座り、ティポットからカップに紅茶を注いだ。
「親類がずっと管理していたんだけど。誰もいなくなって、十年ほど前遠縁のわたしが引き受けることになったの。  わたしはそれまでずっとニューヨークにいたんだけど」
「さっきアトリエが見えました」
「アトリエというようなりっぱなものじゃないけど。ジュエリーデザインなの。あいかわらずアメリカから仕事もらって」
「すてきですね」
「なんとか食べてるわ」
パトリシアはうっすらと微笑んで、自分の茶をすすった。
「わたしが来たときは荒れ放題でね。もう誰も住んでいなかったし、庭も放置されていたので、なんとか落ち着くまで三年かかった。 ときどき娘に手伝わせて。彼女は別の街で高校の教師をしているので、夏休みにせいとを手伝いに連れてきてもらったわ」
庭を見回しながらひとりごとのように言った。その横顔を見ながら縣は彼女の人生をぼんやり想像した。単純にここに生まれ育った わけでなく、彼女には、おそらくは長い旅があったはずだ。ひいに、音もなく空中に漂うタンポポの綿毛の姿が脳裏をかすめた。 縣は彼女に過去を尋ねる言葉をそっと胸にしまいこんだ。自分が逆に聞かれたとしたら、どう答えるだろう。綿毛のように地球を 流れて、遺伝子の資産を探し、沈黙の帝国の斥候をはたして十二年たちます。自分が綿毛になっている間に妻は職場の男と恋に落ち、 二年前離婚し、いまは夜、ビールを一人で飲んでおります。そんな答えにさして意味があるとは思えなかった。
[お茶、いただいてよろしいでしょうか」
 自然にそうことわってから縣は茶碗をとった。顔を上げてパトリシアは縣を見た。縣が一礼して背筋を伸ばしてから茶碗と 受け皿を静かに持ちあげるのをじっと見ていた。
「日本人ね」
 縣は何を言われているのかはっきりとは理解できなかったが、彼女の目をきちんと見てあいまいに頬笑みを返しておいた。
[種苗会社?」
「ええ」
「ヨーロッパにはよく仕事で?」
「ええ、毎年。花や種子に国境はありませんから」
本当は遺伝子資産に国境がないだけだ。縣は胸のなかでつぶやいた。
「そうね」
 パトリシアはしばらく庭に視線をあそばせていたが、失礼、とひとこといって屋敷に戻っていった。 そのまま十分ほど帰ってこなかった。
「ごめんなさい。ちょっとこちらに来てくださる?よかったら、見ていただきたいものがあるの」

〜略〜
[去年、偶然見つけたの」
 ケースの蓋を開けると、さらにしっかりした紙袋があり、厳重に封蝋された跡があった。しかしすでに封蝋は破られており、 、中から革装の大判のノートが出てきた。
「ご先祖さまのノート」
「ええ」
「百年以上誰も手に触れず、物置に眠っていたらしい」
「あなたが開封したのですか」
「そう。箱を開けたると注意書きが最初に目に付くようになっていたの。百年後まで開封せぬこと。一八九六年、ウィリアム」
「たしかにそれはこわくて開けられませんね」 「さあ、単に誰も関心をもたなかったか、ノートの存在そのものを忘れてしまっただけだとおもうけど」 「何のノートですか?」 「回想録みたいなものかな。亡くなる三年前に書かれているから」
〜略〜
1862年9月17日
香港
 この世には、二種類の人間がいる。すべての問いには答えがあると信じて疑わない人間と、  この世が答えの無い問いにあふれていることに黙って堪える人間と。   
〜略〜
 世にあるすべての問いにはそれにふさわしい答えがある。多くの幸福な人々はそう信じて疑わない。だが、ある日、 この世界そのものが答えの無い問いであることにそっと気付いた者はどうするだろう。かれはひとり息をひそめ、沈黙し、 ただそのことに黙って耐え続ける。その問いに答えがなかったとしても、問いそのものが消えることはない。沈黙は、答えのない 問いと共に生き、答えのない世界に耐える唯一の方法だ。その意味で、たとえこれからわたしが書く手記が どれほど饒舌なものであったとしても、それはあるひとりの男の長い沈黙の記録にすぎない。
 香港から江戸への転任の辞令をアスコット大佐から告げられたときわたしははじめて自分が内心その命令を心待ちに していたことに気付いた。ひとつには、エヴェリーンの問題があった。外国人にとって安全な都市とはいえない江戸に わたしが転任することで、エヴェリーンをひとりロンドンに帰す名分が得られたのは、渡りに船だった。わたしを 追って後から海を渡ってきたものの、妻のエヴェリーンは最初から香港の生活になじめず、一年ほど前からひそかに精神を 病みはじめていた。
〜略〜
 公使館では軍事情報収集分析というわたしの着任の目的を知らされていたが、そ可能性に関して、彼らの反応はきわめて冷淡であった。 情報収集、分析は外交交渉と並んで公使館の基本任務のひとつでもあるのだが、ことこの国においては、そ限界にかんしては 彼ら定見を持っていた。それに、公使館に詰めている警護の陸軍士官や水兵たちとは別種とはいえ、彼らはわたしをあくまで 武官として見ていた。 文官と武官の間の風通しの悪さ、面子の張り合いは古来から変らないものであり、その通例に従ってわたしの活動に関して彼らは 冷ややかな黙認をもって対処した。つまり、どうぞごかってにということである。
「まあ、あせらず日本語の修練に精を出されることですな。われわれの相手をする役人はつかみどころがないが、この国には なかなか奥深い楽しみもあるようですからな」
 補佐官の一人が爪にやすりをかけながらそういった。r〜略〜
ちょうど同じ日にユキから公使館に手紙が届けられた。体調を崩して授業を中断したことを詫びるとともに、二週間後に授業を 再開したいという内容だった。最後通牒の受領に興奮する公使館の騒然とした雰囲気をよそに、わたしは手紙を胸の内ポケット に仕舞い、ひとりよろこびを悟られぬように公使館を抜け出した。港の桟橋を歩きながら彼女の手紙を繰り返し読みかえした。 手紙を読んでは、港から沖に停泊する英国艦隊の吐き出す黒い煙がたなびくのを長い間眺めた。最後通牒の届いたその瞬間から 江戸は恐慌におちいるだろう。二十日の猶予期間が過ぎて大君政府から回答がなければ、ただちに艦隊を江戸湾に侵攻させることになる。 ありえないと思っていた破滅へ向かって世界がきしみながら動きはじめていた。だが、予期される破滅が甚大で徹底的なものであるほど、 逆に破壊の現実感は希薄で捉えがたいものになり、かえって目の前の小さなよろこびがくきりとした輪郭で胸に迫ってくるのだった。
 彼女が攘夷派浪士の協力者である疑念がわたしのなかで消えたわけではなかった。仮に彼女が外国人暗殺の水先人案内人であったら、 上野医師が間髪をいれずに殺害されたようにもっと早い段階でわたしは暗殺者の手にかかっていてもおかしくはない。そうやって 疑念を否定したとたん、そんな小さな目的ではなく、語学教師を引き受けた当初から、大規模な横浜襲撃を計画する一派の敵陣探索 の任を負っていたのかもしれない、という新たな疑念が胸の中に広がった。離れたとたんにまたすぐ顔を見たくなら、 面影を追って夜も眠れず、夢にまで見て夜半に目覚める、それほど恋こがれる女が負った役割が、自分を殺すことだったとすれば、 そのことに人はどう向き合えるだろうか。自分自身、海軍士官のひとりとして恋する人の住む街を砲撃し焼き払う任務を負っていた。 彼女の負う役割も、わたし自身の先の任務もまだはっきり確定していたわけではなかった。だが、ただひとつ確かなことがあった。 それは、彼女もわたしも、おのめの属する世界を離れて生きる場所はなく、そこで生きていくための責務から逃れる道はない、 ということだった。
〜略〜

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高瀬船森鴎外多才な啓蒙作家第3ページへ
草枕夏目漱石近代文学の創始者か第3ページへ
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千恵子抄高村光太郎彫刻家・詩人美の探究者第4ページへ
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小さき者へ有島武郎人生の求道者第5ページへ
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枯野抄芥川龍之介大正文学の鬼才第7ページへ
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リツ子・その愛檀一雄豪放な浪漫的生涯第10ページへ
布団田山花袋古い美学の破壊者第10ページへ
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俘虜記大岡昇平戦後文学の知的良心第12ページへ
桜島梅崎春生極限の人間存在と究極の愛第13ページへ
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ノルウェイの森村上春樹 即物的リアリズムで青春の彷徨と葛藤を 第18ページへ
野いばら梶村啓二 それぞれの時代と海を越えて懸命に生きる人々を、快い完璧な文章で描写 第19ページへ

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雪国〜川端康成

国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。〜略〜
もう3時間も前のこと、島村は退屈まぎれに左手の人差指をいろいろに動かして眺めては、結局この指だけが、 これから会いに行く女をなまなましく覚えている。〜略〜
、 ふとその指で窓ガラスに線を引くと、そこに女の片目がはっきり浮き出したのだった。彼は驚いて声をあげそうになった。 しかしそれは彼が心を遠くへやっていたからのことで、気がついてみればなんでもない、向こう側の座席の女が写ったのだった。 外は夕闇がおりているし、汽車の中は明かりがついている。それで窓ガラスが鏡になる。けれども、 スチイムの温みでガラスがすっかり水蒸気に濡れているから、指でふくまでその鏡はなかったのだった。〜略〜
鏡の底には夕景色が流れていて、つまり写るものと写す鏡とが、映画の二重写しのように動くのだった。 登場人物と背景とはなんのかかわりもないのだった。しかもじんぶつは透明のはかなさで、風景は夕闇のおぼろな流れで、 そのふたつが融け合いながらこの世ならぬ象徴の世界を描いていた。殊に娘の顔のただなかに野山のともし火がともった時には、 島村はなんともいえぬ美しさに胸が震えたほどだった。〜略〜
汽車のなかもさほど明るくはなし、ほんとうの鏡のように強くはなかった。反射がなかった。だから、島村は見入っているうちに、 鏡のあることをだんだん忘れてしまって、夕景色の流れのなかに娘が浮かんでいるように思われ来た。〜略〜

そういう時彼女の顔のなかにともし火がともったのだった。この鏡の映像は窓の外のともし火を消す強さはなかった。 ともし火も映像を消しはしさなかった。そしてともし火は彼女の顔のなかを流れて通るのだった。 しかし彼女の顔を光輝かせるようなことはしなかった。冷たく遠い光であった。小さい瞳のまわりをぼうっと明るくしながら、 つまり娘の目と火とが重なった瞬間、彼女の眼は夕闇の波間に浮ぶ、妖しく美しい夜光虫であった。〜略〜
いつのまに寄ってきたのか、駒子が島村の手を握った。島村は振り向いたが黙っていた。駒子は火の方を見たままで、 少し上気した生真面目な顔に焔の呼吸がゆらめいていた。島村の胸に激しいものがこみ上げて来た。駒この瓶はゆるんで、 咽は伸びている。そこらにつと手をやりそうになって、島村は指先がふるえた。島村の手も温まっていたが、 駒子の手はもっと熱かった。なぜか島村は離別が迫っているように感じた。〜略〜
入口の方の柱かなにかからまた火が起きて燃え出し、ポンプの水が一筋消しに向かうと、 棟や梁がじゅうじゅう湯気をたてて傾きかかった。
あっと人垣が息を呑んで、女の体が落ちるのを見た。〜略〜
「ああっ。」
駒子が鋭く叫んで両の眼をおさえた。島村は瞬きもせずに見ていた。
落ちた女が葉子だと、島村にも分かったのはいつのことだったろう。〜略〜
幾年か前、島村がこの温泉場へ駒子に会いに来る汽車のなかで、葉子の顔のただなかに野山のともし火がともった時の さまをはっと思い出して、島村はまた胸が震えた。一瞬に駒子との年月が照らし出されたようだった。 なにかせつない苦痛と悲哀もここにあった。〜略〜

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  2008.10.1開館

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城の崎にて〜志賀直哉

山の手線の電車に跳飛ばされて怪我をした。其後養生に、一人で但馬の城崎温泉へ出掛けた。 背中の傷が脊椎カリエスになれば致命傷になりかねないが、そんな事はあるまいと医者に言われた。 二三年で出なければ後は心配はいらない、兎に角要心は肝心だからといわれて、それで来た。〜略〜
自分の部屋は二階で、隣のない、割に静かな座敷だった。読み書きに疲れるとよく縁の椅子に出た。 脇が玄関の屋根で、それが家へ接続する所が羽目になっている。其の羽目の中に蜂の巣があるらしい。 虎斑の大きな肥った蜂が天気さえよければ、朝から暮近くまで毎日忙しそうに働いていた。〜略〜 ある朝の事、自分は1疋の蜂が玄関の屋根で死んで居るのを見つけた。足を腹の下にぴったりとつけ、 触角はだらしなく顔へたれ下がっていた。他の蜂は一向に冷淡だった。巣の出入りに忙しくその脇を這いまわるが 全く拘泥する様子はなかった。忙しく立働いている蜂は如何にも生きている物という感じを与えた。 その傍らに一疋、朝も昼も夕も、見る度に一つ所に全く動かずに俯向きに転がっているのを見ると、 それが又如何にも死んだものという感じを与えるのだ。それは三日ほどその儘になっていた。それは見ていて、 如何にも静かな感じを与えた。淋しかった。他の蜂が皆巣に入って仕舞った日暮、 冷たい瓦の上に一つ残った死骸を見る事は淋しかった。然し、それは如何にも静かだった。〜略〜


墨東奇談〜永井荷風

わたくしは多年の習慣で、傘を持たずに門を出ることは滅多にない。いくら晴れていても入梅中のことなので、その日も 無論傘と風呂敷とだけは手にしていたから、さして驚きもせず、静にひろげる傘の下から空と町のさまざまを見ながら 歩きかけると、いきなり後方から、
「檀那、そこまで入れてってよ。」
といいざま、傘の下に真白な首を突込んだ女がある。 油の匂で結ったばかりと知られる大きな潰島田には長目に切った銀糸をかけている。わたくしは今通りがかりに硝子戸を明け放した 女髪結の店であった事を思出した。
吹き荒れる風と雨とに、結立の髷にかけた銀糸の乱れるのが、いたいたしくみえたので、わたくしは傘をさし出して、
「おれは洋服だからかまわない、」
実は店つづきの明い灯火に、さすがのわたくしも相会傘には少しく恐縮したのである。
「じゃ、よくって。すぐ、そこ。」
と女は傘の柄につかまり、片手に浴衣の裾を思うさままくり上げた。
稲妻がまたぴかりと閃き、雷がごろごろと鳴ると、女はわざとらしく、
「あら」
と叫び、一歩後れて歩こうとするわたくの手を取り、
「早くさ。あなた。」
ともう馴れ馴れしい調子である。
「いいから先へお出で。ついて行くから。」
路地へ入ると、女は曲がるたびごとに、迷わぬようにわたくしの方に振返りながら、やがて溝にかかった小橋をわたり、軒並一帯に 葦ずの日覆をかけた家の前に立留った。
「あら、あなた。大変に濡れちまったわ。」
と傘をつぼめ、自分のもよりも先に掌でわたくしの上着の雫を払う。
「ここがお前の家か。」
「拭いて上げるから、寄っていらっしゃい。」
「洋服だからいいよ。」
「拭いて上げるっていうのにさ。わたしだってお礼がしたいわよ。」
「どんなお礼だ」
「だから、まアお這入りんなさい。」〜略〜

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高瀬舟〜森鴎外

智恩院の桜が入相の鐘に散る春の夕べに、これまで類のない珍しい罪人が高瀬舟に載せられた。
それは名を喜助と云って、三十歳ばかりになる、住所不定の男である。固より牢屋敷によびだされるやうな親類はないねので、 舟にもただ一人で乗った。〜略〜
其日は暮方から風が止んで、空一面を蔽った薄雲が、月の輪郭をかすませ、やうやう近寄って来る夏の温かさが、 両岸の土からも川床の土からも、霞になって立ち昇るかと思われる夜であった。下京の町を離れて、加茂川を横ぎった頃からは、 あたりがひっそりとして、只舳に割かれる水のささやきを聞くのみである。
夜船でねることは、罪人にも許されているのに、喜助は横になろうともせず、雲の濃淡に従って、 光の増したり減じたりしる月を仰いで、黙っている。其額は晴れやかで目には微かなかがやきがある。〜略〜
庄兵衛は心の内に思った。これまで比高瀬舟の宰領をそたことは幾度だか知れない。 しかし載せていく罪人は、いつも殆ど同じように、目も当てられぬ気の毒な様子をしていた。それに比男はどうしたのだろう。 遊山船にでも乗ったやうな顔をしている。罪は弟を殺したのだそうだが、よしや其弟が悪い奴で、 それをどんな行掛りになって殺したにせよ、人の情として好い心持はせぬ筈である。この色の蒼い痩男が、 その人の情と云うものが全く欠けている程の、世にも稀な悪人であらうか。どうもさうは思はれない。 ひょっと気でも気でも狂っているのではあるまいか。いやいや。それにしては何一辻褄の合わぬ言葉や挙動がない。 比男はどうしたのだろう。庄兵衛がためには喜助の態度が考へれば考へる程わからなくなるのである。〜省略〜
庄兵衛はこらへきれなくなって呼び掛けた。「喜助、お前何を思っているのか。」〜略〜



草枕〜夏目漱石

山路を登りながら、こう考えた。
智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。
住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生まれて、画が出来る。
人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向こう三軒両隣にちらちらするただの人である。ただの人が作った 人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなし国へ行くばかりだ。 人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。
越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容(くつろげ)て,束の間の命を、束の間でも住みよく せねばならぬ。ここに詩人という天職が出来て、ここに画家という使命が降る。あらゆる芸術の士は人の世を長閑(のどか)にし、 人の心を豊かにするが故に尊とい。
住みにくき世から、住みにくき煩いを引き抜いて、有難い世界をまのあたりに写すのが詩である。 画である。あるいは音楽と彫刻である。こまかに云えば写さないでもよい。ただまのあたりに見ればよい。 そこに詩も生き、歌も湧く。〜略〜
世に住むこと、二十年にして、住むに甲斐ある世と知った。二十五年にして明暗は表裏の如く、 日のあたる所にはきっと陰がさすと悟った。三十の今日はこう思うている。−−〜略〜


刺青〜谷崎潤一郎
日はうららかに川面を射て、八畳の座敷は燃えるやうに照った。水面から反射する光線が、無心に眠る娘の顔や、障子の紙に 金色の波紋を描いてふるへて居た。部屋のしきりを閉て切って刺青の道具を手にした清吉は、暫くは唯恍惚としてすわって 居るばかりであった。彼は今始めて女の妙相をしみじみ味わう事が出来た。その動かぬ顔に相対して、十年百年この一室に静座 するともなほ飽くことを知るまいと思はれた。古のメムフィスの民が、荘厳なるエジプトの天地を、ピラミッドとスフィンクスとで 飾ったやうに、清吉は清浄な人間の皮膚を自分の恋で彩らうとするのだった。
やがて彼は左手の小指と無名指と拇指の間に挿んだ絵筆の穂を、娘の背にねかせ、その上から右手で針を刺して行った。 若い刺青師の霊は墨汁の中に溶けて、皮膚に滲んだ。焼酎に交ぜて刷り込む球球朱の一滴一滴は、彼の命のしたたりであった。 彼は其処に我が魂の色を見た。
いつしか午も過ぎて、のどかな春の日は漸く暮れかかったが、清吉の手は少しも休まず、女の眠りも破れなかった。〜略〜

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第4ページ


初恋・島崎藤村

まだあげ初めし前髪の
  林檎のもとに見えしとき
 前にさしたる花櫛の
          花ある君と思ひけり
やさしく白き手をのべて
     林檎をわれにあたへしは
 薄紅の秋の実に 
           人こひ初めしはじめなり
わがこころなきためいきの 
  その髪の毛にかかるとき
 たのしき恋の杯を 
         君が情に酌みしかな
林檎畑の樹の下に
        おのずからなる細道は
 誰が踏みそめしかたみぞと
      問いたまうこそこひしけれ

新生〜島崎藤村

節子を見た眼で岸本は婆やを見た。婆やは流許に腰を曲めて威勢よく働いて居た。正直で、働き好きで、丈夫一式を自慢に 奉公して居るこの婆やは、肺病で亡くなった奮い学友の世話で、あの学友が悪い顔付はしながらもまだ床に就くほどではなく 岸本のところへよく人生の不如意を嘆きに来た頃に、そこの細君に連れられて目見えに来たものであった。水道の栓から迸る やうに流れ落ちて来る勢いの好い水の音を聞きながら鍋の一つも洗ふ時を、この婆やは最も得意にして居た。
何ちなく節子は一番彼女に近い婆やを恐れるやうに成った。それに関らず、彼女は冷静を保って居た。〜略〜
岸本は人知れず自分の顔を紅めずには居られなかった。もしあの河岸の並木のかげを往来した未知の青年のやうな柔い心をもった人が、 自分の行ひを知ったら。あの恩人の家の弘のやうに「兄さん、兄さん」と言って眞身の兄弟のやうに思って居て呉れる人や、 それから自分のために日頃心配して居て呉れる友人や、山の方にある園子の女の友達なぞが、聞いたなら。岸本は身体全体を紅くしても まだ羞じ足りなかった。彼は二十七歳で早くこの世を去った友人の青木のことなぞのも想い到って、「君はもっと早く死んで居た方が 好かった」とあのなくなった友達にまで笑われるやうな声を耳の底の方で聞いた。
もしこれが進んで行ったら終には奈何なるといふやうなことは岸本には考へられなかった。しかし、すくなくとも彼は自分に向って 投げられる石のあるといふことを予期しない訳に行かなかった。彼はある新聞社の主筆が法廷で陳述した言葉を思ひ出すことが出来る。 その主筆に言わせると、世には法律に触れないまでも見遁しがたい幾多の人間の罪悪がある。社会はこれに向かって制裁と打撃とを 加へねば成らぬ。新聞記者は好んで人の私行を摘発するものではないが、社会に代わってそれらの人物を筆誅するに外ならないのであると、 こうした眼に見えない石が自分の方へ飛んで来る時の痛さ以上に、岸本は見物の喝采を想像して見て悲しく思った。
昼と夜とは長い瞬間のやうに思われるやうに成って行った。そして岸本の神経は姪に負わせ又自分でも負った深傷に向かって注ぎ集まる やうに成って行った。〜略〜

智恵子抄〜高村光太郎

あどけない話
智恵子は東京に空がな無いという。ほんとうの空が見たいという。
私は驚いて空を見る。
桜若葉の間に在るのは、切っても切れないむかしなじみのきれいな空だ。

レモン哀歌
そんなにもあなたはレモン待っていた
かなしく白くあかるい死の床で
私の手からとった一とつのレモンを
あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ
トパアズいろの香気が立つ
その数滴の天のものなるレモンの汁は

ぱっとあなたの意識を正常にした
あなたの青く澄んだ眼がかすかに笑ふ
わたしの手を握るあなたの力の健康さよ
あなたの咽喉に嵐はあるが
かういふ命の瀬戸ぎはに
智恵子はもとの智恵子となり
生涯の愛を一瞬にかたむけた
それからひと時
昔山頂でしたやうな深呼吸を一つして
あなたの器官はそれなりとまった
写真の前に挿した桜の花かげに
すずしく光るレモンを今日も置こう

梅酒
死んだ智恵子が造っておいた瓶の梅酒は
十年の重みにどんより澱んで光をつつみ、
いま琥珀の杯に凝って玉のやうだ。
ひとりで早春の夜ふけの寒いとき
、 これをあがってくださいと、
おのれの死後に遺していった人を思ふ。
おのれのあたまの壊れる不安に脅かされ、
もうじき駄目になると思う悲に、
智恵子は身のまわりの後始末をした。
七年の狂気は死んで終った。
厨にみつけたこの梅酒の芳ある甘さを
わたしはしずかにしずかに味はう。
狂乱怒涛の世界の叫も
この一瞬を犯しがたい。
あわれな一個の生命を精しする時、
世界はただこれを遠巻きにする。
夜風も絶えた。

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第5ページ


田園の憂鬱〜佐藤春夫

その蝉は今生まれたばかりだといふ事は一目に解った。それはまだ極く軟かで体も固まっては居ないのである。 この虫はかうして身動きもせず凝呼ちしたまま、今、静かに空気の神秘にふれて居るのであった。 その未だ完成しない羽は全体は乳色で、言ふばかりなく可憐で、痛々しく、小さくちぢかんで居た。 ただそれの緑色の筋ばかりがひどく目立った。それは爽やかな快活なみどり色で、彼の連想は白く割れた種子を裂開いて 突出した豆の双葉の芽をありありと想い浮べたさせた。それはただその色ばかりでなく、羽全体が植物の芽生に髣髴して居た。 生まれ出るものには、虫と草との相違はありながら、或る共通な、或る姿がその中に啓示されて居るのを彼は見た。 自然そのものには何の法則もないかも知れぬ。けれども少なくもそれから、人はそれぞれの法則を、自分の好きなやうに看取 することが出来るのであった。尚ほ熟視すると、この虫の平たい丁度真上あたりに、極微小な、紅玉色でそれよりももっと 宝玉的な何ものかは、科学の上では何であるか(単眼といふものででもあらう)彼は知るよしもなかった。げれどもその美しさについては、彼自身こそ他の何人 より知っていると思った。その美しさはこの小さなとるにも足らぬ虫の誕生を、彼をして、神聖なものに感じさせ、礼拝させるためには、 なかんずく、非常に有力であった。〜略〜
唯一口に蛙鳴蝉騒と呼ばれて居るほど、人間には無意味に見える一生をするために、さうして彼等の命は僅かに数日ー 二日か三日か一週間であらうとは!自然は一たい、何のつもりでこんなものを造り出すのであらう。 いやいや、こんなものと言ってただ蝉ばかりではない、人間を。彼自身を?神が創造したと言われて居るこの自然は、 恐らくでたらめなのではあるまいか。さうして出たらめを出たらめと気付かないで解かうとする時ほど、それが神秘に見える 時はないのだから。いやいや何も解らない、さうだ、唯これだけは解るー蝉ははかない、さうして人間の雄弁な代議士の一生が 蝉ではないと、誰が言はうぞ。蝉の羽は見て居るうちに、目に見えて、そのちぢくれが引延ばされた。 同時にそれの半透明な乳白色は、刻々に少しづつ併し確実に無色で透明なものに変化して来るのであった。 さうしてあの芽生のやうに爽快であるけれどもひ弱げな緑も。それに応じて段々と黒ずんで、恰も若草の緑が常盤木の それになるやうな、彼はこれ等のもを二十分あまりも眺めつくして居る間にーそれは寧ろある病的な綿密さを以ってであったー 自ずと息が迫るやうな厳粛を感じて来た。
突然、彼は自分の心にむかって言った。
「見よ。生まれる者の悩みを。この小さなものが生まれるためにでも、此処にこれだけの忍耐がある!」
それから重ねて言った。
「この小さな虫は俺だ!蝉よ、どうぞ早く飛立て!」〜略〜

小さきものへ〜有島武郎

私は産室に降りていって、産婦の両手をしっかり握る役目をした。陣痛が起こるたび毎に産婆は叱るように産婦をはげましたて、一分も 早く産を終わらせようとした。しかし暫くの苦痛の後に、産婦はすぐ又深い眠りに落ちてしまった。鼾さえかいて安々と何事も忘れた ように見えた。産婆も後から駆けつけてくれた医者も、顔を見合わして吐息をつくばかりだった。医師は昏睡がくるたび毎に何か非常の 手段を用いようかと案じているらしかった。
昼過ぎになると戸外の吹雪は段々鎮まっていって、濃い雪雲から漏れる薄日の光が、窓にたまった雪に来てそっと戯れるまでになった。 しかし産室の中の人々にはますます重い不安の雲が蔽い被さった。医師は医師で、産婆は産婆で、私は私で、銘銘の不安に捕われてしまった。 その中で何等の危害をも感ぜぬらしく見えるのは、一番恐ろしい運命の淵に臨んでいる産婦と胎児だけだった。二つの生命は昏々と して死の方へ眠って行った。
丁度三時と思わしい時にー産気がついてから十二時間目にー 夕を催す光の中で、最後と思わしい激しい陣痛が起こった。肉の眼で恐ろしい夢でも見るように、 産婦はかっと瞼を開いて、あてどもなく一所を睨みながら、苦しげというより、恐ろしげに顔をゆがめた。そして私の上体を 自分の胸にたくし込んで、背中を羽がいに抱きすくめた。若しも私が産婦と同じ程度にいきんでいなかったら、産婦の腕は私の 胸を押しつぶすだろうと思う程だった。そこにいる人々の心は思わず総立ちになった。医師と産婆は場所を忘れたように大きな 声で産婦を励ました。
ふと産婦の握力がゆるんだのをかんじて私は顔を挙げて見た。産婦の膝許には血の気のない嬰児が 仰向けに横たえられていた。〜略〜

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第6ページ


走れメロス〜太宰治

メロスは、単純な男であった。買い物を、背負ったままで、のそのそ王城に入って行った。たちない彼は、巡邏の警使に捕縛された。調べられて、 メロスノ懐中からは短剣が出て来たので、騒ぎが大きくなってしまった。メロスは、王の前に引き出された。
「この短剣で何をするつもりであったか。言へ!」暴君ディオニソスは静かに、けれども威厳を以って問ひつめた。その王の顔は蒼白で、 眉間の皺は、刻み込まれたやうに深かった。「市を暴君の手から救うのだ」とメロス悪びれずに答えた。
「お前がか?」王は嘲笑した。「仕方のないやつぢゃ。おまえには、わしの孤独がわからぬ」「言うな!」とメロスは、いきり立って反駁した。 「人の心を疑うのは最も恥ずべき悪徳だ。王は、民の忠誠さへ疑って居られる」
「疑ふのが、正当の心構へなのだと、わしに教えてくれたのは、おまへたちだ。人の心は、あてにならない。人間は、もともと私欲のかたまりさ、 信じては、ならぬ」暴君は落ち着いて呟き、ほっと溜息をついた。「わしだって、平和を望んでいるのだが」
「なんの為の平和だ。自分の地位を守るためか。」こんどはメロスが嘲笑した。「罪のない人を殺して、何が平和だ」
「だまれ、下賎の者」王は、さっと顔を挙げて報いた。「口では、どんな清らかな事でも言へる。わしには、人の腹綿の奥底見え透いてならぬ。 おまえだって、いまに、磔になってから、泣いて詫びたって聞かぬぞ。」「ああ、王は悧巧だ。自惚れているがよい。私は、ちゃんと死ぬ覚悟 で居るのに。命乞ひなど決してしない。ただ、−−」と言ひかけた、メロスは足もとに視線を落とし瞬時ためらひ、
「ただ私に情けをかけたいつもりなら、処刑までに三日間の日限を与えて下さい。たった一人の妹に、亭主を持たせてやりたいのです。三日のうちに、 私は村で結婚式を挙げさせ、必ず、ここへ帰って来ます。」
「ばかな」と暴君は、しわがれた声で低く笑った。
「とんでもない嘘を言ふわい。逃がした小鳥が帰ってくるといふのか」
「さうです。帰って来るのです」メロスは必死で言ひ張った。
「 私は約束を守ります。私を三日間だけ許してください。妹が、私の帰へを待っているのだ。 そんなに私のを信じらないならば、よろしい。この市にセリヌンティウスといふ石工がいます。私の無二の友人だ。あれを、人質としてここに置いて行かう。 私が逃げてしまって三日目の日暮れまで、ここに帰って来なかったら、あの友人を絞め殺して下さい。たのむ。さうして下さい」
それを聞いて王は、残虐な気持ちで、そっと北鼠笑んだ。生意気なことを言うわい。どうせ帰って来ないにきまっている。この嘘つきに 騙された振りして、放してやるのも面白い。さうして身代わりの男を、三日目に殺してやるのも気味がいい。人は、これだから信じられぬと、 わしは悲しい顔して、その身代わりの男を磔に処してやるのだ。〜略〜

女生徒〜太宰治

あさ、眼をさますときの気持は、面白い。かくれんぼのとき、押入れの真っ暗い中に、じっと、しゃがんで隠れていて、 突然、でこちゃんに、がらっと襖をあけられ、日の光がどっと来て、でこやんに、「みつけた!」と大声で言われて、 まぶしさ、それから、へんな間の悪さ、それから、胸がどきどきして、着物の前を合わせたりして、ちょっと、てれくさく、 押入れから出て来て、急にむかむか腹立たしく、あの感じ、いや、ちがう、あの感じでもない、なんだか、もっとやりきれない、 箱をあけると、その中に、また小さい箱があって、その小さい箱をあけると、またその中に、もっと小さい箱があって、 そいつをあけると、また、また、小さい箱があって、その小さい箱をあけると、また箱があって、そうして、七つも、八つも、 あけていって、とうとうおしまいに、さいころくらいの小さい箱が出て来て、そいつをそっとあけてみて、何もない、からっぽ、 あの感じ、少し近い。パチット眼がさめるなんて、あれは嘘だ。濁って濁って、そのうちに、だんだん澱粉が下に沈み、 少しずつ上澄みが出来て、やっと疲れて眼がさめる。朝は、なんだか、しらじらしい。悲しいことが、たくさんたくさん胸に浮んで、 やりきれない。いやだ。いやだ。朝の私は一ばん醜い。両方の脚が、くたくたに疲れて、そうしt、もう、何もしたくない。 熟睡していないせいかしら。朝は健康だなんて、あれは嘘。朝は灰色。いつもいつも同じ、一ばん虚無だ。朝の寝床の中で、 私はいつも厭世的だ。いやになる。いろいろ醜い後悔ばっかり、いちどに、どっとかたまって胸をふさぎ、身悶えしちゃう。
朝は意地悪。
「お父さん」小さい声で呼んでみる。へんに気恥ずかしく、うれしく、起きて、さっさと布団をたたむ。 布団を持ち上げるとき、よいしょ、と掛声して、はっと思った。私は、いままで、自分が、よいしょなんて、 げびた言葉を言い出す女だとは、思っていながった。よいしょ、なんて、お婆さんの掛声みたいで、いやらしい。 どうして、こんな掛声を発したのだろう。私のからだの中に、どこかに、お婆さんが居るようで、気持がわるい。 これからは、気をつけよう。ひとの下品な歩き恰好を顰蹙していながら、ふと、自分も、 そんな歩きかたしているのに気がついた時みたいに、すごく、しょげちゃった。
朝は、いつでも自信がない。寝巻のままで鏡台のまえに坐る。眼鏡をかけないで、鏡を覗くと、 顔が、少しぼやけて、しっとり見える。〜略〜

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枯野抄〜芥川龍之介

芭蕉はさっき、痰咳きにかすれた声で、覚束ない遺言をしたあとは、半ば眼を見開いた儘、昏睡の状態にはいったらしい。うす痘痕(いも) のある顔は、顧骨(かんこつ)ばかり露に痩せ細って、皺に囲まれた唇にも、とうに血の気はなくなってしまた。殊に傷しいのはその眼の色で、 これはぼんやりした光を浮かべながら、まるで屋根の向こうにある。際限ない寒空でも望むように、徒に遠い所を見やっている。 「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる。」−−事のよるとこの時、このとにとめのない視線の中には、三四日前に彼自身が、その辞世の句に詠じた通り、 茫々とした枯野の暮色が、一痕の月の光もなく、夢のように漂ってでもいたのかも知れない。
{水を。」
木節はやがてこう云って、静かに後にいる治郎兵衛を顧た。一椀の水の羽根楊子とは、既にこの老僕が、用意して置いた所である。 彼はその二品をおずおず主人の枕元へ押し並べると、思い出したように又、口を早めて、専念に称名を唱え始めた。治郎兵衛の素朴な、 山家育ちの心には、芭蕉にせよ、誰にもせよ、ひとしく彼岸に往生するのなら、ひとしく又、弥陀の慈悲にすがるべき筈だという、 堅い信念が根を張っていたからであろう。
一方又木節は、「水を」と云った刹那の間、果たして自分は医師として、万方を尽くしたろうかと云う、何時もの疑惑に遭遇したが、 すぐに又自ら励ますような心もちになって、隣にいた其角の方をふりむきながら、無言の儘、ちょっと合図をした。 芭蕉の床を囲んでいた。一同の心に、愈愈と緊張した感じが咄嗟に閃いたのはこの時である。が、緊張した感じと前後して、 一種の弛緩した感じがーー伝わば、来る可きものが遂に来た云う安心に似た心もちが、通りすぎた事も亦争われない。 唯、この安心に似た心もちは、誰もその意識の存在を肯定しようとはしなかった程、微妙な性質のものであったからか、 現にここにいる一同の中では、最も現実的な其角でさえ、折から顔を見合わせた木節と、際どく相手の目の中に同じ心もちを 読み会った時は、流石にぎょっとせずにはいられなかったのであろう。彼は、慌しく視線を湧き側へ外らせると、 さり気なく羽根楊子をとりあげて、
「では、御先へ」と、隣の去来に挨拶した。〜略〜

赤蛙〜島木健作

何かを期待してぢっと一所を見つめているといふのは長いものだ。それは長く思はれたが、五分は経たなかっただろう。赤蛙は 再び動き出した。前と同じように流れの方に向かって。そして飛び込んだ。これも前と同じに。一生懸命に泳ぎ、 押し流され、水中に姿を没し、中洲の突端に取りつき、這い上がり、またもとの所へ来てうずくまる、−− 何から何までがまえのが前のときとおなじ繰り返しだった。そして今不思議な見ものを見るやなおもひでぎょし凝視している私の目の前で、 赤蛙は又もや流れへ向かって歩きだしたのである。
私は赤蛙をはじめて見つけた時、その背なかの赤褐が、濡れたやうに光っていたことを思い出した。して見ると私は初めから見たのではない。 私が見る前に、赤蛙はもう何度もこの繰り返しをやっていたものかわからない。
「馬鹿なやつだな!」私は笑ひだした。
赤蛙は向こうに渡りたがっている。しかし赤蛙はそのたびに何もわざわざ今渡ろうとしているその流れをえらぶ必要はないのだ。 下が一枚板のやうな岩になっているために速い流れをなしている所が全部ではない。急流のすぐ上に続くところは、澱んだゆっくりとした流れになっている。 流れは一時そこで足をとめ、深く水をたくわえへ、次の浅瀬の急流にそなへてでもいるやうな所なのである。その小さな淵の上には、柳のかなり大木が枝 さへ垂らしているといふ、赤蛙にとっては誂へ向きの風景なのだ。なぜあの淵を渡らうとはせぬのだらう? 
 私がそんなことを考へていいる間にも、赤蛙は又も失敗して戻ってきた。私はそろそろ退屈しはじめていた。 私は道路から幾つかの石を拾ってきて、中州を目がけて投げはじめた。赤蛙を打とうといふ気はなかった。私はただ彼を驚かしてやりたかった。 彼に周囲を見まはすきっかけをつくり、気づかせてやりたかった。石は赤蛙の周囲に幾つも落ちた。速い流れにも落ちた。淵に落ちて、どぶんといふ音 はこっちを見よいふかのやうだった。赤蛙はぴくっとしたやうに頭を上げたり、ちょと立ち止まったりしたが、しかし結局 予定通り動くことをやめなかった。飛び込んで泳ぐこともやめなかった。
 私は石を投げることをやめて、また石の上に腰を下ろした。
 秋の日はいつか日がかげりつつあった。山や森の陰の所は薄蒼くさへなって来ていた。私は冷えが来ぬうちに帰へらねばならなかった。 しかし私は立ち去りかねていた。
 次第に私は不思議な思いにとらはれはじめていた。〜略〜

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風立ちぬ〜堀辰雄

それらの夏の日々、一面に薄の生い茂った草原の中で、お前が立ったまま熱心に絵を描いていると、 私はいつもその傍らの一本の白樺の木陰に身を横たえていたものだった。そうして夕方になって、 お前が仕事をすませて私のそばに来ると、それからしばらく私達は肩に手をかけ合ったまま、 遥か彼方の、緑だけ茜色を帯びた入道雲のむくむくした塊りに覆われている地平線の方を眺めやっていたものだった。 ようやく暮れようとしかけているその地平線から、反対になに何物かが生まれて来つつあるかのように・・・・〜略〜
私達の乗った汽車が、何度となく山を攀じのぼったり、深い渓谷に沿って走ったり、 又それから急に打ち開けた葡萄畑の多い台地を長いことかかって横切ったりしたのち、やっと山岳地帯へと果てしのないような、 執拗な登攀をつづけ出した頃には、空は一層低くなり、今まではただ一面に鎖ざしているように見えた真っ黒な雲が、 いつのまにか離れ離れになって動き出し、それらが私達の目の上に圧しかぶさるようであった。 空気もなんだか底冷えがしだした、上衣の襟を立てた私は、肩掛けにすっかり体を埋めるようにして目をつぶっている節子の、 疲れたと云うよりも、すこし興奮しているらしう顔を不安そうに見守っていた。彼女はときどきぼんやりと目をひらいて私の方を見た。 はじめのうちは二人はその度毎に目と目で微笑みあったが、しまいにはただ不安そうに互いを見合ったきり、すぐ二人とも目をそらせた。 そして彼女はまた目を閉じた。〜略〜
そのあたりの山だの丘だの松林だの山畑だのが、半ば鮮かな茜色を帯びながら、 半ばまた不確かなような鼠色に徐々に侵され出しているのを、うっとりとして眺めていた。 ときどき思い出したようにその森の上へ小鳥たいが放物線を描いて飛び上がった。〜略〜
私は、このような初夏の夕暮がほんの一瞬時生じさせている一帯の景色は、すべてはいつも見馴れた道具立てながら、 恐らく今を措いてはこれほどの溢れるような幸福の感じをもって私達自身にすら眺め得られないだろうことを考えていた。 そしてずっと後になって、いつかこの美しい夕暮が私の心に蘇って来るようなことがあったら、 私はこれに私達の幸福そのものの完全な絵を見出すだろうと夢みていた。 「何をそんなに考えているの?」私の背後から節子がとうとう口を切った。〜略〜

檸檬〜梶井基次郎

また其処の家の美しいのは夜だった。寺町通は一体に賑かな通りでーと云って感じは東京や大阪よりはずっと澄んでいるがー 飾窓の光がおびただしく街路は流れ出ている。それがどうした訳かその店頭の周囲だけが妙に暗いのだ。もともと片方は暗い 二条通に接している街頭になっているので、暗いのは当然であったが、その隣家が寺町通にある家にも拘らず暗かったのがはっきりしない。 然しその家が暗くなかたったら、あんなにも私を誘惑するには至らなかったと思ふ。もう一つはその家の打ち出した廂なのだが、 その廂が眼深に冠った帽子の廂のやうにーこれは形容といふよりも、「おや、あそこの店は帽子の廂をやけに下げているぞ」 と思はせるほどなので、廂の上はこれも真暗なのだ。 そう周囲が真暗なため、店頭に点かられた幾つもの電灯が驟雨のやうに浴びせかける絢爛は、 周囲の何者にも奪われることなく、ほしいままにも美しい眺めが照らし出されているのだ。 裸の電灯が細長い螺旋棒をきりきり眼の中へ刺し込んで来る往来に立って、 また近所にある鍵屋の二階の硝子窓をすかして眺めたこの果物店の眺めほど、その時どきの私を興がらせたものは寺町の中でも稀だった。
その日私は何時になくその店で買い物をした。といふのはその店には珍しい檸檬が出ていたのだ。檸檬などあるふれている。 が其の店といふのも見すほらしくはないまでもただあたりまへの八百屋にすぎなかったので、それまであまり見かけたことはなかった。 一体私はあの檸檬が好きだ。レモンエロウのチューブから搾り出して固めたやうなあの単純な色も、 それからあの丈の詰まった紡錘形の恰好も。−結局私はそれを一つだけ買ふことにした。それからの私は何処へどう歩いたのだろう。 私は長い間街を歩いていた。始終私の心を圧へつけていた不吉な塊がそれを握った瞬間からいくらか弛んできたとみえて、 私は街の上で非常に幸せであった。あんなに執拗かった憂鬱が、そんなものの一顆で紛らわさるー或るひは不審なことが、 逆説的な本当であった。それにしても心といふ奴は何と不思議な奴だろう。〜略〜

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旅愁〜横光利一

塩野は庭下駄を穿いて飛び石の上を渡り、目黒富士の傍へ近よっていった。薄闇の忍んでいる三角形の築山全体に杉が生えていて、 山よりも杉の繁みの方が量面が大きく、そのため目黒富士の苦心の形もありふれた平凡な森に見えた。しかし、八代は廊下に立って 塩野の背を見ながらも、やがて来るそうな千鶴子のことをふと思うと、争われず庭など落ちついて眺めていられなかった。 パリで別れてから、大西洋へ出て、アメリカを廻って来た千鶴子の持ち込んで来るものが、まだ見ぬ潮風の吹き靡いて来るような新鮮な 幻影を立て、広重の描いた目黒富士の直立した杉の静けさも、自分の持つ歴史に一閃光を当てられるような身構えに見えるのだった。
間もなく、庭の石灯篭の袋に火が入り、部屋の火影が竹林の足を染め出すころになって、 女中に伴われ千鶴子たち二人が廊下を渡って来た。〜略〜
その日の夜、矢代は夕食を千鶴子と一緒に摂って、午後の九時ごろ新橋の駅で別れひとり家に帰って来た。すると、 夜の明け初めるころになって彼には何とも分からぬことに出会ってしまった。それはいつものように、 自分の部屋でただ一人眠っていたときに見えた 夢だったが、しかし、それは夢とはいえ、また夢ともまったく違っていた。千鶴子が彼の横の別の夜具の中に寝ていたので、ある。 矢代は誰かに赦されて千鶴子と事実の結婚式を上げよと命ぜられたように思った。そのとき、 充血して来た彼女の口中から清水が湧き出し、 それは非常に美しく、見るまに千鶴子の喜々とした顔色は、いつもと違って全身小麦色になると、はち切れそうな筋肉の波が、 力強い緊迫で温度を高め始めて来た。〜略〜
矢代は湯の中かに千鶴子のいることを感じていた。昨日の朝はどういうものか浴場で顔を合わしたくなかったのに、今朝は間もなく別れて 千鶴子が帰るためもあって、その前に二人きりで話したく思い、絶えず彼は霧の底からあたりを見廻した。槙三から離れてただ二人きりになるためには、 実際この朝の浴場のひとときより矢代には時間がなかった。それも昨夕計らず千鶴子から云い出した婚約のこともあるのに、 まだこんな場所を選ばねばならぬ二人だと思うと、矢代は外国の旅というものの、二人が会うためにはいかに広く特殊な世界だったかを思い、 今さらに驚き振りかえってみるのだった。
彼は浴場を一回りしてみてから、隅の方で身体を流している婦人らしい人影の傍へ近よってみたが、身体の輪郭だけ朧に雲って見えるだけで、 やはり誰が誰だかよく分からなかった。そのうち寒けを感じて来たのでまた湯に入ろうとしかけたとき、
「あら。」 と千鶴子が不意に水面から顔を上げた。
「やあ、お早う。」矢代は全身鏡を受けたように感じて云った。
「いらしたの。」
「今さきです。」
 二人は湯に浸かったまま朝日の射し込んで来る窓を見上げてしばらく黙った。体で膨れた豊かな湯の列なりに、 乳色に染まった限界が雲間の浴みかと見えた。少し離れた位置をとると、もう顔も見わけのつかないほど霧が舞い込み、 ぶつかる湯の波紋が二人の顎の間できらきら光った。
「あれからよく眠れましたか。」と矢代は訊ねた
「あれからお手紙書いたの。後でお渡ししますわ。」〜略〜
久慈は真紀子とパリで別れるとき、特に別れ話を二人でしたわけでなく、また二人は争ったわけでもなかった。 東野の帰るという報せで偶然の便船を得た思いが、どちらにもしたというだけだった。二人の共同生活は、外国にいるかぎりのこととしたと云った 真紀子の言を、承認しあっていた結着が、まだそそままの折のこの会合なだけである。
しかし、実際の生活はもうはるか以前のパリ当時に破れていた。それ以後二人は文通もなく、帰国してからも久瀬は二たび真紀子と会おうとも 思わなかった。が、いま会ってみると、後悔もしなければ、真紀子を畏れる要もなく、千鶴子と並んでいる彼女の姿を眺めていても、 かっての共同の生活が、自分とは関係のない、、別個の異国におくる誰かの生活の絵を見るように、浮き上って来る愉しさが強かった。 おそらく真紀子にしても、同様に前の二人の生活を撫でさすって眺めているに相違あるまい。その互いに思い浮べた絵の方へ二人は近より、 懐かしく何かを云おうとしても、も早や、二人で作った絵の原型は、手も届かぬ遠景となって流れているのである。〜略〜

しかし、自分は真紀子を果たして愛していたのだろうか。−愛していたのは、むしろ千鶴子の方だったと彼は思った。それも、 そんなことに初めは気付かずに、次第に真紀子が彼に近づいて来れば来るほど、鮮明に矢代の方へ傾いて行く千恵子を眺め、 彼は失ってゆくもののさみしさを味わっていた。そして、間もなく彼は真紀子も千鶴子も忘れてしまったのである。しかし、 日本へ帰って最初に思い出したのは、やはり千鶴子のことだった。何ごとのためにか、すべてを欺いていたのも、 日を経るにつれ剥ぎ落ちて、その下から顕れて来るのは、白いレースの襟に浮ぶ千鶴子の眼だった。 自分の愛していることを自分で気づかぬなんてー
 パリにいるときも、じっとそうして一点をよく彼は見詰めたが、またいつもの癖が出て、それはそれとして慰められるたの多くの ことを知りもし、工夫もした。
「君のは愛ではない。大愛でもない拷問だ。」
いまだに千鶴子との結婚を延ばしている矢代にあて、そう書いた久慈も、実は、自分の気持ちをついに顕すことをさしひかえた自身の 偽りつづけた工夫かもしれなかった。〜略〜

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リツ子・その愛〜檀一雄

さうだ。今でもリツ子を愛していることに変わりはない。が、その愛、だ。
疑ひまなく、リツ子も私を愛してくれている。わたしの為に立ち上り、私の綻びを縫ってやらうと、よどんでゆく眼を、無理に指で ひきあけるほどの、切ない生への再起をのぞんでいる。もう本能的な生命への執着とは変わっている。私の為に立ち上がり、 太郎の為におきあがらねばならないというふうだ。
ついこの間も、枕元に立っていた私の足をリツ子が、そっとなでさすっているのに驚いた。性愛への、 満たされぬ淋しさとは違っているようだった。宛ら、仏像への帰依と、愛撫のやうだった。光の底で、私の皮膚のぬくもりを静かに感触し、 何物かをそっと祈念しているやうだった。私もためらって、しばらくその場が立去れないのである。  その愛情が、重荷である。愛情というものが、このやうに一方的に縋ってゆく、そいつが重荷なのである。みじめ過ぎるではないか。 リツ子に昔から感じられた、あの底抜けの善意と信頼が、病気によって誇張されている。 然し私の心の中に巣食ひはじめていった、空洞は、リツ子の善意と信頼をまぶし過ぎると思ったせいではない。 その善意と信頼が発するリツ子の自立性の問題なのだ。女の献身を受けて、決してとまどった訳ではない。対等の男女として、 愛が発し得ない、何かしら淋しい物足りなさである。 〜略〜
「寝たらいい。帰るか?」「もうきつい。とまらせて」媚のようではなく、本当に酔ったやうだった。女中を呼んで、部屋に寝かせた。 私は残りの酒を一二本 あふりながらすわっている。
リツ子の病臥の姿が眼に浮んだ。何か空漠な愛情が私の心の中にひろがってゆく。もう遠く、さぐり取れぬやうに肉体の印象はうすれていた。 とりとめ得るかな?あの命を。駄目だろう、とさう思った。コトリと大空の中に宝珠を取落としてしまっやうなうつろな悲しみが湧いて出た。 が、太郎を残して死に切れるか?あの不思議な俺達の混合物を。何かしら斬新な、手離しがたい生命の寵児を。今夜は蜜柑山で、 どんなことを考えているのだろうか。太郎のどんなに不思議な雪の夜だ?静子のお伽話かな、いや、太郎をぬくめている、雪の夜の、 お伽話のやうに寂しい不思議な肉体だらう。
すると、あああの生命だ、俺がさぐりとりたいのは、と唐突な渇くやうな静子への恋情を自覚した。
私は波ばかり厠に立って、はだら雪の庭土と小池を見下ろしながら、美代福の寝ている部屋に荒々しく渡っていった。〜略〜

布団〜田山花袋
小石川の切支丹坂がら極楽水に出る道のだらだら坂を下りようとして彼は考えた。「これで自分と彼女との関係は一段落を告げた。 三十六にもなって、子供も三人あって、あんなことを考えたかと思うと、ばかばかしくなる。けれど・・・けれど・・・ ほんとうにこれが事実だろうか。 あれだけの愛情を自身に注いだのはたんに愛情としてのみで、恋ではなかったろうか」
数多い感情ずくめの手紙、二人の関係はどうしても尋常ではなかった。妻があり、子があり、世間があり 師弟の関係があればこそあえて烈しい恋に落ちなかったが、語りあう胸の轟、相見る眼の光、その底にはたしかに凄まじい暴風が潜んで いたのである。機会に遭遇しさえすれば、その底の底の暴風はたちまち勢を得て、妻子も世間も道徳も師弟の関係もいっきょ 男は幾度も思った。 けれど文学者だけに、この男はおのずから自分の心理を客観するだけの余裕をもっていた 年若い女の心理は容易に判断し得られるものではない、 かの温い嬉しい愛情は、たんに女性特有の自然の発展で、美しく見えた眼の表情も、やさしく感じられた態度もすべて無意識で、無意味で、 自然の花が見る人に一種の慰藉を与えたようなものかもしれない。一歩を譲って女は自分を愛して恋してすることはできまい。いや、 さらに一歩を進めて、あの熱烈なる一封の手紙、陰に陽にその胸の悶を訴えて、ちょうど自然の力が、この身を圧迫するかのように、 最後の情を伝えてきた時、その謎をこの身が解いてやらなかった。女性のつつましやかなな性として、その上になお露わに迫って くることがどうしてできよう。そういう心理からかの女は失望して、今回のようなことを起こしたのかもしれぬ。〜略〜 最初の1月ほどは時雄の家に仮寓していた。華やかな声、艶やかな姿、今までの孤独な淋しいかれの生活に、 何らの対象!産褥から出たばかりの細君を助けて、靴下を編む、襟巻きを編む、着物を縫う、子供を遊ばせるという生生きした態度、 時雄は新婚当座にふたたび帰ったような気がして、家門近く来るとそそるように胸が動いた。門をあけると、玄関にはその美しい笑顔、 色彩に富んだ姿、夜も今までは子供と共に細君がいぎたなく眠ってしまって、六畳の室にいたずらに明らかな洋灯も、 かえって侘しさを増す種であったが、今はいかに夜更けて帰ってきても、洋灯の下には白い手が巧みに編み物の針を動かして、 膝の上に色ある毛糸の丸い玉!賑かな笑声が牛込の奥の小紫垣の中に充ちた。
けれど1月ならずして時雄はこの愛すべき女弟子をその家に置くことの不可能なのを覚った。従順なる家妻はあえてそのことに不満を 唱えず、それらしい様子も見せなかったが、しかもその気色はしだいに悪くなった。〜略〜
時雄は雪の深い十五里の山道と雪に埋れた山中の田舎町とを思いやった、別れた後そのままにしておいた二階に上がった。懐かしさ、 恋しさのあまり、かすかに残ったその人の面影を偲ぼうと思ったのである。武蔵野の寒い風のさんさんに吹く日で、 裏の古樹には潮の鳴るような音が凄まじく聞こえた。別れた日のように東の窓の雨戸を1枚明けると、光線は流るるように射しこんだ。 机、本箱、瓶、紅皿、依然としてもとのままで、恋しい人はいつものように学校に行っているのではないかと思われる、 時雄は机の抽斗を明けてみた。古い油の染みたリボンがその中に捨ててあった。時雄はそれを取って匂いを嗅いだ。 しばらくして立ち上って襖を明けてみた。大きな柳小行李が三個細引で送るばかりに絡げてあって、その向こうに、 芳子がつねに用いていた布団ーー萌黄唐草の敷布団と、綿の厚く入った同じ模様の夜着とが重ねられてあった。 時雄はそれを引きだした。女のなつかしい油の匂いと汗のにおいとがいいもしらず時雄の胸をときめかした。 夜着の襟の天鷲繊のきわだって汚れているのに顔を押しつけて、心のゆくばかりなつかしい女の匂いを嗅いだ。〜略〜

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鏡の中の少女〜福永武彦

五百木画伯は麻里の部屋の中にいた。
いつもは決して此処へはいったことはない。どんなに言っても、麻里は頑固に父親を自分の部屋へは通さなかった。あたし描きかけの絵を パパに見せるのは厭。
部屋の中には秘密と不安との匂いがした。画伯は窓を大きく開き、部屋の中を見廻した。壁に向こうむきに立てかけられた幾枚ものカンバス。 その鏡の側に、一枚だけこっち向きに置いてある不思議な絵。〜略〜
何という不安そうな顔、痩せた、蒼白い表情、嘲笑と憐憫とを湛えた口。鱗光のように輝いている眼。影のように散った髪。全体が縦に長く、 頭も、顔も、首も、異常なほどひょろ長い。そしてその顔は生きていた。
「麻里か?」
いな、麻里ではない、別の少女、気味の悪いほどよく似てはいるが、画伯のまるで知らない別の娘だ。それは生き、呼吸し、すぐそこに 画伯を見据えている。嘲けるように、父親を睨んでいる。
画伯は打ちのめされたように、その未完成の絵を見た。画家としてのメチエが、次第に冷静に、職業的関心を呼び起こす。 これは天才の絵だ。これが芸術というももだ。己が久しい以前に諦めてしまった芸術、それはつまりはこれだ。名声とか、尊敬とか、 そんな空虚なものとは全く関係のない、それ自体が生きている芸術、それが此処にある。そしてこれを描いたのは、己の娘の麻里だ。 己じゃない。
画伯は素早く空想した。もしもこの絵の背景を描き足して、己の作品だと言って、展覧会に出品したなら、批評家どもは何と言うだろう。 おどろくべき傑作、五百木は遂に此処に達したか。これが彼の新しい出発だ。みんなそう言って騒ぐだろう。
彼の顔にシニックな微笑が浮んだ。天才か。天才と呼ばれて早く死んだ友人たちの顔が、次々に浮んだ。無名の天才たち。 貧しく、みじめだった奴等。己が選んだのは職業としての絵かきだ。芸術としての絵画じゃない。しかし麻里は?
画家は気を取り直すと、急いで部屋を出て行った。〜略〜

草の花〜福永武彦
それは藤木が僕をあいしていることではないだろうか。こうしていたいということ、艪のなくなった舟のうえで、為すこともなく、 二人手を取り合って待っていたいということ、それは藤木がぼくをあいしている証拠ではないだろうか。いつまでもこうして、不安の 重味を量っていたいということは。僕は藤木のかぼそい身体を抱き寄せるようにした。
そして僕の意識の全領域を、あのいつもの眩惑、気の遠くなるような恍惚感が占めめた。もう森のことも矢代のことも考えなかった。 もう誰もいなかった。藤木と僕と、ただこの二人だけ。僕等を囲んで、天もなく海もなく、場所もなく時間もなかった。 風が吹こうとと波が荒れようと、この夜は永遠であり、この愛は永遠だった。 もう不安もなく絶望もなかった。僕の腕の中のこの肉体をあいしているという、皮膚のぴりぴりする緊張と、 愛されているという寡って知らなかった異常な感覚、気の遠くなるような飛翔感、藤木を抱いていながら何等やましさを感じないこの 精神と肉体との統一、ただこの陶酔が永遠にはてしないように・・・・・・。
ーああ月が出ます。
藤木の声が僕の内部を爽やかに突き抜ける。僕は眼を開く。〜略〜

天の夕顔〜中河与一

信じがたいと思われるでしょう。信じるということが現代人にとっていかに困難なことかということは、わたしもよくしっています。 それでいて最も信じがたいようなことを、最も熱烈に信じているという、この熱狂に近い話を、どうぞ判断していただきたいのです。
わたくしは一つの夢に生涯を賭けました。わたくしの生まれて来たことの意味は、だから言ってみれば、その儚なげな、しかし切なる 願いを、どこまで貫き、どこまで持ちつづけたかということになるのです。〜略〜
わたくしが初めてその人に逢ったのは、わたくしがまだ京都の大学に通っていたころで、そのころ、わたくしはあの人の姿を、 それも後ろ姿などを時々見てはまた見失っていたのです。格別美しい人とも思わなかったのですが、どんな関係の人か、 わたくししのいた素人下宿の、部屋の向こうなどで、見えているかとおもうと、またいつか見えなくなっているのでした。 間もなく、その人がそのうちの娘であり、今は結婚して誰かの夫人になっているのだということを知るようになりました。〜略〜
そんな時、丁度わたくしと逢ったのですが、弟のようなわたくしと交際することは、何か姉弟の親しさのように、 この上なく幸福であったが、もし自分が、あなたを愛しだしているのではないか、と考えると、 そのことに危険を感じだしたというのでした。
「今はいいけど、この上交際をつづけていると、わたくし、自分の立場が苦しくなりそうに思われて来ましたの。だから今日は、 お別れにまいりましたの」〜略〜
卓を隔てて端座している彼女には、何か威厳のようなもんが現れ、堅い決意を述べるその強さに圧倒され、わたくしは、 もう何も言う術も知りませんでした。
これが、わたくしが、彼女と逢って、彼女から突き離された最初でありました。
しかし、そのために、わたくしは今に至二十幾年、あの人のことを思いつづける運命を持つようになったのです。〜略〜
こういうことになるのを、どんなに恐れていたかしれないのに、またこんなことになってしまいました。今、夜の三時、 わたくしの眼の前には、あなたの少年の時のお写真が置いてあります。さっきから幾度わたくしはそれを頬に押しあてたことでしょう。 さんざん考えたあげく、もうお逢いすまいと、ずっと前、決心してお別れしたのに、それでもお逢いせずにはいられなくなって、 自分と自分を欺いて、自分の心が平静に帰ったと思っていたわたくしをお察しくださいませ。でもお逢いしてみると、 たちまちわたくしの心は切なく、苦しく、それはどうすればよいのかわからなくなる一方でございました。
思えば二年間して積みあげたわたくしの心も、ほんの三四度お目にかかるうちに、もうあとかたもなく、うちくだかれてしまいました。 わたくしのこの心の弱さをどうぞお笑いくださいませ。〜略〜

たった一日でも、半日でも、わたくしの心があの人のものでなかった時とてあっただろうか。 わたくしを喜ばす地上におけるたった一つのものが、今は無残にこわされようとしている・・・・
すると、あの人も、それがハッキリとわかったらしく、あの人は突然低い声で言ったのです。
「たとえ、わたくしは、この首が飛んでも、もうこの決心を動かそうとは存じません」
この言葉に、わたくしはハッと我に返りながら、一瞬、心がゆるむと、泣くに泣けぬ溜息が嗚咽のように胸から、迸り出るのを感じました。 その時、わたくしの悲しみと怒りは、深い嘆きに変わったのです。こんなに無言の中で、ポツリポツリ言葉を交わしながら、お互いの心が、 ありありと互いに読まれていることに、何か前世の宿縁のようなものを感じたのです。本当にあの人は、わたくしの殺意を、 手にとるように今はハッキリと読みとっていたのです。わたくしの心はわたくし以上にあの人にはわかていたのです。わたくしは決して 一人きりではない。あの人はあの人自身苦しんでいることを、ほんのさっきも告白した。 これ以上あの人を苦しめる権利がわたくしにあるだろうか。
わたくしはそう考えると、彼女の心にある苦悶が、その堪えきれないものが、一つの良心の姿となってわたくしを呼びつづけている ことに気付いたのです。
わたくしは堪えようと思いました。〜略〜

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俘虜記〜大岡昇平

山中で最後に米軍の爆撃をうけたとき、彼は火点観測のため単身前進し、迫撃砲の直撃弾をうけて、 一番先に戦死した。おそらく本望だっただろう。
一種の共感から私はこの若い将校をひそかに愛していた。私もまた私なりに、彼とはかなり違った意味においてであったけれど、 自分の確実な死を見つめて生きていたからである。
私はすでに日本の勝利を信じていなかった。私は祖国をこんな絶望的な戦いに引きずりこんだ軍部をにくんでいたが、 私がこれまで彼らを阻止すべく何事も賭さなかった以上、彼らによって与へられた運命に抗議する権利はないと思われた。 一介の無力な市民と、一国の暴力行使する組織とを対等に置くこうした考へ方に私はこっけいを感じたが、 今無意味な死にかりだされてゆく自己の愚劣をわらわないためにも、さう考へる必要があったのである。
しかし夜、関門海峡に投錨した輸送船の甲板から、下のはうを動いてゆく玩具のような連絡船の赤や青の灯をみながら、奴隷のやうに 死にむかって積みだされてゆく自分のみじめさが腹にこたえた。 出征する日まで私は「祖国と運命を共にするまで」といふ観念に安住し、時局便乗の虚言者もむなしく談ずる敗戦主義者も一からげに わらっていたが、 いざ輸送船にのってしまふと、たんなる「死」がどっかりと私の前に腰をおろして動かないのに閉口した。〜略〜
しかしいよいよ退路を遮断され、周囲で僚友がつぎつぎに死んでゆくのを見るにつれ、ふしぎな変化が私のなかで起こった。私は突然私の 生還の可能性を信じた。九分九厘確実な死は突然おしのけられ、一脈の空想的な可能性をえがいて、それを追求する気になった。 少なくともそのために万全をつくさないのは無意味と思われた。
明らかにこれは周囲に濃くなってきた死の影にたいする私の肉体の反作用であった。かうして異常な状態にあって、肉体がわれわれをして おこなはしめるものはすこぶる現実的であるが、その考へさすものはつねに荒唐無稽である。
私には一人の仲間があった。滋野はある漁業会社の重役の息子で、私と同年の、妻子ある男だった。彼は銃後の資本家のエゴイズムに愛想を つかし、(と彼はいっていた)その手先たらんよりは前線に出て一兵卒として戦ふことを夢みた。彼は内地で教育中、 前線出動の可能性をわざと軍に影響をもつ父親に知らさず、自ら内地に残る手段をたち切っていた。彼の夢は前線の状況を見て破れた。 彼はわが軍が愚劣に戦っていると判断し、「こんな戦場で死んぢゃつまらない。」と思ったといった。
このことばは私にとって一種の天啓であった。この死をむりに自ら選んだ死とするきょ傲が、一種の自己欺瞞にすぎないことに 私は突然思ひあたった。 こんなへんぴな山中でなすところなく愚劣な作戦の犠牲になって死ぬのは、「つまらない」ただそれだけなのである。 われわれは二人で比島脱出の計画を立てた。〜略〜

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桜島〜梅崎春生

山の上にある挺身監視隊長、谷中尉と言った。背が低い、がっしりした、眼の大きい男である。二十三四歳に見えた。 先日、博多が空襲にあった際、博多武官府にいたと言う。その時の話をした。博多は、私の古里であり、博多にいる私の 知己や友人のことを思い、心が痛んだ。
「美しく死ぬ、美しく死にたい、これは感傷に過ぎんね」
谷中尉は、煎豆の殻をはき出しながら、じりりと私の顔を眺め、そう言った。
日が暮れた。そして、一泊することに、心をきめた。遊ぼうと言うので、宿屋を出て、駅の裏手にあるという妓楼に出掛けて行った。 宿の女中に教えられた家は、暗い路の、生垣に囲まれた、妓楼らしくもないうらぶれた一軒屋である。まえの崖の下を、煙突から赤い 焔をはきながら、機関車がゆるゆる通る。パッと火の粉が線路に散ったりした。 星の見えない空には厚い雲の層が垂れているらしかった。
妓が一人しか居なかったのだ。そして、酒はなかった。谷中尉の発議で、私が籤をつくった。このような場所で女と寝るのも侘しく、 私は短い籤を引きたいと願った。しかし、私が長い籤にあたった。谷中尉は、お茶を一杯飲んだだけで、では、とわらいながら立ち上がった。 やや経って、玄関から門までの石畳を踏んで出て行く谷中尉の音がきこえて来た。しばらくして、妓が部屋に来た。
妓には、右の耳が無かった。
女と遊ぶ。このことが生涯の最後のことであることが、私にははっきり判っていた。桜島に行けば、もはや外出は許されぬ、暇さえあれば 眠らねばならぬような勤務が、私を待っているのだ。私は窓に腰をかけ、黙って妓を眺めていた。女は顔の半分を絶えず私の視線から隠す ようにしながら、新しく茶をいれた。にわかに憤怒に似た故知らぬ激しい感傷が、鋭く私の胸をよぎった。
「耳がなければ、横向きに寝るとき便利だね」
このような言葉を、荒々しい口調で投げかけてみたくてしょうがなかった。言わば、頭をかきむしるような絶望の気持ちでーー妓を侮辱 したかったのではない。この言葉を口に出せば、言葉のひとつひとつが皆するどい剣のようにはねかえって、私の胸に突き刺さって来るに きまっていた。口に出さずとも、もはや私の胸は傷ついているのではないか。私は、私自身を屈辱したかったのだ。生涯、女の暖かい愛情 も知らず、青春を荒廃させ尽くしたまま、異土に死んで行かねばならぬ自身に対し、 このような侮辱がもっともふさわしいはなむけではないのか。私は窓に腰かけたまま、じっと女の端麗な横顔に見入っていた。
「こわいわ」
視線を避けるように、妓はちょっと横を向いた。かすかに身ぶるいしたようであった。一瞬、右の半面が乏しい電燈の光に浮き上った。 地のうすい頭から、頬がすぐにつづいているべき部分は、ある種の植物の実の切口のように、蒼白くすべすべしていた。
「瞼を、どうしたの」
「崖から落ちたのさ」
「あぶないわね」
私は立ち上がって上衣を脱いだ。そして、時間が過ぎた。何の感興もない、ただ自分の肉体の衰えを意識するだけの短い時間のあいだ、 私はぼんやり外のことを考えていた。この町に、小さな汽車に乗ってやって来た。明朝はやくバスに乗って去る。一生のうち、初めて 訪れた町であり、もう訪れることはない。このうらぶれた妓楼の一夜が、私の青春のどのような終止符の意味をもつのだろう。 私は窓の下を通る貨物列車の音をわびしく聞きながら、妓と会話をかわしていた。
「桜島?」
妓は私の胸に顔を埋めたまま聞いた。
「あそこはいい処よ。一年中、果物がなっている。今行けば、梨やトマト。枇杷は、もうおそいかしら」
「しかし、私は兵隊だからね。あるからといって勝手には食えないさ。」
「そうね。可哀そうね。−ほんとに可哀そうだわ」
妓は顔をあげて、発作的にわらい出した。しかしすぐ笑うのを止めて、私の顔をじっと見つめた。
「そしてあなたは、そこで死ぬのね」
「死ぬのさ。それでいいじゃないか」
しばらく私の顔を見つめていて、急にぽつんと言った。誰に聞かせるともない口調でー
「いつ、上陸して来るかしら」
「近いうちだろう。もうすぐだよ」
「−あなたは戦うのね。戦って死ぬのね」
私は黙っていた。
「ねえ、死ぬのね。どうやって死ぬの。よう。教えてよ。どんな死に方をするの。」
胸の中をふきぬけるような風の音を、私は聞いていた。妓の、変に生真面目な表情が、私の胸の前にある。どういう死に方を すればいいにか、その時になってみねば、判るわけはなかった。死というものが、この瞬間、妙に身近に思われたのだ。 覚えず底知れぬ不吉なものが背筋を貫くのを感じながら、私は何気ない風を装い、妓の顔を見返した。 「いやなこと、聞くな」
紙のように光を失った顔から、眼だけが不気味に私の顔の表情につきささって来る。右の半顔を枕にぴったりと押し付けた。 顔がちいさく、夏蜜柑位の大きさに見えた。
「おたがいに、不幸な話は止そう」
「わだし不幸よ。不幸だわ」
妓の眼に、涙があふれて来たようであった。瞼を閉じた。切ないほどの愛情が、どっと私の胸にあふれた。
歯を食いしばるような気持ちで、私は女の頬に手をふれていた。〜略〜

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第14ページ


猟銃〜井上靖

その人は大きなマドロスパイプを銜えへ、セッターを先に立て、長靴で霜柱を踏みしだき乍ら、 初冬の天城の間道の叢をゆっくり分け登っていった。25発の銃弾の腰帯(バンド)、 黒褐色の皮の上衣、その上に置かれたチャチル2連銃、生きものの命絶つ白く光れる鋼鉄の器具で、 かくも冷たく武装しなければならぬものは何であろうか。行きずりのその長身の猟人の背後姿に、私はなぜか強く心惹かれた。
その後、都会の駅や盛り場の夜更けなどで、私はふと、ああ、あの猟人(ひと)のやうにあるきたいと思うことがある。 ゆっくりと、静かに、つめたくー。そんな時きまって私の瞼の中で、猟人の背景をなすものは、初冬の天城の冷たい背景ではなく、 どこか落莫ちした白い河床であった。そして一個の磨き光れる猟銃は、中年の孤独な精神と肉体の双方に、 同時にしみ入るやうな重量感を捺印(スタンプ)しながら、生きものに照準された時は決して見せない、 ふしぎな血ぬられた美しさを放射しているのであった。〜略〜


金閣寺〜三島由紀夫

・・・私は行為のただ一歩手前にいた。行為を導きだす永い準備を悉く終へ、その準備の突端に立って、あとはただ身を躍らせればよかった。 一挙手一投足の労をとれば、私はやすやす行為にたする筈であった。
私はこの二つのあひだに、私の生涯を呑み込むに足る広い淵が口をあけていやうとは、夢想もしていなかった。
といふのは、そのとき私は最後の別れを告げるつもりで金閣のはうを眺めたのである。
金閣は雨夜の闇におほめいてをり、その輪郭は定かでなかった。そせは黒々と、まるで夜がそこに結晶しているかのやうに立っていた。 瞳を凝らして見ると、三階の究境頂にいたって俄かに細まるその構造や、法水院と潮音洞の細身の柱の林も辛うじて見えた。 しかしかってあのやうに私を感動あせた細部は、ひと色の闇の中に融けさっていた。
が、私の美の思い出が強まるにつれ、この暗黒は恣まに幻を描くことのできる下地になった。この暗いうづくまった形態のうたに、私が 美と考へたものの全貌がひそんでいた。 思い出の力で、美の細部はひとつひとつ闇の中からきらめき出し、きらめきは伝播して、 つひには昼とも夜ともつかぬふしぎな時の光りの下に、金閣は徐徐にはっきりと目に見えるものになった。これほど完全に細緻な姿で、 金閣がその隅々まできらめいて、私の眼前に立ち現はれたことはない。私は盲人の視力をわがものにしたかのやうだった。 自ら発する光りで透明になった金閣は、外側からも、潮音洞の天人奏楽の天井画や、究境頂の壁の古い金箔の名残をありありと見せた。 金閣の繊巧な外部は、その内部とまじはった。私の目は、その構造や主題の明瞭な輪郭を、主題を具体化してゆく 細部の丹念な繰り返しや装飾を、対比や対称の効果を、一望の下に収めることができた。法水院と潮音洞の同じ広さの二層は、微妙な 相違を示しながらも、一つの深い軒庇のかがに守られて、いはば一双のよく似た夢、一対のよく似た快楽の記念のやうにかさなっていた。 その一つだでは忘却に紛れさうになるものを、上下からやさしくたしかめ会ひ、そのために夢は現実になり、快楽は建築になったのだ。 しかしそれも、第三層の究境頂の俄かにすぼまった形が戴かれていることで、一度確かめられた現実は崩壊して、あの暗いきらびやかな 時代の、高邁な哲学に統括され、それに服するにいたるのである。そして柿葺の屋根の頂き高く、 金銅の鳳凰が無明の長夜に接している。
建築家はなほそれだけでは満ち足りなかった。彼は法水院の西に釣殿に似たささやかな漱清を張り出した。 殻は均衡を破ることに、美的な力のすべてを賭けたかのやうであった。漱清はこの建築において、形而上学に反抗している。 それは決して池へ長々とさしのべられているのではないのに、金閣の中心からどこまでも遁走してゆくやうにみえるのである。 漱清はこの建築から飛び翔った鳥のやうに、今し翼をひろげて、池のおもてへ、あらゆる現実的なものへむかって遁れていた。 それは世界を規定する秩序から、無規定のものへ、おそらくは官能への橋を意味していた。さうだ。金閣の精霊は半ば絶たれた橋にも似た この漱清からはじまって、三層の楼閣を成して、また再び、この橋からのがれてゆくのである。〜略〜

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をんなのひと〜永井龍男

ガソリンの匂ひまで、新鮮なバス会社の朝。 通勤の人々を乗せて、初発から数本の定期車は動いているが、駅から海と山の名所を縫ふ観光バスは、まだ一台もでていない。 すっかり掃き清め、水をまいた、駅前のバス会社。着くバス、出て行くバスごとに、事務所のドアの明け立て、次第にしげくなるが、 ほかに脂粉の香をこめた、案内ガールの詰所だけは、ほがらかな歌声ももれて、朝日の濃くなるのを待っている。
鏡の中で話しながら、たんねんに口紅を、眉を引く者、針でボタンを縫ひつける者も、申込みの団体客が駅に着けば、帽子を粋に、 ちょっと斜めに、傾げてかぶりさへすれば、すぐにでも出発が出来る。
制服には、彼女達の血が通っている。胸のポケットや、腕につけた会社のマークまでが生々としたアクセサリーの役をしている。
「驚いちゃった。昨日の中学生達、変にませてるの!」
とか、
「あんたの車に乗った先生、ちょっと三船に似てたじゃないの」
とか、
「ほら、今度出来た、マーケットの中の、コロッケ屋?安くって、ちょっといけるわよ」
といふ類の会話も、制服を着ていさへすれば、働く人の張りを持った言葉になる。
みんな若く、若いといふだけで、すでにそれぞれ美しい。
予約の団体客の他にも、一日数回、、遊覧客を乗せて名所を巡るバスはある。帽子をかぶり、椅子へ片脚かけて、ストッキングを腿へ 引き直しているのが、今日のその初発の当番だ。
「ぢゃ、アメリカ屋が来たら、その靴たのんでよ」
「オーケイー」
ドアを振り放して、朝日の中へ彼女は出て行く、。ガソリンの煙りが青い。
流行歌を口ずさむ、二三人の声が、しばらく室内をしずめる。
すると、隣りの室へつづく仕切り戸が開き、誰かの手が、バサリと、間近かのテーブルの上へ、一束の郵便物を投げて引込む。
案内ガールの一人が立って、その方へ行く。
「咲ちゃん、咲ちゃん。美津ちゃん・・・百合ちゃん」
葉書もあり、封書もある。それを選り分けながら、宛名を読み上げる。
「ちえつ!あたしのないの?」
「今日はお相にくさま」
「ああら、前橋市って、群馬県なのね。あたし埼玉県かと思ってたよ」 毎朝そんな風に、一時市がさかえる。 春は三月四月、秋は十月十一月と、特に観光シーズンには、案内ガール宛ての郵便の数が多い。夢の多い若い遊覧客が、 彼女たちに様々な手紙をおくるのだ。
中学生も高校生も、「遥かなるお姉さまへ」と書いて寄越す女学生もある。誤字だらけだと言って、気にすることはない。 受取る方も意味が通じれば、なんとも思ひはしない世の中だ。 約束した通り、一緒に写した写真を同封してくる律儀な学生もあり、クリスマス・カードを呉れる学生もあった。みんな、 あなたのうるわしい声と顔が忘れられないと記してある。山間の中学生のアルバムに、案内ガールを中心にした同級生達の写真が、 永く思い出をしのばせるとしたら、そんなにいやな話ではあるまい。
手紙の内容は、もっといろいろある。
少年少女だけでなく、ある地方の先生に、結婚の申込みをうけた案内ガールもあるし、修学旅行以来思いつめた我が子の、 元気のない様子を憂へた母親が、ひそかに手紙の返事をしてやって欲しいと言って来るのもある。中学三年生三人連れが、 もう一度逢ふために、はるばるバス会社へ訪ねて来たといふやうな「冒険談」も、一年に一度や二度はある。それどころか、 高校生のクラス会に招かれて、一晩泊りで案内ガールの方から、遊びに出かけた話しもある。
思ひ出の名所旧跡案内を、教室できかせたのは無論だが、彼女を囲んだ若者達が、どのような騒ぎをしたか、 話し出したら切がない。それには第一、人気のある順に、案内ガールの風貌姿勢から説明してかからなければ、 面白さは出にくいであらう。
沢村咲子も、梅本美津子も。堀百合枝も、少し脚が太過ぎたり、少し鼻筋が低いといふやうな欠点はあるにしても、このバス会社の 全バス・ガールから選び出された花形である。花形は、他に転出する危険性を多少持たないでもないが、彼女達に限って、 そんな様子はない。
彼女達は、その制服を愛している。〜略〜

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第16ページ


秋の組曲〜串田孫一

湖の岸から少しずつ離れて行く道が、暫らく土手のわきをとおって行くと、向こうの方に峠が見える。
二つの丘がなだらかな斜面を交わらせるところで、そこにはもう一本の木も立っていない。
それは私が勝手に峠と思ったが、その向こうの草の斜面はどんな具合いに続いているか知らない。
そこへ大きな太陽が沈んで行った。終日その太陽は湖に金色の小波を作り、湖畔の小畔の小径を歩く人たちに少しばかり汗をかかせた。
五人の乙女たちが、とりどりの色の毛糸で編んだものを脱いだ時、彼女たちは、少し焦げたような、 懐かしい埃の匂いがするように思えた。それはほんの僅かの間、顔の前をたくしあげたスウエターが通る時だけだった。
何故というのに、 彼女たちは、湖上を渡って行く小鳥たちの声が如何にも楽しげであったし、汗ばんだ肌が急に涼しくなって、一斉に声をあげたからだ。
何かというと驚くような声を出した乙女たちは、私がその峠まで送って行くと言って、一足あとからついて行ったことを、 さっぱりと忘れてしまったように、真紅の落日へ向かって駆けて行った。
少しぐらいの登り道でも、彼女たちの足は速く、 追いかけるようにして走るわけには行かない私をどんどん引き離してしまった。
夕日が波紋のとうな最後の光をやっと人の目にも 見えるように放っている中へ、五つの影が入って行った。影が時々四つになり、三つになることさえあった。
私はまぶしくて見られなかった。それに離れて行くにつれて、彼女たちの影のへりは金色になり、それが段々と影のの方へ侵入して来て、 しまいには細い腕だの、ひるがえる帽子のりぼんなどは光の中へ溶けてしまった。
私はそのうち、わざわざ追いついて別れのための言葉を考えることも、手を振ってみたりすることも、全く無駄だと思い始めて、 虫の啼いている草のかげが長くのびている道ばたに腰を下ろしていまった。〜略〜
プールサイドの小景〜庄野潤三

青木氏の家族が、南京ハゼの木の陰に消えるのを見送ったコーチの先生は、何ということなく心を打たれた。
あれが本当に生活だな。生活らしい生活だな。夕食の前に、家族がプールで一泳ぎして帰ってゆくなんて・・・・。
だが、そうではない。この夫婦には、別のものが待っている。それは、子供も、近所の人たち誰もが知らないものなのだ。
それを何と呼べばいいにだろう。
青木氏は、一週間前に、会社を辞めさせられたのだ。〜略〜
夫の話は、そこで終わる。
バアの話もしなかったけれど、会社勤めのつらい思いをこんな風に話したことは、これまでにあったか知ら。
夫がそのような気持ちで会社に行っていたということは、彼女に取っては初めて知ることなのだ。とすると、何という、 うっかりしたことだろう。いったい自分たち夫婦は、十五年も一緒の家に暮らしていて、その間に何を話し合っていたのだろうか?
夫の帰宅が毎晩決まって夜中であり、朝は慌てて家を飛び出して行くという日が続いて来たとしても、自分たちは大事なことは何一つ 話し合うことなしにウカウカと過して来たというのだろうか。休日には家族が一緒に遊びに出かける習慣は守られていたが、 そんなとき夫はどんなことを自分に云い、自分はどんなことを尋ねていたのだろう。彼女は、夫が会社勤めということに対して あのような気持を抱いていようとはついぞ考えてみたことがなっかたのである。ただ遊び好きの人間のように思っていて、 それで毎晩夜中になるまで帰って来ないのだと、何でもなく考えていたのだ。〜略〜
最初の日。夫が出かけて行くと、彼女は何となくグッタリしてしまった。彼女の心には、夫が晩夏の日ざしの街を当てもなしに歩いて いる姿が映る。雑踏の中にまぎれて、知った人に出会うことを恐れながら、おぼつかない足取りで歩いている夫の悩ましい気持ちが、 そのまま彼女に伝わって来るのだ。〜略〜
そのようなイメージが不意に崩れて、どこか見知らぬアパートの階段をそっと上がって行く夫の後ろ姿が現れる。彼女は全身の血が凍り つきそうになる。危ない!そこへ行ってはいや。いやよ、いやよ、・・・
彼女は叫び声を立てる。それでも、夫はゆっくりと階段を上がって行く。いけないわ。そこへ行ったら、おしまいよ。おしまいよ。
このような想像が、家にいる彼女を執拗に襲った。〜略〜
プールは、ひっそり静まり返っている。
コースロープを全部取り外して水面の真ん中に、たた一人男の頭が浮んでいる。
明日からインターハイが始まるので、今日の練習は二時間ほど早く切り上げられたのだ。選手を帰してしまったあとで、コーチの先生は プールのそこに沈んだゴミを足の指で挟んでは拾い上げているのである。
夕凪が吹いてきて、水の面に時々こまかい小波を走らせる。
やがて,プールの向こう側の線路に、電車が現れる。勤めの帰りの乗客たちの眼には、ひっそりしたプールが映る。 いつもの女子選手がいなくて、男の頭が水面に一つ出ている。

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第17ページ


砂の女〜安部公房
ある八月の午後、大きな木箱と水筒を、肩から十文字にかけ、まるでこれから登山りでもするよに、ズボンの裾を 靴下のなかにたくしこんだ、ネズミ色のピケ帽の男が一人、S駅のプラットホームに降り立った。〜略〜
駅前のバスの、一番奥の座席に乗り込んだ。それは山とは逆方向に向かうバスだった。〜略〜
男は終点まで乗り続けた。バスを降りると、ひどく起伏の多い地形だった。〜略〜
男がその道を通っていくと、漁業組合の前の空地で遊んでいる子供たちも、傾いた縁側に腰をおろして、網をつくろっていた老人も、 一軒だけの雑貨屋の店先にたむろしていた髪の薄くなった女たちも、一瞬その手や口を休め、いぶかるような視線をなげかてきた。 しかし男は、一向に気にしない。彼に関心があるのは、もっぱら砂と虫だけだったのである。〜略〜
道はますます急な上り坂になり、ますます砂らしい砂になった。
ただ、奇妙なことに、家の建っている部分は、すこしも高くならないのだ。道だけが高くなって、部落自身は、いつまでも平坦なのだ。 いや、道路だけでなく、建物と建物のあいだの境の部分も、道とおなじように高くなっていた。だから、見方によっては、 部落全体が上り坂になっているのに、建物の部分だけが、そのままもとの平面にとり残されているようでもある。 この印象は、先に進むにつれてひどくなり、やがて、すべての家が、砂の斜面を掘り下げ、そのくぼみの中に建っているように見えてきた。 さらに、砂の斜面のほうが、屋根の高さよりも高くなった。家並みは、砂のくぼみの中に、しだいに深く沈んでいった。
傾斜が急にけわしくなった。このあたりでは、屋根のてっぺんまで、すくなくみつもっても、二十メートルはあるだろう。 一体どんな暮らしをしているのか、奇妙な思いで深い穴の底の一つをのぞきこもうと、縁にそってまわりこむと、 とつぜん激しい風に、息をつまらせた、いきなり視界がひらけ、にごった海が泡立ちながら、眼下の波打ちぎわを舐めていた。 目指す砂丘の頂上に立っているのだった。〜略〜
砂地にすむ昆虫の採集が、男の目的だったのである。〜略〜
「けど、上りのバスは、もう終いですが・・・」
「どこか、泊まるとこくらいはあるでしょう。」
「泊まるって、この部落にかね?」 老人の顔のどこかが、ひくついた。
「ここが駄目なら、隣の村まで歩きますよ。」
「歩く・・・?」
「どうせ、急いでいるわけじゃないんだから・・・」
「いやいや、なにもそんな面倒することはあるまいさ・・・」 急に世話好きらしい、まくし立てるな調子になり、 「ごらんのとおり、貧乏村で。ろくな家もないが、あんたさえよけりゃ、口をきくくらい、わたしがお世話してあげるがね。」〜略〜
「おい、婆さんよお!」
足もとも闇のなかから、ランプの灯がゆらいで、答えがあった。
「ここ、ここ・・・その俵のわきに、梯子があるから・・・」
なるほど、屋根の高さの三倍はあり、梯子をつかってでも、そう容易とはいえなかった。昼間の記憶では、 もっと傾斜がゆるやかだったはずだが、こうしてみると、ほとんど垂直くにちかい。〜略〜
婆さんなどというから、よほどの年寄りかと思っていたのが、ランプを棒げて迎えてくれた女は、まだ三十前後の、 いかにも人が好さそうな小柄の女だったし、化粧をしているのかもしれないが、浜の女にしては、珍しく色白だった。 それに、いそいそと、よろこびをかくしきれないといった歓迎ぶりが、まずなによりも有難く思われた。
もっとも、ろういうことでもなければ、この家は、いささか我慢しかねるしろものだった。馬鹿にされたのだと思って、 すぐに引き返していたかもしれない。壁ははげ落ち、襖のかわりにムシロがかかり、柱はゆがみ、窓はすべて板が打ちつけられ、 畳はほとんど腐る一歩手前で、歩くと濡れたスポンジを踏むような音をたてた。そのうえ、焼けた砂のむれるような異臭が、 いちめんにただよっていた。〜略〜
「ランプ、一つしかないの?」
「はい、あいにくとねえ・・・」〜略〜
「風呂・・・?」
「わるいけど、明後日にして下さい。」
「明後日?明後日になったら、僕はもういませんよ。」
思わず大声で笑ってしまう。
「そうですか・・・?」
女は顔をそむけ、ひきつったような表情をうかべた。〜略〜
女は戻ってくると、黙って部屋の隅に床をのべはじめた。ここにおれの床をとってしまたら、 自分は一体どこに寝るつもりだろう?〜略〜
田植えに使うような編笠をかぶり、女はすべるように、闇の中へ出て行った。〜略〜
「砂掻きだね?」「いつまでやっても、きりなしでしょう・・・」
こんどは、すれちがいざま、あいているほうの指先を、くすぐるように、彼の脇腹におしこんできた。おどろいて、 とびのきながら、あぶなくランプをとり落としそうになる。このまま、ランプを持ちつづけていようか、 それとも地面において、くすぐり返してやるべきか、いきなり思いがけない選択をせまられて、ためらった。〜略〜
「だめよ」
と、背をむけたまま、息切れのした声で、
「モッコが来るまでに、あと六杯は、搬んでしまわなけりゃ・・・」〜略〜
「じゃあ、一つ、ぼくも手伝うとするか。」
「いいですよ・・・いくらなんでも、最初の日からじゃ、わるいから・・・」
「最初の日から?・・・まだそんなことを・・・ぼくがいるのは、今夜だけだよ。」
「そうですかねえ・・・」〜略〜
すると、女のこの仕種と沈黙は、とほうもなく恐ろしい意味をもってくる。まさかと思いながらも、心の奥底で、 いちばん案じていた不安が、とうとう的中してしまった。縄梯子の撤去が、、女の了解のうちに行われたこと、 これは明白な承認にほかなるまい。女は、まぎれもなく共犯者だたのだ。当然、この姿勢も、はじらいなどという、 まぎらわあしいもではなく、どんな刑罰でも甘んじようという、罪人、もしくは生け贄の姿勢にちがいない。
まんまと策略にかかったのだ。蟻地獄の中に、とじこめられてしまたのだ。うかうかとハンミョウ属のさそいに乗って、 逃げ場のない砂漠の中につれこまれた、飢えた小鼠同然に・・・・
「そんなはずあはりませんよ。ここから出て行ったからって、だれもがすぐに暮らしを立てられるというわけじゃなし・・・・」
「同じことじゃないか。ここにいたて、いずれ、暮らしらしいくらしはしちゃいないんだろう?」
「でも、砂がありますから・・・」
「砂すなだって?」
男は、歯をくいしばったまま、顎の先で輪をかいた。
「砂なんかが、なんの役に立つ?つらい目をみる以外は、一銭の足しにだってなりゃしないじゃないか!」
「いいえ、売っているんですよ。」
「売る?・・・そんなのもを、誰に売るんだ?」
「やはり、工事場なんかでしょうねえ・・・・コンクリートに混ぜたりするのに・・・」
「冗談じゃない!こんな、塩っ気の多い砂を、セメントにまぜたりしたら、それこそ大ごとだ。第一、違反になるはずだがね、 工事規則かなんかで・・・」
「もちろん、内緒でうっているんでしょう・・・運賃なんかも、半値ぐりいにして・・・」
「でたらめもいいことだ!あとで、ビルの土台や、ダムが、ぼろぼろになったりしたんじゃ、半値が只になったところで、 間に合いやしないじゃないか!」
ふと女が、咎めるような視線で、さえぎった。じっと、胸のあたりに目をすえたまま、それまでの受身な態度とは、 うって変わったひややかさで、
「かまいやしないじゃないですか、そんな、他人のことなんか、どうだって!」〜略〜
もっと軽い空気がほしい!せめて、自分の吐いた息がまじっていない、新鮮な空気がほしい!一日に一度、たとえ三十分でもいいから、 崖にのぼって海を眺めることができたら、どんなにか素晴らしいことだろう。それくらいは許されてもいいはずだ。いずれ、部落の 警戒は厳重をきわめているのだし、この三か月余りの忠実の仕事ぶりを考慮にいれてもらえば、ごく当たりまえの要求なのではあるまいか。 禁固刑の囚人だって、運動時間の権利くらいはもっている。〜略〜

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第18ページ


ノルウェイの森〜村上春樹
多くの幼なじみのカップルがそうであるように、彼らの関係は非常にオープンだったし、二人きりでいたいというような願望は それほどは強くはないようだった。二人はしょっちゅうお互いの家族と一緒にたべたり、麻雀をやったりしていた。 僕とダブル・デートしたことも何回かある。直子がクラス・メートの女の子をつれてきて、4人で動物園に行ったり、 プールに泳ぎに行ったり、映画を観にいったりした。でも正直なところ直子のつれてくる女の子たちは可愛くはあったけれど、 僕には少々上品すぎた。僕としては多少がさつではあるけれど気楽に話しができる公立高校のクラス・メートの女の子 たちの方が性にあっていた。直子のつれてくる女の子たちがその可愛いらしい頭の中でいったい何を考えているのか、 僕にはさっぱり理解できなかった。たぶん彼女たちにも僕のことは理解できなかったんじゃないかと思う。
そんなわけでキズキは僕をダブル・デートに誘うことをあきらめ、我々3人だけでどこかにでかけたり話をしたりするようになった。 キズキと直子と僕の3人だった。考えてみれば変な話だが、結果的にはそれがいちばん気楽だったし、うまくいった。 4人めが入ると雰囲気がいくぶんぎぐしゃくした。3人でいると、それはまるで僕がゲストであり、ホズキが有能なホスト であり、直子がアシスタントであるTVのトーク番組みたいだった。いつもキズキが一座の中心にいたし、かれはそういうのが上手かった。 キズキはたしかに冷笑的な傾向があって他人からは傲慢だと思われることも多かったが、本質的には親切で公平な男だった。 3人でいると彼は直子に対しても僕に対しても同じように公平に話しかけ、冗談を言い、誰かがつまらない思いをしないようにと気を配っていた。 どちらかが長く黙っているとそちらにしゃべりかけて相手の話を上手くひきだした。そういうのを見ていると大変だろうなと思った。 ものだが、実際はたぶんそれほどたいしたことではなかったのだろう。彼には場の空気をその瞬間瞬間でみきわめて それにうまく対応していける能力があった。

〜略〜
火事が終わってしまうと緑はなんとなくぐったりとしたみたいだった。体の力を抜いてぼんやりと遠くの空を眺めていた。そして 殆んど口をきかなかった。
「疲れたの?」と僕は訊ねた。
「そうじゃないよ」と緑は言った。「ひさしぶりに力を抜いていただけなの。ぼおっとして」
僕が緑の目をみると、緑も僕の目を見た。僕は彼女の肩を抱いて、口づけした。緑はほんの少しだけぴっくと肩を動かしたけれど、 すぐにまた体の力を抜いて目を閉じた。5秒か6秒、我々はそっと唇をあわせていた。初秋の太陽が彼女の頬の上にまつ毛の影を 落とし、それが細かく震えているのが見えた。
それはやさしく穏やかで、そして何処に行くあてもない口づけだった。午後の日だまりの中で物干し場に座ってビールを飲んで 火事見物をしていなかったとしたら、僕はその日緑に口づけなんかしなかっただろうし、その気持ちは彼女の方も同じだったろうと思う。 僕らは物干し場からきらきらと光る家々の屋根や煙や赤とんぼやそんなものをずっと眺めていて、あたたかくて親密な気分に なっていて、そのことを何かのかたちで残しておきたいと無意識に考えていたのだろう。我々の口づけはそういうタイプの口づけだった。 しかしもちろんあらゆる口づけがそうであるように、ある種の危険がまったく含まれていないというわけではなかった。
最初に口を開いたのは緑だった。彼女は僕の手をそっととった。そしてなんだか言いにくそうに自分にはつきあっている人がいる のだと言った。それはなんとなくわかっているとぼくは言った。
「あなたには好きな女の子いるの?」
「いるよ」
「でも日曜日はいつも暇なのね?」
「とても複雑なんだ」と僕は言った。
そして僕は初秋の午後の束の間の魔力がもうどこかに消え去っていることを知った。

〜略〜
「リクエスト・タイム」とレイコさんは片目を細めて僕に言った。「直子がきてから私は来る日も来る日もビートルズのものばかり 弾かされているのよ。まるで哀れな音楽奴隷のように」
彼女はそう言いながら「ミシシェル」をとても上手く弾いた。
「良い曲ね。私、これ大好きよ」とレイコさんは言ってワインをひとくち飲み、煙草を吸った。「まるで広い草原に雨がやさしく 降っているような曲」
それから彼女は「ノーホエア・マン」を弾き、「ジュリア」を弾いた。ときどきギターを弾きながら目を閉じて首を振った。 そしてまたワインを飲み、煙草を吸った。
「ノルウェイの森を弾いて」と直子が言った。
レイコさんが台所からまねき猫の形をした貯金箱を持ってきて、直子が財布から百円玉を出してそこに入れた。
「なんですか、それ?」と僕は訊いた。
「私がノルウェイの森をリクエストするときはここに百円入れるのがきまりなの」と直子が言った。「この曲いちばん好きだから、 とくにそうしているの。心してリクエストするの」
「そしてそれが私の煙草代になるわけね」
レイコさんは指をよくほぐしてから「ノルウェの森」を弾いた。彼女の弾く曲には心がこもっていて、 しかもそれでいて感情に流れすぎるということがなかった。僕もポケットから百円玉を出して貯金箱に入れた。
「ありがとう」とレイコさんは言ってにっこり笑った。
「この曲聴くと私ときどきすごく哀しくなることがあるの。どうしてだかわからないけど、 自分が深い森の中で迷っているような気になるの」と直子はいった。「一人ぼっちで寒くて、 そして暗くって、誰も助けに来てくれなくて。だから私がリクエストしない限り、彼女はこの曲を弾かないの」
「なんだかカサブランカみたいな話よね」とレイコさんは笑って言った。
そのあとでレイコさんはボサノヴァを何曲か弾いた。そのあいだ僕は直子を眺めていた。彼女は手紙にも自分で書いて いたように以前より健康そうになり、よく日焼けし、運動と屋外作業のせいでしまった体つきになっていた。 湖のように深く澄んだ瞳と恥かしそうに揺れる小さな唇だけは前と変りなかったけど、全体としてみると 彼女のうつくしさは成熟した女性のそれへと変化していた。以前の彼女の美しさのかげに見えかくれしていたある種の 鋭さーーー人をふとひやりとさせるあの薄い刃物のような鋭さーーはずっとうしろの方に退き、 そのかわりに優しく慰撫するような独得の静けさがまわりに漂っていた。そんな美しさは僕の心を打った。そしてたった 半年間のあいだに一人の女性がこれほど大きく変化してしまうのだという事実に驚愕の念を覚えた。直子の 新しい美しさは以前のそれと同じようにあるいはそれ以上に僕をひきつけたが、それでも彼女が失ってしまったものの ことを考えると残念なという気がしないでもなかった。あの思春期の少女独特の、 それ自体がどんどん一人歩きしてしまうような身勝手な美しさとでも言うべきものは もう彼女には二度と戻ってはこないのだ。

〜略〜
僕が手をのばして彼女に触れようとすると、直子はすっとうしろに身を引いた。唇が少しだけ震えた。それから 直子は両手を上にあげてゆっくりとガウンのボタンを外しはじめた。ボタンは全部で七つあった。僕は彼女の 細い美しい指が順番にそれを外していくのを、まるで夢のつづきを見ているような気持ちで眺めていた。 その小さな七つの白いボタンが全部外れてしまうと、直子は虫が脱皮するときのように腰の方にガウンをするりと下ろし て脱ぎ捨て、裸になった。ガウンの下に、直子は何もつけていなかった。彼女が身につけているのは蝶のかたちをしたヘアピンだけだった。 直子はガウンを脱ぎ捨ててしまうと、床に膝をついたまま僕を見ていた。やわらかな月の光に照らされた直子の体はまだ生まれ おちて間のない新しい肉体のようにつややかで痛々しかった。彼女が少し体を動かすとーーそれはほんの僅かな動きなのにーー月の光のあたる部分が 微妙に移動し、体を染める影のかたちが変った。丸く盛りあがった乳房や、小さな乳首や、へろのくぶみや、腰骨や陰毛のつくりだす粒子の粗い 影はまるで静かな湖面をうつろう水紋のようにそのかたちを変えていった。

〜略〜

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第19ページ


野いばら〜梶村啓二
タンポポの綿毛が音もなく舞い降りてくる。綿毛はたまたま風に乗って流れ着いた自分の運命にとまどうように頼りなく羽をゆらし、 地上に近づくと、器用に頭を上げて音もなく着陸した。安堵のため息をそっとつき、そのまま地表をなめらかに滑走していく。 その上空には別の綿毛がゆっくりと高度を下げ始めていた。
 無音で着陸する旅客機を空港の出発ロビーから防音ガラス越しにぼんやりと眺めながら、縣和彦は俺も綿毛だなと思った。

〜略〜
空港はどこにも属さない場所だ。自分が踏みしめ、走り回っていた地上から切り離され、自分の生きる世界が重みを失い、 確かなかたちを失い始める。目的地も、帰るべき土地も不確かなものに思えてくる。
俺はなぜここにいるのだろう?縣はまぶしさに目を細めながらアムステルダムの初夏の空を見上げた。あらためて考えてみると自分が ここにいる必然性はなにもなかった。もしきっかけがあるとすれば、新入社員のとき、たまたま会社の机の上に小さな観葉植物を置い ていたことぐらいだった。君は、園芸が好きなのか?たまたまそばを通りかかった部長が世間話のように縣にたずねた。 そんなものが分かれ目になるのだとすると、俺とタンポポの綿毛にどれほどの違いがあるだろう。運よく新卒採用枠に引っかかって、 深い考えも無く総合醸造メーカーに入った。だが、アルコールの仕事に関わることは一度もなかった。気がついてみれば、年に何度も アムステルダムまで飛んで来て企業買収に奔走する日々を送っていある。

〜略〜
買収の対象は花の種苗会社だ。ヨーロッパには単品に強みを持つ小規模な花弁種苗会社が数多く存在する。
花は工業製品である。そこで売買されるのは花という形に変った知的財産権だ。

〜略〜
三週間前のことだった。今度の出張もアムステルダムに来る前にロンドンに降り、ヒースローにあるハーツに直行して、あらかじめ予約 してあったレンタカに飛び乗った。

〜略〜
しかし、めぼしをつけていた村に到着する前に、縣はまったく想定していなかった庭に出会うことになった。カーナビに細い糸のような線で しか表示されていない名もない農道で車のエンジンが突然咳き込み,ギグシャク揺れてから止まった。その年式の古いフォードを借りるとき、 一瞬、不安がよぎったのだが、後の祭りだった。丘陵地帯では村落から離れると携帯電話の電波も届かないことが多い。

〜略〜
車の前を開け、エンジンを見たが、何が出来るわけではなかった。車にもたれて丘陵の遠い稜線をながめながら ペットボトルのミネラウオーターを飲んだ。ゆるやかな風が渡っていった。縣は、自分が思ったよりも焦っていないことに気付いた。 むしろエンジンが止まってほっとしっている自分がいた。ゆるやかに吹く風を感じながら、しばらく縣は風に鳴る梢の音を聞いていた。

〜略〜
縣は道端の草の上に腰を下ろし、緩やかな曲線を描く丘陵地帯を眺めた。低い雲がゆっくりと丘の上を流れていった。黒い鳥の群れが 何度か上空を通り過ぎていった。小一時間ほどそうしてぼんやりと待った。やがて、遠くからエンジン音が近づいてきた。

〜略〜
「故障?」
「ええ」
金髪の女性はまぶしげに目を細めて小さくうなずきながらじっと縣を7見た。彼女は「ちょっと拝見していい?」といって、老眼鏡を かけた。故障車に近づいてエンジンを覗き、運転席の計器を確かめた。ふと助手席に置いてあったイエローブックに目を留めた。
「庭を見にいらしたの?」
彼女は眼鏡をはずし、縣を振り返って聞いた。
「ええ。そんなところです」
「そう」
かすかに微笑んでまた縣の姿を点検するようにじっと見た。
「携帯、使えないでしょ」
「ええ、甘かったですね。」
「修理屋を呼んであげる。修理がくるまでうちで待てばいいわ。」
「ご親切に、ありがとうごあいます。レンタカー会社に連絡すればなんとかなると思います。助かります」
「それから、うちもいちおうオープンガーデンやってるのよ。めったに誰も来ないけど」
そういって銀髪の女性は笑った。

〜略〜
大きな自然石が配置され、複雑な弧を描く池が掘られていた。池には飛び石の橋が渡されている。
柳、つつじ、つばき、ユリ、もみじがその周囲と遊歩道に転々と配されていた。同時にさまざまな種類の オールドローズ、モダンドーズやブルーベル、小菊類、ギボシ、何種類あるかわからないハープ類が複雑に 組み合わされているのはイギリスの庭の典型的な姿だったが、それらを貫いているのは古い日本の庭の骨組みだということに、 縣はようたく気付いた。
雨ざらしで塗装のはげた木製のガーデンテーブルと椅子があった。

〜略〜
「この庭はあなたが作られものですか」
ティポットの載ったトレイを運んできたパトリシアに縣はたずねた。
「いいえ。わたしは手入れしているだけ。大きな構造はずっとむかしからこういう形だったらしいわ」
「いつごろからでしょう」
「さあ、昔のことはわからない。わたしも十年前に来たばかりだから。でも、作られてから百年以上はたっていると思う」
 縣は池にうかぶ蓮の葉をじっと見た。日本人がこの庭づくりに関わっているのではないかという直感が去らなかった。思い切って たずねてみた。
「この庭に日本人がなにか関係していますか?」
 パトリシアは首を傾けてしばらく考えるようすをみせた。
「いいえ。わからないわ」
 結局そう言って、椅子に座り、ティポットからカップに紅茶を注いだ。
「親類がずっと管理していたんだけど。誰もいなくなって、十年ほど前遠縁のわたしが引き受けることになったの。  わたしはそれまでずっとニューヨークにいたんだけど」
「さっきアトリエが見えました」
「アトリエというようなりっぱなものじゃないけど。ジュエリーデザインなの。あいかわらずアメリカから仕事もらって」
「すてきですね」
「なんとか食べてるわ」
パトリシアはうっすらと微笑んで、自分の茶をすすった。
「わたしが来たときは荒れ放題でね。もう誰も住んでいなかったし、庭も放置されていたので、なんとか落ち着くまで三年かかった。 ときどき娘に手伝わせて。彼女は別の街で高校の教師をしているので、夏休みにせいとを手伝いに連れてきてもらったわ」
庭を見回しながらひとりごとのように言った。その横顔を見ながら縣は彼女の人生をぼんやり想像した。単純にここに生まれ育った わけでなく、彼女には、おそらくは長い旅があったはずだ。ひいに、音もなく空中に漂うタンポポの綿毛の姿が脳裏をかすめた。 縣は彼女に過去を尋ねる言葉をそっと胸にしまいこんだ。自分が逆に聞かれたとしたら、どう答えるだろう。綿毛のように地球を 流れて、遺伝子の資産を探し、沈黙の帝国の斥候をはたして十二年たちます。自分が綿毛になっている間に妻は職場の男と恋に落ち、 二年前離婚し、いまは夜、ビールを一人で飲んでおります。そんな答えにさして意味があるとは思えなかった。
[お茶、いただいてよろしいでしょうか」
 自然にそうことわってから縣は茶碗をとった。顔を上げてパトリシアは縣を見た。縣が一礼して背筋を伸ばしてから茶碗と 受け皿を静かに持ちあげるのをじっと見ていた。
「日本人ね」
 縣は何を言われているのかはっきりとは理解できなかったが、彼女の目をきちんと見てあいまいに頬笑みを返しておいた。
[種苗会社?」
「ええ」
「ヨーロッパにはよく仕事で?」
「ええ、毎年。花や種子に国境はありませんから」
本当は遺伝子資産に国境がないだけだ。縣は胸のなかでつぶやいた。
「そうね」
 パトリシアはしばらく庭に視線をあそばせていたが、失礼、とひとこといって屋敷に戻っていった。 そのまま十分ほど帰ってこなかった。
「ごめんなさい。ちょっとこちらに来てくださる?よかったら、見ていただきたいものがあるの」

〜略〜
[去年、偶然見つけたの」
 ケースの蓋を開けると、さらにしっかりした紙袋があり、厳重に封蝋された跡があった。しかしすでに封蝋は破られており、 、中から革装の大判のノートが出てきた。
「ご先祖さまのノート」
「ええ」
「百年以上誰も手に触れず、物置に眠っていたらしい」
「あなたが開封したのですか」
「そう。箱を開けたると注意書きが最初に目に付くようになっていたの。百年後まで開封せぬこと。一八九六年、ウィリアム」
「たしかにそれはこわくて開けられませんね」 「さあ、単に誰も関心をもたなかったか、ノートの存在そのものを忘れてしまっただけだとおもうけど」 「何のノートですか?」 「回想録みたいなものかな。亡くなる三年前に書かれているから」
〜略〜
1862年9月17日
香港
 この世には、二種類の人間がいる。すべての問いには答えがあると信じて疑わない人間と、  この世が答えの無い問いにあふれていることに黙って堪える人間と。   
〜略〜
 世にあるすべての問いにはそれにふさわしい答えがある。多くの幸福な人々はそう信じて疑わない。だが、ある日、 この世界そのものが答えの無い問いであることにそっと気付いた者はどうするだろう。かれはひとり息をひそめ、沈黙し、 ただそのことに黙って耐え続ける。その問いに答えがなかったとしても、問いそのものが消えることはない。沈黙は、答えのない 問いと共に生き、答えのない世界に耐える唯一の方法だ。その意味で、たとえこれからわたしが書く手記が どれほど饒舌なものであったとしても、それはあるひとりの男の長い沈黙の記録にすぎない。
 香港から江戸への転任の辞令をアスコット大佐から告げられたときわたしははじめて自分が内心その命令を心待ちに していたことに気付いた。ひとつには、エヴェリーンの問題があった。外国人にとって安全な都市とはいえない江戸に わたしが転任することで、エヴェリーンをひとりロンドンに帰す名分が得られたのは、渡りに船だった。わたしを 追って後から海を渡ってきたものの、妻のエヴェリーンは最初から香港の生活になじめず、一年ほど前からひそかに精神を 病みはじめていた。
〜略〜
 公使館では軍事情報収集分析というわたしの着任の目的を知らされていたが、そ可能性に関して、彼らの反応はきわめて冷淡であった。 情報収集、分析は外交交渉と並んで公使館の基本任務のひとつでもあるのだが、ことこの国においては、そ限界にかんしては 彼ら定見を持っていた。それに、公使館に詰めている警護の陸軍士官や水兵たちとは別種とはいえ、彼らはわたしをあくまで 武官として見ていた。 文官と武官の間の風通しの悪さ、面子の張り合いは古来から変らないものであり、その通例に従ってわたしの活動に関して彼らは 冷ややかな黙認をもって対処した。つまり、どうぞごかってにということである。
「まあ、あせらず日本語の修練に精を出されることですな。われわれの相手をする役人はつかみどころがないが、この国には なかなか奥深い楽しみもあるようですからな」
 補佐官の一人が爪にやすりをかけながらそういった。r〜略〜
ちょうど同じ日にユキから公使館に手紙が届けられた。体調を崩して授業を中断したことを詫びるとともに、二週間後に授業を 再開したいという内容だった。最後通牒の受領に興奮する公使館の騒然とした雰囲気をよそに、わたしは手紙を胸の内ポケット に仕舞い、ひとりよろこびを悟られぬように公使館を抜け出した。港の桟橋を歩きながら彼女の手紙を繰り返し読みかえした。 手紙を読んでは、港から沖に停泊する英国艦隊の吐き出す黒い煙がたなびくのを長い間眺めた。最後通牒の届いたその瞬間から 江戸は恐慌におちいるだろう。二十日の猶予期間が過ぎて大君政府から回答がなければ、ただちに艦隊を江戸湾に侵攻させることになる。 ありえないと思っていた破滅へ向かって世界がきしみながら動きはじめていた。だが、予期される破滅が甚大で徹底的なものであるほど、 逆に破壊の現実感は希薄で捉えがたいものになり、かえって目の前の小さなよろこびがくきりとした輪郭で胸に迫ってくるのだった。
 彼女が攘夷派浪士の協力者である疑念がわたしのなかで消えたわけではなかった。仮に彼女が外国人暗殺の水先人案内人であったら、 上野医師が間髪をいれずに殺害されたようにもっと早い段階でわたしは暗殺者の手にかかっていてもおかしくはない。そうやって 疑念を否定したとたん、そんな小さな目的ではなく、語学教師を引き受けた当初から、大規模な横浜襲撃を計画する一派の敵陣探索 の任を負っていたのかもしれない、という新たな疑念が胸の中に広がった。離れたとたんにまたすぐ顔を見たくなら、 面影を追って夜も眠れず、夢にまで見て夜半に目覚める、それほど恋こがれる女が負った役割が、自分を殺すことだったとすれば、 そのことに人はどう向き合えるだろうか。自分自身、海軍士官のひとりとして恋する人の住む街を砲撃し焼き払う任務を負っていた。 彼女の負う役割も、わたし自身の先の任務もまだはっきり確定していたわけではなかった。だが、ただひとつ確かなことがあった。 それは、彼女もわたしも、おのめの属する世界を離れて生きる場所はなく、そこで生きていくための責務から逃れる道はない、 ということだった。
〜略〜

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