県民の会機関紙「みどりといのち」No.173(平成元年9月1日)巻頭にて 県民の会・菊岡新会長、思い出を語る 農業土木ひとすじの人生 南先生の理念つらぬき、田川県政を支援 みどりといのちを大切にする県民の会の新会長になった菊岡武男氏ってどんな人? 編集係から の質問に答えて、いろいろと思い出を語っていただきました。菊岡さんは津市で生まれ、三重高農 農業土木科を卒業、農林省から三重大学教授と農業土木ひとすじに歩んでこられました。そして今、 県民の会の新会長に……。 津で生まれ津で育つ 祖父は藤堂藩の侍 私は大正二年三月十八日、三重県安濃部八丁古河(現在は津市)で生まれました。いま七十六歳 です。津に生れてず、ずっど津ばかりですが、その間、二十年間は仕事の関係で東京にいました。 子供の頃を思い出しまと、私の祖父は藤堂藩の侍でした。藤堂藩が伊賀上野から津へ移封された 時、こちらへ釆たのでね。菊岡という姓はめらしいのですが、伊賀には少しあるようです。 明治維新後、廃藩置県になると、飯が食えなくなり祖父は鳥屋を始めたようです。当時は網の中 で放し飼いでした。 私の父は次男で三男吉という名前でした。そんな状態ですから、父は小学校を出ると郵傾局の給 仕に入りました。長い間コツコツ勤めて、伊賀上野の郵便局長になり、名古屋の中村区郵便局へか わり、そこで定年になりました。その頃、三重県庁内に庁内郵便局が出来たので、折よく初代の局 長にしてもらいました。 私は付属小学校から津中(現津高)へ入り、津中を出て三重高農(現三重大学農学部)の農業土 木科へ入れてもらいました。別に家が農業をやっているわけではありませんが、大学までようやら んで、そこで進学指導の先生が、私の成績を見てこれなら大丈夫だ、農業土木科は就職もよいぞと いわれて入りました。私は、昭和八年三重高農の九回の卒業生なんです。 県庁に長くおられ、県農協中央会参事、住宅公社副理事長をされた奥井亮三郎さんは農学科の第一 回だと思います。奥井さんの娘さんが私の長男の嫁なんです。 三重高農から農林省 農村恐慌の時代だった 三重高農を卒業して農林省の試験を受けるんですが、当時は先生の命令みたいなもんで、お前は どこどこを受けよというわけです。その頃、東京へ行くのは夜行列車ときまっていました。汽車賃 が三円五十銭か五円ぐらいでしたかね。農村恐慌の時代でしたが、私はそんな意識はなく、幸い採 用になりましたけど雇員を命じるということで初任給は五十円でした。田舎者が初めて東京へ行っ たわけです。昭和八年五月の事です。五十円でも結構やれた時代でした。 農林省の農務局勤務になりました。仕事に農村供給対策事業というのがありましたから不景気の どん底の時代でした。七年間雇員として勤め、昭和十五年十一月にやっと農林技手に任官しました。 昔の判任官です。 雇員の期間中の昭和十三年九月に赤紙が来て補充兵だった私は四国徳島にあった歩兵第四三連隊 に配属され、歩兵二等兵になりました。翌年一等兵になり辛い内地だけで召集解除になり、昭和十 四年四月農林省へ復帰しました。 任官して一年後大東亜戦争が始まりました。私は食糧増産対策の仕事をさせられ満州および朝鮮 へ一ヵ月出張したり、中支へも出張しました。上海周辺の灌漑排水改良の調査団の一員に加わえて もらいました。軍隊に守られて、食糧やいろいろの調査をしました。 そうした中で、昭和十九年一月、再び召集を受け、今度は中支へ行くわけです。そして昭和二十 一年三月に復員するまで外地での生活が始ったのです。 中支・北支・蒙古で終戦 負傷した妻の夢を見る 中支の西南市にしばらくいて、河南作戦に加わり西の方へ進攻していく恵兵団にくみ込まれ洛陽 攻略に参加しました。それがすむと黄河を渡って北へ行き蒙古で終戦になりました。その間、北支 の匪賊討伐の時、銃弾が左足の靴に当たり指を負傷しましたが、負け戦さなので傷病兵扱いにされ ませんでした。ある夜、妻が傷を負い足を引きづって歩いている夢を見ました。父は終戦の年の三 月、庁内郵便局長在職中肺炎で死にました。私は外地にいて知らなかったが、あとで妻から通知が ありました。その妻が津市が大空襲を受けた時、爆弾の破片で血みどろになり安濃川の河原へ逃れ 九死に一生を得ていたのです。今でも心臓の近くに破片が入ったままになっています。私が妻の夢 を見たのは、それを知らせてくれたのではないかと思うことがあります。 終戦になり恵兵団は蒙古から天津へ南下、そこで武装解除となりました。ところが私達の中隊は 武装解除を受けず、捕虜のまま天津周辺の警備に当る事になったのです。私達の中隊は三小隊から なり、毎日二小隊が巡視に回り一小隊が非番でした。 私の小隊が非番の時、共産八路軍の襲撃を受け巡視に出ていた二小隊が全滅しました。私は非番 のため助かったのです。 小柳さんの誘いで母校へ 思い出に残る学園紛争 復員して農林省に戻り昭和二十一年九月に内閣から陛叙二級を任ぜられました。高等官です。 昭和二十八年に三重大学の教授をされていた小柳先生が、私のどこを見込まれたのか大学へ釆な いかと話があり、農林省のお許しを得て、文部省へ出向となり、三重大学農学部の助教授に赴任し ました。二十年ぶりに故郷に帰ってきました。学内でいろいろな研究をして学位論文を京都へ出し、 昭和三十七年三月に農学博士の学位をいただきました。昭和三十八年一月に教授に昇進し、昭和五 十一年四月に定年退職するまで、教授をつとめるふたわら県、水質源開発公団、名古屋通商産業局、 農業土木学会から構造改善事菓や工業用地造成、水資源関係ほか数多くの調査委員や委員長あるい は評議員などに任命されました。そのつど期待に添いうるよう私として出来うるかぎりの努力をし てまいりました。(詳細については紙面の都合で割愛いたします) 昭和四十七年八月に農学部長事務取扱いを命ぜられましたが、全国的な学園紛争に巻き込まれ農 学部長の選挙が出来ないためでした。翌四十八年にやっと選挙が出来て私が部長の辞令をいただき ました。三重大学農学部は中核派の拠点で毎日のように団交がありました。私は腹を決め追放か停 学にする案を教授会に出し、了解をとって学生を処分しました。処分徹回を求めて団交また団交で したが、そのうち尻つぼみにをっておさまってしまいました。私にとっては大成功だったんです。 昭和五十一年四月に定年退職、五月に名誉教授になりました。退職後もいろいろな今の理事や委 員、名誉会員などをやり昭和六十年四月に勲三等旭日中綬章をいただきました。現在、三重県土地 改良事業団体連合会理事、三重大学三翠同窓会会長、(棟)三祐コンサルタンツ顧問などをやって います。 酒・タバコのまず 趣味もない男です 私は五人きょうだいの長男、男三人、女二人で末の弟は戦死しました。また私には二人の男子が あり、長男は津市におり今名古屋へ単身赴任しています。次男は住友銀行に入り、千葉県の流山市 に住んでいます。趣味は何もありません。酒もタバコもやらず、旅行に行く気もなく、何の楽しみ で生きているのだ、と人にいわれます。ダメ男の標本みたいなものです。 このたび県民の合会長という重責を担うことにをりましたが、県民の会は初めに南先生がつくら れた綱領、理念をずっと継承されて行けばよいと思います。グレードアップ三重を目指して意欲を 燃やしておられる田川知事さんのますますの活躍に期待するところ大きいものがあります。県民の 今は今後とも強力な支援体制でのぞみ、現在計画中の諸事業を着実に達成されるよう協力したいと 思います。 △