「農業土木」第102号(昭和33(1958)年6月)より
沖縄旅行のメモから
菊岡武男
農業土木技術研修会
去る4月14日から5月5日まで琉球政府経済局の招きで本学農業土木科白井先生と2人
で沖縄に出張することができた。用務はアースダム(筆者担当)と畑地かんがい(白
井担当)の2科目について行う経済局開拓課職員の研修会の講師ということであった。
このような研修会は数年前教育大学松田先生と愛知用水公団の守谷氏を招いて鉄筋コ
ンクリート一般と構造物の設計および土質試験について行われたことがあるから、こ
んどが第2回目のようであるが、今後は予算が許せば組織的に毎年実施したい意向の
ようであるから、その意味では筆者が第1回目といつてもよい。
研修会に先立ち、沖縄の農業土木事業の実情をあらかじめ知っておいた方がよいと
考えたので、本島内は二人一緒に、その後白井先生は今後最も畑地かんがいを必要と
する宮古島へ、そして筆者は石垣島と別々に視察し、その後研修会に臨んだ。
受講生は本庁経済局開拓課(課長大嶺永夫氏、この課が農業土木関係全部を所管し
ている)と現場と合せて30名前後、そのほか白井先生のときには農務課からもまた筆
者のときには土木課からも数名づつ参加された。会場は那覇市内の水産研究所の2階
講堂で、年前午後3時間づつ交替で講義をした。その頃は既に想像以上の暑さで上衣
はもちろん、ネクタイもはずして臨んだところ「先生暑いですから上衣をぬいで下さ
い」といわれ、ポカンとしていたら、ワイシャツを上衣とよんでいるので、シャツー
枚になりませんかということであった。気温は最高度29度を示し、その上湿度が高い
ので蒸暑く、講義をしていて、汗がポタポタ落ちるのがわかるくらいであった。ハン
ケチぐらいでは間に合ゎないので、手試を片手に握りながら講義をしたこともあった。
現場では朝から晩まで仕事をしても疲れを知らぬ受講者も机に向っては睡魔とたた
かう努力が大変だったらしく、講義の内容はあまり身につかぬようであった。尤もわ
れわれは特に筆者は話下手の方だから、一層睡魔を催促したのかもしれない。
受講者との懇談会から
しかし研修を通じて、一歩でも技術を向上させたいという異常な努力を受講者の方
々が払っているのが感ぜられ張合があった。研修後の懇談会の席上某氏は「講義を通
じて、わからぬということがわかっただけでも大きな収穫だった。今まで何も知らず
によくも仕事をしてきたものだ」と笑わせた。また「事情が許すなら内地の現場へ入
って勉強したい」とか「内地の設計計算書や設計図面を送ってほしい」という希望も
あった。
沖縄の農業土木事業の内容や技術水準あるいは技術者の要望については、農業土木
学会誌にかなり詳しく投稿したので、ここでは重複をさけるが、研修会および懇談会
を通じてわかったことは、内地より20年遅れている沖縄の技術水準の向上が彼等の悲
願であり、特に若い人々はこのままの状態で推移することに非常な不安と焦操を感じ、
その解決には内地からも積極的な働きかけをたのみたいという強い要望があったこと
だった。
これまで沖縄と内地の技術上の連繋は絶無といっても過言でなかったから、沖縄で
は内地の農業土木事業の実情や学会、連盟、協会の活動に関する情報には全く暗く
「戦前あった学会は今はどんなんでしよう」という質問がでて、こちらが面喰う仕末
であった。ところが農業土木以外の分野では内地と非常によく連絡がとれている部門
もあり、ある協会の如きは学会開催のときには公式に責任者を招待して、内地滞在費
まで負担(往復旅費は先方負担)しているそうで、こうすれば内地への出張が容易に
できるそうである。今後は農業土木の分野でも双方において積極的に連絡をとる必要
があることを痛感した。
沖縄の農業
沖縄は天然資源に恵まれず土地がやせているので、戦前から経済の面では全く貧困
であり、農林水産業以外に見るべきものは何もなかったようである。昭和13年頃の統
計によると、総戸数に対する農家戸数9万戸の割合は75.5%(当時全国平均41%)も
占めており、耕地面積は約6万町歩(総面積に対する耕地面積の割合は25.1%)で大
きい)、1戸当耕地面積は僅かに6.7反という程度であった。
これが今では軍用地として1.7万町歩接収されたほか、荒廃した耕地もあって、約4
万町歩(田17%、畑83%)に減じ、一方農家戸数は約8.9万戸であるから、1戸当約
4.4反、3反未満の農家戸数が全農家の60%も占めており、しかも反当収量は例えば
1953年の統計によると、水稲1.25石(1期作分)、陸稲0.52石、甘藷260貫、馬鈴薯
340貫、甘庶1300貫という低さであるから、想像に絶する零細農業である。
こんごの開拓可能地は沖縄本島では北部以外には殆んど見当らないようである。い
ま開拓は八重山群島の石垣島北部に重点的に進められて、既に10カ所に近い開拓部落
ができ、かなり成果を挙げているが、狭小な耕地解消は容易に期待できそうもない。
品種改良、耕種改善、水利改良の余地は多分にあるが沖縄のいまの経済状態でどの
程度まで実現可能なのだろうか。沖縄農業の貧困はそのまま沖縄の貧困でもあるがそ
の解決は容易でなさそうであろ。
魂魄の塔と北霊の塔
わが立てる、臥牛の山は低くして、南海は見えず、わが子還らず
(正子安子)
この果てに、君あるが如く思われて 春のなぎさに、しばしたたずむ
(丹波キミ子)
北霊の塔のそばの歌碑に刻まれた遺族のかなしみの歌である。太平洋戦争最後の戦
場沖縄、そしてその最後の激戦地である本島南端三和村は主力部隊旭川師団終えんの
地である。その海岸近くに北海道遺族の手で建てられた慰霊碑が北霊の塔である。
その後方の魂魄の塔は、終戦直後三和村に入植を許された人々が、あちらこちらの
道や畑あるいは岩かげに散ばっていた遺骨を集めた慰霊碑で、祭神3万5千柱といわ
れる無名戦士の塔である。このような碑は南部にはほかにも建立されている。また動
員学徒の碑としてひめゆりの塔(第一高女と女子師範生徒職員)はあまりにも有名で
あるが、このほかにも白梅の塔(第二高女生徒職員)健児の塔(男子師範生徒職員)、
一中健児の塔(一中生徒職員)などダイナマイトを抱いて戦車にとびこんだ女学生、
鉄血勤王隊を組織して斬込んだ中学生あるいは壕内で集団自決した中女学生の慰霊碑
がいくつか建てられており、当時の凄惨さを物語っていろ。
そしていまはその上を今日もジェット機が時々衝撃波音を地上にたたきつけながら
飛んでいる。視察途中通り過ぎた地均し用重機械のモーターのかしましい地上の一角
はミサイル基地工事らしいということであった。那覇から嘉手納空軍基地に至る四車
線軍用道路の両側には鉄網をはりめぐらして不気味に冷たく軍用建物が並び、モータ
ープールには幾百台の各種自動車がその機動力を誇示するかのように並び、また見晴
しのよい高台には、芝生の庭をひろびろと取り入れた清潔な将校宿舎が点在している。
慰霊碑を仰いで涙した眼にうつるフォートバクナー(バクナー保塁、南端最激戦地
で手榴弾で戦死した米軍司令官バクナー中将の名を冠した沖縄軍事基地の総称)の冷
たい現実にはいいようのない腹立たしさが湧いてくる。
沖縄の人々のねがい
沖縄市町村長会は4月22日から総会を開いて軍用地一括払い中止を決議し、日米両国
政府、国連に対し夫々要請の決議を行った。このうち国連への要請決議の要旨をかか
げて沖縄の人々の悲願を伝えよう。
国際連合への要請 − 沖縄県民の強い要求に反する米国軍隊による軍事優先の政治
は土地の強制接収、人種差別待遇.基本的人権の侵害など沖縄県民に対して多くの不
幸をもたらしている。
われわれはこのような不幸の根源をなす米国の占領統治を一日も早く終らせ、祖国
目本に復帰することを強く要求し、県民代表としての琉球政府立法院は既に四回に亘
り祖国復帰を要望する決議をしている。
しかるに米国は無期限統治と大統領行政令に見られるとおり「沖縄の長期に亘る保
有」を主張している。これは県民はもちろん日本国民の意志に反し、自由と民主主義
を愛し、植民地主義に反対する世界諸国民の世論に反し、また主権平等を原則とする
国連憲章にも反する。従って日本領土の沖縄を米国の信託統治のもとにおくことを規
定した対日講和条約第三条は、日本が国連に加盟した今日では、国連憲章に反するこ
とは明らかである。
われわれは国連が県民八十万と日本国民九千万の意志を尊重し、国連憲章の精神に
従い、施政権が一日も速かに日本に復するよう努力されることを要請し、併せて実情
調査のため調査団を派遣きれるよう要請する。 −
「われわれは祖国復帰を信じていろ。ただそれだけに生甲斐を感じて毎日を送って
いるのだ。どうかかつての沖縄県人の存在を忘れないでいてほしい。内地へ帰えった
ら、こちらの実情を一人でも多くの人々に伝えて、今後の支援をたのむ」 − これが
筆者等が小禄飛行場を発つとき送ってくれた開拓課職員諸氏の別れの挨拶であつた。
(三重大学農学部助教授)
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