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元農林省農地局建設部設計課OBの会「みどり会」文集より
(題字は田村徳一郎先生直筆をコピーさせて頂きました)

みどり会思い出の記 岡部三郎                  
思い出は尽きない 菊岡武男                    
私の設計課時代 高須俊行                      
設計課の思い出 -当時の資料からみた- 手島 渚
桜井志郎さんを偲ぶ 菊岡武男                  
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みどり会思い出の記                             岡部三郎  田村設計課長時代の約5か年間に設計課に在任した者達で、゙みどり会゙を作っているが、私はそ の殆ど全期間にわたって設計課にいたので、間違いなく正会員である。と同時に、私にとってもこ の期間は31年の役人生活の中で最も充実して勉強させてもらった大切な時期でもあった。  先ず、技術面では、戦時中の空白から欧米の先進技術に初めて出会ったおどろきの時代で、GHQ から借りてきたアメリカのマニュアル等を夢中になって翻訳した。と言っても、基礎知識の不充分 な我々に満足な訳が出来る筈がない。そこで設計課基準係長の菊岡さんがそれを全部レビューされ たが、元が悪いので殆ど毎晩夜なべして書き直され、大船の寮で同室だった川戸さんは、菊岡さん が寝ている姿を見たことがなかったというエピソードが残っているくらいに努力された。  私は遠藤虎松係長のもとでコンクリートダムの設計基準の作成を担当させられたが、この面でも 中村武夫きんや遠藤さんなどの御指導はもとより、空閑徳平、伊藤剛、有坂誠喜など外部の専門家 の方々にも大変お世話になった。空閑さんは農林省の技術顧問のような形で戦後いち早く再開され た野洲川、鴨川、小坂部川ダムなどの技術指導に当たられたが、現場へ行かれるときは大抵カバン 持ちで随行させてもらった。伊藤さんは当時建設省の治水課長だったが、自分の持っている相模ダ ムなどの資料を惜しげもなく提供してくれたし、建設省のダム現場へも何回も連れていって貰って 実地指導を受けた。有坂さんは外地からの引き揚げ者で当時間組の研究所におられたが、施工技術 のベテランとしていろいろと教えられるところが多かったし、後に電源開発に人られて十勝の糠平 ダムの所長になっておられた時、中川稔さんと一緒に現場にお邪魔し、帰途洞爺丸事件に遭遇し、 危うく命を落としかけたこともなつかしい思い出である。  当時材料試験の体系的な技術がアメリカから導入され、農林省でも各農地事務局に材料試験室を 設け、コンクリートの面でもその数値をもとに配合を設計することとなり、私は上司の命で東大の 国分教授の研究室へ勉強に行った。その知識をもとに全国各地の研修会で講師をつとめたが、その ときのテキストにいくつかの実例を加え、薄井一広技官と共著で「土地改良事業のためのコンクリ ート配合設計法」なる本を丸善から出版した。あとにもさきにも私の書いた唯一の技術書である。  当時の桜井建設部長はいろいろとユニークな発想の持ち主であった。これからはP・Rの時代だと いうことで、土地改良事業を写真とグラフでわかりやすく内外に紹介する「土地改良グラフ」の発 刊を企画され、私と、高瀬国雄さんに取りまとめを命ぜられた。今では殆ど常識になっているが、 当時は何しろ始めてのことで、どのようなものを作ったらよいか見当がつかなかった。各県や現場 にある写真や資料を集めたり、写真班を連れて各地を歩いたり、各課のご協力を得ながら何とかま とめ、虎ノ門の琵琶の先生の家の一室を借りて夜遅くまで最後の編集作業をしていた時、長女由美 子が生まれた連絡が入った。  話は前後するが27年の4月から、東畑清一先生が所長をしておられた農業縫合研究所の経済企画 職員研修に技術者として初めて参加を命ぜられ、約7ケ月間専ら経済学の基礎理論の勉強をさせら れた。  馬場啓之助・大川一司・大内力・宍戸寿雄といったそうそうたる講師陣で、専門外の私にとって はなかなかついていくのが大変であったが、いま内外の経済問題を理解する際その時の基礎知識が 非常に役立ち感謝している。  と共にこの研修の同期生には沢辺元次官始めその後各局の幹部として活躍した者が多く、いろい ろと親しくしてもらっている。大蔵省から来ていた貝塚敬次郎氏(現藤田工業副社長)とは、これ が契機で文字通り親類となってしまった。  課長の田村徳一郎氏は何事にも大変な情熱をもって当たられる方である。桜井建設部長が学術会 議の選挙に出られた時などは、関係方面に強力な運動を展開され、動物園の古賀園長のところへま で説得にいかれたことは、余りにも有名な話しである。あの痩せた身体のどこにしのんでいるのか と思うような旺盛なファイトをもって、正面からぶつかっていかれる。そのため時には誤解を受け られたが、その真筆な態度には部下はひとしく感銘し、尊敬してやまなかった。30年以上経った現 在でも、この会には皆万難を排して集まり、田村さんを中心に当時を顧みながら和気あいあいのう ちに一晩を過ごすことを何よりの楽しみにしている。
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思い出は尽きない                             菊岡武男 設計課の登場                           昭和22年12月開拓局は全面改組になり、私は第2部開墾課から建設部設計課へ配属された。全面 改組の背景にはGHQ筋の勧告乃至示唆があった筈であるが、それについての記憶は定かではない。 建設部には工程調整室という新機構ができたが、どのように機能したのか覚えがない。       発足当初の設計課の構成は予算係(菊岡)、工事係(草刈)、河川総合開発係(木村)、融資係 (仙波)、庶務係(大橋)で、設計課というイメージとは隔たりがあったようである。建設部の他 課に属しない業務を受け持たされたのであろうか。                      技術者優遇運動  昭和24年6月農地局となるまでの間、開拓事業の進展、折しも澎湃として起こった技術官優遇運 動、加えて農業土木の技術力の錬磨向上・農業土木技術者の団結運動等が相呼応して開拓庁案が浮 上し、溝口建設部長の長官昇格運動の動きがあった。                     開拓庁案審議の局議に参加した私には、時の伊藤局長に容認されず、案の練り直しとなった会議 の過程が、今なお脳裏から離れない。 L.R.ダグラス氏の講演  昭和24年1月来日したGHQ天然資源局顧問のアメリカ開拓局第3区地方事務局次長 L.R.ダグラス 技師は当時の農業土木事業を視察し、同年2月農林省において「日本の開拓事業視察の結論と勧告」 について講演を行った。  その内容は示唆に富み、とくにアメリカ開拓局では「設計部門」を重視していること、また各工 種にエキスパートがいて、それらの中には局長より俸給の高い人もいることも紹介きれた。     講演要旨の和訳を命ぜられ好評を得た思い出が残っている。いま手許にないのが残念である。  農地局の誕生                                        昭和24年6月開拓局は農地局に変貌した。この機構改革に至るまでに当局案(前述の開拓庁案も そのひとつであろうか。)組合案等種々論議があったようである。                そうした渦中にあって同年3月全国農業土木技術連盟はじめ土地改良推進7団体は土地改良局(地 方は地方土地改良局、都道府県は土地改良部)とすべしとの声明を発表した。  長年大物として君臨していた溝口建設部長は去り、雨森氏となり、また設計課長は伊藤氏に代わ って桜井氏となった。  新設計課は、庶務係(大橋)、アースダム係(中村)、干拓係(福井)、設計基準係(菊岡)、 材料機械係(草刈)、地下構造係(小貫)道路橋梁係(前島)の編成でスタートした。前島氏は建 設省畑から迎えられ異色の存在であった。 E.G.ジョンソン氏  開拓事業の計画・設計・施工のプロセスについて明確な指針を与え、とくに技術マニュアルの整 備および技術者研修について勧告したGHQ天然資源局 E.G.ジョンソン氏の存在は、新設計課の 在り方に大きい影響を与えたようであった。被は、ばじめは農業部土壌肥料課課員、のちに同経済 課課員で開拓担当であったようである。全国をよく視察して歩いた。農業土木技術者の人事にまで 関心を持っていたようであった。                               誰かに随行し、はじめて彼のオフィスに行った時、中原通訳官に私のことを“Kyusyuboy?”  (九大出身か)と訊ねていた。田町先生が熱心さの余り、各地の教え子にポストを与えるべく奔走 し過ぎていたと彼はとらえていたらしい。彼はそんなことにも関心があり、当時田町先生に一種の 不快感をもっていたのであろう。 仕事熱心なのか、彼の片寄った性癖の然らしめるところか、その辺の事情はよくわからなかった。  桜井課長は彼から信頼きれ昵懇の間柄になり、彼の好意により課長を通じて、アメリカ開拓局設 計基準や技術文献を沢山貸与されたことは、設計課活動の原動力となったようである。       設計課刊行のアースダムや、土質試験等に関する訳本が次ぎ次ぎ世に送り出され、当時の農業土  木技術水準の向上に責献できたことは、ジョンソン氏に負うところが多かったといわねばならない。 桜井建設部長・田村設計課長                                 昭和25年6月溝口・宮本両氏は参議院議員に当選、私達農業土木人は願望達成の喜びに沸いた。  同年7月中旬農地局は霞ヶ関庁舎へ引っ越した。殆んど時を同じくして建設部長に桜井設計課長 が昇格され、後任に田村氏が赴任きれた。この両賢者を上司に仰ぎ、設計課は中村・福井両達識者 を中心に幾多の俊秀を次々と迎え、絢爛多彩な活動を展開した。みどり会会員諸賢にはそれぞれ使 命感に燃え精励されたことは、お互いに懐かしい思い出として残っていると思う。         設計課時代に仕えた桜井部長・田村課長のご指導を受け、多くの同僚諸兄と一緒に励んで得た経 験・知識はその後の私を培ってくれた大きな原動力であったと、年を経るごとに強く感じていると ころである。                                      
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私の設計課時代                                        高須俊行   私が琵琶湖干拓建設事務所から農地局建設部設計課に配置換えとなったのは、昭和25年8月に田 村設計課長が就任された後、年の暮れも迫った11月30日付でした。  その頃の設計課は、前年の6月1日に開拓局が農地局となり、計画部、建設部、管理部と横並びの 3部制が確立した直後で、桜井建設部長が設計課長を兼務され、農業土木のシンクタンクをつくろ うと考えられた為か、全国から農業土木各専門分野の超一流の技官とその補佐が集まっており農業 土木技術の革新をめざし、活気に満ちていました。  浅学の私には、とても勤まりそうにありませんでしたが、少数精鋭の良き先輩・同僚に恵まれ、 技術課に配置換えになるまでの5年間の充実した日々は、その後の私の人生にどれほど役立ったか 知れません。 その頃の設計課の業務は、農林省避織規定の第37集によると、  1.国営の土地改良事業の工事の設計を審査すること。  2.土地改良事業の工事の設計基準を作成すること。 となっており、他の事業課と異なり、多忙で繁雑な予算業務に追われることも、そのために徹夜す ることもなく、起案文者や要綱作成に頭を悩ますこともなく、また地方関係者との連絡や付き合い に気を使うことも少なく、唯々設計者の審査と設計基準のまとめに明け暮れたことは、技術者の一 員をめざすものにとって誠に幸運でした。  その頃の農地局は、国会議事堂の前にありました。毎日三鷹の官舎から国電で有楽町に出て、徒 歩で日比谷公園を抜けて、現外務省の裏にあった木造2階建ての庁舎に通いましたが、菊岡さんが 雨の日も雪の日も常に8時以前に出勤きれていたことには全く敬服させられました。  一方、時には一日が終わっての帰途、有楽町のガード下の焼き鳥やで焼酎を飲みながら岡部、 長、渡辺、大伴、鈴木等の諸兄と怪気炎を上げたり、終電車を気にしながらマージャンに熱中した りしたこともありましたが思えば楽しい青春の一時期でした。  私の上司は、最初は福井芳朗さんでしたが、間もなく樋口守さんに変わりました。樋口さんは温 厚な中にも心の強い現場マンで現場の施工関係を色々と指導していただきましたが、今年の3月他 界されたことは誠に残念でなりません。  設計課の主な出来事を列記しますと、 昭和26年   1月 国際潅漑排水会議(lCID)の設立総会がニューデリーで開催され日本のオブザーバーと して田村設計課長が代表出席   7月 「設計基準」の仮刷りが次々と出来上がり、監修・編集開始   8月 平塚の農業技術研究所内に水理模型実験設備を設け、国営常願寺川頭首工の模型実験開 始、なお各農地局の材料試験室の試験機器の充実 昭和27年   12月 「設計基準・コンクリート堰堤」をはじめ、数編が印刷完了、配布開始 昭和28年   2月 第1回農業土木中堅研修(岡山農地事務局にて)   4月 農地局設計課分室(水理実験室)設置、神奈川県中部大野町中原(農業技術研究所内)      に屋内実験施設を、その後平塚市八幡に本所並びに屋外実験施設・研修棟・研修寮等を 建設(昭和30年完成)   8月 農林本庁が霞ヶ関1-2-1(現農林水産省)に5月に完成し、建設部は1日から本庁5階へ引     っ越し開始 昭和29年   5月 日本土質基礎工学委員会が土質工学会に改組、但し学会誌「土と基礎」の発刊は28年5月   12月 「設計基準」の各編の大部分が印刷完了 振り返ると、以上のほかに色々な出来事がありましたが、設計課の目的の一つであります農業土木 技術のレベルアップのための、1.設計基準の作成、2.材料試験・水理実験の施設整備、3.技術 者研修の充実の3課題を田村課長の下に全員で取り組みましたが、その一端に参画することが出来 ましたことを今でも誇りに思っております。  この間に、小貫、菊岡、草刈の各先輩をはじめ多くの人が去り、新たに多くの人が赴任してこら れましたが、その中の一人、芝田三男さんは台湾総督府時代の私の直属課長で再び同じ課で勤務す ることになりましたことは、全く奇遇でした。  台湾時代の芝田さんは仕事の鬼といわれ、必要以外の話はせず笑顔を見せたこともなく、ただ仕 事一途の課長で近寄り難い、怖いというイメージしかありませんでした。設計課に赴任され、官舎 も同じ牟礼でしたのでお宅に伺ったり、お付き合いをさせていただくうちに、何度か笑顔にも接し 触りも柔らかく、台湾からの因縁で、公私共に最後までお世話になりましたが、思えば余りにも早 い他界でした。  その後、私は技術課に移ってから遠藤さんと、災害復旧課では中村さんの課長の下でそれぞれ務 めました。なお、宮崎県庁から農業土木試験場にもどって間もなく平塚の試験場の閉鎖整理が始ま り、筑波へ移転しましたが平塚の最初と最後にタッチしたのも何かの因縁のような気がしてなりま せん。  最後に、人生は「良き人との出会いが大切だ」とよく言われますが、それと共に「良き職場との 出会いも大切だ」ということを痛感する今日この頃です。
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設計課の思い出 -当時の資料からみた-                                        手嶋 渚   菊岡さんから、設計基準に関する古い資料について問い合わせがあったので、物置の荷物のうち から当時(25年〜28年)の書物、雑誌、プリントを探し出した。それ等を見ながら思い出を述べる。  GHQによる農業機関のコンソリデーションにともない私は開拓研究所より設計課へ配属された。 昭和25年4月1日で、6月には朝鮮戦争が勃発している。  当時の設計課は現在の中農会館にあった。机の配置がコの字型というより口の字型で、上級者、 下扱者がはっきりしないで誰もが気軽に発言していた。それをぬすみ聞きするのははなはだ面白く また大変役立った。  先ず、Terzaghiの「Erdbaumechanik」の翻訳版は、出口さんから頂いたものである。表紙裏に万 年筆で「吾が妻、本書を携行帰国するに吾が身の危険を冒せり、されども無事帰国携行に成功せり、 あの奉天の地より持ち帰りしものとしては本書および他の一書のみ、敗戦の縮図をこの書にみる。 1948.6.3」感無量である。  ある夜、出口さんと一緒に東京駅のガード下にあった土木学会での土質基礎工学委員会に出席し たが、これが土質との係わりの始めであり、私の将来を決めたといってよい。当時担当した仕事は、 材料試験室の設置であった。25年度は、20,272,000円、26年度は、16,595,000円、この金額は試験 機械器具費で建物施設費等は含まれていない。当時サラリーマンの平均給与は3万円であった。そ の設置処所は、各農地事務局(含北海道土木試験所)国営現場27か所である。それぞれの試験担当 者の研修は土質は日本大学工学部で、セメント、コンクリートは、日本セメントK.Kおよび小野田 セメントK.Kの試験室で行った。この試験室の設置により農林省の土質、コンクリートの知識のレ ベルは格段こ向上した。例えば数年後には、八郎潟干拓の土質調査を試験室の直営で行いうるまで になっていた。  ここに「試験室だより、第13号」(仙台農地事務局設計課)がある。各試験室は持ち回りで半年 に一度発行した。内容は充実しており、このうちより外部発表するものを選んだ。また、学会誌「 土と基礎」第1巻第1号(昭和28年5月)の報文・論文欄に渡辺さんの「羽鳥土堰堤における締固め 管理について」と諌早干拓の松谷勇治さんが「海面干拓における基礎地盤載荷試験の一例」、第1 巻第2号(昭和28年5月)には高瀬さんの「山王海士堰堤の沈下移動と浸潤線の実測について」等で ある。  なお、「土と基礎」の発刊当時に会員は約2,000名近くであったが、所属別では農林省の会員は 570名で建設省より多かった。現在の「土と基礎」の会員数は約15,000名ときいているが、現在の 農林省関係の購読者または論文応募数はどうであろうか。なお当時の学会に高瀬さんが編集委員と して活躍していた。  設計課はアメリカより人手した貴重な資料を翻訳して部内参考として配布していた。                     ( )内は翻訳者、敬称略 (1)24年4月 転圧土堰堤の設計および施工(岡部ほか) (2)24年9月 低堰堤(菊岡、坪井、大坪) (3) 25年1月 土堰堤(菊岡) (4)25年1月 重力ダムの設計(出口) (5)25年5月 土堰堤の一般設計原則および安定計算(菊岡) (6)25年5月 基礎地盤および築堤に関する土質試験の試験における取扱(渡辺) (7)25年8月 重力ダムの設計と施工(出口) (8) 26年4月 水理模型実験(出口) (9) 26年4月 減勢工(その1)(出口) (10) 26年7月 余水吐(長)  このほか私の手もとに無いが、例えばアメリカ開拓局設計基準「頭首工」を鈴木さんが紹介した のは記憶にある。またアメリカ土木学会誌の論文を紹介したものが数編ある。「San Gabriet Dam No.1の設計並築造」は私には大事な資料であったが翻訳した者の氏名はない。 長さん、岡部さんが鹿島研究所でプロクターの付き固め試験を行ったのは25年で農林省で初めて であった。このプロクターの理論(上記(1))について九大松尾教授は「1934年には九大農学部田 町教授によってアースダムの構築に利用きれた」と述べている。この理論は和田教授の「土堰堤」 (昭和13年)に次いで溝口さんの「潅漑排水」(昭和24年)のなかで菊岡さんは締固めおよび最適 含水比について述べている。  設計課は、現在の外務省内の敷地に移転したが、時期的にいえば翻訳期を過ぎて、設計基準の作 成、水理模型実験および土質コンクリート設計法の開発と充実した時期である。  一枚の紙に「計画設計委員部会の構成」(25.1.23)として部会名、部会長、担当幹事の名が 書かれているが設計課の殆ど全員が設計基準の作成に加わった。即ち、土堰堤(出口)、重力堰堤 (遠藤)、埋立干拓〈福井)、頭首工(中村、中田)、水路(菊岡、中田)、道躇・橋梁(遠藤) 、機械(草刈)、地下水(小貫)、歩掛単価(菊岡)である。  土堰堤部門で、第4章 土堰堤の分類、第6章 堤体の設計(26・1・23)が未定稿としてプリン トされている。  当時、遠藤さんと岡部さんがコンクリートダムの設計基準を精力的に作成中であったが、岡部さ んが東大の国分先生に原稿の謝金を届けたところ、私は公務員であるからとて受け取らなかったと 話されたのは今でも記憶に残る。  各種構造物の設計計算法が開発されたが、例えば、月刊雑誌「土地改良」1巻1号、1巻2号(26.9, 10,)に中村さん、長さんの「側溝余水吐の計算法解説」がある。  平塚に建設する水理実験室の準備が樋口さん、大伴さんによってバラック内で行われた。  昭和28年3月に第1回農業土木技術研修が行われたが、約35年の昔であり思い出すことが出来ない。 ただここにも菊岡さんの研修テキストとして「アースダムの安定計算参考資料」がある。当時私に は欠くことのできない資料であった。  ちょっと毛色の違う「日本土地開発史」がある。その目次ば、T内地、V北海道、V干拓史、W 大戦中に起こった方式の変化、X耕地面積の変化、であるが、内容は干拓史までのガリ版、日付は 25年5月とある。福井さんの執筆したものである。  「Sehriftturm Ueber Bodenmechanik」は長さんから頂いたものである。  桜井部長の「土、水、人」、「土地改良グラフ」あるいは、高瀬さんの「山王海ダム工事記録」 等記憶に残るが実物が手もとに無いので残念である。  最後に桜井部長、田村課長は、課員が自由に仕事、あるいは勉強できるよう指導された。お陰で 設計課は何ら権限がなくとも高い評価が与えられたと思われる。
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桜井志郎さんを偲ぶ                                        菊岡武男  桜井さんとの出会い  桜井さんを直接の上司と仰ぐようになったのは、昭和24年6月開拓局が農地局となってからであ る。桜井さんはそのとき、開拓局建設部土地改良課長から、農地局建設部設計課長に就任され、私 は設計基準係長として1か年余仕えた。その後、昭和25年7月から建設部長に栄進され、一段上の上 司として私が文部省へ出向するまで約3か年仕えた。                     設計課を育てる  桜井さんは設計課長に就く以前からGHQを屡々訪ねて開拓担当の天然資源局農業部経済課課員E.G. ジョンソン氏と昵懇になり、アメリカ開拓局の機構を熟知しておられたのか、設計課のあり方につ いて野心的ともいえる抱負があったようである。設計課を技術のメッカにする狙いであったのだろ うか、強引な人集めから桜井さんの仕事は始まったように覚えている。              桜井さんはユニークな設計課に育てるため精魂を傾けられた。ジョンソン氏を通じアメリカ開拓 局設計基準をはじめ多くの技術文献を借用し、それらを広く知らしめる措置を講じ技術水準の向上 を計られた。また、画期的な設計基準作成の体制整備、水理実験・材料実験の普及啓蒙、技術者再 訓練の実現化を明晰な頭脳をもって緻密に指導され、他に類を見ない設計課の体制確立に非凡の才 能を発揮された。                                     アメリカ視察  桜井さんは建設部長になられて間もなく・、昭和25年9月〜12月の3か月、農業土木技術者として はじめて「農地を対象としたアメリ力士木事業の視察・研究」の使命を帯び渡米された。当時の農 業土木人とレては画期的なことであった。  得意のカメラ技術を活用して工事現場や構造物等をフイルムに収め、また合理主義なアメリカを 経験され、一層徹底した合理主義者となって帰朝きれた。その見聞記を激務の傍ら「土・水・人」 と題する一書に纏められた。合理主義者桜井さんの炯眼をもってとらえたアメリカのプロフィルが 得意の軽妙酒脱な筆致に托して紹介され、また土と水と人の調和の上に築き上げつつあった当時の アメリカの開拓事情が達意の文をもって写真入りで語られており、当時絶賛を博したものであった。 農業土木の最高責任者  桜井さんには建設部長として農業土木の事業と技術の最高峰に立つ者の自負と責任感が横溢して いたようであった。  いつの頃であったか、また何に関することであったか全く忘れてしまったが、農地局某部長が農 業土木を中傷誹謗する言動があったということで桜井さんの逆鱗にふれた。その部長を建設部長室 に呼び寄せ厳しく論難した。相手の陳謝ということで漸く決着したように記憶している。      また、農業土木事業として当時の設計・施工の粋を尽くして建造きれたフィルダムの設計施工に ついて農業土木以外の人が一書を著し世に問うたことがあった。その著者は施工者側の立場で参加 したのであった。桜井さんはその著者が農林省の恩恵を全く無視していることに激怒し、著者及び 発行者に対し謝罪と改版を迫った。相手側もその非を認め「旧版は語句の一部に不用意な箇所もあ り、事実と相達した点もあって読者及び農林省御当局こ対し多大の迷惑を与えた」との意味の詫び 状を添え改版を行い、旧版を回収することで桜井さんは納得きされたようであった。        このように桜井さんは常時その重責を痛感され、烈々たる気魂をもって職責を全うされたのであ った。                                           このように書いてくると、私にはお含めがなかったようにも思われるだろうが、常時お小言頂戴 の連続であった。それも今は懐かしい思い出である。                    
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みどり会思い出の記 岡部三郎 思い出は尽きない 菊岡武男 私の設計課時代 高須俊行 設計課の思い出 -当時の資料からみた- 手島 渚 桜井志郎さんを偲ぶ 菊岡武男 ↑ハイパー目次です。題名をクリックするとその箇所に飛びます                                            △
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