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三翠志登茂会々誌「志と茂」第8号にて


佳き上司に恵まれた私
−農林省時代の思い出−

菊 岡 武 男(S・8土九回卒)


はじめに                                                              

 私は大正二年生れで間もなく九十一歳を迎える。この齢になるとよく昔のことを思
い出す。佳き上司に恵まれた思い出もそのひとつである。佳き上司の薫陶は私の人間
形成に大きく影響し今日の私があると思っている。               

 本稿は私の農林省時代を回顧し、佳き上司のうちの和田保さんと溝口三郎さんに焦
点を当てて語ってみたい。                                                    


和田 保さん                                                                

 私は昭和八年に三重高農を卒業し、幸いにも農林省に採用され、「雇を命ず」、  
「月俸五拾円を給す」 との辞令を頂戴して、農務局耕地課の開墾助成班 (四班編
成)の和田保班(八名構成)の末席に就いた。和田班は東北六県と三重・奈良・和歌
山県が対象で、私の仕事は文書の受発信の記帳と新規地区の設計書または既認可地区
の設計変更書審査の手伝いであった。                                          

 本論から逸脱するが、当時の設計書は縦書きで、単位も尺貫法とキログラム・メー
トル法が混在していた。毎秒一立方尺の流量を一個と称していたのが懐かしく思い出
される。                                                                    

 某日、土ダム建設を含む新規地区の調査を命ぜられ、和田さんに復命報告した。熱
心に聞いていた班長から「ところで borrow pit は何処かね」と質問され答えに窮し
ていると「三重高農を出ていて、こんなことがわからないのか」 とお叱りを受けた。

 これに懲りた私は早速、一年先輩の同窓生福井重男さんから Justin の Earth Dam
という本を借り一生懸命に勉強した。                                          

 その後しばらくして和田さんに呼ばれた。「僕は今土堰堤の本を書こうと頑張って
いるが、君にも手伝ってくれないかね」と言われ、「大変光栄です。私もいま Justin
の本をカッて読んでいるところです。」と答えると「それは感心だ、あの本を買った
かね。」と誉めていただいた。                                                

 津地方では「借りた」を「かった」、「買った」を「こうた」と発音していたので
その癖がつい出てしまったのである。大枚二十円を払い丸善で買う羽目になった。月
給五十円の身には大変な負担であった。                                        

 本論から逸れてしまったが、新しいデータを盛り込んだ和田保著「土堰堤」には、
私が手伝ったことが紹介され光栄至極であった。                                

 また和田さんは親友の東大農業工学教室の秋葉教授に私を紹介して下さった。その
お陰で東大の先生方と知り合い、また農業土木学会関係の人々とも親しくなった。  

 後日談になるが、和田さんは興亜院(大東亜省の全身)へ栄転され、さらには東京
教育大学教授となられた。また現在の地盤工学会の前身土質工学会の会長も務められ
た。                                                                        


溝口三郎さん                                                                

 溝口さんは昭和十二年に着工された青森県三本木原国営開墾事務所長から昭和十四
年に農林省農務局耕地課へ戻られ、新設された班の班長に就かれた。その班は都市計
画に対する農村計画を模索し、農地開発改良の新施策を構想するのが目的であった。
その頃私はその班の一員であったから、溝口さんに覚えられたのであろう。        

 その後、溝口さんは衆望を担い耕地課長に栄進された。起案文書を持参すると、す
ぐに赤鉛筆を持ち、眼光鋭く加筆訂正された。                                  

 敗戦の年の昭和二十一年三月には二部八課となった。溝口さんは開拓局建設部長の
座に就かれた。                                                              

 その頃、私は建設部設計課の係長であったが、建設部長室へたびたび呼ばれるよう
になった。単なる一係長が直接部長室へ出入りするのはいかがかと伊藤重松設計課長
に申し上げたところ、「その件はよく理解しているので直接部長室へ行ってよろしい
よ」とのご了承を得た。                                                      

 部長室付きの秘書が呼びにくると、鉛筆とノートを持って部長室へ入る。部長は滔
々と持論を展開し、宿題を言いつける。「先日、言ったことできたかね」と訊ねられ、
頭を掻きながら「いや未だですが」と言うと「駄目だなあ君は。僕なら二日もあれば
できるがなあ」と業を煮やしながらも、また別の宿題を与えて下さった。          

 このようなことを繰り返している頃、部長室へ呼ばれると、「役所ではゆっくり鍛
えてやる時間がないので、次の日曜日に家へ来い」と意外なことを言われた。      

 当日、省線目黒駅近くのご自宅へ伺うと、奥様の用意された酒肴を楽しみながら、
例の説教が始まり、また例の通り宿題も頂戴した。しかし部長室とは一味ちがう雰囲
気で、世間話も交えながらのお説教であった。                                  

 部長のお宅で数回しごかれるうちに、部長の私用のお手伝いもするようになった。
その頃、学位論文の作成に熱中しておられたので私もデータの収集やその分析の一端
を担った。また部長の学位論文提出先の京都大学農業工学教室の高月・大枝両教授に
近づくこともできた。                                                        

 余談になるが御退官後の溝口さんは、現在の全国農村振興技術連盟の前身「全国農
業土木技術連盟」から推されて参議院議員に立候補され、見事に当選され、緑風会に
所属されて労働政務次官に就かれた。さらに日本の農業農村振興のため国会議員とし
て全力投球され大きな功績を挙げられた。                                      


あとがき                                                                    

 七十年前、はじめて上京し、農林省の門をくぐってから二十年間の農林省務めのな
か、佳き上司のうちの和田保さんと溝口三郎さんのことを思い出すままに書いてみた
が、はしなくも自分史の一端を語る駄文になってしまい赤面の至りである。        

 しかし、今日の私があるのは、若いとき佳き上司に恵まれ鍛えられたおかげである
ことは忘れ難いので、敢えて駄文を草じた次第である。                          

 最後になったが三翠志登茂会員皆様の御健勝とご多幸を祈念し擱筆する。

参考文献:「農業土木史」(昭和五四年五月)農業土木学会                      

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