◆ 池の鯉

 

 

 紀貫之が、承平4年(934)12月に土佐国府を出立し、翌年2月に京へ戻るまでのことを著した 『土佐日記』の中に、鯉にまつわる次のような話が出てきます。

 

 七日になりぬ。同じ湊にあり。今日は白馬を思へどかひなし。ただ浪の白きのみぞ見ゆる。かかる間に、人の家の、池と名ある所より、鯉はなくて、鮒よりはじめて、川のも海のも、こと物ども、長櫃にになひつづけておこせたり。若菜ぞ今日をば知ら せたる。歌あり。その歌、

    

   浅茅生の野辺にしあれば水もなき池に摘みつる若菜なりけり

  

いとをかしかし。この池といふは所の名なり。(以下略)

『土佐日記』冒頭の一節

(口語訳) 七日になってしまった。まだ同じ港にいる。今日は(宮中で催されている)白馬の節会のことが思われるのだが、どうしようもない。(白いものと言えば、)ただ波が白く立っているのが見えるばかりである。こうしているうちに、ある人の家で、「池」という名のつく所から、(池なのに、

肝心の)鯉は無くて、鮒をはじめとして、川の魚や海の魚、その他のいくつかの食べ物を、長櫃に

入れて(幾人もが)担いで贈り物をしてくれた。(その中でも)若菜が今日という日を知らせてくれて

いる。(贈り物に)歌が添えられている。その歌に、

 

  (私が住んでいるところは、池といっても)浅茅の生えた野原ですので、水もない池で摘んだ若   菜ですよ

 

とても面白いことだ。この池というのは地名の名前だったのである。

 

 ※ 池 : 長岡郡十市村池のこと。現在の南国市内 

 

 

● 「池」と名の付く場所からの贈り物なら、「鯉」があるはずなのに‥!?と考えた時の、紀貫之のつぶやくような声が聞こえてきそうです。

 ところで、この文章を読んでみると、池には鯉がつきものだという意識が、当時の人々の中にあったことが伺えます。池といえば必ず鯉が泳いでいたのかも知れません。

 しかし、この池に放たれている鯉は鑑賞用として利用されたと考えるのは無理があります。当時の鯉は、ほとんどが真鯉ですから、もっぱら食用に利用されていました。鯉が鑑賞用として飼われはじめるのは、江戸時代の後期、文化文政(1800年)の頃からだといわれています。このころには、緋鯉の他にも、今日の紅白に近い品種も世に出ていたそうです。そして、その後に品種改良が盛んになり、明治初期以降から、錦鯉の大流行を迎えていきます。

 

 

 

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