編集:2004年9月10日 


Kobe Computer Circle at Crystal Tower

子 供 の こ ろ

梶原 康子



1941年(昭和16年)頃の神戸(4歳)

  神戸市兵庫区に住んで、あたりは民家と個人商店のある普通の何処にでもあるところでした。自動車は、国道のあたりでは、走っていましたが、家のぐるりは、馬が、荷台を引いて,荷物を運搬していました。ある家の前に、丸いおおきなコタツの焼け跡の付いたふとんが、干してあり、それを見て、馬が、顔を突っ込んで、穴が開いたと思い込んでいた事もありました。

  ままごと遊びのおもちゃは、友達の家で、押入れにしまってある、実物のコーヒーセットを、持ち出して、「このごろは、ものが、ふじゅうに、なりましたねえ!」そんな会話をしていました。
  母や友達のお母さん達は、防空頭巾の型紙を、貸し借りして各々手作りしていました。

  お店は、ニクテンヤ(お好み焼き)・風呂屋・甘酒や・トコロテン屋・しるこ屋・鍛冶屋・豆腐屋・お旅筋商店街にも連れられて行っていました。真冬は、ビュービュー風が吹いて砂埃がして眼に入る程でした。
  トコロテン屋さんには、友達と紙の日傘をさして、店に座り、木の長方形にトコロテンを入れて、突いて押し出され出てくるのが面白くて・・・

  この頃、既に社会人になっていた姉が友人達と宝塚歌劇に行く時、私も連れて行ってくれましたが。古典の舞の形相や、服装が怖くて、良さが分かりませんでした。
  市電に乗って、市内の叔父・叔母の家に連れられてよく遊びに行っていました。
  生田さんの祭りもあり遠くの広い市電通りに見物に連れられて行きましたが、人出が多く、人だけしか、覚えていません。

1943年(昭和18年)頃の神戸(6歳)

  急激に物資が不自由になったと見えて、友達の家で、水がめに入っている沢山のトマトを見て、驚いた事もありますし、また別の家で、黄な粉をまぶした球形状のまん丸いおはぎか、おにぎりが、ピラミッド状に積んでお皿に入れておいてあるのを見て、珍しくてびっくりした事がありました。

  近所の娘さんがお嫁に行かれる日は、大勢で玄関の前で、待ち受けて出てこられるのを、大人も、子供もおとなしく待っていて、やがて花嫁さんを見送ります。『ボクも大きくなったらこうしてお嫁さんに行くのやね!』と言うと、クスクス笑われたような気がしました。母は他人の振りをしていたかも。   この年、四月に国民学校に入学して、当日から、きっぱりと、自分のことを、ボクと言う、言い方は、直ったそうです。

  一年白組で平井先生でした。その後当時の友達も先生にも一度も会っていません。秋、校庭にある黄色く色づいた、イチョウの木を平井先生が、急に揺すられて、びっくりしましたが、生徒に葉っぱを拾い集めるようにして下さった。運動場にもトイレがあって、平井先生が、そこに入って行かれたので、びっくりして、家族に話すと。真面目な顔で先生も、お便所には、行かれるよ!と言ったのでした。
  このように未だこの年は神戸にも余裕があったのでしょう。

1944年(昭和19年)頃の神戸(7歳)

  1月1日に学校の講堂で新年の行事で、集合したのを覚えています。全員で、歌った、年の初めのためしとて♪♪・・他、
  近所では、お隣のおじいさんが亡くなり、お葬式もあり、その方は、偉い人だったらしく、亡くなる前日に家族に紙と鉛筆を要求して、イチヒイクと書かれて、その日に亡くなられたと、やはり偉い人と、家族が話していた事がありました。そんな訳で、このあたりまでは、きちんと、冠婚葬祭も、行われていました。

  やがて、1軒2軒とお店が無くなり、住宅も空き家になり、その内には、空き家は、たちまち国からの命令なのでしょう、潰しにかかり、今のように水などかけませんし、埃で埃で嫌な空気になりました。夜は、窓に黒のカーテンをし、電灯は、黒い布で被せその下だけ明るくして、警報のサイレンが鳴ると、大人たちは、落ち着かないふりで、風呂敷に何か包んでは解き、また包んだり、団子のような丸い包みを、3つ程作って、その辺に転がっているのを、見ていました。やがて解除のサイレンが鳴るとホットしたのを、覚えています。

  12月頃芦屋に転宅する
  神戸の小学校で1年生の遠足は、何処か学校の近所だと思いますが、小高い所もあって、でこぼこした広場で、お弁当を食べ、先生方は、4,5人で輪になって真ん中に金平糖のお菓子を置いて、おしゃべりをされていました。2年生の遠足は、何処か遠いように思え、遠足の途中土塀から外に、赤い小さな実が垂れ下がっているつるが、可愛くてきれい!と思いました。

  近所の子供相手のお店で、新聞紙に包んでくれていたおばさん、も何時か引越し、入れ物を持って買いに行ってた、お豆腐屋さんも、何時か引越し、後は、火事の類焼を防ぐために、家は、潰され町は、急速に変な所に、なっていきました。自分の家も芦屋に行く事になり、住んでいた家は、何方かが、入居される事になったそうです。後で分かった事ですが、掘っていた、防空壕に、入られて、不幸なめ遭われたお話を聞きお気の毒に思いました。12月の中旬だと思いますが、芦屋川の浄水場の上の方に山の合間にある家に引っ越しました。

1944年(昭和19年)~1945年(昭和20年3月)

  芦屋の山の上での生活   家のあたりは、松ノ木が生えて、ハイキングコースになっていて、時々グループの人達が通っていて、このあたりは、神戸市内よりも、のどかで、白人も、たまに見かけました。お正月前に一人のおじさんが、登ってきて、その辺で遊んでいる自分に、裏白は、どのあたりに有りますか?と尋ねられた事がありました。

  芦屋川の下流にある、国民学校は、近所に小学生がいなくて、大きな別荘のある閑静な道を、一人で通学し、学校では、神戸と違い、殆どの生徒が当時上等な服装で、毎日革靴を履いて来ていて、今で言うカルチャーショックを受けました。
空襲警報は未だ無く、校舎の西側に、松ノ木か、何かの良く肥えた、腐葉土のまざった、畑があり、じゃがいもの芽のあるところを切って、灰にまぶしたものを、生徒達で植えました。

  この頃配給制度で、大根一本芦屋の駅に近い所迄、近所のおばさん達と、一緒に連れられて、もらいに出かけて、帰りは、重たくて、手を何度も持ち替えていましたら、持ってあげよう!と言って下さったのですが、こんな重いものを、人に持って貰う訳には、いかない、(まして、赤ちゃんを、おんぶして、いられるので、)と思って断った事がありました。
  山の冬は寒く、水の出る所まで、バケツで汲みに行きますが、そこには、真っ赤に色づいた、つたの葉が、きれいでした。最近は、あのようなきれいな紅葉は見かけません。

  間もなく、ここでも空襲警報が、鳴るようになり、下校時に鳴って思わず近くの家に飛び込んで、そこのおばさんに、親切に言葉をかけて頂いた事がありました。
  こんな事があって間もなく、3月中旬、夜に大阪が、火の海になるのを、家から見え、ラジオも実況で、「大阪が燃えています」と言っているし、あたり一面が、あかあかと燃え、怖い怖い夜でした。大坂の大空襲です。原爆だけでなく、このような地獄絵図が、神戸でも繰り返されていたのです。
  渦中の人達を思うと。今更乍らつくづく戦争は、むごい事だと思います。

1945年(昭和20年)3月

  播州の田舎に3月末か、四月の初めに疎開
  引越しの日は、電車に家族で乗り途中明石駅前の広場で半日ぐらい、大勢の人が、切符を買うのに並んで待たされました。

  田舎の学校に3年生の新学期から、お世話になり、クラスの生徒達は、藁ぞうりを履いているのが大半で中には、はだしの人もいました。全体に身長が低いように思いました。
  田舎では、畑の草取りや、初夏に、近所のお兄さん格の方が、山にツツジを採りに連れて行ってあげる、と聞いて、飛び上がって、喜びました。小高い山で、赤い山ツツジを見た時、ウワー!このようなきれいな、所があるのかと、ものすごく感激した事が、あります。新緑の中に赤い花が、引き立ってきれいでした。
  冬は、杉の葉が、枯れて落ちたのを、拾い集めに友達4人位で行き、束ねていると、一番大きな人が、縄でくくり直して頂くと、少しになってがっかりした事がありました。
  戦後も2年位たつと、下駄なども有って、下駄の鼻緒が切れると、芯の紐に布を巻いて紙で包み、表に仕上げの布を縫いつけて、下駄の鼻緒を付け替えて、履いたり、藁ぞうりは、藁を鎚で打って、柔らかくして、両足を伸ばして、足の親指に、芯になる細い縄を引っ掛けて、自分の草履を編みました。夏に川に泳ぎに行く時も、重宝しました。

  8月15日正午天皇陛下の、お声は、家の前でサツマイモのつるか軸を葉っぱから、ちぎる作業を、しながら聞きました。3年生なのに、その時何を思ったか思い出されません。大人は、暑そうにしていたのを、覚えています。

この辺で終わりに致します。ありがとうございました。



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