編集:2002年2月25日 


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昔 の 暮 ら し

大西 堯哉



昭和十年代(戦争中)の関西における田舎の碁らし

  1. 年末から正月にかけての行事
       餅つき
       注連縄づくり
       門松
       除夜の鐘
       とんど
       七草粥と小豆粥
  2. 草履づくり
  3. 井戸と水瓶
  4. 花祭り
  5. グミ、ゆすら悔、桑イチゴ、草イチゴ、やまなすび、通草
  6. 川魚の取り方
  7. 柴刈り、薪づくり、薪割り
  8. 風呂焚き
  9. 温床づくり(野菜に早く春を呼ぶ)
  10. 野菜作りのための肥料料
  11. 足袋
  12. 盆踊り
  13. イナゴ取り、沢蟹取り、田螺取り
  14. つくし、わらび、ぜんまい
  15. つばな摘み
  16. 年に一度の(ニ年に一度の)池掃除
  17. 朝の草刈り(牛のための飼料)
  18. 学校のグラウンドでの芋づくり
  19. 手作りのキャッチャーミットとグローブなしの野球
  20. 青年団の田舎芝居
  21. アルバイト
       薪運び、松根油、がんびの皮取り、げんのしょうこの採集
  22. 鶏を飼ってたまごを産ませる
  23. 蚕を飼うこと
  24. 子供の遊び
       ぶち独楽、独楽、ぺっちん(ぺったん)、缶けり、かくれんぼ
  25. 柿 柿の取り方
       甘柿、渋柿、干し柿、あわせ柿、熟柿
  26. おくどさん(かまど)、囲炉裏、鍋、はがま


 

餅つき
 正月用の餅はそれぞれ自分の家でついた。それぞれの家に木や石の臼があり、12月28日か30日に餅をついた。12月29日に餅つきをするのはいけないことになっていた。また、12月31日も餅つきをしてはならないのである。大晦日に餅をついたのでは正月までにしっかり固まらないであろうから、大晦日に餅つきをしないのはもっともだとも思われるが。
 沢山餅をつく家は四斗も五斗もつくということであった。一臼は二升だから五斗もつくと25回つくことになる。朝からつき始めて昼を過ぎてもまだついている家もあった。
餅をつく日は朝から大変忙しい。竈で火を燃やし釜にたくさんの湯を沸かしてその上に蒸籠を三段に重ねる。蒸籠には布巾を敷いた上に洗った餅米を入れ、蒸し上がると下から順に取り出して臼でついて餅に仕上げるのである。餅はつき上がるとすぐに小餅に丸めるのであるが、一臼で小餅を60個位作っていたように思う。「餅と娘には強くあたる程良い」と言い聞かされながら、力を込めて餅をもむ。力を入れないとシワシワの餅になるが、力を入れてもむと、つるっとしたきれいな餅に仕上がるのである。
 つきたての餅をすぐに食べるのも、餅つきの楽しみである。餡をつけても食べたし、大根下ろしにつけても食べた。大根下ろしにつけて食べると消化がよいということで、沢山食べることができた。
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注連づくり
正月用の注連縄はすべて自分の家で作った。きれいな藁を選んで切りそろえ、穂先もしっかり整えて、半紙で作った白い紙を挟み込みながら作っていく。長いものや眼鏡などを作って床の間や仏壇、竈、井戸などに飾り付けた。
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門松
 門松は山から松の2メートル位になったものを切り出してきて、門の両脇に立てた。地面に杭を打ってそれに結びつけるといった簡単なものであった。
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除夜の鐘
12月31日の12時になると寺で除夜の鐘を撞く。108撞くのであるが、数を間違えないようにするために数珠を使う。数珠の球は108になっているので、一つ鐘を撞くと数珠の球を一つ送る。それで数を間違えることはないはずなのだが、寒いときではあるし、鐘楼には火の気もないうえに、撞き始めてから撞き終わるまではかなり時間がかかるので(多分1時間近くはかかっただろう)、時にはうっかりして数珠の球を送らなかったり、二つ送ったりすることがある。鐘を撞いた数を寝床の中でしっかり数えている人がいて、「今年の鐘は一つ多かった」などと聞かされたこともあった。
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とんど
 いわゆる松の内は1月14日までであった。1月14日の夕方に正月のかざり(門松や注連縄、鏡餅など)をすべておろすことになっていた。そして、とんど(差議長)で燃やすことになっていた。そのとんどは大きな火を燃やすので、河原でするのが習わしであった。
 とんどの準備をするのは子供たちの役目である。その日は朝から子供たちが河原に集まり、木や竹や笹などをたくさん集めてきて、組み合わせ、大きなとんどを作った。中心の大きな木の周りに次々と木や竹を重ねていくので、円周にすると7、8メートル位のものになった。
 夕方になると部落の人たちがみんなそこに集まってきて、火をつけた。とんどは大きな炎を上げて燃え、熱くてなかなか近づくことができないほどであった。竹をたくさん集めてきて燃やすので、とんどはパンパンと大きな音を立てた。青だけの中の空気が破裂して大きな音を立てるのである。その音がとんどの雰囲気を大いに盛り上げるのであった。
 集まってきた人たちは正月に飾っていた注連縄や門松などをとんどの中にほりこんで燃やした。そして、1月2日に書き初めをした習字の紙も燃やすことになっいた。書き初めの紙が燃えて、その灰が高く上がるほど字が上手になるといわれており、子供たちは自分の字が燃えて高く上がるのをじっと見守っていた。
 それから、鏡餅を焼いた。鏡餅を焼くには、火の勢いがあまりに強くて近づけないので、長い竹竿の先に鏡餅を挟んで遠くから手を伸ばし、火の中に入れて、焼くのである。焼くといっても実際のところは少し表面を焦がす程度にして、それを持ち帰り神棚に供えておくのである。それは1月15日の朝小豆粥の中に入れて食べることになっていた。
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七草粥と小豆粥
 1月7日は七草粥を食べることになっていた。せり・なずな・ごぎょう・はこべ・ほとけのざ・すずな・すずしろの七草を粥の中に入れて食べることになっているのだが、実際には手近にある野菜を入れた粥を食べていたように思う。1月7日では、すずな(蕪)・すずしろ(大根)のような野菜以外はまだ寒い時期なので、手に入らなかったからであろう。
 1月15日は小豆粥を食べることになっていた。正月が1月14日で終わったので、その翌日に小豆粥を食べるのである。その小豆粥の中には前の火にとんどで焼いてきた鏡餅を切って入れることになっていた。
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・草履づくり
 靴を履くことはほとんどなかった。靴を履かなかったのではなく、靴がなかったのである。下駄を履くこともあったがほとんど草履を履いていた。その草履はすべて藁で作った自分たちの手作りである。子供たちも小学校に行くような年齢になると、自分の草履は自分で作った。時には鼻緒のところに布切れの一部を入れて飾りにしたりしたものである。
 草履を履いていて不都合であったのは雨の日である。雨で濡れた地面を草履で歩くと、はねがあがって脚の後ろから尻にかけて泥だらけになった。おまけに藁でできている草履は水に濡れるとすぐに破けてしまう。仕方がないので、雨が降り始めると、草履を脱いで腰にくくりつけておき、裸足で歩いた。
 冬に草履で歩くのはとても冷たかった。靴下というものはその頃にはなくて誰も履いていず、足袋を履くのであるが、足袋もないものは素足に草履で寒風の中を歩いていたのである。足は感覚がなくなっていた。


・井戸と水瓶
 生活に使う水はすべて井戸から汲んだ。井戸水は釣瓶(つるべ)で汲み上げた。井戸のうえに滑車がかけてあり、縄(なわ)を掛けてその縄の両側に釣瓶がつけてあった。その釣瓶を交互に下におろして水を汲むのである。井戸の深さは上から水面までが7~8メートルくらいあり、更に水深は5~6メートルくらいあったので、全体としてはかなり深いものであった。従って水温は一年中あまり変わらず、夏は大変冷たく感じられ、冬は暖かく感じられた。おそらく一年中いつも15度cくらだったのであろう。
朝、顔を洗うには釣瓶で水を汲み上げて、あか呼ばれていた銅製の金盥(かなだらい)に入れて使った。飲み水や食器を洗う水は、井戸から汲み上げた水を大きな瓶(かめ)にためておき、それを柄杓(ひしゃく)で汲んで使った。水瓶(みずがめ)の大きさは高さが1メートルくらい、周りは2メートルくらいあったので、その瓶を水でいっぱいにするには、毎朝井戸から水瓶までバケツで何回も運ばねばならなかった。


・風呂たき
 風呂をたくのは四、五日置きであった。風呂釜(ふろがま)はいわゆる五右衛門風呂(ごえもんぶろ)で、底の部分が特に熱いので、底板を踏んで風呂に入った。底板は固定されていないので、誰も風呂釜に入っていないときは水面に浮いている。風呂釜に入るときにはその底板を足で踏んで、沈めながら入るのである。下手をすると底板を踏み損なって底板がくるりと回って浮き上がり、足が直接釜の底に着いてしまって、熱さで飛び上がることもある。
 風呂を焚く日は大変である。まず、風呂釜いっぱいに水を入れるのに井戸からバケツで何回も運ばなくてはならない。更に湯の温度が熱くなりすぎたときに用いる水を入れておく桶も、いっぱいにして置かなくてはならない。そして、湯を沸かすには薪(まき)を用いた。水からほどよい温度まで沸かすには1時間以上かかるが、その間ほとんどつきっきりのようにして火を燃やさなくてはならない。また、冬などは湯が冷めやすいので、追い炊きもしなくてはならない。風呂の焚き口は家の外にあるので、家の外に出て焚くことになる。


・薪(まき)づくり、薪割り
 炊事や風呂をたく燃料は薪である。薪は冬の間に(落葉樹の葉が落ちているとき)山から切り出しておく。山に生えている、なら、こなら、くぬぎの類の落葉樹を切り倒し、太いところは40~50センチ程度に切って割木にし、細いところも50センチメートル程度に切りそろえて持ち運びしやすいように縄(なわ)で束ねておく。それを家の軒先に積み上げておくと自然に乾燥もし、一年間の燃料として竈(かまど)や風呂釜(ふろがま)で使うことが出来る。木の太い部分を割木にするには、大きな木の株などで作った台の上にその割るべき木を置いて、斧(おの)で二つ、あるいは三つ四つに割る。これはなかなかの技術を必要としたが、小学生も高学年になると大抵の者が上手に割るようになっていた。時代映画などで薪割りのシーンがあるが、ほとんどが台の上に木をまっすぐ立てて上から斧で割っている。これは太い木を割るときで、もっと細い木を割るときには台の上に木を立てることができない。また、曲がっている木を割るときも、まっすぐ立てることはできない。したがって、木を横にして丸太の丸い部分の丁度真ん中をねらって斧を入れなければならない。これがなかなか難しい。下手だと斧が滑って木が横に飛んでいってしまって割ることができない。そして、これは非常に危険でもある。


暖房
 冬は大変寒い。暖房は専ら火鉢、炬燵(こたつ)である。竈(かまど)でたいた火を火鉢や掘り炬燵(ほりごたつ)に入れて暖をとる。木を燃やして作った火は比較的早く燃え尽きるので、炭をおこして火鉢や炬燵に入れた。炭には黒炭と白炭があり、白炭は黒炭と比べるとおこしにくいが黒炭よりは長持ちした。これらの炭は炭焼きで作られた物で、炭俵に入れられている。これらのものとは別に、自分の家の竈(かまど)などでできた火を瓶(かめ)などに入れて、蓋(ふた)をし、火を消して炭にした物を消し炭といった。この消し炭は比較的火がつきやすいので、便利であった。
 夜、寝るとき布団の中に入れる「あんか」には炭団(たどん)を使った。暖房ではないが、湯などを沸かすのに七輪を使うこともあったが、その時は炭も使うが、練炭(れんたん)を使うこともあった。炭団や練炭は自分の家では作っていなかった。





・農耕の動力としての牛
 大抵の農家には牛小屋があった。農耕のための動力として牛を使っていたので、そのための牛を飼っていたのである。ほとんど黒色の牛であった。田を耕すとき牛に鋤(すき)をつけてひかせるのだが、これがなかなか難しい。スコップの大きいのを少しねじって太い柄につけたような鋤を使って田を耕すと、土はうまい具合に天地返しができるようになっていた。かなり重いものでもあったので、子供にはちょっと扱いにくかった。牛小屋の中にはには藁(わら)を5センチから10センチ程度に切ったものが敷かれていた。それを牛が踏み、そのうえに糞や尿をするので、それを堆肥として用いた。その堆肥の野積されたものを肥料として田や畑に素手でばらまくと手がつるつるになった。
 その牛の餌のために子供たちは朝早くから草刈りに出かけた。大きな粗い目の籠を背負って鎌を腰に差し田の畦や山の麓の草原に行って、草を刈るのである。朝露に濡れながら籠いっぱいの草を刈り、それを背負って帰るのは子供にとってはかなりハードな仕事であった。
 私の家の隣に種牛を飼っている家があった。普通の牛の二倍はありそうな大きな牛であった。大抵の家の牛は雌であった。時々繁殖のために隣の家に牛を掛けに雌牛を連れてきていた。その時は近所の人達も集まってきて、大がかりな牛のショウを見ていた。あんなに大きな雄牛の下になってはつぶされるのではないかと心配したものである。


・鶏を飼ってたまごを産ませる
鶏は放し飼いにするのが普通であった。ただ、夜になるとイタチが出没するので、夜は囲いがあって、止まり木も用意された鶏小屋に入れていた。日によっては鶏小屋から出さないこともあった。白色レグホン、名古屋コーチン、プリモスロックなどといった名前は懐かしい。たまごを良く産むのは白いレグホンだということで人気があり、肉としては名古屋コーチンがよいといわれていた。鶏を飼うのはペットではなく卵を産ませたり、肉を食べたりするためのものであった。
 私の家では10羽ほど鶏を飼っていたが、その世話はもっぱら小・中学生の私の仕事であった。餌には米糠やはこべなどの草、時々シジミを川から取ってきて、石でたたいてつぶして与えていた。貝殻などを全くやらないと卵殻のないぶよぶよした柔らかい卵を生むことがあった。
 昭和二十四、五年頃、卵を買う人が時々家に来た。その人に飼っていた鶏が生んだ卵を売るのである。その当時一個5円で買ってくれた。今の卵の値段と比べるとずいぶん良い値段であった。その当時、街では卵はどこくらいの値段で売られていたのだろうか。


・川魚の取り方
 これは子供が川遊びをかねて魚を捕る場合である。
 子供が川の魚を捕るとき、道具を全く使わずに、素手で取ることがあった。いかに手だけで取るかそれが腕の見せ所でもあった。水の深いところでは取れないので、せいぜい足のくるぶしくらいまでの水深の場所で、魚を見つけると手をたたいて魚をおどかしながら追いかけるのである。常に魚の行く手をふさぐようにして追いかけると、魚はたまらず石の下に隠れる。そこでそっとその石に近寄り、石の形をよく見て、魚の出入り口を両手でふさぎ、両手をすぼめていって魚を手づかみにするのである。子供の手に余るほどの魚が取れることもあった。
 水の中から草が生えているような岸辺で、ザルを使って魚を捕ることも子供たちは良くやっていた。(今の子供たちが普通に使っている網は何故かほとんど使ったことがなかった)。川下にザルを構え、川上の方から足でじゃぶじゃぶと草を踏むのである。すると草の下に隠れていた魚があわてて飛び出し、ザルの中に入るのをすばやくすくい上げるのである。その時はドジョウや小さなフナなどが多かった。ドンコだとかチチンコとよばれていた魚などもよく捕れた。ヤゴやいろんな虫もよく入っていた。


・サツマイモのための温床づくり
 サツマイモは寒さに弱い。そこで、サツマイモの保存は家の縁の下に穴を掘って籾殻(もみがら)を入れ、その中に貯蔵しておき冬を越させる。縁の下の籾殻の中は、外が吹雪になっているときでもかなり温かいのである。
 サツマイモの苗床造りは、早春のまだ霜の降りる頃からはじめる。できるだけ早くサツマイモの苗を作るためである。しかし、サツマイモは寒さに当てると腐ってしまうので、苗床は温床にする。まず、南向きで北風のあたらない畑の隅を、2メートル四角くらい土を掘りあげる。深さは50センチくらい。回りを板で囲いその内側に藁を立てて敷き詰め、底にも藁を敷く。そこに沢山の落ち葉や細かく切った藁を積み上げ米糠を混ぜて水をかける。その上に土をかぶせて何日かすると、藁や落ち葉が発酵して熱を出し温床ができあがる。この温床に手を置くと、ほんのりとした柔らかい温かさが伝わってくる。その上にサツマイモの種芋を植えると、春のかなり早い時期にサツマイモの苗が沢山できる。それを適当な長さに切ってサツマイモ畑に挿すのである。


・野菜作りのための肥料
 野菜などに与える追い肥はもっぱら下肥であった。肥担桶(こえたご)と呼ばれる桶に下肥をくみ取り、それを柄杓(ひしゃく)で野菜などの根本にかけていくのである。元肥としては草や落ち葉を積み上げて作った堆肥や牛糞などを用いたり、田の場合はレンゲを稲刈りをした後に作っておいてそれを鋤込んだりするのであるが、追い肥はもっぱら下肥であった。化学肥料はあまり用いていなかった。化学肥料を多く用いるようになるのは時代的にずっと後になってからのことであろう。


・イナゴ取り、沢蟹(さわがに)取り、田螺(たにし)取り
 稲が実る頃になると、イナゴが多く発生した。稲を食べる害虫であるが、焼いて食べると美味しいので、よくイナゴ取りをした。つかまえるとすぐ竹串などに刺していった。そうすると、そのまま火の上で焼くことができるからである。ちょうど焼き鳥の串のようにして火で焼き、しょう油をつけて食べた。
 川に行くと沢蟹も沢山取れた。火ばさみなどを使って蟹を捕り、バケツに入れた。それをゆがいてこうらごと食べた。雨の降った翌日などは特に多く取れた。
 田螺は田圃に多くいた。黒っぽい巻き貝である。ゆがいて串などを使って身を取り出し、佃煮のように炊いて食べた。


花祭り
  四月八日(うづきようか)は花祭り。灌仏会(かんぶつえ)といわれているが、お釈迦様の誕生日と伝えられている四月八日に村の寺でお釈迦様の誕生を祝う花祭りをした。四月八日といっても、旧暦(陰暦)の四月八日なので、今の暦では一カ月遅れの五月八日頃である。
  丁度その頃になると田圃(たんぼ)には蓮華が一面に咲いていた。牡丹(ぼたん)の花も丁度その頃に咲いた。花祭りというのは、お釈迦様を祭るための屋根の着いた家があり、その家を牡丹や蓮華で飾りつけたところからきているのであろうか。家といっても高さ50センチ位のもので、台の上に四本柱を立て、四方に流れる屋根をつけたものである。屋根の上の真ん中には牡丹が一輪置かれ、その周りの屋根には蓮華の花がぎっしりと置いてあった。その家の中にたらい(盥)を置き、そのたらいには甘茶がいっぱい入っていた。たらいの中央には金属で作ってあるお釈迦様像が安置され、お参りする者は、側に置いてある小さな竹製の柄杓(ひしゃく)を使って、そのお釈迦様にたらいの中の甘茶をかけてお祝いするのである。お釈迦様の像は20センチくらいだったろうか。お釈迦様は産まれるとすぐにすっくと立ち上がり、七歩あるいて一手を天にむけ、一手を地にむけて「天上天下唯我独尊」と唱えたと伝えられているので、その話に従って、お釈迦様の像は産まれたばかりの姿で、天と地をそれぞれ指さして立っておられるものであった。お参りがすむと、そのお寺で沢山作られている甘茶を薬缶(やかん)などに入れてもらい持ち帰った。
  当時は甘味料、砂糖はほとんどなかった。小豆であんをを作っても、砂糖の変わりに塩を入れていたりしたものである。従って甘茶は甘い飲み物としてよろこばれていたのである。甘茶の木はアジサイに似ており、その葉をお茶と同じようにして作った物である。


グミ、ゆすら梅、桑イチゴ、草イチゴ、やまなすび、通草(あけび)、イタドリ
  おやつといえば大抵はお菓子の類を思い浮かべるであろうが、その頃はお菓子にめぐり会えるという幸運はほとんどなかった。子供たちのおやつの役目をしたのは、果物類であった。柿や栗、ビワ、イチジクなどはよく知られているものであるが、庭の隅に植えられているグミ(赤い実が鈴なりになり、見た目も美しく、食べても美味しかった)、ゆすら梅(サクランボの小さいもののような実で味もサクランボに似ている)も美味しくて人気があった。蚕(かいこ)を飼っていたので、その餌にするために桑の木が畑に沢山植えられていた。大抵は葉を摘むのに便利なように、木が大きくならないように仕立てられているのだが、ところどころに大きな桑の木もあった。そのような木には桑の実が沢山なった。濃い紫色の実は食べると口いっぱいに甘味が広がり、大変美味しかった。
  畑の畦(あぜ)などには草いちごがなっていた。オレンジ色の実は少しすっぱみがあってさわやかな味であった。山に行くとやまなすび(1センチくらいの実で、なすびと同じ色をしており、ブルーベリーの仲間かと思われる)をよく食べた。通草(あけび)もあの独特の甘さにひかれてよく探しに行った。通草はその甘さを楽しんだ後、種を一気にブーと口から飛ばすのがまたなんともおもしろかった。  イタドリは「だんじ」と言っていた。美味しいというほどのものではないが、皮をむいてほおばると、ちょっとすっぱみがあって、さわやかな味がした。


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作成 : 大西堯哉