奥久慈特産 粉蒟 (戻る)   

蒟蒻(こんにゃく)の原産地は・・    インドシナあたりと言われています。日本には、 仏教といっしょに中国からとか、また縄文時代のころ、東南アジアから島伝いに日本に、 サトイモといっしょに伝来したとか言われています。 

粉蒟(粉こんにゃく)とは・・   現在の蒟蒻芋の主生産地は、群馬県ですが江戸時代の後半ごろは、茨城県(常陸国・水戸藩が山間傾斜地での換金作物として栽培を奨励したため、現在の常陸大子町、常陸大宮市北部)が、蒟蒻芋の大生産地でした。当時 蒟蒻芋は、生玉蒟と呼ばれ生いものまま流通していました。重い上に腐りやすく保存が難しかったため、収穫される秋冬にしか食べられない旬の食べ物でした。常陸の国・諸沢村(常陸大宮市北部)の農民、中島藤右衛門が、芋をうすく切って乾燥し(荒粉)、それを製粉し(蒟蒻精粉)、こんにゃくを製造することを考えました。 これはこんにゃく作りの大発見大発明で、乾燥することにより重い重量を減らし保存することを可能したのです。そのため一年中こんにゃくを製造し消費することができるようになり水戸藩の蒟蒻製粉は、全国に飛躍的に広まり消費されるようになりました。 幕末、各藩が財政難に苦しむ中、水戸藩の財政は、蒟蒻によりおおいに潤ったと言われています。そのためか、当地奥久慈地方の一部、保内郷地区の農家では、蒟蒻生芋は、 生芋こんにゃく(生玉蒟) 蒟蒻製粉は、精粉こんにゃく(粉蒟)と、区別されて呼ばれています。

この蒟蒻による莫大な資金は、明治維新に向かう幕末動乱期の大きな軍用資金となったと言われています。袋田村(現在の大子町袋田)の桜岡家には、桜田門外の変(大老 井伊直弼 襲撃)を起こす関鉄之助に、決起前の江戸潜伏中に軍資金を袋田村よりの道中、大金を疑われないように渡すために やかん(お湯を沸かす) に入れて隠し運んだという 高さ、直径とも一尺二寸(三十六センチ強)の銅製おおやかん が現在も保管されているそうです。

万延元年(安政7年) 1860年 桜田門外の変  

文久二年        1862年 坂下門外の変

元冶元年        1864年 天狗党の乱

水戸天狗党とは・・   鎖国日本が、近代日本へと開国の道を動き出した徳川幕府末期の幕末動乱期 水戸脱藩浪士による「桜田門外ノ変」から4年の元治元年、水戸藩士 藤田小四郎らにより 「尊王攘夷の志のもと」 筑波山で挙兵され ”攘夷の魁”となるという 前水戸藩主徳川斉昭公の意思を胸に ここ常陸大子村に集結し 斉昭の子 一橋慶喜を慕い京都に向け大進軍 (水戸前藩主徳川斉昭の位牌を心霊と仰ぎ先頭に掲げ、前水戸藩士二百六十余人を前列に一行千余人、騎馬武者二百余騎、小荷駄の馬五十頭を超す長い列*参考吉村昭著天狗騒乱)を決起した。

筑波山で挙兵した中の 過激派(栃木宿焼き討ちの首謀者) 監察 田中原蔵 は、常陸太田市(旧水府村東連寺下平)の猿田家の五男として生まれた。筑波山で挙兵後田中隊は、水戸藩及び幕府軍との戦闘を繰り返し再起を図るべく天狗党本体の前に大子に入り 八溝山に集結したが、隊士たちの心労もひどく食料の調達もままならぬため、山頂付近で解隊を決意した。田中は、たずさえてきた軍用金を隊士に分配し各自、自由行動をとり下山潜行し、再びの決起をと訓示としたと言われている。下山した三百余名は捕らえられ斬首の刑に処せられたと言われています。田中自身も塙代官所に捕らわれ塙の刑場 久慈川湖畔で斬首された。時に21歳であった。天狗党本体はその後大子の宿に入りここより 京都に向け大進軍を決起した。

絶命の辞  霜に染む 樹々の梢の錦より いと珍しき 谷の松が枝

刑死の地 塙の安楽寺には墓碑が、刑場跡には碑が建立されています。明治維新四年前に散った、郷土の生んだ若き熱血漢    田中 原蔵 のお話です。