4 臘扇時代
4 臘扇時代


3 石水時代

(垂水での療養から本山改革運動へ、そして運動の座礁)
   ( 清沢満之 略年表も参考にどうぞ。)

 満之は、同年(明治27)の6月3日、父永則とともに、結核療養のため垂水の浜に引き移っ
た。本人が回想するとおり、不治の病結核は、満之に否応なく「死」を意識させ思想(信心)の
大きな転換点なる。(「当用日記」明治35年3月26日参照)

 さて、当時、本山は多額の借財を抱え、なおかつ、禁門の変で焼失した両堂(御影堂・阿弥
陀堂)の再建という大事業に、没頭していた。
 明治20年当時の負債総額は330余万円。これを執事の渥美契縁が様々な方途によって、
明治25年には208万円に減少、ついに26年末には返却し終わっている。
 さらに、両堂再建も明治12年に着手し、28年には現在の大伽藍を落成している。
 執事渥美契縁の手腕、並びに、その強行さは容易に想像される。
 まさに、この2大事業に宗門全ての心血がそそがれたのである。

 しかし、東京大学在籍時代から、さまざまな形で宗門の教学に対する活動をしてきた満之に
は、本来の教化・教学事業が二の次ぎにされたことが許せなかった。

 満之の教学に対する活動は、中学校校長赴任から積極さを増し、当初は宗門の新学事体制
の構築に力がそそがれた。「教化・教学こそが宗門のいのち」であると、志を同じくする者と(便
宜上、以下「改革派」と呼ぶ)伏魔殿とさえ言われた本山の複雑な宗門機構を動かし、1894年(明
治27)には『本山寺務報告』号外という形で新学事体制の発布までこぎつける。
 満之は、結核療養中の垂水で、これを喜んだという。

 ところが、新学事体制は、中学寮生のストライキという意外な事件から破綻してしまう。発端
は些細なことであった。新学事体制によって改革派を中心とした人事が行われ、そこで学校の
規則が変更された。中学生は、この規則が厳しすぎると反発したのである。具体的には全寮
制、長髪禁止、制服は法衣などの規則であり、反抗した中学生から退寮者が続出した。学校
側は、苦悩の上、やむをえず退寮者を全員退学とした。
 しかし、ここで、渥美契縁が本山教学部長として全員復学許可という独断専行を行う。これ
は、本山からの学校の独立と教師の職権を著しく侵すことを意味する。
 さらに、この後、改革派は、一方的にストライキの責任を問われ厳しく処罰される。
 ここに、新学事体制は事実上崩壊し、渥美契縁を執事とする本山当局と、満之の溝が深まる
こととなる。

 満之は、1895年(明治28)4月の両堂落成の後を狙い、7月1日には垂水を引き払い7月
9日に、執事渥美契縁あてに「寺務改正の建言書」を提出する。
 ここで、寺務所内で立法と行政の二府厳密に分け、行政においては執事の各部長兼任をや
めて、専任部長を置けということを明確に迫った。
 これは、理想の学制がとりもなおさず理想の教団の実現となるという満之の切なる思いの発
露であり、とりもなおさず、執事渥美契縁に対する体当たりである。
 これに対し、渥美契縁は9月20日寺務所機構の全面改定を行う。なるほど、議制局(宗門の
議会)も制定された。しかし、議員にあたる賛衆20名は本山の特選によるものであり、その半
数が執事以下の寺務所役員であった。つまり、形だけは建言書にそったように見えるが、その
内実、精神は全く無視されたものである。

 そして、翌1896年(明治29)1月に発表された「本山教学資金積立法」決定的な対立を
生むこととなる。これは、布教勧学を名目として380万円の寄付を集め(この名目通りでも、先の二
大事業に疲弊しきった門徒を無視するものであるが)、このうち60万円を新たに発生した負債の返却に
流用する意図があった。
  これに対し、満之は、同年(1896年)10月10日、京都の(洛東)白川村233番に「教界時
言社」を設立しここに篭居する。社員は、今川覚神・稲葉昌丸・井上豊忠・月見覚了・清川円
誠・清沢満之である。
 世にこれを「白河党」と呼んだ。目的は全国世論の喚起にあった。

10月30日には、雑誌『教界時言』第一号が発刊される。
 そこには、まず『教界時言発行の主旨』として
    「大谷派本願寺は、余輩の拠って以って自己の安心を求め、拠って以って同胞の安心 
     を求め、拠って以って世界人類の安心を求めんと期する所の源泉」 と、運動の根本
にある教団の理念を真正面に掲げる。
 次ぎに、『大谷派の有志者に檄す』と題して檄文を載せる。
 それは内事不粛・財政紊乱・教学不振の三つを烈々と訴えるものであり、中心は教学の再興
であった。
  (なお、内事とは法主及び大谷家のことをさす宗門用語であり、当時法主の品行と、伯爵を
   受けことが世間から強く非難されていた。)

 白河党の動きは、ジャーナリズムがとりあげたことと、なにより真宗大学の学生の働きによっ
て、急速にひろまる。また、教団長老の学者も強く白川党を支えた。
 そして、全国の寺院・門徒がこれに応えることとなり、巨大な改革派勢力と成長する。
 
 ついに12月29日渥美契縁は10年に渡る執事の座を譲ることとなる。
 明けて、30年1月8日には教界時言社を堺町通二条に移し、「大谷派事務改革派誓願寺務
所」を設けた。しかし、法主に請願書を提出するのに本山側の思わぬ抵抗があった。そこで、
内部的に結合をはかりなおすため、2月13日に「大谷派革新全国同盟会」を結成する。
 しかし、翌14日に本山から改革指導者の処分が発表され、満之をはじめ教界時言社6名が
除名とされる。その後やっとのことで本山との交渉が進み、2月18日に「門末会議の開設」を
目玉とした請願書を法主に捧呈できるのである。

 ところが、請願書捧呈という目的を成し遂げた改革派は、やがて内部分裂を起こしていく。
あまりにも性急に大きくなりすぎたためか、はたまた改革が性急過ぎたためか、具体的目的を
うしなって、思惑がばらばらになっていくのである。
 また、渥美契縁の後、渥美と同じように大政治家である石川舜台が上席参務につくが、その
手腕?もあったであろう。

 そして、自ら勝ち取った新議制局会議も大混乱の失態を演じ、加えてさまざまな勢力(貫練会
など)からの攻撃により1897年(明治30)11月9日、一年で「大谷派革新全国同盟会」は解散
となる。

 思えば、京都中学校長就任から10年の歳月をかけ、一度は念願なるかに見えた満之の思
いは急転直下ここに暗礁したのである。

 当時の満之の思いは次ぎのように伝えられる。
   「・・・実は是だけのことをすれば、其の後には実に何もかも立派に思ふことが出来ると思
    ってやったのだけれども、然し一つ見落としがあった。それは小部分の者が如何に急い
    でもあがいても無駄だ。よし、帝国大学や真宗大学を出た人が多少ありても、此の一派
    ――天下七千ヶ寺の門末――のものが、以前のとおりであったら、折角の改革も何の 
    役にもたたぬ。初めに此のことがわかって居らなんだ。
     それで、これからは一切改革のことを放棄して、信念の確立に尽力しようと思ふ。」

 結果としては、失敗とも言える改革であったが、仏教、具体的には真宗大谷派(満之がいう
「大谷本願寺」)とは何を目的とした教団であるかを闡明にした改革といえる。当時のみなら
ず、後世にとっても大きな意義をもつものである。
 
 満之は、まさに心身ともに傷だらけとなって三河の西方寺へ帰っていくこととなる。35歳の暮
れのことであった。

4 臘扇時代
4 臘扇時代


トップへ
トップへ
戻る
戻る