理科離れに関するいくつかの問題

武竿久雄(PostDoc生物系)


 理科離れの話題が相変わらず盛んであるが,どうもその原因論がいまひとつしっくりこないように感じる。"理科離れとその原因"といった抽象的な問題の全体像の把握は容易ならざることは承知だけれども,若い世代からの感覚として,説明を試みたい。

 私見では,理科離れの根本原因は,学校教員の教授方法や,大学入試,文部科学省の教育政策だけにあるのではなく,その外側にも存在する。とくに,まだ"理科"という言葉も区分も知らない幼年期にどのような環境に育ったか,という部分に大きな原因があると見なしている。そのことの具体例を挙げ,理科離れ解決への方策を模索する。

【理科離れとは何か】

 理科的な事象に興味を示さない,理系への進学意欲を示さない,大学生になっても理科に対する基本的素養がない,あるいは,理科的な物事の関連が理解できない,事実を積み重ねていく思考ができない,はては簡単な計算ができない,という現象を我々は"理科離れ"と呼んでいるのではないかと思う。

 日本では大学受験という過程において,世界でも特異な「理系・文系」という区割りがある。この区割りのせいで,「理系」に興味を示さない者や,「理系」でありながら科学の素養がない者の増加が統計上でも表面化しやすくなっている。

 では,理科離れとは具体的にいったい何か,と問われると,どのような答えがあるだろうか。筆者の答えは,

「理科離れ=学習意欲の総合的低下」

である。あえて"理科離れ"という言葉を使わない方がよいと感じている。

 日本での大学入試システムを見ると,理系学部では理系科目の試験を必須とし,文系学部では文系科目を必須としている。大学受験生なら誰でも知っていることだが,この入試システムにおいて,理系進学を能力的な問題から諦めた人は"文系"に鞍替えする。その逆,つまり文系進学を能力的な問題から諦めて理系に進学する者は極めて希である。実際にはそんな考え方自体がほとんどないと言って良い。進学を希望する大学受験生のうち,理系に関心がなく,文系にも実のところ興味がない者は,そのほとんどが「文系」に進学するのである。つまり,理科を離れた者には文系という受け皿が用意されているが,文系を離れたい者には「文系の別の分野」が受け皿になる。

このことが何を意味するかというと,「理科離れ」は目に付きやすいけれども,文系離れは見えにくい,ということである。現在,「理科離れ」と表現されている事象は,「学習意欲が総合的に低下したことにより理科的なものに興味を持続することができず,その結果として不本意ながら文系指向にならざるを得なかった人々の増加」と捉えるべきだろう。

このような捉え方は重要であると思う。「理科離れは受験教育に問題があった」とか「文部政策に原因がある」といった,まるで教科としての理科側だけに問題があるかのように錯覚することを防げるからである。理科離れが起きているところでは,文科系離れも当然起きている(!)はずなのである。

【理科離れの原因】

それでは,現在の人々の学習意欲が低下し,結果として理科から離れていく人が増加しているのはなぜなのか,理科に限定して考えを進めてみよう。理科的指向性を生み出す上で最も重要なのは,子どもの置かれた場と時間である。現代の子どもは,場・時間ともにその多くを奪われている。

1)テレビ視聴時間の増加: 現在の若者は幼少の頃からテレビを見続けている。テレビ視聴(及びコンピュータゲーム類)によって失われた"創造的作業時間"は計り知れないだろう。科学番組というものもあるが,それらが理科への興味を増す材料になることになるとは思われない。ただ単に「もっと面白い理科(科学)番組を見たい」という興味が増すだけである。もしテレビ視聴によって理科そのものへの興味が増す人がいたとすれば,その人はもともと理科への興味を持っていた,科学番組が理解できる人である。テレビ時間の増加には家庭環境が深く関わっているであろうから,子どもが自発的にテレビ漬けから抜け出るのは容易ではない。

 幼少期には膨大なヒマがある。このヒマな時間をいかにしてつぶすかが子ども時代の重要なしかも創造的な課題である。「次に何をするか」を考え続けた退屈な幼少期を思い出す方々も多いのではないだろうか。このときに昆虫採集でもラジオ分解でもよい,興味・関心の任せるがままにヒマをつぶすこと(原体験を重ねること)が極めて重要であり,この体験が以後の興味・関心形成に決定的に関わってくる。"理科少年"あるいは"理科的指向性"はこうして生まれる。そして「ああ,あのとき楽しかったな」の思いが将来の勉強や研究の動機になってゆくのである。

 理科的発想を自由に使いこなし,科学的な判断を適切に働かせながら充実した生活を過ごしている人は研究者に限らずたくさんいる。これらの人々から話を聞くと,すでに小〜中学校のときに自発的に電子回路を製作したり,カメラを作ったり,気象観測を行ったりと,理科的に重要な体験をしており,それらの体験が忘れがたい記憶(理科ごころ?)となり以後の進学や就職に大きな影響を与えているという。大事なことは,この理科的に重要な体験というのは,学校の授業時間以外に経験される可能性が高いということである。自身の興味関心を動機として創造的に物事に取り組んでいるからである。

 テレビ視聴はこのような子どもの興味・関心の形成に必要な時間を奪い,創造性の萌芽に対して悪影響を与えている。与えられ続けるテレビの垂れ流し情報を浴びているだけでは,有用な情報を選択的に取り込む能力はなかなか身に付かない。

2)遊び場の減少: テレビ視聴に連動して深刻な問題は,遊び場の劇的な減少である。1955年から1990年の間,都市部における子どもの遊び空間は1/40に減少したという。広場がなくなり,空き地がなくなり,河川は塞がれ,道路はクルマで占有された。この結果,子どもは屋内に封じ込められるようになった。これに連動してテレビの視聴時間は増加し,また,コンピュータゲームは爆発的に増加するに至った。この結果,子どもの遊びはモニタに応答する単調なものとなり,屋外で多様な体験をする機会が奪われていった。

3)カネを何に使っているか: つくづく不思議に思うことは日本の親の子どもに対するカネの使い方である。私立の保育園,小中高の学校,塾,受験勉強,大学に多額の投資を惜しまない親は多い。子どもにせがまれればゲームも買ってあげる。しかし例えば望遠鏡や顕微鏡−玩具の類ではない−を買ったりする親の話はあまり聞かない。小学生であれば,月に数万円かかる塾に一年間通えば数十万円の出費である。一方,数十万円の上等な望遠鏡・顕微鏡といくらかの図鑑類があれば,かなりの確率でさまざまな理科に関する知識・体験が自然と得られるであろう。どちらの教育力が大きいかは一考に値すると思うのは筆者だけであろうか。なお,念のために書いておけば,筆者は望遠鏡や図鑑などを「買い与えよ」と言っているのではない。子どもの周囲にそれらのモノが自然な形で存在していること自体に意味があると言っているのである。日本の親の多くはこのようなことをせず,塾に多額のカネを払い,同時に子どもから自由な時間を奪っているのである。

4)親が理科に興味を持っているか: 子どもの興味・関心を育てる上で重要なことは,傍らに,子どもの感動に共感できる人が存在することである。学習意欲の育成は教育機関だけでなされるものではない。家庭環境も重要であることは論を待たない。現在の親は理科的事項に興味を持っているであろうか。テレビなどのメディアに時間を奪われていないだろうか。

5)間接体験の先行: 現在は何でもメディアを通じて把握できる時代である。自分が行う体験の多くはすでにテレビを通じて知っている。このことが生の体験の新鮮な驚きを失わせ,「テレビと同じだ!」という程度の「感動」に格下げされ,直接体験として認識されるべきものが,テレビのメディア体験類似のものとして整理される可能性が増していることを指摘しておきたい。

6)目的意識の喪失: 宇宙開発にしろ,ヒトゲノム計画にしろ,その全容と意義をつかむのにかなり専門的な知識を要する。その専門的な知識を得るための動機をどこに求めたらよいのであろうか。これは「理科離れ」とされている子どもばかりでなく,オトナにも聞いてみたい問題である。

 要するに,現在の理科離れは,「理科好きになるには条件が悪い」社会の現状を反映した当然の結果である,というのが筆者の認識である。地力の落ちた畑によい作物は育たない。経済活動を通じて,理科少年の芽が育つはずの畑から地力を吸い尽くし,荒廃させたのは我々なのである。しかも我々が子どものどきには,十分な遊び場もあり,メディアに時間を奪われ過ぎることもなかったから,理科的素養を自然と身につけることも困難ではなかった。その我々が,「近年の学生は学力が落ちた」などと評価する資格があるのであろうか。子どもの理科離れを案じている人は,ぜひ現代の子どもが置かれている状況に目を向けて欲しい。教育政策の批判ばかりでは,それ以前の段階の問題が見えてこない。(なお,ここでの指摘は理科離れに限らず,学習意欲の低下の原因としても概ね当てはまるであろう。)

 この社会状況では,教員がどれほど理科教育に力を入れようとも,卓効は望めないように思われる。教員の役割は主に理科的なものに興味を示した子どもを伸ばしてやることであり,理科的な興味を子どもの内側に生じさせることまではなかなかできないからである。

【理科離れの陰で】

 理科離れ,という言葉を鵜呑みに信じてはならない例が幾つかある。そのよい例はコンピュータ分野である。web上には個人が作った無数のソフトウエアが存在している。これらのソフトウエアの多くは個人が自由な発想の下,独学で作り上げたものである。学校で習ったわけではない。それらのソフトウエアの普及状況を見ると,特にフリーウエアにおいて,「個人が何らかの形で社会に貢献したい」という意欲が見て取れる。

 現代の環境は,理科的指向性を広く育てるものとしては不向きだが,パソコン的指向性を育てるものとしては明らかに整備されてきている。若い人たちはそのことを敏感に感じ取り,パソコン的指向性を自ら育て,社会に貢献しようとしている。我々は「理科離れ」とか「大学生の能力低下」などと大声で叫ぶばかりでなく,場の状況に応じて柔軟に対応している彼らの姿も評価すべきであろう。

 個人の指向性や才能を伸ばすために,周囲の環境がいかに大切かは,この例で分かるであろう。

【理科離れを支える原因】

 自発的体験の欠如が理科的指向性を生み出さない原因になっていることを上で述べた。学校における理科教育は,その一部においてこの理科離れを支えている。理科離れを支える最たるものは「教科書」である。理科に限らず,日本の多くの教科書は簡素すぎる。読んで理解できるように書かれているとはとてもいえない。生徒用の教科書では説明は不十分であり,イメージの付与もままならない。一方,教員用の教科書では詳細な説明が施されており,この知識の落差を利用して,(一部の)教員は安心して権威を持って授業に臨めるのである。その構造を文部科学省は温存している。

 このような事情から,多くの学生・生徒は特に理数系において「参考書」を買い求め,実際の理解には参考書を利用している。しかし授業では原則として教科書を使う(ことが多い)ため,学生・生徒はわざわざ理解しにくい教科書を目の前に授業を受けるのである。文部科学省検定済みの教科書を無視し,自前の教科書を使って分かりやすい授業を繰り広げる良質な教員は,決して多いとはいえない。

 問題なのは,学生・生徒の多くがこのことに気が付いていないことである。そのため,理科が理解できなくて興味を失っても,それは教科書が理解できない自分が悪いのだと思いこんでしまう。本人に必ずしも責任がないのに苦手意識を持ってしまう−このようなことが繰り広げられている。文部科学省はこの状態を勘違いし,「もっと簡単な」教科書を作成しないと生徒は「理解」できないと思いこんでいる。

 反対である。本当に必要なのは,あらゆる角度から詳細に説明して,何とか理解してもらおうという立場から書かれた分厚い教科書である。なぜ3X+7Y=kとおく必要があるのか,このように置き換えるとどうして方程式が解けるのかくどくどと説明した教科書が必要である。なんで銅をCuと略し,窒素はNなのか,納得のいく説明をすることが必要である。簡単すぎると却ってイメージが貧弱になり,理解しにくくなるものである。「イオン」という言葉を教科書から削除し,円周率を「3」と略記することを認めて教科書の習熟度を上げようと試みた文部科学省は,現代の子どもを愚弄している。昔の子どもが理解できた事柄は現代の子どもでも理解できる。ヒトとしての脳細胞の変質が起こったわけではない。子どもを取り巻く状況が変化しただけである。文部科学省はそこを理解していないように見受けられる。これだけ多種の情報があふれ,またそれにアクセス可能になってきている時代に,できるだけ少ない情報で記述された教科書を作成することにどのような意義や根拠があるのだろうか。

 そしてこの教科書問題をさらに補強しているのが大学入試システムである。理解しにくい教科書で「勉強させられ」た上に,その"理解度"を入試により試され,合否判定という序列がつけられる。教員は生徒が大学に合格することができるように,それが学問とは遠いことを知りつつも,教科書の内容を一生懸命に教える。大学入試の名目の下に半ば強制的に勉強させられた生徒の多くは,受験勉強の理科が学問であると思いこむ。魅力を感じなかった生徒は文系指向になり,化学の得意な生徒は化学系に進学しようとし,物理が得意な生徒は物理系に進もうとする。理系の大学に進学して,そこで初めて高校の勉強から想像していた大学像が誤っていたことに気づく・・・。何をすればよいか分からず,目的を喪失する。こんな例がずっと繰り返されてきた。このような状況も,理科的指向性が育ちにくい原因となっているのではないだろうか。

【環境社会主義で理科教育は再生するか】

 最近,環境社会主義によって理科(科学)離れを防ごうという考えが発表された(佐々木力,科学2000年11月号)。われわれが解決しなければならない資源・環境上の問題に正面から取り組むことにより目的意識が明確になり,子どもの自発性が出る,という考えらしい。これは環境教育の一環のようにも見える面白い考えであるが,筆者の目からはこれが簡単には成立するとは思えない。以下にその理由を述べる。

まず,問題解決を動機として理科好きになる,という考え自体が成立するか怪しい。環境問題には,年長世代が汚染を起こし下の世代がより大きくその被害を被るという構図が存在している(世代間の不公平)。これは地球温暖化や放射性廃棄物,エネルギー資源問題などすべてに当てはまる。汚染者負担の原則を持ち出すまでもなく,環境に生じた不利益は,それを発生させた者が解決すべきである[1]が,多くの資源・環境問題ではそれができない。したがって年下世代は常に年長世代の"尻拭い"をすることになるわけである。児童・学生とて同じ人間である。資源・環境問題という年長世代の"尻拭い"をするのに大志を抱くことが果たしてできるのであろうか。最低でも,現在の年長世代が全力を尽くして資源・環境問題に立ち向かっている姿を年下世代に示さないことには,環境問題の顕在化している不幸な時代に生まれた年下世代からの同意は得られないであろう。

 次に,すでに述べたことであるが,体験の欠如の問題がある。もし環境問題を解決したいのなら,守るべき(戻すべき)望ましい環境を知っていなければならない。しかし多くの子どもはすでにそのような認識を得る機会を失ってきている。カネのためなら自然環境の開発行為を厭わなかった年長世代もすでに「守るべき望ましい環境」という認識は希薄なのかもしれない。これらの認識は,環境への取り組みの動機形成に関わる部分であるからきわめて重要である。この動機形成が不十分なままだと,知識をいくらつめこんでも頭でっかちになるばかりで興味も関心も長続きしないおそれがあろう。

 さらに,技術偏重による弊害がある。佐々木氏は,小宮山宏の「地球持続の技術[2]」を高く評価し,この地球持続の技術という「目標」により科学への関心を高め,地球環境問題を技術で乗り切って行こうと呼びかける。しかし筆者は,この方策の有効性は疑わしいと感じている。小宮山氏の論ずる「地球持続の技術」が「地球持続」とあまり関係のない改良技術の寄せ集めで,これを実行しようとするとどのくらいの時間とエネルギー・資源を使うのか,技術開発への投資も含めると本当にエネルギー節約的になるのかという疑問もあるが,それは小さな問題である。

 現在,地球上では全人口の10パーセント足らずの先進国の人々によって全消費エネルギーの90パーセントが使用されている。将来を展望すると,幾つかの低開発国でこれから本格的に高度消費社会が訪れるものと予想される。だから先進国で小宮山氏の言うビジョン2050による政策が成功を収めたとしても,地球人口の増加と一人当たりエネルギー消費量増加の前には無力である。環境社会主義によって科学への知識・興味を復活させ,資源・環境技術により将来への展望を開こうとするのなら,"ぼくらの取り組みは大成功だ,しかし地球環境は悪化した"という結末が訪れる可能性が非常に高い。この「努力した。しかし報われなかった」という現実に直面したら,誰しも取り組みへの動機は薄らぎ,努力は持続しないであろう。したがって佐々木の言う「生き甲斐を見いだしうる科学や技術」にはならないと思う。このようなことから,資源・環境対策を動機とした理科(科学)教育という考えには賛同しがたい。

【時間をかけて実効性のある対策を】

 理科離れへの対策が一筋縄にはいかないことを長々と書いた。ではどうすればこの状況を打開できるかを考察してみたいが,じつは具体策はない。強いて言えば筆者が本稿前半で述べたような問題群への取り組み,つまり場を整えると共に,学校教育・入試制度の見直しをすることが理科離れ防止への根本的な対策であると考えられるが,社会の現状を見ると実現可能性は乏しいと想像される。ではそのようなときに我々はどうすればよいのか?。一つは「じっくり考える」ということである。四方八方ふさがれたときに,闇雲になにかをするというのは考え物である。そのようなときは何もせずに方策をじっと考えるのは立派な対策である。

 とりわけ大切な考察課題は,科学と技術の関係についてであろう。科学研究の最先端の成果を技術に応用し,それを産業に役立てる,というような人間生活から遠く離れた現在の科学と技術のあり方が,今後も若い人たちの科学への動機付けとして有効に機能するかどうか,社会学的な考察が望まれる。同時に,幼少期にどのような体験や時間の使い方をすれば理科への興味・関心を豊かにすることができるか,子どもを取り巻く環境と興味形成に関する調査も行われる必要があるだろう。そして最後に,−これが最も重要と考えているのだが−年長世代の徹底した反省である。

20世紀後半は確かに科学技術の時代であった。しかしそれは,貴重な資源を湯水のように投入して行われた一夜の饗宴のようなものであったと考えられる。この饗宴が終わりを告げるとき,後に残るものは何か,残すべきものは何か。子どもの遊び場を1/40にまで減らして,誰のためのどんな饗宴が行われたのか。結果として私たちの子どもに何が起こったのか。これからはどのような社会を目指すべきなのか。科学技術のあり方のみならず,我々の生活すべてについて過去を振り返るのは,理科離れが叫ばれる今がチャンスだろう。

最後に,理科好きが増えたら何の問題が解決されたことになるのか,と疑問を呈しておきたい。何のために理科好きが必要なのか,現時点では決して自明ではないと筆者は思う。まさか放射性廃棄物の永年管理や地球環境問題解決のためではあるまい。すでに述べたように,それらはまず年長世代が取り組む仕事である。それでは理科好きを増やすことの目的は何か?。それは,社会のためでも環境のためでもなく,個人の知的生活を充実させるため,人生の選択肢を増やすため,であって欲しい。健全な社会はその上に構築される。この「まっとうな」目的を理科離れへの処方箋の根底に据え,対策へのタイミングを見計らい,国民的な議論を行わないことには,状況の打開は難しいと思われる。

(2000.11.8, 2002.6.4 改)

1)奥 修:環境教育 第三巻二号
2)小宮山宏:地球持続の技術,岩波新書(赤647)



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