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<寄稿・書評論文>

ビョルン・ロンボルグ著 『環境危機をあおってはいけない』
The skeptical environmentalistに関する幾つかのコメント



奥 修*1
http://www.nextftp.com/musaokuo/skeptical.htm
(2004年4月16日HTML版・2004年12月2日PDF化に際して一部加筆・2005年1月27日最終稿)

*1 環境管理技術研究部門 地球環境評価研究グループ 客員研究員
〒 305-8569 つくば市小野川16-1 産業技術総合研究所 つくば西事業所










平成17年2月
平成16年度 大気圏・水圏における粒子状物質の挙動に関する報告書(AIST 04-J00026)
独立行政法人 産業技術総合研究所 環境管理技術研究部門 地球環境評価研究グループ

別刷






ビョルン・ロンボルグ著 『環境危機をあおってはいけない』
The skeptical environmentalistに関する幾つかのコメント

奥 修

http://www.nextftp.com/musaokuo/skeptical.htm
(2004年4月16日作成・2004年12月2日PDF化に際して一部加筆・2005年1月27日最終稿)


 <要約> 本書は数多くの環境問題を公式統計で検証したものとして他に類を見ないものである。豊富なデータは資料的価値があり,従来漠然と語られていた地球環境問題の平均像をある程度のデータに基づいて概観することができる。実際の状況は人々が思いこんでいるほど悪くないことも示される。また過去から現在までの環境問題の改善の歴史を概観し,将来も繁栄は続くとし,水質汚濁や地球温暖化などの意義の少ない環境対策への投資を行うべきではないとの結論を費用便益分析から導いている。本稿ではこれらの主張を吟味し,著者が主張する内容が妥当かどうかを検証した。その結果,少なくとも著者の言うエネルギー展望は成立せず,水質汚濁や地球温暖化への取り組みについても別の考え方があることが示された。





1 はじめに

本書『環境危機をあおってはいけない』(ビョルン・ロンボルグ 著(山形浩生 訳),文芸春秋, 2003.6, ISBN 4-16-365080-6, [原題:The Skeptical Environmentalist]-疑い深い環境保護論者たち)においてロンボルグは,豊富な公式統計を用いて次のように主張する(筆者要約)。

 
近い将来に地球環境が破滅するなんて嘘だ。根拠なんてありやしない。でもみんながそう思っているのは,環境に関するセンセーショナルなニュースだけが選別されて流されているからだ。事実をよくみようじゃないか。森林がなくなりかけているなんてのは根拠がないし,大半の公害だって昔の方がひどかった。農薬がガンを引き起こすリスクは問題にならないほど低いし,ゴミに埋もれるというのも幻想だった。まったく人類は本当によくやってきたものだ。様々な問題は改善されて,上下水道は整備されてきているし,食べ物は十分に生産・供給され,医療は進歩し,使った以上の化石エネルギー資源を見つけることができるようになった。環境改善の技術は次々と進歩発展してうまく作動している。省エネ技術や自然エネルギーの開発も順調だ。おかげで人類はかつてなく豊かになった(経済成長)。一方で環境はだんだんよくなってきており地球が破滅に向かうような徴候は少しも見られない。つまり大きな規模でみれば,人々の暮らしはどんどん改善されて所得も増したのに,大気汚染や水質汚濁などの環境問題も同時に解決できたのだ。  もちろんこのサクセスストーリーは続くだろう。だって僕たちは絶えず技術改良を続けてきたし,これからだって続けていくだろうから。確かに化石エネルギーだって将来はなくなるだろうけど,市場の動向にまかせておけば,化石エネルギーの価格が高騰するにしたがって太陽光発電などのクリーンエネルギーは間違いなく競争力を持ってくるし,核融合や他の自然エネルギーも有望かもしれない。あるいは僕たちがまだ知らない優れたエネルギー源かもしれない。しかし将来のぼくたちはもっと豊かになっているし,消費レベルを落とすことなくそれらの新しいエネルギーに移行できることは確実だろう。  一つ問題として残されているのは地球温暖化で,これは確実に起こるであろうが,その度合は予想されていたよりもずっと遅いことが分かってきたし,対応不可能なほどの災害を起こすかどうかも不明確だ。そればかりか,場合によっては好ましい効果さえある。二酸化炭素の削減はカネがかかる割にはちっとも効果がないことが冷静な費用便益分析から明らかになったので,現時点での知識という限定条件であることを認めた上でいえば,莫大な費用をかけて二酸化炭素の削減を行うべきでなく,その費用は途上国の教育・福祉・環境対策と二酸化炭素を排出しないクリーンなエネルギーの研究開発に振り向けられるべきだ。データを見る限りそれが現実的に最善なのではないか。将来を心配するのはわかるけど,効果がないのにカネをかけても仕方がない。現在の繁栄が続くように最適なカネの使い方を考えよう。


 この主張にはすべて根拠となるデータが提示されており,そのデータを説明している部分には説得力がある(敵を撃破する形で書き進められているのが気に入らないが)。廃棄物問題や水質汚濁など,おかしな考察を行っている部分も散見されるが,データを示して自説を展開しているので議論の正否が判断できるところもよい。分野に限らず将来への展望は楽観的に過ぎるように思うが,推測に頼らざるをえないのだから情状酌量の余地もある。それに,たとえば1950年から現在を予想したとき,現在の繁栄が予想できたであろうか。たぶん当時の楽観的な人々が想像した以上の社会が実現されているのではないだろうか。

 したがってこれらの主張に対して私には賛同できる部分がかなりあった。とくに「世界はけっこう良くなってきた」という過去を振り返って分析している部分にはだいぶ共感できる。実際,私の周囲でも二世代前の時代と比較したら色々な面で「良くなった」ことが多いのではないだろうか。だから環境や人間の生活がどのように推移してきたかを世界平均の観点から振り返るには,本書はよいハンドブックであると言ってもよい。本書に共感を覚えた人も多いようで,web上では多くの賛成意見が見られる。あたかも地球のあちこちが蝕まれてきたように環境問題を報じたマスコミは,ぜひとも本書を読んで将来のより正確な報道に役立てて欲しい。

 ちなみに私が過去から現在までの地域あるいは地球環境についてどう思っているかというと,大まかに以下のような感じである。

・劇的な変化が起きたようには感じない
・世界的にエネルギー使用量が増えているので環境負荷は増えているように思う
・多くの人がだんだん豊かになってきている
・局部的には環境が悪化している地域がある
・化石エネルギーは当面枯渇しない
・生物種の絶滅度合はわからない。種とは何かが確定していない
・特定の地域(人々の生活圏内)では多くの生物種が消滅している
・オゾンホールの拡大縮小による影響はわからない
・森林はゆるやかに減少傾向にあると思う
・沿岸や内湾の富栄養化は重要な問題
・日本では大気汚染のレベルは低くない
・ゴミ問題は種々の面で深刻
・農薬の発ガンリスクが高いとは思っていない

 著者の意見と若干異なるところもあるが,全般的に似ているような気がする。だから著者の「いろんなことが良くなっている」という主張をあまり抵抗なく受け入れられたのだと思う。なぜ私が過去の認識について著者とあまり違わなかったのかを自分なりに分析すると,環境問題につねに関心を持ち続けたこと,環境団体等の運動・活動にはあまり関心がなかったこと,情報を鵜呑みにしなかったこと,環境情報については必ず複数の資料に当たるようにしていること,真実はいつもどこかにあるとぼんやり思っていたこと,などが原因としてあるのかもしれない(だから私はいま現在でも自分の環境問題の認識が絶対に正しいとは思わないし,この小文で述べることについても確からしさを模索する旅の途中でつぶやいているに過ぎない)。

 さて,私は,将来の地球環境については次のようなイメージを抱いている。

・人が短い時間にバタバタ死ぬような環境危機はまず起きないだろう
・人類が地球環境を破壊し尽くすことはできない
・一人当たりの食糧供給はゆるやかに下がるだろう
・地球温暖化は起きる可能性が高いが海面上昇は緩やかで対策可能
・長期的には放射性物質(核燃廃棄物)が漏洩することが心配
・オゾンホールの拡大縮小による影響はわからない
・森林は減少傾向をたどるであろう
・人口爆発(際限のない増加)はたぶん起きない
・人口はピークに達したあとにゆるやかに減る
・核融合は実現しない
・太陽エネルギーは小規模分散型エネルギーにしかならない
・化石燃料の使用が長引く
・新エネルギーへの移行は簡単には進まない
・一人当たりのエネルギー消費量を減らすことで対応
・経済規模もある程度縮小せざるを得ない
・地球環境を守る国際的取り組みはうまくいかないように思う
・自分の足下を保全する努力が基本的に大切なのでは
・途上国への援助も重要だがそれ以上に先進国の抑制が必要

 未来の予測については著者と私とではだいぶ異なった見解になっているのがおわかりいただけるものと思う。私は近い将来に地球生態系がボロボロになるとは思っていないし,温暖化で多くの国が水没するとも予想していない。著者の言う終末論的な「環境問題の定番話」を信じていたわけでもない(そもそも日本で著者が言うような定番話が本当に流布しているのかどうかは疑わしいが)。それにもかかわらず,未来の世界に対する著者の予想は楽観的で,私は「カタストロフにはならないだろうが,楽ではない」という見通しになる。過去の認識についてはだいぶ同意できるのに,未来を考えるとどうしてこんな違いが生じてしまうのだろうか。それは主に現代社会の物質的・技術的基盤に関する認識が異なるという点に集約される。そこで本稿では,将来の問題を楽観視する本書の記述に,どんな問題点が潜んでいるのかを材料学的・熱力学的観点から分析(河宮1983)することにする。  なお本書の問題点を議論する意義を明確にしておく。本書p.18に次のような記述がある。

『科学や知識を無視する政治は長続きしない。正しい政治的な意志決定の基礎となるのは,手に入る最高の科学的な証拠以外にありえない。これは特にリソース管理や環境保護の分野で言えることだ。  でも,ひどくよく聞く会談が不正確だと指摘したからといって,環境改善の努力をしなくていいということにはならない。それどころかまさに正反対。資源の管理に努力を割いて,森林や水管理,大気汚染や地球温暖化といった分野での問題に取り組むのはとても賢明だ。そしてその際に,その取り組みの多くをどこに向けるべきかについて,裏付けのある最高の意志決定ができるように,最高の証拠を手に入れることが大事になってくる。』


 この部分に文句のある読者はほとんどいないであろう。そして著者は豊富な公式統計を用いて「意志決定ができるような証拠」を本書として提出した。材料と出典を明示していることはフェアであり,36歳にしてこの大きな作業を成し遂げた著者のスタンスは志の高いもので当然評価されるべきものであろう。すると次に必要な作業の一つは,著者が提出した証拠が本当に「裏付けのある最高の意志決定ができるような最高の証拠」といえるのかどうかを検証し,誤りがあれば訂正し,よりよい情報源に高めていくということだろう。本稿はその作業の一つである。取り扱う話題は,本書の中にある大きな3つの問題(エネルギーと地球温暖化,地域と世界,費用便益分析)である。




2 エネルギー利用の歴史と代替エネルギーの困難性

2.1 エネルギー利用の歴史


 まず最初の論点を明確にしよう。私と著者の間で大きく意見が異なるのが,化石エネルギーと資源に関するとらえ方である。著者は将来も問題ないといい,私は将来はエネルギー的に現在よりも不利になると思っている。著者の考える未来への楽観は,エネルギーについても必ず効率的な代替が起こり,供給不安がないであろうことからきている。その根拠らしい部分は,これまでも常にうまくやってきたし,これからだって当然,上手にエネルギーを使ったり開発したりするだろうというものである(p.201-230)。この主張が,「エネルギーがないなら,ないなりの生活をするんだから,まあなるようになるさ」という内容なのであれば私は理解できるが,著者は本書のなかで「将来は途上国の人々も現在の先進国の人々以上に豊かになっている」と繰り返し述べているので,単純な「なるようになるさ論」でないことは明白である。

 これまでうまくやってきたというのは事実だけれども,もしも,「これまではうまくやってきたけど,これからは,これまでのようにはうまくいかない」という事情があるのなら著者のエネルギーに対する楽観論は崩れてしまうし,ひいては未来へのサクセスストーリー全体の根拠も薄弱になる。何と言っても人間生活にエネルギーは必要だからだ。そこでまず最初に,なぜこれまではうまくやってこれたかを分析し,次にこれから先はうまくやっていけるかを分析・検討してみよう(以下の分析は主に槌田1982, 河宮1983, 河宮1995に負うところが多い)。

 エネルギー利用に関して確かに人類はうまくやってきた。効率は増大する一途だったし,禿げ山を復活させることにも成功した。環境汚染を押さえつつ化石燃料を効果的に利用することができた。このように万事がうまくいったのはなぜなのか。それはエネルギー源の質が物性的な意味で向上したことと,それを有効活用する技術が見いだされてきたことに原因がある。どちらかが欠けていてもうまくいかなかった。

 かつて人々のエネルギー源は薪炭であった。これは太陽エネルギーが化学エネルギーとして固定されたものである。木炭にすれば製鉄原料として低硫黄の優れた原料であり,薪として使うこともできた。エネルギー源としては質の良いものである。欠点はストックの少なさである。太陽エネルギーの平均密度を180W/平方メートルとして植物の光合成効率を0.3%と見るならば,エネルギーの蓄積には数十〜数百年程度の時間を要する。要するに薪炭資源は太陽光エネルギーを樹木の形でちょっとばかり溜め込んだものだったのである。これを原燃料として使うのだから追いつくわけがない。18世紀のヨーロッパが禿げ山だらけだった(安田1989)のはこのような事情がある。

 石炭を利用した製鉄と蒸気機関が発明されると,石炭の利用は一気に加速した。石炭は地質学的年代をかけて蓄積したのでストック(埋蔵量)は豊富であり,この時代に原料としての石炭が不足することはなかった。豊富なエネルギー資源を得て工業生産は飛躍的に伸びたのであるが,今度は環境汚染(大気汚染)が深刻になった。採掘現場では多数の事故死者を出したし,石炭の工業的利用は大量の一酸化炭素と硫黄酸化物を発生させ,刺激性の霧となって漂った。石炭燃焼による汚染大気は多くの人を病気に,死に至らしめた。薪炭と比較すると,「資源の量は豊富になったが,質は低下した」のであった。精製段階での無機性硫黄の除去,炭酸カルシウム添加やガス洗浄によって石炭燃焼ガス中の硫黄が効果的に除去できるようになってきたのは1970年以降とみてよい。この頃先進国のエネルギーは石油にシフトしていた。

 エネルギー資源として石油が導入されると事情は一変した。石油は炭水化物であるから,石炭に水素を添加したものと考えてよい。これだけで単位重量あたりのエネルギー密度は向上したのだが,石炭と比較するとさらにいくつもの有利な点があった。まず石油(原油)が自噴したことである。このことにより採掘に伴うエネルギーが著しく小さくなった。石油は常温で液体であり,ガスのように圧縮液化の必要がなく常温で保管できる。取り扱いが容易でパイプラインで輸送することができる。このことは輸送に伴うエネルギーを飛躍的に節約した。石油を燃料とした内燃機関の発明は産業に計り知れないインパクトを与えた。

 石油は自分自身を燃料とした分溜によって軽質油から重質油までの各成分に分けられる。このことが化学原料上有利に働き,しかも分溜精製した石油の燃焼ガスは石炭と比較するとはるかに低公害であった。石油はエネルギー資源としても原料資源としても低公害性の高品質資源としても石炭より優れていた。石油の出現によりエネルギー資源としての石炭の欠点は取り除かれたのである。原料として石炭を必要とする製造部門(製鉄)とエネルギー産業部門(発電)以外では,エネルギー資源の石油化は自動的に進行した。石炭燃焼による大気汚染の制御に石油エネルギーを使うこともできるようになった。これらの効果が硫黄除去技術の開発と相まって大気汚染は緩和されるようになった。本書図63と図86のグラフのカーブはそのような変化を含んでいるものとみてよいだろう。

 さらに石油には種々の優位性があった。石油は約2000゚Cの燃焼温度を得ることができるが,この温度はたとえば水−水蒸気を使う熱機関システムに適した温度なのである。これより高すぎても低すぎてもいけない。火力発電所等の,現在の石油系エネルギー変換システムの効率は30〜40%にも達している。環境温度と生産効率,材料の物性を考えるとこれはほとんど理論効率に近いと考えてよいが,これは技術が規定しているのではなく,物性により規定されているとみなしてよい。燃焼にスケールが要求されないのも石油の有利な点である。ポケットライターから家庭用ストーブ,ジェット・ロケット燃料から石油火力まで,様々な規模で利用できた。これは石油の物理化学的性質が地球表面の物理的(気圧・温度)化学的(酸素濃度)とうまく調和していたからである。

 このように見ると,なぜこれまでの過去がエネルギーや公害の解決についてすべてうまくいってきたのかがわかる。技術だけで乗り切れたものではなく,資源の質が重要だったのである。

・薪炭は高品質だが資源量に制約があった。この時代の環境問題の規模は小さかった。
・石炭は低品質だが豊富であった。この時代に工業生産も伸びたが環境問題も大きかった。
・石油は石炭と比較しても圧倒的に労働生産性の高い資源であった。石炭を石油に切り替えるだけで自動的に効率が上昇して生産が増大し,環境汚染が小さくなった。
・これらエネルギー資源の代替を促進するような効果的な技術開発があった。

 以上がロンボルグが述べている「僕たちはエネルギーを利用するのがどんどんうまくなっている」「エネルギー消費はかつてなく伸びているのに環境汚染はよくなってきた」ことに関する技術論的説明である。ではこれから次の時代に生まれるであろう代替エネルギー資源は,どんなものなのだろうか。つまりこれからさらに繁栄して経済成長する我々を支えてくれるものなのであろうか。

 結論をはじめに述べておくと,将来,現在以上の優れたエネルギー源が開発されて,経済成長を続ける人々の繁栄を支えることはありえないと予測される。

 なぜか,理由はそれほど難しくない。まず先に述べた「石油が現在最高のエネルギー・原料資源である」ということだ。これの代替と考えられているエネルギー源はすべて石油よりも劣るのである。劣る理由はどこにあるのか。次代を担うエネルギーと考えられている太陽光発電,核融合,水素エネルギー,原子力について見てみよう。



2.2 太陽光発電は主要エネルギー源にはならない

「再生可能エネルギー資源はほとんど想像もつかないほど莫大だ。太陽はいまのエネルギー消費総量の7000倍も与えてくれている。たとえば、サハラ砂漠のたった2.6%を太陽電池で覆うだけで、全世界のエネルギー消費をまかなえてしまう。p.229」


 著者のこの発言は,太陽光発電のもつ可能性の大きさに触れている。その意味では科学的根拠のある文章である。しかしこの文章は問題である。「サハラ砂漠の2.6%に相当する面積分の太陽電池を生産することによって,我々はエネルギー問題の大半を解決できる」というように読めるからである。そんなことはできない。現在の高い消費レベルを維持しながら,主要エネルギー源を太陽光発電に乗り換えることは,いまの見通しでは不可能といってよい。なぜなのか,まずそれを説明しよう。

 近年までの太陽電池(正確には太陽光発電パネルとでも呼ぶべきだが)は,石油を大量投入して成立している半導体産業のおこぼれを頂戴してシリコン電池を作っている状態であって(井野1996, 小宮山1999)。自立した産業ではなかった。最近は電力が安価な国でインゴットの製造を行い,それを輸入して利用している。太陽光発電によるエネルギーの価格競争力が向上してきたといわれるが,それは豊富な水力を利用して安い電力供給が行われている国の存在を前提にしている。すべて国内生産にすれば価格競争力はかなり低下するものと思われる。また,半導体製造の原料になるような高純度ケイ石は希少資源であり,世界中の太陽光発電需要を満たすとは想像できない。低純度ケイ石は無尽蔵に存在するものとみてよいが,これを超高純度多結晶シリコンに精製するには極めて多量の分離エネルギーが必要である。この分離エネルギーに太陽光発電による電力を使うことにすると,確実に価格競争力が低下する。現在の高効率太陽電池パネルでも,製造に要したエネルギーと太陽光発電により生産したエネルギーが釣り合うには(エネルギーペイバックタイム),最低数年を要し,設備や配電系統まで含めると自家用でも15年〜20年程度かかるという(福本,私信)。

 太陽光発電の理論的な変換効率は30%〜40%程度と考えられるが,これを達成してもエネルギー密度があまりにも低い。太陽光のエネルギーは地表面で1平方センチ当たりおよそ1cal/minである。ところが同じ面積で石油を燃やせば10000cal/minは余裕で到達する。(容積を増せばよいのだから)。このエネルギー密度の違いが致命的なのである。

 ある試算によると,現在の日本のエネルギー供給量を満たすには,最低でも山口県全域を太陽電池で覆う必要があるという(核燃料サイクル開発機構ホームページ[1]を参照のこと)。天候不良と送電損失を考えれば軽くその倍は必要になるであろう。この面積を覆う土木資材(鉄・コンクリート)はどれほどの量になるであろうか。

 しかも太陽電池パネルの下では農業生産はできない。光劣化によって変換効率は年々低下してゆくので,設備更新までの平均変換効率は理論効率よりも下がることになる。これは常に最適効率を維持できる火力発電との大きな違いである。膨大な面積に降り積もるゴミは光の透過率を下げる働きを持つが,これらを最小のエネルギーで除去することも難しい。最大出力を維持するためには光が垂直に入射するように常に太陽を追尾しなければならない。夜は発電できない。曇れば出力は低下する。昼の余剰電力を効率よく溜め込む二次電池は開発が進んでいない。しかも供給できるのは電力だけときている。発電された電力は直流であり,そのままでは送電線を使うことはできない。余剰電力を揚水発電として保存するのなら数十万ボルト級の送電設備に載せるなら,それに見合った規模のDC-ACコンバータ,電圧変換装置が必要になる。電圧・交直変換・送電に伴い損失が生じるがこれを避けることはできない。

 それほど困難があるのならばメンテナンスも容易で,エネルギーの現地生産・現地消費の観点からも優れている屋根に設置すればよいとの反論があるかもしれない。ところがこれも難しいのである。日本の建物の屋根すべてに太陽電池を設置しても総発電量の20%程度にしかならない。全エネルギー量に対する割合は6%である。そしてこの量の太陽電池を生産するために,太陽電池の年間生産力を1990年代後半レベルの100倍にしたとしても140年かかるのである(小宮山1999)。そして原料のケイ石が不足していることはすでに述べた通りであって,年間生産力を100倍というのはまったく不可能[2]な数字である。太陽電池の生産力では世界最高を誇る日本で考えてもこのような結果である。

 あまりにも問題−しかも原理的困難−が山積みで,理想的な太陽電池が無料に近い価格で供給されても,質の面を考慮すると現在のエネルギー需要を太陽光発電が支えるとはとても考えられない。ひいき目に見てもベース電力と夜の電力を支える何らかの一次エネルギー源と共存しながら全体の何パーセントまで食い込めるか,といったところだろう(それでエネルギーコスト的に収支がプラス,つまり化石燃料節約的なら歓迎すべきことはもちろんである)。

 ロンボルグはエネルギーの価格競争力を重要視しているが,エネルギーを価格競争力だけで論じるのは片手落ちである。まず資源としての質を吟味して熱力学的な考察を徹底すべきである。そうすれば,太陽光は温室や温水として熱を利用することが最も資源節約的かつ経済合理的という−当たり前の−結論(押田1985)が得られる。NEDO(新エネルギー研究開発機構)が大がかりな実験で証明したように,太陽光発電は火力や原子力発電の代替にはならないのである。

 価格競争力を考えるときも,ほかの資源との相対価格で考えるだけでなく,価格競争力を決定している物理的要因を分析すべきである。太陽光発電の原料である太陽光エネルギーは現在すでに無料であり人々の頭上に降り注いでいる。ここだけ見れば最高の価格競争力を持つはずである。なのにこれから作る電力がなかなか価格競争力を持ち得ないのは,これが高度に土地集約的なエネルギーで電力生産までに迂回が多すぎて設備にカネがかかりすぎるからである。一般に大型の発電施設で電力価格に占める原料費の割合が高いということは,それだけ単純な施設で発電できることを意味しており,早期に設備投資を回収できることを意味している(例外は水力発電であるが土地集約的な制約が大きいので立地が限られるし遠距離ならば送電損失も大きい)。

 風力も地熱も現在すでに無料である。にもかかわらずやはり大型火力の代替にはならない。希薄に存在する太陽エネルギーや地熱エネルギー(これらはエネルギーというよりもエネルギーの流れであるが)を,石油燃焼(これは十分に濃縮されたエネルギー源を一気に使うことを意味するのであるが)のような面積効率・時間効率に匹敵する規模で実現しようとすることがそもそも誤っている。もう少し大ざっぱに言えば,究極的に太陽エネルギーを源とするすべての再生可能エネルギーは,化石燃料を凌駕することはありえないのである。

(したがって,長期的には太陽光エネルギーが世界のエネルギー需要をまかなうので,二酸化炭素排出による地球温暖化は,モデルで予想されているシナリオよりもずっと低いレベルにとどまるとするロンボルグの主張[p.464-p.467]は成立しない。)

 では太陽光発電が役に立たないものかというとそうでもない。時計や電卓の電源としてきわめて便利であるし,無人通信施設や分散型単独電源としての価値はもちろんある。住宅の屋根に太陽電池を設置した場合に,27年ほどの平均住宅寿命(日本)の間に電力源としてどれほど役立つかはわからないにしても,夏場の電力ピークカットや,冷房廃熱の抑制−もともと熱になる太陽光を電力として利用する。結局は熱になるが都市外部からのエネルギー供給により都市内部に熱を発生させるよりもよい−の観点からも有用なことは十分に予想できる。その点,これからも技術開発に努めて欲しいし普及にも注目している。私が言いたいのは,ロンボルグの「世界はますます豊かになって行き,クリーンエネルギーも代替が進むので心配することはない」という部分の,「クリーンエネルギー」に太陽光発電が主役として該当することは極めて困難であると言うことだ(エネルギー利用を抑えつつ,というのであれば話は別だが)。



2.3 核融合発電は究極のエネルギー源として実用化するか?

 これが成り立たないことは,開発に取り組んで50年たっても実現可能性が明らかにならないことで証明されているようなものである。実際,この50年は核融合発電が困難であることを科学的に実証する歴史でもあった。地上での核融合には超高温が必要であり,安定した自己点火は未だ達成されない。夢のDD反応は早々と捨てられ,次善のDT反応炉による発電でさえもITER計画で「実現可能かどうかがわかる」という現状である。14MeV中性子による炉壁損傷は材料学的に防ぎ得ない。融合温度の超高温(一億度のオーダー)から低い熱損失で電力を得る方法も判然としない。融合炉は同じ電気出力で軽水炉の10倍の資材を必要とし,しかもそれが短期間に放射化して廃棄物になる。地上ではプラズマを磁場で封じ込めるより方法はなく,このために必要な電力は発電量を上回る可能性も指摘されている。このように,太陽中心のような効果的な重力封じ込めが不可能な地上では,安定した核融合発電はもともと無理のある技術なのである(石油が地上環境との組み合わせで高いパフォーマンスを獲得していることと比較せよ)。核融合研究者の多くは,それが実現可能と考えているようであるが,その実現時期は自分が生きている間には訪れない−現在の石油可採年数よりも長い−,と考えていることも非常に興味深い。太陽光発電がすでに実用化されているのと対照的である。

 ちなみにロンボルグは核融合発電の説明をことごとく誤っているのでここで吟味しておく。

 
「@長期的には,主に注目されるのはもはや核分裂じゃなくて核融合のほうだろう。Aこの技術では二つの水素原子を融合させてヘリウム原子を一つ作る。B燃料1グラムで石油45バレル分のエネルギーが出る。C燃料は基本的にそこらの海水から取れるから,供給はまあ無限だ。Dさらに放射性廃棄物や放射能もほとんど出ない」p.219


 第一文,将来のことは不確定だから絶対に間違いとはいえないが,現時点で将来の主要エネルギー源として核融合に期待を寄せている国はほとんどない。あえてあげれば日本だろうか。アメリカは早々と撤退して[3]「研究開発しているフリ」をしているし,実際,核融合研究者も未来の主要エネルギー源になりうるかどうかは懐疑的[4]でさえある。しかも日本の研究者も「自分の生きているうちはムリ[5]」と思いつつもこの難事業に挑戦し続けているのである。

 第二文,これも間違い。「二つの水素原子」ではなく「二つの重水素(D)原子」と書くべきであった(D-D反応)。しかしこのように書き直してもまだ間違っている。D-D反応による核融合の生成物はヘリウムだけではなく,中性子(n),トリチウム(T),プロトン(p)だからである。そしてさらに間違いがある。すでに述べたようにD-D反応はその核融合反応の困難さにより約25年前に見捨てられており,現在の目標はD-T反応だからである。すると第二文は「この技術では一つの重水素原子と一つのトリチウム原子から一つのヘリウム原子と一つの中性子を作る」と書き換えられることになる。じつはロンボルグは注釈930でこのことをさらりと述べているのだが,このような重要な指摘は注釈として分離するのではなく本文できっちり説明すべきである。トリチウムが放射性でその事実が第五文と関係するからなおさらのことである。

 ちなみにトリチウムはリチウムを原子炉(核分裂炉)に置いて中性子を吸収させることによって作る。この反応で等量のトリチウムとヘリウムが生成する。核融合炉一基に装填するトリチウムを作るには,100万kW級の分裂炉60基を一年間運転する必要があるともいわれている。もし商業的に融合炉が稼働しているのなら,それを利用して重水素からトリチウムを作ることもできるが,それは夢のまた夢である。さらに悪いことに,リチウムは希少であり偏在する。全海水中の存在量は莫大だが,ここから核融合発電の電力で電気分解してリチウムを取り出そうとすると,核融合発電の電力をすべて投じても必要量の1/10程度で,エネルギー収支が負になることがわかっている(河宮1983)。

 第三文,間違いとはいわないが誤解を生む表現。重水素とトリチウムを生成するのに必要なエネルギーは莫大である。その事実を伏せて大量のエネルギーが発生するかのように書くことはフェアではないだろう。さらに問題がある。核融合では仮に自己点火が達成されても,生じたエネルギーの大半は捨てるのである。D-T反応で生じた中性子は14MeVという高エネルギー粒子だけれども,これを直接発電に使うことはもちろんできない。単に炉壁を叩くだけである。トカマクでD-T反応を行った場合は高効率の直接エネルギー変換機器の適用が構造的に困難であることは核融合研究者なら誰でも知る事実であろう。結局,分裂炉と同じように,反応により生じたエネルギーの大半は捨ててしまう可能性が非常に高いのである。

 第四文,これも正しくない。D-T反応の原料である重水素は海水中に重水として存在するから量的には無尽蔵と見なせる。しかし化学的には重水は水と同じ性質を持つため,同位体分離によって濃縮しなければならない。同位体分離は要するに僅かな重さの差を利用して選別する方法なので,大量の投入エネルギーを必要とする。すると海水中の重水素は無限にあるが,融合炉に供給される重水素の資源量は利用可能なエネルギー資源量に依存することになる(この点は次章で述べる。詳しくは室田(1979)や河宮(1983)を参照のこと)。さらに問題がある。先に述べたようにトリチウムはリチウムから作るので無尽蔵とはとても言えない。しかも分裂炉に依存しているのでその点でも無尽蔵とはいえない。ウランの供給年数に限りが見えているからである。ちなみにウランの同位体分離にも大量のエネルギーが必要なので,D-T反応による融合炉のエネルギー効率は想像もつかない。

 第五文,全く正しくない。もうおわかりのことと思うけれども,トリチウムは放射性で,D-T核融合反応は大量の中性子を生成する上,中性子を吸収した炉壁材料は放射化してしまうので大量の放射性廃棄物が出ることになる。しかも悪いことに,D-T反応で生じる中性子はあまりにも高エネルギーなのでこれに耐える炉壁の材料が見つからないのである。しかしこんなことは小さな問題である。というのも,もし十分に炉壁材料があったとしてもそれらが速やかに放射化して中性子脆性によって使い物にならなくなるのは明らかだからだ。だからD-T反応の融合炉では数ヶ月に一度は消耗の激しい部分を交換しなければならず,その度に放射化した廃棄物が生成することになるのだ。先に述べたように融合炉の規模は同じ電気出力の分裂炉の約10倍と試算されている(数万トン規模)。膨大な廃棄物量となるであろう。このあたりの情報はネット上にも[6]たくさん出回っているので少し調べればわかることである(核融合の問題点については槌田1988,尾崎1996を参照)。

 核融合発電の困難性は他にもたくさん知られているが,ロンボルグの記述の誤りを指摘するにはこれで必要十分である。彼の述べる@〜Dはすべてが間違った文章である。彼のわずか数行の記述は,1960年代にぼんやりと想像されていたD-D反応による核融合炉の,よい点だけをPRしたような印象を受ける。「世界の本当の状態」を主張するロンボルグが,なぜに「核融合の本当の状態」についてこれほどまでに支離滅裂の説明を行うことができるのであろうか。しかも彼は水素核融合(と太陽光発電)を将来のエネルギー源として重要視しているのだから,もう少し勉強して根拠のしっかりとした記述をすべきであった。

 なお念のため付け加えておくと,私は核融合研究が全く不毛と思っているわけではない。それはほとんど物性限界に挑む挑戦だから多くの有用な研究成果を生むことも十分に考えられる(成果の多くは出たであろうが)。しかしながら未だに実現可能性が明らかにならないようなテーマは,将来のエネルギー源として位置づけるべきではないと考える。核融合研究はむしろ宇宙論などの科学研究の一環と位置づけられるべきではないだろうか。



2.4 水素エネルギーのクオリティー

 将来のエネルギー源として「太陽光発電−水の電気分解−水素エネルギー」をあげる人もいるので少しふれておく。まず,このシステムにおいて水素はエネルギーの貯蔵庫としての役割を持つことに注意しよう。あくまでエネルギー源は太陽光である。ところで太陽光発電が現在のエネルギー使用量をそっくりカバーするようなメインエネルギー源にはなりえないことはすでに述べたから,このエネルギーの保存形態の一つである「太陽光−水素システム」も主要エネルギー源とならないことは明らかである。太陽光発電で変換損失があり,電気分解で損失があり,常温で気体の水素を圧縮保存するために損失がある。このシステム全体の変換効率は太陽光発電をゆうに一桁は下回るであろう。しかも水素は体積当たりの発熱が低いので,せっかく作ってもエネルギー価値は低い。保存も難しい。吸蔵合金は高価な上に資源量も少ない。水素は金属を劣化させる水素脆性という性質も持つ。こんな厄介者を生産をするくらいなら,エネルギー調達経路の柔軟性も考慮して,水力発電(これも太陽エネルギーの一種)と電車鉄道網も組み合わせを構築しておいた方がまだ現実的である(上岡1990)。なお本書の水素貯蔵に関する記述はおかしいので訂正しておく。

「この水素は,あとで発電に使ってもいいし,車でガソリンがわりに使ってもいい。このコストはまだ通常のガソリンの倍くらいだけれど,水素は環境にずっと優しい燃料になる。燃やしても水しか出ないからだp.229」

 この記述は正しくない。このような単純化が許されるなら,ガソリン車だってディーゼル車だって水と二酸化炭素しか出さないと強弁できるだろう(実際は一酸化炭素や各種の窒素酸化物,炭化水素,ブラックカーボン,鉛,DEPと呼ばれるディーゼル排ガス微粒子まで排出している)。水素を燃焼させるときに,少なくともかなりの濃度(〜230ppm)の過酸化水素が発生することは30年前にわかっている(Griffith EJ 1974 Nature 248:458)。過酸化水素のフリーラジカル生成能力から考えれば,当然,有害だし,光化学スモッグの原因にもなる。空気中で燃焼させたときの発熱量は石油よりも少ないので窒素酸化物の排出は減るであろう。しかし環境にずっと優しいとまではいえない。



2.5 取り扱い困難な原子力エネルギー

 これに関する著者の考察は正当であると思われるが,簡単に補足しておく。原子力は電力エネルギーを生産するのに迂回経路が多く高くつく。ウランは資源的にも多くない。もし原子力エネルギーが世界のエネルギー需要をある程度支えるものとすると,100万KW級の原発が5000〜10000基は必要になる。それを支えるほどの資源量はない。一方,重大な事故が起こる確率は500炉年に一回程度とされているから,確率的には10000基の原子力発電所は年間に平均20回の重大な事故を起こすことになる。ひとたび事故を起こせば甚大な被害が出るのは皆が知るところである。炉が放射化することでもわかるように,分裂炉でウラン燃料を燃焼(反応)させると放射性物質は原燃料よりも桁違いに増えてしまう。さらに採掘時に発生する尾鉱は原鉱の8割に近い放射性物質を含み,広範囲にわたって環境汚染を生じている。炉の運転により発生した放射性廃棄物の貯蔵は技術的にも経済的にも厄介[7]である。放射性廃棄物と廃炉−正確には永久管理と呼ぶべきだが−の費用は経済を圧迫し,100〜200年以上の長期的視点に立つと原子力のメリットは消滅する可能性が高い。原子力(分裂炉)エネルギーを将来のエネルギー資源としてとらえることはとてもできない。



2.6 エネルギーに関する議論のまとめ

 新エネルギー源が熱力学的・材料学的に数々の不利を抱え込んでいて,石油以上の高品質エネルギー資源になりえないことを述べた。技術論的なアプローチによれば,夢のような新エネルギー源が開発される可能性はほとんど考えられず,これから起こるエネルギー資源の代替は,過去に起きた代替(石炭→石油)とは本質的に異なると予測される。すなわち石油から他の資源への移行によって起きることは,劣化資源への回帰(石油→石炭・オイルシェール),迂回による効率の低下(石油→太陽光発電・地熱・メタノールなど),環境汚染(核分裂エネルギー・水素エネルギー・石炭への回帰),資源浪費(核融合・太陽光発電)を起こす可能性が理論的に予測される。ロンボルグが言うような「発展途上国も将来は現在の先進国の人々以上に豊かになり」「効果的な新エネルギーが開発されて価格競争力を持ち,化石燃料にとってかわるだろう」というサクセスストーリーは成り立たない。新エネルギーが化石燃料と比較して価格競争力を持つことは起こるであろうが,それはその新エネルギーが優れているからではなく,化石エネルギー価格が高騰して,相対的に劣化した(新)エネルギーを受容しなければならないという状況により引き起こされるものである。新エネルギー開発50年の歴史が研究としては輝かしい成果をあげながらも,化石燃料資源の代替という点ではあまりにも小規模に止まっているのも,石油がエネルギー資源として首位の位置にあり,それがなかなか枯渇しなかったからである。

 この議論が難しいと感じられる方はぜひ次の想像をしてほしい。

ア)掘り出したらあとは燃やすだけで燃料になる(薪炭・石炭・石油・天然ガス)
イ)各種の材料をア)に依存しながら調達してそれらを反応させると熱が得られる
 (太陽光・地熱 ・風力・核分裂・核融合・水素・エタノールなど)

 どう考えてもア)が単純でエネルギー効率が良いことは明らかだろう。その中で最も高エネルギーかつ低汚染で輸送コストが低く,エネルギー投入/産出の効率が高いのが石油である。この最高のエネルギー・原料資源を最大限活用することにより,高い繁栄を誇る文明が形成されたのである。石油代替資源で現在と同じ,あるいはそれ以上の高レベルの繁栄を,環境汚染を引き起こすことなしに達成することは極めて困難と予測できるだろう。すると奇妙な結論に達する。つまり我々は環境負荷を最小にしてしかも高い繁栄を維持し続けるためにも化石燃料−特に石油−に頼り続けなければならない,ということになる。そしてまだ石油は数十年分はある。これは何を意味するのか。最後の部分で論じよう。




3 エネルギー以外の資源

 エネルギー資源の話題と関連するので,鉱物資源の問題についてもひと言触れておく。ロンボルグが指摘するように,かつては枯渇するのではないかとの漠然とした不安が語られた鉱物資源について,現在までに実際に枯渇したものはないと言って良い。また彼が結論で述べている次の言葉も説得力がある。

 
何の技術変化もないまま,この調子で資源を使い続ければ,いつかはなくなる。それでも深刻な不足はまず起きないだろうという結論でこの章をしめくくれるのは,新たな資源の発見が続いていること,資源の利用効率も上がっていること,そしてリサイクルや代替が可能だからだ。p.247


ほとんどの資源について,一世紀程度の時間内であれば,この言葉は当てはまるものと思われる。だが,この結論に至る過程は少々吟味を要するように思われる。それは本書の議論が「量」を中心になされており,その資源が「使える」かどうかの言及がないからだ。熱エネルギーや光エネルギーは宇宙空間に逃げてゆくので,エネルギーについては地球は開放系である。化石燃料のエネルギーは地球レベルでは保存則に従わないので「なくなる」。しかし鉱物資源(物質)は重力により地上に束縛されているので,物質を消費しても地上からなくなることはない。この意味で「不足」は起きない。

 しかしどのような鉱物資源でも,利用するにはエネルギーが必要で,鉱物資源の利用可能性はエネルギーとセットで考えられるべきである。品位の高い鉱物資源でも,集積と運搬はもとより,精錬や加工流通のすべての段階でエネルギーが必要である。もし人類が無制限に豊富なエネルギーを利用できるのなら,どのような低品位の鉱物資源でも利用できるが,前章で詳述したように化石エネルギー依存の状態が当面続くのであり,それ以外の代替エネルギーは質・量ともに遠く及ばない見通しである。だから「使える」鉱物資源の量は結局利用可能なエネルギーの量に依存する。鉱物資源の利用可能性について論じるときに大切なのは,埋蔵量だけでなく,それが経済的にもエネルギー的にも現実的に利用可能かを吟味することなのである。埋蔵量だけを強調して資源が豊富にあることを強調しても,それが利用できなければ意味はない。具体例をあげよう。

 希少資源を海水から得るというアイデアがある。資源量から見ると無尽蔵であり,問題はないように思える。しかし現実には非常な困難がある。100万kW級の核融合炉一基が,寿命期間中に要するリチウム量は500トンとされている。海水からこれを得るためには海水75億トンを処理する必要があり,所要電力は核融合炉発電量の200年分である。副生物として塩化ナトリウム1億トン,塩化カリウム260万トンが得られるが,前者は日本の年間消費量の15倍を超え,消費もできず,保管場所もなく,廃棄など論外であろう(以上の分析は河宮1983からの引用)。かつてドイツが敗戦の借金を,海水中から金を抽出して返済しようと企てたことがある。もちろん失敗に終わった。理由はおわかりであろう。

 要するに埋蔵量だけの議論にはほとんど意味がない,ということである。エネルギー資源でみたように,大切なのは「質(品位)を含めた利用可能性」なのである。ロンボルグは量について多くのデータを示してくれているのだが,利用可能性に関しての言及がない。この点は大きな問題としてもいいだろう。本書には,量的には安心できる(させる)という記述がやたらに多いのである。

 
地殻に含まれる銅なんて,銅資源のいちばん重要な部分なんかじゃないのだ。深海底のあちこちには,マンガン,鉄,ニッケル,銅,コバルト,亜鉛を含む直径約五−一〇センチくらいの小さなかたまりが散らばっている。こうしたかたまりで回収できる量は,銅なら一〇億トン以上で,地上資源の総量を超える。つまり少なくとも一世紀以上保つだけの銅があるわけだ。p.240

アメリカ地質調査部は先頃,フロリダ沖合の大陸棚でリンのかけらやかたまりが見つかったことを発表し,これだけでリンの利用可能年数は約一八〇年へと倍増した。だから,リンの有無が食料の生産を制限する見通しはない。p.242

 ニッケルは主に合金としてステンレスを作るのに使われ,現在の消費レベルでは,確認されている埋蔵量でおよそ五〇年は保つと推定されている。だが深海のかたまりには少なくともさらに一〇〇〇年分のニッケルが含まれているとの推測もある。p.244



 いずれの議論もかなり楽観的である。「深海のかたまり」とはマンガン団塊(またはマンガンノジュール)のことを指す。これは海底堆積物下層の還元層から溶けて出てきた金属イオンが堆積物表層で酸化されて沈積することを繰り返しながら生成したもので,酸化−還元により動きやすい種々の金属を濃縮している。これが資源として注目されたのは過去の話で,日本でも金属鉱業事業団が深海からの回収技術について研究していた。しかし実験レベルでの採集はできたものの,産業レベルでの回収は難しく,実用化には至らずに研究を終了している。量は豊富だが利用可能性は低いのである。使えないものは資源と呼ぶべきでなく,環境と呼ぶべきである。

 本書のリサイクルに関する記述にも若干の捕捉が必要なように思われる。

 
実は効率化やリサイクルによって,理論的には限られた資源を使い続けても枯渇させないことが可能ではある。残存消費可能年数が一〇〇年で,需要が年一%増える資源では,リサイクルや効率性が年二%向上すれば−新しい資源がまったく見つからなくても−絶対に枯渇することはない。これは要するに,リサイクルや効率化−ぼくたちの知恵−が消費とその増加の両方をまかなうからだ。p.246


 ここで言うリサイクルとはマテリアルリサイクルのことと思われるが,現実的には上の記述ほど簡単ではない。彼が述べているのは単にグラフ上で表された関数が指し示していることであって現実の世界ではない。通常,物質は合金や薬品の形で複合的に使用されるわけだが,いったん混合物になったものを純粋な材料に戻すためにはかならず分離エネルギーを必要とする(武田2000)。エネルギーが絶えず(無制限に)供給されなければ,工業社会におけるリサイクルは理論的に成立しない。このことにはほとんど疑問の余地はないが,念のために例をあげておく。

 ニッケルとクロムと鉄を用いてステンレスを作る。不要になりこれをリサイクルして材料に戻すのなら,酸に溶解して電気分解するか,他の化学プロセスを利用して分離しなければならない。途方もなく面倒でエネルギー浪費的・環境汚染的なプロセスが必要になる。金を金のまま配線に用いた場合でも,CPUやLSIから金を回収するには多量のエネルギーを浪費する上に採算割れである。古紙を回収して再生紙を作ると品質が低くて割高な製品ができあがる。爆発的に普及する携帯電話には,金やタンタルなど希少資源が含まれるが,これらを分離してそれぞれの原料に戻すことなど考えられない。このような例はいくらでも考えつくであろう。

 鉱石に多量のエネルギーを投じて高純度の材料を得る。材料を利用して製品を作る。たとえば鉱石からガリウムを精製分離して純ガリウムを得て,それを用いてInGaPの発光ダイオードを作る過程がそれに相当する。このプロセスを物理学的に見ると,混合エントロピーの高い(=低純度)資源にエネルギーを投じてエントロピーの低い(=高純度)の材料を得て,それを用いて製品(再び低純度,つまり混合エントロピーの高い状態)にしているということになる。高エントロピー状態を低エントロピー状態にするには(リサイクルするには)エネルギーが必須だというのは熱力学第二法則からの帰結であり,例外は一つもない。多くの場合,製品を作るという工程は,物理学的にみれば種々の物質を利用して個別成分の純度を下げて利用目的に適う物性(性質)を作り出すことともいえる。だから製品をリサイクルするならば必然的にエネルギーも必要となる。

 もちろん,金・白金・銅など純度を上げることが製品を作る工程そのものの場合もある。その場合,材料物質だけを回収できればリサイクルは有用である。だが電子回路などに組み込まれた電気製品になってしまうと,純金を使って配線していても,純金として回収する方法がない。結局,いったん焼くか溶かすかして多量のエネルギーを投じないと回収できない。製品を資源と見るには十分な吟味が必要なことが理解できよう。

 このようなことを考慮すればわかるように,結局,リサイクルが有用になってくるのは鉄鋼の一部とアルミニウム,ガラスなど素材に化学的変化を加えずに高純度のままで,しかもそれを大量に利用しているものしかない。しかもこれらの資源量は豊富なので当面,枯渇の心配はない。これらのリサイクルは主にエネルギー節約の観点から行われている。他の物質では,カスケードリサイクルやサーマルリサイクルなど,下位の用途に転用されるケースがほとんどであり,これは長い時間軸では「使い捨て」に他ならない。

 リサイクルは現行の「資源+エネルギー→製品」という産業構造にもう一つ「廃棄物+エネルギー→資源・製品」というルートを付け加えることであり,全体の規模を縮小させないかぎり,資源節約的にならないし経済的にも見合わないことが多い。彼が本書の後半で展開する費用便益分析の言葉を用いて表現すれば,「リサイクルにかかる金額は莫大で,それでも資源問題の解決にはちっとも寄与しない。だからといって何もしなくていいというわけじゃない。代替資源の開発にお金を使ってもいいし,新規鉱床の発見に投資してもいいということだ」ということになろうか。

多くの資源は当面枯渇しないであろうが,利用の見込みがたたない海底資源を強調することや,リサイクルで資源枯渇をカバーできるかのような書き方には賛成できない。




4 部分と全体の問題

 ここで本書の別の問題点に触れる。著者が言う各種統計を用いて得られた「世界の本当の状態」が何を意味するかについてだ。私は次の二点に注目する。

1. 統計的データで見るとマスコミ等で好んで取り上げられる「地域の悲惨な状況」以外の様相も把握できるようになる
2. 統計的データで見ると,マクロな統計の場合に地域(ミクロ)で起きている環境汚染が隠されて見えなくなる



4.1 客観的数値の大切さ

 まず1)についてであるが,これは本書の随所で述べられているから説明は不用だろう。マスコミに煽られて,地球生態系が近い将来に破滅するという印象を抱いている人もいるかもしれない。しかし−悪化はある程度あるけれども−それほど極端な状況にあるわけではないのは本書の言うとおりである。にもかかわらず我々の多くは図10−これは有用な図だ−に見られるように身の回りはまあまあだけれども,「世界」の状況は非常に悪いと感じてしまっている。

 ふつうの人は伝聞に基づく情報に対しては不明瞭なイメージしか抱くことができない。環境問題はとくにそうである。世界中の環境問題がニュースで報じられる現在,遠い国の環境問題でさえ,我々は案じることができるようになった。しかし我々がイメージしているものはテレビ画像や新聞等を通じて得た地域の最も悪化したある部分を切り取った場面だけで,全体像はわからない。だから悪化した環境というニュースばかりが流されれば図10のような認識を生み出してしまう。

 具体例を一つあげておこう。かつて湾岸戦争が起きたとき,アラビア海はひどい重油汚染を受けた印象があった。油にまみれた海鳥の画像が繰り返し流されたからだ。いまでもそのように思っている方がおられるであろう。その当時日本からは海洋調査船が出動し,国際貢献と称して海域の調査を行った。その調査結果や分析試料を見たことがあるのだが,むしろ日本の沿岸よりもきれいなくらいで汚染の痕跡を見つけるのが困難なほどであった。まして原油の輸出に伴う汚染の大きさと湾岸戦争による汚染を分離することなどできなかったのである。件の原油にまみれた海鳥の画像は,イラクを「環境テロリスト」として訴えるのに好適であったが,じつは捏造されたものとの見方が今では一般的である。世界中の人がその映像をみて大変な環境汚染が起きていると誤認した。

 重油汚染が広がりを見せなかった一方で,イラク領土は米軍による劣化ウラン弾攻撃を受け,日本の広島・長崎を数千倍も上回る放射能汚染を受けることとなった。しかしこの事実の重大さは殆ど報道されなかったため,今でも知らない人が多い。ちなみに,「環境テロリスト」は米軍であるとの正しい認識を繰り返し訴えたのはレスター・ブラウンらであった。

 報道は意図的に流される。湾岸戦争時に流されたピンポイント爆撃の映像は市民を殺傷しない戦争のイメージ形成に役立ったが,実際は43日間で88,500トンの爆弾が投下され(1日あたり2000トン以上)イラクの橋梁・道路・工業施設を徹底的に破壊し尽くし,27万〜30万人ものイラク人が殺された[8]凄惨極まる戦争であった。ちなみに第二次世界大戦で日本に投下された爆弾は4年間で16万トンとされている(1日あたり109トン)。こうした情報に翻弄された過去を振り返るとき,数値に裏付けられた情報はやはり重要で,我々のイメージ形成にはマスコミの偏った情報が大きく影響しているぞというロンボルグの警告は,テレビや新聞の情報を鵜呑みにしている人々にはとても有効だろう。そしてこの警告こそが本書の最も価値ある部分であると私は感じる。根拠も薄弱なまま,世界の平均的状態を考慮せずに,局部的な危機的なニュースを垂れ流して人々を不安に陥れることに加担してきたマスコミに塗りつける薬としては,本書はかなり効きが良いものであろう。



4.2 平均値は地域の状況を表現しない

 次に2)である。本文冒頭でも述べたように,ロンボルグは「地球環境が破壊されることなしに人々はかつてない繁栄を謳歌し,余暇もたくさんあり,将来の資源的な心配も必要ない」と各種の統計から結論を得る。この結論がある程度的確なのは本文の冒頭で述べた通りである。だが,これはあくまでも統計に表れた世界平均像であることには注意が必要である。地域環境がロンボルグの言うような理想的な状態にあるかどうかは別の問題である。

 東京圏を例に考えてみよう。水域環境は一時の汚染ピークからは脱したものの,自然の状態からはほど遠いほど汚濁しており,改善の傾向は見せていない。1950年頃はきれいであった東京湾も1970年にはヘドロの堆積する海となり以後30年間この状況は変わらない。夏には底層に無酸素水塊が出現して絨毯爆撃のように好気性の底性性物を死滅させている。百数十種を越える魚介類を供給し,単位面積当たりで世界最高とも言われた豊穣な海の面影はない(若林2000)。自然な汀線は90%以上消滅してカミソリ護岸となった。干潟や浅瀬による浄化能力は永遠に失われ,2600万人の周辺人口は東京湾にアクセスすることもできなくなった。臨海公園に作られた砂浜には,あふれんばかりの人が「人工の自然」を求めてやってくる。その横では巨大な下水処理場が茶色い水を吐き出している。

 河川の汚濁も相変わらず高レベルで,下水道普及率が上昇してもとても川遊びできる状況ではない。下流を流れる水は下水道を通過後に河川に入った都市排水が多くを占める。そのためか下水処理場は近年,水処理センターと名称を変更するに至った。このような水を原水に水道水が作られると薬品を多投しなければならず,蛇口からは強い薬品臭を持つ水が出てくるようになる。人間の尿由来の成分も恒常的に検出される。それが安全であるかどうか以前に,飲用にも料理にも使えない水を人々は信用せず,ガソリンよりも高価なペットボトルの水を買うのがふつうになってしまった。もはや水道は水道(drinking water supply)ではなく,上水道を監視してリードするはずの研究者が「現代の水道水は飲み水の顔をした雑用水と考えるべき」と発言するに至った(中本2002)。小河川はすべて埋められてしまい,学校の音楽の授業で「春の小川」を歌おうとすると,「先生,小川ってなんですか」と児童から質問が出る有様である(細淵,私信,1995)。鳥獣類・魚類・昆虫類はどんどん生息地を奪われて東京西部の山にへばりつくように分布するようになった(品田1974)。緑地はことごとく開発の対象とされ,空き地という空き地は建築物に変わり,都市部における子どもの遊び空間は1955-1990年の間で1/40にまで減ってしまい(仙田1992),増える要素はまったくない。東京圏の平均通勤時間は片道一時間にもなり,人々から多くの余暇を奪っている。

 自動車の排気ガスによる大気汚染も相変わらず深刻[9]で,1990年代に行われた調査では,排ガス汚染の濃厚な地域の子どもは,呼吸器系の病気の新規発症率が6倍も高かった。環状8号線上空の「環八雲[10]」は排気ガス由来の窒素酸化物から生成した硝酸を多く含む「死の雲」として多くのヘリコプターパイロットから恐れられているが,相変わらず毎年出現している。化石エネルギー依存体質は改善の傾向が見られず,エネルギー使用密度は上昇の一途で,千代田区ではすでに一平方メートル当たり140Wを越え,太陽の入射エネルギーと並んでいる。このためヒートアイランド[11]が顕在化し,真夏には40゚Cを越える路上温度となり,朝も30゚Cを切らない熱地獄となってきている(西沢1977, 斉藤1997, 尾島2002)。度重なる「容積率の緩和[12](規制緩和)」によって高層ビル・マンションが増え続け(五十嵐・小川2003),もはや熱的には都市開発は限界にきている。都市温暖化のスピードは地球温暖化の10倍である。東京や名古屋,大阪などの大都市圏に住んでいる人ならば,この記述に何ら違和感はないであろう。世界はよくなっているかもしれないが,改善されていない地域環境は山ほどあるのだ。

 結局,部分と全体は違うのである。地球全体をみれば,豪雨で被害がでているところもあれば晴れているところもある。地球平均ではだいたい晴れている,などと言われてもそのことにあまり意味はない。世界の平均像を見て安堵することも時には必要かも知れないが,それほど大事なことでもない。我々は地域にしがみついて生きている。我々の生活による影響は直接地域に反映される。自分の所属する地域を見渡して環境改善の努力をすることが本質的に重要であることは言うまでもない。






5 費用便益分析の問題点

 本書で最も議論を呼ぶところが費用便益分析かもしれない。ロンボルグは「環境を改善するのにはあまりにもカネがかかる。環境の改善には目をつぶって,そのカネはもっと別のところに使った方が有効なんじゃないだろうか。そういう考え方もアリなんじゃないかな」という趣旨のことを随所で述べている。一つのパターンは,ある金額内では解決できない問題を提示(設定)して「これだけカネかけたって得るものがほとんどないのだから他のこと(人命を救うような)に使うのが有効だろう」というものである。問題をカネに還元し,それを環境保全と人命救助の問題と「あれかこれか」の関係で選択させれば,誰しも「命」を救うべきという結論になるだろう(命の選択の特殊性,加藤1991)。だからこの問題設定自体がおかしい(後述)。読者はその点を注意して読むとよいだろう。

メキシコ湾の海底で,一万平方キロメートルの規模で毎年生じている無酸素状態の改善には,毎年20億ドルかかる。それだけのカネを投入しても漁業には影響がなく,魚釣りにも影響がない。まあ本来そこにいるべき生物が帰ってくるという便益はあるかな。そういう生物を救うために年間20億ドル強。他方,人間は毎年種々の生物を大量に殺しているんだから,どうしてメキシコ湾の生物をこんなにカネかけて救わなければならんのだ?,とロンボルグは問いかける(pp.319-328,要約は筆者)。アメリカは日本と較べると沿岸漁業が未発達という「特殊事情」があるにしても,海の中にも森林(と同じ働きをするもの)があって,無酸素水塊は海の森林破壊であることを知っていたら彼は同じことを書いたであろうか。空気中の酸素を生み出したのも海洋中の藻類なのである。しかも海洋生物の大半は生産性の高い沿岸や内湾に生息していて外洋には少ない。メキシコ湾の巨大な無酸素水塊は,陸上で言えば熱帯雨林を毒物で破壊するようなものだ。無酸素状態の原因は陸上の農業における肥料の多投と,それに伴う栄養分の海洋への流出が大きな原因である。メキシコ湾の無酸素状態を改善することは,流出する栄養塩類を陸上で有効利用することにもつながる。このような事実を知れば彼の記述はだいぶ乱暴(というか無知)であることが理解できるだろう。

 彼の主張は明らかに化石燃料依存の工業社会の立場に立脚したものであろう。工業社会の存在を無上のものとして,そこから生み出される金銭的価値を,自然保護(=工業的社会の外側)には配分することにはあまり価値を認めていないようである。その主張に正当な根拠があるとは,彼の記述からは読み取れない。

 漁業を中心とした社会を営む人々とって,内湾域が貧酸素化するということは,工業社会でみれば生産に必要な資材とエネルギー供給を完全に絶つことと等しい。農漁業は時間当たりの生産性は低いけれども数十世紀以上の持続性がある。工業の持続性は不明だが現在のレベルの生産活動が数十世紀続くことは,環境制約からも資源制約からもほとんど考えられない。農漁業生産を時間で積算すれば面積当たりの生産量は工業に劣らないし人々も養える。そもそも工業が時間当たりの高い生産を誇るのも,時間をかけて蓄積(積算)された農業的生産物(=化石エネルギー)を短い時間に投入しているからである(河宮1983)。こういうことを考慮すればもう少し丁寧な記述になったかもしれない。

 失ったものの価値という考察も必要である。東京湾と食べ物の関係を例に考えてみよう。東京湾は高い生産性を誇り,当時世界最大の都市であった江戸に種々の水産物を供給し続けた。この多様性に富みしかも高い生産性を持つ東京湾が江戸文化を育み,それを背景として以下に述べるような世界に冠たる和食の数々が誕生した(渡辺1988)。ノリの養殖は東京湾で生まれたが,これが浅草紙の紙漉技術と組み合わされて現在の海苔となったとされる。世界中で愛されているにぎり鮨も海苔巻きも東京湾の産物で,いまから約200年前に深川で発明された。天ぷらは長崎伝来の技術といわれているが和食としての天ぷらが確立したのやはり江戸であり,江戸前の魚介類がネタとして優れていたことが理由と考えられている。ウナギの蒲焼き技術も養殖技術も江戸で完成した。深川と神田川が品質の高いウナギの産地として有名であり,庶民の需要が多かったことが背景として考えられている。生産性の高い水域は豊かな文化形成に計り知れない影響を与えているのである。

 我々は現在,東京湾と江戸文化が生み出した種々の恩恵の上に生活しているが,豊かな漁業資源を生み出す東京湾を壊してしまった(菊池1974, 若林2000)。メキシコ湾と同じように貧酸素水塊が発生してヘドロが堆積している状態である。だから現在の東京湾は先に述べたような文化的資源を生み出す力はなくなっていると言ってよい。我々はこの損失を埋め合わせするかのように,エネルギーを多投して世界中から食べ物を輸入し,過去の江戸文化の真似事をしているのである。真似事というのは誇張ではなくむしろ控えめなくらいである。東京都の食糧自給率はわずかに1%だからである。

 さまざまなものを生み出し続けた東京湾の歴史的文化的価値をコスト換算したならばいったい幾らになるか計り知れないだろう。失ったものは宝だったのである。

 ではなぜ宝物を失ったのに,それを復活させる必要がないという結論をロンボルグは導けるのか,コスト計算の問題点を簡単に見てみよう。費用便益分析はまず問題をカネに換算してしまう。このときに既に価値判断が入り込む。そしてカネは人間が普段使っているものだから,その使途には個人の金銭的感覚が入り込む。カネの有効利用と考えれば,誰だって病気を治すためとか,飢餓を減らすためとか思いつくであろう。だから費用便益分析を行い,カネの有効利用法を考えると,人間にとって便益の大きいと「感じられる」ところにカネを投入するのが良いという結論になる。

 このような手法を使うと解決したい問題を恣意的に矮小化することができてしまう。Aという問題を解決したいところにBという問題を持ち出し,費用対効果が優れているBの方に投資させようと思わせることは難しくないからである。Bに人命の問題をちらつかせればその効果は増大する。先の例でいうと,一万平方キロに及ぶ無酸素海域の改善という問題を(それにより得られる便益が非常に多くのものにわたることを無視して),「そこに生物がいてくれるだけの価値」という便益に単純化し(これがAに相当する),それに20億ドルという大金が必要なことを強調すれば,多くの人が別の問題にカネを使った方が良いだろうと考えることだろう。そこにすかさず20億ドルを投資すれば発展途上国のどれだけの人命が救えると思う?と問いかけるのである(これがBに相当する)。多くの人が「Bの方が大事」と答えることだろう。

 純粋にAかBかどちらかに費用を振り分ける必要があり,他の選択肢がないのなら上記の結論も理解できる。だが現実にそのようなことが本当にあり得るであろうか。Aに投資することは中止され,さりとてBにも投資されず,20億ドルは別のことに使われてしまう,ということが起こらない保証はどこにあるのだろうか。

 私は費用便益分析の有用性を否定するつもりはまったくない。ロンボルグの言う「ちゃんと便益を考えてからお金を使いましょうよ」という提言は大事で,我々は常にそれを念頭に置く必要があると思っている。しかし有用な道具も使い方を間違えれば予期せぬ害を及ぼす。費用便益分析は種々の問題を相対化して,一見公正に見えながら恣意的にコトを進める道具としても使えることは指摘しておく必要がある。

 以上の議論を踏まえて考えると,「漁業と魚釣りへの直接的な便益はないけれど,少しばかり湾の貧酸素状態が改善されるために毎年20億ドル必要」という問題設定が怪しいものであることがわかる。意図して行ったかどうかはわからないが,政策提言の資料とするには滑稽に感じられるほどの矮小化である。「漁業へ目に見える改善を及ぼし,農業の肥料利用効率を高め,土壌流出を防止し,河川と内湾の富栄養化を改善し,有毒プランクトンの発生を抑え,本来の沿岸生態系に近い生物相に回復させ,湾岸の文化的歴史的価値を復活させるための投資が50億ドル」という問題設定の方が好ましいという判断もありえるし,その場合は費用便益分析から別の結論−メキシコ湾の貧酸素化は解消すべき−を引き出すこともあり得る。

 もう一つ,環境問題とカネにまつわる問題を考えてみる。日本国内において自動車は,200万円程度で販売されている。国内には7500万台が存在し,毎日約30人の死者,2100人を越えるけが人を出している。大気汚染は深刻で,毎日一万台を越える廃車の処理も大変である。道路整備には大量の税金が投入され,自動車を保有しない人も多額の負担を強いられている。受益者負担の観点から,これらの社会に与える影響(外部不経済[13])を内部化して自動車価格に反映させたら,自動車の販売価格はすっと高くなる(宇沢1974, 1995)。計算にもよるが1000万円で販売されてもおかしくない。

 ところが実際には自動車が200万円程度の価格で販売されているということは,それだけ負の費用を環境に押しつけていることになる。ゆえに自動車による環境問題(あるいは社会問題)が発生したら,それへの対策が膨大な経費を要することは自明なのである。その経費が膨大で人命に対するリスク軽減効果もあまり見込めないから,そんなことに大金を使うよりも他にもっと有効な使い道があるかもしれない,といった感じの本書の論調は,外部不経済を初めから無視した経済屋さんの理論にみえてしまう。それではだめだ,外部不経済に相当する部分もなんとか制御して行くべきだ,というのが環境論者の経済学者に対する異議申し立てであったのだが。

 確かに,現実の市場経済を見る限りにおいて,環境問題に関連する外部不経済の内部化は心配の連続であった。だがそのまま放置してよいというものでもない。なぜなら,環境あるいは社会問題の発生が,市場経済の外側から禁止則を要求しているからである。かつての日本では,大気汚染(煤煙)・水質汚濁(メチル水銀)・土壌汚染(カドミウム)などの公害問題が,直接人体に被害を与えるという形で禁止則の必要性を暗示した。これを受けて数多くの規制が生まれ,幾つかの問題は改善の方向に向かった。これらの例からわかるように,禁止則の直接的適用が有用なケースは確かにある(多辺田1995)。

 さて,この話をメキシコ湾に適用すると,そもそもメキシコ湾がそれほどまでに汚れたのは,外部不経済を考えずに環境に負荷を与えるもの(汚染者)が優遇されすぎたためだ,と考えることができる。だから汚染者に対して法的に禁止則を直接適用して事態の改善を図ることは,論理的にも倫理的にもおかしくない。事実,東京都は厳しい条例の制定により水(質・資源)問題に一定の成果をあげている。それどころか,企業の節水意識を高めて水の再利用技術が伸びるという副作用さえ産んでいる(嶋津1999)。メキシコ湾の例に当てはめれば,禁止則の適用によって肥料の利用技術が向上し,地下水や河川水質が改善するという副作用が考えられるであろう。環境のことなど考えずに汚し放題で,事態が深刻になってから費用と便益をはかりにかけて,回復には莫大な費用が必要で,しかし便益が少ないから費用は別のことに有効に使おうというロンボルグの視点とは別の考え方もあることは知っておいた方がいい。こんにちにおいては事態はある程度予測できるし,予防措置だってとれるということを忘れてはならない。

 さらに,費用便益分析を誤れば意に反してたいへんな損失を被ることがあることをここで示しておこう。1970年にアメリカはマスキー法を制定した。これは乗用車の排ガス中の一酸化炭素と炭化水素の排出量を1/10に削減する規制法で,当時の技術レベルでは厳しいものであった。アメリカは法を制定しておきながらも実施を延期し,国内自動車産業の保護にまわった。なぜかというと,「マスキー法を達成すれば自動車の価格が5%以上上昇し,それにともなって販売高の下落や雇用の減少が起こり,この損失は公害の減少による便益を上回る」という費用便益分析を行ったからである。このときに日本のメーカーは市場での生き残りをかけて自主開発を進め,1978年に世界で初めてマスキー法を達成してしまった。日本のメーカーはお互いに刺激しあい,燃費や排ガス規制の観点からは極めて優れた製品を世に送り続けた。その結果,日本車の性能は誰でも知るところとなり,国際競争力は高まり,相対的にアメリカ車の国際競争力は低下していったわけである。費用便益分析の結果を信じたために,アメリカの車産業は大きな痛手を被ったのである。これは環境問題を費用便益分析で論じるときに忘れてはならない教訓であろう。






6 温暖化対策

 再びエネルギーの話を取り上げる。私は先に我々は環境負荷を最小にしてしかも高い繁栄を維持し続けるためにも化石燃料−特に石油−に頼り続けなければならない,ということになる。そしてまだ石油は数十年分はある。これは何を意味するのか,と書いた。まずこのことを念頭において欲しい。

 ロンボルグはノードハウスの分析を下敷きにして次のように言う。

一世紀レベルでの温暖化は先進国の経済に壊滅的な打撃など与えず,僅かな被害に止まると考えられる。一方,インフラ整備の進んでいない低開発国は相対的に大きな被害を受ける。ところで京都議定書を守るには,それにかかる費用は年間数千億ドルなのに,地球温暖化をほんの僅か遅らすだけで効果がない。長期的には太陽光発電が価格競争力を持ち化石燃料を代替するから温暖化の速度も遅くなることは確実だろう。だからあまり意味のない投資となってしまうコスト効率の低いお金の使い方よりも,もっと良い方法があるんじゃないか。たとえば温暖化の影響を受けやすい低開発国に直接援助を行うとか,堤防を作ってあげるとか,教育や産業に援助をして経済力を高めてあげよう,あるいは直接人命を救ってあげるとか。先進国と低開発国の間の排出権取引を認めるとか。


 前節で述べた「環境保全にかかる費用を人命救助と”あれかこれか”の関係で選択させるように問題をちらつかせている」という問題点と外部不経済を無視している点を除けば,ロンボルグの主張は一見正しい議論に見える。それぞれの主張に根拠もある。この議論だけ見れば経済合理的でさえある。しかし落とし穴がある。ロンボルグの主張は,究極的には,地球上全ての国々が先進国だった場合には成り立たないのに,全ての国々を豊かにしようというものだからである。

 そもそも先進国が地球温暖化でも重大な影響を受けにくいのは,高度に石油依存型の社会を築きあげているからである。工業生産が天候の影響を受けにくいのは当たり前だが,先進国では農業生産でさえもエネルギー多消費型であり,このため十分な施肥や灌漑,農薬散布を行うことができ,生産効率が天候により左右されにくい。空調が普及している国々では平均気温が多少上昇しようとも,エネルギー消費の増加で対応可能である。ところが低開発国の基幹産業は,化石エネルギー投入が少ないので自然条件下に制約され,とりわけ農業生産が大きな影響を受ける。すると一国の経済・産業が温暖化の影響を受けにくくするためには,すべての低開発国を可能な限り早く先進国と同じ石油依存型社会に移行させることが必要という結論が導かれる(河宮1995)。生産性は石油が最高だから石油依存社会以外の選択肢はない。これは貧困からの脱却のために先進国の仲間入りをするという従来の要請よりも強力である。先進国は低開発国が温暖化の一方的犠牲にならないためにも低開発国の工業化・高度消費社会化を支援しなければならないことになる。すると何が起こるか。

 世界のエネルギーの約90%は先進国が消費している。だから低開発国のすべてが現在の先進国の仲間入りをすれば石油を中心とした化石燃料の消費速度は現在の数倍にも達し,石油など10年程度で枯渇する可能性が出てくる。新エネルギーへの移行は既に述べたように現在の先進国でさえ困難なのであるから,世界のすべてが新エネルギーに移行することなど論外である。すると石油の次は豊富に残る天然ガスと石炭が利用されることになる。天然ガスへの移行は温暖化防止の観点から有利なので,これへの移行が一気に進むと石油と天然ガスの同時枯渇,あるいは先に天然ガスが枯渇することさえ起こりうる。すると最後は石炭を使うことになるが,当然,温暖化ガスの排出量は一層増大し,地球温暖化は急加速し,それに対応するためにもますます化石燃料を消費せねばならない,というマイナスの悪循環に落ち込むことになる。化石燃料の究極可採埋蔵量を考えると,大気中の二酸化炭素濃度はパーセントの桁に達する可能性があり,温暖化以前に,高等生物の生存環境ですらなくなる(河宮1983)。

 これを現在の先進国の政治家・政策担当者が読んだらどのように思うだろうか。「低開発国が先進国の仲間入りをすれば彼らの生活水準が上がり,エネルギー消費が飛躍的に伸びる。これにより良質な化石燃料(石油・天然ガス)の採掘可能年数が大幅に短縮してしまう。結果として我が国の経済が打撃を受け,その損失は京都議定書の達成に費用を投じた場合をも遙かに上回る」という自国に都合のよい費用便益分析を行って,低開発国の経済成長を抑えつつ自国の二酸化炭素排出も減らせるような別の秘策を考える,成長路線の国もあるに違いない。

 じつはこの「秘策」に該当するものがある。本書で強力に主張される京都議定書不履行と排出権取引がそれである。なぜなら,この策をうまく運用すると,「化石燃料の消費抑制により先進国が受ける経済的打撃」を最小もしくはゼロにし,「全地球レベルでの二酸化炭素排出レベルを抑える」という名目のもとに排出権取引を行い(あくまで名目であることに注意),さらに低開発国に「堤防を作ってあげる」程度の援助を与え,しかも排出権取引と援助の手綱をうまく調整することにより低開発国が先進国になることを阻止することができるからである。これは明らかに「力のある先進国のための機能」である。先進国の仲間入りを目指したい低開発国の多くは,自前で化石燃料の調達ができずに借金で輸入せざるを得ないため,実態はより先進国側に有利といえるだろう。

 強力な保護政策を推進する超大国であればこの路線も選択肢の一つとなるかもしれない。というのも「秘策」を「うまく運用する」ための「軍事力」を持っているからである。超大国以外の各国はこのことを察知しているからこそ異なる方策を採りたいのであろう。結局,京都議定書(二酸化炭素排出問題)にまつわる駆け引きの裏を読めば石油資源(化石エネルギー資源)の配分問題に行き当たるように思われる。超大国はエネルギー資源としての石油の優位性を熟知しているように見える。超大国の動きは,冷静な分析により将来のエネルギー需給と産業構造を分析し,「北」「南」の構造は固定化したうえで最適な途を模索し,湾岸戦争やイラク戦争のような武力行使も辞さずして中東地域の支配を進めてゆく(宮嶋1991),というようにも見える。どこかの国の当てずっぽうな政策よりも遙かに戦略性に富むが,しかしこんなことが倫理的に許されるであろうか。事態の推移を注意深く見守る必要がある。

 低開発国は先進国の援助ばかりを必要としているわけではない。92年のブラジル地球サミットの時期に多くの環境政策が提言されたが,そのなかで「南」から「北」に向かって出された「まず自国の責任を」という指摘がそれを物語っている(多辺田1995)。地球環境に大きな影響を与えている先進国は,まずその自分たちの振る舞いを自重せよ,というわけである。このような主張をしている国々があるにもかかわらず,自国は高い消費レベルで繁栄を謳歌しておきながら「温暖化で水没しそうな低開発国には援助で堤防を作ってあげよう」という発想にしかならないとすれば,人権感覚が欠如しているといわれても仕方がない。二酸化炭素の排出削減という課題は,化石エネルギー浪費の抑制と読み替えることもでき,基本的に「自国の責任を問う」ものである。その達成が困難でも,資源浪費を続けた先進国が率先して立ち向かい続けるべき性質のものなのだ(もちろん低開発国が経済成長のために過度の化石燃料多量消費路線を突っ走ることも歓迎できないが)。

 京都議定書の履行に大きなコストが必要なことは確かである。しかしこれも先のメキシコ湾の話と同じように,本来我々が二酸化炭素の処理費用を積み立てておかねばならなかったのに,それを無視して負債を増してしまった結果であると考えることもできる。それにカネがかかるからといってムダと言うこともできないだろう。いつか経済が成長路線に復活することを夢見て国債を乱発し,国債の累積額が国民預貯金の総額を上回ったから返却できないといってもそれがおかしな議論なのと同じである。エネルギーの項で詳しく論じたように化石エネルギー依存は当面続く。太陽光発電への移行は途方もない時間がかかる。核融合も主要エネルギー源としては実用化しない。ゆえに大気中の二酸化炭素は増加し続ける。温暖化も進行する。利用可能な燃料用資源は時代が進むに連れて劣化してゆく。消費量を減らさないなら環境汚染は再び増加に転じる可能性が高い。だから長い時間軸で考えれば先進国がエネルギー消費レベルを抑えて再生可能エネルギー利用との妥協ポイントを探らねばならないのは自明の理である。そういう考え方もある。

 ところでロンボルグは京都議定書を達成するのに必要な数千億ドル/年は大変な金額だとし,そんなお金はもっと有効に別のところに使った方が良いのではないかと提案しているわけであるが(その提案は検討に値するとしても),他のお金を転用することには触れていない。

 世界の軍事費は1973年から1983年の10年間で積算5兆ドルにも達している。このうち約4割がアメリカである。この状況を把握していた国連ナイロビ環境会議(1982.5)は,「軍事費を削減(廃止)し,環境保全にまわすことは,理想というにとどまらず,破局を避けるための唯一の現実的方策なのである」と我々の進むべき道を適切に表現している。資源・環境問題を材料・熱力学的観点から詳細に分析した研究でも同じ結論が出ている(河宮1983)。21世紀に入った現代は,再び軍事費一兆ドル時代に突入している。そしてこの一部が石油資源の支配に使われている(宮嶋1991)。奇しくもこの額は京都議定書を守るために見積もられた額をちょうど上回る。この軍事費こそ,あらゆる環境対策に転用されるべきものであることを強調しておく。






7 何をすべきなのか−まとめと結びにかえて−



7.1 エネルギーと地球環境


 『環境危機をあおってはいけない』の問題点を,主にエネルギーと地球温暖化の観点から検討した。議論の内容は多岐にわたったのでここで整理してみよう。本書の訳者である山形浩生は訳者あとがきで次のように書いている。

 ロンボルグが言っているのは,京都議定書がコスト効率が低いから何もするなということじゃない@。かれの主張は,そのお金を使って別のことをやろうということだA。同じお金をかけるなら,温暖化の被害を集中的に受ける途上国に対して直接支援をしてあげようということだB。バングラデシュやモルジブみたいな海抜の低い低開発国に,たとえば堤防を作ってあげてもいいし,あるいは教育や産業に援助をして,経済力を高め,彼等が自分で対策を講じられるようにしてもいいだろうC。どっちが本当にこうした国の人々のためになると思う?D あるいは,二酸化炭素を出さない再生可能エネルギーの開発と低コスト化にもっとお金をかけよう,ということだE。そもそも二酸化炭素が地球温暖化をもたらすから,とにかく二酸化炭素を出すのを禁止しよう−そんな短絡的な発想でいいはずがないF。そんなのは車が人を殺すから車を廃止しようとか,電話が犯罪に使われるから電話を廃止しようとかいう暴論に等しいのだG。


 このパラグラフはロンボルグのいいたいことを見事に要約しているので,この文章を用いて議論を振り返ろう。

 まず@であるが,純粋にこの部分だけなら私は特に異論はない。ABCについては既に述べたように,考え方としてはかなり先進国に都合が良いもので,多くは同意できない。そもそも低開発国は先進国が経済規模縮小(=化石燃料の節約的使用)に向かうことを望んでいる。Bは地球温暖化という外部不経済への対策費を,途上国の援助と「二者択一」させることにより,人々の判断を人命がかかわる後者の問題へシフトさせようとする効果を持つ。そしてDのように問いかけることにより選択の確定を迫る。しかしDは,上の文脈だけなら低開発国への援助の方が,その国の人々へのためになるように感じるが,実際はそのようになるかどうかは疑問である。援助など先進国の都合でどうにでもなることであり,巨額の軍事費を確保することに必死な国々が途上国に温暖化のための無償の援助をするなど,机上の空論のように思えてならない。Eの実現可能性の見込みは厳しいことはすでに論じた。FGは山形の意見のようにも見えるが意図がよくわからない。フロンがオゾン層を破壊するからフロンの排出を制限した。これは間違っていたのであろうか。地球上の物質循環は保存則に従って動いている。地下にある炭素を掘り出して空気中に二酸化炭素として放出したことへの対策は,基本的には排出の抑制と空気中二酸化炭素の固定しかない。二酸化炭素の固定は,現在の産業規模にもう一つ同じ規模の二酸化炭素吸収産業を付け加えるようなもので実現不可能である。選択は前者しかないのである。

 以上のまとめからわかるように,本書の問題点を吟味した結果得られる結論はロンボルグの言う明るい未来とはならないのである。「長期的には代替エネルギーの展望は楽観できず,化石燃料依存が長引く。それにともなって環境汚染も再び悪化する可能性がある。二酸化炭素排出も抑制すべきだ」という私の得た結論が,ロンボルグが求める「裏付けのある最高の意志決定ができるように,最高の証拠を手に入れる」に対応するものである。私の得た結論とロンボルグの結論は180度異なる。

 この違いを生んだ原因は,本文の最初で述べたように,エネルギー資源の熱力学的価値の考え方が彼と私で異なっていることにある。彼はエネルギーは資源によらず等価なものと捉え価格競争力を中心に論じている。私は石油が最も優れた資源ととらえ,他は相対的に劣るもの考えているから,各種のエネルギー資源を価格競争力で論じることは難しいとみている。現実を見ればエネルギー資源にはそれぞれの物質に応じた熱力学的特徴があり,材料学的な制約(=技術革新で越えられない制約)があることは詳述した通りである。このことは今後も変わらないから,彼の得た類推による結論よりも私の考察の方が「裏付け」があるといえる。『環境危機をあおってはいけない』を読んで内容を鵜呑みにした読者や,私の説明が信じられない人はぜひ文献やweb上の情報に触れ,どちらの内容がきちんとした裏付けや根拠があるのかを自分で確かめてほしい。

 さて,上のような結論が得られたにもかかわらず,私はロンボルグの地球温暖化に関する経済分析や,本書の主張全般が間違っているといいたいわけではない(エネルギー展望は明らかに間違っているが)。著者が根拠を提示して,科学者としての信念に基づいて本書を著したのであれば,それは一つの見識と見るべきだろう。費用便益分析は,比較の対象のとりかたに注意が必要なのは先に述べたとおりだが,政策上の優先度を判断する材料としては有効なものの一つだろう。

 私自身,地球温暖化問題が環境問題の何にも先駆けて重要だとは考えていない。核分裂エネルギーによる溜まりゆく高レベル放射性廃棄物の問題や,研究としては有意義でもエネルギー源としては無意味でカネばかり消尽する核融合の問題,採鉱現場で放置されている有毒な尾鉱の問題など,優先順位の高い問題がたくさんあると思っている。その意味ではロンボルグの言う「地球温暖化は世界が直面している問題として,最重要にはほど遠い代物でしかない」という意見には,完全に同意することはできないにしても,理解可能ではある。

 しかし化石燃料依存は長引きそうだし,繁栄優先で地球温暖化をまねいた先進国のモラルを示すためにも,先進国は排出削減や省エネ技術の輸出等には努力すべきと思う。費用便益分析にすべてを委ねるのが危険なのはすでに述べた通りであるし,熱力学的・材料学的制約の枠内なら多様な活動があってよい。もちろんロンボルグの言うような成長至上主義の路線もあることだろう。費用便益分析は価値判断の取り方によって結論は異なってくるから,本書で提示されている費用便益分析は正しいともいえるし,別の考え方があるともいえる。だから問題は優れて倫理的であるように見える。押田(1985)の卓抜な表現を借りると,「いったい立場を越えたエネルギー論がありうるであろうか」ということになる。



7.2 まず取り組むべきは地域の問題

 ではこの状況で個人レベルにおける我々は何をすべきなのかを考えよう。地球温暖化問題は個々人の努力で解決できる性質のものではなく,主に政策レベルで対処すべきものだ。我々が「世界の本当の状態」を把握できたとしても,我々が解決すべき問題の多くはなお地域的である。

 だから先に述べた地域の問題をここで思い出すことは有用だろう。我々の主たる生活空間である大都市圏では,エネルギー利用密度はすでに限界に近づいている。都市のヒートアイランド現象は地球温暖化よりもずっと深刻になりつつある。自動車排ガスによる窒素酸化物の問題は相変わらずだし,水系の汚染も改善されず,大都市圏の内湾では貧酸素状態がたびたび起きている。これらの問題に対してできることは判明している。

 ヒートアイランドを例にとれば,まず単位面積当たりのエネルギー消費を減らすことである。建築物の容積率規制を行うとともに高さ規制を導入する必要がある。次に重要なことは水面と緑地の面積を増やすことである。都市構造物を蓄熱性の低いものに変えていき,舗装は透水性にして地下水を涵養するとともに,土壌の熱的機能を復活させることも効果がある。埋められた運河や河川を復活させることも有効な対策である。屋上は緑化し,これまで以上の街路樹を植え,貯留した雨水の蒸発熱を有効利用できるようにする。自動車の保有と通行を制限し,鉄道やバス,LRTなどの利用へ誘導する。海岸沿いの高層建築物を規制し,海風が内陸に吹き込むような風の通り道を作る,なども併せて行うべきである。これらの対策は,究極的には都市の中にあるまとまった規模の自然生態系を復活させることに他ならないが,これは都市生活者のニーズとも一致する。もちろん二酸化炭素削減にも効果がある。

 このような実現すべき対策が判明していても,費用便益分析を行って,「ヒートアイランド現象への対策を行うと経済がマイナス成長する。10兆円かけても最高気温は41度から39度になるだけで,投資に見合った効果が得られない。それなら2兆円かけて10基の発電所を作り,残りの8兆円で全世帯に冷房をつけるべきだ。その方が現実的だし経済成長率も低下しない。」と結論する成長論支持者もいることだろう。住み良い環境を目指してコツコツと対策に取り組み,豊かな内湾と調和した都市を夢見ながら少しずつでも快適な都市空間に近づけてゆくという立場もあろう。読者はどちらが好ましいと考えるか。私なら後者を取る。




謝辞:岐阜大学工学部機械システム工学科の若井和憲教授には公開前の原稿をお読みいただき,天然ガス資源へのエネルギーシフトに関して貴重なご意見を頂戴しました。記して感謝申し上げます。また,貴重な情報を参照しやすいweb上に掲載しておられるリンク先の著者の方々にも御礼申し上げます。なお,本稿はweb公開用に書き下したものを加筆編集したものです。報告書への再録を快諾いただいたグループ長に御礼申し上げます。






リンク先一覧

1. 核燃料サイクル開発機構ホームページ(http://www.jnc.go.jp/park/q-a/main.html)
2. 市村正也氏(名古屋工業大学)の個人的ホームページ(http://araiweb.elcom.nitech.ac.jp/~ichimura/solar/solmain.html)
3. 団藤保晴の「インターネットで読み解く!」第59回「未来エネルギー核融合の挫折」(http://dandoweb.com/backno/981029.htm)
4. 江尻晶氏(東京大学)のホームページ(http://plasma.phys.s.u-tokyo.ac.jp/~ejiri/wakate/results4.html)
5.  同上(http://plasma.phys.s.u-tokyo.ac.jp/~ejiri/wakate/results5.html)
6. ホームページ『環境問題を考える』に所収の「核融合発電は実現不可能ITER誘致の裏目的は核兵器」(http://env01.cool.ne.jp/ss03/ss03039.htm)
7. 団藤保晴の「インターネットで読み解く!」第144回「原発後処理は道路公団以上の無展望」(http://dandoweb.com/backno/20040415.htm)
8. 環境と平和のNPO ネットワーク『地球村』(http://www.chikyumura.org/campaigns/peace/iraq.php)
9. 東京都環境局 大気汚染地図情報・速報値(http://www2.kankyo.metro.tokyo.jp/bunpu1/air/mapmenu.asp)
10. 東京都教育委員会ホームページ(http://www.kyoiku.metro.tokyo.jp/buka/taiku/kankyo/sample6.html)
11. 東京都環境局 東京都のヒートアイランド対策(http://www2.kankyo.metro.tokyo.jp/heat/index.htm)
12. 国土交通省 土地活用バンク 容積率緩和に関する既往制度(http://www.bank.tochi.mlit.go.jp/data/html/1375/knowledge/04.html)
13. 内閣府ホームページ 公共料金の窓(http://www5.cao.go.jp/seikatsu/koukyou/explain/ex05.html)



引用文献

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井野博満 太陽エネルギーのトレンド [河宮(編著)1996に収録]
宇沢弘文 自動車の社会的費用 岩波新書B47 岩波書店 1974年
宇沢弘文 地球温暖化を考える 岩波新書(赤)403 岩波書店 1995年
押田勇雄 人間生活とエネルギー 岩波新書(黄)290 岩波書店 1985年
尾崎充彦 巨大開発研究の虚構性−核融合・消えゆく夢−[河宮(編著)1996に収録]
尾島俊雄 ヒートアイランド 東洋経済新報社 2002年
加藤尚武 環境倫理学のすすめ 丸善ライブラリー032 丸善 1991年
上岡直見 鉄道は地球を救う 日本経済評論社 1990年
河宮信郎 エントロピーと工業社会の選択 海鳴社 1983年
河宮信郎 必然の選択−地球環境と工業社会− 海鳴社 1995年
河宮信郎(編著) 持続可能な社会のために科学技術はいかにあるべきか −材料技術・エネルギー技術のトレンドと資源物理学的見直し− エントロピー学会 エネルギー材料技術論部会 1996年
菊池利夫 東京湾史 環境科学ライブラリー8 大日本図書 1974年
小宮山宏 地球持続の技術 岩波新書(赤)647 岩波書店 1999年
斉藤武雄 ヒートアイランド ブルーバックスB1199 講談社 1997年
嶋津暉之 水問題原論(増補版) 北斗出版 1999年
品田穣 都市の自然史 中公新書361 中央公論社 1974年
仙田満 子どもとあそび 岩波新書(赤)253 岩波書店 1992年
武田邦彦 リサイクル幻想 文春新書131 文芸春秋 2000年
多辺田政弘 自由則と禁止則の経済学 [室田・多辺田・槌田(編著)1995に収録]
槌田敦 資源物理学入門 日本放送出版協会 1982年
槌田敦 石油と原子力に未来はあるか(増補版) 亜紀書房 1988年
中本信忠 生でおいしい水道水−ナチュラルフィルターによる緩速ろ過技術− 築地書館 2002年
西沢利栄 熱汚染 三省堂選書6 三省堂 1977年
宮嶋信夫 石油資源の支配と抗争 緑風出版 1991年
室田武 エネルギーとエントロピーの経済学−石油文明からの飛躍− 東洋経済新報社 1979年
室田武・多辺田政弘・槌田敦(編著)循環の経済学 学陽書房1995年
安田喜憲 文明は緑を食べる 読売科学選書24 読売新聞社 1989年
若林敬子 東京湾の環境問題史 有斐閣 2000年
渡辺善次郎 巨大都市江戸が和食を作った 農山漁村文化協会 1988年



(おく おさむ 明海大学非常勤講師/環境論, E-mail: fungiman @ bh.wakwak.com)






おまけ−読後の印象−:本書を読んだのは2004年3月8日〜15日にかけてである。大部な本の割には専門用語の誤訳が少なく,ややくだけた口調の文章(〜見てやろう)に賛否両論はあるだろうが,読ませる文章になっているという印象があった。web上では高い評価を得ている本書であるが,私の読後感は複雑なもので,たとえて言うならば,「シチューとしてはまずくて食えた代物ではないが,具のいくつかを拾えばそれは食える」という感じであろうか。それで論評を書く気になったのである。

 数多くの統計を一冊にまとめた仕事は他にないもので本書のもっとも評価できる部分である。つまり本書の素材は良い。またその素材を活かして鋭い指摘が光っている部分もないわけではない。しかし全般的に素材を用いた主張の部分と,頑固なまでに未来の繁栄を保証する(訴える)記述が何ともうさんくさいのである。

 これはロンボルグが想定した読者層とも関係があるので,うさんくささに対して問答無用でマイナスの評価を下してはならいと思うが,たとえば,先進国では大気汚染が18世紀の状態よりも改善しているのは広く知られているし,水質汚濁についてもそうである。化石エネルギー資源が当面枯渇しないのは専門家でなくとも誰でも知っていることで珍しいことではない。つまり本書でロンボルグが一生懸命になって「事実はこうだよ」と説明していることのいくつかは,専門家にとってはもともと「定番話」なのである。だから,それらを事実として紹介するのなら私は理解できる。しかしわざわざレベルの低い「間違った環境定番話」を引き合いに出し,それを否定して「事実はこうだ!]と持論を展開するやり方には,その結論が正しくとも,なんとなく怪しさを感じてしまうのである。

 将来もきっと豊かであろうという根拠のない外挿にもあまり感心しない。人類は課題に直面すれば何とか解決の努力をするだろうから,将来もきっとがんばってそれなりの生活を維持している,という主張ならばよく理解できる。だが何の根拠もなく,将来すべての人が現在の先進国の人々よりも豊かになっているなどと軽々しく言っても良いのであろうか。本稿で詳しく述べたように,エネルギーの将来見通しはそれほど明るくない。これまでの状況に対して単純な外挿はできないのである。環境問題を研究する人々は,将来に対して根拠のない外挿ができない事例があるからこそ,未来の環境を心配して研究を続けているわけである。ロンボルグはなぜ頑固なほどに未来の輝かしさばかりを強調するのであろうか。

 私は本書を一読したときに,「これはレスター・ブラウンへのパロディーか」と感じた。真面目に主張しているのではなく,同じ統計からこんなに反対の結論を導けるよ,といたずら気分で書いてみたのではないかと思ったのである。その後に引っ込みがつかなくなり,本気になって持論を固めに走った結果,本書が生まれたのではないかと。それならば「具は食えるけど,シチューとしてはまずい」ことの説明がつく。真偽のほどは明らかではないが,今でも,何でこのような論調で本書をまとめたのであろうか,との疑問は消えない。

 しかし本書の本当の貢献−世界中で議論を巻き起こしたこと−を考えれば,上に述べた問題点も小さなことかもしれない。一度確定したように見える事実も絶えず洗い直して再確認する作業は必要である。本書のおかげであらゆる分野の人たちが事実確認を行ったことだろう。これほど影響を与えた書物は,「成長の限界」以来かもしれない。

 ひるがえって日本を見ると非常に寂しい状況である。本書に対するまともな論評はほとんど見られない。目につくところでは安井至のwebサイトで扱われているが,部分的なつまみ食いでとても議論といえるレベルではない。eicネットのH教授の講義も同じパターンである。わずかに,地球フロンティアの増田による地球温暖化に関する論評と,NPO代表の飯田哲也による批判がある程度である。環境学者が山ほど存在するはずの日本で,本書程度のボリュームを読みこなして包括的なコメントができる(する)人が現れてこないのは残念である。

 太陽光発電や核融合があまり見込みのないことは専門家なら誰でも知っているし,私がこの小文で述べたような他の項目についても専門家ならもちろん,「環境学者」なら誰でも知る事実であろう。これほど大部な,しかも参考になる格好の叩き台が出版されたのだから,それぞれの分野からもっと議論があっても良いと思うのだが,そうはなっていない。ロンボルグの仕事は包括的なだけに,多くの人がこの本の正当性を検証して内容をより豊かにする努力をすれば,非常に稔りの多い議論となるだろうし,環境政策上の資料としても有用なものになると私は思う。そしてそれこそがロンボルグが望んでいることなのではないだろうか。

 専門家以外からの反響は鵜呑みレベルが多いように思われる。web上には「もやもやが晴れた」「すっきりした」「目の覚める」などの感想が多い。「いままでぼんやりと信じ込まされてきた定番話」が覆された爽快感を表現しているのであろう。だが,この「爽快感」はロンボルグが準備してくれたものでもあることには注意がいるかもしれない。というのは,本書の構成は,あらかじめ準備した真偽不明の題材を,統計を用いて一刀両断に評価してゆくというパターンになっているため,予備知識の少ない読者が読んだ場合には自動的にある種の爽快感が得られるようになっているからである。その内容が十分に根拠に基づくものならば問題はないのだが,そのような部分はたいてい元々問題がないことを述べている部分であって,将来への見通しが明るくない部分を述べているときには大抵,ほとんど根拠にならないようなことを挙げて「将来も大丈夫なことは確実」と結論するのである。エネルギー資源の部分が良い例である。だから一般の読者は「もやもやが晴れた」気分を得るかわりに少なからず「騙された」可能性があるわけである。もちろん,自分の死ぬまでには地球破滅はおきないよ,やっぱり経済成長は大事だよ,という意味で読み,安心したいのなら,本書の内容で十分なのであるが。

 以上の理由により,本書一冊だけを環境問題の入門書として利用することにはあまり賛成できない。しかし本書についてその内容を吟味しながら各種の文献と比較検討を行うならば,初心者・専門家を問わず絶好の練習帳となることであろう。広範な分野をカバーして問題提起を行うものとしては,これ以上の本は見あたらないからである。

【了】