〜ギリシア・エーゲ海域の文明発祥〜
ギリシア、エーゲ海域で農耕開始(BC70c頃)
農耕開始当初は、言い換えれば新石器時代で、土器がやっと制作されるようになった段階
バルカン半島においての農耕がほぼ同時期に開始されたと考えられてる
また、エーゲ海を隔ててすぐ隣のアナトリア高原にあって、世界最古の都市とされるチャタルフユックでは、
この頃既に鉱物の加工が行われてて、商業都市として栄えてたらしい
エーゲ海域で初期青銅器文明発祥(BC30c〜BC20c)
青銅の鋳造開始は、BC40c頃のシュメールとされてる
ギリシアでは、それより1000年遅い時期が青銅器文明に当たる
クレタ島にミノア文明発祥(BC20c〜BC14c)
イギリスの考古学者Evans:エヴァンスが、クレタ島に宮殿跡を発見、
伝説のMinos:ミノス王のCnossos:クノッソス迷宮がこの宮殿であると推定
ミノス王の名からミノア文明と命名されたが、ミノア人の民族系統は不明
アカイア人、イオニア人(共にインド・ヨーロッパ語族)がペロポンネソス半島に進出
アカイア人はアイオリス人の別称もあり、半島北部や小アジアに分布
イオニア人は半島東部や小アジア西岸に分布、アテネに定着したのもイオニア人
アカイア人により、ミュケナイ文明(BC15〜BC12c)発祥
Homeros:ホメロスの叙事詩にあるトロイ戦争を史実だと信じるドイツのSchliemann:シュリーマンが、
調査の末にトロイの遺跡を発見
他に発見した代表的な遺跡がティリンスの遺跡で、これらは皆ミュケナイ文明の遺跡である
ドーリス:ドーリア人(インド・ヨーロッパ語族)がペロポンネソス半島に進出
鉄器を携えて南下してきたドーリス人は、半島南部やエーゲ諸島に分布
進出してきた民族が各地に定住
定住地をくじ引きで個人に分配したため、〔kleros:くじ〕は転じて〔私有地〕の意になった(この頃、 〔temenos:公有地〕は僅かだった)
ミノア文明、ミュケナイ文明の相次ぐ崩壊と海の民による地中海域の破壊
ミノア文明を2度に渡って壊滅させたのは、ミュケナイだとされてるが、そのミュケナイ文明も暗黒時代に突入
地中海一帯では正体不明の海の民が猛威を振るってた
トロイ戦争もこの時代(1184?)とされてる
都市国家の形成へ
〔synoikismos:集住〕による要地への全住民での移住は、〔polis:都市国家〕成立の前段階期で、
後に発展を遂げてpolisを形成するようになる
分散してた村落毎に王政が行われてたが、BC8c頃から貧富の差が激しくなり、
軍事的・経済的に力を持つ貴族階級がその地域の中心部に居を構え、
周辺住民がこの貴族支配を受けるようになった
ギリシア各地でポリスの形成
ドーリア人polis〔スパルタ;ペロポンネソス半島南部のラコニア平原〕、
イオニア人polis〔アテネ;アッティカ半島〕などで、〔aristocracy:貴族政〕による統治が行われる
polisの中心部の丘は〔acropolis〕といい、これは〔城山〕の意で、
政治(初期は主に軍事)の拠点で市の守護神を祀ってあり、ふもとには〔agora:広場;ローマにおけるforum〕があった
agoraは交易、集会などが行なわれる公共の場で、労働を奴隷に、家事を女子に、任せた男子は1日をここで過ごした
オリンピックの祭典開催(BC776〜AD393)
〔オリュンピア;ペロポンネソス半島のエリス〕のZeus:ゼウス神殿で、Zeusに捧げる競技や供犠を行ったのが始まり
4年に1度の開催中は、戦争も休戦して祭典に参加(女子供には観戦も禁じられてた)
AD393年に廃止されたのが19cになって復興
→オリンピックとゆー祭典参照
植民活動(BC750頃〜BC550頃が最盛)

アテネのイオニア人は、エフェソスやフォカイアなどの小アジア西岸へ早くから移民を開始し、
そこからキュプロス島を植民化してた
植民活動が盛んになった頃には、〔ビザンティン;現トルコのイスタンブール〕を拠点に黒海沿岸まで侵出
そして、〔ネアポリス;現イタリアのナポリ〕まで及び、そこから信じ難いコトに、
更に〔マッサリア;現フランスのマルセイユ〕にまでその範囲を拡大
のちには、エジプトのナウクラティス等々、かなり広範囲な植民活動を展開
以上のイオニア人の例は一例だけど、各polisが概ねこのように植民活動を行ってて、エーゲ海全域はもちろん、
地中海と黒海にまで進出してたのだから、
同様に地中海に植民市(シドン、テュロス、カルタゴなど)を拡大してたフェニキア人とは、常に対峙してた
フェニキアVSローマのポエニ戦争の火種となったシチリア島のシュラクサイも、この頃はギリシアが植民地化してる
Thukydides:トゥキュディデスの『Historiai;ペロポンネソス戦争史』には、この植民市建設の年代が記されてる
ちなみに、Thukydidesがこれを記したのはもっと後の時代(BC5c頃)である
ホメロスがトロイ戦争大叙事詩『Ilias:イリアス』と『Odysseia:オデュッセイア』を謡う
タイトルの『Ilias;Ilionの歌』はトロイの別名〔Ilion:イリオン〕から、
『Odysseia;Odysseusの歌』は主人公の名Odysseus:オデュッセウスから
一応、Homeros:ホメロスの著作とされてるけど、
トロイ戦争があった頃(12c頃)から吟遊詩人によって語り継がれてきたものが、
たまたまこの時代(BC6c頃)に筆記され手、現代の形になって、作者としてHomerosの名が残った
もちろん筆記をしたのも、Homerosでないのは言うまでもない
ヘシオドスが叙事詩『Erga kai Hemerai:仕事と日々』と『Theogoneia:神統記』を綴る
Hesiodos:ヘシオドスは、農民としての苦悩や弟への教訓などを『仕事と日々』に綴った
また、『神統記』では神々を、その中でも特にZeus礼讃を綴った
ギリシア人の単一民族説の流布(BC7c頃)
英雄Hellen:ヘレンに端を発した民族・・・という、
明らかな創作によるギリシア人の単一民族説が流布され、民族統一名称が〔Hellenes:ヘレネス〕に、
全土統一名称が〔Hellas:ヘラス〕になった
これに対して、異民族の蔑称は、〔barbaroi:バルバロイ;聞き苦しい言葉をしゃべる者〕と言った
実際、ギリシアの民族の出現は各地で多様だったので、自らの民族を名乗る自称は様々に存在したが、
今日の〔ギリシア(人)〕みたいな総称はなかった
それなのに、当時のギリシア人にすっかり信じられてたのがこの説で、
同盟を結んだpolisの構成員が同胞意識を強く持ったのはこのため
ちなみに、これら新名称は、もちろんHomerosの叙事詩では未使用である
ポリス毎の鋳造貨幣の使用開始

世界で最も早く貨幣の鋳造を手がけたリディアは、当時大国で、
Herodotos:ヘロドトスの『Historiai;ペルシア戦争史』も、
リディアの歴史の著述から始まってるほど、重要な地位を占めてた
リディアがギリシアとペルシアとの間に位置するコトもさながら、その黄金資源の豊富さとそれを加工する技術の高さは、
他の近隣の大国に一目置かれるにふさわしかったと思われる
なので、リディアが発明した鋳造貨幣をギリシア各polisは、こぞって早い時期に取り入れるに至った
イメージはアテネの金貨で、刻印されてるのは守護女神Athena:アテナの鳥である梟
アテネで『ドラコンの法』(BC621)
Drakon:ドラコンが従来の慣習法を成文化
一部しか残存してないので詳細は不明だが、〔私的な復讐の規制〕と〔公権による秩序の維持〕が概要
アテネで『ソロンの改革』(BC594)
Solon:ソロンが〔timocracy:財産政治〕を施行、財産に応じて身分を4つに分けて、参政権と軍務を課した
『ソロンの改革』は、〔負債の帳消し〕、〔債務奴隷の禁止〕、〔財産政治の実施〕の3本柱で、
貴族と平民に全権を委任されたSolonによって施行されたが、これが不評を買ってSolonは追放された
ペイシストラトスの政局
アテネで、〔tyrannos:僭主〕のPeisistratos:ペイシストラトスが、貴族を追放して財産を没収、
それを平民に分配して支持を得、非合法的に政権を掌握するに至った(BC561)
世襲した息子達が暴君化したコトで、〔tyrannocracy:僭主政治〕もやはり最終的には不評を買った
tyrannosaurus:ティラノザウルスとゆー恐竜がいるが、〔僭主〕転じて〔暴君〕の意味になったワケで、
英語の〔暴君:tyrant〕もここから来てる
そうなると、どれほどの暴君ブリだったのか、興味が尽きないけど、それ以上に興味深いのは、
Peisistratosは若輩の時、かのSolonの愛人だったコトだ
クレイステネスの民主政治
アテネで、Kleisthenes:クレイステネスが氏族制を廃止し、
〔ostracism:投票〕によって暴君化した僭主を追放(BC487)
貴族政治や僭主政治の再現を阻止するため、〔democracy:民主政治〕が実施される(BC508)
〔demos:民衆;農民と商人〕は経済の発展で力を蓄え、逆に制裁を受けた土地貴族の力は衰える
この時代の投票は、陶片に危険人物の名を記してもらい、
それが6,000票を越えると10年間の国外追放になる・・・という消去法(?)で、
投票に使用した〔ostracon:陶片〕よりostracismの名がある
democracyは降って湧いたように出現したのでなく、SolonとPeisistratosの経済政策が功を奏した下地があって、
その道のりの第一歩を築いたんだと思うし、逆に、Kleisthenesのdemocracyの実体は、
まだ明確な民主政治とは言い難かった
demosは上で〔民衆〕と訳してるが、多義で〔区〕、〔村〕等の意味も
自然哲学がタレースによって創始
科学の無かった時代には、自然現象の説明を神に依存してた
古代ギリシアでは神話が発達してたにも拘らず、いち早く自然現象を神の手から分離して、
合理的な思想によって解釈しようとしたが、これが〔Natural Philosophy:自然哲学〕という哲学の原初形態で、
神話とは分離したけど科学とは未分離
ちなみに、日食の予言もしてるThales:タレースは、万物の根源は水であるとしたが、
これから始まった〔万物の根源探求〕は、
等質不変の〔atom:原子〕がそうであると主張するDemokritos:デモクリトスまで、連綿と続く
→〔Philosophy of Science:科学哲学〕参照
歌謡から書物へ、叙情詩人の誕生
Sappho:サッポー:サッフォー
Anakreon:アナクレオン
Pindaros:ピンダロス
Homerosの大叙事詩もこの頃筆記されたとされる
Sapphoは女流詩人で、その同性愛の恋愛詩により、出身地のレスボス島は
〔レズビアン:レスボス風の(恋愛);女性の同性愛〕の語源となる
酒と恋愛を謳歌したAnakreonは人類初のロッカー?!
そしてPindarosはオリンピックの優勝者を謳った
ペルシア戦争(BC500〜BC449)
マラトンの戦い(BC490)でアテネ方勝利
サラミス海戦(BC480)とプラテイエの戦い(BC479)でペルシア敗退
Herodotos『歴史;ペルシア戦争史』
BC7c頃からペルシア人は戦争と併合を繰り返して、
Dareios:ダレイオス1世がアケメネス朝第3代の王位に就いた時(BC521)には、
広大な領土を配下に治めてた
アテネとその同盟市も3回に渡ってペルシアの進攻を受けたが、
アテネ・スパルタ連合軍が勝利を収めて戦争は終結、
マラトンの戦における「我が軍、勝てり」の伝令がマラソンの起源となった
ペルシア戦争を綴った『歴史;ペルシア戦争史』の著者Herodotosは、
世界最古の歴史記述の偉業により、歴史の父と称される
第1次ぺロポンネソス戦争(BC460〜BC446)
アテネVSコリントスで開戦、結果的にはアテネ方勝利
Thukydides『歴史;ぺロポンネソス戦争史』
Perikles:ペリクレスによるアテネ全盛期(BC443〜BC429)
〔ekklesia:民会〕と奴隷制を確立させ独裁を施行
acropolisにParthenon:パルテノン神殿完成(BC432)
民会は立法・行政・司法の最高機関で、
18歳以上の自由民男子によって構成された
パルテノン神殿は、BC6c頃から着工してたpolisの守護女神Athenaの神殿で、
巨柱を用いた荘厳な建築様式はドーリス式
(Plutarchos:プルタルコスの『Vitae Parallerae:英雄伝』に詳細)
ドーリス式:ドーリア式とイオニア式の建造物(神殿、競技場等)が
盛んに造られる
古くからギリシア全土に見られるドーリス式を純ギリシアとすると、
同じ頃のイオニア式には、エジプトやアジアの影響が見られる
また、のちのコリント式はイオニア式改良型とも言えるが、
これはHellenism:ヘレニズム期よりローマ時代まで存続した
第2次ぺロポンネソス戦争(BC431〜BC404)
アテネ(デロス同盟)VSスパルタ(ペロポンネソス同盟)、アテネ方敗退
Thukydides『歴史;ぺロポンネソス戦争史』
哲学者Platon:プラトンがアテネ郊外に
教育機関・施設として〔Akademia:アカデミア〕を開校
Akademiaの名の由来は、
その地が英雄Akademos:アカデモスを祀る聖域だったコトによる
1000年もの間存続したのち、
ローマ皇帝Justinianus:ユスティアヌスの勅令によって閉鎖(AD529)するが、
Akademiaの名は〔academy:学士院、大学、研究所〕の語源として残った
哲学者Protagoras:プロタゴラスに端を発した
〔sophist:ソフィスト〕の台頭
sophistの元来の意味は〔智恵ある者〕だったが、
転じて〔一芸に秀でてる者〕に対する尊称になったのは、
相対主義を唱えた哲学者Protagorasが、
この語にそういう意味を持たせて自称に引用コトに始まる
のちにProtagorasが、
職業として報酬を得て教授を行なってたコトから〔教師〕の意になり、
仕舞いにはやはりProtagorasの言動から、
〔詭弁家〕の意にも用いられるようになる
3大悲劇詩人と喜劇作家
Sophokles:ソフォクレス
Euripides:エウリピデス
Aischylos:アイスキュロス
Aristophanes:アリストファネス
マケドニア王Philippos:フィリッポス2世がギリシア征服(BC338)
コリント同盟(BC337〜BC301)
マケドニアのAlexandros大王が東方遠征(BC334〜BC324)、
オリエント統一(〜BC323)
〜ギリシアの衰退とアレクサンドロス大王〜
アレクサンドロス大王の思想とギリシアpolisの衰退
polis崩壊後、"polis社会の規範に則ったpolisの構成員"としての
個人の思想と行動が無意味になり、
全世界の構成員としての個人を尊重する〔cosmopolitanism:世界市民主義〕が、
Hellenism世界に広まった
発端はAlexandros:アレクサンドロス大王によるトコロが大きいが、
明確な政策として打ち出してたんではない
これがのちに、キリスト教における"人類愛"を受容する基盤になるとは、
皮肉なモノである
Alexandros大王の都市開発事業
アレクサンドリア市(エジプトのはBC331建設)
〔Museion:ムセイオン〕参照↓
Alexandros大王は東方遠征の途上に数々の都市を建設、 中でもプトレマイオス朝エジプトの首都となったアレクサンドリア市は、 Hellenism文化の拠点で〔世界の結び目〕と呼ばれ、学術研究機関・施設Museionの所在地であった
Alexandros大王の学術推進事業
〔Museion:ムセイオン〕
アレクサンドリア市参照↑
〔Natural Science:自然科学〕参照↓
→〔Philosophy of Science:科学哲学〕参照
Alexandros大王がエジプトのアレクサンドリア市に建設した
学術研究機関・施設
〔平面幾何学:ユークリッド幾何学〕を大成した
Eukleides:エウクレイデス:ユークリッド、
〔浮体の原理:アルキメデスの原理〕を発見したArchimedes:アルキメデス、
その他多くの天文学者や医学者などを輩出
館長のEratosthenes:エラトステネス自身も、
地球を球形としてその円周を計算し、45000kmと求めた(実際には40000km)
BC2cに内乱により施設は破壊されて、機関としての機能も喪失したが、
Museionの名は〔museum:博物館〕の語源として残る
Alexandros大王にのオリエント統一よって齎された文化
〔Hellenism:ヘレニズム:ギリシア風〕
Hellenismの名称は、
19cになってからのドイツの歴史家Droyzen:ドロイゼンによる造語で、
ヨーロピアンの彼からしたら当時のアジアからの出土品が、
とてもギリシア風味に見えたんだと思われる
実質は一方的にギリシア風なのではなく、東西融合文化で、
ギリシアの方からしたらアジア風だった
ちなみにAlexandros自身は、
ギリシアかぶれ〜ペルシアかぶれへと移行してる
ギリシア哲学の発展
〔Stoa:ストア派〕と〔Epikuros:エピクロス派〕
〔Epicureanism:快楽主義〕参照
Stoa派はZenon:ゼノンが創始した哲学の一派で禁欲主義を説く
Epikuros派はEpikuros:エピクロスが創始した哲学の一派で快楽主義を説く
〔diadochoi:後継者〕の抗争(BC324〜BC301)
セレウコス朝シリア(BC312〜BC64)建国、首都はアンティオキア
アンティゴノス朝マケドニア(BC306〜BC168)建国
プトレマイオス朝エジプト(BC304〜BC30)、首都はアレクサンドリア
Alexandros大王の急死後の武将の勢力争いで、結果3国に分立
シリア領内にギリシア人がバクトリア王国(BC255〜BC139)建国
シリア王国内にイラン人がパルティア王国(BC248〜AD226)建国
〔Natural Science:自然科学〕がMuseionで開花
〔Philosophy of Science:科学哲学〕参照
〔Natural Philosophy:自然哲学〕の項参照↑
それまでのNatural Philosophyにおいて、
自然現象は哲学的思想によって解明されてたのが、
今日のような科学的思考をもって解明されるようになり、
神話と哲学と科学がこれで完全に分離した
Museionの館長を務めたEratosthenesを始め
Eukleides、Aristarchos:アリスタルコス、Archimedes、
Herophilos:ヘロフィロス、Zenon、Epikuros等を輩出
マケドニアがローマ人に滅ぼされる(BC168)
バクトリアがスキタイ人に滅ぼされる(BC139)
シリアがローマ人に滅ぼされる(BC64)
エジプトがローマ人に滅ぼされる(BC30)
パルティアがペルシアに滅ぼされる(AD226)